東京想街道
Page.71[誰かが棄てた猫じゃらし]




   1

 葵の息子だと名乗った少年は、玲央が出した紅茶を美味しそうに飲んだ。黒ではないと思った髪色は案の定茶色だった。染めているから今は比べられないが、冬雪のそれよりは暗い色だろう。――そんな事は問題ではない。大事なのはそれが恐らく染めた色ではない事、そして少年の目が暗い青緑色をしていた事だ。
「とりあえず――……こんな時間に出てきて大丈夫だったの?」
少年はけろっとした顔で答える。
「用事があると言って夕方に出てから戻ってません。今日は帰れそうにないとメールも送ったので大丈夫です」
そうですかと頷きそうになって慌てて留まる。承諾の返事は無いのか。
「……ホントに?物凄い放任主義だなぁ」
「いつもの事なので。それに、僕の居る施設はいつもそんな感じです」
「!」
家ではなかった。
「あぁ……ごめん、お母さんが家に居るんだと思ってた。深いことは訊かないことにするけど、」
「いえ、その母の事で話をしに来たんです」
少年は強い口調で言った。どちらかと言うと、妙なまでに必死な感じがした。
「僕の母は――……結城菜穂です」
「!」
聞き覚えのある名。
それで葵が父親だと言うのなら――。しかし、彼女の事は良く知らない。関係も知らない。
「え……それで、な、何でオレに?」
「夢の中で……父に、色々な事を聞きました。僕の知らなかった事も、沢山――……でも、それが嘘だとは思えなかったんです。夢の中の話なのに……」
「――どんな話、だったの?」
『夢』が何たるかは良く判っている。
まずは話を聞いてみようではないか。
 少年は大きく頷いた。


