東京想街道
P.60[歌う白鳥]




   1

 この扉を開けるのが苦痛だと、今までに何度思った事だろう。見上げると、プレートにはめ込まれた紙にはゴシック体で『職員室』と書いてある。彼は大きくため息を吐き、静かにその引き戸を開けた。
「あー、おはようございますー」
「おはよ」
間延びした挨拶は以前の後輩。諒也がこの学校の校長として赴任したと同時に何処かから戻ってきた。3つほど年下で、担当は理科だがいつも白衣の代わりに変わった色のスーツを着ている。今日は水色だ。有り得ないほど派手である。名を小林と言う。
「あ、ねぇ聞きました?今度皆で歓迎パーティやるみたいですよー」
「歓迎?誰の」
答えると、小林はぷぅと膨れた顔をした。子供だ。これで素な上、全く純粋だから憎めない。
 その言動が何処か、懐かしい誰かに似ている気がするのだが――……はっきりとは判らない。
「誰って、決まってるじゃないですか!岩杉先生ですよー」
「……冗談、別にそこまでする必要ないだろ。やるなら小林と新任3人加えて、」
「え!オレは勘弁ですよ!ここ来たの2回目なんですし……」
「それは俺も一緒だよ」
小林の肩を軽く叩き、諒也は職員室奥、校長室に繋がる小さなドアを目指した。挨拶ぐらいは、と毎日職員室を経由して部屋へ向かうのだが――……来るのが早すぎる所為で、職員室内にはまだ小林1人しかいない。正直、意味は無いと思う。
「岩さーん、あんまりぴりぴりしてると乗る調子も乗らなくなりますよー」
「……判ってる、よ」
「判ってないです。皆まだ岩さんの事全然知らないんですよ。だから不安なんです。オレは元から知ってましたから別に何がどうって訳じゃないですけど……皆何話していいんだか判らないんです。歓迎会ぐらい、やったっていいじゃないですか。ね?」
「……俺は閻魔大王にでも見えるのかな」
全く返事になっていない事を呟いて、諒也は扉を開け、中に入ってすぐに閉めた。

結局また逃げている。一体何のためにここに来たと言うのだろう――。
 鞄を置いて、またため息を吐いた。
「もう、相変わらずですね。調子悪いとすぐ人排除したがるんだからー」
扉が開いていた。向こうから覗く顔は先刻見たばかりの顔だ。
「小林、」
「何かあったんですか?ミスらないで下さいよ?」
そういえば。
思い出した事があった。
「……小林は……大亮、知ってるんだよな」
「へ?えーっと、だいすけ、ダイスケ……うーん、あんまり普通の名前なんで誰の事か判んないですけど?」
「悪い、結城大亮。ここの教員だった」
「あーぁ!何だ、最初からそう言って下さい。え、どうかしたんですか?えーと、菜穂さんのお兄さんで、随分前に亡くなって」
「そう……その妹さんだ」
「はい?なーんか、岩さんの考えてる事が全然判んないッスけど……」
「だからその妹さんに関して、大亮が絡むんだよ」
「絡むったって、もう死んだ人にそんな……」
小林は不審そうな顔をこちらに向けた。
 これ以上、他人に話すのは良くないのではないか――……そんなに軽い話ではないのだ。
「……まぁ、気にしないで。とにかくその事でちょっと調子悪いんだ」
「……なんか、判んないっすけど……頑張って下さい。あー、歓迎パーティ、もうやる事になっちゃってんですから出てくださいよ!じゃないとますます皆不安になっちゃいますから」
「あぁ、考えておくよ」
「考えるんじゃなくて決定事項!岩さん、いっつも微妙な事言うからハラハラしますよっ」
諒也は笑った。確かに、今のはわざと曖昧に答えた。小林も少し、笑った。
「日付とか何も知らないから何とも言えないけど、決まったら教えてくれよ。じゃないと答えようもなくなる」
「! はい、勿論です!それじゃっ」
小林は右手を軽く掲げて校長室から颯爽と出て行った。

