東京想街道
P.59[秘密の鎖]




   1

「答えなさいよ、どうして――」
ムキになって反抗する梨子を、諒也が一言で牽制した。
「良いからまず聞け」
その場が静かになる。雪子は冬雪の左隣に座った。
「どうして雪子も来たんだ?」
「来て欲しいって言われたから、かな。深いことは考えてないわ」
「……ふぅん」
良く判らなかった。諒也が続ける。
「これからどうするかを決めたいんだ」
「どうするかって……面子ってどういう面子の事?良く判んないけど」
「誰がどういう基準で襲っているかも判らない以上、自分で身を守るよりない訳だ。ただ幸いにして3人兄弟で、CECSは4人居る。玲央が知名さんと面識があるみたいだから、彼女たちは彼女たちで何とかしてもらうとして」
「ちょっと、勝手に話進めてんじゃないわよッ、諒!!あたしが邪魔ならわざわざ呼ばなきゃいいじゃない!ダメならダメで、そう言ってくれれば―ーッ」
「姉さんは必要なんだ、これでまた夢見月家が巻き込まれちゃ面倒だ」
「……意味が判らないわよ……」
梨子が沈み込んだ。冬雪はため息を吐いた。
胡桃が静かに発言した。
「えっと……兄弟ってのはその……佐伯家の事だよな?」
「あぁ――このままされるがままにする訳にも行かないだろ?これ以上誰かに死なれたら相手の思う壺だ」
ふと、思い出した。
冬雪は口を開いた。
「先生――……葵の事件の時の事だけどさ」
「……何だ?何かあったのか?」
「阿久津に少し、聞いたんだけどさ。先生は……葵しか見てない?」
「……? どういう意味だ?」
「部屋に誰かが居たとか」
もしこれで何らかの反応を見せたとしたら。
諒也は少しだけ笑って、答えた。
「見てる訳ないだろ、俺はあいつの声しか聞いてないんだ。声が聞こえて、嫌な音がして……それからゆっくり振り返って……そこへ向かった。部屋の方は見てない」
その時の事を思い出しているのだろう。
彼の表情はいつもと変わらなかった。冬雪は一挙に安心した。
「落ちた後に振り返った、って事か。見てなくて当然だな――……阿久津に言っとけ、冬雪」
「……そうだね、ありがと。だとしたら……尚更、怪しくなる」
冬雪の呟きを受けて、諒也が疑念の表情を浮かべた。
「誰かが部屋に居たって言うのか?それは、その……葵を、突き落としたとか」
「オレの夢の中ではそう言ってた。話したよね?確か」
「あぁ……そういえば。でももしそんな証言があれば疾っくに殺人だと言われてるはずじゃないのか?」
「で、阿久津はその証言が改竄されてるって言ってたんだ」
「改竄……警察内部か」
諒也が嫌そうな顔をした。当然だろう。警察がそのような行動を起こしたのだとすれば、それはすなわち自分たちに対して少なくとも好意的ではないという事である。味方ではないのだ。本来信頼すべきはずの警察を信頼できないと言うのも――酷だ。
「警察の知り合いは阿久津しか居ないから……後は緑谷署の人たちぐらい。オレたちとは赤の他人ばっかりのはず」
冬雪が言うと、隣の雪子が静かに声を発した。
「……単なる警察関係者で、葵君を殺した犯人と繋がりがある人が居るってだけの事じゃないかしら?上層部の人間なら、証言の改竄ぐらい簡単に出来るんじゃない?詳しい事は良く判らないけど」
「問題はその『犯人』が誰かよ、諒。それによって話は変わるわ」
梨子も復活してきた。
それならば、だ。冬雪は再び口を開いた。
「その件に関してはオレが調べてみるよ。阿久津も居る事だし、一応……警察にはしょっちゅう行ってるし。話曲げちゃってゴメンなさい」
諒也が微笑んで応答する。
「いや、曲がってないよ……葵の件は重要なんだ。もし彼が殺されたんだとして、その犯人が判れば……もう少し、全体が見えてくるはずだから。まだ部分部分しか見えてないだろ……だからどうしていいのか判らないんだ」
「事故に見せかけられてるのが大半だしね。先生のも、含めてさ」
ずっとこちらを見ていた諒也が目を逸らす。
やはり触れられたくないらしい。
「…………あれは事故だ」
まだ見栄を張るつもりだ。冬雪はすぐに反論した。
「事故じゃないだろ、間違いなく。犯人だって判ってる……葵を襲った事だってあるんだ、凄く怪しいんだよ。それに……先生の事だって」
「判ってる、ただ……思い出したくないだけだ」
「そんな事言ってたってしょうがないだろ……オレだって思い出したくない事はいっぱいあるのに」
「落ち着けよ、冬雪」
正面から穏やかな声が届く。