   *


 蕨が目を覚ますと、そこは一面の花畑だった。赤、黄色、青――……こんなに広くて綺麗な花畑は見たことが無い。何処までも続く、終わりのない花畑。蕨は近くにあった紅い花を手に取って見た。見たことのない花だ。
「それはキャッツテールと言うらしい。赤い猫じゃらしみたいな……猫が猫の尻尾にじゃれる、ってね」
人の声に慌てて振り返る。背後に、見覚えのある男がしゃがんで笑っていた。
「ハロー、お久し振り蕨ちゃん。元気してたか?」
「元気してたか?じゃ……ッ」
蕨は思わず叫んで立ち上がった。道連れにして、キャッツテールの茎を2本ほど引きちぎってしまった。
「あ……」
「心の優しい子はきっと幸せになれますよって、誰かが言ってたかな」
金髪の男――死んだはずの蕨の父親――は、蕨の手からその花をそっと引き抜いて、元々生えていた地面に無造作に置いた。勿論、そんな事をしたところで何になると言う訳でもない――。
「今更……何の為に」
「何が?」
立ち上がった父は一切表情を変えず、不敵に微笑んだまま蕨に応答を求める。
その微笑を見ているのが妙に悔しくて、すぐに出てくるはずの答えが出てこない。
 思えば、とても大きいと思っていた『おとうさん』は、いつの間にか自分とほんの20cm程しか違わなくなっていた。最後に会った時とほとんど変わらない外見が、全く奇妙に感じられないのはどうしてだろう――。
「――蕨は大きくなったって事だよ」
こちらの思考を読み取ったかのような事を言い、不意に父が蕨の頭を撫でる。どちらかと言うと髪をぐしゃぐしゃとかき回すような撫で方が、昔と変わっていない――などと考えている場合でもない。
「……ッ、僕は」
もう子供ではない。と言い返そうとしたが、父が妙に真剣な顔をするので――声が、出なかった。
「俺は申し訳なかったと思ってる。お母さんにも、蕨にも。あぁ……そうか、蕨にはまだ何にも話してなかったんだったな」
「……何の話?」
尋ねると、父は「よくぞ訊いてくれた」と言わんばかりにニヤッと笑って、答えた。
「つらい話もあるかも知れない。現に蕨はつらいだろうと思う。でも……今が一番平和なんだ」
「だから何の話って……」
「『お父さんは忙しいから、なかなか家に帰れない』……って説明だった、っけか」
「……うん」
父が死んだと聞かされたのは、5歳にもならない頃のことだった。その頃は母も忙しくしていたのを良く憶えている。
 成長するにつれ、父親の名字が違う事、親戚とほとんど会っていない事など、色々と不審に思うようになった。勇気を出して尋ねても、母はまた今度と言うばかりで答えてはくれなかった。
「蕨は怒ってる。お父さんの所為でお母さんは捕まった。お母さんが罪を犯したのはお父さんの所為だ。そう疑ってる」
父の声。
図星だった。
「……ッ、どうして」
「その通りっちゃその通りだからな。彼女が実の両親を殺すまでに怒ったのは――……お前を産ませないと言われたからだ。当時は同居していた兄に救いを求めたが断られた。友人宅に泊まったところで連絡先などすぐにバレる。17歳の彼女に、両親から逃げる方法は――……それしか、無かった」
「な……んで、じゃあ、お父さんは」
「説得したって無駄だった。いくら俺が引き取ると言っても……『産ませない』の一点張り。こっちの事情も知ってたみたいだしな……引き取ったところでロクに世話できない事はバレてた。
 事があった後で……彼女のお兄さんから連絡があった。今回の件は全て秘密にするべきだ、と。両親殺してのうのうと結婚なんて訳にも行かない。こうまでしてしまった以上、子供は産ませるしかないが――とな。ドロドロ話で申し訳ないな。結婚できないとは言え俺としちゃ放置するわけにはいかないから……旅行の口実で結構頻繁に会いに行ってたつもりだった、けど」
