東京想街道
Page.64[瞬く月球]





   1


――窓の外に輝く月が満月だと気付いたのは、店に入ってから既に随分と経った頃だった。

 現在午後11時、いつもなら就寝していても奇妙しくない時刻である。久海冬雪は右手に持ったグラスを傾けながら、小さくため息を吐いた。
「洒落になんねぇな、女2人意気投合して連れてきた本人が追い出されてるんじゃ」
『Stardust』店主・藍田胡桃は冬雪の事をからかいつつ笑う。
冬雪は思わず反論した。
「追い出されたって訳じゃねぇよ」
「でも話に入れなかったんだろ?それじゃ追い出されたも同然だ。しかもなんだかんだでどっちも年上、ってこたー立場無ぇだろ」
「……んなの、しょうがない事だし」
「はいはい、いつまでも言い訳しててもしょうがねぇだろ。素直に認めろ。今日は何時まで飲むつもりだ?」
「気分と先生次第」
「あぁそう。中途半端なのは止めとけよ。電車無くて困るのはお前だからな」
「判ってるよ――」
落胆しつつそう答えた時、店の扉の鐘が小さく鳴った。
「イラッシャイマセ、先生」
「――あぁ」
諒也は左手を挙げて軽く挨拶に代えると、右肩に背負っていた鞄を下ろして冬雪の右隣の席に座った。
「このメンバーでは珍しいかな」
「そーだね。何飲む?」
「――左に同じ。危険なサソリを射ち殺す予定があるんでね」
「あぁ……訊いた俺が馬鹿でした」
胡桃が肩を落として準備を始める。
よく判らなかった冬雪が尋ねる。
「サソリ?」
「いて座の矢はさそり座アンタレス狙い。あのサソリはかの有名なオリオンを殺したサソリだ」
「さっすが、詳しい」
「この辺は有名どころだ。まぁ……神話から星に入ったクチだからな。科学的知識ほぼゼロで良くやってたモンだよ」
「……あれ?先生、専攻は?」
「国文学。もっと細かく言えば和歌の方が専門だ」
「あぁそっか」
「……どんな会話だよ冬雪、先生。日常会話ど真ん中だぜ」
胡桃が苦笑して言った。
「別にいいじゃんか」
「別に良いっちゃ良いけどよ。わざわざ集まってんのにそんな呑気な話してる場合じゃねぇだろ」
諒也の顔を覗き見すると、何処か翳りがあるようにも思えた。が、敢えて突っ込む事はしなかった。
「話したい事があるのはどっちの方?」
胡桃が悪戯っぽく笑って尋ねる。諒也が少しだけ笑って返した。
「――It's me, sir. 正直まだ落ち着かないけどな」
「大丈夫なの?未佳子さんたち置いてきちゃって」
「……ずっと学校休んでる訳にも行かない」
そう答える彼の表情は冴えない。当然だ。
「憂さ晴らしに来てるのか、重大な話をしに来てるのか、それとも雑談しに来てるのか――はっきりした方がいいぜ。あい先生」
乳白色をしたカクテルの入ったグラスが差し出され、諒也がそれを受け取る。
「――どうも。話したい事があるのは俺だとも言ったよ。呼び出したのは俺の方だ」
今の話題を振ったのは冬雪の方だった。
「先生に呼び出された……か」
「そのネタ2回目だよ、くる」
「判ってる。で?お話どーぞ、先生。俺は聴いてるから」
話を振られた諒也はグラスの中身を一口だけ飲んで、静かに唇を開いた。
「――葵が言ってた。俺の口から、秋野に伝えるように――『俺がお前を殺そうとしたのはお前の為だった』そうだ。意味は俺にも良く判らない」
「……葵が?またあの……夢で?」
「あぁ。またって言っても俺は2回目だ。あぁ、そう……鈴夜君が居たな」
「! じゃあやっぱり」
諒也が見た世界と、冬雪が見た世界は同じモノ。
「多分な。葵はそう言ってた」
「……オレの為に、オレを殺す……」
意味が判らない。
冬雪が死ぬ事で一体誰が何の利益を得ると言うのか。

いや――利益を得るのは冬雪自身、か。

諒也が遠慮気味に口を開く。
「意味……判るか?」
「……判る訳、無いじゃん。お前の為って言われたって……よく、判んないよ」
「何か重大な理由があるみたいに思えたな。理由は……秋野が自分で見つけるべきだと」
会話はそこで止まった。しばし沈黙が流れ、自らの呼吸音だけが微かに耳に届く。
殺されて幸せになると言うより、生きていたら不幸であると考えた方が確実だろうか。
「生きていても……苦労するだけ?死んだら……後は」
永遠の平和を保障されたあの世界で。
出来る事なら、冬雪だってあそこへ行きたい。どれだけ退屈でも構わない、恒久の平和は永遠の夢だった――。

