東京想街道
Page.76「仮面紳士の創る幻想」





   1

 塀の外へ出て初めて見上げた空の色は、まるで彼に対して何かを警告しているかのような、暗い灰色だった。視界に入るのは沢山のカメラと照明、そして人、人、人。彼が門から出るやいなや、凄まじいまでにフラッシュがたかれ、多すぎる質問はもはや言葉として聞き取れない。車道を時々通る車はこれでもかと言うほど減速して通っていく。
 彼は静かに小さくため息を吐いた。晴れ晴れしい気分とは、とてもではないが――言えない。
 詰め寄せる報道陣には「今度ゆっくり話しますので」と添え、彼らを避ける為に歩き始めた――その時だった。走ってきた黒い車が次第に減速し、最終的に停止して彼のすぐ横で助手席の扉を開けた。
「ほら、乗れ! はやく」
 運転席から顔を出したのはかの有名人――織川寿彦だった。
「! どうして」
 織川が迎えに来るという話だった覚えはないのだが。
「良いからはやく乗れって、諒」
 慌てて頷いて助手席に乗り込み、すぐに扉を閉めた。シートベルトをすると同時に、車は再び発進した。
 諒也は窓の中から後ろを振り返る。取り残された報道陣は未だに諦めまいとフラッシュをたき続けている。
「――気にすんな。あの人らはあれが仕事なんだから。お前はいつも真面目に対応しすぎ」
 ぎ、と言いながら織川が諒也のこめかみにデコピン――と言えるのだろうか――をした。痛い。
「でも、仕事なら」
 真面目に対応した方が良いではないか。
「……あー、つまりその、慣れっこって事だ」
「ああそう。――織川、顔、見られたよな」
「ん……見られたかもな。週刊誌に名前が躍るか」
 笑いながら言っているが、それは決して良いことではないだろう。
「良いのか? それでお前が酷い目に遭ったら、」
「はいはいストップ。人の心配してないで自分の心配しやがれってんだ」
 織川が苦笑する。
 ――確かに気を遣うような相手ではない。
 だがそれでも、自分が迷惑を掛けるような形になってしまったなら――謝らずにはいられないだろう。
「俺は好きでお前さんの手伝いやってんだからな。俺が決めたことなんだから、諒が悪く思う必要はねえよ」
 開いた口が塞がらないとは正しくこのことだ。
 織川が楽しそうに声を上げて笑った。
「おーいおい、変な意味じゃねえぞ。人間、友達捨てたら終わりだと思うぜ?」
「……織川、」
「ん、しんみりしたくないからその話は終わり。さ、久々のドライブを楽しんでってくれ。お望みなら首都高を爽やかに駆け抜けて――」
「遠慮しとく」
「何だよ! 俺のドライブテクニックにケチつける気か」
「男同士だからって調子乗って制限速度オーバーして困るのはお前だぞ?」
「…………」
 以前にも違反切符を切られていたはずだ。昔暴走族だったとかいう過去こそ無いが、反論してこないと言うことは暴走癖は治っていないらしい。走りたい気持ちは判らなくはないが、一般道では大人しくしてもらいたい。
「――今日はこれから晴れるそうだ」
 いきなり話が逸らされる。都合の悪い話だから変えたのかと茶化そうかと思ったが――、やめておく。諒也は「そうか」とだけ呟いて、助手席側の窓から街道の木々を眺めながら到着を待った。
 世界は、以前思っていたよりずっと広かった。


 目的地に着いて車を降りると、織川は仕事があるからと言ってすぐに引き返していった。忙しいのに何故わざわざ送ってくれたのだろう。ますます意味が判らない。
 とにかく、落ち着く場所に行かなければ――と、振り返って驚いた。

「――やぁ、お久し振り」

 翠色の髪、不自然な笑顔。――伊織森羅。
 神出鬼没、大胆不敵、傲岸不遜、――志月と同じ種族とは思えないような行動パターン。恐らく志月の方が人間に溶け込んでいるだけで、こちらが本来の姿なのだろう。

「……お久し振り、です」
「またその怖い顔か。僕は君に危害を加えたりしないよ?」
「…………」
 そういう問題ではない。どこか生理的に好かないと言うだけの話だ。
「まぁ良い。こんな道端で長話をしても仕方ないね」
 どこか可笑しそうにそう言った後、森羅はこちらを見てニヤリと怪しげに笑った。

「それじゃあ単刀直入に――……君の返事を、聞こうじゃないか」

 ――それはどこか、自信に満ちた笑顔でもあった。


   2


 『彼』の仮出所から2週間が過ぎた。ここのところ冬雪たちは毎日深海屋に来ているが、昨日まで『彼』が訪れる気配は無かった。緑谷に戻っている訳ではないようで、騒ぎになっていない点から見てこの近辺でもない。他に考えられるのは東京の実家ぐらいなので、恐らく『彼』はそこに居るのだろう。しかし、誰一人としてその正確な住所を知っている者が居らず、押しかけることも出来ずにいた。
 出所当日こそマスコミも大騒ぎしていたが、その後数日で収束に向かった。ただの一般人である彼を常時に追いかけたところで大したネタにはならないのだろう。あるいは、その時運転手をしていた織川が何らかの行動を起こしたのかも知れない。

