東京想街道
Page.75[牢獄で視る悪夢]




  Prologue


悪い夢ばかり見る。

夢占いなど信じたことはないし、

どんな夢が良くてどんな夢が悪いのかも知らない。

――それでも。

第六感が告げている。

――この夢は予兆だと。

このまま何もしなければ、愛しきこの世界も悪夢と化してしまうのだと。


   *


 独房の小さな窓から見える空は、一面灰色の雲に覆われていた。相変わらず夢見も悪く、気分の良くない朝を迎えたある冬の日の、午後。
 彼――三宮諒也の元に、『叔父』として一人の男が面会に訪れた。

 ――自称、岩杉樹。
 正直なところ、どちらが『父』でどちらが『叔父』あるいは『伯父』なのかはどうでも良かった。1人だと思っていた以上呼び分けることも出来ないし、呼び分けたところで哀しそうな顔をされるだけだろう。無駄なことだ。
 妙に思いつめた顔をしていた樹は、早々に「自分は樹ではなく聖であり、CEも享受していない」と明かした。そこまでは諒也自身も想像していたことだったので素直に頷いたのだが、樹――もとい、聖としてはもう少し派手に驚いて欲しかったらしい。やはり無駄なことだ。
 命を狙われている原因については義弟である尚都から一方的に聞かされたことを話すと、聖は「話が早い」といくつかの話をした。

 聖樹は大方の事実を知っていたこと。規定違反が命を狙うまでの大事になるとは思っていなかったこと。砂乃が亡くなった事件は夢見月家がCECSの銀一を手放すことを恐れたがために、通り魔事件に便乗して起こしたこと。佐伯家での殺人事件の犯人は樹で、3人を殺した後自殺、偽装は夢見月雪架が行ったこと。すなわち聖と樹の入れ替わりについて本部たる夢見月側は関知していたが、久海側には知れていなかったということ。それがあの時の蒼士の態度に繋がるのだろう。聖の話し振りから推測するに、岩杉・久海間で交わされた会話は到底信用するに足らないものであったようだ。互いに嘘を吐き合っていたのだろう。葵が諒也との関係を隠したがったのもその所為かも知れない。
 その後に起きたことについては、聖は隠居していたので良く判らないと言い、最後に――梨子からの伝言として「自殺したら殺す!」と告げて、苦笑しながら帰っていった。前回よりも直球になり、意味不明具合もグレードアップしている。
 だが――それが彼女の必死のごまかしに思える自分が、つらかった。どんな手段を取るにせよ、諒也が死ねば彼女は何もしなくても良くなるのだ。妙な犯罪に手を染める必要もないだろうし、夢見月家の考えた『計画』はハッピーエンドである。恐らく夢見月家全体では何らかのプロジェクトが進行していることだろう。彼女はその存在を隠したかったのかも知れない。

 雲の隙間から月明かりが覗く、暗い気分の冬の夜。
 諒也は小さくため息を吐き――真っ白な便箋を一枚、手に取った。


   1


 ――桜が咲く頃になった。

 妙に張り詰めた空気。登場人物と話題からすればそこまでの必要はないはずだが、場所というものはその時の気分に大きな影響をもたらすらしい。ついでに言うなら、
「何か、試験後の面談みたいな気分――」
 であった。ついつい、手はお膝の上に、な姿勢になってしまう。
「……学生気分引きずりすぎだろ……」
 真正面に座る男は対照的に頬杖をついて嫌そうな顔をする。
「相手が相手だよ。卒業してから何十年か経ってからの同窓会でだって、生徒は」
「あーあー判った判った。俺が悪かった。俺が呼び出したから悪かった」
 頬杖を崩して背もたれに寄り掛かる。
「そ……そういう訳じゃないけど」
「気が乗らないのに半強制的に来させる、って状況は酷似してるだろう?」
 確かに。と納得している場合ではない。

