東京想街道
Page.73[蒼い花と紅い雲]





  Prologue


――判らないのです。

誰が、何の為に、行っているのでしょう。

――信じられないのです。

貴方の言葉は、真実ですか?

――許せないのです。

目的を果たしても尚、終わろうとしない悲劇が。


――……だから僕は、世界の終焉を望むのです。



   1


――2009年、秋。

 電話での相談を極端に嫌う『指導者』のため、久海葵は本家のある住宅街をさくさくと歩いて進んだ。
 ここは緑谷よりも西の町だが、発展の度合いはどんぐりの背比べといったところだ。ところどころに畑や小さな林が見受けられ、様々な虫の鳴き声がにぎやかに響き渡っている。

 久海の本家は羽田杜市内にあるが、葵の実家――すなわち新海碧彦記念館――とは別物だ。今現在も住んでいるのは事実上祖父と住み込みで働いている数名のお手伝いたちだけ。祖父は記念館など目ではない広大な土地と建物を持て余しているに違いない。はてさて、それを受け継ぐのは一体誰になるのやら――。
 最寄り駅も羽田南ではなく、緑谷から数えると下りで2駅になる。この辺りまで来ると1駅間の距離も結構なものになるので、自転車で移動するには少々つらい。車を持っていない彼にとっては、『本家に行く』ことはそれだけで面倒なことだった。

 先日、秋野冬雪に対し年内の市外退去命令が下った。誰のどういう権限でそういう命令が来るのか、一般市民の葵には全くもってわからなかったが、どうやら従う以外に無いらしかった。
 さて、それで冬雪はどこへ行くのだろう。現在の保護者である葵は、追い出されるからハイ引越し、と出来るような立場ではない。一緒に行くにしても行かないにしても、誰かに頼らなければならないのは確かだった。

――彼がここを訪れたのはそういった経緯からである。

 インターホンを押し、顔見知りの若いメイド――と言ったら何故か怒られる――に中に入れてもらい、『指導者』の居るいつもの部屋に向かった。
 いやに派手なシャンデリアのぶら下がっている、書斎のようで書斎でない、妙な部屋。今時珍しい白熱電球の明かりが室内をぼんやりと照らしている。窓際に置かれた重厚なデザインの木の机に、精悍な顔つきの――老翁が、座っていた。――彼が葵の祖父だ。互いにいつもの皮肉たっぷりな挨拶を交わした後、葵は机の正面に置かれたソファに座り、訪れた理由を淡々と説明した。

「……で。じーさまはどうします?」
 説明を終え、素直に尋ねる。
「ワシは昔話の主人公か」
「……ツッコミだけは鋭いことで。質問に答えてくださいな」
 祖父・蒼士はワンテンポ置いて小さく唸った後、答えた。
「考え中だ。夢見月との関わりはなるべく表沙汰にしたくない」
 表向き、久海家は夢見月家と距離を置いていることになっている。――かの、ビル爆破事件から。
 実際には夢見月の先代当主をしばしばここに招いては小さな茶会を開いていたという。尤も、先代当主が殺害されてからは、そうした直接的な関わりは無くなったようだが。
「まぁ『警察が最も恐れる』家ですからねぇ。それがアナタ、元警視総監が夢見月と懇意にしてるなんてバレた日にゃー、天地がひっくり返るほどの大騒ぎですよ」
「黙れ」
「……はいはい。で?」
祖父のことは昔から大嫌いだった。と、思う。
こうして話が成立しているだけ、自分も大人になったのだろうと思っている。
 祖父が再び口を開く。
「表向きには嫌っているのに、大喜びで迎え入れるというのもおかしい話だ。そうなるとまた話がややこしくなる」
 祖父は冬雪を跡継ぎにしたがっている。それは恐らく確かだろう。
 そしてその為に手段を辞さず、様々な人間を駒として動かし、邪魔になる人間を消していく。それが『計画』なのだと、葵は教わっていた。

