東京想街道
Page.68[蒼き霧の晴れる刻]6/9




   1

『んだよー憔悴してんな、この大事なときに』

明るい声が耳に――否、脳に直接届く感覚だった。
「!?」
目の前に浮かんでいたのは――亡くなったはずの兄、だった。
『やっほう、元気か弟よ』
「元気も何も……っ、何でまた葵、いきなりこんなトコに」
『まぁ俺の姿は他人に見えない以上長々と話してる訳にゃー行かねぇんだが、話したいことがいくつかあってな、夜まで待ってられなかった』
「じゃあせめて家に帰ってからとか色々あるだろ」
『……おー、じゃあ家で話すとするか』
「少しぐらい考えてくれ……」
『冷たいねぇ冬雪君、何かあったのカナー?お兄ちゃんに話してごらん』
冬雪が歩き始めても彼は話すのを止めなかった。
「……葵」
『何だよ』
「……少しは『黙る』って事を憶えて……」
『わ…………悪かった……』
それ以降自宅に着くまで、彼は一言も喋らなかった。

   *

 家に着いたらまともに話が進むなどと考えていた冬雪が甘かった。
『おー、見事に変わってねぇでやんの!すげーすげー懐かしー』
彼の事である。
「葵……」
『なぁなぁ俺の部屋は?俺の部屋は?』
「…………話したい事はどうしたんだよ……」
彼は一瞬きょとんとした表情を見せた。そしてにっこりと笑う。
『あー、そだそだ、忘れてた。わりぃな!言ってくれてありがとよっ』
「……死んでますます物忘れ激しくなったんじゃねぇだろうな馬鹿兄貴」
『はーいそこの冬雪君何か言いましたかー?』
目は笑っていたが顔は笑っていなかった。
が、だからと言って引き下がる冬雪ではない。
「何でもないです。で、話は」
ソファに座り、話を聞く体勢に入る。葵も葵で腕を組んで難しい顔をして話し始めた。
『とりあえず、ヤバイ』
「……ヤバイ……?」
『あの鬼の小娘が居るだろ。あの娘もわかってる、だからあんな状態になってたんだが……つまり、このまま行くと、先輩どころか皆死ぬ』
「え」
取り乱していた玲央の姿を思い出す。
『あの娘を……除いて、な。さすがに人間には……あの娘は、殺せない』
「でも、志月は人間じゃ、」
『人間じゃなくても彼は戦闘経験積んでないだろ。攻められたら終わりだ』
「泊里君は?」
『……さて、ね。あの玲央って娘……力はあるのに心がついてってない。だから可哀想だ』
葵が葵らしくない話し方をする。
「心が……?」
『外見に合わせてるのか何なのか知らないが、精神面の成長を自分で抑えてやがる。だから1人は嫌だと思うし、事実を知れば……そりゃ、あぁもなる』
「どうすれば……どうすればいいんだよ?葵はこれからどうなるか知ってるんだろ?」
尋ねても、彼は目を逸らして気まずい顔をするのみだった。
それから少し迷うような顔をして、ひとつ大きくため息を吐く仕草を見せる。
『……誰も殺すな。そして殺されるな。俺に言えるのは、それぐらいしか……無いな。油断は禁物だ』
「わ……判った。気を付ける」
『少なくともあの呼び出しの件の時だけは……誰も信じるな。信じていいのは自分だけだ』
「…………オレだけ……?」
『いいな?じゃないと、大変な事になる』
「それ以上は教えてくれないのか……」
『こっちにも限界ってモノがあるんでな』
葵はそっけなく言って、静かに立ち上がった。
『結局内紛でしか無いんだよな――』
「内紛?何の話?」
『――いずれ判る。もしかしたら、もうすぐにでもな。それじゃな、俺はそろそろ帰るぜ。元気で生きてろよ』
即肯定できない自分が哀しかった。
もしかしたら殺されるかも知れない、そんな事を考えるときはいつも「どうにかなる」と思い込んできたものだけれど――。
今回ばかりは、頷く気になれなかった。

冬雪が頷かないまま、葵はすぐにその場から姿を消した。

彼が“居た”場所には、誰も居ない空間が、ただあるのみだった。


今日は家の中に誰も居ない。
こんな日は――……生まれて初めて、だっただろうか。

幼い頃は母が病気がちだったので、全く初めてという事も無いはずだったのだが――どうも、落ち着かなかった。

(胡桃のトコに行こうか)