――……怖かった。

自分の周りから、どんどん人が消えていって――……いずれ自分ひとりになるのではないかと思うと恐ろしかった。

そんな――気がしていたから。

誰も居ない場所でひとり、何を考えるともなく立ち尽くしている――……そんな夢を、幾度か見た事がある。
そして、いずれこれが現実になるのではないかと、嫌な予感が脳裏を過ぎっていくのだ。

「……ゴメン、オレ帰るね」
「秋野?」
「……はは、もう眠くなってきちゃってさ。早いトコ帰って寝ようかなーと思って」
言い訳だった。バレていたかどうかは判らない。
「早寝遅起き、か。んじゃな、また今度」
胡桃はそう言って、笑顔で送り出してくれたが――……恐らく彼は気付いていただろう。
あとの3人の顔を見る気にはなれなかった。

扉を閉めて、階段を降り、街灯の明かりが眩しい商店街に出る。人通りはまばらだ。
 冬雪はひとつため息を吐いて鞄を背負い直し、駅へ向かって一歩を踏み出した。

が。

「ふゆっきー!!ひさしぶりッ、こんなトコで会うなんてキグーだねッ」
時刻と場所に似合わない、とびっきり明るい声が背後から聴こえた。
「……玲央……日本人なら日本人らしく日本語発音してくれ」
そう言いながらしぶしぶ振り返った先にあったのは、予想通りの少女――とは言えない歳なのだが――の無邪気な笑顔だった。いい加減セーラー服は卒業して欲しいところである。
「何で?ダイジョーブだよ、ちゃんと通じてるでしょー」
「何か怪しいんだよ。何年日本に住んでんだ?」
「ひ……ひゃくねんはくだりません……」
申し訳無さそうに言って、玲央はあからさまにうなだれた。
「玲央、ひとつ聞きたいんだけどそのキャラは素なのか?まさか作ってはいねぇだろうな」
「つ、作るなんてッ!!玲央は玲央だよッ、これ以外の何者でもないのッ」
「ならいいけど」
「……ふゆっきー、何か怖いよ。どしたの?何かあったの?」
本気で不安そうな表情をして彼女が言った。
あまり悲しげな顔を向けられると、いくら冬雪でも悪いようには扱えない。彼女は飽くまでも『彼女』なのだ。ナリがどうであろうと中身がどうであろうと女性に違いは無い。
「別に……何がって訳じゃないけどさ……」
「最近色々奇妙しいんだよ。みんなが玲央たちの事怖がるの。前にも増して、だよ!そりゃ玲央だっていい加減……」
玲央は冬雪より年上である。戸籍上でも、だ。
「……そういう意味じゃないと思うよ。オレがこんな事言うのもなんだけど、玲央はいつまでも『可愛い』って思われるんだろうし。みんなの態度は変わってないと思う、きっと……玲央の気の所為だ」
だったら良いと、冬雪が思っただけでもあったが。
でもそう信じていないと――やっていられないのも事実だ。
「それだったら嬉しいよ、でもね……違うと思うの、玲央の勘だけど、でもそう思えてしょうがないの」
第六感と言うヤツなのか。彼女は人間ではないが――……完全に人間とは異なる生物だと言う訳でも、無い。
そのような能力があっても奇妙しくはないのだろう。先刻と同じ不安そうな顔をしたまま、玲央は静かにため息を吐いた。彼女にしては珍しい――……否、冬雪が彼女のそんな姿を見たのは初めてだ。正直なところ――……驚いていた。