 それが真実かどうかは判らない。
 本当にそうだとすれば少し――否、かなりやりすぎだと気付いたのは、両親たち4人が殺害された事件の時だった。命令の現場にたまたま居合わせ、何故そんなことをするのかと問い詰めたが、祖父は結局答えてくれなかった。逆に「このことは誰にも言うな」と釘を刺されるだけ刺されて、終わった。跡を継がせるというだけなら、葵さえ辞退すればそれで済みそうな話なのに。何故こんなに大量に人を殺さなければならないのか――。
 辞退で済まない理由が何かあるに違いないのだ。冬雪は生きていなければならず、後の人間は「死んでも構わない」のではなく「死ななければならない」理由が、何か――。
 葵個人としては誰が跡を継ごうが知ったことではない。冬雪が継ぐと言うのならそれはそれで構わないと思っていた。だからこそ、納得がいかなかった。一体どんな理由があって、こんな皆殺し計画に繋がるのだろう。考えても考えても、的確な答えは出てこなかった。自分の回らない頭を呪った。

 目的さえ判れば、この凶行を止めることも出来るかも知れないのに。
 結局自分は、何も判らないままただ駒として働いて、最後に棄てられて終わるだけの存在なのだろうか――。

 そしてふと、思いついたのだった。

「……祖父さん」
「何だ?」
「冬雪に、跡を継がせたいんですよ、ね?」
 ただの確認。
 祖父は今更何を訊くのかと言いたげな顔をして、「そうだ」と呟いた。
「そしたら――いずれは僕のことも、殺すんですか?」
 祖父の表情が歪む。
「……そうとは、限らない。まだ、判らない」
「否定しない」
 くすくす。
 ――これは肯定の意。
抹殺対象にそんなことを訊かれて、素直に頷ける訳がない。
「葵――……! 勘違いしているなら今のうちに考え直せ……!」
「勘違い? 殺す気が無いなら無いと言ってくださいよ、怖いじゃないですか。
――僕はこの家に興味なんか無い。その意思はもう、7年前に示しましたよ。それではいけないのですか?」
 両親の遺した遺産は莫大だった。一生遊んで暮らせると言ったら言い過ぎになるが、働く必要性を余り感じない額だった。
 だからと言うわけではないが、葵はそれを相続せず、国に寄付することにした。家は競売にでも出されるのだろうかと思っていたが、改装だけして記念館になった。気が向いたときに足を運べるのはありがたかった。

「……、迷って、いるのだ……」
 祖父が言葉を選ぶように、ゆっくりと喋る。
「迷う? 殺すかどうか? 貴方の言葉とは思えないなぁ、あはは」

「――違う、誰を殺すかだ」

 空気が凍った。
 言ってしまってから、祖父は失言を取り繕う言い訳を考えていたようだが、無駄だった。

「……誰、を?」
「忘れなさい。……忘れなさい」
「む……無理な話だ。何だよそれ。誰でもいいってのかよ、ワケわかんねえよ。ハ、選択肢は誰だ? 俺と誰と誰で迷ってんだ? なぁ、ジジイ。良いよ別に、俺はいずれ消されるんだと思って今までボーっと生きてきたんだよ。長生きしたってしょうがねえの。迷ってんなら素直に俺を殺しゃいいじゃねえか、死ぬ覚悟はとっくに出来て」
「馬鹿者ッ! そんなことを軽々しく言うんじゃない……!」
「はっ……アンタに言われたくはねえな。今まで何人殺したんだ?アンタの所為で白亜叔父んトコ、っつーかウチもだ、滅ッ茶苦茶じゃねえか」
 祖父は何も言わなかった。
 これ以上何を言っても無駄。葵は言い返すのを止めて、深い溜息をひとつ、零した。

