形と探偵の何か
Page.45「Equal」




  Prologue

時も世も移り変わり、同じモノは何一つ無いとしても、

ぼくらの持っていた何かが消えることは決して無い。


時がどれだけ経とうとも、

人はきっと、変わらない。


――そう、信じて生きていきたい。


きっとぼくは、そう願ったに違いない。


   1

懐かしい駅で、懐かしい顔を見つけた。
「――……秋野?」
声を掛けると、彼はすぐに振り返って笑顔を見せてくれた。
「今は秋野じゃないよ。久し振り」
「あぁ……そか、そうだったな。おめでとう」
「へへ、ありがとー。昔みたいに『冬雪君』って呼んでくれても構わないけど。あー、葵が呼び捨てなんだからオレも呼び捨てがいーな」
そう言う彼の口調は以前と全く変わりない。4年のブランクを全く感じさせない、親近感があった。
 彼はこの4年間、イギリスの大学に留学していた。それでやっと、日本に帰ってきたという訳だ。彼との連絡はほとんど取っていなかったから、実質話すのも会うのも4年振りだ。
 そしてどうやら、渡英前に色々と言われていた結婚話は2人の間で認証されたらしい。個人的には許しがたい提案から始まった話だったが、彼らの仲が元々悪かった訳でもないし、時間は沢山あった。結論を出すのは彼らだし、どういう答えが出たとしても反対するつもりはなかった。
「葵も一応、名実共にオレの兄貴になった訳だし。後輩の弟なんて、名字で呼ぶモンじゃないよ」
「……後輩の弟分だったから『君』付けてたんだけどな」
「あはは、そっか。あ、そうだ……これ返しとくね。オレ、ピアス開ける予定ないから」
彼の手から落とされたのは、実に20年前にある人物から購入した銀の小さな十字架。
「別に返さなくても構わないが」
そういうモノだと知っているから、尚更だ。
「オレが持っててもしょーがないよ。葵の形見ではあるけど、元々は先生のモノだって判ってるし、オレには似合わないし」
「そんな事は……」
無いと思った。
「ま、葵が遺した物なんて他にもいっぱいあるしね」
台詞を言い切る前に、彼は笑顔で話を終わらせた。
「――……いつ帰ってきてた?」
「えーっと、一昨日。それで昨日めでたく入籍、って寸断」
「知らなかった。藍田のヤツも騒がなかったしな」
「あー、教えてないもん。帰ってきたのにいつ気付くかと思ってさ。先生のが先だった」
彼はクスクスと笑って、幼なじみを小馬鹿にした。
「まぁでも一応――……独身脱出も俺の方が早かったようだがな」
「へ?結婚してんの?先生」
本当に意外そうな顔を見せる彼に、見栄ではない事を証明する為に結婚指輪を見せる。彼は「あらー、ホントだ」と微妙な感想を述べて、笑った。
「おめでと。いつの間に?さすが先生、隠し事は上手いね」
「得意技だからな。3年程前に」
「子供とかは?」
「それも2年前に」
笑顔で答えたら、彼の動きが固まった。予想外の回答だったらしい。
「――……知らない間にパパになっちゃって」
「悪かったな」
「全然悪くないよ。男の子?女の子?」
彼は興味津々と言った表情で尋ねてくる。
「女だ」
「うわー、見てみてぇ!気になるよ」
「また今度な。羽田杜に住んでるんだ」
結婚してからもそれまで住んでいた小さなアパートで暮らすのはどうかという判断からだった。
 彼は1つ、ため息を吐く。少し寂しそうな顔をして、微笑む。
「――……詩杏にはやっぱり、悪かった。オレ……何も言わなかった」
「……式は?」
「やらなくていいんだって。実家の方はどっちもやりたがってたけど、確かにオレも……やったらどうなるか、不安だし。それにオレら、ずっと一緒に住んでて『親』も出らんないし『親代わり』も死んじゃってるし、何かあんまり……面白くない」
「結婚式に面白みを求める必要は無いと思うけどな。ウチにも親は居ないぞ」
「でもお姉さんが居る」
「……ありゃ別だ」
元来仲の悪い姉弟なのだ。結婚するという話をした時の第一声は「これでまたアンタとの関係が薄れる」である。関わりたくない割には愚痴相手にしてくるが。
「そーだ、先生はどうしたの?やった?」
「あぁ……一応な。相手が相手だから派手ではないが」
「相手が相手って、オレ先生の奥さん知らないよ?顔も名前も、性格も」
彼が楽しそうに笑う。
 そうだ――……言い忘れていた。
「いや、知ってるよ。顔も名前も性格も、兄貴の顔まで知ってる」
「……へ?」
「――未佳子だ。流人の妹。まぁ尤も今は――志月と名乗ってるけどな」
「み……未佳子さんって……オレに生涯最初で最後の女装させた人だ……」
「最後になるかは判らんだろ?」
「最後にするんだよっ!!あー……嫌な思い出」
まだ覚えていたのか――……確か、4年半前の正月の事だ。この場合忘れるのも奇妙しいか。