そろそろ開店時刻のはずだ。軽食ぐらいは出してくれるだろう。
 冬雪は自室に戻り、外出する準備を始めた。

   *

 『Stardust』には今日も客が居なかった。店主によれば毎日居ない訳ではないらしいが、少なくとも冬雪は未だに見た事がない。
「……へぇ、あの子がなぁ」
玲央の件を聞いた胡桃は本当に意外そうな顔をして言った。大真面目な顔をして、グラスを拭きながら話を続ける。
「あぁ見えて結構強そうだと思ってたんだけどな。なんつうか、ものともしないってカンジ?」
「玲央には玲央の悩みがあるんだよ」
「……何悟っちゃってんの、お前。でも……やっぱまだ何か、あるんだな」
「……そうだね」
片手に持ったグラスの中身を傾ける。透き通った液体の向こうに、不安そうな彼の顔が見える。
「葵さんが……何だって?全員死ぬって言ったか?」
「うん。このままじゃ全員死ぬことになるから気を付けろって」
「……俺も含まれんのかな」
胡桃が身を乗り出し、小声で尋ねてくる。他の客など居ないと言うのに、だ。
「さぁ、それはどうだろ。どうしてそうなるかも判らないから、オレからは何とも言えないけど」
「世界を終わらせてやるとか、そんなノリなのかな」
「……そういう人かも知れないね」
言い終えると、冬雪はグラスの中に入っていた酒を全て飲み干した。
胡桃が作業をしていた手を止める。
それから一瞬口を開いて、またすぐに閉じた。

――何か迷っているのだろうか。

言うべきか言わないべきかで困っているのか。あるいは全く別の戸惑いか。冬雪が少し首を傾げて様子を伺うと、彼はひとつため息を吐き、ようやくちゃんと――言葉を発した。

「言い出しそびれてたんだけど、さ。もうだいぶ前……春ごろかな。店終わって家帰ろうと思って、バス通り歩いてたんだけどさ」
「うん」
それだけなら普通だ。
「真夜中だったから怪しい記憶ではあるんだけど……何か誰かとぶつかりそうになってさ。まぁそれだけだったら別に良いんだけど、そのぶつかりそうになった人ってのが、尚都さんにそっくりだったんだ」
「へぇ……この辺に住んでるのかな?」
これもそれだけなら大したことのない情報だ。しかし胡桃はまだ良い足りなさそうであった。
 彼は更に話を続ける。
「人が一緒だったんだよ。女の人。で、その人が――」
一瞬、胡桃が口を閉じてうつむいた。冬雪は視線を送り続きを促す。

「――梨羽さんに似てたんだ」

「……!」
思わず目を見開いた冬雪の反応を見て、胡桃の目が真剣なものに変わった。
「はっきり言って、尚都さんはそんな会った事も無いし判んねぇけど、梨羽さんだったらすぐ判る。だから……だからまだ覚えてたんだけどさ。何か、すごい、言いにくくて」
「ううん、ありがとう……何だった、んだろう」
「さぁ、俺には皆目見当がつきませんってやつでさ。浮気現場!とか思ったら余計言いにくくなっちまって」
「浮気ねぇ……」
冬雪と尚都では凄まじく異なるタイプだが。だからこそ――……と言う事も、無きにしも非ず、ではある。
「でも……そんな雰囲気でもなかったんだよな。なんつーか、深刻そうって言うかさ」
「昔からの友達、とかかな。同い年だったはずだし」
「あの2人って同い年か。でも……そんなんだったらわざわざお前にばれないように深夜に会うことも無いだろうにな……」
やはり胡桃は腑に落ちない様子だった。
グラスの縁に飾られた、弓矢の形をしているプラスチックの細工をもてあそぶ。

――三宮尚都。どうにも掴めない人間だ。これまでに葵と諒也に対する殺人未遂を犯しているが、その動機は今になってもはっきりしない。ただ単に「ちょっとムカついたから殺した」とか言う「最近の若者」らしい論理ともまた少し違うような気がするのだ。理由が無い訳では恐らくない、だがそれが表に出ていない。