「アンタが俺を殺す気でいるならって前提だったんだが……ひとつ、提案があるんです」
「……何だ……?」
「俺が何らかの理由で死ぬとする。そうすると久海に残るのは梨羽ひとり。で、例えばそこでふゆ坊と梨羽が仲良しこよしで、『私たちどうしても結婚したいんです!お願いしますお爺様!』ってー話になったら、どうしますか?」
「何……?」
 下手な演技を交えた葵の突拍子も無い話に、祖父は困惑の表情を浮かべながらも、話の続きを求めた。
「実際にはどうとかそういう話は抜きにしてさ。それでアンタが『渋々承諾』とかしてあいつを婿養子に入れれば一件落着、ってことになりませんか? 多分あいつは夢見月出れるもんなら出たいと思ってんだろうし、白亜パパは久海だし、違和感とかないっしょ。あ、従姉弟って結婚できたよね?」
「……本人たちにその気が無ければ無理だ、葵……」
 どうやら呆れられているらしい。無理もないか。
「だーかーら、そこでアンタがけしかけるの。俺的にはあいつら結構お似合いだと思うのね、うん」
「自分でやれ。第一それでは『渋々承諾』にならんだろう」
 完全に投げられた。だが意外とちゃんと聞いている。
「……酷いなぁもう、だからそれは表向き。それに俺が死んだらって前提。俺が居たらあいつがわざわざこっちに来る理由も無くなるだろ? 夢見月的にもあいつを失うのは惜しいと思うけどなぁ。何にもしなきゃあいつは久海の跡継ぎどころか夢見月のままだぜ? そこら辺ちゃんと考えてんの、ジジイ」
「…………」
 祖父は目を見開きつつ、強力な眼力を葵に送りつけてきた。一体どんな意思があるのか、さっぱり読み取れない。
「――……多分、今回の件は夢見月のほうで話がまとまると思います。雪子氏の怪我ももうすぐ治るでしょう。本人もこっちにはあまり乗り気ではない。嫌われているのなら行く気にはなれないそうで。まぁごくごく自然な考えです。
 だからもし、貴方が彼を本気でここに入れようと思っているなら――養父になるとかそういう手段に訴えるより、本人たちにその気にさせて『結婚』という自然な手段を使ったほうが――……いいんじゃないですか、と、僕は言いたくて、ね」
 語尾にハートマークか音符あたりを付けても良さそうな、飛びっきりの笑顔を浮かべてみた。
「……葵はそれで満足なのか?」
 そう言う祖父は相変わらずの仏頂面。――反応激薄。二度とやらない。
「いーや、別に。俺はもうどうでもいいです。っていうかそれ、俺死んでる前提だから満足も何も無いし。
 それに……あいつがあの家を出てく時点で、あいつは俺の子じゃなくなるから」
「何……?」
「俺ね。……あいつの親になってやるって決めたの。白亜叔父も秋野ママもホントに死んだと思ってたから、だから兄貴の俺が助けるって決めたのよ。だからさ。だから……あいつが夢見月を選んだら、もう『保護者おれ』は必要ないかな、ってね。
 アンタの『計画』とやらがホントはどういうもんなのかは知らねえが……冬雪が自然に跡継ぎに納まれば良いってんなら、俺1人だけ犠牲になれば済む話だ。もう……葬式は、たくさんだ」

 試す、つもりだった。
 この計画が上手く行って、冬雪と梨羽のゴールインによって事態が収拾すれば――良し。収拾しなかったときは――ぶち壊しに、してやろう。そう、決めていた。

「だからさ爺――、死なせてくれ。出来れば作家らしく潔く自殺ってのがいいかなぁ」
 けらけら。
 その乾いた笑いが、祖父の耳にどう響いたのだろうか。
「…………ッ!」
 声にならない叫び声。
「別に俺1人自殺しても問題ないっしょ?ってか、誰殺すか迷ってるってんなら俺ってことで良いじゃん。決定。ね?」
「……まだ考え中だと言っているだろうが……!」
「もう面倒くさいんだよ生きるの。誰と迷ってんの?それ教えてよ」
「…………梨羽、だ」
「…………え。は……はは、あはは……?何で?何でそこで迷うの?意味わかんねえし。梨羽嬢が死んだら尚都が悲しむよ。俺が死んでも別に誰も悲しまないよ」
「馬鹿者、勝手なことを言うんじゃない。こっちにも色々と事情があるのだ」
 出鱈目を。
 葵は溜息を吐いた。
「……ま、良いです。別にここで決めなきゃいけない事じゃないし。あいつが出て行くまでにはまだ3ヶ月あるし。――何か決まったら、連絡下さいな」
「あぁ……そうしよう」
 これ以上話すことはない。葵は適当な敬礼をしてソファから立ち上がり、部屋から去ろうとした。
「――葵」
「……はぁい?」
 まだ何かあるのか。振り返ると、祖父も立ち上がってこちらを見ていた。と言うより、睨まれていた。
「……あまり、悲観するんじゃない」
「貴方が両親を殺したりしなければ、楽観視も出来たんですけどね。じゃ、また」
 話が長引くのは嫌だった。手を振って、一方的に部屋を出た。
 自分がひねくれているのは判っている。言われたことを素直に受け取れないだけだ。相手が祖父だと言うこともあるだろう。

