東京想街道
P.58[蒼ノ世界]




   1

 広い部屋に、机がひとつ、テーブルがひとつ。その辺りの単語の差異は察してもらいたい。テーブルを挟んでソファがふたつ。その他に視界に入るのは大きな棚で、その中にはいつかの大会のトロフィーや賞状が飾ってある。そんなものはこんなところではなく、もっと生徒の目に触れるところに飾ればいいではないか、と昔から思っていたが未だ口には出していない。
 見上げると、何十年も昔からの歴代校長の写真が飾ってある。その内見覚えがあるのは1人、2人、3人か――……いずれ自分の顔もそこに並ぶのかと思うと気が重い。
 何もしていなくてもため息が零れる。目の前に広がる書類の整理を、早くやらなければ――……。
『気が滅入ってる?』
誰かの声が脳裏に響く。男の声だ。
「誰だ――……?」
目を閉じて、頭の中の声に集中した。
『――無理に引き受けなきゃ良かったのに。管理職は向かないだろ?』
「……大亮か?」
それではまさしく空耳か、単なる自分の空想か――何にせよ幻の声には相違なかった。
 誰かにそう、言ってもらいたいと言うだけの事か。
『菜穂がお世話になるね――……僕に似て少しおっちょこちょいだから、あいつの事よろしく頼むよ、諒』
「……そこに居るのか?大亮」
諒也は再び目を開けた。だがそこに人間の姿など見えない。
『だったらどうする? 鬼を信じる君が、幽霊を信じないとでも言うかな』
ケラケラと笑う声が台詞と台詞の間に入り込む。
「それは……ッ」
別問題だ。
第一姿が見えないのでは――……自分の方が奇妙しくなっているのだと信じ込むより無い。
『あのピアスを持ってる?銀のクロスのヤツだ』
「…………」
引き出しを開ける。そこに仕舞ってあった。
「……これが何だって言うんだ」
『それを右耳に付ける――それから目を閉じて』
訳が判らぬままに、言われた通りに行動する。
『1,2,3……開けて』
「……!!」
向こうのソファに座る、人影があった。諒也は思わず机の裏板を蹴飛ばし、キャスター付きの回転椅子は窓際まで後退した。
 人影は楽しそうにくすくすと笑いながらこちらを見ている。明るい茶の髪、妙に大きな白衣を着ている。足を組んで、そのひざの上に頬杖をついて――とびっきりの笑顔を、こちらに向けて。
 そんな事はあるはずがない――……だがそれは確実に、あの頃のままの、結城大亮本人にしか見えなかった。
「……どうして」
『諒は自分の力に気付いてないだけだよ。流人さんは気付いてた――……だからそれを君に託した』
「力だと?」
彼は何も答えなかった。
『僕と菜穂に対して引け目を感じてるならそこまでにしな。今更何を言っても無駄だ――……火を付けたのは僕、君じゃない』
「でも」
『40過ぎのオッサンがそんな泣きそうな顔すんなよ。僕まで辛くなるだろ?』
「判った、でも――……謝らせてくれ」
諒也は椅子を引いて机まで戻った。
『話を聞かなかったのは僕の方だ。諒は事実を調べただけで、だからってそれが――……何になるって訳でもなかった。僕は“結城大亮”であって、夢見月の名は持たなかった。――秋野君に比べれば僕の苦労なんてほんの少しだったんだ』
何と答えればいいのか、諒也には判らなかった。上手い言葉が見つからない。
『今日ここに来たのは――……諒にひとつだけ、言っておきたい事があるからだ。別に諒じゃなくても構わないんだけど……僕のことが判る人は諒ぐらいしか居なくてさ』
「どういう意味だ」
『だから、諒には力があるって言っただろ。生まれ付いてのものだよ。秋野君もあるにはあるけど――……それ自体を完全拒否してる。無意識のうちにね。多分、小さい頃は平気だったんだと思うけど……いつからかな、小学校か中学か……まぁいいや。俗に言う霊感みたいなものさ。現に君は今僕を見ている』
「……頭が奇妙しくなりそうだよ」
『うん、奇妙しくなるだろうね。無意識に行ってきたものを認識するのは難しいよ――……。さて、本題に入ろう』
「あぁ……」
『結城の両親を殺したのは僕じゃない。尤も……元々警察はそんな事思ってないみたいだけど、君はどうだか』
「…………」
諒也はゆっくりと彼から目を逸らした。
『まぁいいよ。本題はこれからなんだ。確かに殺してはいない、でもその現場は見ていた』
「……おい、どういう事だ?」
『事件は2005年の3月……時効は20年後、になったんだよね?』
「俺に訊くな、訊くんなら法学部卒の妹に――」
大亮は妙に切なげな顔をした。
そして柔らかく笑いながら、続けた。