 数ヶ月前、自宅の郵便受けに数年振りかも知れない手紙が配達されたのに玲央が気付いた。差出人は目の前の男――三宮諒也。文面は彼が「呼び出した」と言った通り――「その気になったら来て欲しい」というものだった。
「――手紙じゃダメだったのか?」
「手紙で済むぐらいの相談なら呼び出しゃしないよ。直接会うなんて、地味に恥ずかしい格好晒すことになるからな」
 彼は背もたれに寄り掛かったまま腕を組み、少し苦笑しながら言った。何か返すべきだろうかと、彼から目を逸らして考え始める。
「――おっと、フォローのつもりで下手に似合うとか言うなよ。余計哀しくなるからな」
「うぐ」
 危なかった。諒也が笑う。――楽しそうだった。
「――関係、ないけど」
「ん……?」
「今度5組のクラス会やるときは来て。去年1回集まったんだけど、やっぱり先生が居た方が盛り上がるし、って皆言ってたから」
 事実を話すと、諒也は呆気に取られたような顔をして眉をひそめた。そこまで嫌そうな反応をしなくても良いのでは、と思ったが口には出さないでおく。
「……本気で言ってるのか?」
「大いに本気だけど?」
「前回行った時は『卒業式にも来なかったくせに』って罵られたぞ。秋野は留学中だったか」
「そりゃ皆の愛情の裏返しって奴。大体卒業式こっそり行ったんだろ」
 冬雪自身は卒業式も前回のクラス会も欠席だ。
「……。その歳になってまでクラス会に担任呼ぶかねぇ……学年一括の同窓会ならともかく」
 照れ隠しなのか本気で言っているのか、今でもよく判らない。
「それだけ愛されてるって何で気付かないかな?」
「愛とか軽々しく言うな。激しく冗談に聞こえるんだが」
「そのひねくれた性格何とかして下さい」
「無理だな」
 こうして平和な会話が出来るということは幸せだ。
 少なくともあの時は、もうこんな場など持てないと思っていて――。
「……ごめん、先生」
「……? いや、俺謝られるようなこと言ったかな……?」
「! そうじゃなくて。――手紙貰ってすぐ来れなくて、ごめんなさい」
「ら」
 たった一文字の返答、いつもの無表情。
 一瞬、自分が何を言われたのか理解できなかった。
「こ……来られなく、て」
「よろしい」
 満面の笑み。からかっているのか、本気でやっているのか――。
「……ホントに相変わらずなんだな」
「俺にどう変われと? 生憎だが、ら抜きだけは許せないんだ」
「いや……その、……まぁ、いいや」
 そういう問題ではない。伝わらなかったのならこちらの日本語力不足だ。
「――相変わらずだよ。それから、謝る必要はない。いつ来ようが、話の種は年単位で先の話だ。数ヶ月ぐらい何て事はない」
「……でも」
 呼び出した相手が来るのを待つ日々は辛かろう。相手に会いたいからとか、相手のことが好きだからとかいう感情とは関係ない。
 ――諒也はただ笑って告げるのみだった。
「むしろ来てくれた事に感謝しなきゃいけないと思っているよ。あんな事しておいて、話したいから来てくれなんて――虫が良すぎる」
「……それは……オレだって、殺そうとしたし」
「そりゃ、こっちだってそう仕向けたし。葵の制約がなければ――俺が狂ったと判断した瞬間にお前は迷わず引き金を引いたさ」
 その時のことを思い浮かべる。
 もしあの時、引き金を引いていればどうなったか?
「……それって結局、先生の思い通りじゃんか」
「まぁ、殺すか殺されるかだと思ってたからな。どっちにしたって俺の思い通りだ。ありゃ勝負じゃない。それ以外の選択肢があの時の俺には思いつかなかったってだけの話で、お前はそれに気付かせてくれた」
 勝つか負けるかだと言ったのは何処の誰だ――と言いたくなったが何とか堪えた。
「本気で言ってんの?」
「あぁ、本気」
 彼の表情は変わらず穏やかだった。その裏で何を考えていたのか、実際今何を考えているのか――よく、判らない。
「――……先生は怖い人だと思うよ」
 彼からの返答はなかった。ただ少し、目を見開いただけだった。
「いつもそうやって笑ってるよな。目の前で何が起きてもいつも落ち着いてて、嬉しいとか悲しいとかは思っても、だからって絶対慌てたりしない。……だからあの頃は頼もしかったけど。――怖い物ってないだろ、先生」
「……」
 無言。肯定と取って良いのだろうか。
「オレは先生が怖いよ」
 少し、震えているのが判る。
「…………そうだろうな」
 そう答えた彼の声も少し小さい。
「もう他の何も怖くないのに。一番に信じなきゃいけない相手だと思ってるのに」
「……秋野」
「嫌いになったわけじゃない。でも……普通に会いに来られる織川さんがうらやましくて、何でだろう、今もちょっと怖い。……こんなところで殺されるわけないのに」
 怖がる必要など何処にもないのに。そういえば、かつて父親に対してもこんな感情を抱いた覚えがある。そんな想いを抱かなければならない自分が、哀しかった。父のしたことを完全に許せるとは思えないが、それでも父は父だ。死んでほしくなどなかったし、話したいことも沢山あった。