 その日、深海屋に集まっていたのは冬雪と玲央、胡桃、詩杏、そして泊里の5人だった。人口密度が高い。
「――そろそろ来てくれても良い頃だと思うんだけどな」
 志月の呟きに、玲央が真っ先に反応した。
「諒ちゃんだって悩んでるんだよ」
 彼が冬雪と対峙し、その後出頭した当日の夜を思い出す。あの時の悲壮な顔はどう表現すれば良いのだろう。
 志月が伝えるべきことを伝えに面会に行った時も、無理やり笑ってはいたが、元気は無いように見えた。やはり志月と顔を合わせるのはつらいのかも知れない。
 彼の気持ちが判らない訳ではない。それなりに想像がつくからこそ、彼の誤解が解けない自分が情けなくなってくるのだ。主にその説得力の無さと不甲斐なさに。
「あるいは、森羅に捕まってるかな――」
 志月の呟きに、泊里と玲央が真っ先に嫌そうな顔をした。判りやすい。
「――ボクから色々話はしておいたけど。でもあいつが子供で釣るってことも有り得るし、彼が興味を示していたとも言っていたし」
「伊織森羅氏に関して、さほど悪い噂は聞きませんが……でも僕個人としては、岩杉さんにはまだ人間で居ていただきたいです。『仕事』の関係でお会いした時に何度か忠告は申し上げてきましたが――」
 玲央と違って当事者ではない泊里の言。普段は座って茶を啜りながら静かに微笑んでいるタイプなのだが、よほど言いたいことだったのだろう。
「――彼の手伝いは楽しかった?」
 泊里がやっていたのは彼の作家活動の手伝いだった。
「えぇ、とても。……森羅氏について行くということは、今の人格を棄てるということなんですよね?」
「ボクはそう聞いているけど、実際はどうだか良く判らないね――」
 と、店の扉が軋む音がした。
「中で話が盛り上がってると開けるタイミングが難しいですね」
「開ける必要なんか無いんだよ、僕は」
「……貴方と一緒にしないでください」
 ――噂をすれば影。
 志月の視界に入ってきたのは1人の男と、1人の――人に非ざる少年。相変わらず若く見える男は、黒いニットの帽子を深くかぶり、ベージュのコートに黒いマフラーという出で立ちで、特に趣味に変化は無いようだった。眼鏡は掛けていない。志月と視線が合うと、表情は変えずに軽く右手を挙げた。
 そして翠髪の、少年の姿をしているが人間ですらない者は、彼の一歩前に出て仁王立ちになった。
「やぁ兄上とその愉快な仲間達。ご挨拶に来たよ。――あ、とりあえず君は黙っててくれ。今は僕が兄上と話す時間だ」
 森羅の後ろに立たされた彼は小さく頷き、店内の暖房にマフラーは不要と判断したのか、それだけ外して腕を組んだ。喋るなと言われた以上、喋る気は無いらしい。
 志月も森羅と話す体勢に入る。外野の5人は静まり返って警戒態勢を取っていた。
「――挨拶か。早く内容を聞きたいところだな」
「うん、僕もさっさと済ませて帰ろうと思ってるよ。とりあえず久し振り。僕がこの子と一緒に来たということがどういうことか――勘繰ってるね」
「誰だって勘繰りたくなるさ。君は次に彼を殺すと言っていたからね」
「その『殺す』って表現やめてくれないかな? 同意もなしに殺そうなんてしてないよ、この子に限らず」
「……君の話し方は本当に判りにくいよ」
「まぁ、わざとだから。どう話したものかと色々考えてるんだよ」
「素直に話せばいいじゃないか。婉曲する必要など無い、維泉。我々は兄弟だろう」
 森羅の表情が変わった。鋭い視線をこちらに向ける。対して背後の彼は目を閉じて、話が終わるのを待っているようだった。
「そうだね、素直に話そう」
 一呼吸。その場に緊張が走ったような気がした。
「彼の答えはまだ聞いていない。ホントはすぐ聞こうとしたんだけど、言いたくないって言われちゃってね。せっかくだから、この場で訊くことにした」
「――……!」
 つまり、ここが志月と森羅の勝負の場でもあるとでも言いたいのか。
「僕を選ぶか、はたまた皆を選ぶのか。――では聞こうじゃないか、君の答えを」
 森羅は身体に対してやたら大きな服の裾を翻し、場の主役を諒也に譲った。全員から注目されることとなった彼は、少し困ったように眉をひそめた。さらに誤魔化すように咳払いをして、視線を避けるように瞼を閉じる。
 店内が静寂に包まれる。
 そうして紡ぎ出された言葉は、
「……申し訳ありません」
 どちらとも取れない答え。周囲に反応は無い。
 彼がゆっくりと目を開ける。その視線の先には志月が立っていた。

 一瞬の時が永遠に感じるというのは、こういう時のことを言うのだろう。
 志月は無表情でたたずむ彼の目を見つめながら、悪い方の結果ばかり考える。そうしておけば後で受けるショックが少なくて済むと言ったのは、誰だっただろうか。――そういえば、その時の話題の種も彼だった。