 祖父が決断に迷う理由は梨羽のほうにあると見て良い。もし葵が居なくなったら、彼には彼女を懐柔できないからだ。梨羽は勿論『計画』のことを知っている。そして葵以上に、彼女は『計画』を嫌っている。恐らく――その所為で葵が厭世的になったからだろう、と想像している。
 そして何らかの理由で葵が死ねば、その段階で梨羽は祖父に従うことを止めるはずだ。今でも素直に従っているとは言い難い。彼女が本家を訪れるのは正月の挨拶ぐらいなもので、彼女に対する伝言その他の連絡は全て葵が行っている。
 結局のところ、彼女は葵に従っているだけなのだ。それが何故なのかは葵自身にも良く判らない。葵が記憶を失くした事故と関係があるらしいが、本人は黙して語ろうとしない。
 だが、そうだとすれば祖父が迷う理由は無い。葵が言えば彼女は従う・・・・・・・・・・のだ。葵の提案である限り、それが祖父の意図と反しないのならば、取り入れたほうが良いはずである。尤も、結果として何が起きるかは、死んでしまう自分には判らないのだが――。

 そこまで考えて、言い直しに行こうかな、と思ったときには自らの足は屋敷を出ており、最寄り駅の近くまで来てしまっていた。
(……また今度で、いっか)
 あるいは祖父自身が気付けば良い。まだ3ヶ月もあるのだ。
(そして3ヵ月後に俺はオダブツ、ってか)
 滅茶苦茶な人生。思い通りに事を運んで終わりになるならそれで良い。せめて来世がもう少しマシになれば良い。

 そう思えるほど、彼らと過ごしたこの6年間は――葵にとって、幸せな時間だったのだ。


   2


「CECSを確実に殺すには、どうしたらいいと思う?」

 静かな会議室に、いきなり不穏な言葉が飛び出した。
 発したのは、上座に座る現当主。いつもとは違う冷たい視線を周囲に向けている。
 答えた者は、誰も居なかった。

「……残念なことに、この中には対抗馬が居ない。先日のチャンスで勝手に沈んでくれるかと思ったけど、結局失敗。恐らくこの先も無理でしょうね。でも……真っ向から立ち向かっても、恐らく返り討ちにされるだけ。何か良い手を打ちたいの。ここで手を引いたら、今まで彼がやって来てくれた事が全て無駄になるわ。
 誰か良い案は思いつかない? ……こうやって会議を開いて全員に話をするのは初めてだから、私も緊張してるの。それに……少し、胸も痛むわ」
 当主はそう言いながら、一番ドアに近い席に座っている女性に目を向けた。彼女がそれに気付き、気まずそうな顔をしてうつむく。
「このまま考えても思いつかないわね。――これまでに亡くなったCECSたちの死因は何でした?誰か覚えてるかしら」
「……自殺が2件、病死が1件、CECSによる殺害が1件、です」
 先刻の女性が静かに答えた。
 当主は言葉を噛み締めるように何度も頷き、それから目を閉じてひとつ、溜息を吐いた。そして、呟く。
「恐らくどれも無理ね。だとすれば――」
 ゆっくりと瞼を開け、当主は静かに立ち上がった。

「『事故』で行きましょう。声明を出す必要も無いわ。全員の連帯責任なら、誰か1人に負わせるよりは私も気が楽。――良いわね?」

 返答はないが、反論もない。それを同意とみなす。
 ただ静かなだけの会議室に、当主が手帳を閉じる乾いた音が、響き渡った。


   3


 小さなアパートの狭い一室。ここに移ってきてから何年経っただろうか。三宮尚都は布団の上に転がりながら、今までの事を考えていた。タンスの上の古い写真に目が行く。映っているのはまだ幼い自分と――実の兄と妹。2人とも既にこの世には居ない。
 彼らに初めて会ったのは、尚都が14の時だった。実の両親が亡くなったことで制約が薄くなり――育ての親は尚都をいきなり両親の葬式に送りこんだ。そこでお互いの存在を知り、初めて祖父にも会った。