 彼女はいつも明るく笑って、修羅場をも乗り越えてきたのかと思っていた。

 だがもしかしたらそれは単なる気のせいで、彼女は冬雪よりももっと多く涙を流して来たのかも知れない。生きている期間が長いのだから尚更だ。

「…………そうじゃない事を、祈ろう。あるいは……そうじゃなくなる事を、祈るか?」
「ねぇ、ふゆっきー……?」
「お?」
「もし玲央が、シヅキみたいに名前変えて、『島原玲央』を死んだ事にしたら、そしたら……CECSって言われなくなる?」
玲央は必死の様子で冬雪に尋ね掛けた。そんな事は冬雪に訊かれても答えかねるのだが――……自分なりに考えて、答えてみた。
「いや……意味は無いよ。少なくとも夢見月家が監視を続ける限り、『完成形』と認められるならすぐに認定される」
「……じゃあ、意味無いね。やめとく」
「やり直すつもりだったのか?」
「それもアリかな、って思っただけだよ。深い意味は無いの。だからもう、その事は忘れて。ねッ」
そう言い切って、玲央は飛び切りの笑顔を――……作った。冬雪は小さく頷いた。
「なぁ、玲央」
「なーに?」
「……一緒に調べる気は無いか?知名と知り合いなんだろ?」
「え……調べるって、何を?知名たんは高校の後輩ってだけだよ!」
そんな関係だったのか。それでも知り合いである事に違いは無い。
「葵の事件。とそれに絡んで色々。出来ればその第六感もお借りしたいな」
玲央は元々丸い目を更に丸くして、一度だけ瞬きをした。
それからすぐに、堰を切ったように笑い始めた。
「あははっ、あははは……ッ、玲央なんかでいいの?玲央、シヅキと違って良い子じゃないんだよ?」
「……どういう意味だよ?」
「玲央の……んー、玲央のホントのママさんの種族はね。ニンゲンを怖がらせて、惑わせて、それを楽しんでるような種族だったの。シヅキは『青鬼』って自分で言うけど、元々ヒトと仲良くしてる種族だから、だからあぁして笑ってられるの。玲央は……ホントに、鬼って言葉が似合うくらい、悪いヤツで」
「だから?種族とかよく判んないけどさ……玲央は玲央、なんだろ?現にこうして普通に話してるじゃねぇか。怖がらせて楽しむぐらい、どうってこたねぇだろ。人間を……殺すとかそういう危ないヤツだったら判るけど、」
「ふゆっきーは人間だもの!!人間だからそうやって笑ってられるんだよ!!」
玲央は突然叫んだ。
冬雪が怯んだ隙に――……彼女は急にこちらに向かって突進してきた。されるがまま、冬雪は彼女の勢いに押されて後ろの壁に背中から叩き付けられた。
「……ッ!」
「玲央は悪魔のコなの、わかる?……わかるよね?その気になれば、今この場でふゆっきーの魂取り出す事も出来るんだよッ」
目を開けると、彼女はいよいよ泣きそうな顔をしていた。
本気でそう、言っているのではない。