 彼が初めて店に入ってきた時のことを思い出す。
 その時はほんの幼子だった彼と、今はほとんど同じ高さの目線を共有している。

 そしてあの時と同じように、彼は不意に微笑みを零した。【傍点】

「――もう少しだけ、生きていてもいいでしょうか」

 時間が止まったように感じる。
 黙って彼の声を聞いていた森羅が慌て始める。
「り……よく聞け諒也。君は……この世界に、この国に、この国の人間たちに、どれだけ苦しめられてきた? その中のほんの一握りのお友達だけが君を支持して、後の大多数は敵なんだぞ? 外を歩けば何があるか判らないし、何も無くたって君に向けられる冷たい視線は……もう、思い出したくもない。それでも君は生きると言うのか?」
 森羅は必死の形相でそこまでまくし立てると、目を潤ませながら志月のほうを見た。同意を求めているかのような、哀しそうな目だった。だがここで志月が口を挟むのは憚られる。発言権は目線で諒也に譲った。
 諒也は少し苦笑して、自分の肩にも届かない背丈の『先祖』への返答を、紡ぎ始めた。
「……確かに不当だと思うことも多々あります。でも――……ここで死んだら負けだと思うんです。まだ何十年かぐらいは生きられると思いますが、その間に何も変化が無いと言い切れますか?」
「そ……」
「私にはまだ人間としてやることが……やらなければならないことが残っています。私がやりたいかどうかは問題ではありません。多分……私でなければ出来ないことだから、まだ死ぬわけには行かないんです」
 森羅は少しうつむいて何かを考えているような仕草を見せた後、残念そうに、しかして明るい声で笑った。
「そうか……君も変わったんだね。ただの意地なら言い負かす自信あったんだが」
「……意地ですよ」
「それは意地じゃなくて決意って奴だよ、諒。ほとんど惰性で生きてた君がこんなに強い意志を持って生きるようになるとは思わなかった。――一体何が君をそうさせた?」
 ひらひらと踊りながら、森羅は諒也の背後に回る。尋ねてはいるが、もう退散するつもりのようだ。
 志月は再び蚊帳の外に置かれている。だが話は判らなくは無い。ただ静かに、彼らの会話を聞いていた。
「――何でしょうね。一度手を汚してみないと気付けなかったのかも知れません」
「……そ、か」
「息子をよろしくお願いします。――またいつか」
「大丈夫さ、アリスもリンも居るんだぞ。問題ない。じゃっ、皆さんお元気で。あ、兄上も維恩も相変わらず元気そうで良かった」
 そう言ってニヤッと笑った次の瞬間には、森羅は姿を消していた。大半の者は呆然とし、玲央は呆然の域を通り越して唖然としていた。
 他の全員が固まっている間に諒也は店内から椅子を発掘し、泊里とカウンターの間に持っていって着席した。結果的にいつもの指定席である。慌てたようにコートと帽子を脱いで、安堵のものらしきため息を吐くと、苦笑してから口を開いた。
「あー……そういうこと、だ。お久し振り。来るのが遅くなって……心配させたとしたら申し訳ない」
「……心配しますよ。ボクじゃなくて、毎日来てくれた皆さんに謝ってください」
「あー、済まなかった。まさかいきなり『仕事』の嵐に見舞われると思わなくて」
 再び苦笑。『社会奉仕』事業のことか――副職扱いなのだから、それで忙しいというのも考えものだ。
「代わりにオレのとこに依頼来たりしてたからね。英語喋れれば誰でも通訳できるんだったら苦労しないっての」
「いっつも必死に断ってたんだよー。最近電話なかったのって諒ちゃんが帰ってきてたからだったんだね、ふゆっきー」
「……玲央は何もしてないだろ。オレが電話してる間も蕨と談笑しやがって」
 以下延々と、冬雪と玲央の言い合いが続く。そのうち周囲の面々が参加し始めると、だんだんと会話が成り立たなくなってくる。
 そんな様子を眺めながら、諒也は本当に楽しそうに笑った。そして志月のほうを見ると、何故か少し寂しそうな微笑を浮かべて、呟く。
「――平和だな」
「平和ですよ。君が居ない間も、何も変わらない毎日で。ところで――『やらなければならないこと』ってのは何?」
 尋ねると、諒也は何故か嫌そうな顔をした。まだ短い髪が少し不似合いで、表情と相まって以前よりもなお幼い印象を覚える。
「……別に言いたくないなら言わなくても良いけどさ」
 質問を放棄すると、彼はプイと向き直り、
「ちょっと考えりゃ判るだろ」
 と呟くように言った。
「今まで通り、出来る限り訴えていくつもり、だな。まぁ――人殺しが何言ってんだで終わる可能性もあるが」
 ――健気だ。森羅が言った通り、完全な味方などほとんど居ない。
 ただひとつ救いなのは、味方から敵に転向した人間が見受けられないということだろうか――。
「『決して解けない洗脳』などと例えられてしまったから――いつまでも、変わらないのかも知れませんね」
「大切なのは意識改革だろ。一般人もだが、こっちもだ」
 こっちも。つまり、CE享受者自身も考え方を改めなければならないと言っている。
 考え方というのは変えられるものだ。解けない洗脳など、存在しない。CEが解けないのは、洗脳ではなく技術的な教育が含まれるからに過ぎない。
「……なぁ、志月」
「はい?」
 諒也はカウンターに置いてあるラックから料理雑誌を引っ張り出して広げると、何故か少しうつむいて、静かな口調で問い掛けてきた。
「知名さんの事故は、何だったんだろうな」
「夏岡知名さん……えーと、転落事故でしたっけ」
 夏岡雪子の娘。確か、紅葉通の時代によく来ていた客の、恋人だった。彼らがあれ以来どうしているのかは、志月には判らない。
「そうだ。向こうでずっと考えてたが、それと梨羽さんのひき逃げの件が判らない」
「そう深く考えない方が良いんじゃないかな。文字通り、ただの事故だったのかも知れないよ」
 励ましてみたが、彼の表情は冴えなかった。理由は判らない。
「かも、知れないが……」
「――爺さんの個人的な恨みだって、阿久津が言ってた」
 とは、騒いでいたはずの冬雪の言。聞こえていたらしい。
「先生のお母さんの件で、個人的に佐伯家を恨んでたってのは前にも言ってたことだけど。実質的には、達樹さん個人に対する脅しだって。……知名も梨羽も、佐伯の血を引いてるから。一族皆殺しにしてやっても良いんだぞ、みたいな脅しのつもりだったらしい。『計画』と混ざって何だか良く判らないことになってたけどさ」
 佐伯達樹――夏岡雪子の夫だ。
「ふむ……でも、梨羽さんは自分の孫だろうに」
「うん、でもあれで一番反抗的だったから。……葵の事故起こしたのも梨羽だったらしいし」
「事故って、」
「記憶喪失の方。兄妹喧嘩が発端だったらしいけど、……家の窓から庭に落ちたんだって。だから事故は事故。……それで葵が嫌なこと全部忘れて馬鹿になってくれたから梨羽は嬉しかったんだろうけど、まかり間違ったら死んでたわけだし、爺さんは嬉しくなかったよね。……葵が自分から死ぬって言い出さなきゃ梨羽が先に死んでただろうって、これも阿久津が」
「……葵をわざわざ彼女に突き落とさせたのもそれでか」
 誰かに目撃される危険を冒してまで。
 低い声で呟いた諒也に対して、冬雪は少し目を伏せつつ、ゆっくりと頷いた。
 ――登場人物と状況の一致。覚えていない葵には判らないだろうが、梨羽にとってはそれ以上つらいことはないだろう。何も知らない葵が彼女を慰めようとしたなら――、それが更に彼女を苦しめたことは容易に想像できる。
「……彼は結局、何がしたかったんだろうな」
「違反の解消、だろ。あの時死にたがってたのは罪の意識からでさ。阿久津の話だと、毎日のように『早く殺してくれ』って言ってたらしい」
 言いにくそうにそう言った冬雪は、手持ち無沙汰だったのか、いつものようにルービックキューブに手を伸ばす。動かし始めたが、バラバラにするばかりで揃える気は無いようだ。話を聞いた諒也は一瞬呆然とした後、大きくため息を吐き、読んでいた雑誌を閉じてラックに戻した。
 確か、久海蒼士は数年前に亡くなったはずである。望み通り、と言って良いものだろうか――。
「……まぁ、今更何言っても仕方ないけどね。さっき言い損ねたけど――、おかえり、先生」
「! それ俺が言おうと思ってたんだぞッ」
「今更言うなよ! しんみりしたシーンが台無しだろ!」
「シーンって何だよお前、狙って言ったのか!? 心から言うもんだろ心からッ」
 再び騒ぎが始まった。――今度は胡桃と。諒也は再びため息を吐き、詩杏がここぞとばかりに権利を取って「お帰りなさい」と言ったところでバトルが収束した。