『その妹が殺したんだ』

頭の中が真っ白になった気がした。
諒也は机を両手で叩いて立ち上がった。
「そんなはずがある訳無いだろ!?あの人はまだ――」
『あぁ、高校生だったよ。でも今時どうだい?何があるかなんて判らない――』
「大亮ッ」
『シッ、叫ぶのは良くないよ。僕の声は君以外には聴こえないんだからさ』
「……悪い、でも彼女は小柄で、一気に2人なんて」
大亮がクスッと笑う。からかわれているような感覚になる。
『うちの結城家が何だか判ってる?諒――……夢見月の血を引いた子を養子に迎えるような家だよ?そんな一家が、普通の家族な訳が無い』
諒也は何も言えなかった。言われてみればそうかも知れないが――……夢見月一の極悪人と呼ばれた夫婦の息子でありながら、大亮がこうものんびりとした性格に育ったのはその義両親のお陰ではないのか。大亮が続ける。
『君と違って完成はしていないがCEは受けてる。僕も同じだ。体格なんて関係ないよ。後は動機さえあれば何があっても奇妙しくない』
「じゃあその動機は何なんだ?」
『さぁ、本人に訊いてみたら?ちゃんと生きてるんだから――』
「…………大亮」
『僕の証言は法廷じゃ何の効力も持たない事は彼女が良く知ってるよ。今になって思うけど……人にモノを教える立場の人間が、いつまでも昔の罪を背負ったまま居るのもなんだと思ってさ』
「……それを言ったら俺はどうなる」
『諒の場合はCECSだからね。でもあいつは違う。これからも何が起こるか判らない、だから怖い。それにお前と違うのは……あいつが殺したのが自分の親だって事だ』
大亮は真面目な顔をして言った。
そういえば、先日諒也は冗談で志月にこう叫んでいる。


「俺は自分の親まで刺し殺すような悪人になった覚えは無い」


本当にそんな覚えは無い。姉と仲が悪いのは認めるが、親とは別に何があったという訳でもない。

『僕にとっては違うけど、彼女にとっては本当の両親だからね……。だから尚更怖いんだ。
あいつの事がばれるといけないと思って……僕は菜穂の存在を隠し続けてきた。そもそも全然似てないのが問題でね、学生の頃から兄弟が居るなんて間違っても口には出せなかった』
「別に、似てない兄弟は何処にでも居る――、」

