東京想街道
Page.63[眠る太陽]





   1

――警察とStillの後継組織「DRT」との談合から3日が経過した。

「どうして居ないんだ?今の時間なら居ても奇妙しくないだろう」
長い銀髪の老翁が、その部屋の入口を占拠して青年に問い掛ける。
不幸にも捉えられてしまった青年は必死に状況を説明した。
「ですから、校長は2日前から今日に掛けて大事なご用事で出掛けていらっしゃるんですって――……!明日にはいらっしゃいます、」
「大事な用事?こっちだって大事な話がしたくて来てるって言うのに……泊まりで行ってるんだな?」
「えぇ、なんでも実家の方に戻られるとか……詳しい事は僕は知りませんが。あ、あの……もし宜しければ伝言承りましょうか?」
青年が無難な解決策を提示したところで、老翁はちらりと横を見て少し笑った。
「――いや、構わないよ。我侭な爺さんの戯言に付き合ってくれてありがとう、時間取って悪かった」
老翁の態度の変遷に戸惑いつつ、解放された青年は軽く会釈をして部屋の奥へと戻っていった。
「――やっとご登場、かな」
改めて横を向き直した老翁の視線の先に立っていたのは、三宮諒也その人だった。
「…………私のことを探していらっしゃるようですが」
「なに、そんなに畏まる必要は無い。何処か――2人になれる場所で話がしたい、忙しくなければで良いが」
「……ではそちらのドアから校長室へ。鍵は開いていると思います。私は職員室に寄ってから向かいます」
「了解。向こうで待っているよ」
敬礼をして微笑んだ老翁の顔と声に、諒也は良く判らない懐かしさを覚えた。
(誰、だ……?)
どこかで会った事のあるような――否、そんな微かな記憶ではない。しかしてはっきりとは判らない。
 諒也は冴えない意識をそちらに集中させたまま職員室へと足を踏み入れた。

   *

 諒也が扉を閉めると、その場に一瞬沈黙が流れた。
沈黙を破ったのは堂々とソファに座っていた老翁の方だった。
「『大事な用事』で休んでいたらしいな――……何があった?」
「……私用です。それより貴方のご用事をお聞かせ下さいますか?」
言いながら、諒也は老翁の正面に座った。
老翁は苦笑する。
「はは、用事というほどの事じゃない――でもきっと一瞬じゃあ終わらない」
「……?」
「私は君の父親と知り合いだ」
「そう、なんですか――父がお世話になりまして」
「いやいや世話なんてしてないよ。……驚かないな。私は今わざと現在形で話したよ」
「…………と、言いますと?」
「判るだろう、君だって馬鹿じゃないはずだ。ただ信じたくないだけだろう。そんな胡散臭い話、信じても後で尚更落胆するだけ」
「……よく、お解りで」
「それぐらい誰だって解るさ。さて、君が私の言葉の意味を判ったとして話を進めるよ。
――君の父親たる――……『岩杉聖樹』と言う人物は、実は何処にも存在しない」
今度の言葉は、諒也には理解し得なかった。
「どういう、意味ですか?」
老翁は静かに笑って答える。
「確かにそう呼ばれていた人物は居た。だが本当の名ではなかった」
「では偽名だったと?あるいは通称とか」
そんな話は祖父から聴いた事も無いのだが。
「それとは少し違うな。まぁそうだと言えなくもないが……。『岩杉聖樹』は2人居たんだ。あぁ、その……2人で1人、と言うべきかな」
「2人……ですか?」
諒也は1人しか見た事が無いのだが。老翁の話を戯言と思うか、信じるか――……かなり、迷った。
 そんな事とはいざ知らず、老翁は更に続けた。
「元々双子だった。最初は2人ともそれぞれ好きなように生きていたが――いつしか周りを何処まで欺けるかと……新たに『聖樹』と言う人間を創り出して演じるようになった」
「……壮大なお話で」
冗談のような話だった。
どう、答えていいのかも良く判らなかった。