――平和だ。

何故自分はこんなに平和な世界で生きているのだろう。ともすれば命を狙われかねないと言うのに――……何も気にせず、呑気に人の問題ばかり気にして生きている。
 少しくらい、自分を守ってもいいのではないか。
(……難儀だ)
 諒也は今日3度目のため息を吐いて、ようやく鞄を開けた。

   *

 やはり断っておけば良かった。自分がやろうと思った事も無いものを、一体どうしたら出来ると言うのだろう。
依頼された歌詞の作成は未だテーマすら決まっていない。ただ文章を作るのとは訳が違う。こんなに苦労するくらいなら、歌った方がまだマシだったのではないかとも思えるほどだ。
(いや、でもそれは無い、有り得ない)
しかし織川は「まだ諦めていない」と言った。
(まさかこうなる事を見越して……!?)
姑息だ。姑息すぎる。いくら冬雪でも全国ネットに素人である自分の歌声を乗せられるほど自惚れてはいない。プロの歌手とは訳が違う。
 部屋の壁に掛けてある時計を見上げた。時刻は午後11時20分。そろそろ眠くなる頃だ。
 冬雪は現在進行中の仕事で使う本を手に取った。栞を挟んでおいたページを開き、ふと思う。
(……全部英語にしちまうか?)
それならそれなりのストーリーがあって、軽く韻でも踏んでおけば――……変に思われる事は無いだろう。笑われるとしても恐らく諒也ぐらいだ。
(そうしよ)
自分に妥協するしかない。
 冬雪は小さくため息を吐き、本を閉じた。それから目の前のパソコンの電源を落とす。風呂には先刻入ったから、後は寝るだけ、である。今日はこれ以上仕事をする気にはなれなかった。そもそも早寝遅起き型の冬雪は、日付が変わってから起き続けていたところで何の意味も為さない。船を漕いでいる状態で仕事など出来まい。
 眼鏡を外して机の上に置いた。パソコンの電源もようやく切れた。急に部屋の中が静かになる。当たり前なのに、妙に切なくなった。
「……頑張ろ」
自分に言い聞かせるように呟いて、冬雪はベッドに飛び込んだ。

   *

 真っ暗とは言いがたい、群青色の空に少しだけ欠けた月が浮かぶ。星はほとんど見えない。雲のほとんど掛かっていない、晴れ渡った夜空と言うのは気持ちが良い。静かに呼吸を繰り返し、静かに待ち人を探した。深夜の駅前広場のベンチは、春とは言え冷たい。彼女は自分の両手で腕をさすりながら、寒さを凌ぎつつ時を過ごした。
「……本来なら新月の方が良かったんだ」
聞き覚えのある声が耳に届く。
彼女は顔を上げた。そして尋ねる。
「どうして?」
「――……月は嫌いだから」
待ち人は呟く。彼女には判らない感性だった。
 挨拶はここまでだ。
「行きましょうか」
「……だな」
彼女は立ち上がり、差し出された待ち人の手に光る何かを落とした。
 そして2人は、深夜の街へと消えていった。

   2

 いざ目標を目の前にしてみると、とてもではないが言い出せない。諒也は朝から何度吐いたか判らないため息を繰り返し、こういう時に限って勇気の出ない自分を呪った。
職員室内の自分の机から、彼女の机までの距離はほんの数メートル。4時限目の授業開始のチャイムが鳴るまで、あと2分ほどある。
 事件の解決を、大亮は切に願っていた事だろう。ここで引いてしまう訳には、行かない。諒也はゆっくりと立ち上がり、彼女の方へと近付いていった。ひとつ、深呼吸。変に立ち尽くしていれば怪しまれる。
「――結城先生」
「! はい」
菜穂はすぐさま反応した。諒也は笑顔を返す。
「2人だけで話したい事があります――……放課後、時間ありますか?」
「え……。えぇ、一応……明日の準備を除けば」
「良かった、それじゃあ終業後に校長室に来て下さい」
彼女は一瞬、何を言われているのか判らないという風な顔をしたが、すぐに笑って「はい」と答えた。彼女も不安なのだろう――……どちらも条件は同じだ。話されなければならない話は、彼女自身の為にと大亮がわざわざ黄泉の国から返ってまで――大げさだが――伝えてくれた事なのだ。
 諒也はすぐにそこから離れて自分の席に戻った。