 彼が道端で一喜一憂しているのが何処か可笑しくて、つい笑いたくなってしまう。が、ここで笑ったらまた彼に怒られるのがオチだ。何とか我慢しなくてはならない。
「あれ?流人は尚都さんトコに行くの?ん、でもあの人捕まってんだっけ……」
「いや、一応紙の上じゃ俺の息子って事になってる」
い抜きだった事に気付くが面倒なので訂正はしなかった。
「……え……っと、まさか先生、もう岩杉さんじゃない?」
「じゃないよ。何がまさかだ、お前だってそうだろ」
彼は今回の結婚で晴れて夢見月家から脱している。親族が誰も引き止めなかったのも不思議な話だが、それは今居る夢見月家の面々の正直な気持ちだろう。
「そうだけど……」
意外そうな顔をしている。これで二度目だ。
 諒也にとってみれば当然の事だった。こうなったのは最初に妙な縁談を組んだ親の所為でもあるし、銀一の所為でもある。結果的に辛い思いをする人間など居ないし、今更全国に知れ渡ってしまった名前を残すのも何となく子供に可哀想だ。
「中学の頃から『いずれ名字は変わる』つもりだったしな……っと、全然話違うが幸原先生が亡くなったのはもう聞いてるのか?」
「……まだ幸原先生なんて呼んでんの?梨羽から聞いたよ、ちゃんと……その時に。婚約者とぐらい連絡取るし、梨羽だってそんな酷い人じゃない」
「ならいい」
当然ながら病死だった。『いつ死んでも奇妙しくない』と言われてから10年、彼女は生きた。それだけでも充分だと、生前の彼女が言っていた事がある。
「良いんだよ。オレにとってはもう『死んだ人』だったし……気持ちの整理はもうその時に付けちゃってたから、後から会ったあの人は『幸さん』。……どっちにしてもちょっと寂しいけどね」
彼は最後に苦笑して言った。
「……CECSは3人、かー」
この場に居ない島原玲央が1人追加されるのみだ。
「気付いたら随分少なくなったな。あれから発表も無い……まぁ少ないに越した事は無いんだが」
「世間的にはねー。オレもしぶとく生きてるよ、ホント……4回ぐらい?死に掛けたの」
「……さぁな。俺もよく死ななかったよ、あれで」
「相手尚都さんだしね」
「刺された時は本気で死ぬと思ったな……CECS相手だと思ってたから」
意識を失う直前で違うという事を祈ったが。
「……それは確かに、怖いよね」
「嫌われてる事も確かだったのに警戒しなかった俺も俺だけどな」
「『刺された』ってのもね。刃物使いならちゃんとかわさなきゃ」
彼はほとんど冗談に近い調子で言って、笑った。諒也もつられて笑った。
「――そうだな……とは言ってもお前も撃たれすぎだ」
射撃なら冬雪はCECSの中で飛び抜けて上手い。尤も他の2人は銃など触った事も無いのが事実だが。ちなみに玲央は妖怪ならではの怪力を生かして、素手で応戦するのが得意だ。彼女の場合は喧嘩が強いのと同じだが。
「うーん、それもそうかも。1,2,3……まだ痕残ってる」
「仕方ないだろ。その頃はそういう世界に居たんだ」
今では懐かしく思えるほど――……その頃彼は危険な立場にあった。
 諒也がCECSと発表された後はStillも解散していて、直接命を狙われるような事は無かった。
 今では警察も味方につける事に成功した。何かあったら応戦してくれる事になっている。
「――……平和だよね、ホント」
「生まれたのが日本でまだ良かったな」
「……まぁね」
「そういえば日本語忘れなかったな」
「日本人の子が隣の部屋に居たからさ」
「寮の?」
「そ。あ、疑わないでよ?男だから」
「誰が疑うか」
苦笑して答えた。諒也は冬雪の恋人でも恋愛相談役でも仲人でも何でもない。
「――……そういえば何しに駅まで来たんだ?どっか行く予定でもあるのか?」
「ふらふらする予定。先生は?」
「あぁ……中学にちょっとな」
緑谷中学校。2人にとってはあまり良い思い出の無い場所だ。
 冬雪は怪訝そうな顔をして問い返してきた。
「何か?」
「いや、なかなか参考になる発表会があったから。一応仕事だよ」
職員室で、残っていた懐かしい面々と話し込んでしまったのも確かだが、元々ここに来たのはそういう理由だ。
「そういや鞄持ってるね。じゃあこれから帰るんだ」
「あぁ……別に予定は無いから付き合えって言われれば付き合うが」
ここで別れてそれぞれがふらふらするのも変だ。だったら一緒に行動した方がいい。
「え、先生はちゃんと家族サービスしなきゃダメだよ」
「それはお前だろ?ウチは共働きで娘は保育室」
「……まだ帰ってないんだ」
「そういう事だ。――どうする?」
尋ねると、彼は少し考えるような仕草を見せてから、すぐに笑顔になって答えた。
「流人の新しい店は?」
「羽田南に。行くか?茶ぐらいは出してくれるだろ」
「よっし、決定!レッツゴー、先生!」
「おぅ」
はしゃぐ彼の姿は10年以上前から全く変わっていないように思えて、何処か微笑ましくなった。

