東京想街道
Page.50「似合わない朝」




   1

 無機質な壁と慣れない空気に包まれながら、諒也は起床した。枕元の時計を見れば現在時刻は午前5時、いつも通りだ。早起きなのは昔からの事で、特に何をする為という訳でも、老けたからとかでもない。彼は上体を起こし、とりあえず髪を束ねて布団から出た。
 一時的に志月の家に居候している彼にあてがわれた部屋は、深海屋店舗兼自宅の一軒家2階、唯一の小部屋である。しかし志月は2階を研究開発室にしか使っておらず、彼自身の寝室は1階にある為、諒也の居る部屋は未開拓の土地状態だった。何ら飾りも無ければ使われた様子も無い、「ただの部屋」だったのだ。今はそこに、志月が用意してくれた布団と、諒也が持ってきた荷物だけしかない。
「……朝飯……つくらないと」
まだ少しボーっとするのだが、起きてしまったら寝られない性分なので、布団に戻っても恐らく意味は無い。諒也は部屋を出て廊下を少し歩き、階段を下りて1階ダイニングに向かった。
 無論のこと、志月はまだ起きていない。彼の起床時刻は大体6時と決まっている。今日は特に、1時間も朝食を待っている場合ではない。
 諒也は冷蔵庫の中から冷凍御飯と卵、棚からインスタントの味噌汁を手に入れた。
「…………この期に及んでインスタント食ってる俺も俺か」
誰に言うともなく呟いて、油を敷いたフライパンの上に片手で卵を割り落とした。その辺りの細かい技術が、今諒也の出来る料理に関する唯一の自慢だ。そのついでに味噌汁用の湯を沸かす。飯は電子レンジに突っ込んだ。
 ほぼ同時に全ての作業が終わり、彼は慣れた手付きでそれぞれを皿に盛り付け、テーブルに運んだ。
 それを食べて食器を片付けると、彼は再び2階の自室へと戻った。時刻はまだ、5時半。志月が起きるまで、まだ30分もある。その間に顔を洗って着替えて髪を梳かしなどしている内、次第に時計の針は動いていった。

 午前6時。その時点で既に出掛けられる状態で、諒也は1階の志月に会った。
「…………諒也君……何時に起きたの?」
「? 5時だけど」
「1時間で食事して着替えて……速いなぁ」
「標準だと思うが……?」
ツッコミに対する返事は無かった。恐らくはまだ眠いのだろう。
「で、今日は何処に?スーツなんて久し振りだよ」
「緑中の方にな」
「現地調査?」
「現地挨拶。それだけだ」
「なるほどね……大変だ。ボクにはとてもその激務が想像つかないよ」
志月はのほほんと笑いながら、ダイニングの方へ向かって歩いていった。諒也はそれと反対、テレビなどが置いてあるリビングに向かった。
 それからテレビを見たりなんだりしている内、自然と出掛ける時刻はやってきた。予定通りの時刻に諒也は鞄を背負い、その家から出発した。
「じゃあな、帰りは夕方になると思うけど」
「……挨拶なのに?」
「そこら辺はご愛嬌だ。じゃ」
「うん。じゃあね、頑張って」
手を振って、駅に向かって歩き出した。
 上り電車に乗って約2分強、羽田南駅から緑谷駅間はたったの1駅だ。諒也は緑谷駅南口の階段を下りて鞄を背負い直し、にぎやかな朝のロータリーを抜けた。あまりバスの通らない『バス通り』から右に曲がった並木道の先に、その中学校はある。数年前にまた建て替えられたらしい校舎はまだかなり新しく、設備も整っているらしい。話をした教員の1人は「先生の想い出の地なのに」と残念そうに言っていたが、個人的には建て替えてくれて有り難かった。生徒ともみ合って2階から転落したり火事に巻き込まれたり友人を亡くしたりした――……いわくつきの学校だ。
 諒也が正門の前に辿り着いた時、車道を挟んで反対側の歩道に見慣れた人影が見えた。――冬雪だ。諒也が彼に軽く敬礼で合図すると、どうやら彼も気付いたらしくこちらに手を振ってくれた。