では一体誰が――……諒也の、父親だと言うのか。

「信じていないな?確かに通常なら考えられない事をしでかした――……でも実際にあった事だ。結婚してからは、外と中の担当に分かれた。つまり――仕事をする方と家で待つ方だ。書斎には絶対に入るな、いや覗くなと言われていただろう?その中で待っていたからだよ」
「……それで……」
「そして結局……周囲をずっと欺いたまま、事件が起きた」
「貴方は誰ですか?どうして……どうして私も知らない事をそんなに知っていらっしゃるのですか」
「私がその片割れだから――……以外に、何があると言うんだ?諒」
老翁が自嘲気味に笑う。
公共の場では滅多に言う事の無い諒也の名を――……躊躇いも無く、略称で呼ぶ。
かつて生きていた父が、そうしていたように。

全てが、繋がったような気がした。
生きているなどとは考えた事も無かったのに――……先刻感じた妙な懐かしさはそれか。

何と言って返せば良いのだろう。

“生きてたんだねお父さん嬉しいよ”――そんな言葉で片付けられる話ではない。

今目の前に居る人物は、一体何者なのか――。

「――すぐに納得など出来る訳が無い。本当なら……事件の時にばらせば良かったんだ。今になって後悔しているよ――……」
「あ……貴方は、その……どちらなんです?」
「私は“中”だ。当然だろう?家担当がパーティになど出掛ける訳があるまい」
そう言って老翁は笑う。
当然と言われれば、当然か――。
「そう、ですね」
「まだ納得行かなさそうだな。まぁ、そういう訳だから私はただの“お父さん”で“伝説の教師”でも無ければそんな仕事をした事すらない。
何も気にせずに話せばいい――“君が知っている父親”は私だ、安心しなさい」
全く同じ笑顔と声で、全く同じ台詞を聞いた事がある。

一度ではない、何度も――……諒也が不安になっているのを、察知しているかのように。

「……俺が、知っている」
「あぁ、そうだ」
「俺の……本当の父親はどっちだ?」
「諒は私だ。戸籍上はそうではないが」
「……じゃあ姉さんは?」
「……私ではない。でも――……扱いは平等だ。そう決めていた」
「……。ずっと、隠れてた」
「仕方なかったんだ。今更出て来るのもどうかと思ったが――……でも私の識っている事は君の助けになるはずだ。仮にも私は『岩杉聖樹』の片割れだからな」
そう言ってまた『片割れ』は懐かしい笑顔を見せる。

――彼は全てを識っている。

諒也の事を、生まれた時から知っていて――。

だと、すれば。

諒也にCEを施したのは今目の前に居るこの人物なのだろうか。

考えたくない。
そうである事は確かなのに――……そう、信じたくない。
「……他にこの事を……知っている人は?」
「琴梨ぐらいだろう」
「……じゃあ生きている人間は」
「諒也だけだ」
「姉さんも知らない?」
「まぁ多分な。名前が違う事には気付いたとしても――……2人居る事には気付かないだろう。少なくとも、親父が話したりしなければな」
「祖父さんが」
「協力者だ。最初は何をふざけた事をと言って笑っていたが――上手く出来る事を知って協力してくれるようになった」
「……ノリが良いから」
老翁は小さくため息を吐く。
「あの日どうして2人を――……送り出したのかが判らない。何かがある事は判っていた、出来る事なら私が行って止めたかった」
「気付いてたのか?」
諒也の問いに、老翁は数秒黙り込んでから静かに唇を動かした。
「――……気付いていたと言うよりは、脅されていたと言う方が正しい。“行かなければ子供を殺す”、そういう内容の文面だった。恐らくは新海氏の家にも――」
脅迫状が、届いていたと言うのか。
「そんなものいつの間に――」
「さぁ、ポストを見たのがお前より先だっただけだろう。もし諒か梨子が先だったとしても、聖樹宛になっていれば開けはしないだろう?」
「……そう、かな」
「とにかくそう言う事だった。聖は――……あぁ、私は樹で兄が聖。そのままだ。そう、聖にそれを渡したが心配無いと言って棄ててしまった。行けばいい、行けば殺されはしない――と」
「殺されるのは自分の方だった」
「そういう事だ。どちらにしろ、私たちの行動は彼らの思う壺――。だが私の存在は予想外だっただろうな」
「あぁ予想外なのは俺もだ。でも出てくるのが遅すぎる――……もう時効過ぎてるぞ?知ってるだろ?少なくとも新海碧彦が殺された事件って事で有名なんだからそれなりに報道も」
「時効は問題じゃない。あの事件は始まりでしかないんだ。そして今現実に――」
事件は、繰り返されている。
「そうだな、息子も1人死んだよ」
「……え?」
樹と名乗った老翁は本当に驚いた顔をして、諒也の目を見つめた。
「まぁ、そういう、事で休んでた」
「…………遅かった」
額に手をつき、うつむいた樹がまたため息を吐く。
「なぁ……どうしてなんだ?どうしてこんな――……沢山の人を殺して」
「警察さ――……元々は警察が目を付けたCE導入家庭への、牽制の為」
警察。
一般市民の味方。