――またこの街が、にぎやかになる。

 三宮諒也はのんびりと見慣れた通りを歩きながら、素朴な幸せを味わった。

   *

「これはまた、久し振りな顔を見たよ」
胡桃が初めて連れて来たはずの男を見て、志月は嬉しそうに笑った。詩杏も意味が判らなさそうにしている。
「――……どうも」
「いーえ、こちらこそ。こういうメンバーも面白いね、また」
「面白いか?霧島」
「あたしはよう判らへんけど……」
2人が疑問を示したところを、件の男が一刀両断した。
「僕が明らかに異質なんだよ。でしょう?三宮さん」
尋ねられた志月は笑って答える。
「君のイメージは『例の物』でついちゃったからね。お姉さんと妹さんは元気?」
「…………姉さんは恋人探して奮闘中、妹は普通に学校行ってる」
姉に対し少し迷惑そうに答えたのは阿久津秀。身長はついに諒也をも超えた。高校では会わなかったが、大学に入ってからまた同じクラスになった。だからやたらとよく会うしこうして一緒に出掛けたりもする。
 しかしここに来た事が会ったとは初耳だ。
「そうか、大変だね。どうぞ、適当に座ったら?」
言われて3人が散った。室内にバラバラに置かれた椅子を持ってカウンター前に戻る。
「阿久津が何しに来てたんだよ?」
「それは企業秘密だよ。言っても今は問題無いけど、諒也君が怒るからね」
「パパが怒るんだ、パパが」
「…………冗談じゃないんだよ、ホントに。こればっかりは……ね?」
「まぁ確かに……怒られるのは僕じゃなくて三宮さんだけど」
ますます訳が判らない。来た事を隠していた、という事を怒るのだろうか?しかし彼はそれぐらいで怒るような人とは思えない。
「ボクは飽くまでも中立。秋野君には話したけどね」
「…………話したんですね」
「あ……ゴメン」
志月は焦ったような仕草を見せる。秀はため息を吐いた。
「中立じゃないじゃないですか、全然……夢見月寄りですよ」
「でも君にも普通に接しただろう?ちゃんと君の要望にも答えた」
「それはそうですけど……。今から色々言っても仕方ないですけどね」
「そう、仕方ない!仕方ないよね」
どうやら本気で焦っているらしい。胡桃と詩杏は顔を見合わせて苦笑した。
「――……そっち関連って事か」
「関連どころかモロだ、藍田」
「そういえば秋野君の事も……彼にバレるとやっぱりマズイな」
「パパに怒られる?」
また冗談のつもりで言った、その時。
「誰がパパだって?藍田ー」
予想外の声がした。
「げっ……何で先生居るんだよ!……って、冬雪も一緒?」
諒也と並んでいる所為もあるだろうが相変わらず小さい。淡い茶色の髪は中途半端に伸びたスタイルが一切変わっていない。服装はラフで荷物はウエストポーチのみ。完全に散歩レベルの外出用装備だ。
「ちっす、胡桃、詩杏、それから阿久津も。久し振り、えっと……志月、だっけ」
「うん、諒也君が付けてくれたんだ」
志月は笑顔で答える。その間にも傍に諒也が寄ってきて耳を引っ張る。正直、痛い。
「いたたたたた……っ、ゴメン、冗談だってば、ホント」
「言っとくが俺は志織にパパと呼ばれる覚えはあっても志月には無い。
――それから志月、それと冬雪も。俺にバレるとマズイ事って何だ?ちゃんと聞いてたんだからな」
ここまで来てようやく彼は手を離してくれた。まだ耳の付け根が痛い。痛がる胡桃に秀が「大丈夫か?」と声を掛けてくる。
「……一応、慣れてるから……しかし痛ェな」
どうやら横で更に接戦が繰り広げられている。話題は冬雪の事だが路線は恐らく法に反している話。『そういえば』と言ったからには先程の秀の件と近いのだろう。
「今なら耳引っ張るだけで済む話だ、2人とも」
「……今の胡桃の痛がり様……絶対嫌だよな?詩杏も判るだろ?」
「絶対怖いよね……あたしやったら話せへんけど」
詩杏の表情は笑っていたが正直だ。
「ほらっ、詩杏だってこう言ってる!!ていうか阿久津っ、お前も関係者だろが!!知らん顔すんなっ」
「……いつまでバレないで済むかと思ったのに……」
秀はまたため息を吐いた。
「って事はここの2人と何かあったって事だな?1番悪いのは志月みたいだな」
「なっ、何でそうなるんですか!!ボクは飽くまで中立の立場として、」
「中立の立場として、色々やったみたいだな。さぁ2人とも、吐け」
秀と冬雪が顔を見合わせ、すぐ目を逸らして黙り込んだ。志月は頭を抱えて唸っている。安全圏にいる胡桃と詩杏は立場的には諒也と同じだ。話を聞きたいのはこちらも同じである。
「まぁ大体予想はつくけどな。冬雪が銃を手に入れたのは夢見月経由だと思ってたがこっちだったって事だろ?阿久津もその関係だ。まぁ恐らくは似たような事か」
「……諒也君は相変わらずホントに勘が良い……」
「認めてるし!!」
冬雪が叫んだ。
「……まぁ良い。今となったらどうでもいい事だしな」
そう小さく呟いて、諒也は自分の分の椅子を取りに行った。


――……解せない。


なので、叫んだ。
「何で冬雪たち助かってんだよ!?」
「藍田とは話題が違うだろ」
「明らかに話題の重さが違うはずじゃ……」
無視された。胡桃も大きくため息を吐いた。まだ耳が痛い。
「――さて、普通の話をしようか?」
着席した諒也が笑って言った。
「とりあえずお帰り、秋野君」
「あー……えっと、一応もう、秋野じゃないんだ」
冬雪が遠慮がちに言った言葉を、俄かには信じ難くもう一度反芻する。
「……!!」
諒也以外の全員が固まった。

