東京想街道
Page.72[古き鎖の解かれる刻]






   1


 目が覚めて、朝の爽やかな日の光を浴びながら、ボーっと白い天井を眺めて3分が過ぎた。腹の虫が鳴いて、続いて枕元の携帯電話が小さく鳴った。目覚まし用のアラーム音ではない。誰かからメールが来たようだ。冬雪は起き上がりながら手探りで携帯を手に取り、上体を起こしたところでメールを開いた。
「織川、さん……?」
織川寿彦――例の詞を頼まれている音楽プロデューサだ。
 何か急な用事でもあるのだろうか――。
「……見せたいもの……?」
見せたいものがあるから、暇な日時を教えてくれと言う。
 意味が良く判らなかった。今の状況と何か関係があるのだろうか。第一、暇が無いのは織川のほうなのではないのか。とは言っても訊かれているのはこちらなので、今はいつでも大丈夫だ、とすぐに返信した。

――ドンッ、バタバタバタ、ドドンッ。

 のんびりと携帯をいじっている最中に、妙な音が聞こえた。続いて悲鳴。叫び声。最後に笑い声。
「何やってんだあいつら……」
冬雪は携帯を持ったまま、眼鏡だけ掛けて着替えずに部屋の扉を開けた。
「人が優雅な朝のひとときを過ごしていたというのに、君たちは何をしているのかなー?蕨くん、玲央さん」
「別にやましい事は何もしてないわよー!ただ蕨ちゃんが階段落ちキメてたから玲央びっくりして」
「別にキメてたワケじゃなくて、素で……ッ」

――素で階段落ちを決めたらしい。

程度は冬雪と同じである。
「……君の気持ちは良く判る。しかしだね、」

――ぴるるるるる。

あからさまな電子音。
「ふゆっきー、ケータイ……」
「鳴ってるよー……」
「……言われなくても判ってます……」
画面に表示された名前は先ほどと同じ、織川寿彦。階段の上で延々と話をするわけに行かないので、とりあえずリビングに向かいながら話すとしよう。
 冬雪は通話ボタンを押した。
「――はい」
『朝早くからすみません、織川です』
「いえ、おはようございます――見せたいものって何なんです?」
段差に気をつけながら階段を下りる。これで踏み外したら大恥だ。――それ以前に下の2人に危害が及ぶか。
『えぇ、見せたいと言うか、一緒に見ませんかと言うか、昔のビデオテープを発掘したんですけどね』
「ビデオですか……?」
何の映像だと言うのだろう。
『うん、保存状態に自信は無いけど』
無いのかよ!とツッコみそうになったが、何とか留まった。相手は大物芸能人である。
『25年ぐらい前のだからね。そちらにデッキはあります?』
「え、えぇ、まぁ……」
DVDと兼用、である。
『じゃあ伺っても良いですかね? 最悪ウチでも良いんですが、出来れば家族には見られたくないので』
受話器の向こう側で相手が苦笑する。冬雪もつられて笑った。階段の下にいる2人が顔を見合わせる。
 結局、織川の訪問は3日後の朝に決定した。午後からは仕事があるらしい。本当に生きる世界の違う人だ。冬雪は電源ボタンを押して通話を終えると、携帯を閉じて階段を数段残して下りた。
「えーっと、ふゆっきーが珍しく敬語で話してたけど、今の人は」
「織川さん。織川寿彦」
蕨が目を丸くした。
「それって……!」
「うん、蕨が想像してる通りのひと。先生の友達なんだって」
「うわぁ……! で、お、織川寿彦が、ここに?」
Yeahヤー
肯定すると、つい先刻階段落ちしたばかりのはずの蕨が目を輝かせて立ち上がった。
「凄い! えっと、色紙用意しといた方がいいかな、それから……!」
こちらに話しかけているような独り言を発しながら、蕨はリビングの方へと姿を消した。

