東京想街道
Page.54[見えない未来]




   Prologue

 二度と見ないと誓ったはずの門の前に、青年は立っていた。
高くそびえる門柱の上には、何故か鳥の形をした飾りが載っている。その奥には広大な庭園があり、そのまた向こうに――……大きな西洋建築の建物が建っている。あんな屋敷で暮らすような人間の気が知れない、と青年はいつものようにため息を吐いた。
 表札には、遠慮がちに小さな文字で『夢見月』と書かれている。
「……入れないのか?」
青年の後ろから控えめに声が掛かった。青年ははっと我に返って、背後の質問者に首を横に振りまくる事で応えて改めてインターホンを押しに向かった。
 ボタンを押すと、すぐに応答があった。青年は答える。
「――久海です。三宮さんと島原さん、それから泊里君も来てます」
『少々お待ち下さいね。すぐ開けるわ』
聞き覚えのある声でそう返事があったかと思うと、刑務所の門のような雰囲気を漂わせていた大きな門は音を立てて左右に開き始めた。
「……さすがだな」
後ろから感心するような声が聞こえた。
「そんな事も無いよ」
青年はさらっと答えて、早々と敷地の中へ入っていった。


   1

 彼らから自宅に電話が掛かってきたのは、3月も終わろうと言う時期の、深夜の事だった。遅寝遅起きの冬雪が電話に出ると、電話の相手は冬雪の知らない若い男性の声で、用件を告げるとすぐに切ってしまった。

4月3日、午前11時に――……横浜の、夢見月邸へ来い、と。

 前にそのような話があるとは聞いていた。だが、結局詳しい話は何も聞けないまま、その当日を迎えたのだった。
行ってみれば、新宿では玲央と会い、邸宅の最寄り駅で諒也と泊里に会った。どうやら、CECS4人全員を集める事を知らなかったのは――……冬雪だけだったらしい。