――思い当たる事はあった。だがもう実行されているとは思っていなかった。胡桃でも、詩杏ですら知らない。大体この話はあれ以後一切されて来なかったから、消えたものだと思っていたのに。
「会合が一般開放されない限りはあの屋敷にも入れない。……不思議だよね、出たい出たいって思ってたのに、いざ出てみたら何か変な気分でさ。オレがあの中に入れる事が、ある意味じゃ誇りだったのかも知れない。『一般人』になりたいって思う『夢見月』で居たかったのかも知れない。そんなの名前だけなのに、ホント……変だよね。でもまぁ……良いんだよ、これで。梨羽相手じゃなきゃ、到底夢見月からは出られないだろうから。『秋野』って名前が自分の物って認識したのは子供の頃だけど、それこそ夢見月の証みたいな物なんだしね」
「とりあえず……おめでとう。でも秋野君は秋野君だよ……何て呼べばいい?」
「別にオレは何でも。名字で呼ぶ人少なかったからそんなに困んないかとも思ったんだけどな」
確かに彼は大抵の友人たちには名前で呼ばれているし、胡桃自身もそうだ。彼の事をよく知る人物で名字で呼んでいたのは諒也と志月くらい――……恐らく諒也とは既に話をしたのだろう、先刻は名前で呼んでいた。
「それじゃ今まで通り呼ばせてもらうよ。久海君だと葵さんと被るんだ……昔そう呼んでた頃があったからね」
志月はそう言って苦笑し、話を続ける。
「――久海家と言えば芸術で発展してった家。君も何か期待されてたりするんだろう?」
「さすが志月、情報通。まぁそれは昔からの事だしね……そうは言ってもオレは大した事出来ないよ。まぁ翻訳業辺りで頑張ろうかなぁ、と」
「冬雪お前、その日本語力で翻訳かよ?」
「国語は常に80点以下の藍田生徒会長には言われたくないねっ」
冬雪は子供のように舌を出して言った。
「……っ!!……ったく、判ったよ」
そういうところで馬鹿にされるのはいつもの事だ。
「そういえば80行った事無かったな……最初で毎回平均的だから気にも留めてなかったが」
諒也が平然ととんでもない事を言う。
「気に留めといてくれよ!!次が冬雪ってのホント嫌だったんだぞ俺……」
いい加減嫌になって項垂れた。横から、秀の声が聞こえる。
「その次の僕もかなり嫌だったんだけどな」
「仲間だな、阿久津」
「仲間だな」
意気投合して手を組んだ。何だか妙な気分だ。向こうの会話も聞こえた。
「ま、オレには判らない話って事で。詩杏、仲間だな」
「いいの?そんなんで仲間とか言うて」
「向こうに対抗して。別に良いんだよ、20年近く連れ添った仲なんだし」
冬雪がそこまで言ったところで、諒也もそれに乗ってきた。
「じゃ、30年以上連れ添った仲って事で」
「……あの時の事は許して下さいね?」
「今は別に、こいつらの担任って訳じゃないからな。別に困る事は無い」
「なら良かった」
志月が笑う。いつも通り、いつもの風景。
 そこに彼が帰ってきた。何も変わっていない、昔と同じ彼だ。
 彼はこれでやっと、平和な生活を得た。危険な事などもう無いはずだ。そう思うと何となく嬉しくなる。胡桃自身、彼をずっと心配していたからだろう。