 彼を見ていると――誰かを、思い出す。

 遠い過去に失った存在。冬雪は今まで沢山の知り合いを亡くしてきたが、『彼』だけは――特別だ。今でも『彼』を失った事による穴は決して塞がれることはない。
 蕨が生まれたのは2005年秋の事だと言うから、蕨と『彼』とはほんの1年半だけこの世界を共有していた事になる。蕨は叔父にあたる『彼』の事など知らない。だとしても、蕨の髪と目の色は『彼』と同じく彼女の血を引いている事を物語っている。
「ふゆっきー、だいじょぶ?」
玲央の声がする。
「! あぁ……大丈夫。飯にしよう」
冬雪は残りの段を駆け下りた。
「うん。もう3人分パン焼いてるよ」
「! ナイスタイミング、オレ」
軽やかな足取りでリビングを目指し、立ち尽くしている玲央を追い越した。
「――ふゆっきー」
「ん?」
振り返ると、彼女は少し哀しそうな顔をして――そこに、立っていた。
「……どうした?」
「寂しくない? 皆居なくなって、玲央と蕨ちゃんが来て、それで――」
「何言ってんだ、玲央を誘ったのはオレの方だぞ? 蕨のことだって……今のあいつは、昔のオレと一緒なんだ。――……父親は随分前に居なくなって、母親も居なくなって。勿論いずれは帰ってくるんだろうけど、それまで蕨は一人だろ。オレたちの時だって……子供だけ残されて、これからどうなるかって時に――……葵が助けてくれた。だから今度は、オレが蕨を助けるんだ」
「でも、自分だってつらいでしょ?」
「あの時の葵は……両親殺された直後だったんだよ。オレはそんな事まで頭回らなかったけど、葵たちだって、自分たちのことだけで精一杯だったと思う。でも――来てくれた」
夢見月側が開いてくれた、母の『葬式』を終えた2人のところへ、彼らが来てくれた時の言葉。

『――新しいお父様が迎えに来たぜ』

正確には兄であり従兄だったし、その後彼が死ぬまで父と呼んだことなど無かったが、今になってみると――そのような認識でも奇妙しくなかったのではないかと思えてくる。不思議なものだ。
 わざわざ大学を辞めてまでここへ来た彼自身、それだけの覚悟をしてきたのだろう。
「……だからその、恩返しじゃないけど、さ。あいつが『断る訳がない』って言ったのは……そういう意味だと、思うし」
「――そっか」
「今は今だよ、玲央。オレは今こうして過ごしてるのが、楽しいから――……全然寂しくないって言ったら嘘になる、けど、でも文句言ったって仕方ないし。だからほら、飯にしよーぜ」
「……うん。そーだね」
玲央は笑顔を作って、すたすたとリビングの方へ駆けていく。彼女の中で何か、燻る想いがあるのだろうか――。
 しかしそんな事を考えても判る訳がないので、冬雪はひとつ安堵のため息を吐き、朝食のメニューへと思いを馳せた。


   2


 室内は決して暗くはなかった。
だがその場には、異様な闇が漂っているように思えた。
「後悔、してんのか?」
目の前に立つ青年――とは言いづらい歳だが、中年と言っては悪い――が呆れ顔で言う。
「していないと言ったら嘘になるね――」
彼が正直に答えると、青年は静かに何度も頷いた。
「『探す』って言うんなら、俺も手伝うから……そのつもりで」
「! どうして――」
「俺だって決着つけてえんだよ。こんな事になった、元凶とな」
青年が強い口調で言う。
彼はため息を吐いた。
「こんな時だ。無理はするんじゃないよ」
「判ってる。じゃーな」
青年はひらひらと手を振って、去っていった。
その場に、彼だけが残される。
沈黙と暗闇の世界。


一面闇色だったその部屋に、再び一筋の気配が舞い込んできた。
「『銀髪のアリス』――……」
彼が呟く。
「――と、『翠色のイセン』」
彼ではない別の者の声が、闇の部屋に響いた。