玲央もやはり、怖いのだろう――……自分自身が、自分自身でなくなってしまうかも知れないという事実が。

「……んなモン売る気は無いよ……魂売ってまで欲しいモノも無いしさ。お前が何だろうと……仲間には違いないだろ。それにそもそもオレだって、『良い奴』には分類されてないよ」
玲央はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
実際の人間性がどうであろうと、夢見月家の生まれである事には違いない。人を殺した事だってあるのだ。たとえそれが――……自分が生き残る為の唯一の手段だったとしても。
「協力が必要なんだ。とても1人じゃ……調べきれないから」
「…………。玲央は何をすればいいの?」
「とりあえず知名に事情聴取だ。何があったか、誰に襲われたのか。それから先はその後で考えよう。オレはまず警察の方当たるから」
「調べたら皆の役に立つ?」
「あぁ、助けられるかも知れない。皆殺しにはされたくないんだ」
「それは玲央も同じだよ……ッ!じゃあ……今度、お見舞い行って聞いてみる」
「ヨロシク頼むよ」
玲央は大きく頷いて、笑った。作り笑顔ではなかった。冬雪は少し安心して、彼女に手を振って駅に向かって歩き始めた。
 ふと、彼女は何処に住んでいるのかと疑問に思った。
「玲央」
振り返ったが、そこには既に誰も居なかった。
「……素早い奴だな」
そう勝手に解釈して、冬雪は再び帰路についた。

   *

 自宅の扉を開けると、梨羽が笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい。彼がお待ちかねですよ」
「……彼?」
代名詞で紹介されても誰の事だかさっぱり判らない。冬雪が靴を脱いで上がった、1階事務所のソファでゆったり紅茶を飲んでいたのは――……見覚えのある、しかして実際に会った事はない人物だった。
 短い黒髪と無精髭が似合っている――……あまり大きくは無いが力強い瞳を持つ。細いフレームの眼鏡を掛けている。少なくとも、こんなところで会うような人ではない。
 冬雪に気付いたその客がこちらに笑顔を向けると同時に、その人物の名が脳内を廻ってようやく喉元に降りてきた。
「お……織川、寿彦……さん」
随分前から日本の音楽界に名を轟かせている大物プロデューサーだ。何故そんな人物がこんな一般人宅に居るのか。全くもって理解できなかった。
「あぁ、光栄です。いや、勝手にくつろいでしまって申し訳ない――……初めまして、久海さん」
立ち上がった織川がこちらに右手を差し出している。冬雪は慌ててそれに応じた。並んで立ってみると冬雪よりも随分背が高い。が、恐らく諒也よりは低いだろう。普通、と言う事だ。160cm台にも乗らない冬雪が低すぎるだけである。
 2人はソファに着席した。梨羽が新しく紅茶を淹れて来ると言って給湯室に向かった。
「ど……どうして織川さんがここに……」
「どうしても何も、あの楽譜の事ですよ……貴方のお父さんが遺された」
「……え」
いつの間にこんな大事になっていたのだろう。今年初めに諒也に託して以来、その後どうなっているのかは全く聞いていなかった。
「受け取った時には驚きましたよ。どうしてお前がこんな物持ってるんだ――って言って一悶着やって、詳しく話聞いて納得しましたが」
「だ、誰とですか?」
「誰って……あのやる気なさげな現校長でしょう。他に誰が居ますか?貴方が彼に渡したんでしょう?」
「音楽関係に伝手があるって言うから、だから……え、伝手ってまさか」
今目の前に居る超有名人なのか。
織川は少し笑った。
「思いもよらないでしょうが……彼とわたしとは学生時代の同級生でしてね。卒業してからもちょくちょく連絡は取り合っていたものですから」
昔からの知り合いだと言うのは大亮ぐらいなのだと思っていたが――……身近に居なかったと言うだけなのか。
冬雪が呆然としていると、給湯室から梨羽がポットを持って戻ってきた。織川のカップにお代わりと、冬雪と自分の分を新しく淹れてテーブルに置いた。淹れ終わると梨羽は冬雪の隣に座った。
「意外……です」
呟くように言うと、織川は静かに微笑んで、鞄からあの楽譜を取り出した。
「……全部で4曲。アレンジはともかくとして、果たしてこれを……誰が歌うべきなのか、と思いましてね。何せあの龍神森冬亜が遺したものです……適当に決める訳にはいかない」
「で、でもそんな事オレに相談されても全然判んないですし、」
「いえ――……相談ではなく、貴方にと思いまして」
一瞬、何を言われているのかと混乱した。