 諒也は「相変わらず子供だ」と苦笑する。
 冬雪と胡桃は顔を見合わせて「そんなことはない」と反論する。
 詩杏と玲央の女性陣はそんな2人を横目に見て笑いながら、話に華を咲かせている。
 泊里は空気に溶け込みながら、諒也のフォローに回る。

 志月は――ただただ静かに、そんな彼らを見守るのみ。それだけで幸せなのだ。ずっと変わらない風景が、人々の温かさが、楽しそうな彼らの談笑が、愛おしくてたまらないだけのこと。自分が混ざる必要など無い。混ざればそれまでの空気が壊れると理解している。――志月も泊里と同様に、空気と同じなのだ。存在感が薄いと言い換えられてしまうと切ないのだが、たとえ空気に溶け込んだとしても、その空気自体を暖めることが出来たなら――それ以上、望むことはない。

「――志月」
「はい? 何でしょう」
「今更こんなこと言うのも気恥ずかしいが……これからもよろしく、な」
 珍しく目を合わせずにそう言った彼は、恥ずかしさが処理しきれなかったのか咳払いを二度して、再び雑誌に手が伸びる。今度は子供向けの科学雑誌だった。

 わざわざ言わなくとも通じることだったかも知れない。
 だがそれでも彼は敢えて確認せずにはいられないほど――ずっと、不安だったのだろう。

 ――志月が、彼の味方でなくなってしまうことが。

 彼は志月が『傍観者』であることを良く理解している。
「――勿論ですよ。……ボクこそ貴方に頼って生きてたんですから」
「ほ……?」
 何を言っているのか通じなかったのか、それともわざと理解しなかったのかは判らない。だが諒也は目を丸くして、ついでに眉の両端を下げた。
 通じなくても良い。――そのうち判ることだ。
 ただ、伝えておかなければならなかった。

 ――自分は今もまだ変わらず、ここに居るのだと。


   3

 ボロボロに近い革靴で、味気ない歩道に薄っすらと積もった白い雪の上を歩く。センチ単位まで積もっているかどうかも怪しいところで、雪を踏みしめる心地良い感触はほとんど感じられなかった。降り始めたかと思うとすぐに止んで、初雪の感慨など欠片もない。
 薄いコートのポケットに両手を突っ込む。右手に板ガムが数枚、左手にビー玉が2個。ポケットの中でビー玉を回して遊びながら、彼は目的の家を目指して黙々と進んだ。

 ――あれから、自らに課した任務を遂行する日々が1年ほど続いている。
 これが最も良い選択だったのかどうかはまだ判らない。少なくとも、道端で見知らぬ人に話し掛けられた時に身構える必要性は半減したような気もしなくはない。結局、気分的な問題に過ぎなかったのだろうか。もっと大きな変化を求めていたはずだったのに――……否、変化はまだこれからだ。

