形と探偵の何か
Page.44「お幸せに」





   1

 騒動などというものは、突然起こるから騒動なのだ。
 藍田胡桃は秋野家に居た。正確には胡桃だけではなく詩杏と岩杉も一緒だった。秋野邸1階事務所、その場にいたのは秋野冬雪と久海梨羽そして件の3人と、更にもう1人。
「ちょ、ちょっと待って下さい!どうしてこんな場でいきなりそんな話になるんですか?」
イライラした様子で岩杉が言う――……というよりは反論する。
「こういう場だから言っているんだ。大体お前は何者だ?これは我々の話し合いだ。君とは関係ないだろう」
「確かに関係ないかも知れませんが、しかし」
「少し黙っていなさい。ワシはそこの2人と話がしたい」
古めかしく一人称に『ワシ』を使った老人は、節くれ立った右手で冬雪と梨羽を指差した。胡桃と詩杏は少し後ろに引いたが、岩杉は何故か引こうとしなかった。それどころか、老人に向かって更に反論を続ける。
「葵さんが……彼が亡くなったから、だからそんなお話をされてるんでしょう?前々から彼を……秋野の事を引き抜こうとは考えていたそうですが、何もこんなタイミングで」
「引き抜くなど!良いか、ワシが言っているのはな……いつまでも梨羽が1人でここに暮らすのは可哀想だろう。冬雪君も羽田杜での暮らしにあまり満足しておらんようだし、って事でだな」
その老人の顔はにやけているように見えて仕方なかった。胡桃は詩杏と顔を見合わせたが、すぐに目を逸らした。次に冬雪の方を見たが、彼は真剣に何かを考えているようだった。何を考えているのかは判らなかった。
 が、次に口を開いたのは冬雪だった。
「――……貴方に言われてする事ではないと考えています。少なくともそういう事に関しては、ぼくらの自由意志でやらせてもらう事になりますが、どうでしょう?」
「なるほど、ワシの言う事など聞かぬと言う事か。お高く止まったものだな、君も……さすが、若者らしい。まぁそれは構わん。ただワシは、そういう選択肢がある事を君達に告げに来たのみだ」
まだ怒りが収まらないらしい岩杉が、髪をかき回してからまた反論を始めた。
「だからその……その選択肢は葵さんが亡くなったから、出てきたんでしょう?そうでもなければ有り得ない選択肢のはずです」
「…………だからお前は何者だとさっきから訊いておるだろう」
「冬雪君の元担任です。名を名乗れば恐らく馬鹿にされるだけでしょう」
「ワシの知っておる名だと言うのか?言うてみぃ」
この時点で既にこの老人は、岩杉の事を完全に馬鹿にしていた。しかして彼は冷静に答えた。
「私は――……岩杉諒也と申します。貴方が知らないはずはない……岩杉聖樹の息子です」
「!」
老人の顔つきが変わった。
「……なるほど、聞いた事はある。しかしこの話に口を挟む事は無いだろう?」
「個人的に許せなかっただけです。申し訳ありません」
岩杉が頭を下げる――……何故ここまで反抗してきたのか、何故そんなに素直なのか、胡桃には全く判らなかった。ただ詩杏も冬雪も梨羽もほとんど動かないのが、不思議で仕方なかった。
「……なら良い。――さて、戻ろう。梨羽はどう考える?」
「私は……全く構いませんが、でも」
でも、何なのだろう。
梨羽は一呼吸置いてから、続きの言葉を発した。
「突然そんな事をおっしゃられても、私には……何とも言えません」
「まぁ、それはそうだろう。ゆっくり考えなさい。急ぎの事ではない……時間はまだ沢山あるんだ」
老人はフォッフォと妙な笑い方をして、ソファから立ち上がった。
「お爺様」
梨羽も立ち上がる。
「悪いがワシはこれで帰るよ。お邪魔したね。まぁゆっくり考えて結論を出すが良い。ワシはどんな結果になろうと、別に構わん」
老人は――……すぐに、事務所から出て行ってしまった。誰も、止める者は居なかった。