(……どっかで会ったら訊いてみるか)

会う機会があるとも思えないのだが――。

「……このまま平和であってくれたら良いんだけどなぁ」
胡桃が呟く。
冬雪は苦笑した。
「もう今は全然平和じゃないよ――。でもま、これ以上は、勘弁だね」
「あぁ、勿論。先生が生きててくれただけでも満足だ――……おし、そろそろ時間だな。1杯飲んで帰ろうぜ――奢るから」
「!! 乗ったッ」
ありがたいことだ。思わず叫ぶと、胡桃はニヤリと笑い、目の前のグラスを取り上げて言った。
「ったく、家に人が居ないからって酒で腹満たそうって魂胆がミエミエなんだよ」
「ぐ」
「お前が考える事ぐらい判るっつの。面倒くさがりの単純思考め」
「だ、だって」

――また火柱を上げる訳にはいかない。

中学の調理実習はもはやトラウマだ。
そう言ったら、胡桃は腹を抱えて笑い始めた。奇妙しい事を言ったらしい。
「お前、ホントに変わってないのな」
「? そりゃあ……まぁ」
「正直ちょっと嬉しかった。――よし、飲むか」
嬉しいと言うのはどういう意味だろうと思ったが、楽しそうな顔で準備を始めた胡桃に敢えて尋ねる事は出来なかった。
 店主が作業する音と、静かに降る雨の音だけが耳に届いて――……「風流な気分」とかいうものに浸りつつ、冬雪は乾杯の時間を待った。

   3

 昨日の事が嘘のように、玲央は幸せそうな寝顔で休んでいた。
「……悪い事が無ければ良いんだけど」
志月は彼女の毛布を掛け直し、部屋から出て店へと戻った。
「!」
「……よぉ、兄貴」
店内に居たのは赤毛の青年――もうそんな歳でもないか――尚都だった。未だに兄貴と呼び続けている。軽く敬礼をして、覇気の無い声で言った。
「やぁ……急にどうしたんだい?」
「今あいつ……CECSの娘が泊まってんだろ。そいつと話がしたい」
玲央の事だ。
しかしどうして――ここに居ると判ったのだろう。
「……まだ眠ってるから、もう少し休ませてあげないと」
「は、いくら疲れてるにしたって……もう昼だぜ?いい加減起こしたっていいんじゃねぇの」
正論ではあった。志月は小さく笑って「そうだね」と答え、彼女を起こしに向かった。

 尚都を目の前にした玲央は少し怯えたようであった。
「久し振り」
当の尚都は定番の文句を言うのみ。玲央は無理矢理作ったような笑顔を見せて同じ台詞を返した。
「話ってどういう話?ボクが居ても平気かな」
「あー……ちょっと外行って話していいか」
「外?何も外なんか出なくてもボクが中に引っ込んでれば良い話だよ」
「何言ってんだ兄貴、ここ兄貴の店だろ。店番なんてやりたくねぇぞ」
尚都が不満そうに言う。ごもっともだった。
「判ったよ、外ね。玲央、オッケー?」
「う、うん」
「おし。じゃあちょっと来てくれ……ありがとな、兄貴」
尚都が手を振り、志月が振り返して、玲央は不安そうな顔のまま彼についていった。

扉が閉まり、静けさがやってくる。

どうも落ち着かない。何故だろう、何も奇妙しい事は無いのに。

――……奇妙しい事は無い?

