東京想街道
Page.52「永遠の戦友」




   1

 その日冬雪が最初に聞いたのは、阿久津秀の声だった。
 彼はいつものように午前も終わろうとする頃に目を覚まし、ブランチを取ろうとリビングに向かっていった。するとそこには梨羽と共に秀が居て、冬雪が起きるのを待っていたのだと言った。

「……それで……用事は何さ?」
一緒に食卓を囲みながら、冬雪は秀に尋ねた。何とも不思議な気分だ。秀は紅茶を妙に優雅な手付きで一口飲んでから、話し始めた。
「最近この辺りで妙な噂が流れている。駅前駐車場で怪しい取引が頻発してるとか、1日1人はあそこで死んでいるとか――……でも警察にはそんな情報はひとつも入っちゃいない」
「『怪しい取引』が行われてるって言うんだったら、死体の処理なんかはその怪しい人たちがやっちゃってるんだよ、きっと。食事中にするには嫌な話だね」
冬雪は思った通りの事を言った。
「……悪い。ただ……秋野なら、そっち方面にも関わってるかと思っただけだ」
「……どういう意味?」
冬雪があからさまに嫌悪する表情を見せると、秀は顔を上げ、冬雪の目を見ながら微かに笑って答えた。
「そういうところへ潜入して、相手を脅しては逮捕に漕ぎ付ける――……だがそろそろお前の名前も向こうに知られてきてるんじゃないのか?第一、CECSの『社会奉仕』が始まった時点でブラックリストに入ってると見てまず間違いない、そうだろう?」
冬雪が返答に困っていると、梨羽がフォローしてくれた。
「……難しいお話ですね。でもまだCECSとして冬雪の名前は世間には出していませんし、彼らにも知られていないはずです。それなりに、正体がばれないようには気をつけている……はずです」
「……でしょうが、敵を侮ってはいけませんよ。秋野の銃の腕は人並みじゃないだろう?それだけでも情報は伝わる。『夢見月家の生き残り』としてなら秋野は有名人だ」
確かに、夢見月家のプライバシーは守られているようで守られていない。そういう世界の人間には、冬雪の名は知れ渡ってしまっているのだろう。
 そう思うと、このままこの『仕事』を続けていいものかと迷うが――……しかし、やるしかないという事には違いなかった。
 これは義務だ。CECSと認定されてしまったが為の義務であって、冬雪に選ぶ権利は無い。ただそちらの分野に長けているというだけで警察に協力しろと要請され、気付けばこういう事をしている自分が居た。翻訳家としての仕事を疎かにさせられても、それはそれで仕方の無い事であって訴えるべき事ではない。
「……ここ数日『仕事』は入ってない。いつそんな噂が流れ始めたのかは知らないけど、少なくとも緑谷署からの依頼は一切入ってないよ。だから今日ものんびり起きて、午後から仕事しようと思った」
「ここ数日……か。その前にはあったのか?」
「でも駅前駐車場じゃないよ、もっと別の場所だ。駅前駐車場はもういい加減警察にマークされてるから、彼らも使いにくいんじゃないかな……とは思うけど?」
「確かにあそこは随分前から目を付けているが……ただの噂かな」
「だといいんだけど。用事はそれだけ?」
「いや――……だったらわざわざ休みの日に訪問して昼食まで頂いたりしない」
秀はニヤリと笑って、残っていた紅茶を飲み干した。冬雪は炒飯を平らげた。
「ゴチソウサマ。梨羽が居て問題が無ければここで話すけど、もしアレだったら下で話すのもアリだけど?」
「いや――……どちらかと言うと、梨羽さんが居てくれた方が好都合だ」
「! 私がですか?」
しばらく聞き役に徹していた梨羽が、突然引き込まれてかなり驚いている。冬雪は一呼吸置いてから話を進めた。
「それで、次の用事ってのは?」
「葵さんの事件の事だ」