――思えばあの時から全てが奇妙しくなったのだ。

 翌年冬。祖父の命を受け、不良少年を演じて教師を窓から突き落とした後。報告のため訪れた久海本家の一室で、尚都はソファにうずくまって――ただひたすらに泣いたのを、覚えている。

「――凹んでんな、尚坊」
 葵の明るい声。尚都は顔を上げて彼の方を見た。短い髪を派手な金色に染め、左耳に銀の十字架のピアスをした、『今時の若者』風の彼は、けらけらと笑いながら話を続けた。
「殺せなかったから? それとも――」
「違う……殺したく、なんか」
「殺されたくないなら殺すしかないぜ。ジジイが怖いんならな」
 淡々とそう言って、葵は尚都の隣に座った。
「兄貴は」
「お」
「平気なのか?」
「? 何が?」
「……人、殺すの」
 葵はそこで初めて笑うのを止め、困ったように少し、唸った。
「……殺せと言われたことはないからな、正直わからない。まぁ多分、一生言われないと思うが」
「……どうして?」
彼は特別な存在なのだろうか。――将来のために、そんな非人道的な行為を犯してはならない、ような。
 だが、そうではなかった。
「『死ね』とは言われるだろうけど、な」
 あはは、と葵は何の感慨もなさそうに笑った。
 尚都には――何も、言えなかった。
「……葵の兄貴」
「なんじゃらほい」
「あの先生と、知り合いなんだろ」
尚都が突き落とした人間。どうやら死んではいないらしい。
「まぁ……そうだけど」
「たとえば俺が殺しちまっても平気なのかよ」
「うーん……全部ジジイが悪いから。平気とか平気じゃないとかいう問題じゃない。不運だったな、尚坊。せっかくこんな酷い家出られたのに」
 葵が苦笑する。
 尚都は静かに首を横に振った。
「でも兄貴は良い人だ。梨羽だって良い子だし、会えて良かった」
「はは、それはどーも。まぁいずれ俺を殺すなんてことになるかも知れないが……その辺は覚悟でな」
「! どうして」
そんな覚悟をしなければならないのか。
「……どうしても、だ。梨羽とは仲良くやっとけ。まぁその辺は双子のよしみで何とかなるかー」
 二卵性ではあまりそうした事例は無いと思うが、突っ込まないでおいた。
 ――と、部屋の扉が開き……噂の梨羽が入ってきた。

「尚都……あ、お兄様もいらしたんですか」
「おう、オニイサマも来てたよ。どした?」
「いえ、特に用事は無いんですが――」
「何だよ寂しいな。あ、そういえば……ってのも変だが先生の容態ってのはどうなんだ? 尚坊知ってるか?」
 尚都は首を振った。当然、横に。
 ソファの背後に立った梨羽が静かに口を開く。
「左腕を何箇所か骨折と、軽い脳震盪を起こした程度らしいです。命に別状はなく。ただ――」
「ただ?」
「指が動かないとか。まだ詳しいことは良く判らないですが――」
 頭の中が真っ白になるとはこのことを言うのかと思った。
 せっかく止まった涙がまた溢れ出る。
 どうしてこんな思いをしなければならないのだろう――……家に帰ったら、また姉の罵声を浴びて部屋へ篭ることになるのだろう。
 第一、家には帰れるのだろうか――。ずっと警察のお世話になるのではなかろうか。

 ――尤もこの不安は被害者自身の予想外の行動によって解消される事になったのだが。


 成人してからも祖父からの干渉は止まなかった。義姉との関係は悪化の一途を辿り――尤もそれが祖父の目的だったのだが――、周囲に味方はほとんど居なくなった。

 そして2010年、正月。
ついにその命令が、与えられた。

「――遅かったじゃーん? 先にあいつらが帰ってきたらどうしようかと思ったぞ」
「……ごめん」
「しっかしジジイってのは凄いんだな。全然関係ない他人の行動まで操るたぁな」
 尚都が未佳子に、葵が冬雪に対してそれぞれ初詣に出かけるように促したのだ。
 尚都は彼女の想い人を種にした。葵は『自宅では行く予定が無いから、友人同士で行けば良い』とでも言ったのだろう。
 その結果、彼らは6人揃って店を空にした。話を聞いたときは1人ぐらい残ってもおかしくないのではと思ったが、葵は笑って「大丈夫」だと断言していた。実際、その通りになった。そして、葵は空になったタイミングを見計らって忍び込む。尚都は後から来て、彼らが帰ってくる直前に――。
「……ジジイが凄いんじゃない」
「あぁ、凄いのは俺様たちだな。ジジイの忠実で優秀な駒。その駒の一匹を失うのはさぞ悲しいことだろうなぁ!」
明るい声が痛々しい。
まかり間違っても悲しいとは思わないだろう。
そんな風に考える人間なら、こんな命令など出さない。
――葵の冗談に過ぎない。