翠色の髪をした和装の子供が一人。背後には雪のように白い髪を短くした、背の高い男を従えている。
男の隣には長い黒髪の女性が無表情で立っていた。
「彼女は新入り。『漆黒のリン』だ」
「……ボクを試しているつもりなのかい……?」
「とんでもない。望むのなら叶えてさしあげようとしたまでですよ――……兄上?」
くすくすと笑いながら、翠色の『それ』は、鋭い瞳で彼を睨みつけた。
「……望む? ボクが君に何を?」
「僕を『探す』とおっしゃった」
「……つまりもう叶えたと言いたいんだね、維泉。久し振り」
「森羅と呼んで欲しいな、維南。久し振り」
お互い憎まれ口を叩きつつも挨拶を交わしてしまうのは、兄弟の契りを交わした者としての責任からだろうか。
「よくまぁ自分でそんな名前を付けられたものだね」
「酷いなぁ兄上ってば。何の為に来たかも判っていないクセに」
『それ』は不満げな顔をこちらに向けた。
「……いつまでも子供の姿を借りて」
「この方が色々と便利なんだ。兄上だって僕の老け顔を見たくは無いだろう?」
「……それは嫌味かい」
森羅の方が年下なのだから、どう頑張っても志月の外見年齢を超えることはない。
「嫌味だよ」
「はいはい。大体――……一体何をしているんだい? 銀乃丞君たちまで連れて」
その言葉に、森羅は少し眉をひそめた。
彼は何か気に障ることを言っただろうかと思いを巡らせるが、そんなことに気を遣う必要のある相手ではない事に思い至るとそれをやめて、代わりに睨み返した。
「今のアリスに銀乃丞の時の記憶は無い。聞いても無駄なことだ」
「……すると、凛さんも?」
「そうなる。2人とも一度は死んだのだ。その後身体組織を再構成させた。記憶が無くても奇妙しくはなかろう?」
森羅がケタケタと怪しい笑い声を上げた。
彼は表情を変えずに訊く。
「死んだのではなく……殺した・・・のだろう? 維泉」
「維恩のことは玲央と呼ぶのに僕は維泉のまま、か。……まぁ良い。僕自身は彼らに手を下してなどいない。彼ら自身が自ら命を絶ったのだ」
「彼ら自身――?」
「そう。知っていよう、兄上? 銀乃丞は28のときに毒水を飲んで死んだ」
「……それは周囲を誤魔化すための」
嘘ではなかったのか、と――彼は顔だけで語った。
森羅が冷たく笑う。
「――本当に飲んだのだ。僕と共に来るために、ね。いつの事だか判るだろう、兄上」
思い当たる節。
背筋が凍る思いがする。
「まさか――……彼は『生きていく』と……ッ」
――叫ぶと同時に、彼は拳で机を叩いた。
そんな彼の様子を見ても、森羅はその冷徹な表情を変えなかった。
「そんなものは言葉のアヤだ。『全てを受け入れ』た時点で、銀乃丞は雪見月……否、岩杉銀乃丞としての一生を終えているのだ」
彼が慣れ親しんだ名。
「……その名は誰が考えた?」
「なぁに、そう悲観するでない、兄上」
一転、柔らかく微笑んで森羅が言う。
からかっているつもりなのか。
「……では君なんだな」
「当時は花粉症など国民病じゃなかった。杉の木だとて嫌がられはしなかったさ」
「そういう意味じゃなくて……!」
「……後でゆっくり説明する。名など……識別できれば充分だろう? 僕はそんな話をしに来たんじゃない」
「……じゃあ何の話を?」
彼が尋ねると、森羅はおもむろに腕を組んだ。
そして答える。
「あらぬ疑いを掛けられるのは御免なのだ。銀乃丞を殺したとか、凛のことも殺したとか、それで三人一緒になって悪さをして回っているとか、あるいはこれからすることに関しても」
「……森羅、」
「兄上は……可愛くないのだろう? この出来損ないの弟が」
「そうではな、」
「可愛がってもらおうとも思っていないがな」
「維泉!」
彼は叫んだ。部屋――店の外にも聞こえたのではないかと思うほどの大声で、叫んだ。
突然のことに、森羅は初めて驚いた目を彼に向けた。
森羅の後ろで事も無げに立っていた二人も、肩を震わせて驚いた。
「何故……何故そう怒る、兄上」
「疑いを掛けられたくないのなら、まずこちらに疑いを掛けるのもやめて欲しいな、維泉」
「……兄上は変わっていないのだな」
幼い頃の話をしているのだろうか。
「あぁ。それが誇りだ」
人の中に居ても、自らの心は硬い殻で護った。何人たりとも近付かせなかった。
――傍観者として生きる道を選んだのだ。