   *

「それでは――……始めましょうか」
 妙なほどに静まり返った、無機的な部屋の中で、60過ぎと思しい男が声を発した。誰がどんな会議をするのやら、『会議室』と呼ばれるその部屋は以前から屋敷の一番端に存在していたらしいが、そんなところまで探検した経験など無い冬雪はその存在すら知らなかった。
 お誕生日席にその男が、その向かって左側には夢見月家現当主・季本桃香が座っている。その向かいには広報担当・冬村梨子、その隣に三宮諒也が座っているが若干梨子との間にスペースがある。その隣は泊里だ。桃香の右隣に冬雪、更に右隣に玲央。その向こうにも何人か人間が座っているが、冬雪は彼らが一体何者であるのかは全く知らなかった。
 男はすぐに話を続けた。
「今回皆さんにお集まり頂いたのは他でもない――……CECSと認定された4名の皆様の今後について、この場で話し合おうという訳で御座います」
「今後、と言いますと?」
すぐに反応したのは諒也だった。彼も今回の呼び出しについて、詳しい事は何も聞いて来なかったはずだ。
 男は一瞬ニヤリと笑ってから、答えた。
「そのままの意味ですよ、三宮さん。このままのシステムで構わないのか、あるいはまた別のシステムを構築していくべきか――」
男の回答にムッとした表情が顔に出た梨子が、すぐさま反論する。
「今更また変えるつもりなんですか?……とか言うと4人に悪いかも知れませんけど、これまで彼らはそれなりの実績を上げてきたでしょう?それで充分じゃないですか、」
「梨子さん。落ち着いて下さい」
桃香が抑制すると、梨子はハッとした顔になり、小さく「スイマセン」と呟いて縮こまった。
 男がまた、少しだけ笑ってから続けた。
「興奮したくなるお気持ちは判りますよ、冬村さん。――聞きました、今まで隠していたそうですが……三宮さんは貴女の弟さんだそうですね」
「……ッ!」
気持ちがすぐ顔に出るタイプらしい。梨子が男に襲い掛かりそうな体勢になるところで、隣から諒也が彼女の肩を抑えた。
「姉さん。調べればすぐ判る事だ――そんな事を気にしていても始まらない」
「でも!」
「子は兄弟だって選べないだろうが。同じ家に生まれた事を恨んでもしょうがない」
「素敵な持論だ、三宮さん……気に入りましたよ。さすがは校長先生、ですかな」
今度は諒也も表情を変えた。右手を下ろして、下から男を睨みつけるような姿勢になる。
「……そんな事まで調べていらっしゃるのですか」
「当然の事ですよ。CECSとしての社会奉仕事業は飽くまでも社会奉仕。本業は何をしているかぐらい、調べても構わないでしょう。仕事の内容はプライバシーとは言えませんからな」
少しいらつき始めていた冬雪の気持ちを悟ったのか、隣から桃香が囁いて来る。
『――惑わされちゃ駄目。落ち着いて、自分の気持ちに正直にね』
『彼は誰?』
耳打ちで更に質問を返した。桃香は彼の様子を窺いながら、答えてくれた。
『政治家、とだけ言おうかしら?山見先生よ』
「何をひそひそと話していらっしゃるのかな?ご当主、久海さん」
「な……何でも、ありません。ただ少し、せ、センセイに直接は訊けない事だったので」
一応正直に答えたのだが、先生という単語の発音を間違えた気がした。正面の諒也から呆れたような表情を向けられた。慣れない事はするものではない。
山見と言うらしい男が反応する。
「はは、なるほど。――久海さんは確か、お父様も伯父様も、お義兄様も有名な方だったはず」
「……3人の事と、ぼくの事とは関係ないでしょう?」
一瞬、山見は怒ったような目を見せた。が、答えるときには気味の悪い笑顔が戻っていた。
「その内の2人が自殺。もう1人は他殺――……ここまで来ると因果関係を疑わざるを得ませんな」
「それは……!職業ぐらいなら構わないかも知れませんけど、そこまで……ッ」
キレかけた冬雪を桃香が抑える。男は鼻で笑った。
「3人とも『有名な方』ですよ。そんな方が自殺やなんかで亡くなれば、誰でも記憶するでしょう。周知の事実で、そんなに驚かないで下さいよ」
「…………ぼくの関係し得ないところで亡くなったんですよ。父は目の前でしたけど、元々死ぬつもりだったみたいですし」
そんな事を答えて、ふと先日夢で葵が言っていた事を思い出した。
が、今はそれどころではないと思い直す。
「そんな方が、一翻訳家に甘んじていていいのですか?もっと精力的に活動されればよろしいでは無いですか」
「すいませんけど、日本語が苦手なモノで」
「日本にお住まいなのに?」
「……ぼくの事はいいですから、話進めて下さい」
冬雪は山見を睨みつけてそう言った。しかし山見は決して怯えたりする事はなく、相変わらずの笑みを浮かべて「そうですね」と呟いただけだった。
 山見はごそごそと自分の鞄をあさり始めた。しばらくそうしていたかと思うと、何か資料のようなものを取り出して、再びニヤリと笑った。
「さて、それでは――……本題に入りましょうかね」
今までのはなんだったのか、とツッコみそうになったが、冬雪はそれをとどめた。そんな事をしても今この場では何かがどうなるという訳でもない。ただ単に、山見の冬雪への評価が下がるであろう事だけだ。
「――今度のCE法改正案では、CECSによる社会奉仕事業は“意味の無いもの”として捉えられておりますな。そしてそれを義務から外そうとしている。皆さんがせっかく汗水たらして働いていらっしゃるのに、それを意味の無い事として捉えている……その点に関してはいかが思われますかな、島原さん?」
「あ、あたし!?え、えっと……んーと……」
「玲央、落ち着いて話せば大丈夫。あんたは馬鹿じゃないだろ」
「ば、馬鹿なんかじゃないよッ!ふゆっきーってば酷いなッ」
「馬鹿とは言ってねェだろが」
「……判ってるもん。えーと、意味が無いって言われるのは嫌だけど……義務じゃなくなるんなら、あたしは嬉しいです」
正直な玲央の回答が予想通りだったらしい山見は、ウンウンと頷いた。
「そうですね。でもどうでしょう?今更義務から外れたところで、あなた方の『仕事』には――……仕事仲間と言ったら変ですが、それなりの人間関係というものが出来ているでしょう。それをいきなり解消するというのも無理な話です。思うに、義務であろうがなんであろうが……今後も、あなた方に仕事は入ってくるでしょうな」
「だからそれが何ですか?義務ではない、という事実だけが大事だと私は捉えますが」
諒也が反抗に入った。山見が答える。
「それこそが“意味の無い”法改正。そんな事を論議している暇があるのなら、別のことに時間を使うべきだと思うのですよ。三宮さんはそう思われませんか?」
「……では意味のある法改正とは何でしょう?ここにいる4人とも政治は専門じゃないので、簡単に説明していただけませんか?」
「おや、三宮さんの専攻はどちらでしたかな?」
「今この場にその話は必要ありません。尋ねた事に答えて下さいますか」
山見はこの状況を愉しんでいるように見えた。