「……結婚だなんて」
呟いたのは冬雪だ。その表情は暗い。
「銀一さんの考えた事と全く同じだな。その所為で人1人死んでる事を何とも思ってないのか」
岩杉はどうやらまだイライラしているらしい。
「……先生、若葉屋さんってそれで殺されて……」
「別に幸原先生の事を恨んじゃいないよ。あいつ自身、『あの人は悪くない』って言ったしな……しかしどうだ?自殺したからこれ幸い、結婚しろ?奇妙しい話じゃないか。まぁお前らに結婚とかの意志があるのかどうかは別としてだがな」
岩杉は最後に少しだけ、鼻で笑った。

――……老人、久海蒼士は言った。この際梨羽と冬雪が結婚し、2人で暮らすようにと。

勿論久海家当主の考える事だ。梨羽を嫁に、などとは考えない。よって、その逆。
「――……で、どうするつもりだ?俺は赤の他人だからどうこう言っていいものじゃないが」
「別にオレら、付き合ってた訳でもなければ、そんな事考えた事もなかった。いきなり言われて、はい判りましたなんて言えない」
そう答える冬雪の表情は暗い。極端なほどに暗かった。胡桃は何かを言おうとしたが言葉が思いつかず、結局何も言えずにたたずむだけに留まった。
「結婚は各個人相互の意志を尊重して、だ。いくら名家の当主だからってそれを勝手に決めるのは如何かと思う。引き抜き目的なのは明らかだろう?昔から秋野の事は気に掛けていたと聞いているよ」
「え……誰からそんな事」
「葵に決まってるだろ。彼以外に誰が俺とお前の過去に関わる」
ここで岩杉は何故か葵の事を呼び捨てにした。その場に居た全員がそれに気付いたらしく、訝しむ目を彼に向ける。
「…………何だよ、その目」
言った本人は全く気付いていないらしかった。無意識の所業なのだろうか。
「だって、先生が」
冬雪がそれを言おうとするが上手く説明できないらしく言葉を詰まらせる。
 岩杉は何かを考えているような素振りを見せ、ようやくそれに思い至ったらしい。
「あぁ!別に大した理由じゃないさ。今更それをお前らが知ったところで何がどうなるって訳でもない」
「その『大した事無い理由』が知りたいんだよ、オレは」
「今までにも色々あったな。その度に秋野は仰け反ったり項垂れたりしてきた」
彼がしみじみと呟いて、冬雪をじらす。
「早く教えてってば!」
「葵とは元々知り合いだった。彼が記憶喪失になる以前に、を注釈しないといけないけどな」
岩杉は少しだけ微笑んで、優しい口調で述べた。胡桃と詩杏はよく判らなかったが驚き、冬雪と梨羽はそれぞれに顔を見合わせて先の2人とは全く違う表情を見せた。
「記憶喪失以前って……オレとは関係なくて?」
どうやら葵の記憶喪失に関して、冬雪は何があったのかを知っているらしい。が、それを胡桃たちに説明してくれる余裕は誰にも無さそうだ。胡桃と詩杏は黙って話を聞く事にした。
「あぁ、全く関係ない。お前はまだ幼稚園にも行ってなかった頃だろう?丁度……大亮に日本語を仕込まれてた頃か」
「し、仕込まれただなんて」
それは事実なのかも知れないが、『仕込まれた』のでは芸になってしまうではないか。
「口調が大亮そっくりなのが居た堪れないな。最初からどこか似てるとは思っていたが、あいつに仕込まれたんなら納得だ」
岩杉は冗談のような口調で言う。実際、冗談だっただろう。
「……もうその話は止めてよ。今更どうにもなんないんだから」
「俺がわざと話題逸らした事に気付け。梨羽さんにも会った事はありますよ。まぁ覚えても居ないでしょうが」
「私と、ですか?」
梨羽がきょとんとした顔で問う。思い当たる事はないようだ。
「随分前だな……もう14年前か。梨羽さんはまだ8歳の時かな、結構お邪魔させてもらってたんですが」
それだけ前なら思い当たらなくても当然か――……と思った矢先だ。
「! もしかして」
梨羽ははっとした顔で、岩杉の顔をまじまじと見つめている。見つめられている本人は戸惑っているのか、彼女から目を逸らしていた。
「多分、そうだと思うんですけど……同じピアスもしてらっしゃいますし。あの……その頃金髪にしてました?」
「あぁ、してましたね。隠しようのない過去ってヤツです」
「覚えてます!確か兄が死ぬって言うのを止めて下さった方だって、父が」
興奮気味に彼女は話す。何も判らないといった様子の冬雪が、胡桃たちのところへ歩いてきた。
「14年も前の話されても判んないよ、オレ」
「俺なんてもっと判んねェよ。霧島だって」
「葵さんて、記憶喪失なってたことあるん?」
「んー、そうらしいって話は聞いたことある。何でも全部忘れて、結局思い出さなかったって」
冬雪はあっけらかんとした表情で話すと、背伸びをしてため息を吐いた。
「あー……疲れた。お祖父さんてば何考えてんだかね」
「あたし別に、怒ってへんからね。気にせんでええよ」
「…………え」
思い当たる節があったのだろうか。冬雪は不思議そうな顔で詩杏の方を見る。
「やっぱり気にしてたんやね。あたしに気ィ遣うことなんて、全然ないから」
「…………鈴夜と同じ台詞言うなよ」
冬雪は項垂れる。慌てて詩杏が取り繕う。
「ゴメン、そんなつもりやなくて、」
「詩杏が悪い訳じゃない、別に……でも、気にするなって言われたら気にするのが人間だよ」
優しく笑って冬雪が言い、玄関の方へと歩いていく。
「おい冬雪、何処行くんだよ?」
「さぁ、何処だろうね」
ふざけた口調で言い、サンダルを履いて彼は玄関の戸を開けた。

