東京想街道
Page.67[邪神の牙]6/8




   1

 朝――目が覚めることすらも鬱陶しい。いっその事ずっと眠ったままで居た方がよほど幸せな気がした。

――妻を亡くしてから3日、師が居なくなってから――同じく3日が過ぎた。

 久海冬雪はベッドから下り、眼鏡を掛けてから自室を出た。同居人は既に起きているだろうか――などと思いながらふと廊下の鏡を覗いた。どれだけの人に似合うと言われても――やはり自分に黒髪が似合うとは思えない。
「! ふゆっきー、起きてたのっ」
「……玲央」
「これから玲央も朝ごはん食べるから、ふゆっきーもいっしょ食べよ」
本当に子供のような笑顔で――彼女が言った。
百年の長きを生き、自らを悪魔だからと蔑むような者にはとても思えない純真さが垣間見えた、気がした。
 冬雪が小さく頷くと、彼女も笑い返して彼の腕を引いた。

   *

 あれからずっと、食事はリビングで取っている。玲央がTVの電源を入れた。冬雪はあまり見る気はしなかったのだが、リモコンの所有権は元より冬雪よりも女性陣にあったので致し方ない。ここのところ、朝のニュースはいつも同じもの――緑谷川での“彼”の捜索活動関連だ。だが見つかったのならTVより以前に周囲が大騒ぎしているところで、見つかっていないのは判りきった事である。判りきっていることを何度も聴かされて――気持ちの良いものではない。
「変わんないね、何にも」
「……大変なんだよ、探すのも」
「ふゆっきーは」
玲央が文を主語で止めたので、冬雪はトーストをくわえたまま彼女の方へ振り返り、返事に代えた。
あまり明るくない表情で彼女は言った。
「もう諒ちゃん生きてないって思ってる?」
「……あぁ」
「……もう誰も信じてないんだ……玲央と胡桃ちゃんだけかぁ」
志月の言葉に憤慨していた胡桃の姿を思い出す。
考えてみると――冬雪よりも胡桃の方が、彼とは長い付き合いだったような記憶がある。
「玲央は生きてると思って?」
「本人に会うまで認めないもん」
それもそう、か。冬雪は頷きつつ反論した。
「でももう3日も経ってるし……目撃情報は橋の上の1件だけ。生きてるなんて訴えても……信憑性はほぼゼロだ」
「だからってふゆっきーが信じなくてどうするの?最近そういえば泊里君会ってないけどっ、でも諒ちゃんが居なかったら玲央たちどうなるか判んないよ。ふゆっきーのお母さんだって諒ちゃんと一緒に色々頑張ってくれたんでしょ」
「色々ってのが何なのかは良く判んないけどね」
「ふゆっきーだってホントは信じたいんでしょ?」
「……当たり前じゃねぇか、そんなの。生きてるに越した事は無いよ」
「でしょっ」
「でもきっともう生きてない……って思っとかないと、後のショックが大きすぎる、気がして」
玲央はそこで少し、黙った。
「……それもそう、だよね」
「夢で会えりゃ判りやすいんだけどな」
「夢?」
「そ。夢の世界」
不思議そうな顔をしつつ、玲央は残っていたトーストを口に放り込んだ。
「そこでもし会ったとしたら……もう絶対生きてない、から」
「どうして判るの?」
「そういう風になってるから、だよ」
「ふぅん。よく判んないや」
判らなくて当然だ。あんな世界――信じろと言うほうが難しいというものだ。
 時刻は丁度9時を回った。
 冬雪が紅茶を飲んでいた時――携帯の着信音が鳴っていることに気付いた。
「メール?」
「だな」
送り主のアドレスは見たことの無いもので、名前に変換されていない――メモリに登録されていないという事だ。
 中身を見て驚いた。
「朝霧……さん」
「? 例の組織の?お呼び出し?」
「それっぽいけど……何で深海屋のこと知ってんだろ」
「んー、あれだよ。詩杏たんのお兄ちゃんから聞いたんだよ。お仲間なんでしょ?」
「あぁ……なるほど」
赤の他人が大勢いる喫茶店よりはよほど安全性が守られるだろうという判断だろうか――今日の午後1時、深海屋に来て欲しいという文面だった。
「でも……不思議、だな」
「とりあえず行ってみようよ!玲央も行っていいの?」
「さぁ、それは判んないけど……でも別に他人って訳じゃないし良いと思うよ」
「! じゃあ玲央もお仲間参戦ー!」
パクるな、と言おうとして止めた。
(元はオレの言葉じゃない、か)
冬雪は微笑んで小さく「おぅ」とだけ答え、残っていた紅茶を飲み干した。