 少し雪化粧した桜の木が見えた。呼び鈴を押して、平凡なやり取りを交わし、彼――三宮諒也は目的地に辿り着いた。
 茶髪の家主が相変わらず薄いお茶を淹れてきた。しばらくこの家で預かっていた若者1号・玲央は再び「旅に出る」と言い出して現在はどこかを放浪しているのだと言う。若者2号・蕨は西方の大学に進学したらしい。――つまるところ、今現在この家に住んでいるのは家主の久海冬雪ただ1人と言う事だ。毎日の食事はどう調達しているのかが気になるところだが、ツッコむと何を言われるか判らないので言わないでおく。
「――今日はお店休みだっけ?」
「あぁ、定休日だ。尚都に色々任せて出てきた」
 紆余曲折があって、三宮家を手伝って欲しいと言う尚都の申し出に応じる事にした。あまり考えないようにしていたが、三宮の本家は老舗の和菓子屋である。尚都は一時期距離を置いていたようだが、後継ぎという立場は今も昔も変わらない。いい加減本気で取り掛かろうとしたのだが何度か傷害事件を起こした身では心許ないと思ったらしく、同類の義兄を道連れにすることで安心感を得ようとしたようだ。これで大丈夫なのかどうかは1年近く経った今でもあまり自信がない。道連れにした義兄の方が全国的に有名な殺人犯で、それが日常的に店頭に立っているというのは如何なものなのだろうか――。そのおかげで世間一般の人々と交流できているのも確かだが、結論を急ぐにはまだ早い。
「あぁそうだ――土産を」
「! おみやげ!」
 目を見開いて、元々高い声のトーンが更に高くなる。反応が子供以外の何者でもない。鞄に入れてきた袋を、歓喜の声を上げる彼に差し出した。
「確かお前、餅の類が好きだと」
「……大福!大福だ!うわーありがとーさすが先生わかってるっ」
「……いえいえ」
 大福3個でそんなに喜んでもらえるのなら苦労はしない。律儀に食べて良いかと訊くので、笑って頷いておいた。
「――それで、話ってのは、何だ」
 本来ここを訪れたのは、彼の方から呼び出しが掛かったからだった。嬉しそうに大福を頬張っていた彼は、しばらく咀嚼を続けて口の中に入っていた分を飲み込むと、少し困ったように笑った後、静かに唇を動かし始めた。
「うん――……先代秋野のこと、判る?」
 先代。つまり、現・夢見月家当主の母親の姉妹の、それぞれの一族。
 確か、秋野羽鳥がそうだったはずだ。彼ならば知っている。
「……そうそれ。母さんが生まれる前からイギリスに居て、屋敷もあって。最近ちょっと日本に戻ってたんだけど……今度またイギリスに戻るらしくてさ」
「ほう」
 何となく、話の先が想像できた。
 電話でなく、顔を合わせて話したいと言うからには――それなりに重大な決断をしようとしていて、その相談のためなのだろうと思ってここまでやってきた。
「――良かったら一緒に来ないかって誘われてて」
 想像、通りだった。
「そうか――良い話だな。もう決めたのか?」
「ん……うーん、色んな人の意見聞いてからに決めようかと」
 苦笑。誰にも言わずに行動を起こすと、最終的には自分が苦しむ結果になることが多かった――自分や、彼の場合。
 それがCECSの性質のひとつと言えるのかは判らない。年齢的なものもあるのかも知れない。何も判ってはいないが、それでも――感覚的に、理解しているのだ。
「――本心はどうなんだ?」
 何気なく尋ねると、冬雪は少し悩んでいるような表情を見せた後、ひとつため息を吐いて、静かに口を開いた。
「……夢見月だからとかCECSだからとかそういうのは何も無くて、オレはオレとして自由に出来る。そう考えたら、今の環境が凄く窮屈に思えてきて」
「つまり『行きたい』、と」
「……そう、だね」
 ほんの少し寂しそうな微笑がこちらに返ってくる。
 選ぶのは目の前にある自由か、この狂った『世界』で将来得られるかも知れぬ自由か。
 どちらを選ぶのが正しいのかは判らない。前者を選べば臆病者、後者を選べば愚か者と笑われるであろう。どうせ笑われるのなら、やはり人間、幸せになりたいと思ってしまうもので――。
 ――それで彼は前者を、諒也は後者を選ぼうとしているというだけだ。全ての結論はまだ、未知数である。
「外側から見直すのも大事だろう。追い出されるわけじゃないんだから気楽に考えれば良いさ」
「うん、ありがとう。ちょっと気が楽になった」
 全盛期ほどのテンションはないものの、満面の笑みを浮かべてくれたと言うことは――悪くは無いということだ。
「そりゃどうも。で……付いて行ってどうするんだ? 何もしないってわけにも行かないだろう」
 大福の残りを口に放り込んでいた冬雪は、その状態のまま喋ろうとしたがまともに発音できなかったようだった。結局飲み込むのを待つことになった。
「――羽鳥のお父さんにも手伝ってもらったりして、日本語の本を英語に訳したくて」
「……英訳?」