   *

結局、何も変わらないのだろう。

全てが決まっていた。

生まれた時から、何もかも。

それが運命ってモノなんだろう?

今更何を言っても無駄なんだ。

誰も、それには逆らえない。

自分の意思?

それも全て運命なんだよ。

偶然も、奇跡も、必然も皆同じだ。

皆、決まっていた。


さぁ――……扉を開けて。

ぼくの前に、道を開いて。

   2

 黒髪ポニーテールの女が、流人の顔をまじまじと見つめてから言った。
「ルー、元気無い。何かあった?」
「別に何も無いさ。ミカコがそう思ってるだけだろう」
そう言ってもミカコは首を傾げるだけで、認めようとはしなかった。
「ミカコの方こそ何かあったのかい?」
「別に何も無いよ。ルーがそう思ってるだけなんじゃん」
ツンとした態度でミカコは言い切った。全く、油断も隙もならない。
「ところでミカコ、『彼』との調子はどうだい?」
「……ルーが関わることじゃないっ!もうっ、恥ずかしいんだから止めてよ」
「恥ずかしいのか。頑張ってるみたいだね」
「だからルーに心配されるような事じゃないんだってば!あーもうお節介なお兄ちゃん持つと大変ー」
ミカコは早口にまくし立ててから項垂れた。よほど恥ずかしかったらしい。
「はは、悪かったね。大事な妹の恋路ぐらい気になっても仕方ないだろう」
「ルー、それじゃただのシスコンだっつーの。シ、ス、コ、ン」
ミカコは一文字ずつ区切ってその名称を強調すると、残っていた茶を一気に飲み干してしまった。
「……君に言われたくはないよ」
「あれ?あたし何かしましたか?変だなー、全然覚え無いんだけど」
完全に馬鹿にされている。流人はため息を吐いて、何となく店の外を眺めた。

――人の少ない、のどかな裏通りの風景。

十数年前から全くといって変わっていないその風景に、流人は何かを感じてきたのだろうか。
 初めてこの街に来たとき。にぎやかな駅前、しかして静かな裏通りの雰囲気に、何か懐かしいものを感じた。
 この街で岩杉に再会したとき。外見の変わった彼に驚いたが、全く変わっていなかった内面に安心した。
 そして、今。時代は移り変わった。しかし変わっていない何かがあるはずだと信じた。