   2

 店の扉を開けた先にあったのは、いつもとほとんど変わらない深海屋の風景。違ったのはいつも『彼』が座っていた席に居たのが――口にさきイカをくわえた朝霧だった事、ぐらいだ。相変わらず室内だと言うのに真っ黒なサングラスを掛けている。
「……イカ……?」
「食うか?美味いで」
「! 玲央食べる!」
「おぅ。食うってよ」
「……はいはい、持ってきますよ……玲央、秋野君、座ってて」
志月が小皿を持って奥の部屋へと戻っていった。冬雪はいつもの指定席に、玲央はいつも胡桃が座る席にちょこんと座った。
 残された朝霧が冬雪の方を見て言った。
「何や、意外とカラス頭も似合うてるやん。なんで染めたか知らんけどオレは気に入ったで」
あまり褒められた気がしなかった。
「……カラスって言わないで下さい」
「なに、日本人はそれを散々言われて来てん、判るやろ。それを君が実感するんにええ機会やで、コレ」
「……はぁ」
「怒っとんの?」
「怒ってるわけじゃ、ないですけど」
「ふゆっきー、あんまり気に入ってないんだよ。玲央も似合うと思うんだけどな」
朝霧は玲央とは初対面だったはず――彼女の雰囲気に和んだのか、朝霧が少しいつもと違う、柔らかい笑い方をしたような気がした。
「あぁ似合う似合う、そない気にせんでもええやん。まぁでも慣れは大事やで?慣れてみたら案外突然『何や似合うやん』とか思うかも知れへん」
「慣れるまでに何年掛かるか……」
「掛かりすぎ」
速攻でツッコまれた。だが反論する気にはならなかった。
「って、何や……『何年』って、ずっとそれで行くつもりなんか」
「冗談ですよ――その場しのぎで染めただけで」
志月が3人分の湯のみと追加のイカを持って戻ってきた。
「ウチはお茶屋さんじゃないつもりですけど」
「何で文句言われなアカンの。最初に出したんアンタの方やで」
「……そうですけど」
妙なやり取りをしつつ、冬雪たちに茶が配られた。玲央が手を伸ばしたので、湯のみと一緒にイカを2本ほど渡した。
「玲央イカ好き?」
「うん。ふゆっきーは?」
「別に嫌いじゃないけどそこまでは……」
冬雪が苦手とする食べ物は後にも先にもアスパラガスだけだ。
「兄弟みたいやんな、君ら」
1人でイカを食べる朝霧が微笑みながら言った。やはり何かいつもと――違うような、気がした。
その雰囲気が何処か、誰かに似ているような気がして――ならなかった。
「うん、兄弟みたい」
「玲央のがお姉ちゃんだけどな……」
「えー、玲央妹が良い!」
「冗談言うな。お前オレより3つも上じゃねぇか」
実年齢は置いておくとしても――戸籍上から年上だ。
「じゃあ年下らしく年上を敬いなさいっ」
全く年上らしくない口調で玲央が言う。冬雪は苦笑して頷いた。
 それからふと視線を向こうに向けて、妙に思う。
「驚かない……ん、ですね」
彼は先刻と全く表情を変えていなかった。ただでさえ若く見える冬雪よりも幼い玲央の方が年上だと言うのだから、普通の人間なら驚いて当然なのだが。朝霧は一瞬きょとんとしたような顔――サングラスでよく判らない――を見せたが、すぐにまた笑って答えた。
「あぁ、驚かへんよ、別に。世の中色んな人おるからな」
「でも――」
「第一、人に年齢は聞いたらアカンねん」
「でもこれは30です」
「こ、これって言わないの!」
「ゴメン」
「せやったらオレいくつに見える?」
そうは言われてもサングラスのままでは良く判らない。

そう言うと彼は笑って、なら実年齢は企業秘密だと答えた。

飽くまでも予想しろと言う事らしい。

「若くて20代後半……行って30代半ば、ぐらい?」
「玲央も」
「まぁ見たところそれぐらいでしょうね。少々趣味が老けている感はありますが」
志月も参加した。
「……それ禁句やで」
「冗談ですよ」
「まぁええか……」
朝霧は口元でにやりと笑って、サングラスに手を掛けた。