――コン、コン。

部屋にノックの音が響いた。諒也が扉の方に視線を動かし、無意識に返事をしたその瞬間に――大亮は姿を消した。
「……あいつ」
「――失礼します」
入ってきたのはここの副校長――佐伯達樹だった。まだ60にはなっていなかったはずだ。
「あぁ……佐伯さん。どうかしました?」
誤魔化して笑いながら尋ねると、達樹は微笑みながら明るい声で答えた。
「いえ、少しお話を……と思いましてね。先日妻とお話になられたそうで」
「……あ……あの、ひとつお願いしてもいいですか?」
「……?何でしょうか」
「佐伯さんは私よりも年上です、だからあまり……敬語は使われたくないんです」
達樹は唖然として動かなくなった。あまりにも予想外の事を言われたからだろうか。
諒也は慌ててフォローに入った。
「あ、いや……大した事じゃないんです、あんまり人に敬語で話されるのが得意じゃないだけなので、無理には」
「……気持ちは判りますが……わたしだけ敬語を使わないという訳にも行きませんでしょう。わたしは家でもこんな調子なんですよ」
「家……と言いますと」
「妻と娘の居る家ですよ、勿論。妻の話を通して貴方の事はずっと以前から伺っていました。隠しては居ますがわたしも夢見月の人間です、ここでも下手な事は口に出せません。だから貴方を校長に、と思った訳です」
「私が居る事で……気は、楽になりますか?」
「えぇ、とても」
にっこりと笑って達樹は言う。本当にのほほんとした人だ。常に優しく笑って、ボケ倒す父をなだめていた母の事を思い出した。
 何故彼らは殺されなければならなかったのだろう――何も、していないと言うのに。
 尤も諒也が知らないだけで、彼らも裏で何か行っていたのかも知れない事は否定できない。何せ諒也をCECSにまで育てあげたのはその彼らなのだ。
「私は……朝礼で何を言ったらいいのかも判らないような未熟者です……ただ未来を背負っている子供にモノを教える人間として、果たしてこんな身分の自分でいいのだろうかと……よく悩みます。色々な事を隠し続けて今に至って、いったいどれなら話しても構わない事なのか……もはや判らなくなって来ているんです」
「何でもいいじゃありませんか?貴方はもう世間に知られた人間……何を話そうと貴方の自由でしょう。わたしは大体のことは存じていますよ。重い荷物ならお持ちしましょう、足の上に落とされちゃ大変ですからね」
「! その事まで」
右腕1本で持てない物は運べない。授業で使う物を運ぶのにも、生徒に手伝ってもらっていた。最初の頃は疑われもしなかったが、時代が進むに連れて「自分が楽したいだけだ」とからかわれるようになった。その時は大抵笑って「まぁな」などと言っていれば誤魔化せたのだが、いつか露見するのではないかと思うと怖かったのを覚えている。自尊心を傷つけられるのが怖いという訳ではない。そんな事を思いもしなかった生徒が、その事実を知った時の気持ちを思うと怖かったのだ。
 達樹は平和な笑顔を浮かべる。
「勿論ですよ、その頃はわたしも教師でしたからね。事故……と貴方は表現されてましたかね」
「……えぇ、あれは事故です、事件じゃありません。それに後遺症だって……日常生活は一応問題なく送れています」
「慣れれば平気なのでしょう。大した事はないとおっしゃられてますがね……実際いきなり利き手の指が動かなくなったら辛いですよ。わたしなら物凄く困りますね」
そう、なのかも知れない。言われた通り、もう既にこうなってから20年近く経つ。完全に慣れてしまったのも事実だ。
 だがそういえば目を覚ましてすぐの頃は――……字が書けない食事が出来ない、何も出来ないではないかと見舞いに来た姉に当たり散らしていた覚えがある。その頃既に両親は居なかった。
「…………。あの手帳は自制の為に持っているだけです。怪我させられたのだとは思っていません。自分が自分でそういう状況に追い込んだと思っています」
「自らを犠牲にするのも程ほどにした方がいいですよ、校長。貴方が思うほど、貴方は悪い人間じゃない――……岩杉家を孤独な聖者と位置づけている知識人は多いものです」
「元々は聖者とはいえ……私は言わば堕天使でしょう?純白の翼をも持っていたのかも知れませんが……いずれにしても、既に真っ黒なんですよ」
苦笑した諒也の返答を聞き、達樹はため息を吐いてソファに座り込んだ。それからしばし悩むような仕草を見せた。それから静かに、言葉を発する。
「――……貴方の力が無ければ……今のこの時代は、無かったかも知れないのです。ご自分でご自分の事がまだ判っていらっしゃらない……現に貴方を慕う教え子はかなり多いと聞いています」
「それとこれとは、」
「いや、貴方が人から信頼されるような人間だという証拠です」
強い調子で彼がそう言い切った時、だった。
1人で過ごすには少し広いその部屋に、電話のベルが響き渡った。
この学校の持っている電話番号は2つ。ひとつは校長室、もうひとつは職員室。後者は生徒と保護者が主な利用者だ。この場合は前者であるから――……基本的には、外部からの連絡である事が多い。諒也は理由もなく妙な感じを覚えていたが、特に気にもせず受話器を取った。
「はい、緑谷中学校です――、」
電話の相手は早口に警察だと言った。嫌な予感がした。
学校に警察から電話が来るのは、生徒か教員かのどちらかが警察に関わったという事に他ならない。そのどちらにしろ、嬉しい連絡ではないだろう。
『副校長の――佐伯先生はいらっしゃいますかね』
目の前にいる。諒也は思わず達樹の方を見た。
すると――……誰かが警察署で話を聞かれていて、その連絡が来たという訳では無さそうだ。
 諒也は「代わります」と告げて達樹を手招きし、それから彼に受話器を託した。彼はしばらくハイハイ言って応答していたが、次第に顔色が曇っていくのが判った。
 最後に達樹は「判りました、ありがとうございます」と告げて電話を切った。
「……佐伯さん、何が」
慌てて尋ねると、達樹はうつむいてため息をひとつ吐き、静かな口調で答えた。
「……知名が……娘が大怪我を……病院に向かいます」
「!! どのような状況で?」
芳しくない。
今目の前にいる男が叔父ならその娘は従妹だ。
「詳しい状況は良く判りませんでしたが……何処かから落ちたとか」
「…………転落、ですか」
嫌な符合だった。これで3人目になる。『大怪我』と表現したからには重傷なのだろう――助かっただけマシなのかも知れない。
 達樹は鞄を持ち、諒也に一礼してから駆け足で去ろうとした。
「! 待って下さい、私も……私も行きます」
「しかし貴方は」
「別に校長が常に校長室に居る必要は無いでしょう?一度……佐伯家でまとまって相談したい事があります」
達樹は怪訝そうな顔をした。
彼は――……知らなかったか。
「あ……私の母は貴方の姉に当たると思います、なので」
「!! それで岩杉姓」
「……気付いていらっしゃいませんでしたか?」
「あぁ――……これで全て繋がった……そうか、貴方があの日……なるほど、それじゃあ知名は貴方の従妹になる訳ですか」
「……えぇ……でものんびり笑っていられる状況では、無いですよ」
その『従妹』が既に2人も襲われたのだとしたら。
かつての夢見月家のように――……またあのような『戦争』が巻き起こる事になりそうで、恐ろしかった。