「――……来た」
「え?」
ミカコが振り返る。

店の木の扉が開き、鐘が涼しげな音を鳴らす。

「いらっしゃい、岩杉さん――……久し振りですね」
「そう呼ばれるのはな」
戸を開けた主ははにかむように笑って、いつもの指定席に座った。

   *

 一瞬の出来事だった。

流人が買い物に出かけ、ミカコが時間の制限で自宅に帰ってしまった時。

店内には、岩杉以外にもう1人が残っていた。

「――……どうしてお前が居るんだ?」
声を掛けても、彼からの返答は無かった。

そしていきなり、岩杉に向かって突進してきた。


――ズッ。


嫌な、音がした。

音から少し遅れて、途轍も無い痛みが岩杉を襲った。

思わず、しゃがみ込む。

「――……今度こそ死んでくれ、『先生』」

吐き捨てるように、彼は言った。

血が、腹から流れ出る。


――……判らない。判らなかった。


「尚都……何故そんなに……俺を嫌う?」
「判んねェのかよ。あんたは兄貴と仲良くしてるだろ。だからって俺とも仲良くしようとしやがって。んなこた無理なんだよ。関わってくんな」
「だからって……殺す事は」

もはや、反論する事も出来そうになかった。

「邪魔。あの時死んでくれりゃ良かったんだよ」

その頃はまだ彼がCECSになっていなかったから。

だから、殺せなかった。殺されなかった。

7年前。

岩杉が尚都のクラスの国語を担当していた時。

「――…………っ」

何かを考えている事も困難。うずくまり、痛みを堪えるのが精一杯だった。

「ははっ、苦しいか?もっと苦しめよ、『先生』?」

そう言って笑い、彼は岩杉を蹴飛ばし、転がした。

はっきり言って、彼に『一般人の感情』など無い。

夢見月家は間違った。



彼は完成などしていない。

岩杉は確信した。

CECSの1人として。

人間として。



―――だとしたら?



安心感が頭の片隅を横切った瞬間、岩杉は意識を失った。


   *

 病院の廊下にあるベンチに座るのは、初めてだったかも知れない。
「――……7年前にね」
流人がゆっくりと、口を開いた。
「彼は死に掛けた事があった。正確には殺され掛けた事、だけど――」
冬雪が答える。
「――誰に?」
「尚都だよ。一時期彼に習っててね。ボクの知り合いって事も知ってて、何だか気に入らなかったみたい。何を思ったか――……殺そうと考えたらしい」
「それで、どうしたの?」
流人は一呼吸だけ置いて、早口に答えた。
「視聴覚室だったかな、2階にあるだろう?そこから突き落とした」
「――……!!」
彼は何があっても視聴覚室で授業をする事は無かった。理由を訊いても答えてはくれなかった。いつも「ちょっとな」とだけ言って誤魔化し、結局理由は謎のままだった。
 だが過去にそんな事があったのなら、そこで授業などやりたくないのも当然だ。
「左足と左手を骨折……だけで済んだけど、重大な後遺症が残った」
「……後遺症?」
今までそんな様子を見せた事はなかったはずだ。
「やっぱり判らないみたいだね……彼も頑張って隠してたから。彼の字は綺麗かい?」
「え、うん……綺麗だよ」
少なくとも冬雪よりは断然綺麗だ。そう思っている。
「そっか、じゃあかなり練習したんだね。彼の左手は神経が傷つけられて、リハビリをした今は大分回復したけど、右手ほど複雑な動きが出来ない。だから文字は上手く書けない」
「左手?先生って右利きじゃなかった?」
「元々は左利きだったよ」
流人は寂しそうに笑って、手術中のランプの点いた目の前の扉を見つめる。
「左投げ左打ちの名ピッチャー……だったらしいよ、中学時代。高校に入って辞めたみたいだけどね」
野球をやっていたと言いながらも今は決してやろうとしなかった理由はそこにあったらしい。
「右手を使う練習はそれまでもやってたみたいだけど、本格的にやったのはその事件の後だね。それで彼は右利きになろうと必死になって、入院してた2ヶ月をそれに費やした」
流人は淡々と話し続けた。冬雪は聞き役に徹していたが、岩杉が影でやっていた事がいくつも浮き彫りになるにつれて、酷く寂しい気分になった。
 何故、隠していたのだろう。
 同じ『仲間』でも明かせない理由は何だったのだろう。
「2月に事件があって、4月には復帰した。その回復力と適応力には感服するね」
そう言って苦笑した流人は何故か立ち上がった。
「――夢見月家は尚都に出したCECS認定を取り消したらしい」
「……じゃあ」