月に一度はおとうさんに会える。
幼い頃はそんな認識だっただろうか――。
 蕨が何も言わないまま、父は静かに続けた。
「何度謝っても足りない気がする。こんな父親で悪かった……出来れば生きてる間に償いたかったところだが、時間が無かった。せめてもの償いになるかどうか判らないが、ここでひとつ提案をしたい」
変な口調で父が言う。
「提案?」
「本人がどう言うかは判らないんだが……もしかしたらお前を預かってくれるかも知れない人が居る」
「かも知れないって……」
信用ならない。
父は苦笑して、顔の前で両手を合わせて謝った。
「あーうん、可能性の話になって申し訳ない。でも……あいつが天下の葵様のお願いを断る訳がないと思うんだな」
一体この人の何処からこれほどまでの自信が来るのだろう。
だがここまで断言してくれるとこちらとしてはありがたい。



――そうして蕨はここへやって来たのだ。


   *


「……馬鹿兄貴め。やる事がハチャメチャすぎるんだよ……」
何が『天下の葵様』だ。いくら夢の中の人間だとしても、そんな事を言うのは彼ぐらいしか居ない。
「あの……駄目、ですか?」
蕨が不安げな顔で言う。
「や、オレとしては何とも言えないんだけど。手続きの事とか良く判んないんだけど、そんな簡単に引き取れるモノ?」
「ふゆっきー、一応叔父さんだよね?だったらそんなに大変じゃないんじゃないかな」
横から玲央が口を挟む。
「そ、か」
「訊いてみれば案外すぐかもよー。蕨ちゃんは乗り気なの?って、乗り気じゃなきゃわざわざ来ないよね」
「あ……はい。でも、無理を言う気は」
どちらかと言うと。
「うーん……こっちから無理言うことになる気がするんだけど、あいつちゃんと考えてんのかなぁ」
「え?」
「ちょっと訊くけど蕨君」
名を呼ぶと、蕨は少し畏まってこちらに目を向けた。
「これが居る時の食事はこれが作、……ったたたた殴るな玲央ッ」
「これって何よ!玲央は玲央でしょ!もうッ」
手加減なしで何度も殴られると非常に痛い。
と――蕨が呆気に取られている。
「……で、居ない時は自分で食料調達してもらう事になるけどOK?料理が無理ならコンビニぐらいは付き合うけど」
一緒に優雅に外食しようぜとは言えなかった自分が切ない。玲央に殴られるのが怖かった訳ではないが。
蕨はにっこりと笑って答えた。
「え……家があるだけでも充分です。食事にこだわってなんか居ませんから」
「なら良かった。あと1つ――……ここに住むとなるとゴタゴタ真っ只中のそこの中学校に行く事になるけど大丈夫?」
「ゴタゴタ……真っ只中?」
意味が通じなかったらしい。当然か。
「現校長失踪、数日前に姿を現したものの――……」
「ふゆっきー、何その、逆接」
きょとんとした蕨、不安と怒りを露わにして迫る玲央。
「……ゴメン、まだ詳しい事は判らないんだ。でも……バタバタしてるのは、事実。問題ない?」
「……良く判らないですけど……でも、生徒にそこまで大きな影響は無いですよね?だったら、大丈夫です」
蕨はそう言ってわざとらしく笑って見せ、
「ついこの前まで通ってました。事件のことで戻りにくいなんて事もないです、戻れるんなら、喜んで戻りたいです」
 少々遅かった気もするが――……葵がこんな提案をしたのは、もしかしたらその為だったのかも知れない、と思うとまた笑いがこみ上げてくる。
(あの親馬鹿兄貴めが)
 いつまでも東京に居座っていたのは子供と過ごす為。本当に旅行に行っていた事もあるのだろうが、半分は嘘だったと思って間違いないだろう。
 言われてみれば少し彼に似てるかな、とほのぼのした気分になっているところに、玲央が耳打ちで尋ねてきた。