思わず絶句した。そんな事を言われるとは――……欠片も考えては居なかったのだ。
冬雪が戸惑っている間に、梨羽の方が冷静に聞き返した。
「どういう事ですか?何か変わったことでも?」
その反応に秀は期待通りと言った顔をして、話を続けた。
「変わった事、と言うか――……今になって変わった事は何もありません。ただ、内部が隠していた事がいくつか判ってきた」
「内部が……警察、内部が?」
「そう。目撃者の証言がいくつか改竄されている。岩杉諒也は改竄されていない方に入っていた」
目撃情報は少なくなかったと言う事か。それが改竄されたと言う事は――……もしかしたら、あの事が判るかも、知れない。
 冬雪が視線で続きを求めると、秀はそれをすぐに読み取って話を再開した。
「何の為に改竄したのかはよく判らない。だが少なくとも目撃した人間のうち何人かは、確実に今までにない情報を持っている」
「……その人たちは何を見たって?」
冬雪の質問に、秀はすぐには答えなかった。一回瞬きをして、一呼吸置いて、それから――ゆっくりと、口を開いた。

「第三者の存在だ」

あの病室の中に、彼以外の第三者が存在した。
それは――……夢の中で彼自身が言っていた事に、等しい。それが事実だとすれば――……?
 冬雪には何も言えなかった。
「それだけならいい――……なら何故全ての証言にそれが含まれていないのか、そこが妙だ」
「見えなかっただけじゃないの?病室は6階なんだよ。目が悪かったり光が窓に反射したりしてれば……中に人が居るかどうかなんて判らなくても奇妙しく無い」
「秋野は彼を庇いたいんだろう?気持ちは判る」
「…………」
『彼』と言うのは諒也の事だ。彼も目撃者の1人であり、真っ先に通報したのも彼である。
だからと言って、無条件に彼を信用する訳には行かない、と言うのが警察の立場なのだろう。それぐらいは、想像もつくと言うものだ。そもそも彼自身、世間で信用されているとは言いがたい立場に居る。
「『目撃者』の中に犯人が居る可能性は棄てきれない――……警察内部にも、関係者がいる可能性はある」
「……そんな」
「だったらどうしてわざわざ情報を改竄する必要がある?」
「……改竄なんてして、その情報提供者から何も言われなかったのか?」
「その辺は警察だって組織なんだ。僕は知らないが、彼らが裏で何をしていたかなんて――想像もつかない」
秀は彼らしくないため息を吐いて、また紅茶を飲んだ。冬雪もつられてため息を吐いた。
 気分が、妙に重くなった。朝から――もう昼だが――こんな気分にはなりたくなかった。
 いくら一時期の敵だとは言え、秀は近所の住民だし元同級生でもある。これまでにも、それなりの付き合いを築いてきたはずだ。その彼が訪ねてきたからと言って身構える必要も、気分を暗くさせる必要も無かったはずなのだが。
「だから警告に来たんだ――……いずれは秋野が……否、皆が大切にしてる『彼』が標的にされかねない、って事を伝えに来た」
「……それはもう、重々承知してるよ……ありがとう、わざわざ来てくれて」
それは今回の件だけに限らず、日常的な話だとしても。少なくとも彼は日本中の国民に名と顔を知られ、有りもしない噂に苦しめられハチャメチャな人生を歩まされた、ある意味『時代の被害者』だ。彼はCECSの中で一番年上だと言う事をいい事に、まるで悪人たちの親玉のように語られて来たのだ。疑われても、仕方は無い。先日も話していたが、CECSはCECSにしか殺せないと言う話を逆手に取れば――……通報者である彼が第一に疑われても、奇妙しくないどころか当然の事だろう。
 秀は冬雪の反応に満足してはいなさそうだった。
「その時はその時と割り切れるのか?もし彼がその所為で拘置所にでも入れられたら、お前はどうやって助けるんだ?」