 静かに冬雪の話を聞いていた彼は、少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「俺はそれだけのことをしたってことだ」
 そして、彼は淡々と語った。いつの間にかかしこまった姿勢になっていた。
「死を恐れない人間ほど怖い物はない。何だってやってのける。オマケにCECS【俺】だ。他の人間じゃ手の付けようもなかっただろう」
「結局――狂ってたのか?」
「……狂う寸前、かな。危なかった。――でも、秋野」
「?」
 彼は少しうつむいて小さくため息を吐いた後、自嘲のような苦笑いをこちらに向けて、言った。
「今の俺はもう怖い奴じゃないぞ。何せ死ぬのが嫌になったからな」
「……は……?」
 意味を取りかねた。
 諒也は続ける。
「――まだ死にたくないんだ。自分でも驚いてる。それに死んだら殺すと脅されてる。二度も死にたくはない」
「はぁ……?」
 死んだ人間をどうやったら殺せるのだ。
「まぁ俺も意味は判らない。でも……俺が死ぬことによって起こり得ることを考えたら、呑気に死んでる場合じゃないなと思い始めた」
「……先生の言い方って時々訳判らないよ……」
「判るように喋ってないから判らなくて良い。ただ俺が少し人並みに近付いたってだけの話だ」
 理由は良く判らなかった。だが、そんなとんでもないことを話す彼の笑顔を見ながら、哀しい人だと、感じた。
 過剰なまでの利他主義は、低すぎる自尊心の裏返し。彼が唯一自信を持っていたのはCECSとしての技術力。仕事ですら、常に自信を持っていたのかどうかと言うと怪しそうだ。
 彼が褒められたことがないわけがない。ただ彼は自分が信じられなかっただけだ。クラス会の話でもそうだった。そうなったのは何故だろう――。
「こんな話するのは恥ずかしいな。いい加減本題に入るか、時間も勿体無い」
「! ごめん、オレが始めたんだ」
「気にするな。いつまでも怖がられるのも切ないし、言い訳が出来て良かったよ」
「……からかってんの?」
「おう、からかってるぞ」
 変に嫌味なところは相変わらずだ。
 楽しそうにケラケラと笑っていた彼は、それを必死の様子で堪えて、「本題に入るよ」と添えた。
「単刀直入に訊きたい」
「はい?」
「――夢見月は俺を殺したいのか? それとも殺さなきゃいけないから殺すのか? ……本音なんか知らないだろうから想像で良い。秋野はどう思うかだけ訊きたい」
 そう言う彼の表情は、いつもと変わらず穏やかな微笑だった。
 適当に答えていいものか――迷う。
「……オレの希望、って前置きするけど」
 それを聞いた諒也は両手を組んで、その上に顎を乗せる。長話になると判断したのだろう。
「後者だと、思うよ。手荒な真似は、出来ることならしたくないと、思う。先生は夢見月に何かしたって訳でもないし、最年長のCECSって意味では大事な観察対象だろ。そんなのを喜んで殺そうとする方がおかしい。ただ梨子さんを殺すわけに行かないから止むを得ずってことだと――……オレは、思う」
「でも俺を殺すのは色々と面倒だろう? 時間も掛かる。……別に姉さんに死んで欲しいと思ってるわけじゃないが、姉さんなら自分が死ぬとか言い出してもおかしくはないはずだ」
「……それは……梨子さんが、絵描きだからじゃ、ないかな」
「……?」
「オレもよく知らなかったけど、夢見月って元々は美術品の貿易商、らしい。そんなんで儲かるのかどうか知らないけど、今も海外に結構売り捌いてるっぽい。爺さんのセンスは変だけど、センスがないって訳じゃないから。爺さんの眼鏡にかなった有能な絵描きが家の中に居れば、手放したくない。いくら梨子さんが志願したって、そんなの認められるわけがない」
「……有能かどうかは知らないが……、そうか、なるほどな」
「――そんなこと訊いてどうすんの? 感情の問題じゃないのに……」
「いや、感情の問題だよ。ありがとう、何とかなりそうだ」
「……?」
 置いていかれている。不安が募る。
「――そんな、悲壮な顔するな。理由を並べて命乞いすれば助けてくれるかもなんて考えてない」
 言い訳の仕方があまりにも典型的で尚更苦痛だ。
「ゆ……夢見月がその為にこれまで何してきたと思って」
「大丈夫だ、秋野。お前に心配されなくても、俺は意地でも生き残ってやるから」
 本人に笑顔で宣言されても、あまり信用できないと思ってしまう自分は――CECSの能力を信用していないのか、諒也のことを信用していないのか、あるいは夢見月家の兵力を過大評価しているのか。あるいは、本の読みすぎか――。
「……死んだら怒るぞ」
「どっかの姉さんと同じようなこと言うな」
「……先に言ったのは先生だよ?」
「! そうだったか?」
「覚えてないなら別にいいよ」
 そう言って貰えたことを、少し心の支えにしていただけの話だ。本人の発言意図が何であったかなど、どうでもいいことである。
 ――それからまた、何気ない雑談をして、昔のように挨拶をして、冬雪は部屋を後にした。