――震えている。今まで40年以上も生きてきて、ここまで緊張したのは初めてかも知れない。

 これは解決されなければならない事件。大亮の『幽霊』は、志月も泊里も見ているのだ――彼らが人間ではないとは言え、諒也だけに見える幻ではなかったと言う事は確かだろう。
髪をかき上げ、落ちてきた眼鏡を直し、視界に入る書類を意味も無く眺めた。仕事にならない。
「……小林」
一番近くの席に座っている、一番身近な人物を呼び寄せる。
「はい?なんでしょ」
「一服しないか?」
「…………岩さん、禁煙中って言ってませんでしたかー?いくらベランダならオッケーとか言ったって、岩さん自身が『吸わない』って決めたんならダメですよ!」
「そっちじゃ、無くていい」
「……休憩ですか?まぁ次授業無いですけど、」
チャイムの音が響いた。その前からバラバラと席を立ち始めていた教員に加えて、鳴った瞬間に慌てて職員室を飛び出していく数名も見受けられた。残りは各自で仕事中か、各自で休憩中のどちらかである。
「じゃ、行こうか」
「岩さんの仕事はいいんですか?」
「……調子が出ないからさ」
苦笑して、諒也は校長室へ繋がるドアを開けた。
 その扉が、いつになく重く感じられたのは――……ただの気のせいだと、思いたかった。