 一体何のために、こんなところに集めたのか。
 一体何が話し合いたくて、わざわざ夢見月家に集まらせたのか。
 第一、山見は夢見月の人間ではないではないか。どうやってこの会合をセッティングしたと言うのだろう――……。

男は、極めつけの一言を放った。

「あなた方……いや、CECSと認定された者全てを、極刑に処する事にするのですよ

その場に居た全員が目を見開いた。
山見が続けた。

「そうしなければ――……我々、いや全国民が望むCE制度撲滅は完全には図れない。そうでしょう?現にこうして、泊里さんという“新しいCECS”が出てきてしまっている。これでは何の意味もありません。故意であろうがなかろうが、CEの享受自体を罪としてしまうのです。CE享受者は世間から隔離し、CECSは――」

そこから先は、言葉にして表現される事は無かった。


   2

「……大変な事を言われてるのね」
秋野家の人間が集まる、小さな部屋――百日紅の間というらしい――にて。“集まる”とはいえ、今現在、秋野の名を持つのはこの発言者とその夫のみだ。それに冬雪を加えたとしても、3人にしかならなかった。元々その性質上、人数は決して多くないが――だからこそ部屋も広くない――本来ならばもう少し多くても構わないところだと、冬雪は何となく思った。
「一政治家の意見でしかないよ……多分」
「でもそんな事まで言われたら、何だか恐ろしい事になる気がするの。CE享受者全員逮捕なんて、そんなの……考えられないじゃない?」
「まぁ、知り合いはほとんど捕まるね」
夢見月家に至っては、一族総逮捕、なんて事にもなりかねない。
「でしょう?だから怖いのよ」
「でも香遊……今オレらが話してるのは、飽くまで中から見た時の話、だよ。外側から見れば、ごく当たり前の事のようにも、思える」
冬雪がそう答えて、香遊――桃香の娘、冬雪の従妹だ――が黙り込んだその時、部屋の扉が開いた。
 入ってきたのは――長い黒髪を首の後ろで軽く束ねた、似合わない伊達眼鏡の彼だった。2人の姿を確認すると同時に、彼は軽い調子で言った。
「2人で仲良くお話、ですかい」
「お生憎様。互いに不倫するつもりは毛頭無いよ、先生。それにここは、」
その『家』の人間しか入ってはいけない。別に、入る事で罰があるという訳でも無いが、一応ながらプライベートな空間とされている。
「言わんとしている事は判るが、俺は何処の『家』の人間でもない。確かに冬村梨子の弟ではあるけどな……でもそれだけで関係は無い。だから何処へ行っても構わない、そうだろ?ちゃんと桃香氏から聞いたぞ」
そう言って微笑み、諒也は部屋の中に入ってきた。
 彼が部屋を見回し始めたので、冬雪も改めてその部屋の内部構造を眺めた。特に変わった点はない、テーブルと椅子、小さなテレビが置いてある“小さなリビング”のような部屋だが、そのテレビの上に何羽かの折鶴が置いてあるのは謎だった。
 諒也は冬雪の正面の席に座ると、適当に話を始めた。
「俺が考える限り、彼の言っている事は強ち間違いではない」
香遊が反論した。
「でも、もし本当にそうなったとしたら……犠牲になるのは皆さんです!私は……そんな事、考えたくありません」
「えーと……香遊さん、でしたか?極論にはなりますが――……俺たち自身は、決して死を恐れている訳ではない。CECSは恐らく、そういうモノでしょう」
「貴方たちはそれでいいかも知れません、でも――周りの人間は、それを許しません。皆、1人で生きてる訳じゃないんですから」
そこまで言って、香遊は黙り込んだ。
冬雪が呟く。
「でもそれを言い出せば、CE制度は永遠に失くせない事になる」
「何処かで誰かが犠牲にならなきゃいけないって言うの?そんなの……奇妙しいでしょ?誰かが犠牲にならなきゃいけない、そんな状況は今までにも沢山あったじゃない。そこを乗り切ってきたのが今の社会なんじゃないの?そんな社会だったら、私はすぐに捨てるわ」
会話が、止まった。
再開したのは諒也だった。
「――……打開策が見つかるかどうかは、今の段階ではまだ判らない。今俺たちに出来ることは、ただそれが『見つかる』事を祈るだけだ。自分が見つけるにしろ、他人が見つけるにしろ――な」
「山見って人が言ってた話が実現するかどうかもまだ判らないしね。正確に期限が判ってきたら、もうちょっと細かく考えていけばいいよ」
便乗して冬雪も言ったが、香遊の表情は依然暗いままだった。

