東京想街道
Page.69[優しき悪魔に宝石を]




   1

 雨の音が聴こえた。布団の中は暖かく、冷たい空気の外界とは全くの別世界のように思われた。
目が覚めているのかいないのか、それすらも良く判らない混濁した意識の中で、彼は雨ではない何かの音を聞いた。

――電話だ。電話が鳴っている。

出なければ。彼は布団から抜け出しベッドから転がり落ちると、痛みも気にせず音の鳴る方へ、急いで部屋を飛び出した。

が。

次の瞬間、爆弾が落とされたのではないかと思うほどの轟音が響き渡った。

「…………ってぇ……」

――彼は階段の下に転がっていた。

何の為の習慣か。何年経っても懲りない自分が情けなく思えてくる。
万が一落ちた時のために階段に絨毯が敷いてあったのがせめてもの救いだった。
「電話……出ない、と」
まだベルは鳴り続けている。演出ではない階段落ちですっかり目が覚めた冬雪は今度こそ急いでリビングの扉を開けて電話を取った。
「はい、久海で、す」
『秋野君?朝早くから悪いね、三宮です』
「! 志月!電話なんて珍しい……玲央どうかした?」
『その玲央の事なんだけどね』
何かあったのだろうか。
色々な可能性を頭に浮かべながら、話の続きを待った。
『誘拐、されたみたいなんだ』
「……へ?アレが誘拐?な、何でまた、ていうか誰に」
『多分尚都に、でも……彼自身の意思かどうかは判らない。もしかしたら裏に誰か居るのかも知れない』
「……判った。で、何で誘拐って判ったの?電話か何か……」
『うん、今朝電話が掛かってきてね。殺すつもりは無いし殺せる気もしないって言われたからそこまで心配はしてないけど』
少し可哀想だと思ったが気にしないでおく。
「……そか、連絡ありがとう」
『呼び出しの件、今日だよね?』
「うん」
『今更何言っても無駄なのかも知れないけど――……無理はしないようにね。それから、落ち着いて』
「……うん」
それ以上は、何も言えなかった。
普通に挨拶をして、普通に受話器を置いた。

ため息がこぼれる。
何故自分はこんな事をしているのだろう――。

平和に過ごせればそれでいいと思ったのではなかったのか。

「朝飯……どうしようかな」

トーストでも焼いて食べればいいか。
冬雪は人気の無いダイニングのほうへ向かって歩き出した。

   *

 紫苑町を通る私鉄は、緑谷の人間が普段使う線とは別のものだ。それでも待ち合わせる場所としてはバス停よりも駅の方が判りやすいという理由で、冬雪はやや強制的に駅前のバス停で下ろされた。
「よ、案外早かったな」
バス停の横のベンチに座ってニコニコと笑いながら蒼髪の男が手を振る。あの彼だと判っていても――……何故か少し、落ち着かない。イントネーションの所為――では、無いだろう。
 だが今はそんな事を議論している場合ではない。
「……この次のバスだと遅れるんだよ」
30分に1本の世界ではよくある事である。
「だったら時刻設定の段階で文句言いや」
「紫苑行きのバスの時刻表なんていちいち覚えてません」
「車の免許でも取ったらどや。お前オレよか外出るやろ」
「……タイミング逃したんだよ、日本に居なかったから向こうのしか……。せ、朝霧さんだって持ってないじゃ」
「原付あるよ」
にっこりと笑って返答された。妙に自慢げである。
「……バイクかよ」
「実家で乗る。割に田舎やから徒歩移動はキツイし。ま、何にせよこの状況じゃ乗れへんけどな」
途中から小声になった。免許を確認されれば生きている事がバレる。
朝霧が立ち上がり、人の少ない通りのほうへ歩き始めた。冬雪も彼に続いた。
「さて――……向こうからの時刻指定はあらへんかった……んやな」
「そう、だからちょっと困ってる、けど、いつ出てきたの?」
「7時。鉢合わせは嫌やなと思て……しかし相手も相手やで、もしオレ居たらどうするつもりやってんやろな」
早すぎる。
「……人質が増えるだけじゃないの」
「……ほー、ええ度胸やな」
「……まぁね。あぁ、言ってなかった――……玲央が誘拐されて人質になってる」
朝霧が歩みを止めた。
「……何やて?」
サングラスを外し、こちらを睨み付ける。
「だから……玲央は戦力外」
「それどころか助けないといけないって話か。ったく、巧妙なモンだな……俺の事は警察に拘束させるつもりだった訳だろ。もし俺が逃げてなければ、完璧にお前は1人だ。確実に不利」
「まだ……相手が誰かは、判らないよ」
彼はその返答を聞いて少し微笑むと、サングラスをくるくると回しながら妙に軽い調子で返答した。
「いーや、多分間違いない、彼だ。警察内部を操れて、人を誘拐させられて――……明らかに警察組織のトップに居る者、元警視総監の久海蒼士と考えるのが妥当だろ」
「! 爺さん!?」
「大声出すな。このタイミングで改竄を発表したのは……俺を戦力から外すのが目的だ。実力の上じゃ確かにお前のが上かも知れないが、恐らく俺に与えられてた役割は――秋野を護る、騎士役」
「護る……?」
「秋野が中学に入学してきた時の校長が――……事情通で、な。まぁ後から聞いた話なんだが……俺がCECSだって事も知ってて、噂の『夢見月家の生徒』をわざわざ俺に担任させたのも――……意図的。問題児が他クラスにバラけたのも、俺の手を煩わせない為」
「そんな――」
全ては誰かの手によって決められた事だったと言うのか。
偶然の奇跡とやらは全く存在しなかったのか。