――まず彼が死ぬ事は無い。

そう思った瞬間、『手術中』のランプは消えた。

神妙な顔の医者が出てきて、待機していた2人に告げる。

「――手術は成功しました。生命力が強くて助かりました」

 最終的に笑顔になった医者は、2人に会釈をして去って行く。
2人は顔を見合わせて、手術室から担架に乗せられて運ばれる彼を見送った。

   *

 視界の中に入ったのは、心配そうなお節介な姉の顔だった。
「――大丈夫?良かった、殺されずに済んだみたいね」
姉はため息を吐く。
岩杉は返事をしようと口を開いた。だが答える言葉が思いつかなかった。

――……喋れない。

脳に何らかの衝撃があったとは思えない。腹を刺されただけだ。とすれば考えられるのは、ショックによるものか。
「諒?あ、何か飲む?お茶貰ってくるね」
姉は不思議そうな顔をしたが、すぐに元に戻って、部屋を出て行ってしまった。
 要らないと答えたかった。だが声の出し方を忘れてしまったかのように、彼の喉は何の音も出してくれない。
 すぐに部屋のドアが開いた。姉が帰ってきたのかと思ったが、違った。
「先生、おはよう――……調子はどう?」
入って来たのは秋野冬雪と霧島詩杏。詩杏が腕に花束を抱えていた。
 だが、何も答えられない。
 異変に気付いたらしく、冬雪が怪訝そうな顔をして尋ねてくる。
「――……喋れないとか?」
軽く頷く。すると彼はすぐに笑顔になった。
「平気平気、すぐ治る。もうちょっと寝てたら安心するよ」
「寝ちゃったらあたしたちする事ないやーん」
詩杏が花を飾りながら訴える。冬雪が「仕方ねェだろ」と反抗した。
 何とか止めなければ――……。
「……気にしないでいい」

その瞬間、その場にいた全員が笑顔になった。

   *

「喋れんじゃん、良かったー……あ、そーだ。葵の遺作の見本貰ってきたんだけど、読む?」
冬雪は話を逸らし、鞄からハードカバーの本を一冊取り出した。
「遺作?」
岩杉は疑うような目を向けた。
「――……先生は全部知ってそうだね」
「……今までのは全てリメイクだった。俺は全部――……読んだ事がある」
やはり全ての事情を知っていたらしい。
「そんな葵が頑張って1年掛けて書いたんだよー、読んであげたら?『先輩』」
梨羽から聞いた。岩杉は葵の先輩で、かなり世話になっていた――と。
「判った。受け取っておく」
岩杉はいつもの笑顔でその本を受け取ってくれた。
「ところでさ、小鳩聖夜って有名な人?オレいまいち良く判んないんだけど、葵が尊敬してるって言ってて、色んなの書く人だってのは聞いてるんだけど」
「読めば判るだろ。わざわざ俺から説明する事じゃない」
「あたし好きやで、すごくあったかくて柔らかいのに、何かちょっと苦しいの。でもね全然辛くはなくって、読んだ後は外に出て深呼吸したくなるん」
「うーん……よく判んねェな」
冬雪は適当に言って誤魔化し、岩杉からの返答を再度確認した。

――『俺から説明する事じゃない』と。

有名なのか否かを聞いているのに、読めば判ると答えているのも不自然だ。寝起きでボケているのかとも思えるが、説明を避けているのはどっちにしろ事実だろう。
 だとすれば冬雪の疑いの真実味も深まる。
 冬雪は深呼吸をして、その『疑い』の本題を切り出した。

