東京想街道
P.62[露と消えにし]




   1

 バスの中から見える風景も、バスの中でのアナウンスも、何もかもが新鮮だった。
 別に紫苑町に行くのが初めてだと言う訳ではない。勿論何度か出掛けた事はある。しかしそれも十年単位で昔の事――……母親と一緒に買い物に行ったとかそういう次元の『お出掛け』である。そんな時の記憶など、残っている方が奇妙しいと言うものだ。遊園地に出掛けるのとは訳が違う。
 冬雪はバスの窓枠に頬杖をついて、静かに外の風景を眺めていた。他に客は少ない。基本的に緑谷駅から紫苑町に出ているバス自体が少ない。しかし少ないには少ないなりの理由があって、つまりは客が居ないのである。どちらもそれなりに発展している町であるゆえに、互いの町を行き来しなければならない、あるいは行き来したくなるような要素はほとんど無い。どちらかにしかない店――個人商店は除くが――だとか、どちらかにしかない施設だとかは一切無かった。
(でもやっぱり違う街)
 街の雰囲気というものはそれぞれ異なるものだ。駅次第、あるいは人次第と言えるかも知れない。

――ふと気付くと、下りる予定のバス停が近付いていた。慌ててボタンを押して、すぐにバスは停車した。

 そこで下りたのは、冬雪ただ1人だけだった。
(さて――……行きますかね)
乗り気ではないが行くしかない。冬雪は目的地のあるという場所に向かって、静かに一歩を踏み出した。

   *

 人気の無い工場と言うのはそれだけで妙な雰囲気を醸し出している。それを目の前にした人間に生唾を飲ませたり、2回ほど深呼吸をさせたりするのだ。それでは飽き足らず手に「人」と書いて3回飲み込んだ冬雪は、ゆっくりとその工場の扉に手を掛けた。
「……殺されませんように」
 重い扉だったが何とか押し開け、中の様子を覗き見る。やはり人気は無い。本当にここで良いのだろうかと疑いつつも冬雪は中へ入り、やたらと広いエントランスをゆっくりと進む。設備の取り払われた状態では、ここは工場と言うよりもただの倉庫にしか見えなかった。

 一番奥にはまた扉があった。今度は通常サイズのドアがぽつんと1つ、壁に埋め込まれた形だ。壁と異なり強化プラスチック製のドアの上部には「管理人室」と書かれたプレートがはめ込んであった。どうやらそういう事らしい。冬雪は律儀にドアを2回叩く。反応は無い。ドアノブを下ろし、恐る恐る向こう側に押し開ける――。

「やっぱりアンタやったか」

ドアの正面でソファに座り、嘲笑に近い笑みを浮かべてそう言ったのは、紛れも無い――霧島神李その人だった。淡い青色のサングラスを掛けている。服装は至って普通の『普段着』で、Tシャツの上に黒のパーカを羽織っていた。
「……最初からそのつもりで?」
「さぁ、どやろな」
神李は笑みを浮かべるのみ。確かにStillを引き継いだ組織であるなら、最後まで足掻いていた彼が居るのは当然か――。
 とにかくこれは『仕事』だ。個人的な接触ではない。
 中に入ってドアを閉めると、向かって右側にもソファに座った人間が居るのに気付いた。染めているのだろうか、派手な薄蒼色の髪をしている。室内だと言うのにサングラスを掛けていた――と言ってしまえば神李も同じだがこちらは黒だ。全く表情が窺えない。彼は何も言わず、左手に持ったカップの中の珈琲を一口飲んだ。
 冬雪が右の彼の方に視線を向けていたのに気付いたのだろう。神李が言った。
「――こちらの方は今度の組織の言わば『ボス』で」
「朝霧や。朝霧陽月アサギリヒヅキ
神李の紹介を遮って自己紹介に替えた自称朝霧は、ニヤリと笑ってカップを置き、そのままスッと左手をこちらに差し出した。薬指に銀の指輪、どうやら結婚しているらしい――意外だ――……などと考えている場合ではない。どういう意味なのだろうか――握手か、それとも――と冬雪が対応に困っていると、その思考を止める声が耳に入った。
「あー、またですよ朝霧さん。握手は右です、右!もう3回目でっせ」
「え?あ、あー、せやな。また忘れてたわ……じゃ改めて」
右手を、差し出されている。