 だが、よく考えてみれば奇妙しい。
彼は諒也が何故ここに居るのかを知っているのだろうか。慌てて振り返るも時既に遅し、彼は自宅に入ってしまっていた。今のところは諦めるしかない。諒也はひとつ、ため息を吐いて懐かしく切ない正門をくぐった。

   *

「――……とりあえず、こんなところです。もし何か判らない事がおありでしたら、私に何でも聞いて下さって構いません」
職務についての説明を教頭から聴き終えて、諒也はとりあえず「ありがとうございます」と締めて彼の好意を断った。教頭は「失礼します」と断ってから、諒也の前から離れていった。
 酷く肩が凝った。全員が敬語で話し掛けてくるのもまた、疲れる。普段から生徒にも敬語は強要しない主義の諒也にとっては、丁寧語以上の謙遜と尊敬は不要だ。
 今度は諒也の机の前に、ひとりの女性教員が近付いてきた。
「――……あの、ひとつお聞きしたいんですが」
「……何ですか?」
背は高くない。肩に自然に下ろした髪は少し茶色っぽい――恐らく染めている色だ。化粧も濃くはなく、年相応の落ち着いた服装は好印象である。
 そういえば名前を、聞いていただろうか。
「えっと、私が聞いた限りでは旧姓は――岩杉さん、ですよね」
「え……えぇ。それが何か……?」
答えると、彼女はパッと明るい顔になって、言った。
「兄を、結城大亮を―――……ご存知ですよね?」
「! え……大亮の、それじゃ……」
「はい、妹です――菜穂と言います。兄と違って社会科の人間ですけど」
大亮は根っからの理系人間だった。諒也とは正反対である。
「こんなところで会うとは思っていませんでした。彼にご兄弟がいらしたなんて初耳です」
「そういう事は話さない人でしたから。私――……兄がお世話になったって聞いていたので、お会い出来るのを楽しみにしていたんです」
「せ……世話にって、中高大学と一緒だっただけで」
「でもしばらくここで一緒に働いてらしたんでしょう?」
「えぇ、まぁ……」
一緒だったのは実質1年強だが。
それに――……彼を死に追いやった元凶は、自分だ。
「あの、これから宜しくお願いします。兄のお礼も兼ねて」
「そんな、礼なんて――……俺はただ…………あ」
言ってから気付く。校長の一人称が『俺』ではまずいだろう。菜穂も気付いたようで、クスクスと笑い始めた。
「スミマセン、笑ったりして……でも意外とお茶目な方なんですね。兄が惹かれたのも……判る気がします」
「え?」
「それじゃ、4月から頑張って下さいね。私、仕事に戻ります」
「あ――……はい。こちらこそ、宜しくお願いします」
不思議だ。その上――……胸が痛む。どうして彼の妹にここで会って、しかも礼までされなければならないのだ。諒也は彼に対して謝って然るべきで、礼など言われる立場には無い。少なくとも、諒也が彼に決定的な一言を言わなければ――彼はあんな凶行に及ばずに済んだ。結局誰も巻き込めず、結局自分だけが命を落とすという結果になったのは――……諒也が彼なら嬉しくない。尤も、人を巻き込んだら自分が加害者になってしまうのは確かだが。
 そんな事を考えていると、不意に後ろ髪を思いっきり引っ張られた。
「うわッ、」
「何、考え事?俺にも気付かないなんて、ボケてんじゃん、今日の諒」
「……え?」
振り返ると、そこにはひとりの教員が立っていた。何となく、何処かで会った事のあるような顔だ。第一、友人のような口調で話されているし、その上『諒』とまで呼ばれている。はて、何処だっただろうかと考えている間に、相手の方から答えを言ってくれた。
「俺だよ、伊吹。東海林伊吹。忘れたとは言わせないぞ?」
背は低い。菜穂よりは高いだろうが、大亮よりも低い。髪は黒、少々小太り。だが顔立ちが可愛らしいので、同年代よりは下に見えるだろう。諒也が高校の頃つるんでいた仲間の1人だ。大亮と仲が良かった。
「い……ぶき?お前……教師なんてやってたのか?」
「何だよその『なんて』って。お前だって教師だろッ」
ばし、と二の腕を叩いて突っ込まれた。
「そういう意味じゃなくて……全然連絡無かったし、」
「しなかったんだよ――……したくなかったの。俺は採用試験ことごとく落ちて……お前とダイは即行で受かっただろ。言う機会自体が無かったの。織川は織川で超有名人になっちまうし、槙はちゃっかりイラストレーターやってるだろ?俺1人ずっとプーで、バイト暮らしで……俺ね、ここ来たの去年なんだ。だから宜しく、先輩」
「先輩って、俺校舎の中もよく判っ」
「諒ッ、ダメだよ。俺相手でも『俺』はダメ。クセは出るんだぞ?これから『私』で統一。嫌なら『僕』でもいいよ?いい歳して、似合わないと思うけど」
嫌味だ。だが――……言われている事は適確である。
諒也はため息を吐いた。
「……元からそのつもりだよ。『僕』なんて一人称は小学校以来使ってない」
「その心意気。――ちなみに俺もお前と同じ国語だ。宜しく」