「その人――……先生なんじゃない?謎の多い人だって言うのも知ってる。もし先生で、本読んで葵が気付いたとしたら、尊敬してるって言うのも奇妙しくない。だって『先輩』なんだから」
「嘘っ、そうなんですか?」
詩杏も慌てたように反応し、質問は一気に岩杉に集中した。
 彼は目を閉じて数秒悩むような仕草を見せ、答えた。
「――……まぁ、そういう事もしている。――何で判った?」
「読んでてそうなんじゃないかと思った。それに今……有名かどうかは本人には判んないからね」
岩杉はそれを聞いて少しため息を吐き、クスクスと笑った。
「引っ掛けたのか」
「引っ掛けたよ」
「あれ、お2人。来てたの?」
入って来たのは梨子だった。手に紙コップ入りの緑茶を2つ持っている。
「どうもー、梨子さん。お久し振りです」
「うん、お久し振りー」
横から詩杏が小さな声で「誰?」と尋ねて来る。冬雪は合わせてなるべく小さい声で答えた。
「先生のおねーさんで、オレの叔母さん。銀一さんの奥さんだよ」
徹底的に敬称「さん」を使ってみた。惜しい、『先生』に付け忘れていた――……などと考えている場合ではない。
「姉さん……『もう会わない』んじゃなかったのか?」
どうやらそんな約束を取り交わしたらしかった。
「うーん、さすがにお祖父ちゃんお祖母ちゃん引っ張ってくる訳に行かないでしょ?元気とは言っても。一応、親族として。今回は特例よ」
梨子は悪びれもなくとびっきりの笑顔を見せて、その場を乗り切った。

 その後梨子が愚痴りに岩杉を呼び付け、その度適当な理由をつけて『特例』を繰り返したのは言うまでもない。


   3

 2010年4月。胡桃たちは無事、高校3年に進級していた。教室を見渡すと、そこには見慣れない顔が数十名いるのみ。騒いでいる者もいる。胡桃はため息を吐いた。
「俺はただの助っ人だよ、他の何者でもない」
退院早々、久々に教卓に立った岩杉が準備をしながら、のんびりと答えた。尤も胡桃が何らかの質問をした訳ではなく、この場に岩杉が居る事への弁解だった。
 何となく彼を見上げる。
 噂のピアスは、付けていなかった。
 だからと言って何かを言う訳ではない。胡桃はもう1つため息を吐いた。
「助っ人ねー。ま、役立ってるからいいんじゃない?」
教卓に載ったテキストをパラパラとめくりながら言うと、岩杉は少し怒ったように言った。
「……座れ」
「うぃ」
敬礼をして笑いながら答え、胡桃は素直に自分の席に戻った。
 号令が掛かり、2年半振りの彼の授業が始まった。
 但し国語ではなくドイツ語。胡桃がこの高校に来て以来ずっと美人だと思っていたドイツ人の女性教諭は今年1年休職。その連絡が急だったので、とりあえずその場凌ぎで他の教員中唯一ドイツ語を話せる岩杉が担当する事になったらしい。

 だがそんな事はどうでもいい。

 何故彼がドイツ語などを話せるのかが知りたい。尤も胡桃が今まで彼と話してきた場所は異国語の出現する場所ではなかったから、彼がどれだけ話せるのかは全く知らなかった。大体そんな話をしなかったからだ。