 本当に、何とかなるのだろうか――?

 彼自身が生きるつもりで居てくれるのなら、希望は繋げたと思っても良いだろう。だが、夢見月家が感情で動くとは思えない。殺さなければならないのなら、殺すしかない。そうでなければ今まで犠牲になってきた人々に示しがつかないというものだ。となれば、夢見月側は何が何でも彼を消そうとするはず――。

(……嫌な話だ)

 暖かいけれど少し強い春の風を浴びながら、冬雪は誰にも見られないようにため息を吐いた。


   *


「…………」

 彼女はうつむいて、しばらく何も言おうとしなかった。

 彼もまた静かに、彼女が口を開くのを待っていた。

「――……馬鹿。何で……もっとはやく、言わなかったの」

 彼女は搾り出すようにそう言って、スカートの布地を握り締めた手の甲を涙で濡らした。

 彼には何も、言えなかった。

 彼女の言うことは事実であり、彼は否定する権利を持たなかった。言い訳をしても、無駄なことだった。

 だが彼は、言わずには居られなかった。

「ああ馬鹿だ。いくらでも罵れば良い。でも――いくら遅くても、拒む理由にはならないはずだ」

 彼女は再び大粒の涙を零し、彼から目を逸らしながら、それでも――小さく、頷いた。


   2


 それから数週間が過ぎた頃だった。桜の花は完全に散り、緑の葉が芽吹く頃になっていた。
 そんなある日の昼のこと――突然、秋野家2階リビングの電話のベルが鳴り出した。珍しいことだ。不思議に思いつつ、一応家主である冬雪が受話器を取った。
『――夢見月です』
 そう言った声はとても冷ややかで――もうすぐ夏がやってくると言うのに、背筋が凍るような感じがした。
 声の主は誰だろう、と考える間もなく、
『冬村だけど、判るよね?』
 先に名乗ってくれた。梨子か。
「……あぁ、うん。急にどうしたの? オレが敵側だって判りきってるんだろうに」
『ううん、もう良いのよ』
「はい?」
『貴方は気付いてたのね。あたしたちがどうしようとしてたか』
「……まぁ、関係者とか色々居たからね」
 尚都が居なければ気付かなかっただろう。
『あんなに悶々としてたのに……いざ終わってみたら、なんか呆気なくって』
「――何?」

 終わった、だと?

 敵意を露にしすぎたからか、受話器の向こうの梨子が息を呑む音が聞こえた気がした。気のせいかも知れない。ただ――彼女の言ったはずの言葉を、もう一度頭の中で繰り返す。一度と言わず、二度、三度――。
「終わったって――……」
 つまり、彼は――死んだと、言いたいのか?
 自分の心臓の鼓動が警鐘のように聴こえる。無意識に手が震える。受話器を取り落としそうだ。
「……答えろ。ホントに、終わったのか」
『……えぇ。だから電話したの。……連絡行ってなかった?』
 夢見月以外からどういう連絡が来たらそれが判ると言うのか。知人でしかない冬雪にそんな事を連絡してくる相手など夢見月家しか有り得ない。