「で――……こーんな時間まで、何しに行ってた、ワケ?」

背筋が凍るような思いだった。
正直に話すしかないか――……冬雪はため息を吐き、彼女に真実を話した。


   *


 拘置所の硬いベッドに横たわり、暗い天井を眺めながら考える。

――……少し……言い過ぎた、かもな。

今日も弁護士が接見に訪れた。
よく毎日毎日、進展しない話のためにここまで足を運べるものだ――と思う。

仕事だから、なのかも知れない。
だが――……それだからこそ、彼らが頑なになってこちらを説得しようとする理屈がわからないのだ。

こちらが厭だと言っているのだから、「はいそうですか」で済ませてくれればいいものを――。



『――結論を先延ばしにしたいんですか?何度やったって無駄です、どうしてそれが判らないんです――』

こんなに感情的に喋ったのは何年振りだろう。
もはや覚えていないぐらい昔以来だろうか――。

『落ち着いて――』
『お引き取り下さい、話し合うべき事はもう充分話し合いました!これ以上私に何を求めるって言うんです?』
『貴方は普通の被告人とは違、』
『違うから……違うから、もう良いって言ってるんです!』
机を叩いて叫んだ途端、目の前の弁護士は一瞬目を見開いて黙りこんだ。
 数秒間、沈黙が続いた。
『――三宮さん、』
『……その名前で呼ばないで下さい……まだ……落ち着かないんです』
『では岩杉さん――……立たされた状況は普通の被告人とは違いますが、我々は貴方の事を信頼しています。今まで貴方が世論を動かしてきた。法改正も良い方向に進むでしょう』
『良い方向に?……その私がこうして人を殺してるんですよ?あなた方は何も知らないからそんな事が言えるんです――』

もう耐えられなかった。
諒也は席を立った。
『とにかく――……控訴はしません。その点に関しては、絶対に譲りませんので』
どんな結果が出ようとそれを受け入れるまで。
弁護士はまた来ますと言って去った。
その空間に、ため息だけが残った。


――……落ち着かないのは環境の所為か、それとも置かれた状況の所為か。

あるいは――自らの手でしてしまったことへの罪悪感、か。

「何を今更――……だな」

馬鹿馬鹿しい。


やはり――……狂って、いるのだろうか?