何故か――……妙に、空虚な感覚を覚える。

にっこりと微笑み、再びサングラスを掛けて朝霧が言う。
「まぁそんなのは夢見月って時点で絶対にある事。お前が今ここでショック受ける話やないぞ」
「……う……うん」
「さて、暇やな」
「……暇と言えば……まぁ、暇、だけど」
「武器は何持ってきた?」
「え……使うかどうか判らない、けど、一応夢見月の」
ウェストポーチを押さえて中身の感触を確かめる。
「……。出来れば使わんと済ませたいってトコやな」
「まぁね。今回のは警察に言うわけにいかないしさ」
「OK……せや。『朝霧陽月』ちゅう名前の由来、教えとこか」
「由来?」
そんなものがあったのか。と言うより――……好きな名前を適当につけただけではなかったのかと驚く。
黒いスーツのポケットに両手を突っ込んだ状態で、朝霧は妙に身軽にくるくる回りながら楽しそうに話した。
「そ。元々は姉さんが仕事と別に、趣味で描いとった漫画の主人公でな。トリコが――……ああ、奏梨の事や、判るか?」
「ああ……従妹、だね」
銀一と梨子の一人娘。朝霧から見ると姪にあたるはずで、確かまだ高校生ぐらいだ。
何故トリコと呼んでいるのかは訊かないでおいた。
「あぁ。トリコがその、主人公が――俺に似てる言うてな。いつ頃かな、もう随分前やけど――……それからトリコはずっと俺の事『陽月ちゃん』言うてな。姉さんも面白がって、トリコが居る時はそう呼んで」
親類同士の平和な風景。
何故か、妙にうらやましかった。
「――……似てるの?その、主人公」
「いいや。似てへんと思うよ――俺は、ね。
俺は、お偉いさんと裏組織のボスを同時にこなしたり出来ないからな」
後半だけ関西弁モードを解除して彼が言う。
そういう『設定』だと言ったのはそういう事かと理解する。