――果たしてそういう事を葵が言おうとしていたのかどうか。

これから先は生きていても無駄だと、当時はまだ冬雪の“保護者”であった彼がそう考えたと言うのか。
「葵がお前の将来を悲観してか?それもそれであいつらしくない」
諒也が言う。確かにそうだ。
「でも……お前の為だなんて言われて思いつくのはそれぐらいだよ」
「普通ならそうだ、でも――……そんなんじゃ、無いような気がするんだよな……」
いつもと違う話し方をする。
諒也は胸ポケットに手を伸ばしかけてとどまった。行き場を失った右腕はグラスに伸ばして弄ぶ。冬雪はその様子を眺めながら、静かに思う。

やはり彼はまだ何か隠している。

重大な――何かだ。

でも彼自身、それに対して納得出来ていないで居る。

何故だろう、一体どうして隠そうとするのだろう。

仲間では――……なかったのか。

師弟関係と言うのはただの飾りで、もっと深いところで通じ合ったのではなかったのか。


それこそこちらも、納得が行かないというものだ。


だからと言ってそれをこの場で言い出す訳にも行かず、冬雪は彼から目を逸らしてうつむき、黙り込んだ。
グラスの中に半分ほど残っていた酒を、少しだけ喉に通した。

――少し、辛い。

急に子供に戻ったような――妙な感覚を覚える。
正面に立つ店主は落ち着いた目線をこちらに向けていた。胡桃なら――全てを、見抜けるだろうか。

だがいくら考えても所詮素人は素人。
諒也の隠し事を見抜けるほどの人間はまだ――居ない、ようだった。

店内の時計を見上げる。
時刻はまだ11時半にもなっていなかった。

「……ゴメン、オレ眠いから帰るわ。全然相談になってなくてゴメン、先生」
「ん……あぁいや、伝えるべき事は伝えたから良いんだ。眠いなら寝た方が良い」
「冬雪」
「ん」
胡桃が何かを言おうとして、口を「あ」だか「え」だかの形に広げたところで――静止し、少し首を振って、笑った。
「カネ」
「…………判ってますよオレだってそんな、タダで飲もうなんて思っちゃ居ないって」
精算カウンタへと向かおうとすると、背後から制止の声が掛かった。
「あー、俺が後で出しとく。呼び出したのは俺の方だ」
いつもと同じ顔と声で、諒也が珍しい事を言った。
「でもオレが飲んだ分ぐらいは」
「気にするな、酒の1杯分ぐらい奢ったって良いだろ」
笑って言うが、今までそんな事を言った事は無かった。

尤も――人間、時々はそういう気分になっても奇妙しくは無いのだろうが。
それでも何処か違和感を感じざるを得ないような気が、したのだ。

――だが今は奢ってくれると言うのだから……それに甘えるとしよう。

冬雪は笑顔を返した。
「ありがと!あ、ちなみに1杯じゃなくて3杯だけどね」
「なぬッ」
「じゃーね、先生、くる。また今度」
「おぅ、またな」
「…………じゃあな」
胡桃は楽しそうに、諒也は不満げに小さく手を振った。
 冬雪はそれに軽く敬礼で応じて、店の扉を開けて外に出る。


――空に浮かぶ大きな月は円く、この世界を穏やかに…………否、

それは冷ややかな瞳で、この愚かな世界を見下しているようであった。


   *

「――待ちましたか?」
「いや、いつもの事だから」
青年はニッコリと微笑んだ。彼女は小さくため息を吐き、苦笑して「ゴメンなさい」と謝った。

群青色の空には大きな金色の月が浮かぶ。
いつも2人を見守り、しかして何も言わない傍観者。

「気にするなよ」
「判ってます――……それで、『計画』はどの辺りまで?」
青年は吸っていた煙草の火を消し、ニヤリと笑った。
「オニイサンの大事なモノを奪った。これから先しばらくはオニイサンを苦しめる」
「それでもし……彼が耐えられずに亡くなられた場合はどうするのですか?」
「その時はその時、こっちにしてみりゃラッキーって話だ。彼は邪魔者でしかない」
青年はそう言い切って、吸殻を公園のゴミ箱に放り込んだ。
「――行こう。協力者がもう1人増える事になってる。ありがたい事にCECSだ」
「心強いですね」
「あぁ。これで――何もかもに対応できる」
「これからその方に会いに行くのですか?」
「そのつもりだ。どうする?帰るか?」
会って話した理由は現状報告。
それだけならメールでも何でも構わないが――顔を合わせる事だけに意味がある。