彼の言葉に、森羅は少し寂しそうに、笑った。
「兄上がうらやましい。変わらずに居られる兄上をどれだけ尊敬した事か」
初めて聞く言葉だった。

森羅――維泉が、彼を尊敬していたと?

森羅は静かに目を伏せたまま、語り続けた。
「でも僕には出来ない。苦しいだけだ。ならば出来ないなりにと……銀乃丞――アリスと共に歩み始めた」
「……でも生きていた時の記憶は無いんだろう?」
「『死んで』からの記憶ならずっとあるはずだ。それに記憶がないと言っても――」
「印象深かったと思われる出来事は憶えています。憶えていないのは、その時に銀乃丞が考えた事や感情です」
ずっと沈黙を保っていた銀髪の男が静かに語った。
どことなく、あの彼に似た穏やかな声だ。
「……でも銀乃丞君とは、違う」
「違います。私はアリスです。人間銀乃丞の奥に眠っていた、妖としての人格とでも言いましょうか」
「……まるで機械と話しているようだよ、維泉」
感想を漏らすと、森羅はまた、ケタケタと笑った。
「二言三言話したぐらいでそんな風に言われてはアリスも堪らなかろう! 兄上は銀乃丞に何か思い入れでもあるのか?」
「思い入れ、って……そりゃあ、あの頃は必死で」
「僕の失態を取り繕う為に色々と……か」
「……そうだ」
「でも何が問題なのだ? 銀乃丞は死んだ。皆そう思ってる。間違ってもいない。何処にも問題は無いではないか」
「……でも自殺したんだろう? それは……問題じゃないとは、思えないな」
「では凛はどうだ。別に僕が死ねと言ったわけではないぞ。充分に生きた、もう満足だと思ったら呼んでくれと言っただけだ。ちゃんと諒聖とお別れのキスまでしてきたぐらいだぞッ」
「……はぁそうですか。凛さんと今の人格とは名前を違えないのかい」
「名など識別できれば良いと言ったではないか」
「その識別ができないじゃないか」
「え、あ」
森羅が答えに詰まる。顎に手を当てて上を見ながら何か考えている仕草を見せる。いかにも子供らしい。
「――本当はリンネなのです。でも語呂が悪いからとリンで通しているだけです――……森羅のお兄様」
黒髪の女性が初めて口を開いた。尤も、無表情のままだったが――。
「……どうも、なるほど」
「他に問題点は?」
問題点は、と訊かれて思いつくような問題点は見当たらない。
だが――……何か、嫌悪感のようなものが拭い切れない。
「何も無ければ認めてもらったと認識するよ。次に手を掛けるのはあの子の予定だ」
「……あの子?」

「兄上の大事な、あの子だ。お父さん、でもあるかな」

心臓が締め付けられる思いがして、彼は思わず森羅を睨み付けた。
森羅の表情は相変わらず飄々として、掴もうとする彼の手をするりと抜けていくようで――。
「どうして諒也君まで巻き込む――……!」
「巻き込む? そう言うんだったら、あの子は生まれた時から巻き込まれているよ。そうそう、兄上の『妹』にも感謝しないとね。僕が手を下す手間が省けたよ」
森羅はまた、怪しげな声で笑う。
――あの彼の、子供たちのこと。
いずれは森羅が殺すつもりだったということ。
「……ッ、森羅! 人の命をなんだと……ッ」
「それを言うなら兄上の方こそ、生まれたばかりの銀乃丞を必死になって殺そうとしていたクセにッ」
思わず叫ぶと、今度は森羅が泣き叫んだ。背後から当の本人が、暴れそうになる森羅の肩を押さえる。