そして、自分は朝霧を演じているだけであって、朝霧本人ではないということなのだろうか――。

「そろそろ――ゆっくり歩きながら行きますか、決戦の場所へ」
おどけた調子で、諒也ではない彼が言う。

「そう――……しますか」

『朝霧陽月』に話し掛ける時は敬語で。
何となく、いつの間にか、自分の中で――そう、決めていた。


孤独な彼は、何も言わなかった。

ただ陽気な“ボス”を演じながら、軽やかな足取りで進んでいくのみだった。


   2


 薄暗い工場跡。重そうな扉を、朝霧が易々と開ける。紫煙を燻らせながら、まるで緊張の欠片も見せずに彼は進んでいく。冬雪は慌てて彼の背中を追いかけた。その足音が、響いた。
「こうも見通し良いのに……何処に隠れてやがる」
「中じゃ、ないんですか」
「せやろな。ッたく、人の生活スペースをむげにしよって」
「生活スペース……」
「……察しろ」
「……察しました」
どうやら朝霧として隠れていた間、ずっとそこが居住空間だったという事らしい。
隠れるならばアジトは最適、と言ったところか――。警察もここがアジトというか本拠地であると言う事は認識しているから、もし捜査の手が及んだとしても朝霧自身が「来ていない」と証言すればまず見つからないだろう。
「でも変な話やで……ライバルちゅうても過言やないDRTのアジトをわざわざ待ち合わせ場所にするなんて、」
「変で悪かったな。なかなか都合がいい場所だったんでね」
「!」
管理人室から男が一人現れた。
ぼさぼさの髪は真紅に染められ、鋭くこちらを睨み付ける。見覚えがある。彼だ。
「あんた――」
「どーも、ハジメマシテ、そちらさんはコンニチハ。三宮尚都です」
「……こんにちは」
会話が止まる。互いに何かを牽制しあいながら、何かの進展を求めていた。
数秒経って、朝霧が呆れ顔で切り出した。
「で……どういうつもりや?アンタに訊いてもしゃあないのかも知れへんけど」
尚都が苦笑する。
「今日で決着を付けようってこった。言いたい事はわかるだろ?」
「……決着を、な」
隣で朝霧がそう呟くと、正面の尚都はにやりと笑って右手の指を鳴らした。
と同時に管理人室の扉が開き、2人の人影が姿を現した。
「……!!」
冬雪は思わず絶句し、慌てて隣に立つ人間の方へ振り返った。
「……ほう、そう来るか」
落ち着いた声。
だんだん――……混乱してくる。

――現れたのは泊里と玲央。誘拐されたと連絡のあった玲央は後ろ手に縛られているようで、その紐の端を泊里が握っていた。

「どうして……泊里君が」
「まぁ詳しい話はまた後で――。で、とにかく今日はそちらさんに話がある訳だ。えーっと何から話すんだったかな……まずは俺の話か」
尚都はわざとらしく咳払いをして――……静かに、話し始めた。