――少し疲れたんだ――……休まないと――。


彼の意識はそこで、途切れた。


   2


 家に新たな家族が来てから一週間。師が自分の前から姿を消してから、同じく一週間。
 しんみりとした空気は、この店にはとても似合わないものだと思った。
「やぁ――秋野君、こんにちは」
志月はいつもの笑顔を見せるが、どこか寂しそうな目をしているような、気がした。
「……こんにちは」
いつも『彼』が座っていた席には誰も居ない。冬雪の指定席と『彼』の指定席が空いていて、胡桃と詩杏がまるでカウンターを避けるような――奇妙な席に着席していた。
 このメンバーでここを訪れるのは、何年振りだろうか――。
「冬雪、いつの間に元に戻したんだ?髪」
「いつの間にと言われても……一昨日だよ」
何の意図があって尋ねたのか、答えを聞いても胡桃は「ふぅん」としか言わなかった。だからと言ってそれに反応しても意味は無い。こうも長い付き合いだと、思ったことが全て口をついて出てしまうと言うだけの話だ。
 冬雪はいつもの席に座った。
「ホントに君たちは相変わらずだね。はいお茶」
「――ありがとう」
他人に相変わらずだと思ってもらえるのなら大丈夫なのだが。
「この1週間、世間もテレビもこの話題で持ちきりだね」
「ほとんどテレビ見てないよ――」
「だろうと思った」
志月の言葉に呟くように返した冬雪に、胡桃が横槍を出してきた。
「見たって不満が募るだけ、こっちから何か言えるって訳でもない。憶測で物を言う世界、だろ」
「……胡桃は見てたの?」
「親に付き合う程度にな。色々言われるの俺だからホントは替えたかったけどさ。霧島は割と興味深く見てるクチだろ」
突然話を振られた詩杏は一瞬驚いた顔を見せ、苦笑して答える。
「まーね。兄さんが何言おうと関係ないし……。あの人たちが憶測なんも……それは、しゃあないことやし。あたしに何が出来るってわけやないけど、何か進展があったら知りたいし」
「進展と言える進展は無いけど、な」
会話が止まる。碌に報道を見ていない冬雪には進展が無いと言われても良く判らない。
「とにかく控訴はしないの一点張りみたいだね」
志月が話に加わる。
「でも結果次第では検察の方が上げるだろ」
胡桃が反応する。
「それは彼も承知済みじゃないかな。彼が言いたいのは、つまり――」
「『一審で死刑だとしてもそれを受け入れる』ってこと、ですね」
途中で詰まった志月の言葉の続きを詩杏が繋いだ。
判りきっている事だとしても、敢えて言葉として聞くのはつらい。
「……そんな結果……出るわけが無いんだ」
聞いたことの無いような――低く小さな声で志月が呟いた。不思議に思って表情を窺うと、寂しいと言うよりはどこか苦しそうな感じがした。
「大丈夫?」
「ん、あぁ……ゴメン、大丈夫だよ」
思ってみれば志月は遺族、当事者だ。つらくない訳がない。被害者も加害者も、幼い頃からの深い仲で――。
 それでも彼は傍観者を貫くつもりなのだろうか。紙の上でも実際にも、冬雪たちよりもよほど彼に、彼女にも近い存在であると言うのに。
「本当はボクがいけなかった。彼はボクに対して悪く思ってるみたいだけど――……逆だ、ボクの方が彼に悪い事をしてきた。でも……言えてない。君たちには言ってなかったかな、彼が……来たんだ。警察に行く前に、ね」
「オレに会った後?」
「そう、深夜に家を訪ねてきた」
迷惑な。という問題ではないか。
 志月は続けた。
「ボクに事実を伝えてから出頭しようとしたんだろう――……ボクが出て行ったら、急に気まずそうな顔をして、搾り出すように一言『ごめん』と言って……ボクが止めようとしても聞かずに走って出て行った」
冬雪と話していた段階ではそこまで動転していなかったと思ったが――やはり平常心とは言えなかったということか。
 しかし志月が悪かったと言うのは一体どういう意味だろう。
「ボクは何も知らなかった――……何も知らずに彼と接して、ミカコにはあんな事を吹き込んで――……」
「どんな事を?」
「……彼には……、絶対に話さないと約束してくれるかい?彼が知ったら……もしかしたら、本当に取り返しのつかない事になるかも知れない」
「どんな?」
「夢で見るんだ――……この前みたいに彼が深夜に訪ねてきて――……笑いながら、ボクの目の前で、自殺する」
「……!?」
「どうして、そんな――……でも、志月さんには思い当たる事があるって事ですよね」
詩杏が問い詰めると、志月は大きくため息を吐いてから、答えた。
「彼には絶対に言わないでくれるね?」
「内容にも、よるけど」