では我々は最初から既に――『一般市民』に分類されてすら居なかったのか。

「勿論普通のお巡りさんが堂々とそんな事をするはずがない。警察組織を牛耳る何者かの陰謀だ」
「それが誰かまでは知らないんだな?」
「判らない、私が思いつく人物が――……犯人だとは、とても考えられない」
「……?思いつく人物が居るのか?」
尋ねると、樹は少し下を向いて黙り込み、瞬きを2回して、ため息を吐いた。
待つしかない。
話してくれるはずだ。

樹が口を開いた。

「――久海蒼士。高名な画家であると同時に――……元、警視総監」

知っている名を聞く事になるとは、思っていなかった。

「……確かに、考えにくい、かもな」
「『牽制』の為に――……自分の息子まで殺すとは、思えない」
諒也には何も言えなかった。

憶えている。
諒也が葵の事を紹介した時に大興奮していた彼の姿を憶えている。

少なくとも彼は久海氏に対して相当の好意を抱いているだろう。
「……信じたくないのは、良く判る」
「まだそうだとは限らない。あの人が私たちと違って前時代的な人なのは良く知っているだろう?何があろうと――……家を潰す事は、有り得ない」
跡継ぎたる息子を殺すなどと言う事は考えられない。
諒也は小さく頷く。
「私にはここまでしか判らない――だがまだしばらくは身を隠していられる。何かあれば出来る限り協力しよう。聖樹とさえ名乗らなければ『ただ名前が同じだけの遠い親戚』で誤魔化せる」
「……それは姉さんの常套句で」
「逆にそれが利用できるだろ」
樹は人差し指を立ててそう言い、ずっと昔と変わらない、子供のような笑顔を見せた。
諒也は静かに微笑んだ。
「出てきてくれて、ありがとう――父さん」
「大した事ではないよ。タイミングは非常に悪かったが……」
樹が立ち上がる体勢に入る。
帰るらしい。
「仕方ないさ」
「――元気そうで何よりだ。TVは信用しないタチでね」
そう言って樹は立ち上がった。諒也も続く。
樹が部屋の出口に向かって歩き始めた。
「! なぁ――……ひとつだけ訊いても、いいか?」
諒也の問いに、樹はゆっくりと振り返った。
「俺に対してCEを施したのは、本当に砂乃だったのか?」
一瞬目を見開いた後、少し視線を逸らして、樹が答える。
「――……彼女は諒のCEを完成させる原因の一端ではあったかも知れないな。でも大方は私だよ。梨子がお前に何も言っていない限り、夢見月家は私が生きている事に気付いていないだろうが――『岩杉樹』はCECSの1人だ」
「……!!」
「受けなかったのは聖の方。私たちは根本的に何かが違ったんだ。でも勘違いするな。私が敢えてルールを破って2人ともにCEを施す事にしたのは――……こうなる事を、見越しての事だ。いつか必ず、私たちを潰そうとする者が現れるはずだと知っていた。恐らくは夕紀夜氏も同じ考えだったのだろう。出来る事なら、2人とも完成させるつもりだった」
「でも出来なかった、か。……じゃあ姉さんにはバラせないな。公表なんて事になったら――」
「あぁ、そうだな。はは、今でも梨子は相変わらずなのか?お前と違ってTVなんかではお見掛けしないからなぁ」
そして一生会えないのか。
笑っているが、その笑顔が何処か寂しそうに見えた。
「相変わらず、だよ――」
「そうか。いい加減素直になったらどうなんだ、2人とも――……それでも『大事な姉弟』なんだろう?」
「…………ッ」
「あはは、顔が赤いぞ、諒。私は何でもお見通しだ。じゃあ元気でな、仕事頑張れよ」
軽く敬礼をして、樹は出口の方へ進む。
「あぁ……。何処に住んでるんだ?何かあったら何処に連絡すればいい?」
「中野の家だ、聖名義だったのを私名義に書き換えて今も住んでる。暇があったら遊びに来ればいい。何も変わっていないよ」
「疾っくに売り払ったのかと」
「色々面倒だからな」
意味も無い面倒ごとは大嫌い。
この性格は完璧に遺伝だ。大いに納得した。
「……そうだな。ありがとう、また会えたら宜しく」
「おぅ、それじゃあな」
そして『父』はその部屋から出て行った。
取り残された諒也は樹が階段を下りていったのを確認して、扉を閉めた。