   *

 信じたくなかった。
今目の前にいる人間が、自分たちの家族の輪に加わっていたかも知れないという事実が――怖かった。
「全てが計画通りに動いてた。俺も、葵の兄貴も、梨羽でさえも」
「何の為に?『計画』って……あお、や、梨羽も言ってたけど、オレの為とか何とか……でも何の事だか」
「後はワシが説明しよう、尚都はこちらに戻ってきなさい」
「!」
まだ居たのか。
次に現れたのは見覚えのある老翁――久海蒼士だった。
「……元警視総監のお出ましですかい」
朝霧が低い声で呟いた。
やはり彼の予想通りだったという事か――。
「はは、いかにもワシが久海蒼士だよ」
「貴方が――……『計画』の、主謀者だった、んですね?」
恐る恐る切り出した冬雪に対して、祖父はニヤリと笑い、そして声を出して笑い始めた。
「ああそうだ、『計画』の主謀者はワシだ――そしてそれは今も続いておる。まだ終わってはおらんぞ」
葵が苦手だと話していた祖父は不敵な笑みを浮かべる。
「今日が『計画』最後の日……あるいは締め、ってところですか」
「さぁ、それはまだ判らんよ。全てはお前次第だ、冬雪。『計画』がどうなるかは全てお前に掛かっておる――」
そんな事を言われても、何と答えればいいのか判らない。
冬雪が黙り込んでいると、蒼士は勝手に続けた。
「しかしワシは誰一人殺してはいない――……そのことだけは頭に入れておくんだな」
「は……主謀者言うからには殺人教唆ぐらいやってても奇妙しないやろ。元警察官がまさかそれに気付かへんワケも無いしな?ホンマは判ってんねやろ」
朝霧が反応する。どうやら諒也で居るよりも少々押しが強いキャラクタらしい。
「フン。そんなことをお前にごちゃごちゃと言われる筋合いは無い。冬雪――このワシがお前に全ての遺産を譲ると言ったら、どう思う」
「え」
何故そんな話になっているのか――……冬雪には訳が判らなかった。
祖父は依然としてニヤニヤと笑っている。隣の人は呆れ顔で、ポケットに両手を突っ込んだまま立っている。
答えなければ――。
「簡単には――……受けかねます。そう簡単に受けていい話じゃないような、気がするので」
「……そうか。まぁ、考える時間はたっぷりある。ゆっくり考えなさい」
「アンタに遺産を継がせる事、それこそが『計画』の正体だ。その為に多くの人間が――……命を落とした」
尚都が口を挟んだ。
「必要な犠牲だったのだ」
「まぁそうなんだろうな。新海碧彦に始まり岩杉諒也まで――……自分の血を引く人間をことごとく落とすその鉄の心に乾杯ですよ」
「え……?何で先生が」
目の前の人間の血を――引く?
そんな話は初耳だ。隣に立つ本人の顔を窺っても、サングラスと長い前髪の所為でいまいちよく判らない。ムッとしたような顔で、腕を組んだまま突っ立っている。
「琴梨はワシの娘だったのだよ――……そして、佐伯に、奪われた」
「奪われ……!?」
乳幼児誘拐事件でもあったのか。否、いくらなんでもそんな方法ではないような、気がする。
「彼らに騙されてな――……いくら養子とはいえ、本当の両親に一切顔を見させないとは卑怯だとは思わないか?兄弟には会わせたのにだ。全く……彼らの考える事は判らない」
「でも……養子に出されたんですよね?だったら会わせないのが一般的なんじゃ」
「ああ、しかし元々は会わせてくれるという約束だったのだよ。――……琴梨のことはまぁ良い、既に亡くなった人間だからな」
「アンタが……誰かに殺すように命令して、やろ」
朝霧の低く冷たい声。あまり聴いたことのないその声に――……思わず、鳥肌が立った。
当然だろう、自分の母親の事なのだから――。
「ふ、人聞きの悪い。だが事実だ――……娘とはいえ佐伯に洗脳されたようなもの。その時点で彼女はワシにとって価値が無い人間になった」
言い返したいらしい朝霧が舌を鳴らした。
そういえば、彼の両親の話はほとんど聞いた事がない――。
「……長男なのに……新海碧彦を殺せたのも、同じ理屈ですか」
「ああ、そうだな。まさか佐伯の人間に心を奪われるとは――……愚かなものだ。慌てて夢見月に頼んで……お前の母親か、彼女に子供を産ませて跡継ぎ候補にしようとしたが」
「『才能がなかった』んでしょ。佐伯の血引いてる俺としちゃ、さっきから気が気じゃないですよ、爺さん」
尚都が笑って言うが、そんな事はどうでも良かった。
――話が食い違っている。葵は跡継ぎ候補などではなく、碧彦を仕事に専念させるための小道具だったのだと――彼自身もそう自覚していただろうし、夕紀夜もそう言っていた。
 誰だ――……誰が嘘を吐いているのだ。
「お前は言うことを聞いてくれればそれで良いのだよ。――複雑な表情をしておるな、冬雪。母親が違うことを言っていたか?それはな――花梨に対する言い訳としてこちらで考えたものだ。お前の母親は佐伯に対して好意的だったようだから、その言い訳をそのまま説明したのだろう」
「……判りました。でも……どうして、葵に才能が無いなんて、そんな」
「お前はまだ良く判っていないな――……あいつは父親の劣化版コピーでしかなかったんだよ。確かに世の中に通用する最低限の能力はあったようだが、跡を継がせるに値するほどではなかった。尤も、彼しか居なければ彼に継がせていたかも知れないが――……その頃になってようやく、琴梨に子供が居るという話が伝わってきた」
梨子と諒也のことだ。先刻からずっと黙って退屈そうに話を聞いていた朝霧も、少し顔を上げて興味を示した。
「やはり琴梨は失うには惜しい人間だったと実感したよ――……だが彼らには遺産を渡すことは可能だが、名を継がせる事は出来ない。今時家が何だと言われるだろうが、我が家の次なる主ぐらいは決めておきたい。不動産は分けられないからな」
「……そうですね」
「そうして……白亜に期待をかけた。自ら事故を演出して逃げたつもりだったようだが、冬雪の存在はすぐに判ったよ。こうして『計画』は始まったのだ」
長い前置きだった――。
「つまり――……オレ以外で遺産を継ぎうる全ての人の、抹殺計画……ということですね」
「大体そんなところだ。琴梨、葵彦、白亜そしてその家族――全てが上手く行った訳ではなかった。まず最初に葵を……しかし失敗した。それどころかますます役立たずになってしまったがね。しかし連続して狙うと怪しまれる。だから次は、無差別大量殺人に見せかけて琴梨と葵彦夫妻の4人を、殺した」
「アンタが犯人、やったんか」
呟くような朝霧の声が耳に届く。
蒼士の表情は変わらなかった。
「言っただろう、ワシは誰一人とて自分の手では殺していないとな。殺人教唆の証拠は、どこにも、ない」
「……話を続けてくれ」
呆れたように、朝霧が蒼士を促した。祖父はフンと鼻で笑って、言われた通りに続けた。
「次に殺そうとしたのはその子供。だが最初に目を付けた相手が悪かった――岩杉諒也は死ななかった」
「CECSはCECS同士でしか、まず殺せへんらしいからな」
その話は飽くまで比喩でしか無いのだが――……殺し方によってはCECSだって死ぬ。
「ああ。一度失敗したらしばらくは狙えない……。しかしこの後は大変だったよ。Y殺しが復活した時はひやひやしたものだ……お前を殺されては堪らないからな。それから、死んだと思っていた白亜が生きていたと判った。すぐに呼び寄せて『計画』の駒としての教育を施し、その実験として――」