「あぁ、宜しく」
「あ、それでお前。教頭から聞いてるか?せっかくここに戻ってきたから、敢えてここは岩杉姓で……って、誰かさんが言ってたぞ」
「は?」
そんな話は聞いていない。諒也が答えられずに居ると、伊吹がため息を吐いた。
「……やっぱりな。あの教頭が言うワケ無いと思ったんだよ。言い出したのはほら……お前を東京に呼び戻した張本人だ。何がやりたいのかは俺は知らないけど、覚悟しておいた方がいいかも知れないぜ。まだまだ世間はシビアだ」
「それぐらいは重々判ってるよ。いくら自分は何もしていないって言い張っても無駄な事。裏で何しているかは判らないって言われるのが筋だ。昔からそう……変わっちゃいない」
「彼がお前を呼んだのは……諒のお父さん繋がりなんだろう?」
こちらでは勝手にそう考えているが、本人の真意は訊いてみないと知らない。
「まぁ、多分な。でも今更だ……『伝説』の岩杉聖樹より、『CECS』の岩杉諒也の方が名が通ってるさ」
正直に答えると、伊吹は今度は真剣な目をして耳打ちで話してきた。
「だからこそ俺は奇妙しいと思ってるんだよ、今回の話。ただでさえお前の関係でこの学校じゃ生徒が減ってるってのに、わざわざお前を呼び戻して、しかも旧姓名乗らそうって言うんだから変な話だ。まるで……わざとこの学校を潰そうとでもしてるような」
「嫌な事言うなよ。就任1年で生徒300人減なんて考えたくない」
300人減ったらゼロになる。
伊吹も嫌そうな顔をした。
「諒に責任押し付けるつもりは無いよ。ただ……そうなりかねないぞ、っていう話だ」
諒也は机に寄りかかって腕を組んだ。
わざと右手薬指に嵌めている結婚指輪が目に止まる。何となく――……実家に残してきた、子供の事を思い出した。
 父親の過去――……そして何者たるかを知らない、純真無垢な子供たちだ。もし将来あの事を知ったら、彼らはどう思うのだろうと考えると、尚更つらい。ますます両親を恨みたくなるが、二人とも既にこの世に居ないのでは話にならない。責任を取ってもらう事など不可能だ。それならば両親のそのまた両親に――……と考え、そこで思考は止まった。
 諒也は母親の両親――つまり祖父母――に会った事が無い。既に、もしかしたら諒也が生まれる前にでも――亡くなっているのではあるまいか。
「おい、諒……聞いてるのか」
伊吹の声が耳に入ってくる。慌てて彼の方を見ると、それと同時にため息を吐かれた。
「何か言ってたのか?」
「指輪が右手なのは正解だな。『いえ、結婚はしてないんですよ』って言えるだろ……って言ったよ」
「え、いやこれは」
左手に嵌めていて抜けなくなったら嫌だから、と言うのが元々の動機なのだが。ほとんど動かさない左手の指は、右手に比べて幾分か太い。
 伊吹はあの事故を知らないらしかった。きょとんとした顔でこちらを見て、話の続きを求めている。
「あ、あーいや……そうだな。人に見せたくて右にしてるんだ」
今現在、そんなつもりは全く無い。
「はーん、嫁さん自慢か。せっかく1人で来たんなら……少し1人で大人しくしてたらどうよ、諒?思いつめてんだろ」
「……伊吹」
何故判るのだ。
伊吹は柄にも無くニッコリと笑って、言った。
「疲れてんだよ、きっと。いきなりこんな事言われたら……誰だって平静じゃ居られないさ」
「でも俺、」
「『私』って言っただろう。毎週の朝礼で校長センセに『俺はぁ〜』なんて言われたかないよ、生徒だって」
諒也は演歌歌手ではない。
「……でも伊吹は生徒じゃない」
「俺は諒の同僚でありながら部下だ。友人とは考えない方がいい。結城が死んだのは自分の所為だと思い込んでんなら、『友人』とはもうちょっと離れて生活した方がいいぜ。お互いの為にな」
「……え」
「んじゃ、オシゴト頑張って下さい、校長先生」
伊吹は手を振って離れていった。周囲に、人が居なくなる。
 結局そうなのだ。関わるまいと思いながら、深みに入り込んで信用を失った。彼に諒也を『裏切り者』と呼ばせた責任は自分にある。そこに、間違いは無い。
 だから伊吹はそう忠告した。人の事を気にするあまり、触れられたくないところにまで入り込んで――……殺されそうにまでなったのは、関わるなと言った秋野夕紀夜を裏切った結果でもある。彼女は強かだった。生き別れた実の息子を目の前にしながらも、平然と授業として、平然と彼を卒業――その時彼は昏睡状態だったが――させた。それもその息子に、自分が母親である事を全く気付かせずに、だ。
 諒也にはそれが出来なかった。大亮の名を発見して、すぐに声を掛けたのは自分の方だ。大亮はこちらが名乗るまで、諒也の事に気付かなかったのだ。
 この左手にしても同じ事――……別に尚都と仲良くしようとは思わなかったが、流人の事で声を掛けてしまったのも事実。ある意味では自業自得なのだから――……事件などと表現して、必要以上の騒ぎにはしたくなかった。後遺症が残ったのは致し方ない事だ。