――通常なら有り得ない事を言われている。

「む……無茶です、そんな事出来る訳ないじゃないですか――……完璧にド素人なのに」
「でも貴方は彼の血を引いてるんでしょう」
「血縁だけです、それとこれとは別問題です……そんな事したら、父さんに悪い気がします」
織川の表情は変わらず穏やかだった。
最初からこの答えを見越していたのだろうか。
「――……そうですか。じゃあまた考え直しましょう……でもまだ諦めた訳ではない事を覚えておいて下さいね」
「そもそもどうしてオレなんかに……?ただ息子ってだけなのに」
「息子の貴方が彼に殺されかけたと言う事は誰もが知っています」
「!!」
危ないところを――……諒也と葵に助けられたのだ。
「その『殺されかけた』息子が世に出てきたら……世間はどう思うか」
「同情を煽るのは嫌です……」
「CECSに対する意識も変わるでしょう」
「……でも無理です、どちらにしても……今以上の仕事は引き受けられません」
織川は尚も表情を変えなかった。
「では――……一歩引いて、別のお願いをしましょう」
まだ切り札があるのか。冬雪は彼の目を見て、続く言葉を待った。
 織川が口を開く。
「詞を作ってもらいたいんです。歌と言う形ではなくても――……こちらなら大丈夫でしょう」
「……詞?歌詞ならついてたじゃないですか」
「3曲分は、ですよ。残りの1曲は時間が無かったのか、あるいは誰かに書いてもらうつもりだったのか――……どちらにしろ、詞が無い曲があるのは事実。諒に失くしてないかと聞いてみましたが、これで全部だと言い張ってましたから――……最初から無かったのだろうと」
気付かなかった。思い出すのが辛くて、ちゃんと見なかったのも原因だろう。
 だが――……作詞に心得は無い。
「……オレなんかで、大丈夫なんでしょうか」
「引き受けて下さるんですか?」
「で、でも……何ヶ月掛かるか判りません」
「いえ、時間の事は大丈夫ですよ。何せあと3曲があるんですから――……貴方にお任せする曲を最後にすればいいでしょう」
そう言って織川は微笑んだ。誰かに似ているような、気がした。
 冬雪は目の前に差し出された楽譜を見つめながら、静かに頷いた。
「ありがとうございます。それじゃあ――……これがわたしの連絡先です。通じなければ諒にでも伝言を頼めばすぐ伝わります」
織川は名刺を楽譜の上に置いた。
それから簡単に挨拶を交わして――……彼は帰っていった。