自分の息子である――……鈴夜を、殺させた、と。


何という人間か。
『久海家』の為に、それだけの為に、大事なはずの息子にその息子を殺させるのか。




――……殺してやりたい。




生まれて初めて、冬雪は目の前に居る人間に――心から殺意を、抱いた。

右手がウェストポーチに伸びる。
「誰も殺すな」と言った葵の言葉など、もはや効力を持たない。

嗚呼、もう自分は自分を止めることさえ叶わないのか――……。




「やめろ」

冷たい声と冷たい手が、視界を遮る。
「まだ早い。落ち着け」
「……朝霧、さ……ゴメン、なさい、ありがとう」
「何やねん、どっちかにせい。
――で、つまりその後の岩杉と久海と秋野に関する全ての事件はアンタの仕業やったって事やな?」
まとめに掛かっている。
祖父はまた、高らかに笑った。
「そういう事だ。細かい部分は説明不足の感が拭えないが、仕方ない。とにかく今までの段階で、岩杉梨子以外全ての対象者の抹殺に成功した。もうワシはいつ死んでも後悔しないぞ。何せこれで、万事片付いた事になるのだからな――。
 ああ、そうそう、あともう1人紹介しておかなければならない人が居たのだ。――尚都!」
呼ばれた尚都が右手の指を鳴らす。
 再び管理人室の扉が開き、1人の男が現れた――。


   *


 正直、どう反応していいのか判らなかった。
「事件の実行犯のひとり――岩杉樹さんだ」
老翁は管理人室から出てきた男を示し、堂々とそう言った。
「え……」
冬雪が明らかに動揺した表情を見せてこちらを向いた。当然だ、父親が生きていた事は一言も言っていないし、そもそも名前も違う。
何も答えてはいけない。
こんなところで正体をばらす訳には、いかない。

朝霧もとい諒也は静かに息を吸い込んだ。
「……彼が……実行犯やと?」
聖樹として括れば、むしろ被害者の方ではなかったのか。
「あぁ、そうだ。ワシの忠実な部下のひとりであったよ」
「娘の、結婚相手」
「そうなるな。いや、しかし――微妙にずれておる。琴梨と婚姻関係にあったのは聖氏の方だ。彼は『同居していた兄弟』に過ぎんよ」
「な……何の話?どういう事?」
話の判らない冬雪が諒也の服の袖を引く。
このままでは話が進まないので、怪しまれない程度に大まかな話を伝えた。
「……説明はもう宜しいかな?こちらの話を続けさせていただくよ」
「えぇ」
「彼が殺したのは彼の兄と同居人、そして『新海碧彦』とその妻だ」
「!」
冬雪の左手が、またこちらの服の裾に伸びてきた。
老翁が言う。
「『大事な人』を敢えて自分の手で殺させる事で、ワシに対して逆らえないようにするのだ。白亜と同じだよ」
大切な人を殺してしまったという罪の意識が――……警察の権力者である蒼士への恐怖心に取って代わる。

しかしそれ以前に何故、殺す事が――出来たのだろう。
白亜にしても樹にしても、絶対に殺さなければならないというわけでは無かったはずだ。

こちらの考えている事を察したのか、蒼士が続けた。
「もし殺せなかった時、そこに待っているのは死のみ――。
彼らは『大事な人』より、自分の命を選んだというわけだ。だろう?」
老翁の後ろに立った樹が、最後の疑問符に身体を震わせた。
何故こんな事になってしまったのだろう――。


――少し、試して、みようか。


「オレにはとても……そこの人が4人も殺した犯人やとは思えへんねやけどな。ホンマにそうなんか?」
冬雪が不安そうにこちらと向こうとを交互に見る。
険しい顔になった蒼士が低い声で言う。
「……ならば今ここで、お前を殺してみせようか」

そう来たか。

「ほう――望むところやな」

相手は仮にもCECS。
親とは言え、もしかしたら刺し違えて死ぬかも知れない。

だがそれならそれまでだ。
自分の父親はそういう人間だったということだし、自分は『正義』を貫けなかったというだけだ。
そうなったらもう、この世界など終わってしまえばいい。