 思わず動けなくなった。自分の耳を疑う。
「普通日本人がやることじゃないって判ってる。だけど、オレがやりたいのって本当はそっちなんじゃないかって――……胡桃に言われて、ハッとして」
「それ、は……。そっちの業界のことは良く判らないが、そういう仕事って自分で選ぶものなのか?」
「そこは、何とか、する。大事なのは名前じゃなくて、コンテンツ」
 持込でもするつもりなのか。地道な作業だ。
「活字嫌いだったお前がそんなこと言い出すとは思わなかったな。……何か訳したいのがあるのか?」
「――だから先生呼んだんだよ」
 ここで満面の笑み。
 それはつまり、どういうことなのか。
「国内ではもう充分評価されてるだろ。ネタばらししても評価が下がったりしなかった。――じゃ、今度は海外って思わない?」
 彼の言うネタばらし。約1年前――、諒也が小鳩聖夜であることを、織川の協力を得て、明かした。大騒動と大混乱を巻き起こして申し訳なかったのと同時に、何故すぐに明かさなかったのだろうと後悔していた自分に驚いた。
 自分が唯一自分らしく居られる『場所』だった。
 それを明かしてしまうということは、表面上の情報が内面の評価に影響することを許すということになる。それを恐れて、ずっと覆面作家を貫いてきた。
 ――ある時、優先順位はどちらが上なのかと織川が問うた。裏でどれだけ活躍しても、それが知られなければ表には何の影響もない。表しか知られていなければ、裏側を隠してどれだけ努力しても状況は改善しないに決まっている。全て明かして全力で戦って、それでも駄目なら諦めれば良い。だが、それで上手く行くかも知れないではないかと――織川はいつものようにあっけらかんと笑いながら、言った。『三宮諒也』という人間について、人々の記憶に残るのは結局表側だけなのだから、優先すべきは表ではないのか、と。
 小鳩が諒也なのではないかと考えていたという研究者が数人訪れてきた。何も知らなかった幼馴染みの大学教授――例のドイツ人だ――に笑いながら責められた。道端で声を掛けられる比率はかなり高くなった。これで自分に対するイメージがどれだけ変わったのかは正直なところまだ良く判らない。ただ意外に思われているのは事実のようで、小鳩側の評価にはさほど影響は無かったように感じていた。
「で、でもだな……日本人ならではの感性に頼ってる部分もあって、海外でどう評価されるかは」
「――『社会奉仕』、って言ったら?」
 話の転換が唐突過ぎて一瞬ついていけなかった。『社会奉仕』すなわちCECSに義務付けられている自主的な活動。彼の仕事は警察の補佐なので日本に居なければ出来ないが――その代わりだと言うのだろうか。
「『日本文化のひとつたる日本文学を世界的に普及させるための英訳事業』」
「……正気か? そりゃお前は日本語より英語の方が得意なんだろうが」
「大事なのは数こなすことだと思ってさ。日本語って難しいし。新海碧彦は世界でも行けるって言われてた。……出来ればそれもやりたい。そしたら、その対極さんだって行けるんじゃない?」
 ニコニコと不自然な笑顔がこちらに向けられていた。自然とため息が零れる。
「……生真面目なやつめ。島原は今何もしてないだろう」
「オレが何かしたいってだけ、自己満足って言っちゃえば自己満足。逃げだと思われたくないし」
「……あぁ」
 切なげな彼の表情を見て理解する。からかいとはいえ、これ以上責めるのは憚られる。
 小学校の頃、夏岡雪子と共に自警団のような活動をしていたという話を聞いていた。詳しいことは知らないが、CECS認定のきっかけもそれに関連したものだったはずだ。――他の面々の認定理由がことごとく他人の生死に関連するものである中、一人だけ変わっているという話はCE関係に詳しい者からも良く聞かれることである。尤も、彼がしばしば話題になるのは、“かの”秋野夕紀夜の息子だからという理由もあるのだろうが――。それを割り引いても、彼がそんな若い頃から世の役に立つことでCE享受者、ひいては夢見月家の地位向上を目指そうとしていたというのには敬服せざるを得ない。
 夢見月の名を持って生まれ育ち、その悲しい運命をどうにかして打ち破ろうと――幼い頃から考えてきた冬雪が、この期に及んで逃げに転じるはずがない。言い訳のための事業ではない。渡英のチャンスを利用して出来る、新たな攻撃方法を見出しただけのこと――。
「――無理はするなよ?」
 それは、今の諒也が掛けられる最大限の声援。それを聞いた冬雪は今日一番の笑顔を見せ、年甲斐もなく嬉しそうに駆けて茶を淹れ直しに給湯室へ向かっていった。
(……まさか俺が寂しいと思うとはな)
 だがわざわざそれを彼に伝える必要などないだろう。彼はそれを身をもって理解した上で、今度の話を受けようと言うのだ。その勇気は讃えて然るべきである。

