東京幻想




「――……寒」
まだ年が明けて数日しか経っていないと言うのに、何故自分はこんなところにいるのだろう。
「文句言わないで下さい」
「んなコト言われても」
久海冬雪は身震いをして、縮こまってその場にしゃがんだ。地面に霜が下りているのが判った。
 葵が死んでから今年で10年。月日が経つのは早いと言う通り、少なくとも冬雪にとってその10年は短かった――と、思う。無用だと思っていた葵の紹介があったお陰で、考えていたよりもスムーズに翻訳家としての仕事も出来るようになったし、探偵事務所と言う名のペット捜索事業の方も相変わらずの調子で続いている。さすがに母の代から20年以上も同じ場所でやっていると近所にも名が知れ渡っていて、もうほとんど老舗状態である。
 しかし何故正月から墓参りなどに来なければならないのか。別に死者を軽視している訳ではないが、寒いのと動きたくないのとが重なってとても乗り気にならない。1月2日、一応ながら妻である梨羽の両親の命日。冬雪は1度か2度顔を合わせた事しかないが、日本中で名を知らない者は居ないとまで言われた有名人でもある。その割には熱狂的なファンが墓参りに訪れたりする事は無いのか、と何となく思った。
 冬雪は今一度身震いをして、ゆっくりと立ち上がった。マフラーを巻き直して、外気に晒されて冷たくなっている髪を外に引き出す。ため息を吐き、何となく周囲を見回してみた。

――珍しく、人影が見えた。

 こんな中途半端な日に墓参りにやってくる人間が他にも居たのか。感心と共に呆れて、冬雪はその人影の様子を何をするともなく、眺めた。
「冬雪、水汲んできて下さい」
「あ……うん」
冬雪は砂利道に下り、水道へ向かって歩き始める――……と同時に、先ほどの人影の傍を、通り過ぎようとした。
「――今年で10年だな」
 冬雪は思わず足を止めた。低い声――……誰が発したのか。だが周囲に居るのは冬雪と梨羽と人影だけ――……と言う事は、人影の男か。後姿で顔は判らないが、背は高くて長い黒髪をひとつに束ねている。道から石段を2段ほど上ったところに立っていて、そこには周囲よりも何となく豪華に見える墓石が建っているが――……影になっていて名前は読めない。
 男が、半分振り返った。四角いフレームの眼鏡を外して、静かに微笑む。
「久し振り――……5年半振りか」
懐かしい、響きだった。
顔を見た瞬間に、全てが10年前に戻ったような――……感覚になった。
墓石に刻まれた名は『岩杉』。彼の、結婚前の姓だった。
「――……まさかこんなトコで会うとは思わなかった」
「さぁ、よく考えれば一瞬だろ。お前今日、何しにここに来たんだ?」
何をしに来たのか。
それは葵と、新海碧彦夫妻の――……墓参りで。
18年前の1月3日に――……殺されたのは。
「俺が来たのはお前に会う為ってのもあるが――……一応大義名分として、親にご挨拶、とな」
笑顔の彼。その彼の、両親も。
「別に会えなくても良かったって事?」
「まぁ、損は無い。葵にも挨拶しておきたかった」
「……そう」
「12月1月と死んだ人が多くてな」
「…………」
「冬雪はもう27だったか」
「そう――……よく覚えてるね」
少し驚いて尋ねると、彼は一瞬きょとんとして、それからすぐに笑顔になった。
「最初に担任した生徒だから――……お前らが中1の時は俺が27だった、はず」
はず、と言いながら指を折って数えている。それぐらいの計算は暗算でやって欲しい。どちらかと言うと何故覚えていないのかと疑問が浮かぶ。
「中3の冬に30になったって聞いてたからそうなんじゃない……うわ、そうかオレもう先生の歳か」
「年取ったな」
笑いながら言われた。
「で……でも気持ちはまだまだ17歳なんだよ!!」
「そういう事言ってる時点でもう既にオヤジ」
「せ……先生だってッ」
「俺がいつそんな事言ったって?」
やり取りが子供だ――と自分で思ったがツッコミはやめておく。
 と思った時だ。