 胡桃は再度ため息を吐いて、授業に集中した。

   *

「……ドイツ語なんて何処で勉強したんだよ?大学は古文だろ?」
「大学は日本語一筋。近所にドイツ人の子が居たんだよ。まぁ一応友達として色々話してる内にな」
放課後も暇だったので、胡桃は職員室に攻め込んでいた。岩杉は迷惑がる事もなく、せっせと自分の仕事をしながらも胡桃の話に付き合ってくれた。
「そんな?」
「そんなだよ。悪いか?」
「全然悪くないけど。いいなー俺の近所にもそんな子居たら良かった」
言ってから、近い人物が存在していた事に気付いた。
「……冬雪」
母親は英国育ち。少なくとも彼は英語を話せた。
「あーー……何で俺教えてもらわなかったんだ」
胡桃が項垂れると、岩杉はケラケラと笑って更に胡桃を打ちのめした。
「惜しかったな。そういうのは子供の内のがいいんだぞ」
「…………先生が言う事か?」
「more thanって事で。最善ではないがやるのに越した事はない、だろ」
助っ人ドイツ語教員が何故英語を持ち出したのか。
「俺のフランス語だって後からだ。高3からのんびりと独学」
「……どっからフランス語に飛んだ?」
「今からでもやるのに越した事は無いって所から。すぐ前の台詞ぐらい覚えとけ」
「いや、そういう意味じゃなくて……何でまたフランス語?喋れんの?」
「まぁ一応、ドイツ語ほど得意じゃないが。葵が話せたのに感化されてだな」
「あ、葵さんが!?」
胡桃は慌てて持っていたプリントを取り落とした。
「……何にそんなに驚いてるんだ?」
「だって……葵さんが何で」
「親御さんに教わってたんだそうだ。但し英語の発音はカタカナだったけどな」
そこまで言って、岩杉はノートパソコンのキーを叩くのを止めた。
 ふと、どうでもいい事が気になった。
 胡桃はちょっとした好奇心で尋ねた。
「――先生、左手は?片手じゃ不便だろ」
岩杉からの返答は無かった。代わりに、彼がズボンのポケットに突っ込んでいた左手を出し、キーボードの上に乗せた。それからゆっくりと何かを打ち込んでいたが、その動きは余りにも不自然だった。指をほとんど動かそうとしていない。手首だけで押しているように見えた。
「ダメだ、疲れる…………やっぱりダメか」
「な、何が?」
「結局治らないって事だな」
何の事を言っているのか判らない。治らないと言うのは何の話だろう。
 岩杉はゆっくりと左手を持ち上げ、手首を回した。そしてまた、ズボンのポケットへと戻してしまった。
「何かあったのかよ?片手じゃ絶対疲れるし面倒だろ」
「左手だけより楽だ、エンターもバックスペースも右にある」
「……そんな、言い訳みたいな事言うなよ。何かあったのか?」
問い詰めると、彼は目を閉じ、ため息を吐いて、低い声で答えた。
「…………思い出させるな」
冷たく、感情の欠片も感じられない声。彼のそんな声は初めて聞いたかも知れない。胡桃は一瞬、本当の恐怖を覚えた。
「ご、ゴメン……悪い事訊いた」
「! 藍田が悪い訳じゃない、気にするな」
「でも」
「――I hear, my teacher」
「え?」
予想外の人物の声に、2人が同時に振り返る。
 淡い茶色の髪は正月の1件の後に切って以来数ヶ月、中途半端に伸びたままだ。はっきり言って着こなせていない真っ黒な学生服と低身長のお陰で、彼が3年生であるようには全く感じさせない。
 通称、秋野冬雪。いい加減な日本語と母譲りの詩的な英語を使いこなす、胡桃の幼なじみだ。
「流人から聞いたよ。事件の話」
「……あれは事故であって事件じゃない」
「充分事件だよ。校長とかがそう発表しただけだろ?そんな事故があるかってーの」
投げやりに台詞を吐き捨てた冬雪を窓際に引きずって、岩杉に聞こえないように尋ねた。
「何が事件だって?」
「尚都さんが中学の頃だよ。視聴覚室から突き落とされたんだって」
主語と目的語がはっきりしない。
「……誰が、誰を?」
「もち、尚都さんが、先生を」
冬雪は指で窓の外を指し、付け加えた。何が『もち』だ。どちらにしてもとんでもない話ではないか。
「死ななかった、のか」
視聴覚室は2階だった。確かに、それぐらいの高さなら生きていても奇妙しくはないか。
「だって、生きてんじゃん」
「それぐらい判ってる」
「……それで左手の神経傷付いて上手く動かないんだって。不便だよね、絶対」
不便どころの話か。
「それって障害になんじゃねェの?」
「さぁ、オレは詳しい事知らない。先生も思い出したくないみたいだし、そっとしといたら?本人事故だなんて言ってるし」
被害者本人が何故事件ではないと言い張るのだろうか。胡桃にはその考え方が判らなかった。
「……冬雪なら、事故だって言うか?」
「オレは言う」
「何で?」
「めんどいじゃん」
冬雪はその一言で全てを片付けた。
 事故だと言って片付けてしまえば後で何か問題が起こって巻き込まれる事はない。自分の被害を曝け出して騒ぎを起こすより、平和に暮らしたいと願った彼らしい選択だ。
 恐らく岩杉も、同様に考えたのだろう。だからこうして今でも事故だと言って、胡桃たちに話をされる事を避けようとする。彼にとってその事件がどれだけ苦痛なものだったのかは計り知れない。恐らく、今まで胡桃が味わった苦痛の何倍も大きいものだったのだろう。