「全員ハズレ。42だ」

口調と声のトーンが少し変わって――標準語のアクセントになった。
サングラスを外した右手に、見覚えのある指輪があった。確か彼は――というより普通は――左手にしていなかっただろうか。

「諒ちゃん……?」

玲央が呟く声が聞こえる。

「あぁ、『諒ちゃん』だよ」
笑ってそう答えた彼はサングラスをカウンターに置き、蒼色の髪のカツラを取った。少し短くなったように見える黒髪を軽く整えて、彼はふぅとため息を吐いた。
「せ……先生、何で」
「何でって、何が」
何から訊いていいのか良く判らなかった。
「落ち着いて、優先順位を考えて」
志月が微笑みながら言う。どうやら彼は――知って、いたらしい。
「自殺したんじゃ……?」
「俺が自殺?する訳無いだろ」
彼はしれっとして答えた。
その答えがあまりにも呆気なかったので――冬雪は思わず言い訳を連ねた。
「いや、だって……いかにもそんな感じだったし、CECSだって自殺なら出来るし、そういう事もあっても奇妙しくないかなって」
「……志月、俺ってそんなに死にそうに見えるか?葵じゃないんだし」
最後の一文はどういう意味だろう、と思ったが尋ねる事は出来なかった。
「さぁ、どうでしょうね。でも本当に自殺したように思わせなきゃ意味は無かったんでしょう?だったら結果オーライじゃないですか」
「まぁ、な」
「じゃああの置き手紙と靴は……?」
「だからそれでカモフラージュ。まぁ……とにかく身を逃れる為だ。警察に拘束されてたんじゃ例の呼び出しに行けないからな。お前1人じゃ心許ないし、恐らくそれだと……相手側の思う壷だ。あの発表は俺をメンバーから外すのが目的だったはず……だから自殺に見せかけて逃げた。相手も安心するだろ、俺が死んだら敵は勝手に1人減る。プラス、入水自殺に見せかければ……見つからなければ見つからないほど生存可能性は低くなる」
見つからなくても『流されてしまったのだろう』で決着はついて、行方不明のまま片付けられる。後は別人に扮している間にバレなければ良い。
「ま……探してる人たちには悪いが仕方ないな」
「先生が考えたの?」
「いや、俺じゃなくて――葵が」
梨羽が話していた事を思いだす。
2人で『計画』を壊す計画を立てていたと――。
だとすれば『計画』の実行者に含まれていた葵が改竄の発表を知っていても奇妙しくは無いし、それに応じて指示を出す事も可能だ。尤もそれはあの世界に行けたら、の話であるが――。
「またあの夢?」
「あぁ。全部教えてくれたよ――だから梨羽さんの事も、知ってた。あの発表を合図にして……って言うのはもう随分前から決めてたらしい」
葵が生きていた頃だと考えると10年以上前に立てた計画だったと言う事か。
彼女は自分がいずれ死ぬ事を知りながら――冬雪と結婚する道を選んだ。
「……あぁ……悪いな。落ち込ませるつもりは無かった」
「え、あ……ううん、大丈夫」
「でもここまで騙しきれるとは思わなかったな。結構ひやひやモンだったぞ」
「そりゃだって……サングラス掛けてるし、髪型もインパクト強すぎだし、関西弁だし」
「そりゃだってバレないように考えられるだけの工夫はしたからな。敢えて左利きのフリしてみたり」
「あ……」
初対面の時だ。
「まぁ事実そうだけどな。とにかく例の呼び出しの件までは俺は朝霧で居るから――口外法度で。携帯アドレスは変えただけだから連絡は取れる」
アドレス変更の連絡がないと気付かないものだ――と思い知らされた気がした。
「わかっ、た。でも何か……変なカンジ」
「仕方ない。俺だってまだ慣れてないよ。俳優を目指した事は無いからな」
「朝霧さんの役柄は?」
「とある組織DRTのリーダー兼、実は都の結構偉い人。っていう設定」
「……ほとんど事実じゃないですか、それ」
「そんな事無いさ。校長なんて別に偉くない」
「諒ちゃん」
玲央が声を挟む。
「学校ほっといて大丈夫?」
言われた諒也の表情が一瞬曇った。
「あー、多分……な。例の呼び出しの件が終わったら出てくつもりだよ。まぁ……いっそ辞めても構わないけど」
「! 諒ちゃん!まだ6月だよっ!?みっ……3ヶ月坊主っ」
「充分長いよ」
彼がそのままの体勢でツッコむ。冬雪は思わず噴き出した。
「長くないよ全然」
玲央が反発する。
「責任問題とかそういうんじゃない。ただ単に俺には荷が重すぎたってだけだよ。元々……一度は断ったんだ」
「朝霧さんで居るよりも大変?」