諒也は葵の尊敬した『先輩』で――……。
その葵を殺す事など、考えられない。

第一彼は、先日の話によれば狙われる側ではないか。

ますます、状況が難しくなってきた。
冬雪はもう今日何度目か判らないため息を紅茶の水面に吹きかけた。
「……オレはオレなりに、やらなきゃいけない事があるんだと思う。その時にも、だよ。その時はきっと――先生は先生自身で、何とかするんだと思う」
「そう出来ない場合があるかも知れないだろう」
「CECSは『いざという時』の口喧嘩と戦闘のエキスパートなんだよ」
「……口喧嘩、な」
秀は呆れたような表情を見せた。冬雪はクスリと少しだけ笑って、紅茶を一口飲んだ。気分が少し、落ち着いた。
「この社会はきっと、変わってきてるはず。誰かが倒れれば、きっと誰かが助けてくれる」
「本当にそうだと言い切れるのか?」
「誰も助けてくれなければ、その時オレはそれまでの人間でしかなかったんだって――……判ると思うよ」
その時はその時、諦めるしかない。
もう、特にこの世に未練など無い。
出来ればあの葵が居る世界のようなところに行って、のんびりと日がな一日空を眺めて風を感じながら、静かに暮らしたい。
 こんな、訳の判らない闘争などに関わらずに生きていたい。
 そんな事を願ったところで、誰もそれを叶えてはくれないと思うと――……生きているのが面倒に思えたりも、した。だが今は今、この状況を打開する方法が無いと証明されない限りは、どれだけ助かる確率が低いとしても、それを信じたいと思った。
「……お2人とも、まさか先生が犯人だとは……思ってませんよね?」
梨羽が小さな声で尋ねた。冬雪が秀の方を見ると、彼は数秒間黙ってから、答えた。
「彼が犯人ではないようにと――願っては、居ますよ」
「……微妙だな、阿久津」
「彼自身がどう思っているのかは知らないが、彼はかなりの実力者だ。『仲間』に悟られないように隠し事をするのは彼の常套手段だろう?」
確かにそうだが、それとこれとは違うのではないか――。
何しろ、相手が葵なのだ。
「秋野は知らないかも知れないが――……、」
秀は台詞をそこで止めた。
「何?」
「…………いや、ここで話すのは止めておいた方がいいな。本人から聞いた方がいい」
「ちょっと待てよ、それじゃ……阿久津が知っててオレが知らないって事か?まだ……まだ隠してる事があるって言うのか?」
「信じたくないと言うなら信じなければいい。ただ、彼の名は確実に見た。『孤高の狼』という枕詞と一緒にな」
「……孤高の、狼?」
意味がよく判らなかった。
「まぁ、深く考えない方がいい。事態が進めば彼も隠しにくくなるだろう。――……昼食、ありがとうございました。それじゃ、僕はそろそろ」
「もうお帰りになるんですか?ついさっき来られたばかりじゃないですか」
「僕が話すべきことは話しました。これ以上居座っても、迷惑なだけですよ――……せっかく非番なので、これから寝るつもりです」
秀が立ち上がり、椅子を机の下にきちんと仕舞った。
「! 寝てないとか?」
「だったらどうする?」
「……昼起きでゴメンなさい、って謝る」
待たせた時間分、彼の労力が削られた事だろう。
だが、秀はしれっとした顔で答えた。
「寝たよ。それじゃ、またいつか」
「あー!!騙したなッ、寝たんだったら謝るつもり無かったぞッ」
冬雪が叫ぶのを尻目に、秀は軽く右手を上げて挨拶をし、去っていった。梨羽が見送りに行こうとしたが、止めた。彼はそういう事を気にする人間ではない。
 冬雪は元の体勢に戻って、またもため息を吐いた。
「……どれだけ隠してれば気が済むんだよ、あの人は」