沈黙が虚しく響き、ひとりでに嘆息をもたらした。

扉にもたれ掛かり、幼い頃の出来事に想いを馳せる。

「まさ――……」

道で遊んでいて車に撥ねられたと言う息子の顔が脳裏に浮かんだ。

「……俺がいけなかった」

――自身を責めてそれで済むと言うのなら、いくらでもそうしよう。

だがそうではない事を識っている。
今はそんな事を言っている場合ではない。

諒也はデスクに戻り、ペンを取って手帳を開いた。
住所録のページに書き足す名は『岩杉樹』、住所はかつて彼らと共に暮らした場所。

手帳を閉じてポケットに仕舞い、諒也は職員室に繋がる扉に手を掛けた。


   2

「お久し振りです。良かった、お元気そうで何より」
目を開けるとその世界は、例のあの場所――だった。
「――……葵」
敬礼をした彼は少し苦笑して、言った。
「色々、大変そうですけど」
起き上がりながら諒也は答えた。
「……まぁな」
諒也の表情が冴えない事を気にしたのか――葵は少し戸惑うような顔を見せ、それから笑顔を作って、
「さ……さっぱりしましたよね、髪」
完全に話を逸らした。
「あぁ……切ったのは随分前だよ」
答えながら立ち上がる。髪と服についた草を払った。葵が不満げな口調で言う。
「……話題が見当たらなかっただけですよ、そんなの……知ってます。ただ前にここで会った時は長かったからって言うだけで。『大変そう』だから、下手な話題振ると……逆効果かなって」
諒也は草原の中を歩き始める。葵は立っていた場所に留まった。
「さぁ、どうだろうな。案外『下手な話題』だったかも知れないぞ」
少し進んだ辺りで振り返って冗談のように言う。
「え……あ、そうだったら、スイマセン」
「気にしてない。行こう、ここじゃ話しにくい」
苦笑して諒也が言うと、葵はひとつ安堵のため息のようなものを吐いて、笑った。
「そうですね――行きましょう」
進み始めてから葵が叫んだ。
「き……『気にしてない』って、そうだったって事じゃないッスか!」
「だから気にしてないって言っただろ?俺は大丈夫だよ」
「……本当に?」
「どうしてそんなに俺の事を気にするんだ?」
「……俺の所為で、先輩には迷惑掛けられないから――……」
「……葵の所為?何の話だ?」
「あー、だからほら、その……俺がこう『下手な話題』振って、大変ですねとか言っちゃった所為で、尚更先輩が落ち込んだりしたら……嫌だなって」
そういう事なら問題ないのだが。
葵の口調と表情は必死にしか見えない。そんな事だけでどうしてそこまで本気にならなければいけないのだろう。
確かに――気を遣う事、ではあるのかも知れないけれど。
「そう……いや、気にしないってさっきから何回も言ってるよ」
「……なら、大丈夫です」
だが尚も不安そうに見えた。