彼女は少し笑って頷いた。
「すみません。それじゃあまた今度――」
「あぁ、じゃあな。元気で」
「えぇ」

   2

 十六夜月が美しい。
 滅多に上らない中学校の屋上で、柵に身を委ねながら彼は静かにため息を吐いた。
「ホントに来てくれるとは思わなかった」
彼の背後で黙々と望遠鏡を組んでいた少年が呟くように言った。
「偶には気晴らしも必要なんだよ」
「校長先生って大変なの?」
「……あぁ、大変だよ」
「どんな風に?」
「人間関係とか、ね」
通常の業務など最早どうでもいいと思えるぐらい、この学校は奇妙しかった。ついていけそうもなかった。
教員であるにも関わらず敢えて民間からの採用と言う形を取っての採用だったが、正直民間である意味がまるで無い。第一何の為の『民間からの採用』か。完全に一筋と言うほどでもないが、『大体教員一筋ぐらい』でやってきた諒也にとっての世界は未だ学校の域を離れない。離れようとしてもそれは飽くまで手伝いか秘密の仕事、外の世界をまともに知った事など無いように思える。
 少年は不思議そうに「ふぅん」とだけ答えて再び望遠鏡のセッティングに戻った。
「君はどうなんだ?色々あるだろ、その――……ほら」
具体的に言う事が難しく思えるほど、対象は微妙すぎるラインに立っていた。
少年は少しも悩むような仕草は見せなかった。
「うーん、別に、普通だけど……」
「ハーフとかかな?」
「うん、そうそう。父親がイギリス人で」
そういえばそんな生徒が以前居た。懐かしくなって少しばかり想い出に浸ると、再び諒也は元の世界に戻ってきた。
「そ、か。モテるだろ」
「そーでもないよ。そこまで僕『それっぽい』顔してないし」
確かに秀ほど日本人離れしてはいないが――。
「髪も目もそんなに目立たないし、それに――」
「その原因は別だろう?」
「……僕は楽だよ。皆疑わないからね」
少年――秋野羽鳥は自嘲するような笑顔を見せ、作業を続ける。
「あぁ……そうかも知れないな」
「誰も奇妙しいって思わない。冬雪君とかと違って」
「彼について何か気になることでも?」
「え?」
急に焦ったような顔を見せる。どうやら図星らしい。
「何かあるのか?」
「た……大した事じゃないよ。別にそんな重大な事じゃ」
「でも気にしてはいる」
「……うん」
「俺に話せる事か?」
羽鳥は刹那の間黙り込んだ。作業をしていた手を止め、瞬き2回、そして真剣な顔をこちらに向けて再び口を開いた。
「冬雪君はまだ先生のこと疑ってる。何か……隠してるんじゃないかって」
「……俺が、か?」
「そう――……隠してるように、見えるだけだと思うけど」
「見えるだけなら、苦労しないさ」
「……隠してるの?」
不審なものを見るような目をこちらに向けられると――少々、心苦しい。
「人間誰だってちょっとぐらい隠しごとあるだろ……その程度だよ。ただ今まで色々ありすぎて、細かい事もあいつにとっては気になるのかも知れないな」
「……なら……いいけど」
「君は何が心配だったんだ?あいつが俺に対して色々言うのはもう随分前から――」
「判らないよ、まだ判らない」
返答になっていない。呟いた羽鳥は望遠鏡を覗き込む。どうやら月を入れようとしているらしい。
「……今日は月の写真でも?」
「それもひとつ――」
話題が逸れる。
いけない。
諒也が話題を戻そうとする前に、羽鳥の方から先に言ってくれた。
「判らない――……冬雪君だってCECS。やろうと思えば……先生のことも殺せるから」
CECS同士の殺し合い、か。
随分と前から杞憂されてきた事のひとつだ。
「……そう、ならない事を祈るよ」
「祈るだけじゃダメだよ――……もっと、確実に防がなきゃ。もう冬雪君だって子供じゃない、力関係から言ったら」
「あぁ俺のが下だ。随分詳しいな――しょっちゅう話してるのか?あいつと」
「そうじゃないけど……色々情報が入って来るんだよ、本家の方から。冬雪君に一番お世話になったのは僕だし、皆心配してて」
そこで羽鳥は台詞を止め、望遠鏡の横に立ててある三脚のカメラを覗き込んだ。
どうやら彼の話したい事はそこで終わったらしい。
「――……その時はその時だ、仕方ない。あいつがそれからどうなるかは――……あいつが考えるしかない」
「先生は殺されても平気なの?」
殺されてしまったら痛みも何も無いのだから、平気かどうかと問われても返答は難しいのだが――。
「平気とかって言うよりは……それ相応の理由があるなら仕方ないと思うよ、俺はね」
他人がどう思うかは知らない。
自分が満足できれば良い。
満足したと――思い込んでさえ居れば、良い。