何処がだ、変な事だらけでは無いか。
玲央と一体何を話すと言うのだろう。尚都はCECSではないはずなのだ。

何故自分は何も疑わなかったのだろう。

――今更何を考えても遅いという事に気付いたのは、それから5分後の事だった。

   *

「行くぞ、こっち来い」
尚都が玲央の手を引く。強い力ではなかったが、玲央は思わず引っ張られて転びかけた。
「……こけるなよ」
「大丈夫……ここで話すんじゃないの?」
「……素直に受け取ってんじゃねぇよ。わざわざここに来たのはアンタと話したいってのと、もうひとつ――アンタを誘拐する為だ」
「! へええ、玲央誘拐されるんだッ」
奇態な体験が出来る。相手が尚都だと思うと、あまり怖いとは感じなかった。玲央だって伊達にCECSでいる訳ではない。尚都は玲央の事を年下だと思っているだろうが実際には玲央のほうがかなり上だし、力も負けてはいないと思っている。
「別に怖がられようとは思ってねぇけどさ……もうちょっと『らしい』反応ねぇのかよ」
「しょーがないよ、玲央はこれでも子供じゃないの、判ってるでしょ」
「あぁ、そうだな」
歩きながら尚都はニヤリと笑った。
判って――いるのだろうか。
玲央が人間ではない事を。
「……識ってる……んだね」
「あぁ。俺の兄貴が誰だと思ってんだ」
「あ」
そうだった。
血が繋がっていないとは言えども、彼の兄は志月だ。諒也の『勘』が鋭いのと同様に、彼もその方面に強いのだろう。
「そんな話はどうでも良いんだよ。『先生』でさえ純粋な人間ってわけじゃなかったみたいだしな」
「えっ」
諒也が――か?
素直に驚くと、前を歩いていた尚都が足を止めてこちらを向いた。
「……何だよ、識らねぇのか」
「う、うん、識らなかった」
そんな話は初耳だし、これまで付き合っていて全く気付かなかった。もう一度本人に会わないと確認は出来ないが――……しかし、人間の方が鋭いとは何たる事だろう。
「ったく、結構適当なモンなんだな」
「じ……自分の気配と混じっちゃうんだよッ」
「あぁそう」
言い訳だと思われている。
「そもそも何話しに来たのよッ、こんな話じゃないでしょッ」
「何ムキになってんだよ。いや、ただ……アンタには人質になってもらう予定だから、色々と説明をしようとな」
「へ……人質……」
それは誘拐より少々重い。殺されるかも知れないという事か。
「心配すんな、アンタの事殺せる人間はほとんど居ねぇから。アンタただでさえCECSなのに人間じゃねぇだろ」
「…………何か褒められてないよね」
「あぁ、褒めてない」
「もーッ、女の子誘拐する時はもうちょっとおだててよねッ」
「……女の子?」
あからさまに嫌悪感を顔に出された。キレそうになるのを必死で抑える。
「…………尚都クン……容赦しないよ…………?」
「わ……悪い悪い、冗談」
「もう、こういう場で冗談はナシだよッ」
その話し方が――……誰かに似ているような気がしたのは――気のせいだろうか。
「あぁ、判ったよ……」
それから少しの間、沈黙が続いた。
ただ黙々と歩き続けて、もうすぐ駅に着くという頃――彼は再び口を開いた。
「アンタも俺が養子なのは知ってんだろ」
「……うん」
以前に志月から聞いた事があった。
彼はこちらを見ずに続けた。駅の周りにあまり人影は無かった。
「元は久海の人間らしくてさ。……普通こういうのって親は教えないモンだろ。でも何でだか……あの、新海碧彦が殺された事件の時に、言われてさ」
「待って、久海さんちって事は葵ちゃんかふゆっきーかどっちかの兄弟って事だよね?」
「……いや……新海碧彦の上に姉が1人居る。養子に出されてるけどな……まぁ俺は関係ないけど」
「……って事はどっちかなんでしょ?」
「梨羽は俺の双子の妹だ」
「!! 初めて聞いたー」
「当ったり前だ」
「じゃあどうして……葵ちゃん殺そうとしたの?ホントのお兄ちゃんなんでしょ?葵ちゃんは尚都クンのこと知らなかったの?」
「いや――……知ってた。何回か、会ってたし。俺は別に……殺したいとは、思ってない」
「え」
では殺害未遂事件はどう説明するのだ。尚都はそれで前科者になったのではないのか。
答えを求めると、尚都は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「アンタは何も知らないかも知れねぇが……所詮俺らは駒なんだよ。葵の兄貴も、梨羽も同じだ。全て……冬雪の為に動かされたただの駒だ。梨羽が葵の兄貴の病室に居て、形式上突き落としたってのは知ってるだろ」
「突き落とした……んだ」
「……そう。その事件も全て『計画』の内だからな……つまり葵の兄貴が家に居るんじゃ話にならない訳だ」
主謀者は何が何でも葵を転落死させたかったのだろう。そして病院でなければ諒也に罪を着せることも難しい。
「俺は葵の兄貴を病院送りにする役。向こうも承知の上」
「尚都クン……」
「何だよ」
「……ゴメン、今までずっと悪い子だと思ってた。別に悪い子って訳じゃないんだね」
「……さぁ、それはどうだかな。駒の身から脱出できないただの馬鹿だよ。白亜叔父も、葵の兄貴も、梨羽でさえも……駒でありながら『計画』を壊す事をずっと考えてたからな。梨羽が死んだ時はどうしようかと思ったよ。俺だけ取り残されたと思ってな」
彼は――全てを、知っているのだろうか。
そういえば……玲央は人質にされるのだと言っていたか。
「玲央を誘拐するのも、『計画』のうち?」
「あぁ、まぁ……そうかな。戦力を出来る限り削ぐってだけだけど」
「戦力……?」
誰と誰が戦うと言うのだろう。
 ふと、疑問に思う。
「……尚都クン、玲央にこんなにいっぱい話していいの?」
尚都の足が切符売り場の前で止まる。
彼はしばしの沈黙の後――呟くように、答えた。
「駒で……駒で終わって堪るかよ。今更かも知んねぇけど……ぶっ壊してやりたくなった」
「そっか……。じゃ、じゃあ訊くけどッ、人質とか戦力とかって何の話?もしかしてあの呼び出しの件?」
「そう。あいつは冬雪の弱味を握りたいんだ。誰連れて来ても良いなんて書いたけど、実質連れて来て戦力になる人間なんてほとんど居ねぇだろ?」
そういえば――そうだ。諒也は自殺騒ぎを起こしていなければ調書改竄の関係で警察に拘束されていただろうし、玲央はこうして誘拐されている。後は泊里ぐらいだろうか――。
「で、戦力を削いでどうやって弱味握るの?」
尚都は切符を2枚買って、1枚を玲央に手渡し、それから静かに、答えた。
「誰かを、殺させるつもりだと思う」
「!! そんなッ」
「大声出すなよ。殺す相手は、多分誰でも良いんだ。あるいは自分でも」
「……あいつって誰?その人が、全部の犯人って事?」
「知りたいか?」
確かに知りたいのに――……何故かすぐには頷けなかった。
知ってしまったら、全てが終わる。