何もしていないと言いながら――……これまで『岩杉諒也』の起こしてきた事件は、実は当人でも数知れないほど、多かった。

   3

 晴れている。ただひたすらに晴れている。こんなに青い空を見たのは何年振りだろうか。諒也は目を覚まし、周囲の状況を確認しようと上体を起こした。
「…………草……?」
ただの草原だ。何も無い。何故自分はこんなところに居るのだろう――意味が判らない。
「あれー、そこの人!ロンゲはまだマシだけど、眼鏡はあんまり似合いませんねー」
「!?」
誰かの声がした。聞いた事のある声のような気もするし、そうではない気もする。微妙な気分だ。諒也が戸惑っている間に、その声の主はこちらへ近付いてきた。
 草を蹴る、ガサガサという音が耳の近くで聴こえた。
「オヒサシブリです、先輩?お変わりアリマセンね。こちらに何かご用事で?」
冗談のような口調。見上げると、そこに立っていたのは知っている――いや、知っていた人物だった。
「…………葵……?」
何故葵がこんなところに居るのだろう。
何が何だかよく判らなくなってきた。
「――先輩、こんなトコに居てもなんです。ウチに来ませんか?大したモノは無いですけど」
「ウチ……?」
「草原の中のログハウス!いいカンジでしょ、お気に入りなんです」
そうやって明るい調子で話すのは確かに葵だ。間違いない。第一、彼でなければ諒也の事を『先輩』などと呼んだりはしない。付き合いの無いただの後輩に、そのように呼ばせた覚えはない。
 諒也が立ち上がり、彼についていこうと歩き出した途端、葵は停止した。
「な……何だよ」
葵はゆっくりと振り返る。その表情は決して、明るいものではなかった。それは恐らく自嘲――……何故いきなりそんな顔をするのかが判らなかった。
「……変な気分でしょ。ここは……変な世界なんです。10年もずっとここに居れば判ります。ホントなら俺も、37になってるはずなのに……」
「葵、行くなら行く。話はそこでしよう」
「…………ゴメンなさい。行きましょうか」