それならば命の有無など問題ではない。

「理由も無く殺されるって言うんなら話は別だけどな」
「……そんなの、当たり前だよ」
ずっとカメラのレンズを覗いていた羽鳥が顔を上げ、シャッターから垂れ下がって揺れるレリーズ――これのボタンが押されている間はシャッターが開いたままになる、カメラマン御用達の遠隔装置だ――を手に取った。
 諒也は風に晒されて冷えた両手をパーカのポケットの中に突っ込んだ。初夏とは言え夜はそれなりに寒い。見上げた先の丸い月は、先刻と変わらない色を保ってこちらを見ている――。
「先生、押すよ」
「ん、あぁ」
そういえば時計係を買って出たのだった――諒也は腕時計の示す時刻を読み上げる。そして午後8時丁度、シャッターが切られた。
「ずっと一人でやってたのか?言ってくれれば手伝い呼ぶのに――」
「でも……悪いよ」
「? どうして」
「僕なんかただの趣味でやってるのに、そんな」
「気にするなよ――俺が専門家なんて呼べるわけないだろ」
羽鳥は一瞬きょとんとした顔をしていたが、すぐに笑って「それもそうかも」と呟いた。

 その日は運が良かった。ほとんど雲は無く、その後何枚か写真を撮った後で軽く夜食を取り、夜もだいぶ更けた頃に申し訳程度の広さの部室で寝袋に潜り込んだ。3人寝られたら良いぐらいの広さしかなかったが、大して問題はなさそうだった。
「おやすみ、先生。変な感じ」
「あぁ――俺もだ。おやすみ」
わざわざ職員室まで戻るのも億劫だしその意味はほとんど無い。せいぜい校長室にソファがある点だけが魅力的だろうか、と思えるぐらいである。
 生徒用の寝袋は少々小さかったが、そんな事を気にする暇も無く――彼らは眠りに落ちて行った。

   *

「……? またここ、か」
 目覚めて最初に視界に入ったのは、途轍もなく綺麗な蒼空だった。周囲に人は居ない。どうやら例の――パーライト・ワールドらしい。諒也は起き上がり、例のログハウスを目指して歩いた。
 巨大な樹を見上げる。この世界を見渡しているこの樹は一体何を考えているのだろう――と自分でも良く判らない事を考えながら、さらに歩みを進めた。
 ログハウスの入口の階段を上って、軽くノックをしてからドアを開けた。
「……出掛けてるのか」
中に人影は無かった。
ならば特別する事は無い――退屈だ。

「ぐーっどたいみーん!なーんだ先輩、来てたんですかー」

明るすぎる声が背後から降りかかった。
おどかされた諒也は慌てて振り返る。

そこには笑顔を浮かべた彼が手を振りながら立っていた。

「…………葵……少しは気を遣って声掛けてくれ。心臓に負担が掛かる」
「あれ?気付いてなかったんですか?」
「当たり前だッ」
「そうですかね?まぁいいや。あぁ……そうそう、やる事があったんだ。どうぞ先輩、中へ」
急に深刻そうな顔をした葵が諒也を促す。
扉を開け、いつものテーブルを目指した。2人が着席すると、葵は静かに口を開いた。
「お願いが、あります」
「あぁ……何だ?俺に出来る事なら良いが」
「……先輩にしか出来ません。先輩でしか……意味が無い」
葵はこちらを見ていなかった。少しうつむいて、祈るように両手を組んで――瞼を、閉じる。
言いにくい事なのだろうか。
数秒経って、再び目を開けると――葵は言った。



「先輩――ちょっと、死んでてもらえませんかね」



――それは何ともシュールで、理解するのには非常に時間の掛かる“お願い”だった。



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