やはりこういう場合は、つい手が伸びてしまうもので。

静かに伸ばした冬雪の右の手首を、朝霧は素早く捉えた。
心臓が、急に大きく拍動した。

彼が、静かに笑う。

「アカンで、あんちゃん。こないすぐ相手の事信用してまったら……やられるのもすぐや」

そう言って彼は手を離した。
声が、上手く出てこない。
何を言って応えたらいいのかも良く判らない。
何処かで聴いた事のあるような――低く落ち着いた彼の声が、独特の響きを持って身体の中に染み入ってくる。

朝霧が立ち上がった。どうやらただの挨拶には変わりないらしい。彼はソファの裏に回り、やがてポットから何かを注ぐような音が聞こえた。
「座ったらどや」
神李が左のソファを指して言った。そこに座ると、丁度朝霧の正面になる。
「……でも」
「今日俺らがやりたいのは警察との話し合い。……ま、アンタは警察とは違うけど代表で来てるんやろ。何分掛かるか知れへんからなぁ、さすがに立ち話って訳には行かへんやろ、俺もアンタも」
こちらは身体が、彼らは良心がか。そんなものが彼らにあるのかどうかなど知ったことではないが。
冬雪は小さく頷いて、示されたソファに腰掛けた。
「あい。砂糖とかミルクとか要るんなら持ってくけど」
朝霧が新たに珈琲を淹れてくれたらしかった。冬雪は砂糖だけ頼んで手渡してもらった。その引渡し際に朝霧は付け足した。
「珍しいやっちゃな。砂糖だけ入れて美味いんか?オレには理解できひん味やで」
むっとして言い返した。
「そんなの、オレの勝手です」
「同感。文句言うても労力の無駄。ウチの妹も砂糖だけドバドバ入れよります」
呆れ返った顔をしながらも神李が冬雪に賛成してくれた。
「詩杏が?」
「おぉ、そうや」
「……そしたらミルクも入れたらええと思うんやけどな……」
眉をしかめてそう呟き、朝霧は再び席に着いた。

――これでようやく話ができる。

 冬雪は静かに口を開いた。
「で……本題、ですけど」
「うん。あんちゃん、思うに何にも知らんとここまで来たんやろ?警察なんてそんなモンや、バイトに細かい事教えてもしゃーない」
「……朝霧さん、そんな事はいいですから話進めてやって下さいな。時間、無いんでしょう?」
神李がまた呆れ顔で言う。朝霧は右手に嵌めた腕時計を一瞥し、「せやったな」と呟いてソファに座り直した。
「まずは我がDRTの活動目的から――」
「DRT?」
知らない言葉をいきなり出されても困る。恐らくは組織名なのだろうが。
朝霧は珈琲を一口飲み、小さくため息を吐いた。
「何や、そんな事も聞いてへんのか……由来まで説明してたらキリないから省くけど、まぁ要は組織名や。OK?」
「はい」
「で――活動目的。これはStillの頃から変わりない、CE制度に対抗する内部組織であるからにして、つまり」
「CE制度に対抗する内部組織――」
「だからそれを作った夢見月家を潰そうとしててんや」
少なくとも冬雪は初耳だった。
「……今もそれは?」
「さぁ、どやろな。少なくともオレは無意味やと思うてるけど。夢見月家が何や?確かにCE制度を作ったかも知れん――でもな、今生きてる輩に文句付けた所で何にもならへん。奴らかて解決法を知っとる訳やない、せやろ」
「……そう、でしょうね」
今の世代には無駄な事。今更、夢見月家に打つ手など無い。
 朝霧は唇の端を少しだけ、上げる。
「とにかく目的はCE制度の撲滅とCE享受者の根絶。ま、それには百年単位で時間が要るやろ、な」
「……生きている間には無理と」
「そんなトコや。でもしゃーないこと、今更オレらが愚痴グチ言うて警察に文句たれてもどーしょーもない。夢見月家も今や『頼れる存在』やない。ただ監視を続けるだけ」
このままではいつまでも、終わらない。
「じゃあ、どうしようと……?」
「どうしようもない事に首突っ込んであれこれ言う事も無い。今や警察かて信用ならん。彼らにも……家族がある。全員捕まえて殺そう言う訳には行かへんねや、人道的見地からな」
「……山見氏の挙げた改正案は」
CECS極刑案。
とてもではないが受け入れがたい。
「あんなん通る訳無いねん。馬鹿言うんも程ほどにせいっちゅう話やで。CECSが死んだところで何になる?そんなん、ただ人口がちょっと減るだけやで。第一、完成形より非完成形のほうが危ないって何回言うたら判るんやあのアンポンタン、いい加減――」
「朝霧さん、悪口も程ほどに」
神李は妙に冷静であった。
「……スマン、つい調子乗りすぎた――。あぁ、とにかく。問題なのはCE享受者の立場が悪い事。『あぁそう』で済ませられる話になれば良い訳や」
「と、言う事は……?」
「もっと積極的にアピールしたらなアカン。アンタらCECSも、普通の享受者らも、や」
「でも、そんな事したら」
「それやから今まで何の進歩も無かったんと違うか」
そう言うと、朝霧は静かに立ち上がった。ズボンのポケットに両手を突っ込み、先刻のようににやりと微笑む。
「傷つくのを恐れたらアカン。今が潮時や、ここで手を打たんかったらいつまで経っても同じ――アンタらの協力が要る」
「……CECSの、と言う意味で?」
「それプラス、夢見月家も。いい加減『犯罪一家』言われんの嫌やろ、ここ十数年何もしてへんのに」
だからこそ冬雪はその名を隠していたのであって――。
 それが取り払われると言うのなら、望まない訳はない。
 冬雪は静かに頷いた。
「それと、アンタがやってる『社会奉仕』の手伝いもする事になる。DRTの名は伏せるけどな」
「……手伝い……?」
「一人より大勢の方がええやろ。アンタかていつまでも一人で危ない仕事すんの嫌やん。違うか?他の3人は大した事してへんのにとか思うたこと無いか?」
それは冬雪に出来る仕事がこれしか無かったというだけ――。