「……自殺するって言うのは『ボクの為』なんだ。そんな風にさせたくない」
「言ってみてくれよ。じゃなきゃチンプンカンプンだぜ」
胡桃が苦笑した。何度か頷いて、志月は口を開いた。
「――100年以上前のことだ。ボクの弟が……血を分けた実の弟だ。彼が、ヒトと交わった事を知った」
「それは、つまり」
「子供が産まれたんだ」
先日の尚都の言葉を思い出す。尚都でさえ志月の言葉を覚えているのだから、恐らく未佳子はもっと頻繁に耳にしていただろうと思われる。
「ボクはそれで弟を見捨てた。自分で責任を取れと言ってね。でも――……何とかしようとする意思は感じられなかった。ボクは維恩……玲央と隙を見てその子供を殺すか、こちら側に連れて来るか、どちらかの方法で何とかしようと考えた」
「殺……」
100年は苦しむ事になるから交わるなとよく言っていた、と尚都は話した。
 100年間苦しんだのは志月の弟ではなく、志月自身――。
「でも出来なかった。玲央も同じ境遇にあるその子を殺すまでは出来なかったようでね――……成長を待って色々と説得して、結果としてその子は全てを受け入れて生きていくと言ってボクらの前から去った。
 それで上手く行けばいいんだ。でもそうじゃない。ボクらは人間に紛れることは出来ても、人間になることは、出来ない」
「それで――……?」
「ボクと長く暮らしている家族は……皆『鋭く』なっているようでね。だからボクとしては、人間である彼女たちにも、人に非ざる者ボクらと交わるなと日頃から言ってたワケだ」
当然のことなのだろう。
「……もう判るね?」
「え、ど、どういう事」
「彼が『そう』だという事に……あの子は、ミカコはもう随分前から気付いてたんだろう。ナオトが判ったんなら当然だ――。でもボク自身は気付いていない。彼自身も気付いていない。だからそのまま彼女は気付かない振りをした。『気付いて』しまったら……結婚なんか出来なくなるからね。最初はそれで良かった。でも……彼が行方不明になって、ふとボクの言葉を思い出したんだろう――気付いていなかった彼に責任は無い、ボクの言葉を破ったのは自分の方だ、彼が居なくなったんなら自分が責任を取らなくては――とでも」
冬雪が諒也に話した『可能性の話』を思い出す。
死んだと思ったから、殺す決断が――出来たのかも、知れない?
「そんなの――……ッ」
「全てボクの憶測ではあるけど、ね」
「だとしたら話すべきだ。当事者の先生が何も知らないのは不公平だろ!?」
立ち上がって胡桃が叫んだ。
「でも話してどうなるかは――」
「あぁ判らないよ、判らないから話すんだよ。ちゃんと話せば判ってくれるし、自殺なんてしない、俺は信じる」
「でも――」
「志月さんは当然のことを言ってただけだ。別に悪くなんかない。誰かを殺せとか言ってたわけでもねえのに」
「先生は誰かの目の前で自殺なんかしないよ――……自分がされて嫌だったことは、やらない。死んでも構わないとは思ってるかも知れないけど、そういう嫌がらせは、しないよ。それに」
割り込んだ冬雪の言葉で志月はようやく落ち着いたらしい。
「……それに?」
「その話だとしたら……わざわざ死ぬ意味は、無いしね。妖怪扱いされるのは嫌みたいだったけど、要は血が続かなきゃいいんだから。今は先生の方が引け目に感じてるんだろ?だったらお互い様で終わった方が楽だと思うけど、な」
志月はうつむいてため息を吐く。
「人間になることは出来ない――」
「先生だってそれは考えてるよ」
「自分が――……夢見月にあの事件を起こさせた張本人の血を引いてると知っても?だからボクはあの子を……弟の子を自由にしたのを後悔してるんだよ」
あの事件と言うのは――夢見月家の名を世に知らしめたビル爆破事件の事か。
「今でもあの事件の事は良く判っていないだろう……裏には弟とその子が噛んでた。元々CEを創り出したのも弟だ。そして彼はその弟の血を、引いてる」
「……今更何言ってもしょうがないじゃん。その人が今どうしてるのかは知らないけどさ、先生は……先生だし。どっちかって言えば被害者の方なんだし。自分は人間だって言い張るくらいなんだからそんなの気にしないだろうし、志月がその人探すつもりなら――……手伝うんじゃないかな。夢見月のことはこっちのことだしさ」
「…………」
志月は何も言わなかった。
ただうつむいたまま、何かを考えている仕草を見せるだけで――……何かを言おうとはしなかった。
「とにかく裁判の結果待ち、やね」
「だな」
「……うん」
やはり何かが足りないような感覚は拭えなかった。