冬雪は目の前の楽譜と再度見つめあう。
「……受け取っちゃったけど……どうしよう」
「まずテーマから決めて、あとは自由にやればいいじゃないですか――……決まりは無いんですから。……ってお兄様には言いました。冬雪にも言いますね」
梨羽はにっこりと笑ってそう告げた。
「葵もそんな事頼まれてたの?」
「えぇ、偶に……普通にしてても『神に誓って』なんて言う人でしたから――信心深くなんてないのに――……文章が詩に近いんです、ご存知でしょう?」
「……まぁ、確かにね」
「昔のもののリメイクとは言え『書いてる』事には違いないですから、あの文章がその時のお兄様の文章です。そういう人なんです。だから――……一週間二週間悩んで、それでもちゃんと書いてました」
「そんな話聞いたこと無かったけど……名前とか変えてたの?」
「いえ、普通に『A. Saeki』でやってましたよ。普通の名前だから気付かなかっただけです」
「教えてくれればひやかしたのに」
「だからと思って秘密にしてたんです」
「……さすが兄妹」
「貴方もでしょう?」
「いや――……血縁云々じゃないよ。一緒に居た時間がどれだけ長いかだ。葵が大事にしてたのは、確実にオレよりも梨羽な訳だし」
梨羽からの返答は無かった。代わりに彼女は少しうつむいて、寄ってきた猫を抱き上げた。
 白猫は小さく鳴いて、彼女が頬をすり寄せる。
「……葵にとってのオレは『弟みたい』でも『弟』じゃなくて、ちょっと歳の離れた友達ぐらいの感覚だったと思う。……ホントかどうかは本人に聞かなきゃ判んないけどさ。名前で呼べって言ったのは葵だもん。少なくともその頃は、オレが弟だって事は知ってたはずで……それでいて『お兄ちゃん』呼ばわりを拒否したんだから」
「それは……いつ、ですか?」
「ずーっと前、多分、初めて会った日。そんな事しか覚えてないんだけどさ……『お兄ちゃん』って呼んだらまた怒られると思って、必死になってた記憶がある」
「それで、だったんですね」
「鈴も葵君って呼んでただろ」
言ってから思う。会話が全て過去形だ。また――……あの世界に、行けるだろうか。
 そういえば、梨羽はあそこへ行った事は無いのだろうか。そんな話はしないから全く判らないが――……冬雪が行けたのだ、彼女だって行けないはずはない。
 冬雪は残っていた紅茶を飲み干す。既に完全に冷めていた。
「――……風呂入って、寝るよ。梨羽は?」
「後で、入ります」
「OK。それじゃね」
「はい」
最後に猫の声もプラスされた。
冬雪は手を振って、階段を上り始めた。嫌な気分では、なかった。

   2

 数日後、羽田南『深海屋』。気が重いと、特別重くも無い扉が妙に重く感じられる。
「いらっしゃい。調子悪そうですね」
「……志月、開口一番にそれか?」
うなだれながら諒也が指定席を目指すと、いつも冬雪が座っている席に別の人物が居た。泊里だ。
「――泊里君も居るのか、丁度いい」
「僕?」
「泊里君の『仕事』はこっちのサポートだろ?秋野の方に行かせたら大変な事になる」
「そう、言われましたけど……でも僕、英語とか判んないですし」
「俺の仕事はそれだけじゃないよ。知ってるだろ、確か」
泊里はきょとんとした顔でこちらを見ている。
 茶を淹れて来た志月が補足した。
「副業の方ですね」
「あぁ――全部1人でやるとなると結構辛いんだ。本業もある事だし」
思い至ったらしく、泊里の表情が変わった。
「えっ……そ、そんな事言われても……!僕に何が出来るんですか?」
「誤字脱字の修正、指摘。出来るよ」
「……あ……はい」
ようやく泊里は安堵したようだった。
「じゃあよろしく頼むな。お偉いさん方には俺のサポートって事だけを伝えるから」
「はい……!頑張ります」
だが本題はこれではない。
「ところで……訊きたい事があるんだ、できれば2人の意見を聞きたい」
「何でしょう?あ、お茶だいぶ冷めてますよ」
「あぁ、ありがとう――」
湯呑みの緑茶を一口だけ飲んだ。
それから静かに、続きを話す。