それぐらいしか、取り柄と呼べるものが無いから――。

だから、『危ない仕事』でも引き受けなければならないだけで――。

他の3人にはそれぞれの専門分野がある訳で――。

そんな言い訳ばかりが頭の中を駆け巡り、結局喉元に下りてくる言葉は無かった。
 朝霧がため息を吐く。
「……まぁええ。今居る危ない組織の面々言うのは、まぁ大体がCE享受者や。そういうやつらはまともな職に就けんと結局そっち方面に足を伸ばさざるを得なくなる――……一般職に就いてるだけ幸せやで、君の知り合い」
誰の事を言われているのか良く判らなかったが、頷いておいた。
「そういう方面に進んでしまったモンはもうしゃーない、警察にお任せする以外無い。でもお任せするまでが大変や。そこでDRTの裏の顔、って話になると」
「おとりになると?」
「そんなようなトコやな。元々Stillが築いた“信用”がある、そう簡単には崩せへん。しばらくは大丈夫やで。いくらアンタがそういう方面に長けてる言うても限度がある。頭数は必要やろ?」
再び朝霧がソファに座った。
「――時間は掛かるかも知れん。でも時間を掛けてでも……CE享受者に対する信用を得んことには」
「それが、目的なんですね」
「あぁ、そうや。少なくともオレらの世代で出来ることは、な」
後は、先の世代に任せるしかない――。
CE享受者を全員死刑にするなどと言い出したところでまず不可能だろう。
 冬雪は残っていた珈琲を飲み干した。
「これで何処までやってけるかは未知数。いざって時に警察に助けて貰えるようにと思うて、今回の話し合いはセッティングしてん」
「……なるほど」
「Stillの跡継ぎなんて下手に言うて、警察に目付けられたら堪れへんからなぁ。最初に説明しとこうって事やな――……、ん」
朝霧がポケットから携帯電話を取り出した。こちらは気付かなかったが、どうやら鳴っていたらしい。
 彼は立ち上がって「ちょっと待っといて」と呟いてから部屋の外へ出た。
「……何も出ること無いのに」
冬雪が呟くと、それを聴いた神李が答えた。
「単にアンタには聞かせられへんてだけやろ。なんだかんだ言うても彼はウチの“ボス”やで。警察代表とは言え他人のアンタに電話の話なんて聞かれとう無いってモンや」
「…………」
「もしかしたら恥ずかしいだけかも知れんで?あー見えて奥さんには頭が上がらのーて、必死で弁明する姿を見られたくない、とか」
「そうなんですか?」
「……いや、俺は知らん、そんなん。たとえ話や」
神李がそこまで答えたところで、再び管理人室の扉が開いた。現れた朝霧は、何処となく深刻そうな顔をして携帯電話をポケットに仕舞い、黙ったまま部屋の端に掛けてあった上着と鞄を取りに行った。
「朝霧さん?帰りはるんですか?」
「……スマン、すぐ行かなアカン用事が出来た。――悪いな、こんだけしか話せへんかった」
「いえ、お話出来て良かったです。これから宜しくお願いします」
「あぁ――……こちらこそ、やな。じゃ、また今度」
そう言って、朝霧はこちらが返答を返す前に部屋から出て行ってしまった。
「何か……大変な用事、みたいですね」
「せやな。俺もあの人の事はまだよう判れへんねや」
「元々Stillの人じゃ?」
「あぁ、それはそうやけど……あんま話した事無かったしやな。もう随分会ってへんかった訳やし」
「向こうに居た頃の知り合いって事ですか?」
「まぁそんなトコや。さて――……俺もそろそろ帰るかな。詩杏がうるさいわ」
「それはしょうがないでしょう」
「一緒帰るか?一応ながらご近所さん、や」
一瞬戸惑った。
だが今更、決して怖がる必要は――……無いはず、だ。