――ぽん。

肩に手を置かれる。諒也は目の前、階段の上。では誰だ?冬雪は恐る恐る振り返った。
「み・ず・は・どうしたんですか?」
笑顔で迫る妻の顔。
「り……梨羽ッ」
「立ち話もいいですが用事も忘れないで下さいね、冬雪?」
「わ、判ってるよ……汲んでくるから」
冬雪が水道に向かって走り出そうとしたその時。
「俺のもよろしくなー」
明るい声が耳に届く。
「………………ッ」
彼の態度がどこか以前と違うような気がするのは気のせいか。否、気のせいではないと――思いたい。5年半の間に何か吹っ切れたのだろうか。髪を伸ばしているのは何故だろう――……考え始めたらキリが無い。
 冬雪は2つの桶を両手に持って歩きながら、結局自分は誰かの下で働くのかと自分に呆れた。

   *

 それからしばらく経った、とある日曜日だった。
 冬雪はいつものようにのんびりと葉の落ちた銀杏並木の下を歩いていた。もう随分前から変わらない風景。コートのポケットに手を突っ込み、マフラーに口をうずめ、猫背気味に小さな歩幅で進んでいた。
 その視界に、男が1人入っていた。背はそれほど高くない。短い黒髪に、普段からこの辺りでは珍しいが冬には特に珍しいサングラス、革のジャケットという一見怪しい風貌の、中年と思しき男。彼は冬雪の姿をとらえたのだろうか、足を止めてサングラスを外すと、ハッとしたような顔になり、慌てた仕草で冬雪の目の前まで駆け寄った。
「――……良かった、見つかって」
聞いた事のある声だとは思った。果たして誰の声だっただろうかと、冬雪が今まで会った人間の声を「あ行」から検索し始めたところで、改めて男の顔を見た。
 諒也など比ではない童顔。尤も冬雪も人の事は言えないのだが、この人は別だろうと何となく考える。
「どうして――……居るの?」
無意識に、言葉が零れた。
無意識に、一歩引いた。

無意識に――……恐怖を感じた。


久海白亜。

龍神森、冬亜。


新海碧彦の、弟。

つまりは葵たちの、叔父で。


本来は――……冬雪の父親なのだから。

恐怖感など、あってはならないはずなのに。

「――……どうして……来たの?」

言葉を発するのも――……辛いのは、何故だろう?

「やっぱり、許してはもらえない……よね」
「ゆ……ッ、許せるはず無いだろ!?人が……人ひとり死んでるのに、どうして……どうして許せるんだよ!!」
「冬雪君」
名を呼ばれて何故か、勢いが収まった。理由は、判らない。
「僕は――……君に認めてもらわないといけない」
「どうして?オレに会わなくても、ひとりで何でも出来るのに」
「それとこれとは違う――、君に認めてもらう事が、今の僕にとっての……最終目標だから」
相変わらず静かな、子供を、幼い子供を諭すような口調。十数年前と、全く変わりない。
「歌を、作ったんだ。もう随分とやってなかったから――……かなり苦戦したけど。でも、何曲かは出来た。君にそれを託すから――……誰かに、受け取ってもらいたい」
「歌ってもらう、って事?」
「そうなってくれると、嬉しい」
そう言いながら、彼――白亜は鞄から出した紙の束を冬雪に差し出した。冬雪はそれを受け取り、小さく頷いた。
 白亜が、表情を変えて、話を再開した。
「――……君のお母さんが、面会に来たんだ」
「母さんが?」
「もう、随分前だけどね――……君がイギリスに行ってた頃、って事だろう?」
冬雪はコクリと頷く。母が亡くなったのは冬雪が留学している間だった。
「彼女は本当に……気付いていなかったんだね」
「オレはそう信じてた」
「うん……僕は、彼女に謝ったよ。彼女も、僕に謝ってくれた。これでお互い様――……和解は、成立した。
でも、僕が殺した彼が戻ってくる訳じゃない。君には……君には、その何十倍と謝らなければならないと思った」
「オレよりも母さんの方が、きっと鈴夜の事を思ってた。オレは……オレは、あいつの事を……一時期は排除して、自分の中に閉じこもってたし、だから――……オレなんかよりも、母さんに」
自分で言いながら、訳が判らなくなっていた。
何が憎くて――……何が辛くて、この人を避けていたのだろう。
彼が謝った母親は、何故息子の死について問い詰めなかったのだろうか――……全てが、謎だった。
「君に、父親だと認めてもらえれば、僕はそれでもう満足なんだ。
僕がそれにそぐわない事をしたって事も充分判ってる。それでも――……認めてもらえるなら僕は、幸せ者だ」
この10年を彼は、何を思いながら過ごしたのだろうか。
認めれば――……認めてしまえば、彼も、自分も、きっと――……心静かに、過ごせるのだろう。
恐らくは二度と同じ家で過ごす事などないだろうが、それでも一応の、親子として。

冬雪は白亜の事を、ずっと父親だと思ってきたではないか?