――100年前の話だ。
まだ根に持っているのか――。

「あの時は……あの時は悪かった、それに最終的には殺してないだろう?」
「尊敬していた兄上をあれほど憎んだ事はなかった。あんなに小さかった維恩にどれだけ感謝したか」
彼を止めたのは幼かった維恩だった。
小さな少女に泣きながら『殺さないで』と連呼されて、殺せる者も少ないだろう。
「悪かったと言っているだろう……」
「――彼は既にこちらの道に興味を示しているよ。もう……そうだね、10年前になるか」
「10年? まさか、そんなに前から彼は君のこと――」
「知らない。だが僕には判る、彼は来る。時が来れば自然にね」
「時というのは?」
「さぁ、刑期が確定してから訊いた方が良いんじゃないかな?」
「……出てきたらすぐに殺す気かい?」
感情のままに訊いていた。

森羅が溜息を吐いたのが判った。
そして、いつになく静かな声が耳に届いた。
「兄上があの子を大切にしているのは解っている、解っているがな――……」
森羅はそこで言葉を切ると、両の瞼を閉じて大きくひとつ、深呼吸をした。
いつの間にか立ち上がっていた彼は、少年の姿をした『それ』を静かに見つめる。

「『責任を取れ』と言ったのは――……兄上のほうだぞ?」

唖然。
これが『責任』の取り方なのか。

否――……何も考えずに銀乃丞を殺そうとした彼とて同じこと。

森羅は銀乃丞を生かし、彼らに人間の人生を与えた代わりに、その後の道筋を『こちら側』に引いた。
これが、森羅なりに『責任』を果たそうとした結果なのだろう。

「言っておくが兄上、僕らは決して悪さをして回っているワケではないぞ?
――アリスは偉いよ、裏組織の団員を改心させるのがとても上手い。日本も捨てたものではないぞッ」
森羅は本当に楽しそうに笑いながら話した。
この、少年の姿をした者は――人の中にあって、ただ人を演ずるのではなく――……。

――……人を導く者として、生きている。

「森羅、君は――……」
「変わらずに居られる兄上をうらやましいと思った。僕は変わったのだよ、兄上?」
「兄弟は似て非なるもの」
不変を望む者もあれば、変化を望む者もある。
どちらが正しいとは言いきれない。
「勿論。しっかしあの子は本当に僕に良く似ているよ、外見も中身も。僕に似てかーわいー」
「最後の一言には賛同しかねるね。……外見も?」
「僕の老け顔は見たくない、だろう?」
「……いつか、機会があったら、ね……」
森羅はアハハ、と高らかな声で笑う。
そこまで言うからには、それだけ似ているということなのだろう。
そしてニヤリと笑みを浮かべて軽く手を挙げたかと思うと、次の瞬間には気配は姿を消していた。
「入場も速いが退場も速いね――……維泉」
言ってから、考え直す。
「……これでまた音信不通、か」
向こうからコンタクトを取ってこない限りは会えなさそうである。

最初に維泉を見捨てた時。
旅に出ると言った維恩と別れた時。

思えばあの時から、彼は独りだったのだろうか。

「ボクは――……ボク、だ」

決めた事は決めた事。
闇色の空間で、三宮志月はカウンターに座り、静かに――目を閉じた。


   3


 7月になった。
 夏の日射しは、到底穏やかとは言えない強さで――窓からも降り注いでいた。
「――……この部屋ね」
彼女は指定された部屋を確認すると、静かにその扉を開けた。
 今日はここで――『彼』と会うことになっている。

――……彼とは、幼い頃からずっと一緒に暮らしてきた。

 幼かった頃――彼のことは何でも判っているつもりだった。容姿も考え方も何もかもが彼女と似通っており、彼が思うことは彼女にも容易に想像できた。
 だが成長していくにつれ、それが間違いであったと気付かされた。彼と彼女は別の人間であり、「全く同じ」という事は有り得ないのだ、と。