   *

 どこまでも続く蒼い空。ゆっくりと流れる白い雲。穏やかな風。天国があるとすればこんな場所だろうかと思えるところに――むしろ本当に天国か――、彼は座っていた。
「偶には外の空気も吸いたいでしょ」
背後からの声。慌てて振り返ると、そこには金髪の男が細い葉を銜えて寝転がっていた。――葵だ。
 葵が起き上がる。
「――皆が先輩の事を心配してる。で、ご本人の意見も聞こうかと思った次第であります」
「俺は隊長か」
「よっキャプテン!」
この期に及んでまだふざけるつもりなのか。
「……葵」
「判ってます、部長」
「…………副部長」
「はぁい」
「どうしてわざわざ呼び出した?」
「ちょっと外に連れ出してみるのも良いかなーと思ったから。狭っ苦しいでしょ、あの部屋じゃ」
「そういうもんだ」
「一日中取り調べと弁護士との進まない相談。いい加減うんざりと言うよりそろそろ限界?」
「…………」
「誰か、弁護士先生とかじゃなくって、別の人と話したかったんじゃないかなと思って」
「……ここに来たところで……今生きてる人間とは話せないだろ」
葵が立ち上がる。その手に持っているのは、猫じゃらしのようだが違いそうだ。紅い。
「生きてる人間は、ね」
こちらに振り返りながら、葵は不敵に笑った。
「――死んだ人間なら別です」
「……でも全員に会えるわけじゃ」
「えぇ勿論全員じゃない。でも僕もだんだん掴めてきたんです。誰かをここに呼び出す事……例えば先輩をここに連れてくる事も、簡単に出来るようになった」
「それとこれがどう……」
にっこりと微笑んだ葵は、「まぁ来て下さい」と呟いて諒也を立ち上がらせた。
 葵はいつものログハウスに向かって歩いていった。先刻の紅い猫じゃらしは持ったままだ。何か意味でもあるのだろうか――。
 草原の中のログハウス。夢だと判っていても異様にリアルなこの世界に、ぽつんと立つたった一つの『家』。尤も、この世界が一体どこまで広がっているのかは見当もつかないが。
「さぁ、時間です」
葵が扉を開き、中へと足を踏み入れた。諒也もそれに続いた。室内からは何人かの話し声がする。以前にここへ来た時には、鈴夜が1人居ただけだったと思ったが――。
「――!」
「これが得策だったのかどうか、僕には判りません――……まぁ僕がやった事でもないですし。全ては神のみぞ知るってヤツです」
葵がそう言い終えると同時に、視線の先に居た人間がこちらに気付いた。
「パパ……?」
「――志織」
名を呼ぶと、娘はにっこりと笑ってこちらへと走ってきた。膝をついて、駆け寄ってくる彼女を迎える。
 既に死んでいるということが信じられないほど――……彼女の身体は、温かかった。
「良かった、もう会えないと思ってた」
「あぁ……俺もだよ」
「パパも死んじゃったの?」
彼女はどこまで知っているのだろう。どこから知らないのだろう。
 葵のほうを見やると、彼は「僕は何一つ教えていません」と答えた。
「いや……死んでない、ちょっと遊びに来ただけだ」
「そっか、良かった。パパもママに殺されちゃったかと思ってたよ」
子供は時に――恐ろしい事も平気で口にする。
「……志織」
「? なに?」
「志織は……つらくない、のか?」
「どうして?今は皆が居るから楽しいよ。パパにも会えたし」
「……家に戻らなくても平気、か?」
「……戻りたく、ないよ」
泣く。これはまずい――。
「先生」
高い、子供の声が割って入る。――鈴夜だ。
「大丈夫です。僕が――ついてます」
「おうおう鈴坊、大人ぶって。ちょっと年下の子が来たからって調子乗ってんなよ?」
「お、大人ぶってるわけじゃ……!僕だって生きてたらもう23で、」
「10年も寝てた奴が何を言う」
「痛ッ」
変わっていない。奇妙なほどに変わっていない。
「いつもこうなの。でも喧嘩じゃないんだって。よくわかんない」
「男同士だからな……しかし良く似た兄弟だ」
「そぉ?」
「間にもう1人居るんだ、まだ生きてるんだけどな――そいつに良く似てる」
「パパのおともだち?」
「おともだち――……かな」
ふぅんと言って、志織は一瞬黙った。
それからすぐにまた、思いついたように話を再開した。
「――ママはどうしたの?捕まったの?」
必ず通らなければならない道、か。
だが正直に答えて良いものか――。
実の母親を実の父親が殺したという事実が――子供の目にはどう映るのか。
「捕まったのは……俺の方だよ、志織――……ママを、殺したんだ」
彼女は呆然としてその場に立ち尽くしていた。
「……どうして?志織たちを殺したから?」
「まぁ……そう、なるかな」
「パパは人殺したことないって言ってた」
「……前にな」
「悪い人じゃないって証明しないといけないんだって」
「……あぁ」
「パパ悪い人だって言われてもいいの?」
良い訳が無い。
「じゃあ志織は」
幼い娘は寂しそうな目をこちらに向けて続きを求める。
「ママがひとり悪い人だと言われても平気なのか?」
「……悪い人にはなって欲しくなか、った、よ。でも……ほんとのこと、だから」
「それは俺だって同じだろ」
「でもパパもママも悪い人って言われるのは、嫌」
「片方なら良いか?」
「……そんな事は、ないけど、でも」
両方よりはマシ、か。
「親が子を殺し子が親を殺し、親同士が殺し合い、子同士が殺し合う。僕らはそんな環境に居ました。正気でいた事の方が奇跡です。そんなのはもう沢山――……だと、思いませんか」
唐突に葵がそう言った。
志織はよくわからないような顔をしている。
「……そりゃそうだ」
「志織ちゃん」
「! 何?」
「君のご両親は悪い人だと思うかい?」
妙な口調で葵が尋ねる。
「おもう」
「どうして?『人を殺したから』?」
志織は頷いた。
葵が続ける。
「――君自身はどう思う?君が思う2人は『悪い人』?」
客観的事実ではなく、主観的に見た場合――。
「ううん」
「じゃあ君は認めたくないけれど2人が悪いと認めているわけだ。でも……君だけでも、素直で居たら良いんじゃないかな」
「?」
「2人を信じてあげて欲しい。本当に悪いワケじゃない、ってね。僕も一応親としてね――……子供に信じてもらえないのは、つらいから」
話を聞き終えた志織がこちらを見る。そして呟く。
「……ごめんなさい」
「志織は謝る事無いだろ。謝るのはこっちの方だ――……」
志織は急に泣き出して、抱きついてきた。
「……怖かったよな。痛かったよな」
泣きじゃくりながら彼女は何度も大きく頷いた。頭を撫でると、彼女は涙を拭いながら顔を上げた。
「……ずっとここには居られないんでしょ?また来てくれる?」
「あぁ、またな」
「それまで僕らが責任を持ってお預かりします、お父さん」
敬礼をして、笑いながら葵が言う。
「よろしく頼んだ」
「パパ」
「ん」
「志織のこと好き?」
「何をいきなりそんな、当たり前の事を」
「ママのことは?」
試しているつもりなのか。