その場に沈黙が流れ始める。


――そこへ来て、部屋の中に大きく音が響いた。音が止まってからようやく、ノックの音だと気付く。

「はい」
すぐに香遊が答えて、扉が開く。
現れたのは冬村梨子だった。
「食事、出来たってさ。夕飯食いっぱぐれたくない人は必ず食堂に集まる事ね。オマエもだぞ、諒。客人だからって特別扱いは出来ないんだからね」
「……言われなくても判ってるさ。客人扱いすらされてないだろう」
そう言って小さくため息を吐いた諒也が立ち上がって、部屋の出口へ向かう。それを捕まえて、梨子が話を無理やり続けた。
「――ちゃんと身分わきまえてるじゃない」
「そういう『社会』なんだろ?」
「冬雪君から聞いたの?」
「さぁな」
彼は質問には答えず、服をつかんでいた梨子の手を振り払って部屋から出て行ってしまった。続いて冬雪と香遊がほぼ同時に立って、梨子と並んで部屋を出た。
「――何なのよあの態度。夢見月家に知り合いなんて、あたしと奏梨ぐらいしか居ないクセに。家の何処に何があるかすら判ってないのに1人で行動すんなってーのッ」
のッ、と言いながら彼女は壁を蹴った。かなり不満そうだ。冬雪が彼をフォローしておく事にする。
「しょうがないよ。多分――……あんまり干渉されたくないんじゃない」
「ホンット、子供なんだから!いくつになっても変わらないのね」
香遊と2人で笑いながら、冬雪はふと、昔の事を思い出していた。

――あの時は冬雪のすぐ隣に、幼い弟がついて歩いて――……。

そんな事を考え始めて、彼は無意識に立ち止まっていた。
「冬雪君?」
香遊の声にも気付かず、うつむいたまま動かない。
「どしたの?」
振り向いた梨子が香遊に尋ねるが、香遊は首を傾げるのみ。梨子が冬雪の前に歩み寄り、目の前で右手を上下させた。
 彼はようやく気付いた。
「あ……ゴメン、先歩いててくれて良かったのに」
「どうしたの?妙ーに深刻な顔してたけど」
「なんでもない、ちょっと……思い出してただけ」
笑って誤魔化して、冬雪は彼女たちより先に歩き始めた。後から2人がついてくるのを確認もせず、これ以上自分の弱い姿を見せないようにして――早足で、食堂に向かった。

   *

 食事は相変わらず豪勢だった。恐らく、今日は一族以外の人間も居るという事もあっての事だろうが――……それを考慮したとしてもかなりの『ご馳走』だった。冬雪は梨羽を連れてくれば良かったと思った止まりだったが、諒也は料理人に簡単なレシピを訊きにまで行ったようだった。
「……“料理の上手い校長先生”にでもなるつもりなのかしら、アイツは」
とぼけた梨子に対して、香遊が訊き返す。
「校長先生なんですか?」
梨子は半分呆れた顔をして「まぁね」とだけ答えた。
「諒ちゃん、校長センセになってたの?」
玲央が冬雪に尋ねる。冬雪は適当な口調で答えた。
「あぁ……そうらしいよ」
するとクスクスと楽しそうに笑って、玲央が言った。
「似合わないね」
それに応じて、冬雪も言う。
「似合わないな」
その場に、沈黙が走る。だが決して、嫌な静けさではなかった。
 そういえば先刻からずっと、泊里は一言も発していない。食事中も、それなりに美味しそうな顔をして食べてはいたものの――……会話に参加する事はなかった。