   *

 ログハウスの中で、予想外の人物の姿を見た。
「――鈴夜、君……!ここに居たのか?」
「ほら挨拶しろ鈴。ふゆと違って変わりねぇだろ?先生は」
部屋の中で立ち尽くしていた鈴夜が、静かに口を開いた。
「え、あ……お久し振り、です」
「あぁ……久し振り。でもいつの間に――……秋野はそんな事一言も」
「言う訳無いでしょ、そんなの自分だけで抱えて大喜びするんですよ。父親居なかった所為でブラコン根性真っ只中ですからね」
葵は適当な事を言って中に入り、鈴夜の頭をポンと叩いて前回座っていたのと同じ椅子に座った。
「あ……葵君、それ冬雪に言ったら怒ると思います」
「判ってるよ冗談冗談。守るべきなのに守れなかったのが自責の念になってただけだ」
感心した。葵も全てを識っている――否、識っていると言うよりは、冬雪の感情の捉え方を理解しているがゆえに全てを捉えられるのだろう。
「なぁ――……って事はやっぱりここはアレなんだろ?秋野が来てる『この世界』と同一なんだろ?」
「!! おっといけない、無意識に肯定してしまっていたぞよ。夢を共有する事は通常不可能ですよ」
「あぁ、でもこれは『夢』の共有じゃない、『夢の世界観』の共有だ。住人も共有してるがその辺は……良く判らない」
諒也は鈴夜の隣の椅子に座った。
葵が一呼吸置いて答える。
「理解の速い方は助かります。ここには時間の概念が無い。無論地上世界での時は流れ続けますが――……ここが平行に進んでいると言うわけでも、ない。時々ちょっと戻ったりします。まぁ稀な事ではありますが……『夢』を共有する事は出来ません、だから複数の人間がここに来てしまった場合は、僕は同時に複数の対応をする。でもそれは地上世界で同時であるだけで、ここでは同時ではありません」
「つまり……俺と秋野が偶々同じ日にここへ来たとしても、葵たちには2人合わせての対応は出来ない、って事だな?」
「出来ません。そういう風になっています。でも――死んだ人間は別です。夢では、ありませんからね」
「あぁ、だからここにこの子が居るんだろう?」
「ご名答。そういう事です。で――……何の話しますかねぇ」
葵が腕を組んでわざとらしく考え込む。
「なぁ、葵……こっちの事は大体知ってるんだろう?」
「ん?えぇ、そうですね。心の中までは覗けませんが」
「……じゃあ何もかも知ってるんじゃないのか?全ての犯人も、実行犯も」
そう言うと、葵は不敵な笑みを見せて答える。
「どうでしょうね――……知ってるかも知れません。でも俺がそれをここで答えて、貴方が現実世界でそれをいきなり公表したところで誰が信じてくれますか?夢でも見たんだろう、それで終わりです。それにさすがの俺もそちらの未来までは判らない」
「……それも、そうかもな」
「良かったですね、お父さん生きてて」
「…………まぁ、な。秋野の気持ちが少し判った気がするよ」
「そうでしょうね。あいつなんてどっちも生きてたって言うんだから完璧に笑い話です」
葵がそう言って笑い、諒也もつられて少しだけ笑った。
 鈴夜が唐突に呟く。
「……僕も母さんに会いたかった」
兄弟の内で母親に改めて顔を合わせていないのは鈴夜だけだ。
幼くして亡くなって、そのままずっとこの世界で眠ったままで居た。

あの頃と変わらない彼が、一体どれだけの苦痛を感じているのかは――……想像もつかない。

「あー……悪い、この話振った俺が悪かった。だから泣くなよ鈴、」
「な、泣くなんてッ。判ってます、しょうがないって判ってます」
「『冬雪と葵君だけ会ってずるいッ!』とか思って無ェだろうな?」
鈴夜の声と態度を真似て言った葵に、鈴夜は首を思いっきり横に振って答えた。
「お、思ってません!断じて思ってません!」
「よし」
微笑んだ葵が鈴夜の頭を撫でた。