そんなような気がした。

知ったからと言って実際にはどうなる訳でもないのに――。




――いずれ人質になった時には判る事だ。

玲央は意を決した。

「うん、教えて。玲央、皆の事助けたい」

尚都が唇の端を上げた。

「あぁ、判った。そいつは――……」


   4

 明かりこそついているが、全体的に薄暗い『管理人室』にて。
ソファに座った男が携帯電話で誰かと話をしている。
「……あぁ、聞いての通り元気だよ。そっちこそ元気なのか?」
サングラスを掛けていて表情は判らないが、その口調は穏やかである。
「何の為のこの名前だ。トリコたちにだけ判るようにってわざわざ考えたんだからな」
電話の相手の名は『トリコ』と言うらしい。
男は相手の返答を聞きながら苦笑する。
「――心配は要らないよ。お母さんにもそう伝えてくれ。下手に騒がれちゃこっちも困るんでな。……あぁ、大丈夫いつかはちゃんと顔出すから。ちゃんと考えてるよ。オレだってそこまで馬鹿じゃないさ」
組んでいた足を崩し、電話を耳に当てたまま立ち上がった。ソファの背後の珈琲メーカーの前に立つと、電話を左手に持ち替え、右手だけで珈琲をカップに注いだ。
「あぁ――じゃあトリコも元気でな。『世間様』に負けてる場合じゃないぞ。じゃあな」
通話が終了する。男はしばらく携帯電話の画面を眺めて嘆息した。
「……『朝霧陽月』か」
そう呟くと、彼は携帯をズボンのポケットに仕舞い、珈琲の入ったカップを持ってソファに戻った。
「全然似てないと思ったんだけどな」
誰が聞いているという訳でもない。彼の独白は室内の空気に溶け、また静けさが戻ってくる。
彼は珈琲を一口飲む。
「……近い内にまた実家に帰ろう」
それで今の気持ちが静まるのなら良いのだが、と彼は思う。

他に人の居ない管理人室の中。
男は大きく背伸びをして、サングラスをテーブルに置くと、自分の腕を枕にしてソファに寄りかかり――瞼を閉じた。



BackTopNext