「隠しているつもりは無いのではありませんか?案外、自分でも知らなかった事かも知れませんし……左手の事だって、他の先生方は皆知っていたそうじゃないですか。自分の弱いところは、あまり人に見せたくないでしょう?左手の場合で言えば、それが重大な弱点にだってなり得るんですから」
梨羽は皿を片付けながら言う。冬雪も自分の分の食器をキッチンに運びながら、しばらく考えた。
 隠しているのではなく、こちらが気付かなかっただけ。紙一重だが――……決定的な違いだ。知らなかった事の責任は途端に、相手ではなく自分の方に降りかかる。
「孤高の狼……」
「しばらくそれを種に考えてみては如何ですか?もしかしたら、答えが見つかるかも知れないじゃないですか」
梨羽はニッコリと笑って言った。冬雪はそれに応えて、小さく「うん」とだけ言った。


   2

 つぼみを開き始めた桜並木。懐かしい風景が逆に、諒也には哀しみをもたらした。

――私立青梅学園高等学校。

春休み中の今あの彼が、校内にいるのかどうかは判らない。だが――……足を運べるのは今日ぐらいしかない。
 諒也は風に煽られた前髪をかき上げ、数十年振りにその校門をくぐった。
 構内に入ってすぐの建物は中学校の校舎だ。最近建て替えられたらしく、諒也が居た頃の面影はほとんど残していない。だが今そこに用は無い。行きたいのは高校の職員室だ。2年前まで生徒だった泊里の担任だったのなら、まだ高校に所属していても奇妙しくは無い。そう簡単に中学と高校を行き来したりはしないはずだ。
 中学校と同じく新調された高校の校舎に戸惑いつつ、諒也は外来者用に親切に表示された職員室までの道のりを進んだ。近代的なデザインに、まだほとんど汚れていない壁がうらやましい。尤も緑谷中の校舎も新しいには新しいのだが。
「……ここか」
辿り着けた。諒也はひとつため息を吐き、横の壁に「高校職員室」と書かれているドアを押し開けた。
「失礼します――」
入った瞬間、一番近くの机に座っていた日直らしい教員が反応した。
「! 何か御用ですか?」
「えぇと……翠川先生いらっしゃいます?卒業生なんですが……連絡もしないで来てしまって」
正確には連絡する余裕が無かっただけなのだが。日直の教員は「いえいえ」と笑って、翠川を探しに行った。
 1分も待たない内に、その教員と初老の男が戻ってきた。白髪交じりの、しかして体型にいい加減さは感じられない。相変わらずだ。
「! 翠川サン!」
思わず叫ぶと、翠川も気付いてくれたようだった。
「えーっと、岩……?どうしたんだ、いきなり……それに、」
「少し話したい事があるんだ」
こんなところで外見の事に触れられては堪らない。その前に話を進めた。
「俺と、か?それにしても何でまたこんな時に……」
「ニュースとか……新聞とか雑誌とかそういうモノ、見てるか?」
訊くと、翠川ははっとしたような顔になった。
「んーと……ちょっと待て、とりあえず外で話そう。談話室がいい」
そこなら人も来ないだろう。諒也は頷き、先を歩く翠川について行った。
 職員室からすぐ近くに談話室はあった。2人はテーブルを挟んで向かい合わせに着席した。
 先に口を開いたのは翠川だった。
「その髪はお父上の真似か?」
「……父上とか言うな。そんなキャラじゃない」
「『親父さん』とか『お父様』ってキャラでもないだろう。さては図星だな。あー、どっちかって言うと『お父ちゃん』かな」
「……翠川サン、怒るぞ」
それは決して、父親を尊敬しているが故に馬鹿にされた事を怒る、という意味では無い。話の腰を折られた為だ。確か、翠川は何回か諒也の父親に会った事がある。
「あーいやいや、冗談だ。しかし結婚式も身内だけ、最近じゃ年賀状も寄越さなかったじゃないか、岩?」