――本当に変わりない。彼らが既に死んでいるとは思えないほど、この空間にあの頃と同じ空気が流れている。

諒也がボーっと2人のやり取りを眺めていると、突然葵が深刻な顔をして言った。
「――先生」
「! え、えぇと」
「ここは敢えて先生と呼ばせてもらいます。保護者(おれ)から本人には……言えないから、先生の口から、ふゆに伝えてください」
「……?あぁ、何だ?」
「『俺がお前を殺そうとしたのはお前の為だった』って」
意味を取りかねた。
言われてみればそんな事件もあった――……あの時は諒也が止めたのだったか。
「どういう事だ?」
「同様にして白亜叔父もです。でも……その時はまだ、何も知らなかった。理由ですか?俺には言えませんね。それはあいつが自分で見つけるべきです」
「…………判った。葵さんは、敵では……ありませんよね?」
以前のように呼ばれたから、以前のように尋ねた。
葵は一度だけ瞬きをして、いつものように笑った。
「えぇ、勿論。先輩と、冬雪と梨羽と、その他俺の大事な人たちの為に俺は今ここに居る」
「良かった」
「いえいえ。元後見人としては大事な『息子』を変な世界に奪われたくないだけです」
葵は兄であり従兄であり、親でもあったと――冬雪は言っていた。
仮令滅多に家に帰らなくても、保護者としての責任を果たせると夕紀夜が判断して彼に任せたのだ。
実際、担任と言う立場から見た葵は、家に居ない点を除けば充分に保護者らしかった。
「――ではそろそろお送りしましょう。これからも大変だと思いますが、頑張ってください」
「……あぁ、何とかして生き延びるよ。2人も元気で」
立ち上がってログハウスの玄関へと向かった。
2人が付いて来る。
「それじゃあまた、来られたら会おう」
「えぇ、お待ちしてます」
葵が笑顔で手を振る。鈴夜は小さくお辞儀をした。
諒也は軽く敬礼をして、その家を出て行った。



出て、階段を下りた先に――人が居た。



諒也の事を見つめる――少女、だった。
「もう、帰るんだよね。急がないと朝が来ちゃうもんね」
肩ほどまでの黒い髪と、大きな茶色い瞳を持つ。
そこの花畑で摘んできたのか――色とりどりの花を抱えて、儚(はかな)げな笑顔で立っていた。
「――……どうして……砂乃が」
「ずっと会いたかったの。全部知ってる、だからって諒也を責めるのは筋違い。会えるだけで良かった」
何と声を掛けていいのかも判らない。
あの頃は何の躊躇いも無く何でも言えたのに――。
「しあわせになってね。諒也がしあわせならあたしは満足だよ」
花を投げ出し、彼女は彼に抱きついた。
あの頃の感覚を取り戻すように――……諒也は砂乃の髪に触れて静かに笑う。
「――もっと若い時に会えれば良かったのに」
「おじいさんになってからよりマシだよ。それに……きっといつだって変わらないよ」
「……。助けられなくて、ゴメンな」
「! そんなの、諒也の所為じゃないもん……今更そんなの気にしない。それでずっと諒也が自分の事責めてたんなら、あたしが解放してあげる」
砂乃はあの頃と同じように笑った。
それから一歩引いて、再び唇を動かした。
「さ、そろそろ帰らなきゃ。皆が校長先生を待ってるよ」
「……似合わないだろ」
諒也は花畑に向かって歩き始めた。
砂乃は後から続いてくる。
「そんな、似合う似合わないの問題じゃないよ!確かにあたしも初めて聞いたときは似合わないって思ったけど!」
「思ってんじゃねぇか」
「お、思ったけど、でも諒也だったら出来るだろうなって思ったの!」
「……はぁ、さいですか」
「もうっ、ホントに変わってないんだからー」
「変わってないのが取り柄ですから。――それじゃあな」
砂乃の頭にぽんと手を載せ、笑い掛けてからすぐに意識が途切れた。

彼女の応答は聞けなかった。

目を覚まして初めて視界に入ったのは、いつもと変わらない白い天井。
「……結局俺は――……」
何の為に生きているのか。
答えは一生判らないだろうが――それでもいい。

――今は生きているだけで幸せだ。

そう心の中で誓ってから、諒也は枕もとの時計を見て絶句した。

――現在時刻は午前7時20分。

起床予定時刻より2時間20分、遅れている。

「ば――……馬鹿砂乃!!お前の所為にするからなッ」

そんな事をしても実際には何の効果も無いのだが――……自分だけは救える。
 諒也は人生で3度目の寝坊に戸惑いながら、いつもの5倍のスピードで出勤準備を始めた。



BackTopNext