冬雪は樹がCECSであると知らないから、そこまで心配はしていないだろう――。

「殺してしまえ、お前なら出来るはずだ」
樹が戸惑いの表情を見せる。彼は、そして蒼士は、気付いているのだろうか――。
だとしたら――。

諒也はポケットからナイフを取り出した。




「行け、行くのだ」
「は、はい」
朝霧はナイフを取り出したきり、うつむいたまま動こうとしない。その間にも同じくナイフを持った樹がこちらに近寄ってくる。
 このままだとやられてしまう――……だが、相手を殺す訳にも行かない。
「朝霧さん」
不安になって思わず声を掛けた。
「…………判ってる」
小さく呟き、彼はたたんだまま握っていたサバイバルナイフを広げて握り直した。
握り直しただけで、構えようとはしていない。
「オレはアンタにみすみす殺されるような間抜けとちゃうで」
「重々……承知しているよ」
どちらも言葉だけは達者である。
しかし樹の手が震えているのも良く見えるし、朝霧がどう動くかで迷っているのも間違いないだろう。

「殺せ、殺すのだ、樹」

蒼士の声が響く。
樹の目が変わった。
朝霧はようやく右腕を上げる。
「うおおおおおおおおおおおお!!」

樹の叫び声と、金属がぶつかる音と――……誰かが地面に倒れる音が聞こえた。

冬雪の視界の中に残っているのは、どちらだろう。
自分の目が信じられないのか、使い物にならないのか――見えているはずなのに、状況がよく判らない。
「……ッ、やっぱり痛い、な」
「――よくやった、樹」
2人の声。当の樹は目を見開いて愕然とした表情を浮かべている。
「ふゆっきー、何突っ立ってるのよ、動きなさいよッ」
追加で玲央の声。

刺されたのは朝霧――否、諒也の方。
彼ならば避けることは難しくなかったはずなのに――何故、だろう。

否、こんな事を考えている場合では、ない。

冬雪は地面に転がる彼の方へと駆け寄った。
流れた血が、傷口を押さえる手を伝って地面へと滴り落ちた。
「救急車、呼ぶよ」
「いや……ダメだ、この状況じゃ……皆、捕まる」
「で、でも、放っといたら死んじゃうよ、せめて止血しない、と」
「構うな。こちらに集中しなさい、冬雪」
蒼士の声。その声と表情は怒りに満ちているようであった。
「見殺しには出来ない……よ」
「……俺に構うこと、無いから……大丈夫、そう簡単には、死なないよ」
「でもッ」
問答が続く。
このままでは何にもならない――……そう、思っていた時だった。