それからしばらく会話も無く草原の中を歩いて、彼の言うログハウスまで辿り着いた。中に入って、リビングのような部屋に出た。葵が座って、諒也はその正面の椅子に座った。
「――誰がこの世界を作ったのか、って言うのは――……未だに謎なんです」
開口一番、葵はそう言った。意味を取りかねた。
「……葵じゃないのか?」
彼は少し微笑みながら、首を横に振る。
「違うんですよ。ふゆには通じたみたいですけど――……『真実の夢』あれは、決してただのフィクションじゃないんです。半分は実話です」
「だから――……葵が見たんだろう?その――夢。だったら」
「俺が入り込んだ段階で、ここには誰かが居たはずなんです。ただ――俺自身、中学の頃の事ははっきり思い出せないし、作品は勿論、夢自体にアレンジ加えまくってますから……人なんて誰だか判りません」
「この建物に、誰かが居たのか?」
「えぇ、それは確かです。でも俺には判りません。多分これから先、誰も判りません」
本人に判らないなら、誰にも判るはずがない。当たり前だ。諒也は軽く頷いた。
一瞬、静かになる。先に口を開いたのは葵だ。
「――25年前と……ちっとも変わってませんね」
「25?えぇと」
「――……初めて、会った頃ですよ」
「! 覚えてるのか?」
「どっちかって言うと『思い出した』んですけどね。――冊子には載ってたのに部活紹介に出てなかった文芸部を覗きに、部室棟にふらりと俺が行って。ドアに貼ってあった『混ぜるなキケン』にちょっと引いてる時に、背後から」
「……『混ぜてみるか?』ってな。何言ってんだ俺って思ったよ、あの時は」
「『混ぜてもいいんですか?爆発とかしませんか』……自分で言いながら馬鹿らしくなりました。あの時は先輩が怖く見えて、冗談言ってくれたんだからノッとこうって思ったんでした」
「怖かったのかあれは――……で、突っ込んだのが」
「翠川サン!」
2人の声が重なった。思わず、笑いが零れた。しばらく2人で爆笑して、ほとんど同時に収まった。
「っひはは、死にそう……そーいえば、あの頃はいっつもこんなカンジだった気がします」
「そうだな、いつもお互いボケ合って……相手のボケに笑って」
「偶に翠川サンが突っ込んで」
「……葵、ほとんど思い出してるんじゃないのか?」
「え。あ――……えぇ、まぁ大体は。ここに居る間に、現在のそちらの世界を見てるだけじゃなくて……過去の自分なんかも見られたりするんですよ。それは飽くまで、記憶って言う形で。でもね何だか、『真実の夢』に関することだけは全然思い出せないんです。要はここの事ですけど――……何かが、拒んでるんでしょうかね」
「……『世界』の意思なんだろ。お前に思い出されちゃ困る事なのかも知れない」
「せーんせい、呑み込み速すぎ!ふゆなんて、自分がここに居る意味考えるだけで随分掛かってましたよ。夢だからどうこうって。――夢なんだから、余計な事考えないで純粋に見てればいいのに」
正直な気持ち、なのだろう。
尤もこれが本当にただの夢なら――……、諒也にとっての葵が考えた事であって、実際の葵がどう考えるかは加味されないのだが。第一、当の葵は既に死んでいるのだから意思も何もあったものではない。
「……葵……ひとつ、訊きたいんだが」
「はい、何でしょう?」
飽くまで明るい声だ。
「ここは一体――……、何なんだ?」
葵の表情は変わらないが、声のトーンは明らかに下がった。
「ここは貴方の夢であり僕の住む異世界。貴方は今日寝た瞬間にその意識をこの世界に飛ばし、僕はそれを受けて貴方の意識と会話をする」
「……難しい事はよく判らないが……それでこれは本当に夢か?妙にリアルなんだが」
「それは全て貴方次第。全部夢だと判断するもよし、この世界が本当に異世界だと思うもよし。ひとつ言うなら、貴方の会った僕と、昨日冬雪が会った僕が同一人物かどうかは判らない、ってところでしょうね」