いや――既に、もう20年も前から始まっていたのだろう。

諒也と達樹はともに校長室をあとにした。
そこにはもう、何も残らなかった。


   2

 数日後、紅葉通『Stardust』にて。
「……そんじゃあ、全く無傷なのは誰と誰なんだよ?」
話を聞いて尚更混乱した様子の胡桃がグラスを拭きながら尋ねてくる。
冬雪は少しだけ考えて、適当に答えた。
「……達樹さんと美名、だけ。雪子が襲われて襲い返したのを考慮すればね」
「でも雪子氏は無関係だろ?その……佐伯家には」
「それ言ったら新海碧彦と岩杉聖樹は無駄死にだよ」
彼らも無関係なのだ。
「…………そうか。でもその……先生のイトコにあたる人たち、か?その中でもう死んでるのは葵さんだけだろ」
「そうだね……鈴夜も入れてみる?」
不適な笑みを浮かべておどけながら答えた冬雪に、胡桃は呆れたような顔を返した。
「どっちでもいいけどよ。他は皆襲われても生きてるってこったろ」
「まぁ、先生はともかくとしてもね」
「あぁ。なぁどうだ?葵さんはモロに『佐伯』を名乗ってただろ。だから最初に殺されたんじゃねーかとか思うんだけど」
言っている事が掴めなかった。冬雪はその意味を訊き返した。
「だからそのー……確実に佐伯の人間、って判断されたとかさ」
「先生みたいに本人も知らないような事例もあるんだよ。葵がホントは佐伯の人間じゃない事ぐらい判るだろ」
「先生は調べりゃすぐ判るじゃねーか。ただ単に本人が訊かなかったのが悪いってだけでさ。でも葵さんは戸籍上もその……花梨さん?の子供なんだろ?だったら調べようと調べまいと変わんねェだろ」
確かに、胡桃の言っていることは的を射ている。
冬雪は手持ちのグラスを少し揺らしてもてあそんだ。が、中身が零れそうになったのですぐに止めた。
「……どうして……残りは殺し損ねてるんだろう」
冬雪の呟きに、胡桃は軽い調子で返答した。
「わざと殺さねぇの、怪我させるだけ……事故っぽく。……とかな。そういやそもそも葵さんの事件は自殺で決着ついてんのか?」
「……ついてるよ、当然だろ。でも色々怪しい事はある。目撃情報の中には第三者の存在があったとか言うのも……ホントはあったらしいけど改竄されてたとか」
「第三者だとー?それじゃ一気に殺人説有力になっちまうじゃねぇか。先生は見てねェのかよ?通報したの先生だろ」
「先生は見てなかったらしい。オレも……状況はよく知らないから、判んないけど。阿久津は先生も微妙に疑ってるみたいだ」
「そりゃー本人に訊くのが一番だな。今度会ったら訊いてみろよ」
ケラケラと笑いながら胡桃は言った。少しむっとしたので反論する。
「何でオレに言うんだよ」
「俺より会う機会多いだろが、冬雪の方がよ」
「……どうだか。忙しいだろうからあんまり会えないかもよ」
返答が無い。妙に思って胡桃の方を見ると、いつになく不安そうな顔をしていた。
「く……るみ?どうかした?」
「……なぁお前……佐伯葵の弟だとは一言も言ってない、だろうな?」
「え?うーん、多分。でも義弟の意味では言ってるかも知れないけど、それがどうし……って、まさか……そんな訳無いだろ。オレの『配偶者』が誰だと思ってんだ」
「でもお前、『先生の従弟』になるんだろ?親族とかにはなんねぇだろうけどよ」
「誰がどう判断してどういう順番で襲ってるのか知らないけどさ。佐伯家の何かに恨み持ってんなら、オレを襲うのは筋違いだよ。義理の祖父さん祖母さん……とかしか居ないんだよ、佐伯家には」
とは言っても佐伯家に誰が居るのかすらよく判らない、と言うのが実情なのだが。冬雪があの家の屋敷を訪れたのは1度だけだ。それも――小学校に上がったばかりの頃である。