諒也が動きを止めた。それから少し下を向いて、うつむきがちに答えた。
「あぁ――……そう、だな」
「じゃあずっと朝霧さんで居るの?諒ちゃんは死んだ事にするの?」
「…………そんな事は……」
ようやく諒也は玲央の方を向いた。そうは言っていたが――本気であるようには、思えなかった。
「そうして良いって言われたらするんでしょ」
彼が目を円くする。玲央はいつになく真剣な面持ちで諒也の方を睨んでいるように、見えた。
 そして彼女が続ける。
「諒ちゃんは自分だと思って平気かもだけどっ、玲央たちにとっては朝霧さんは朝霧さんなの。だから……あんまり、そうなって欲しくない、な」
玲央の表情は次第に切なげになっていった。今にも泣きそうだった。
諒也がため息を吐いて――悩ましげに髪をかきあげる。
「DRTを立ち上げたのはこの事態の解決の為であって……俺が逃げる為じゃない。誘ってきたのは阿久津だ」
耳にしてはいる、としか答えなかったのは隠す為か。
「いつ頃から相談してたの?」
「春だな。まだ桜が咲いてた頃だから……まぁ、それぐらい。わざわざ学校まで堂々と話しに来た」
「……まぁ、家から近いからね」
「俺の家だって充分近いぞ」
「部屋大丈夫なの?鍵開けて出てきたんっしょ」
「金目のものは持ってきてるが書類系がヤバイかな」
「…………先生」
「大丈夫、冗談だよ。俺は俺であって朝霧じゃないし、確かに今は楽かも知れないが……一生となるとさすがにつらい。幸原先生みたいには行かないさ」
久々にその名を聞いた、気がした。
「母さん……そういえば何で言ってくれなかったんだろう……自分の意思じゃなかった、のに」
気付いたら死んだ事になっていたのだと言った。
戻れなくなって、別の人生を歩み始めたのだと――そう、言っていた。
「……もしかしたらそれも関係してるのかもな」
「ふゆっきーのお母さん?幸ちゃん?」
「イコールだよ」
「ひょ」
玲央は本当に目を丸くして言葉を失っていた。志月がくすくすと笑った。
「だ、だって、え、幸ちゃんでしょ?理科の」
「そうそう理科の」
「ダイちゃんと仲良さげで保健のセンセとも良く話してて」
「玲央随分詳しいな」
「……昔の話だよー。職員室入り浸ってたもんね」
「あぁ、だな」
諒也もそう言って苦笑する。玲央は冬雪よりも3つ“年上”で、中学時代は共有していない。冬雪が知らない頃の関係など全く聞いた事も無かったから、少し意外に思えた。
 確かに玲央と初めて会った時に昔担当していた生徒だと言っていたが――。
「むぅ、言われてみれば親子かも」
冬雪の顔を凝視しながら玲央が難しい顔をして言った。
「……見すぎ、玲央」
言うと彼女はつんとして向き直った。諒也が笑う。
「まぁ一見して判るまでは似てなかったな。そこまで似てたら俺も気付いてるだろうし」
「まぁ、ね」
「死んだ事に……された、んだっけか」
「そう、母さんの意思じゃない」
「……誰にだ?」
「夢見月、かな」
「だとしたら」
諒也は少しだけ天を仰ぎ、一度ゆっくりと瞬きをしてから向き直った。
「『計画』から彼女を逃がす為の作戦だったのかも知れない。元々病弱だったなら果たして意味があったのかどうかと思うと怪しいかも知れないが」
「逃がす……」
「そうすると葵たちがお前の家に来る訳だろ。あいつらが『計画』を壊そうと考え始めたのはその後だ。計画実行者を家族にするのは彼らにとって良い事だったのかも知れないが――内部から破綻する危険性は、高まる」
「夢見月側の反抗って事?」
「『計画』について夢見月が知っていたかどうかは定かじゃないが、久海が何かを企んでる、って事ぐらいは感づいてたんじゃないかな。まぁ何にしても……お前を引き抜きたいっていう考えだけはずっと明かしてた訳だし」
そこまで言い切って、諒也は一度背伸びをした。
 ふと、思い出す。
「結局先生は」
彼がこちらに目を向ける。
「葵の事は殺してない、よね」
彼は小さく微笑んだ。
「殺してないよ。梨羽さんが言ったことが正しいと思う。葵によればあの事件も『計画』の内で、妹が殺すことになってた、らしい。あの台詞も用意されたものだから意味を為さないな」
「そっ、か」
「全部あいつのお陰だ。あいつが居なかったら……今俺はここに居ないな。きっと……『計画』の過程で、殺されてる」
平然と言い放った彼の台詞が、妙に冬雪の心に引っ掛かった。今まで何度となく話してきた話題なのに、その時は何故かそれまでに無い不安を感じた。