「――好きだよ」
「よかった」
再び彼女が抱きついてくる。もう少し大きかったらこんな事は無いのだろうか、と関係の無い事が思い浮かぶ。
「おーおー素敵な親子愛。うらやましいなあもう、かあいい娘さんが居て」
「葵君には蕨君が居るじゃないですか」
「息子と娘じゃ何かが確実に違うんだよお前には判らないかも知れないけどな。いや勿論蕨が可愛くないと言うわけではないがッ!世界で一番可愛い息子だがなッ!」
鈴夜がため息を吐いている。見事なまでの親馬鹿が炸裂している様子だ。
「娘じゃなくても『かあいい妹』が居るだろうが。さっきからずっとそこで話に入る隙を窺ってたみたいだが」
「いや……その、妹と娘ともまた微妙に違いがあるわけで、」
「今更娘が欲しいとか……何様のつもりですか。蕨君に女の子が生まれるように祈るぐらいしか出来ませんね」
呆れた様子の梨羽が言った。孫、か。
「待て、そんな先まで行かなくとも冬雪が――」
「はい?」
「え、あ、いやぁー、何でもないよ!さてと先輩を送ってこようかなっと!」
葵が逃げる体勢に入る。
「じゃあ……また今度な」
「うん!」
「葵――ありがとう、見送りは要らないよ」
「いやいやそう言わずに!送りたい気分なんです!」
「お兄様……別に私怒ってませんよ?」
「――判ってる、端っから冗談だ。あいつはもうそういう事考えてない」
席を立った葵は梨羽の返事を待たずにこちらに歩いてくる。諒也は残る3人に手を振って、先に出た葵について外に出た。
「彼女が救いになればと思って――……呼んで、みました」
「あぁ……ありがとう」
葵はポケットに手を突っ込んで、草の上をゆっくりと歩きながら小さくため息をついた。
ログハウス入り口の階段の下に立ったまま、諒也は葵の背中に声を掛けた。
「ここにはまた――……来られる、よな」
聞いているのかいないのか、しばらく葵は全く動かなかった。ただ穏やかな風に吹かれて彼の金髪が揺れるのを静かに眺めた。
「――貴方次第です、先生」
にやりと不敵に笑った葵がこちらへ振り返る。
「ここには『来る』んじゃない。貴方が僕たちを――……貴方の中に居る僕たちを呼び出すんです」
「それじゃただの夢だ」
「ただの夢で良いんですよ。ただの夢に……違いないんですから。ここで何をしたって、僕が何を教えたって、全ては夢の中の出来事。現実とは違う」
「葵」
「過信は禁物ですよ、先生――。ひとつだけ、伝えておきます。貴方が重荷を背負う必要は無い。死んでも何も解決しない」
「……自殺する予定はないが」
葵はくすくすと笑った。
「形式上は他殺……ですかね」
「……それは」
「死んで終わりにするつもりですか?」
「いや――」
「なら良かった。もしかして死刑を望んでるんじゃないかと心配してたんです」
また妙な口調で、変なことを言う。
「苦しい時は我慢しないで。俺が草葉の陰から見守ってます」
一人称が僕から俺に戻った。一体どういう意味があるのだろうと毎回考えるのだが、それらしい答えは出てこない。
 諒也は少しだけ笑って、それを返事にした。
 ここを介せば、死者たちと話せるだけでなく外界と繋がる事も出来るだろうか――……かなり手間は掛かるがありがたい。何か不穏な空気があれば葵が伝えてくれるだろう。勿論言われたとおり過信は禁物なのだろうが。
「グッドラック。がんばってる先生にプレゼント」
「? さっきの」
紅い猫じゃらしを2本、差し出されていた。思わず受け取って気付いたが、妙に元気が無い。摘まれてから時間が経ったのだろうか――しかしここには時間の概念が無いのではなかったか。
「大事な生徒さんたちが貴方の帰りを待ってます。俺の息子も含めて、ね。それじゃまた今度、会えたら」
「え――」
葵の息子――蕨と言ったか?――と話した覚えは全く無いのだが――返事をする間もなく景色は揺らぎ、諒也はその場所から姿を消した。


「わらび――……結城、蕨、か。さんねん…………5組の」
気が付けばいつもの天井がそこにあった。
「葵にも悪いことを……したのかも、な」
時刻はいつもの通り、午前5時。
諒也は上体を起こし、また面倒な1日が始まる憂鬱に――深く、ため息を吐いた。



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