 窓を見ると、どうやらまた雪が降り始めたようだった。粉雪からは程遠い、東京らしい牡丹雪。
「――最近やっと、綺麗だって思えるようになったよ」
 冬雪が戻ってきていた。急須を載せた盆を持って、穏やかに笑っていた。
 ――彼の名。彼が雪を厭っていたのは、単に寒いだけではなく、無意識に自己嫌悪も含んでのことだったのだろう。ならばそれを綺麗だと言う彼は、自分を受け入れられたのだろうか。
 そんなことを訊こうとして、やめた。無駄なことだ。諒也は冗談のような口調で「成長したな」とだけ返し、冬雪の淹れた薄い緑茶を再び受け取った。

   4

 沢山の人々が行き交い、様々な言葉が色々なところから聞こえてくる。――ここは成田空港。穏やかな春の陽射しが窓から降り注いでいる。
「――10時丁度発、ロンドン行き。あれか」
 電光掲示板を眺めながら諒也がそう言うので、特に興味は無かったが、胡桃も掲示板を見上げてみた。
 行き先は様々。どこの国だかすぐに思い出せない地名もある。ここから、様々な人が様々な場所へ行き、また様々な場所からやって来る。ここは不思議な空間だ。
「秋野、待ち合わせまでの時間は?」
 片手に猫のケージを持ち、片手でトランクを引きずりながら背後を歩いていた冬雪に諒也が問い掛ける。両手が塞がっていた冬雪はトランクを立ててから腕時計をちらっと見て、何故か満面の笑みを浮かべた。
「――あと5分。急がなきゃね」
「……急げ」
 ここから待ち合わせ場所のロビーまではまだ少しある。恐らく着く頃に丁度5分経っている事だろう。急げと言われても冬雪が笑い続けているのはそれでだ。
 以前もこうして彼を送り出した。高校が用意していた留学制度を利用したもので、その為の試験を史上最高の成績でクリアしたとかいう噂が流れたが、真偽は今も定かではない。関係者である諒也も「個人情報だ」と言って語ろうとしない。――そんな昔のことを思い出して何になるのか。馬鹿馬鹿しい。今度は留学ではない。冬雪は冬雪の道を歩んでいる。
 待ち合わせ場所に到着すると、そこには既に先代秋野家の者達らしい面々が揃っていた。いくら秋野の人間でも、冬雪とは少し違うらしい。羽鳥と名乗った青年と諒也が何か話していたが、胡桃には関係の無い話だろうと思い、盗み聞きはやめておいた。
「そろそろ搭乗始まるかな」
 冬雪が呟く。
「買っていくモンあるなら今の内だな」
「んー、大丈夫のはず……あ、そうだ。――胡桃と先生、ジャンケン」
「は?」
 二人の声が重なった。冬雪は「いいからいいから」と急かす。仕方ないので適当にパーを出すと、諒也はチョキを出してきた。負けた。いきなりチョキを出すのは珍しいな、などとどうでもいいことを考えていると、楽しそうに笑いながら試合の様子を見守っていた冬雪が、つかつかと諒也のほうに歩み寄った。
 そして彼の目の前に、何かを突き出した。
「今日は勝った人! 先生にこの子をお任せします」