「……兄貴」
「多分お前は捕まる。覚悟しとけ。……悪いな」
 腕を組んで壁に寄りかかった葵が――所狭しと並べられた商品を眺めながら、苦笑する。
「…………ううん」
 仕方のない、こと。
従わなければ、命が無い。それよりはマシだ。
「俺はこのまま死ぬと思う。だからお前とはお別れね。今までさんきゅ。……でも、まだだ。まだ何も始まってない」
「……え?」
 どういう意味だろう。
「何でもないよ。――さぁそろそろ時間だ、やれ。殺すんじゃないぞ、俺の意識が無くなったらそこでストップだ、良いな、殺したらマジで怒るぞ!」
死んだらどうやって怒るというのだろう――尚都は苦笑しながら頷く。
 そして、手にした凶器を、恐る恐る、振り上げる――。

――その後の事は、もう思い出したくない。

 確認の為、葵は意識がある間色々と意味の無い事を喋っていたが――最後の一言が忘れられずにいる。
 本来は違うが、彼を目の前にして聞いた彼の肉声と言う意味では、それが尚都にとっての彼の最期の言葉にもなる。

『お前、俺にそっくりだから、さ。――きっと大物になるぜ』
 あはは。そんな笑い声を残して、彼の意識は途絶えた。

 半分ぐらいは冗談のように聞こえた。
 だが深い意味を考える前に――……義兄の叫び声が耳に届いた。6人が帰ってきてしまった。その後尚都が警察の世話になっている間に、入院していた葵が『自殺』した事を知った。

 兄から聞いていたことは本当だった。
 彼を失うと、妹を従わせる方法が無いらしい。その為、今度は尚都がメッセンジャーにされることになるだろうと――そう、聞いていた。そして現実に、本家に呼び出される回数は増え、梨羽を深夜に呼び出しての相談を繰り返した。

 しかしある日突然――妹は、自殺した。

 葵の死と梨羽の結婚で事態が片付かない時は、復讐の時だ――葵はそう言って笑っていた。
 その事実を祖父から聞いた時――兄妹が計画自体の破綻を目論んでいたという事を初めて理解した。自分は2人に取り残されたのかと何度も呪った。
 そこであの言葉を思い出す。

 自分は――……生かされたのだろうか?

 『計画』を壊すための葵の計画の駒に選ばれなかった事は、不運でも力不足でもなく、葵の好意だったのだと――思うよりない。関係者でありながら関係者でない、この立場を生かせということなのだろうか。
 決して代わりにはなれないが、彼の弟として、出来る限りの事をしなければ――。

 まず、考えよう。
 葵は大体の考えを話してくれていた。冬雪に継がせる為と言うのは表向きの理由。それだけではなく、もっと深い理由があるに違いない。それは尚都も同意見だった。そうでなければ、祖父が妹たちに対して結婚を勧めた後も起きている事件が説明できない。
 そして最後に冬雪を呼び出した時、祖父が彼に自分を殺させようとしていた理由が判らない。何も無理矢理、あの日に死ぬ必要は無いはずなのだ――。
「…………。1人で考えてもしょーがねえな」
 ゆっくりと上体を起こし、頭を掻く。ひとつ、溜息。
 誰に、会うべきだろうか。『孫』の生き残りは尚都と冬雪、そして諒也と梨子の4人。夢見月の屋敷に住んでいる梨子に会うのは至難の業だから、会うとすれば残り2人のどちらかで、片方はじっくり話せる環境に無い。判決が確定するまではもう少し掛かりそうだから、話すことを決めてから行った方が良いだろう。

「……義弟君おとうとくんに、会いに行きますか」

――この先起こり得る事件を、全て未然に防ぐ為に。

 三宮尚都は、そうして静かに立ち上がった。



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