「――幽霊ってのは、居るのか?」

その場に沈黙が走った。
数秒経って、先に口を開いたのは志月の方だった。いつもと違う、不敵な笑みを浮かべているように見えた。
「答えかねますね――……特に、貴方には」
諒也が明らかに疑う表情をしたからだろうか、泊里は少し目を逸らして、小さく呟いた。
「……居ると思えば、居るんです。居ないと思えば、居ません」
「あぁ、そんなモノだよ。どうしてそんな事を訊くんですか?ボクらと幽霊を同じものだと」
「そんな事は思ってない……ただ、確かめたかっただけで」
また一瞬、沈黙。志月がため息を吐いた。
「何か、ありましたね?」
「……大亮に会ったんだ」
「ならいいじゃないですか、『居る』で確定でしょう」
「そうも行かないだろ……?自分の幻覚かも知れないのに」
「では彼がその判断を望みますか?」
「……判らないよ、でも……死んだ人間と現実で会うなんて言うのは……納得行かないんだ」
「天国で会えば納得行きますか?」
「そうじゃない……」
「その目で見たことが無くても、人間たちは幽霊が居る居ないと論争を繰り広げるんです。見たことのある人間が『居ない』と言い張ったところで誰が信じてくれるんですか?」
「どうしてそう怒るんだ?」
「……大人は素直じゃない……固定観念に捉われるから……彼女が何度も店へ来るから、だから貴方にそのピアスを渡したんですよ」
志月は必死の形相でそう言った。
誰の事を、言っているのか――……判ったような気がしたが、口に出してはとても言えなかった。
「貴方には気付いて欲しかったんですよ。もう彼女には店の場所が判らないから……ここへは来ないかも知れませんね。もっと早く気付いていれば」
「どうして言ってくれなかったんだ!?一言『右に』って言ってくれれば、それだけで効果があるんだろ!?だったらどうして――……どうして」
思わず立ち上がって、叫んでいた。ふと我に返って、再び席に着いた。
「……あの、2人とも」
申し訳なさそうに泊里が言う。慌てて彼の方を向くと、彼は静かに、店の入り口の方を指差した。
『僕の所為、だったかな』
「大亮!」
諒也は再び立ち上がり、彼の前まで進んだ。
やはりどう見ても――……あの頃の大亮そのものにしか、見えなかった。
『今の僕は何でもいいんだよ。問題なのは、事件のことだけだ』
「……本当に妹さんが殺したのか?」
『僕が見てたことを彼女は知ってるよ。僕が彼女をかばったんだ。話せば……きっと観念する』
「どうして今になってそんな事言い出すんだ?」
『諒が菜穂と知り合ったから』
「……?」
『妹と話した事も無い人間が、いきなりお前が犯人だなんて言っても……あいつだって意味が判らないだろ?少しでも面識のある人間に言われた方が、信憑性も高まる』
「知り合うのを待ってたのか?」
『逆だよ、知り合ったから、何とかしてもらおうと思っただけだ』
「それで告発して、捕まるのは妹だけ……お前は罪には問われない」
『容疑者死亡で書類送検ぐらいはされるさ。僕はそれで構わない、地獄に行こうがね。彼女は事件の事すら忘れ掛けてるんだ。このまま時効を迎える訳には』
彼が白衣のポケットに両手を突っ込む。
その場がにわかに静かになった。
『今更って言われてもしょうがない。でも……放って置く訳には行かないんだ、それだけは判ってくれないか?せっかく僕はこうして君と話せるんだし――。
僕にとって菜穂は確かに妹だし、菜穂も僕の事を兄として呼んでくれる――……その兄としての、お願いなんだ』
そう言って大亮は、少し寂しそうな笑顔を見せた。
「……とりあえず、話してはみるよ。どういう反応が来るかは判らないが」
『あとは彼女の良心次第……駄目ならもう、諦めるしかない。もう……証拠も何も残っちゃいないからね』
「あぁ……」
『それじゃ、よろしくね。上手く行く事を願ってる』
「あぁ、俺もだ」
答えたところで、目の前に居たはずの彼は姿を消した。
「……お見事、だね」
「まさかここで見るとは思ってませんでした」
「…………話聞いてたのか?」
「えぇ、聞いてましたよ。それでこんな事を訊いて来たんですね。やっと納得しました」
「信じられなきゃ話す気になんてなれないさ。変な事言って、向こうに怪しまれちゃこっちが困る」
「頑張って、下さい。僕には何も出来ませんけど」
泊里が静かに言う。諒也は笑顔を返した。
「あぁ、何とか……するつもりだよ」
「その心意気です」
志月もやっと笑ってくれた。

何とかなればいい、ではない。
何とかしなければならないのだ。

諒也は既にアイスティーと成り果てている緑茶を口に運びながら、今後何をすべきかを考えた。



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