   *

 気付いた時には既にログハウスの中に居て、その中のテーブルでくつろいでいたと言うのはどのように説明すればいいものか。目の前にはニヤニヤと笑う兄、隣には静かに茶をすする弟。どちらもこの世には居ない人間なのに、妙にリアルにそこに存在しているように見える。尤も今の自分自身も存在しているのかどうかと訊かれれば怪しいもので、この世界中何処を探しても、本物の自分の身体というのは存在していないのかも知れない。――いや、それは有り得ない事だと自分に言い聞かせてはいるが……真偽の程は定かではない。
「……で、何笑ってんだよ、葵」
「いやー、何てかアレだね。最初はぶつぶつ言ってたのによ、いつの間にかこの世界に馴染んでやんの。慣れって怖いな!」
「そりゃだって、こうも何度も来させられれば誰でも……」
「そりゃお前の意志ってヤツだ。お前自身が望みもしなければ、こんなトコには来ねぇんだよ、判る?」
「判るか!オレはこの世界の主じゃないんでなっ」
テーブルを叩いて反論すると、葵は口を尖らせてわざとらしく反抗した。
「何だよつれないなー、冬雪君。そんなにこの世界が嫌いか?嫌いなら二度と来んな、シッシッ」
「……あのなぁ」
「ほら、結局ここが必要なんだよ、お前には。お前がいくら嘘だ嘘だって思ってもな、ここに今お前が居る以上、それが『お前』の意志ってヤツだ。そんなモン、誰にも変えられやしねェんだよ。俺だって、もしかしたらお前自身でもだ」
言われている意味が良く判らなかったが、途中から葵の顔が真剣になったのは事実だった。
冬雪は小さくため息を吐いた。
「……そうかも知れないけど、でも……ここを頼っていいのか、それが判らない」
「お前はここを『頼れる』んだ、幸せなヤツだぜ。こんなトコ来れ……来られる人間なんてな、そうそう居るモンじゃねェ。判るだろ?俺の知り合いで、既に俺がここで見た人間ってのはな、お前と先輩だけなんだからなっ」
それは『葵の知り合い』が少ない所為もある気がするのだが――……しかし彼にとっては友人と知り合いは別物である。単なる知り合いであれば、一応社会人で旅好きだった葵ならそれなりの数居るのではないだろうか。その中でも冬雪と諒也だけだと言うのなら――確かに『そうそう居るモンじゃない』のかも、知れないが。
「そういう問題じゃないんだよ。ここに来られるからって、頼っていいとかそういう……単純な問題じゃない」
「信用できねぇって話か」
「信用、でもなくてさ……何て言うの、こういうのって非現実的、っての?そういうところでいくら情報得たって、それが……いくら正しかったとしても、利用していい情報なのかどうか、迷う。オレにとってはいいとしても、ここを知らない人にしてみれば……信用ならない話、って事にだってなりかねない。だからって情報源を誤魔化す訳にも行かない」
葵は真剣な顔をしたまま黙り込んだ。隣で茶を飲んでいた鈴夜は、湯飲みの端を口につけたまま静かに冬雪の方を見上げている。
「……鈴は、ここに居て楽しいか?」
何となく、尋ねてみた。十年以上も会っていなかったのだ――……妙な感覚だ。彼は死んだ、それなのに自分は今その彼と会話を交わしている。
鈴夜は静かに微笑んだ。
「何にも無くて、葵君と話してる時だけは楽しいです。でも――何にも無い。僕と葵君以外の誰も居ないし、来ても知らない誰かだし……ここから出られるんなら、出たいって思う事も、あります」
「……だよな」
「冬雪は生きてて楽しいですか?」
予想外の声が返ってきた。ただ単に、同じ事を訊き返しただけの質問なのだが――そんな事を言われるとは、露程も思っていなかった。
 冬雪は少し考えて、ゆっくりと答えた。
「楽しいのかも、知れない。楽しくないのかも、知れない。正直良く判らない。平和なんだか平和じゃないんだか、そこに居る誰かが明日死ぬかも知れない、もしかしたら自分が明日死ぬかも知れない。楽しいって思えるのは、誰かと話して笑ってる時、ぐらいかな」
「でもそこに『誰か』が居ます」
「……誰か、か」
「たった2人しか居ないんです。それが嫌だとは言いませんけど……でも毎日平和で、適当に寝て、適当に起きて、何にも無い日常が繰り返されて……退屈です」
むしろそんな世界を、冬雪はずっと望んでいたのではあるまいか。
ただ何もない、穏やかで平和な毎日を送りたい、と。
葵はこの世界の中、たった1人で10年も過ごしてきた。その間、どれだけ退屈な想いをしたか判らない――……ここに他の人間が訪れる事を、彼はいつも期待していたのではないだろうか。冗談は人に言って、初めて成り立つのだ。彼が1人で過ごしたところで、彼の退屈は何によって埋められた事だろうか。
「……ふゆ」
葵が呟く。
「何?」
「…………ひとつだけ、言いそびれてた事が……」
「? 何だよそれ、重要な事?」
軽い調子で訊き返したのだが、葵は相変わらず硬い顔を保ったまま再び黙り込んだ。
「……?葵?」
「……また今度にする。今話しても、しょうがないかんな」
「…………そう。じゃあ、待ってる」
一体何を話そうとしていたのか――……そんなに硬い顔をするほど、重要な話なのだろうか。だとしたら早く話してもらいたいのだが、彼自身が『今話してもしょうがない』と言うのならそれこそ仕方がないのだろう。今は諦めるしかない。
「さ、そろそろ時間だぜ。また様子奇妙しくなったら来るんだな。さっさと帰らねェと死んじまうぞ」
適当な口調でそう言って、葵は笑った。どう考えても、いや考えなくても作り笑顔なのはバレバレ、であった。だが敢えてツッコむ事はせず、冬雪は小さく頷いて、軽く手を振ってログハウスを後にした。

――草むらの向こうに、静かにたたずむ人影が見えた。

「……?」
どのような人物かは遠目で全く判らない。だが人影ではある。他に誰かがこの世界に来ているのだろうか。
だとすると、そこで冬雪が彼に関わってしまうのは――ナンセンス。やめておいた方がいいだろう。
 そう思った瞬間、冬雪の意識は途切れた。

   *

 こうして会うのは何度目になるだろう。互いの存在を知ってから、一体何年になるだろう。既に覚えてもいない事なのに、唐突にそんな事が気になり始める。夜の街に吹く風は冷たく、彼女は両手に息を吹きかけながら歩いた。
「……大丈夫か?」
「えぇ」
見栄を張っているだけだというのは、彼にはすぐに判った。彼は彼女を連れて、深夜の静かな街中へと進んでいった。
 何の為に会い、何の為に会話を交わすのか。そんな事にもはや意味など無い。こうして一緒に過ごす事だけが彼らにとって意味のある事。それは愛などという簡単な言葉でおさめられるような感情ではない。強い絆のような、誰にも壊される事のない、真実。
 2人は点々と明かりのついているバス通りの中をゆっくりと歩いた。時々人とすれ違う。眼鏡を掛けた青年とぶつかりそうになって、一瞬慌てたりもした。――が、人間同士なので大した事は無い。2人は意味も無く、バス通りをどんどん進んでいった。