――細かな差異が嫌だった。

考え方が微妙にずれることにイライラして、彼を目の前から排除しようと試みた。

だが――……出来なかった。

所詮は肉親同士。お互いに口では嫌いだと連呼していても、完全に離れる事など出来なかった。
 彼が追い詰められていくのに気付きながら、何も出来ない自分を何度も呪った。

――だから今日こそは、少しでも彼の助けになればと、ここまで足を運んだのだ。

 テーブルの前に用意された椅子に座る。目の前の透明な壁が、こちら側と向こう側と隔てている。話す事は出来ても、同じ世界に居るとは、言えない。
 向こう側で、扉が開く音がした。監視員の横を通り過ぎて、呼び出した人間がこちらへと近寄ってきた。
 白いワイシャツは少々くたびれて見える。長袖で暑くないのだろうか。左手はズボンのポケットに突っ込み、右手で伸びた前髪をかき上げながら、何を考えているのか判らない微笑を浮かべ、向こう側のパイプ椅子にゆっくりと座った。
「諒」
「よ。まさか姉さんが来るとは思ってなかったよ」
 弟は相変わらずの調子で彼女をからかう。思わず立ち上がっていた彼女も再び着席する。
「お元気そうで何よりですー。心配して損したわ」
「ほう、心配してくれてたのか」
 飽くまでふざけた態度を崩さないつもりなのか。
 否――……いつもの事だ。場所が少し違うだけで、彼はいつも通りの対応をしているだけ。