諒也は思わず黙り込んだ。最近の年賀状は送られてきた人に返しているのみだ。それだけでもかなりの枚数になるのだから、自分から送る気合は既に無い。
「それなのにいきなり来るとはな、不意打ち食らった気分だよ。――泊里の事だろう?あるいは久海か」
「……相変わらず鋭いな」
話したかったのは両方についてだ。
「お前が考える事ぐらいは判るんだよ。伊達に付き合っちゃいないからな……っとそういえば、その眼鏡もどうせ伊達なんだろう?」
「…………そこの繋がり方は何なんだよ」
「また誤魔化したな、図星だろ。若くて充分じゃないか!」
翠川はそう言って楽しそうに笑った。諒也はため息を吐いて、眼鏡を外した。ここでは意味を為さないからだ。
「あぁ何だよ……悪かったな、真剣な話しに来てるのにな」
「ホントだよ。ますます壊れて来たんじゃないか?」
「オイ、そりゃないぞ岩……俺だってまだまだバリバリの現役だ」
言葉に若干古さを感じる。
「どうだか。来年には解雇されてたりして」
私立校だから、有り得ないなどとは決して言えない。
「……怖い事言うなよ。そんなに俺を辞めさせたいのか?」
「冗談だよ。『お前の考えてる事ぐらいは判る』んじゃなかったのか?」
「…………成長したな、岩……」
ため息を吐きながら呟く翠川。
「翠川サンがボケてちゃ意味無いだろ。俺と葵がボケなんだから」
「一刀両断、てな。でもお前、ボケには見えないぞ。……で、本題は」
「……泊里君と葵の事。主に泊里君の事を知りたい」
一体どういう人間なのかが全く判らないのだ。これから『仲間』として付き合うのなら、それなりにバックグラウンドを知りたいのである。
 翠川は少し考えてから、静かに口を開いた。
「彼は変わった子だ――……冗談が通じないどころか、何でもかんでも本気にする」
「……?それぐらいだったら普通に居るじゃないか」
「尋常じゃない。それが発展して妄想癖になっている」
「……そういう人間も居るさ」
時々妄想に耽るぐらいなら、そこら辺を探せば幾らでも居るだろう。
 だが、翠川はまるで怪物を目の前にしたような形相でこう言った。
「それであいつは部室から飛び降りたんだ……!そこまでされて普通だと言えるか?『空を飛べる』と思ってだ!!まぁ……2階で下が土だったから骨折だけで済んだが」
諒也は思わず右手で左手の指を握り締めた。冷や汗をかいているのが判った。とても、翠川の顔を見る事など――出来なかった。
 翠川は諒也の事故の事を知っていただろうか。否――……知らないはずだ。教えた覚えも無いし、知っていれば今のような発言はしないだろう。
「……岩?」
「…………気にしないで、下さい」
「大丈夫か?一気に顔が白く……まぁ元々白いが」
冗談言ってる場合か、と心の中で突っ込んだ。
諒也が何も言い出せずに居ると、翠川が静かに言った。
「岩、自分で指折るなよ?あれ、いつ頃だっけか……えぇと……もう20年近く前だな……何処だかの中学で生徒が、」
「言うな……!!」
諒也は思わず叫んでいた。
 翠川は気付いたらしかった。あの時の事はそれなりに報道もされていたし、それなりに世間で騒がれたりもしたのだ。同じ教師である翠川が、当事者が諒也である事は知らなくても、事故自体を知らないはずが無い。
 目を、そのものずばり丸くして驚く翠川の顔を見て、諒也は慌てて謝った。
「翠川サン、ゴメン……つい」
「いや、いいんだ――……無理しなくていい。とにかく、泊里にそういう経歴がある事は確かだ」
「死にたい、訳じゃないんだよな……」
「久海とは違う」
翠川はそう言い切った。