(ったく……ホント、世話の焼けるヤツだ)

 幼なじみとして、友人として、理解者になり得るように。

 胡桃は笑う彼の姿を見てまた1つ、ため息を吐いた。

   *

「さっきから言うとるやろ?詩杏は嫁にはやらんと俺は決めたんや」
「お兄さんの一存で決められる事じゃ無いはずです、『カンさん』?」
「……アンタはホンマに怖いなァ、詩杏には親がおらんねん、俺が親みたいなモンなんやぞ」
いい加減に、して欲しかった。
 だから、止めに行った。
「喧嘩はその辺にしとき?何回言い合ったら気が済むん、2人とも……あたしが疲れるわ」
「あんなぁ詩杏、お前の今後の話やぞ?喧嘩やあらへん、大事な話し合いや」
「何処が大事な話し合いなん、こんなんただの喧嘩やって!阿久津君、ゆっくりしてってねー」
詩杏が呼んだ訳ではないから別に気を遣う必要は無い。好んで喧嘩をする2人が奇妙しいだけだ。
 リビングを出て階段を上る。
 ついイライラして途中壁を叩いてから、部屋に戻ってベッドに寝転がる。
「――……はぁ」
する事は今のところ無い。が、考えたい事なら幾らでもある。
 起き上がって何となく、窓を覗く。
「……あ」
斜向かいの、3階建ての一軒家。そこの庭で、青年と幼い女の子が走り回って遊んでいるのが見えた。
「志織ちゃんや」
志織がつまづいて転ぶ。そして、泣き出す。青年が慌てて駆け寄り、彼女を抱き上げた。
 その家の1階の窓から、黒髪の男が顔を出した。青年が男に近付き、大泣きする少女を男に託した。
「……何であたし、出られへんのやろ」
何となく気まずくて、あれから彼らには顔を合わせていない。そんな自分が何度も嫌になった。
 でも、出る訳には行かない。出てしまったら、何かが終わってしまうような気がしていた。理由は、判らないけれど。
「志織ちゃん、可愛いねんけどなー」
彼のように、一緒に遊んでみたいとは思っていた。しかしその期待よりも彼らの前に出る恐怖心の方が先走ってしまっているのだ。
「――……一緒に行かないか?」
「! 阿久津君ッ」
部屋を片付けていない。詩杏は慌てて散らかっていた物を片付け始めたが、秀がそれを止めた。
「僕も彼女と遊んでみたい」
彼はその言葉をまるで独り言のように呟いた。
 その表情は今まで見た事が無い、彼の無邪気な笑顔だった。
「……阿久津君が?あんまし似合わへんね」
「妹ももう中学生だろ……小さい子を見るとどうしても昔を思い出す」
「あー、珠ちゃんやろ?あの子も可愛いよね」
本音を言うと、秀は少しだけ、笑った。
「それはありがとう。伝えとくよ」
「伝えといてね。それで――……行くの?」
「霧島が行くんなら」
背は高い、イギリス人とのハーフ。顔だって勿論整っている。昔よりきっと、性格も良くなっている。
 分析したところで何にもならない事は判っているのに。
 詩杏は今考えた事を全て振り払って、秀に笑顔を返した。肯定の意、だ。彼はそれを受け取って、黙ったまま詩杏の部屋から離れていった。詩杏は秀の後に続いた。
 いつになく緊張していた。それが何による緊張なのかは、詩杏には判断できなかった。