 それがいつも通りに思えないのは場所の所為だろうか、それとも――。
「……無理はするんじゃないよ?」
「? 何の話だ?」
「……惚けるなら別に良いけど」
「はぁ。――ところで姉さん、差し入れとかは無いのか?」
 どうしてそこまで無理やりに話題を逸らすのか。奇妙なまでの笑顔がまた怒りの導火線に火をつけそうになる、が、何とかとどまった。
「どうせそう言うと思って……お父さんに相談して、あんたの古い本棚から適当に何冊か持ってきたわよ。後で勝手に受け取って。あ、選択に対する苦情は受け付けないから」
 言われた彼はきょとんとしてこちらを眺めていたが、すぐに納得の表情になった。
「あぁ、ここで受け取るんじゃないのか……そうか、そうだった」
「……おじさん、差し入れ貰った事ないでしょ……」
「おじさん言うな。弁護士以外の面会自体が初だ」
「うーわ、友達居ないんだ! おじさんかわいそー」
「だから……ッ! ……皆忙しいだけだ」
「素敵な言い訳ね」
 彼がため息を吐いた。そして呟く。
「……もうおじさんでも何とでも言え」
 話はすり替わっているようだが、梨子の勝ちだ。
「ふふん。じゃあもう堂々とおじさん呼ばわりして良いわけね!」
「あぁ。但しこっちもおばさん呼ばわりさせてもらうぞ」
「なッ」
「俺のほうが年下なんだから当たり前だろ。しかし本棚なんて残ってたのか……」
 正直本棚の話などどうでも良かったが、これ以上おじさんおばさんネタを引っ張るのもどうかと思ったのでやめることにした。時間が勿体無い。
「多分だけど、緑谷に持っていかなかった分は全部残ってたよ。さすがのお父さんも勝手に売るのは忍びなかっただろうし」
 彼の本棚をまともに見たのは今回が初めてだ。一緒に住んでいた頃は『沢山本が入っている』ぐらいの認識でしかなかった。一応は専門家の父と簡単に分類してみたが、古今東西あらゆるジャンルの本が集まっていたので――どれを持ってきたら彼が喜ぶのか、全く見当もつかなかった。梨子なりに色々と考えたのだが、大事な本は緑谷に持っていったはずだとの父親の一言で全て無駄になった。
「で、何持ってきた?」
「新古今、和歌集?の何かの本は持って来たよ。どういうのかは知らない。あとは適当」
卒論の資料にしていたという父の証言を得たのだ。尤も、梨子はこの分野に関して全くの素人なので『何かの本』としか表現できないのだが。所有者ならば見当はつくだろうか。
「……!」
「選択OK?」
「多分、あれか、な……ありがとう、気晴らしにはなりそうだ」
 一瞬だったが――緊張の中にあった彼が、安堵の表情を見せた。
 梨子には全く判らないが、あれを読んでいる間は自分の世界に入れるのだろう。夢中で絵を描いているときの梨子と同じだろうか、と何となく考える。
「よし。あの本棚見てさ、初めてあんたの事ホントに学者なんだと思ったよ」
「余計なお世話だ。……でも別に学者ってわけでもないぞ」
「そうなの? たまに歌でも詠んでみたら良いわ」
 半分冗談でそう言うと、彼は嫌そうに顔をしかめた。
「……俺は解釈専門だ」
 梨子には違いが判らないのだが――『詠めない』というより『詠みたくない』という言い方だから尚更だ――、これ以上ツッコんでも無駄なのでやめておく。
「あぁそう残念。――で、調子はどう?」
「……調子、な……」
 また彼がため息を吐く。そして腕を枕にして机に突っ伏した。どう見ても寝る体勢だ。
「まぁ良いわ。あんたが現在進行形で憔悴しきってるってのは良く判った」
「進行してるのに『しきって』ちゃ奇妙しい……」
 喋る気力とツッコむ余裕はあるらしい。
「……あんたって子はホントに……」
「揚げ足取りが仕事だって何度も言ってるだろ」
 彼がようやく顔を上げた。
「ここは仕事場じゃないでしょうがー」
「……そうでした」
「そろそろ本題行くよ。良い?」
「! あぁ……うん」
 ここへは姉として雑談しに来たわけではない。
 彼女の本来の目的は、CECSを監視する立場としての夢見月家の代表として――彼と相談をすることだ。
「あんたが法的にCECSじゃないってのは聞いてるよね?」
「……夏岡さんから」
「うん、そう聞いてる。弁護士もきっと知ってるよね」
「……知ってると思う」
「きっとそれで攻めるつもりだよね」
「……あぁ」
「でもあんたはそれが嫌」
 ずっと素直に頷いていた彼の動きが止まった。
 答えない。
「……嫌でしょ? ホントはCECSなのに、ただ記録に残ってないってだけで自分だけ得なんか出来ない。
 ――思ってるよね?」
「姉さんに何が判る!」
 キレた。だがそれぐらいで引き下がる彼女ではない。
「じゃあ誰なら判るの?冬雪君?それとも織川君が良いかな。あるいは志月さんでも良いかも?」
「誰にも……判るわけないだろ……」
「そう。じゃあ弁護士先生の言うとーりに動いて喋って、上手く短期間の刑が確定したらいいですね」
 彼はこちらを睨み付けたが、答えない。
 わざと言った嫌味が嫌味に聞こえないわけがない。何かを言い返したいという気持ちも判る。だが素直に話してくれないとこちらも困るのだ。
 彼――諒也はまた、腕に顔をうずめる体勢に入った。
「相談、しに来てるんだよ。あんたが……これ以上つらい思いしないようにって思ってさ。無理しちゃダメだよ、こういう時は――素直にならなきゃ」
「……素直に、ねぇ」
「だからあたしが一人で来たんだよ。お父さんも冬雪君も、誰も連れて来ないで」
「……!」
 彼女――梨子の言葉に、諒也はハッとしたような顔を見せた。
 嫌だと言いながらも所詮は姉弟。本音を隠しても無駄な事だ。
「子は兄弟も選べない、か――」
 彼はそう言いながら苦笑して、姿勢を戻した。
「一人で抱え込んだってしょうがないでしょ? あたしは身内なんだから、頼りたいだけ頼んなさいよね!」
 いつものように言ったつもりだった。
 すると彼は、まるで幼い子供のように――安堵の表情を見せた。
「……ありがとう、姉さん」
 当たり前の言葉を返されたのに、そう思えないのはこれまでの酷い関係の所為だ。
何かを企んでいそうなほどの笑顔が逆に怖い。