 何も感じない。
 何も聴こえない。
 ただ――闇色の視界の中に、絶望の2文字だけが見える。

『あ、あれ……? なんか激しく勘違いしてない? もしもーし! 生きてる?』
 梨子の叫び声でハッとする。
「……生きてる。……これ以上何か話すことでも?」
『え、やだ、そんな怖い声出さないでよ。それに何か誤解されてるみたいだけど――もしあいつを殺したんなら、あたしがこんな明るく貴方に電話なんて掛けられると思うの?』
「そういう事もあるかも知れない。終わってみたら呆気なくてとか言ったのそっちだし」
 会話が妙なことになってきている。自分で言っていて変な気分になってきた。
 ――勘違い? 彼が死んで終わったわけではないのか?
『……えーっと。冬雪君に会ったって言うからてっきり知ってるのかと思ったんだけどな』
「知ってるって、何を――」
『あいつの作戦。ホントいつでも冷静なのね。ずっと解決策を考えてたみたい』
「作戦――」
 つまり、姉弟のどちらかが死ぬという方法以外による解決、か。
『1人っ子って条件を満たす方法を別に考えたの。つまり、物理的に殺して1人にしなくても――』
「……書類上そうなってればOK、って……そんな」
 まさか。
 確かに尚都が三宮として扱われているようであったり、葵と冬雪たちとの兄弟関係が一切認められていないところから見て、夢見月家は戸籍に載っている情報を基にしているようだった。
 しかし、合法的に行うにしろ違法行為に及ぶにしろ、生まれたばかりならともかく、この期に及んで書類をいじるだけで良いと言うのか。本人としては認めてもらいたいところだろうが、当の夢見月家がどう考えるかは別なのではないか――というところまで考えて気付く。彼が感情の問題だと言ったのはそういう話【・・・・・】か。
『そう。今になってみれば、そんなことに思い至りもしなかったあたしたちが馬鹿みたい』
「そ……れじゃ、先生と梨子さんは」
『ん――あたしが雪架お義父さまの、あいつは生きてるお父さんの養子になったの。そうしたら問題は無くなるわ』
「……? 梨子さんの方は判るけど、お父さんの、って……」
 冬雪も法律に詳しいわけではないが、普通に考えて元々の親ならその養子になれるわけがないではないか。
『書類上の父親はもう死んでるから。生きてる方は書類上叔父さんなの。まぁあたしたちにしてみればどっちがどうだろうと関係なくお父さんだけどさ。あたしたちだって、父親が違うって言ってもその父親が一卵性の双子じゃ――どっちがどっちの子かなんて判ったもんじゃないのに』
「……違う、のか」
 初耳だ。そんな事を話す機会がなかったからだろうが。
『うん、違うらしいね。でもDNA鑑定すら役立たずだし、証明する手段なんてないけど』
「……ご両親は無駄死にだったんじゃないのか?」
『うーん、懲罰内容が正しいなら無駄じゃないのかって思うとちょっとアレだけど……でも、元々の関係はあるから。ただあたしたち子供を殺す意味はなくなった、ってだけ。――無駄だったとすれば、鈴夜君なんじゃないの……?』
「…………」
 その名をここで聞くとは思っていなかった。
 彼はCEなど受けていないと聞いていた。そう散々聞かされていたのは、夕紀夜が明かす前に彼女の身に何かあったとき、冬雪が彼女の代わりにそれを夢見月家に伝えろと言う意味だったのではないか。尤も――そんなややこしい事を子供の身に要求されても困るのだが。だからこそ彼女は何も咎めなかったのだろうか。
「……あれは、父さんが、悪い。オレのことも殺そうとしたし」
『……根に持ってるのね?』
「そういうわけじゃないけど――」
『そう聞こえる。でも……そう思う気持ちも、判らなくはない、かな』
「え――」
 人がそういう言い方をする場合、大抵は自分の身に置き換えて考える。下の兄弟が居ないならまだしも弟が居る梨子がそういうのだから、恐らくは彼のことを指しているわけで。
『ごめっ、恥ずかしいこと言った。今のなし!』
「なしにはできないよ――」
『して! 無理矢理でもして! だ、誰があいつのことなんか……ッ!』
 言い訳などされなくても判っている。冬雪は苦笑して誤魔化しておいた。
 彼女は最初から言っていた。彼を殺してしまうことを恐れていたと明言していたし、もし彼が死んだならこんな電話などしていないとも言った。本人は気付いていないのかも知れないが、ここでツッコんでしまうのは少し味気ないので、彼への土産話のネタにさせてもらうことにしよう。
「――これで全部、終わったんだよな? 本当に? もう何も無いよな?」
『た……、多分。あたしが判る範囲では終わったはずだけど』
 何となく不安は残るが、当の夢見月がそう言うのなら信じる以外に選択肢は無い。もし彼女らが嘘を吐いているとすれば、わざわざ向こうから電話を掛けてきた意図が判らない。
 それから何気ない雑談をして、天気の話をして、自然に会話は収束に向かった。冬雪は受話器を置いて、背後のリビングでのんびりしている玲央に聞かれないよう、小さくため息を吐いた。
「――なんか忙しい電話だったね。終わったって、諒ちゃん大丈夫なの?」
「本人から聞かないと自信持てないけど、夢見月はそう言ってる――説明するよ」
 冬雪はリビングに向かい、ガラステーブルの上の皿からクッキーを一枚手に取って口に入れた。なかなかに美味。昨日、玲央と蕨が共同作業で焼いていたもので、年甲斐もなく可愛らしい動物の型で抜かれていた。