――まだ何か起こると言うのだろうか――……だとしたら、もう――。


冬雪は急にうつむき、そのまま硬直した。
どうすればいいのかわからない。
顔を上げる方法も忘れてしまったかのように身体が動いてくれない。
腕が震えているのがわかったが、どうしようもなかった。

「秋野――……」

諒也の声が耳に届く。
「落ち着け、皆――……皆ここに居るから。心配しなくてもいい、ただ――自分が生きる事さえ、優先していれば」
「ダメだよ、1人じゃダメだよ、諒ちゃん」
玲央が泣きそうな声で訴える。
彼女は更に続けた。
「諒ちゃんが死んだと思って……皆必死になって探してたんだよ。皆にとって諒ちゃんがどれだけ大事かって、絶対わかってないんだからっ」
「島原、」
「また朝霧さんに戻るんでしょ、また玲央たち置いてどっか行っちゃうんでしょ。自分だけ……自分だけ逃げていいなんて思わないで……」
ついに彼女が泣き崩れる。

「…………じゃあ、な。また……連絡、するから」

そう言い放った彼の声は――聞いた事のない、動揺を含み震えるような声だった。
「っ、諒也君!」
冬雪が顔を上げられずにいる内に、彼は何も言わずに店から出て行ってしまった。
ドアについた鐘の音が店内に響いた。
 静かに、緊張が緩んでいくのが判った。数秒後に冬雪はため息とともに顔を上げた。それを確認して笑顔を見せてから、志月が言った。
「……玲央……しっかり。君は間違ってない」
「でも……っ」
泣きながらうつむいていた彼女が突然顔を上げて叫びだす。
「あの子は何も判ってないの!判ってないのに勝手に動くから、だから……だから……」
「玲央……君、まさか」
「判らないよ、まだ判らないよ。でも……嫌な予感は、ずっとしてたんだ」
寂しそうだった彼女の目が、次第に強い力を帯びてくる。一瞬目が黄色く光ったかと思うと――……はっとした表情を見せた彼女は、すぐに瞼を閉じ耳を塞いでその場にうずくまった。
「玲央」
「いや……やめて、お願い、見せないで、そんなの見せないでっ」
「玲央!!」
志月が叫ぶ。
状況の把握できない冬雪には何もする事が出来なかった。ただ2人の様子を交互に見て慌てる事しか、出来なかった。
「……これはまずいな、よっぽどの事態のようだ……秋野君、今日一日玲央貸してもらえないかな」
「え、う、うん、判った」
「明日には返せると思う。彼が……無事なら、だけど」
「……?」
誰のことを――何のことを話しているのか、よく判らなかった。
「あぁいや、気にしない方がいいよ。望まない予知はただ恐ろしいだけだからね」
「……じゃあ、帰るね。玲央よろしく」
「うん、何とかしとくよ」
釈然としないのは仕方のないこと。
ただの人間では判らないことも沢山あるのだろう、そう割り切るしかない。

年上なのは判っていても、彼女を守らなければと思ってしまうのは――何故だろう。

しかして彼女はいつも冬雪の上を行く。
助けたいと思っても手が届かないのはいつもの事。

――店の扉を閉めながら、冬雪は静かにため息を吐いた。


目の前に存在するはずのない人物が居る事に気付かずに。



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