 だがその後何の問題もなく、2歳の志織と2人が交流を深められたのは言うまでもない。

   2

 誰かが見つけてくれる事を祈った。
店に小さな客がやってきた日から、もう34年が過ぎた。
「――……これから、どうするつもりなんです?」
訊いたところで、はっきりとした回答が得られるなどとは思っていなかった。
 諒也は少し考えるような仕草を見せて、1つため息を吐く。そして、答えた。
「判らない」
「秋野君はまだ『あの事』を知りません。早い内に手を打っておかないと、彼が『あの事』を知ってしまいます――……それも時間の問題でしょう」
志月の言葉に、諒也は何か言い返そうと少し顔を上げたが、すぐに諦めたらしくまた元に戻した。
 仕方ないので、志月が話を続けた。
「周りの子達は皆彼に『あの事』を隠そうとしていますが――……いずれCE問題に詳しい人と話す機会があればそこで伝わるでしょう」
「……俺はどうすればいいって言うんだ?」
彼はやっと搾り出したような声で尋ねてくる。
「彼が帰って来てしまった以上は」
志月にはその先の言葉を、口に出す事が出来なかった。
 諒也は満更でもない様子でまたため息を吐き、冷めてきているであろう緑茶を飲み干す。そして立ち上がり、鞄を背負った。
「――……世話になったよ、流人」
「たまには会いに来て下さいね――……岩杉さん」
「あぁ、そっちもな」
「勿論。可愛い妹の為にも」
それには諒也は答えず、ただ少し、寂しそうに笑うだけだった。
 彼は志月に手を振って、笑顔のまま店を出て行った。
 25年前、また会う事を約束して別れたあの日と同じ。
「……彼は人間だ」
50年連絡しなくてもまた会える玲央とは違う。もしかしたら、彼とはもう会えないかも知れないのだ。
 志月は彼の、本物の家族にはなり得ない。
 紙の上では彼と親子関係があろうとも、志月と諒也は飽くまでも友人同士でしかない。
「――……ボクには店がある」
ここを、離れる訳には行かない。ここを志月で居る間の安住の地と決めたのだから――……それを自ら破る事は、どうしても出来なかった。
 諒也が家族を連れて向かう場所は判っている。あそこ以外には有り得ないと言ってもいいだろう。そこには彼の住める家もあるし、何より土地鑑がある。ミカコもそこに住んでいた事があるから――……彼らが苦労する事は無いだろう。
「今度……久し振りに遊びに行ってみるかな」
志月は1人で微笑んで、残っていた茶を飲み干すと、カウンターから立ち上がって奥の部屋へと戻った。
 羽田杜に移ってから4年、店を開けてから3年半。新しい客も増えたが、紅葉通に居た頃の客はほとんど来なくなった。今でも来ているのは個人的親交のあった人間と、ごく僅かな人に非ざる者たちだけ。
 でもそれで構わない。志月――……維南自身、その事を決して寂しく思わないようにしてきた。