「もう終わりにしねぇか」


誰かの声がした。
「身内同士で殺し合いして、殺し合いさせて、一体何が楽しいんだよ。……ホントのところ『目的』なんてどうでもいいんだろ?名目上冬雪の為とは言ってるけど、アンタがホントにやりてぇのは殺し合いを見る事だよな。自分の思い通りに動くのが楽しいだけだろ。警察が聞いて呆れるよ」
「尚都。お前も裏切るつもりか」
「裏切る?そうやって……勇気を振り絞って『裏切』った奴はまた殺すんだろ。そこのオジサンは自分の命が惜しいが為に……息子にナイフを突き立てた訳だ」
ばらした。
樹の顔がいっぺんに引き攣った。
「何だと……!!」
蒼士が怒りの形相になる。
「も、申し訳ありません、途中で気付きましたが、気付きました、が」
樹が必死に謝る声がする。
「悪いのは俺のほうで親父は悪くない、謝るな。尚都……バラすの、早い」
「……大人しくしてろよ『先生』、怪我人の癖に。救急車いらねぇのか?」
「ああ大丈夫、数センチしか刺さってない……と思う」
「……だとよ。オイ、一応止血しとけ」
冬雪は静かに頷いて彼のほうに駆け寄った。
 蒼士が叫んだ。
「そうか、尚都が逃亡を手伝ったのだな!?もう尚都も殺してしまいなさい、泊里君!」
「ダメっ、行っちゃダメ、泊里君ッ」
泊里の走り出した足音と、玲央の声がする。
冬雪には、何も、出来ないのだろうか――。
「……人間を甘く見るなよ」
尚都が低く呟いたかと思うと、何かを泊里の方に投げつけた。
「う、わ」
「……オイ、何が、起きてる」
もう、錯綜しすぎて訳が判らない。諒也の質問に答えている余裕も無い。
再び彼らの方に視線を向けると――……そこに居たのは、美しい銀色の毛を持った――1匹の狐だった。
「ど……どういうことだ……説明しなさい、尚都」
「つまり彼は人間じゃないって事だ。単純明快だろ」
そういう方面の知識に長けている人間なら単純明快なのだろうが、普通はそうではないだろう――……が、突っ込みはやめておいた。
「人間じゃない……だと……!?」
「彼は妖狐の銀狐。人に紛れて暮らす妖だ。決して悪い奴じゃない。まぁ……この場に純粋な人間なんて数人しかいねぇけど、な、先生?」
「……怪我人は大人しくしてろって言ったの、誰だ」
何故彼に訊くのだろう。
何故彼は満更でもない様子なのだろう。
「さぁな。悪かったな泊里君、無理矢理術解いたりして」
「――いえ、構いませんよ……」
そう言いながら銀狐は人間の姿に戻る。
「人間でないなら人間離れした才能があっても奇妙しくない。そこの娘も、わずかだが先生も。先生を殺すように命令された時は……まぁ絶対無理だと思ったわな。実際、無理だった」
「普通の人間でも2階ぐらいじゃ死なない、よ。計画が悪い」
「怪我人は黙ってろっての」
その言葉を聞いているのかいないのか、諒也はゆっくりと上体を起こす。サングラスとカツラを取って地面に置いた。
「大丈夫?」
「ああ……実の父親に簡単に殺されるような真似はしたくなかったからな」
完全に避けなかったのは親子での殺し合いを続けないためか。
どちらかが少しでも怪我をすれば、肉親同士である、対立がそれ以上続く事はまず無いという彼の的確な判断だったようだ。
「でも痛いんなら大人しくしとけよ」
「お前に言われなくてもこんな身体で暴れやしないさ。それから……俺のことあんまり妖怪扱いするなよ」
「事実を述べたまでだろ」
「クオーターのクオーターじゃほとんど無いに等しいだろうが……」
やはり『そう』なのだろうか。
話についていけない冬雪を置いて、諒也と尚都のやり取りが続く。蒼士は黙ってそれを聞いているようだった。樹はうなだれたまま動かない。
「先生が逃げてたことに関して俺は何もしてねぇけど、さっきここで顔合わせてすぐ判った。そういう『気配』がしたからな」
「……敏感なんだな」
「そ、敏感なの。さて――……どうする?爺さん。言っておくが俺ら人間は非力だぜ。オイ、鬼っ娘」
尚都が玲央に声を掛ける。
呼び方が――示し合わせた訳ではないと思うが――葵と同じだ。
「な、何よ、あたしに何か用でも」
「逃げるならさっさと逃げな。この爺さんは何にも判ってねえみたいだからな」
一瞬きょとんとした顔をした玲央だったが、次の瞬間にはいつもの笑顔を取り戻し、そして――。

 紐を千切る音。
 玲央が駆ける足音。
 彼女が冬雪の胸に飛び込んでくる――。

「ふゆっきー!」
「……玲央……どうして、今まで」
「だって、すぐ逃げちゃったら面白くないでしょ?」
その瞬間、何かが音を立てて崩れたような――気がした。

「どいつもこいつもワシを侮辱しおって…………!!」
「あんたが何も知らなさすぎただけだ、爺さん。世の中、目に見えることばっかりじゃねぇんだよ」
尚都が言い放った。
蒼士が叫ぶ。
「もういい、もう終わりだ……殺せ、殺したいならワシを殺すが良い!冬雪、樹、あるいは尚都、泊里君……誰でも良いぞ、ワシはもう抵抗する術を持たないからな……!」
誰も、一歩を踏み出そうとはしなかった。

「どうした、何故殺さない!!ワシを殺せばお前たちは清々するだろうに、何故だ、殺せ、殺せえええええええ……」

力を失い、祖父はその場に崩れ落ちた。

「そんなこと……出来ません、よ。いくら貴方が憎くても、いくら貴方を殺したいと思っても……貴方を殺したところで、貴方によって殺された人たちは戻ってきません。
 それとも返してくれますか?弟を、兄を、父を、それから……貴方に反抗する為に死んだ、妻を」