彼は彼なりに何かを考えているのだろうか。

そういえばまだ彼は未成年だったか――。

いきなり見知らぬ人間の中に投げ込まれて、緊張してでも居るのだろうか――?

 そんなような事をぽつぽつと考えつつも、冬雪は集中して紅茶を飲んだ。無理をして話題を作ろうとも、この場から立ち去ろうとも思わなかった。


ただここでしばらく落ち着いて、『実家』という自らの居場所を――……改めて、確認していたかった。


   3

 三宮諒也が気に入った料理の作り方を覚えてから食堂に戻ると、そこには既に誰も居なかった。
「……部屋に戻ってる、か」
今度の会合では、冬雪は元々の秋野家の持つ一室、諒也は不本意ながらも冬村家の一室をあてがわれている。泊里と玲央はそれぞれ来客用の部屋を1人1部屋確保していたはずだ。そう考えると彼らは全員バラバラの部屋に泊まる事になる。
「……さて、何処だったかな」
この家は広い。諒也の実家も今のアパートに比べればかなり広かったが、この屋敷ほどではない。一通り回っただけで全部屋数を認識出来ないような広さの家で、1人彷徨い始めたらどうしようもない。今自分が何処に居るのかすらも判らないのだ。
 尤も、迷ったところで家の中には誰かが居て、所詮は『家の中』――という事もあって、諒也は特に気にする事もなく、4人が並んで歩ける幅の廊下をぶらぶらと歩いていた。
「――三宮さん?」
女性の声がした。背後から聞こえたので、諒也はすぐに振り返った。
 そこに立っていたのは、何処かで見覚えのあるウェーブヘアの女性。はて何処だったか、と彼が考え始めたところで、彼女は自分から名乗った。
「お会いするのは初めまして、になりますね。夏岡雪子です。久し振りにこの家の中歩いたら、何だか疲れちゃいました」
「――……あの、夏岡さん」
名は勿論知っていた。だが確かに、実際に会った事はなかった。
「えぇ。お姉さんとは随分仲良くさせてもらってるの」
「……恐縮です」
「あら、貴方がそんな事言わなくてもいいんですよ。お義兄さんにもお会いした事があるの」
「志月に」
「? 今はそう名乗っていらっしゃるんですか?」
彼女は、彼が名を変えたことを知らない。
諒也は小さく頷いた。雪子が微笑む。上品だが、何処か子供のような無邪気さも感じられる。
「――ふゆちゃんではなく貴方に、話しておきたい事があるんです」
「……私に?」
「! かしこまらないで下さい、貴方の一人称は『俺』じゃなかったでしたか?」
彼女は笑って言うが、諒也にとってはそんな次元の問題ではなかった。
「しかし、」
すっかり忘れていたが、常に『私』を使えと伊吹に言われていたのだ。
 だが彼女は、尚も笑顔で告げるのみだった。
「――貴方は周りに飲まれちゃいけません。貴方は貴方です、そうでしょう?知ってますよ、小鳩先生」
「……!!何処でそれを」
「あたしの情報網を馬鹿にしちゃいけませんよ、岩杉先生?」
にっこりと笑って、彼女は諒也の旧姓を告げる。知っているのは当然――……イラストレーターである梨子の、ペンネームでもあるのだから。
「誰からお聞きになったのですか?」
「――葵君から。あたし、こう見えて読書家なんです。だから彼と色々話していく内に――……絶対にばらさないという約束で、教えてくれたんです」
「……そうでしたか」
久し振りに、葵の名を聞いた気がする。既に、諒也の周囲の人間にはほとんど知れ渡っているから――……今更何を言っても遅い。その名を知ってもらえていたならそれはそれで、感謝するに値するだけの事だ。
「お会いした事はなくて――ふゆちゃんの担任の先生で、葵君の先輩で、梨子ちゃんの弟さんで、CECSで――……貴方は身近なようで、言葉で聞いて映像で見るだけの、不思議な存在だったんです。今これでようやく、1人の人間として認識できましたわ」
「……有難う御座います」
どう答えていいのか、よく判らなかった。
雪子は続けた。全く違う話だった。
「――……山見さんがおっしゃっていた事に関連してですけど」
「何ですか?」
「本来……と言うか、夢見月家の記録によれば、ふゆちゃんはCEを受けていない事になっています。恐らく――……彼自身は、その事を知りません」
そんな話は初耳だった。
「では、」
「話はまだ途中ですよ。でも実際には受けているんです。現に、彼の射撃の腕は生半可な練習で身に付くようなレベルではありません」
「待って下さい、実際受けていて、でも記録に残っていないなら――……どうして彼はCECSと認定されたんですか?」
「されていません」
「……え?」
納得できない。状況がすぐに飲み込めなかった。
「そう言ったのはどなたですか?言ったのはStillの代表で、夢見月家からの発表ではありません。同様に、貴方もです。姉弟2人のうち、本来なら『CEを受けない子』が必要なんです。CEを広げすぎない為に、です。あたしたち姉妹で言うなら、夕紀夜ちゃんでした――……彼女は幼い頃からしばらくイギリスで暮らしていましたでしょう?『秋野家』は代々、『夢見月家』全体を客観的に見据えるという役目を担ってきたと聞きます。だから、ロンドンの家族もCEなど受けていない、よって彼女も、違う」
しばらくの間、CECSの長のように言われてきた彼女も――……違うというのか。
諒也が絶句している間に、雪子は更に続けた。
「でも貴方は受けてしまった――……仕方が無いので記録の方を改竄した、という訳です」
「……でも」
「尤も、公式には認定されていないというだけであって……実際のところは、2人とも完成形と言えると思いますよ」
ならば、今の話は諒也たちにとって一体何の得があると言うのか。混乱し始めたのを悟ったように、彼女は補足して言った。
「――あたしがひとつ言いたいのは、貴方とふゆちゃんの認定は記録に残っていない、と言う事です。つまり――……山見さんが仰ったような、CECS極刑案がもし通った場合でも、2人は殺される事も、逮捕される事だって――ありません」
記録は残っていないから、か。