 昔、ここに生きていた者はもう居ない。しかも、寿命を全うしたのは母だけだ。時々そんな事を考えて憂鬱な気分になるが、幼く見える2人の騒ぎを見ていると馬鹿らしくも思えてくる。そしてそれが、かつて葵が感じていたものなのではないかと思い、はっとする。

 時は巡る。また、あの頃と同じ暑い季節がやってくる――。
 冬雪はソファに腰掛けて、状況説明を始める体勢に入った。


   *


「――……わざわざこんなところまで訪ねていただけるとは」
 驚くと言うより呆れるような顔で、彼が言う。
「そんな顔して言わないで欲しいな。僕だって色々大変だったんだよ」
 彼の目の前に座り、子供のように両足を交互に揺らしながら喋るのは、一見ごく普通の青年。
 困ったように笑う青年は、しかしてその状況を少し愉しんでいるかのようであった。
「せっかく君を誘いに来たんだ。今すぐって話じゃない。そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか」
 青年は笑うが、彼は動じなかった。
「――……祖母は貴方のところに居るんでしょう。息子達も」
「あれ、よくご存知で。会ったっけ?」
「いいえ。志月から色々と聞きました」
 彼は一切表情を変えない。ころころと顔の変わる青年とは対照的であった。
「……。兄上も用意周到だね。本当に君が好きなんだな」
「好き嫌いの問題ではないかと」
「ふーん。じゃあ何でかな」
「単に警戒しているんでしょう」
「君が死ぬことを?」
 淀みなかった彼の返答が止まる。首を少し下に傾けて、青年から目を逸らす。青年は彼の答えを待たず、次の発言を開始する。
「――僕は君に何も強制する気はないよ。凛は自分から来たし、雅志と聖志は僕が何かした訳じゃない。ただ無駄死にさせるのは僕としては嫌だったというだけだ。幼子であるがゆえに出来ることもあるからね。……志織は……僕が気付いた時には既に後の祭りだったね。――何があったんだろう」
「……私は何も知りませんよ」
「知ってるように聞こえるなぁ、その答え方」
「何があったのかは知らない、と言う意味です。私にそんな超能力はありませんから」
「……まぁいいや、彼女のことを話しに来たわけじゃないからね。それについては追い追い。――問題は君のことだよ。来るか、来ないか。来てしまえば楽になる。何も苦労することなど無いよ。子供達だって居るんだ」
 青年はおもむろに右手を伸ばす。

 その手を取れば、行くという意思表示にでもなるのだろうか。
 行くという事はすなわち、この場でこそないが、逝くという事――。

「――答えは保留にさせてください。この場で決めるのは嫌です」
 彼はいつになく冷たい声色と視線を青年に浴びせた。
 青年は少し驚いたような顔になり、あからさまに落胆した様子でため息を吐いた。
「……そうか、判った。じゃあまた今度だ。外で会うまでに答えを考えておいてくれよ」
「――判りました」
 最後に少しだけ、彼は笑顔を見せた。
 青年は何も言わずに席を立つ。静かな部屋に、青年の靴音だけが響き渡っていた。

「本当に――卑怯な人だな」

 誰にも聞こえないようにして、彼は小さくそう呟いた。



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