 自分は時に流されながら生きる者。その緩やかな流れを、決して止めようと思ってはいけない者。

「……さて、夕食の準備でもするか」
 志月はまた、何気ない日常の世界に戻ってきた。

   *

 何かが奇妙しいとは思っていた。
 冬雪が日本に帰って来てから、周囲の人間たちの様子は何処か奇妙しかった。はっきりとした原因は判っていなかったが、何かを隠そうとしているのはずっと判っていた。
「……オレは何も聞いてなかったのに」
 気付いた時には、既に諒也は東京を発っていた。理由は誰に訊いても、答えてくれなかった。
結局あの時会ったきりだ。
「お前には隠そうって……決めたから」
冬雪の呟きに対する返答だった。即、問い返した。
「何でだよ?」
「それは……言えねェけどさ」
そこまでして隠すほどの理由なのだろうか。あるいは理由を冬雪に知られては困る事か。冬雪が知って困る理由とは何だろう?何となく、考え始めた。
 まず、知ってしまっては命が狙われる危険性がある事。しかし別に知ったところで何が変わるという訳でもないだろう。これは違う。
 続いて、冬雪が知ってショックを受ける事間違いなしの内容。死んだ訳では無いのだから、多少の衝撃は仕方ないとしても構わないだろう。これも恐らく、違う。
 後は何だろう、と考えた時、胡桃が言った。
「言ったら、お前が自分の事責めるんじゃないかってな」
「自分を責める?」
という事は、彼が出て行ったのは冬雪の所為だと言う事か。はて、帰って来てから彼に何かしてしまっただろうか。思い当たる事は無かった。
 と、すれば――……帰る前或いは、帰って来た事自体、だ。
 帰る前は全く連絡を取っていなかったから――……帰って来た事。つまり冬雪が日本に帰ってきたら、彼は東京を出て行かなければならなくなった。今のところ、冬雪と彼との関係はCECSであるという事以外には、ただの師弟関係だけしかない。となれば明らかにこれはCE関係だ。東京に、3人が固まっているのがいけないと言うのだろうか。だがそれで追われるのが何故、フリーな身分の冬雪や玲央ではなく諒也なのだろう?
 それだけは、判らなかった。
 尋ねても、胡桃は答えてはくれなかった。合っているのか、合っていないのかさえも、彼は返事をしなかった。それだけ固い約束を結んだのだろう――……冬雪の知らないところで。