 その時翠川がいつの葵の事を言っていたのかは確かめなかった。翠川は葵が昔、しきりに死にたいと話していた事を知らないはずだ。そんな事を中学1年生が教師に言うはずもない。言って何と返されるかぐらい、判り切っている。だからこそ彼は、一応ながら同年代の諒也には話していたのだろう。諒也が頭ごなしに「死ぬな」と言って怒る性格ではない事も、彼は判っていた。
「……それから、泊里君はどうしたんだ?」
「普通に退院して……けろっとした顔で授業も受けて部活にも出ていた……はずだ。あぁ、でもそれから――」
「それから?」
「……妙に作品が刺々しくなった気がする」
刺々しい、と言うのはどういう事だろう。翠川の目を見て続きを促すと、彼はすぐに話を再開した。
「いつも何かに批判的なんだ。はっきりとは出ていないが、でも何かこう……彼が受け入れないものは全て悪のような」
「作風が変わった?」
「……文体が変わるほどではない。でも読んでいると何かこう、変な感じがする」
泊里がCECSと認定、発表されたのはつい先日の事だから、その件が関係しているかどうかは判らない。だが少なくとも、そこで彼が変わったと言う事は確かだろう。諒也は考え込んだ。
「お前も一時そうだっただろう……そうか、あの頃か!だから妙な感じがしたんだな」
「……え?」
「半端なく暗い話ばかり書いてた時期があったじゃないか。忘れた訳じゃないだろ?岩は感情の浮き沈み激しいからな、顕著顕著」
翠川は笑っているが、内容は決して軽くない。
「……『ばかり』って訳じゃない。あれは入院してて暇な時に書いたんだ」
「でも3冊ぐらい出してたじゃないか」
「2ヶ月もあればそれぐらい書ける。ワープロ持ち込んでさ」
「ほーう、速筆自慢か」
「…………昔の話だ。右手の片手打ちの訓練も兼ねてた」
翠川は再び目を丸くした。元々目は大きい方だから、余計に円に近く見える。
「片手なのか?」
「事故の事は知ってたのにこっちは知らないのか。今や片手打ちのエキスパートだぞ」
諒也がひらひらと右手を振って見せると、翠川はムッとした顔になって怒った。
「被害者のその後の経過まで知る訳無いだろッ!んなモンが報道されたら今頃ニュースは後日談だらけだ」
「……確かに」
「それで、何だ……あれ?左利きじゃなかったか?」
「だから訓練したんだよ。親指以外……人差し指はマシだが、他が上手く動かない」
「……!!」
絶句されてしまった。ここはフォローしておかないとまずい。
「た……大した事は無いんだ、一応1人で問題なく生活できるレベルだから」
「そ、そうか……それならいいんだ」
言わなければ良かった。諒也は少し後悔した。今後しばらく翠川はこの事を過剰に気にするだろう。
「……翠川サンは、CECSには関係無いよな……?」
「?」
意味が判らないぞ、と言いたそうな顔を返された。諒也は説明を付随した。『関係している』というだけならば、彼は関係しまくっている。訊く意味の無い質問だ。
「その……もしかして翠川サンが実はCECSとか、そういう事は無いよな?」
「……だったら今ここでお前を殺してみようか?」
「出来るか?」
出来たらそれが一種の証拠になる。翠川は表情を変えずに答えた。
「いや、出来る気はまるでしない」
「……だよな」
当たり前だ。身体的な問題でもあるだろう。40を過ぎている諒也の、高校時代の担任なのだから――これでも翠川は定年直前なのだ。
「そういえば……結城は違ったんだよな?」
「……大亮?」
久し振りにその名を聞いた。同時に罪悪感にさいなまれてしまう自分が辛かった。
 翠川は少し寂しそうに笑いながら話した。
「そうだ――……何だっけか、夢見月家の誰それの息子だとか……何処かで聞いたなぁ」
「……あぁ」
だから何だ、と尋ねると、翠川は訊きたかっただけだと答えた。よく判らなかった。
「織川は元気かな」
「TV見ろ。毎日出てやがるぞ」
「毎日は大げさだろう!」
大げさだが。