「冬雪が昨日ここに来た、っていう情報だけでも充分だろう。あいつに確かめてみれば全て判る」
「そうでしょうか?もしそれであいつが僕に会ったと答えたところで、偶々似たような夢を見ただけかも知れない。貴方もあいつも、僕の知り合い……いや、親戚かな。とにかく既知である事に変わりは無い。夢で死んだ人間に会っても、それは良くある事でしかない。『真実の夢』が何たるかは、ふゆもよく知っている」
気付けば葵は一人称に『僕』を使っている。
そういえば遺書の中での彼も、自分の事を『僕』と称していたか――……その共通点を、どう考えればいいのだろう。
 次の瞬間には、葵の声はまた明るい声に戻った。
「そういえば先輩、緑中の校長先生になられたそーで」
「……疑いようの無い事実だよ」
「まぁいいじゃないですか。とりあえず1年やってみて、後どうなるかは生徒次第。校長がどうとかで簡単に転校するような中学生は居ないと思いますけどね」
「…………まぁな」
「あの……俺も少し訊きたいんですけど」
「! 何だ?」
夢の中の住人に質問をされるのは不思議な気分だった。
「――その髪……もしかして、お父さんの真似とかで?」
バレている。もっとも――……これを諒也の夢と考えれば、夢の中の人間が諒也の考えた事を知っていても何ら奇妙しくは無い。
諒也は少しだけ間を置いて、答えた。
「あぁ……真似と言うか、ただ……父親の影を追っただけ」
「病院で、いや……写真でかな。見た事がある気がします。学校の先生だって聞いてたから、変わった人だと思った記憶が」
その頃は葵も記憶喪失から立ち直ってきた頃だろう。
「そうでなくても変わった人たちだよ」
「それと」
「? まだ何かあるのか?」
葵の表情が変わった。深刻と言うよりは――……不思議そうな顔をして、こちらを見ている。
「先輩のお母さんの、旧姓は何でしょう?」
「いや……聞いた事は無い」
「知らない?戸籍なんかも覗いた事無いですか?」
「母親の事は見ていないな。特に問題が起こった訳でもないから」
「……佐伯と言う名に、聞き覚えは」
今彼は何と言ったか?
聞き覚えがあるどころではない名を――……言ったような気がしたのだが。
「それは勿論……でも佐伯家が何か」
「詳しい事は俺もよく判りませんが、先輩のお母さんが佐伯家と関わりがあった事は事実です。だからこそ……あの時彼女は、あそこに居た」
そういえば、パーティに招待された理由も知らなかった。
もっとも諒也は、何処のパーティに行くのかすら知らなかったのだが。
「…………そこから先は俺が調べないといけないのか」
「そうなります。俺が提供できるのはここまでです。貴方に――……疑問を持ってもらう事が大事なんです。
――そうそう、そろそろ帰らないとここから出られなくなりますよ。生きている人間の意識は、早く身体に戻さないといけない」
まるで幽体離脱ではないか。諒也が不思議に思っている間に葵は立ち上がり、諒也を急かした。
 それからログハウスを出て、大木があるところまで彼はついて来てくれた。
「花畑に入りさえすれば簡単に戻れます。戻ろうという意識が大切ですよッ」
言い方が、何と言うか――……何処かのインストラクターのようだ。諒也は思わず笑った。
「……判った。それじゃあな、葵」
「はい、また会える事を願ってます」
「俺もだ」
諒也は彼に手を振って、色とりどりの花畑の中へ入った。それから真っ青な空を見上げて、目を閉じ――……言われた通り、ひたすら『戻れ』と念じた。

――……何回か頭の中で呟いた、瞬間。

彼の意識は、どこか遠くへ飛び去ったような感覚になった。
+++

2004/2/19〜2004/3/13



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