しかし諒也は手放しには喜べなかった。

自分と冬雪がたとえ死刑を免れたとしても――……残りの2人はどうなるのか。

玲央と泊里は確実に記録が残っていて、かつCECSとして確かに認められているのだ。2人を見殺しには、とても出来そうもなかった。

「――お考えになっている事は判ります。だからせめて、内からではなく外からでも――……2人を助けてあげようと思いませんか?」
優しく微笑んで、雪子が言う。
諒也は一呼吸置いてから、頷いた。

――それを確認して、雪子が楽しそうに笑って尋ねる。

「教頭、元気でした?」
「……はい、とても……。俺を東京に呼んだのは、実際には彼ではなく――貴女だったって事ですね」
「えぇ。だって、またとない機会なんですもの――……貴方には、大きな仕事をしてもらいたかったんです」
緑谷中の現在の教頭の名は、佐伯達樹。
学校では今も旧姓を名乗ってこそ居るが――……夏岡雪子の、夫。

雪子はふわりと笑って、諒也に問い掛けた。
「それで今、先生――……迷っていらっしゃいますね?」
「う…………」
「判ってますよ。梨子ちゃんのところまで丁寧にご案内致しますわ」
嫌味な口調に聞こえるのは気のせいか。
彼女はさっさと歩き始める。
「仲直りさせるのがあたしの目標なんですよ!ふふ、これが第一歩になりますね」
「……そんなの目標にしないで下さい……」
「あら、せっかく同じ家に生まれてきたんですから、その運に感謝して仲良くしましょうよ?あたし、そういうのの仲人が趣味なんです」
あまり嬉しくない仲人だ。

 諒也はため息を吐きながらも、姉の存在をそれほど嫌に感じなくなっていた自分に少し、驚いた。



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