「今……龍神森冬亜の遺作のアレンジを頼んでる。誰に歌わせるか、とかも全て任せた」
「……?どうしてそんなものを岩が持ってるんだ?」
「その元隠し子が誰で、そいつが俺の何かってのは知らないのか」
「知る訳無いだろうが!!何だよ、親戚か?知り合いか?」
「……おい、葵の叔父さんだって事は知ってるだろ。今久海姓名乗ってるCECSの1人が……俺の教え子でその元隠し子」
「岩以外は知らないよ。……で?その元隠し子君に遺作が託されたって訳か」
「それを俺が預かって織川に任せた。いい判断だろ」
「……皆が皆有名になってな」
翠川は急にしんみりとした表情になった。
「どうした?」
心配になって諒也が尋ねると、彼は切なげな笑顔を見せた。
「――……俺が取り残された気になる。まぁ……無論嬉しいのは嬉しいが、こうやって2人で話すのに相応しいのかどうか、って思うとな――」
「翠川サンは翠川サンだろ。いつまで経っても翠川サンの事は皆慕うと思うけどな」
「……ありがとう、でも……全員がそうとは限らないだろう?」
「…………翠川サン?」
様子が奇妙しいような、気がした。
「……正直、泊里の件の発表があって……本気で辞めようかと思ったんだよ」
「や……辞める事は」
そんな事を考えているとは思っていなかった。
「でもお前はそれで一度辞めただろう」
「あの時はCECSの発表だけじゃなくて、あいつは人を殺して――」
「正当防衛だったじゃないか。辞める必要なんてなかった」
「俺自身もCECSだと指摘されたんだ」
「あの頃はまだCE法も無かった!お前はモラルの問題で辞めたんだろうが、教え子の問題の責任を取って辞めると言うなら――」
「今の泊里君に保護者は居ない、翠川サンは一時的にそうなっただけだろ?大学生の問題に、高校時代の担任が反応してどうする」
翠川は黙り込んだ。が、数秒経って再び叫ぶような口調で言った。
「1人ならまだいい!でも既に3人も居るんだぞ?久海は教科担任でしかなかったが、でも――部活で関わっていたのは事実だろう!」
「翠川サンがCEを施した訳じゃないだろ……!」
「……実際に言われてるんだよ。泊里が出てきて、いくら実名報道されないからと言って……周りにはすぐに広まった。途端に俺は標的だ、『またあの人の生徒が』ってな――」
「家族の問題だ……」
「そう言い切るなら、お前はどうして辞めたんだ?」
矛盾していた。自分でやった事と、言っている事が矛盾している。
諒也には答えられなかった。
「判るだろう?微妙な立場なんだ。岩――……いつまで『校長』やるのか知らないが、せめて『責任を取っての辞職』だけはするんじゃないぞ――今度やったら、俺が許さない」
「……了解。知ってたんだ、翠川サン」
「当ったり前だろが。同じ市内なんだぞ?私立だろうが公立だろうが関係ない、それぐらいの噂はすぐに広まる」
翠川はいつもの調子を取り戻したように見えた。諒也は安心して頷き、ソファから立ち上がった。
「ありがとう、話せて良かった」
「おぅ、帰るのか?」
「引越しを、ね」
「……また同じ部屋、とかそういうオチか?」
「だったら面白いだろ?」
「違うのか?」
「『そういうオチ』だよ。それじゃな翠川サン、また機会があったら来るよ」
鞄を背負って談話室を出る。後から翠川がついてきた。
「元気でな。暇だったら遊びに来て構わないぞ……って、暇なんて無いか」
「そうかもな……。それじゃ」
「おぅ、またな」
そう言って翠川は笑顔で手を振ってくれた。諒也は手を振り返して、エレベータに乗った。
 帰り道の桜並木は、何故か妙に温かく、見えた。



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