もはや冬雪の声も聞こえていないのだろうか。
祖父は動こうとしなかった。

「――その辺で良いか、秋野。後はこっちに任せてくれ」
聞き覚えのある声が背後から届いた。
振り返ると、そこに立っていたのは――現役の刑事、だった。
「! 阿久津……!!く、来るんだったら来るって言っといてくれよ……!!」
「先に言ったら『面白くないだろう』? ――さぁ、元警視総監、こちらへ」
秀は老翁のもとへと歩み寄り、腕を取って立ち上がらせる。
「阿久、」
「先生、一応病院行った方が良いと思いますよ。それじゃ」
冬雪の呼びかけは無視して、阿久津は力無い老翁を連れて出口へ向かって進んでいく。


祖父は冬雪の傍を通り過ぎる瞬間、冷たい声で「愚か者」と呟いた。


そう――……なのかも、知れない。

自分は正しいと思って生きてきた。
だがそれは飽くまでも自分の判断基準に照らした時だけの事――。

本当に自分が愚かでないとは、冬雪には、言い切れない。

「……帰ろう、秋野」

諒也の声がする。

「ふゆっきー、大丈夫?」

心配そうな玲央の声。

「……うん。帰ろう、か」

本当は泣きたいぐらい、つらいのだが。
そんな場面ではない事は、痛いほど――判っていた。


   *


 諒也の怪我は大して酷くはなかった。泊里は尚都に弱味を握られたことで逆らえず、蒼士の側に回らされたのだと言って謝った。
「昔っから敏感ではあったけど……先生が『そう』だってのに、兄貴も鬼っ娘も気付いてないってんだから驚きだったよ」
尚都がそう言って笑った。
「だから、しょうがないって何回も……!」
玲央が必死に反論する。
「先生――どういう、こと?」
改めて訊いてみると、諒也は少し寂しそうに笑った。
「そういうこと、だ」
「それじゃ判んねえよ……。人間じゃなかったってことか?」
「いや、人間だよ――……ほとんど、な。16分の1だけ、そういう血が、混じってるらしい」
「いつ知ったの?」
「前に実家に帰った時だ――……春かな、新学期が始まる前。いい加減奇妙しいと思って祖父さんに訊いて確かめた」
彼もそうだと言うのなら、純粋な人間は冬雪1人になってしまうではないか――。
「そうしょげるな、『人間』から弾かれたこっちが哀しくなってくる」
「だからウチの兄貴は『人間と交わってはいけない』って言うんだよ。何代先でも、その血は決して消えたりはしない。その罪の意識で、少なくとも100年は苦しむ事になるから……ってな」
尚都が言う。兄貴と言うのは志月のことか――。
「だったらお前が真っ先に謝れ」
「うぇ、別にそこまで酷いこと言ってないじゃないスか……殺そうとした事は謝るから、うん、ゴメンなさい先生」
「誠意が見えん」
諒也が尚都の脳天をはたいた。
「って、うーわ、暴力反対!体罰禁止!」
「何言ってんだ……お前もう学生じゃないだろ」
平和だ。
彼が人間だろうがそうでなかろうが関係ない。
穏やかな時を過ごせるならば、それで良い――。

「そろそろ帰ろうか、玲央」
「うん」
「じゃ、俺はちょっと実家の方に行ってくるよ。偶には顔見せないと――。親父も来るか?」
「え、いや――私はまず、警察に行かないと」
樹が苦笑する。
時効は過ぎているが――未解決のままにしておけないという意識が窺える。やはり根は『良い人』らしい。
「偶にはって言うか、生存報告なんじゃなーいの?諒ちゃんってば、ちゃんと言葉使ってよねッ」
「! あぁ……そう、だな。報告、してくるよ。マスコミにも、発表、しないと」
沈黙。
「これからまた大変になるかな」
冬雪が呟くと、尚都がニヤリと笑って応答した。
「でもま、死ぬほど大変にはならない、だろ?これでとりあえずは一件落着だ」
「一件落着ー!やったねふゆっきー!」
妙に元気な玲央が冬雪の二の腕をばしばしと叩いた。
「あぁ、やったな。じゃあね先生、帰ったらまた連絡よろしく」
「おぅ。じゃあな」
彼は明るく笑って、いつものように敬礼をする。


このまま送り出していいのだろうか――。


ふと、そんな考えが浮かぶ。何故そんな風に思ったのかは判らない。ただ何となく、釈然としない感覚を覚えた。
 だが『何となく』ぐらいで彼を止めるのは悪いので、冬雪は気にせず同じように敬礼を返した。


   *


 わかるのは、血の臭いと雨の音。

そして自分の荒い呼吸、水を蹴って走る音。


何時 何処で 何故に 間違ってしまったのだろう。


このまま、この暗闇の中へ消えてしまいたい――。




――事件はまだ 終わってなど いなかった。



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