 それは、彼が最近保護していた黒い子猫の入ったケージ。

 さすがの諒也も唖然としている。胡桃には二の句が継げない。
「……ちょっと待て。鳥ならともかく猫は色々大変だろ、しつけとか――」
「鳥も猫も犬も人間も、皆同じ生き物だよ?」
 どこの教育番組かとツッコみたくなる台詞を真顔で吐いた冬雪は、一旦ケージを床に置いて、肩から提げていた小さな鞄から何かの冊子を取り出した。
「オレが使ってた資料もお付けしますからー」
「……いや、その……飼うのが嫌ってわけじゃないんだが……何でこのタイミングで? 連れて行くのが嫌になったわけじゃないだろ?」
 今思いついたわけではないようだし、『勝った方』を選んだ辺りからしてそうだろう。諒也の的確な指摘に、冬雪はニッコリとわざとらしく笑って、何故か一歩引く。そして再びケージを彼に突きつけて、
「こいつのことオレだと思って、預かってて」
 ベタすぎて逆に新鮮な台詞を、口にした。受け取ることを拒否させない、ある意味恐ろしい台詞。
 呆れ顔になった諒也は唸りながら頭を掻いて、渋々といった様子でケージを受け取った。
「名前はまだ考えてないから適当に決めていいよ。あ、でもオレの名前そのまんまは恥ずかしいからパスね」
「言われなくても付けないから安心しろ」
「えー薄情ー」
「……パスって言ったの誰だ」
 昔と変わらない馬鹿馬鹿しいやり取りが続く。この2人が、どちらかがどちらかを殺してしまいかねない状況に追い込まれたとは考えられない雰囲気。
 胡桃はどちらとも長い付き合いだ。多少変わったところはあるがそれは生まれ持ったもので、普通の人と何も変わらないと思ってきた。ただ少し人より強かっただけだ。こうして普通に笑い合っているだけなら、恐らく彼らがCECSだとは周囲の誰も気付かない。気付いたところでどうなる訳でもないだろう。我々の中学生活は、その他一般の中学生と何ら変わらなかったはずだ。――少なくとも、最初の2年間は。

 あのとき狂ったのは人だったのか、それともこの世界そのものだったのか。
 もしくは――最初から狂っていた世界に、我々が気付かなかっただけなのかも、知れない。

「――胡桃」
「! ん」
「ばいばい」
 いつもと変わらない挨拶が、何故か彼の独り立ちの挨拶のように思えて――奇妙な感覚を覚える。胡桃は彼の親でも何でもないのに。そんな風に思って然るべきなのは胡桃ではなく諒也の方だろうに。自分でも何だかよく判らない。
「……また一人で突っ走って倒れんなよ?」
 いつものように、笑いながら、半分茶化すような口調。
「た、倒れたことなんか」
 彼は顔を紅くして怒る。
「あれーメダカが死んだときぶっ倒れたって鈴夜から聞いた覚えがあるんだけどなー」
「そ……それは小学校の頃だろッ! っていうか倒れるの意味が何か違う気がする!」
 恐ろしいほど相変わらずなやり取り。諒也はまた呆れ顔だ。
 ――だがきっと彼も判っている。それでも泣くよりは笑っていたほうが良いと思うから。自分たちはそんな関係ではないから。
「――じゃあまた、電話とかするからさ」
「あぁ。……とか言って自分からはしねえんだろ。大学ンときもいつも俺からだった」
「そうだっけ?」
 彼は舌を出して苦笑する。だから何と言う訳ではない。ずっとそうだった。これからもきっとそうだろう。
 今度こそじゃあな、と言って彼は手を振って小走りに去っていく。隣の人はいつも通り敬礼で見送り。胡桃は手を振り反して――彼が見えなくなったところで、やめた。

 数秒経って、諒也から気の抜けた声が掛かる。
「さて――土産でも買って帰るか」
「……土産……?」
「結構遠出だろ」
 と言いながら真顔である。彼の論理は時々良く判らない。普段どれだけ出掛けないのか。あるいは遠出するたびに土産物に手を出しているのか。『仕事』の都合で店を休んで出張することもあるようだから、きっと後者だ。
「……まぁな。……で、名前どうすんのよ」
「ん――……。Weiss、かな」
 何を言われたのかすぐには理解できなかった。慌てて聞き返す。
「名前だ」
「それは判る。……ヴァイスって言わなかったか今」
「言ったよ」
 平然としている。
「し……『白』はねえだろッ! 黒猫だぞ!」
「おーよく覚えてたな、偉いぞ。さすが生徒会長」
 それはもう、遠い昔のことだったかも知れない。高校のあの教室に、冬雪は居なかった。
「……関係ねえし」
 説明を求めて睨み付けると、彼は楽しそうに、しかして苦笑しながら言った。
「いや……あんなこと言われたのに『黒』【シュヴァルツ】なんて付けたら怒られそうだろ?」
「……。ああ」
 自分だと思って預かっていてくれと言われた。彼の名は――真っ白だ。幼い頃はずっと『似合わない』『寒い』を連呼していたが――。
「――これから、ってことで」
 これから。
 彼の道は開けたばかり。
 ――白は何色にも染まるから。
 彼の目の前に、絵の具は沢山転がっているのだろう。

「シロって呼んでも良い?」
「却下」
「何でだよ! 意味は合ってんだろ!」
「あのな、言葉ってのは同じ意味を表すのにも色々と」
「言語が違うだろ言語が」
「チッ、ばれたか」

 『夢の世界』には行く必要などない。
 時間が掛かっても、苦労を重ねても――すっかり狂っていたこの世界を、創り直してしまえば良い。
 ――光はもう、見えてきている。



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