「――――…………父さん……、おかえり」
白亜の動きが、止まった。
しばらくして、彼が泣いているらしい事が判った。
「ありがとう―――……そして、さよならだ」
「……え?」

――カチッ。

素早くて判らなかった。
そんな事が――あるだろうか。
彼が、自分の頭に突きつけているのは、何?

少なくともこの12年はお目に掛かっていなかった、シロモノ。

「や……止めてよ、そんな……冗談なんだろ?よくあるじゃん、ほら、手品のグッズとかでさ……」
「無意味だよ。大丈夫、君が疑われる事は無いから――……心配しないで、皆で、待ってる事にするから」
「『するから』じゃないよ…………ッ、とう」
遅い。遅すぎた。

―――パァン!!

耳を劈くような発砲音。
「…………さ……ん」

視界が 段々と 狭まって 狭まって――……

まわりに とびちって いるのは なに?

モノクロ ノ セカイ。

「ぼくを…………ひとりに、しないで…………」

彼の意識は、途切れた。

   *

 目を覚ましたところで、そこに懐かしい顔が待っている訳もなく、梨羽と胡桃がベッドの傍らに居るだけだった。
「…………今日、何曜日……」
「火曜。失神したぐらいで1日中寝てられちゃ堪んないぜ?ほら、水飲んで食事しねぇと死ぬぞ」
胡桃の声だ。冬雪はムクリと起き上がり、その感覚から自分が相当空腹である事をようやく理解した。
「水」
コップを差し出されている。冬雪はそれを受け取り、一気にコップ1杯の水を飲み干した。
「私、お雑炊か何か作ってきますね」
梨羽が笑顔で部屋を去っていく。
「オレ……多分、一生で一番、壮絶な物、見た」
「……だろーな」
学生の頃遊んだゲームでも、頭だけは撃つ気にならなかった。ほとんど無意識で、心臓を狙ってしまう自分がいた。恐らくはその辺の事も、CEで叩き込まれているのだろう。
「警察、とかは?」
「とりあえずの捜査は終わってるらしい。後はお前の証言待ってるだけじゃねぇの」
「……そっか」
「下手な事言うんじゃねーぞ?お前、起訴されたら瞬殺で死刑決定だからな」
「…………くる……縁起でもない事を……」
事実ではあったが。
「お前、倒れる前の記憶あるか?」
「無い。何か呟いてた気はするけど……潜在意識ってのか……『ぼく』だった気がする」
「小学生レベルって事じゃねーか。お前それ仕舞いこんだの小6だろ」
「……理性が失われるってこういう事じゃないの。あー、腹減った……マジ腹減った……」
冬雪は布団の上に転がった。
「あの人銃なんて……何処で手に入れたんだろうな」
胡桃が呟く。
「さぁ、そんなん知らんよオレは……。夢見月行きゃその辺に転がってるよ」
「それかもな」
「あぁ……香子の元秘書だった訳だし」
顔を思い出そうとすると、あの光景が同時に思い出されてしまう。話をするのは止めようと持ちかけた。胡桃はすぐに承諾してくれた。
「なぁ、冬雪」
「何?」
「――……お前は、死ぬ時は――……自然死だって、約束してくれよな」
「……はい?」
一瞬意味を取りかねた。
胡桃が、再び説明を始める。
「だから――……自殺とか、殺人とか、そーいうの、認めないから」
「…………判ってるよ。そんな事、しないから――……約束する」
「男の約束」
「おぅよ」
それから少し、笑った。少しだけ笑って、また、静かになった。
 梨羽の雑炊を食べて、その日はまた少し、休んだ。

 彼から受け取った歌は諒也に託した。どうやら音楽関係の伝手があるらしいが、詳しい事は知らない。

 それからはとりあえず、平和。

 二度とこの平和が崩されないように――……いつまでも、祈り続けた。



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