 ――いや、相手は生まれたときから知っている弟だ。怖がっている場合ではない。

「そ……その意気よ。今まで散々苦労してきたんだから、こういう時ぐらい……人に助けてもらったって良いでしょ」
「……そうだな。ここ最近……全然話が進まないから、イライラしてた」
「そうでしょうね。そこへ来て大嫌いなお姉さんの登場、喜ばしくもないわよね」
「だ……」
「ひとつだけ言い訳して良い?あたしがあんたの姉だって気付かれないようにしてたの……あたしまで巻き込まれて、あんたを助ける方法を考える余裕なくなるのが、嫌だったから」
 自分のことで手一杯になったら、自分よりつらいはずの弟に手を回すことが出来なくなる。
 傷を舐め合ってもどうにもならないのだ。
「え――……」
「何とでも好きなように解釈して。――本題に戻って良いかしら?時間が限られてるからね」
 突然のことに戸惑ったらしい諒也は、神妙な顔をしつつも静かに頷いた。
「で――……嫌、よね?CECSじゃないとして扱われるの」
「……嫌だ」
「よし。もしそのまま行ったとして……同意殺人と認められれば最短で半年。対して、現行のCE法を適用していけば一番軽くて無期懲役。――その違いは大きすぎやしない?元々あんた言ってたよね、全部ひっくるめてひとつなんて奇妙しいって」
 その法律が出来て、彼は初めて世間の前に姿を出した。そしてカメラの前でそう言った。
「……でも法律は法律だ」
「守らないといけない、わね。でも今まさに改正されようとしてる」
「……内容は関係なかっただろう?社会奉仕をどうするとか、そんな話だった気が」
彼が拘置所に入ってから、既に1ヶ月が経過している。その間、弁護士からどのような話を聞いていたのかは判らないが――……どうやら、“知らない”ようである。
 彼女は堂々と告げた。
「その条項は削除、されました」
「――……え」
「あんたの主張が通ったよ。社会奉仕も確か報酬出るようになったのかな。少しずつ、だけど――……意識は、変わってきてる。ずっと頑張ってきた結果だと思うよ、諒」
「あ……それじゃ、どうすれば――」
「CECSじゃないって前提だから弁護士さん何も言わなかったのかな。まぁいいか。もしそう扱われるのが嫌ならこっちで認定するよ。記録は無いけど、お父さんの証言もあるし大丈夫!そしたら諒が引け目に思うことも何にも無いでしょ?
 ――法律の抜け穴なんか使わずに、正々堂々と戦えるよ」
 先刻からずっと神妙な面持ちを保っていた諒也が、不意に笑顔を零した。
「何だ、俺一人勝手に悩んでただけか――……はは、良いネタだな」
「もう大丈夫?」
 いつもの調子を取り戻せたのなら。
「――……あぁ、ありがとう。お陰で何とかなりそうだ」
「よし!じゃあ頑張れ。結果待ってるから」
「あぁ」
「あ――……それと」
「? 何だ?」
「……自殺なんかしたら、あの世で針千本飲ましてやるからな!」
「はぁ……!?」
 何のことを話しているのか判っていない様子である、が――……それならそれで良い。
 後から思い出して、納得してもらえれば構わない。
 梨子はまだ良く判らないと言いたげな諒也に笑顔で手を振り、挨拶の返事も聞かずにすぐにその部屋から立ち去った。

 ――晴れ晴れしい気分だ。

 今日は娘と一緒に外食でもしようか、と考えてふと立ち止まる。

(……そりゃさすがのあいつも沈むはず、よね……)

 最後の最後で、事件の内容による彼へのストレスをほとんど考えていなかった自分を恥じた。
(でもま、最後には笑ってくれたんだし)
 彼女自身、充分につらい思いをしてきたのだ。
 彼女でもそれを乗り越えられた。彼に出来ないわけがない。きっと何とか乗り越えてくれるだろう。

――あの時と、同じように。



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