――背後から、静かにその姿を見つめる者に気付かずに。


   3

 事件の真相を暴く探偵というのは、毎回毎回こんな気分を味わっているのだろうか――。
 泣き崩れる彼女を眺めながら、自分は探偵になどなれない、と諒也は思った。
「……落ち着いて下さい」
そんな言葉に効力があるかどうかは知らないが、言わないよりはマシだろう――と声を掛けてみる。反応は無かった。
「もう、忘れるほど昔の事なのかも知れません。でも――……何とかしないといけないと、彼から頼まれた」
「……結局皆」
「?」
彼女は突然顔を上げた。
「結局皆私の事を排除するの!誰も私の味方なんて居なかった……兄は私の存在自体を隠して、私も強くは出られなくて」
「……仕方なかった、んですよ」
「貴方だって結局は兄の味方なんでしょう!?だから……だからそんな事が言えるんだ」
彼女の目は鋭く変わっていた。

危ない。
嫌な予感がした。

彼女は急に立ち上がり、「校内禁煙」と言いながらもテーブルの上に置いてあったガラス製の灰皿を手に取った。それを思い切り振りかざし、こちらに向かって突進してくる――。



その後の事はほとんど覚えていない。
恐らく、無我夢中で応戦したのだろうが――……気付いたら病院に居て、左腕に包帯が何重にも巻かれていた。解くわけにもいかず、自分がどのような怪我をしたのかも良く判らなかった。

――彼女は、どうなったのだろう。

 まさか自分が返り討ちにしたなどという事は無いと思うのだが、完全には言い切れない。
ただそれだけが気がかりで、病院を出て自宅に戻ってからも気が気ではなかった。無論、翌日になれば全て判るのだろうけれど。
「……こんなんで、良かったのか……?大亮……」
自分が少し怪我をするぐらいで済むのなら厭わないが、しかし――……彼女を傷付けてしまったのなら、謝らなければ――。
 いつも思う。言い方が悪いのだ。下手な言い方をするから、相手が怒って怪我をする羽目になる。それを繰り返して、今回で何度目になると言うのだろう。

――ガンガンガンガンッ。

 ノックの音とは到底思えない、酷い音が耳に届いた。だがノックだ。諒也は立ち上がり、ドアに掛けていた鍵を開けた。
「元気か?先生」
「大丈夫だった?うっわ、包帯ぐるぐる」
藍田胡桃、久海冬雪――大体予想通りの面々である。話を聞きつけてすぐにやって来たのだろう。学校の近所に住んでいるとこういう時にそのメリットとデメリットが際立ってくる。
「……上がるか?片付いてないけど」
「うん、片付いてないのはいつもの事だし」
「オイ、」
「お邪魔しまーっす」
「…………」
こうも下手に付き合いが長いと、年齢差など既に意味を為さない。
 こうして見舞いに来てくれる人が居るだけ、自分は幸せなのだろうと思う。
「先生!この牛乳、賞味期限今日だよー」
何故そんな事を言われなければならないのか。
「お前ら、勝手に冷蔵庫開けていいなんて誰が言った!!」
「いいじゃん別に、ちょっとぐらい!ほら、今日までなんだから飲まなきゃ」
そんな事を言いながら、彼らは勝手にコップを3個持ってきて牛乳を注ぎ始める。
 平和だ。平和すぎて拍子抜けするほどに平和だ。

――今はその平和に、少しぐらい甘えていてもいいではないか。

 これから何が起こるか判らない。こんな風に笑っていられるのも、今日が最後になるのかも知れない。だとしたら今この時の穏やかな空気を、出来る限り味わっておいた方がいい。
諒也は静かにひとつため息を吐いて、なみなみと牛乳の注がれたコップをひとつ手に取り、それを一気に飲み干した。



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