「ご一緒させて頂きます」

冗談のような口調でそう答えて、冬雪は席を立った。


   2

 緑谷署の刑事課に寄ると言って神李と別れ、顔見知りの刑事に出来事を伝えて、またすぐに外に出た。時刻は既に夕方、日はかなり傾いてきている。警察署から出て、冬雪は家に帰ろうといつもの道を歩き始めた。
 そこで、意外なものを見つけた。
「! 玲央」
冬雪の声に、彼女の方も気付いたようだった。こちらを向いて手を振っている。
「やほ!お仕事帰り?」
「あぁ。玲央は?」
「んーと、これからちょっとふらふらしようかなーと思って」
「……そう」
そういえば、ずっと気になっている事がある。
訊くなら今だ。
「玲央――……玲央んちって何処にあるんだ?行った事もなければ何処にあるってのも全然知らないんだけど」
彼女は呆気に取られたような顔をして黙り込んだ。
何か――変な事を訊いてしまっただろうか。
「答えたくないって言うんなら別に強制はしない、けど……?どうした?」
「……そんなの、無いよ」
いつもと違う、低くて、何かに怯えているような声だった。
「え」
「悪魔の子なんて家の中に置いて嬉しい親なんて居ないの。あたしはもう『成人した』んだから、1人で生きていけるの」
「…………玲央、だからって『無い』って事は――」
「言ったでしょ?タマシイ取り出せるんだよ、って――。半分だって玲央は悪魔の子。契約出来れば生活の糧に」
「玲央……!そんな事、もし警察にでも知られたらどうなると思って――……!正直に悪魔だなんて言ったところで信じてくれる訳が無い、結果的には」
「判ってるよ。判ってるけど、玲央はシヅキとかトマリ君みたいには出来ないの……!そうやって生きて行くしか無いんだから……、」
思わず、彼女の服の襟を掴んでいた。玲央は絶句したように見えた。
下手をするとケンカに見られかねない。冬雪はすぐに手を離した。
「苦労してんなら相談しろって、何回言ったら判るんだよ。オレじゃなくてもいいよ、先生にでも相談すればきっと解決策を見出してくれる」
「玲央の事なんかで皆に心配掛けたくないから……ッ!」
「誰にも相談しないで、結果的に玲央がいきなり居なくなったりしたらこっちだって困るんだよ。4人しか……たった4人しか居ないんだ。……減ってく度に怖くなったよ。いつか1人になるんじゃないかってずっと思ってる。1人にされたら、もうオレの気力なんて一瞬で消え失せる」
玲央は寂しそうな顔をして黙ったまま、答えようとしなかった。
「……うちに来ないか?オレらの事なら気にしないでいい、部屋は余ってるし、何よりにぎやかになる」
「……え」
「一応最高6人ぐらいは住める家になってる。ちょっと古いけど、でもまぁ別に気になるほどじゃないし」
「で、でも玲央なんかが行ったら」
「へーきへーき、オレが玲央に恋愛感情とか抱いてないのは梨羽が一番良く知ってる」
「……ふゆっきー……どういうイミ、それ」
「あ……あぁいや、別に玲央に魅力が無いとかそういう事を言ったつもりは」
「いいですよー、別に玲央はただのお子ちゃまにしか見えなくても」
玲央はつんとして歩き出してしまった。追いかける。
「い、いやかなり年上じゃ……」
立ち止まった。それからまた、振り返る。
「…………。ホントにいいの?ホントに?」
「……そんな事情があるって言うのに追い出すような梨羽じゃないと思うけど……?」
答えると、玲央は本当に嬉しそうに笑って冬雪の両手を取り、ぴょんぴょん飛び跳ねた。
「ありがと!これで玲央平和に生きてけるよ!」
「よ……良かった、うん、それはそれは」
それから他愛も無い話をしながら、家に向かって歩き始めた。

このまま、何事も無ければいいのにと――……天に小さく祈りを捧げて、冬雪は静かに安堵のため息を吐いた。



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