 冬雪は胡桃にコーヒーのお代わりを注文した。
「少なくとも、滅多に会えないのは確実、って事か」
「まぁな。――あいよ」
「Thanks――……胡桃は嫌じゃない?」
尋ねると、胡桃は表情1つ変えずに答えた。
「嫌に決まってんだろ」
「オレの事は恨んでない?」
「……やっぱ自分の事責めてんじゃねェか。今更お前の事なんか恨む訳ねェって」
「どっかで聞いた事ある台詞に似てる」
「俺が言ってんだから似てんのは当然。お前がこう、拳銃つきつけてきた時だろ?」
胡桃がにやにや笑いながら、右手を銃身に見立てて人差し指を冬雪の額に押し付けた。
「――懐かしいね」
「あぁ」
会話はそれ以上、続かなかった。
 続かない事には、慣れている。気が合わないようで合う、全くタイプの違う2人組だ。
 胡桃は右手を下ろし、ため息を吐く。
「出てけって事は前から言われてたらしい。けど、せめてお前に顔合わせてからっつって最近まで居たみてェだ」
「でも中学に仕事で――……」
「あぁ、個人的興味と緑中の先公たちに挨拶に行ったんだろ。また1学期いっぱいで辞めたらしい」
また、本当に『また』だ。今年はクラス担任ではなかったと言うからまだマシだが、冬雪たちの頃も2学期にはもう彼は居なくなっていたらしい。尤も冬雪は2学期3学期と学校に出られなかったから状況を知らないが。
 胡桃は自分の分のコーヒーをカップに淹れて戻ってくると、それを一口飲んで、柔らかく微笑んだ。
 冬雪にはその笑顔が、誰かに似ているように思えた――……が、彼には言わなかった。言ったところで、胡桃は多くの事を話してくれはしないのだろう。胡桃は肩に掛かる金色の髪を後ろに払って、落ちかかっていた眼鏡を上げた。
「――ま、どっちにしろ……お前と一番付き合い長いのは俺だかんな」
「幼なじみってつくづく辛いね」
「何がだ?」
どうやら誤解があったらしい。
「一心同体、2人で1人。互いに気を遣いすぎて破滅するのも困る」
「俺らはそんなんじゃねェだろ」
胡桃は考える間もなく、さらっと答えた。
 冬雪が顔を上げると、彼はコーヒーをもう一口飲んで話を続けた。
「不必要に気遣うほど伊達に幼なじみやってねェよ。お前の事ぐらい判るって。俺は俺、冬雪は冬雪。気遣ってどうにかなる相手でもねェし」
「――……くる、この先どうするの?実家には戻んない?」
「戻らない、な。やりたい事見つかったんだ」
「何?」
「バーテンダー」
胡桃は笑顔のまま、答えた。
 似合うような似合わないような、何ともコメントしがたい選択だった。尤も今の段階では「やりたい事」以上にはなっていないのだろうが。
「……頑張れよ?」
「頑張るに決まってんだろー?俺はやると決めたらやるんだよ」
生徒会長時代も結局一度も弱音を吐かなかった。本当にそういう性格なのだ。
「――……皆すごいな」
「何だよお前、しんみりしちゃって?」
別にしんみりしたくてしている訳ではない、が。
 自分は生きる事に精一杯だった。やりたい事があってイギリスへ行って勉強して、帰ってきて。
 自分が何を今、やろうとしているか。
「別に、気にすんなよ」
「ま、お前がやらんとしてる事は判ってるから、俺は気にしない」
胡桃は表情1つ変えずに言った。
「ご協力どうも」
「お安い御用ってな」
いつもと同じやり取り。こうしている時間が恐らく一番幸せだったと気付いた。
 笑っていた胡桃が急に真剣な表情に戻った。何事かと尋ねると、彼はため息を吐いてからゆっくりと話し始めた。
「――……先生が居なきゃ生きていけないって訳じゃない。でもいざ居なくなってみるとどうも奇妙しいんだよな」
「……CECSってだけで『仲間』って意識しすぎて、ホントは赤の他人って事忘れてた。『友達』の関係だとしても、飽くまでも他人は他人」
「遠くに居てもダチはダチ、ってトコか。ずっとつるんでた相手が急に居なくなったら最初辛いのも当然かもな」
胡桃は苦笑して、コーヒーを全て飲み干した。
 だんだんその環境にも慣れていくものなのだろう。こうして親しい仲間相手に話していられる時間は次第に減っていくのだろうが――……仕方ないものは仕方ないもの。状況を悲観してもそこから何かが変わる訳ではない。
 ある状況で、何が出来るか。
 冬雪にはこれから、何が出来るだろうか。考えれば、いくつか――……思い当たる事も無いではない。
「――コーヒーありがと。オレ帰るね」
荷物を持って、冬雪は椅子から立ち上がった。
「おぅ、いつもより早くねェか?」
「仕事が残ってるんだ」
いわゆる探偵業の方だ。無職なのも困るので、久々に事務所を開いた。但し町内には限定しない代わりに、有料の形を取る事にした。そうしないと当然、こちらが食べていけない。
「あー、頑張れよ。猫は夜行性だからな」
胡桃がからかう。
「睡眠時間が減るんだよなー」
「その苦労を克服してこそ名探偵!ってモノだろ。哀れな迷い猫はお前の助けを待ってるぜ」
「悪いけど今探してるのは犬だよ。じゃーな胡桃、また今度」
「……相変わらず嫌味だな……またな」
苦笑する胡桃を尻目に、冬雪は彼の隠れ家を後にした。階段を下りて、細い通りに出る。
 何となく、呟いた。
「――……結局みんな一緒なんだよね」
自分でも何を言っているのかよく判っていなかった。
 それぞれがそれぞれの道を歩いている。道は異なっても、色々と悩みながら歩いていくその行程は誰1人として変わらない。歩く事を止めてしまう、その時まで。
「さっさと帰って梨羽にクッキー貰うかな」
声に出して、余計に食べたくなった。
 早く――……帰ろう。
 冬雪は静かな住宅街の中を、一気に走り抜けた。

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