 少し何かを考えている様子だった胡桃が、呟くように言った。
「……なぁ、その佐伯家の……跡継ぎ?ってのは誰なんだ?」
「え」
考えてもみなかった。
胡桃が続ける。
「先生の母さんだろ、お前の義理の母さんだろ、それから……緑中の副校長。全員既に『佐伯』じゃねェじゃん、って思ってさ」
「だ……よね。そうだよね」
だが必ずそこに『跡継ぎ』が居るとは限らない。諒也のように完全に放棄しているケースだってあるのだ。彼の場合は「分家に任せる」と言って笑っていたが。
この状況を許すか許さないかは、三兄弟の両親に掛かっていると言う訳だ。
 尤も――三兄弟とも限らないのも確か、である。諒也の母親が佐伯の人間だと判明したのはつい最近なのだ。
「でも、まだ何も判らないよ。詳しい事が全然判らないから――、」
「こんにちはー。あ、こんばんは、かしら」
聞き覚えのある声がした。胡桃が通常の応対をして、その新たな客は冬雪の右隣に座った。
緩やかにウェーブの掛かったショートヘアは染めた色の茶、瞳も茶色だ。40代半ばだが、綺麗と言うよりは可愛らしいと言う方が正しい気のする顔立ちのお陰でだいぶ若く見える。
「……何でまたこんなところに梨子さんが」
「あら、偶々居たのは貴方の方よ、冬雪君。今日はあいつ呼び出そうと思ったら午後10時以降だとか言われて、しょーがない諦めようかと思ったらあいつの方からここを指定してきたのよ。そのあいつがまだ居ないってのはどういう事?」
「オレに怒んないでよ……10時以降なんて言うからには忙しいんだって、きっと。ほら店長困ってる、注文してあげて」
言うと梨子ははっとしたような顔を見せたが、どうやらカクテルには詳しくないと見えた。彼女が悩み始めたのを受けて、店主が店主らしい質疑応答を始めた。彼女もようやく落ち着いたようで、胡桃の問いにまともに返答している。
「貴方は常連なの?」
「常連、っちゃー常連だね。幼馴染だから」
「!! って事は……学生時代も一緒、つまり貴方も諒の生徒って事ね!?」
妙に嬉しそうに梨子が叫んだ。胡桃は苦笑いしつつそうだと答えた。
「それであいつがここに設定してきたのねー。紅葉通まで来るの大変だったのよー」
「そりゃご苦労様だけど……今日先生を呼び出そうと思った理由ってのは何さ?」
「それぐらいは察して」
ツンとした態度で梨子はそういって塞ぎ込んだ。
「……雪子ンとこだろ」
「なんてことはないわよ、今あたしとあいつに大きく関わってんのはそれぐらいでしょ。……これでも大変なんだから。何せあの雪子姉さんが店休んでずっと病院篭ってるって言うんだから」
「落ち込む時はとことん落ち込む人だよ……雪子は」
仕方ない事だろう。自分の娘が襲われたのだ。いくら命が助かったとはいえ、重傷なのは事実なのだ。
 胡桃がグラスを梨子に渡した。梨子は僅かに微笑んでそれを受け取る。
 その笑顔が妙に、切なげに見えた。
「――ありがと。……まだあいつ来ないね」
「緑谷から紅葉通まで、長く見積もって10分。学校から駅まで歩けば10分掛かるから、いつ学校出たかによるね」
「学校に居るとは限らないぜ、冬雪」
「……じゃあ何処さ」
「さぁ、今日は日曜だから――」
胡桃がそう言った瞬間、店の扉が勢い良く開く音がした。
思わず全員がそちらの方を向くと、そこには噂の彼ともう1人――……不安そうな表情の、夏岡雪子が立っていた。
「遅くなって悪いな、姉さん――5分遅れか」
「ど……何処行ってたのよ、雪子姉さんまで連れてきてッ」
「面子は揃った、大事な話を始めよう」
諒也は梨子の質問には答えず――……不敵な笑みを浮かべて、着席した。
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