 どちらにしても、胡桃には想像する事しか出来なかった。

   *

『じゃあ、決まったんやね』
詩杏は少し、寂しそうに言った。
「まだ先の事だよ?半年後」
『ううん、でも決まったんでしょ?おめでと』
声は明るかったが、その裏にある感情はすぐに判った。
「……有難う。何て言えばいいのか判んないけど」
『良かったやん!』
その言葉の真意を、どうやって受け取れば良かったのだろう。
『決まったからにはちゃんと満足せな!ほら、喜び』
「……でもさ」
『何遠慮してんのん?あたしの事は気にせんといてって言うたやん、こないだ』
気にするなと言われて素直に気にしなかった所為で、大事な人を失った事がある。

――だから、気にしないではいられないのだ。

冬雪は何も答えなかった。
『あ!お湯沸いてる……ちょっと、兄さん!火ィ止めて!……ゴメンね、忙しくて』
「ううん、別に構わねェよ……こんな時間に電話したのが悪いんだし」
時刻は夕方5時。大体の家庭は夕食の準備で忙しい時間帯だろう。この家だって同じで、先程から梨羽が忙しなくキッチンで動いているのが見える。
『別にあたしだって構へんよ。電話はいつでも受け付けてますから?』
「だと嬉しい」
『あはは。これからも掛けてね、暇やから』
そう話す彼女は、とても楽しそうだった。だから冬雪も、嬉しかった。
「あぁ……掛けるよ」
『あ、梨羽さんに怒られんといてよ?飽くまでお友達として』
「梨羽はそういう人じゃないよ。詩杏の事もみんなの事も知ってるし」
それに、そんな細かい事まで彼女には監視できないから。
『――……それじゃね、あたし……兄さん手伝わな』
「あ、うん……じゃあ、また」
『うん、ばいばい』
作られた明るい声と共に、電話は切られた。

手伝うと言うのは口実だという事も、冬雪には判っていた。

これ以上、話しているのは辛かった。

仕方ない事だとは判っていた。

(何が『また』だ)

自分が馬鹿馬鹿しくなる。

これ以降4年間、冬雪が詩杏に電話を掛ける事はなかった。

   *

誰かが気付いてくれる事を祈った。

いつの事からだろう。

「……これでいいのかな?」

青年には滅多に着ない洋服をまとった自分がどうも偽物に見えて仕方なかった。

尤もそれを誰が見て咎めるという事も無いだろう。


――今日は臨時休業。


紅葉通に開店以来、初めてになる。

恐らくこれが最後になるだろう。

「久し振りだね」

昔の姉とその夫に声を掛ける。

彼らが青年に昔の名を告げて、微笑む。

前に会ったのはもう、10年近く前だろう。

だがそんな事は関係なかった。


――今日は盛大に盛り上がろうではないか。


申し訳ない気持ちもあった。

だが彼は笑うのみ。

最初からそのつもりだったから、一切悩む事は無かったと。


――2011年、6月。


誰かが気付いてくれる事を祈った。

その日から丁度、40年。


「志月!」

彼の声がする。

「おめでとう。色んな意味で」

皮肉を込めて言う。

彼は苦笑いをして答えた。

「俺より先に死ぬなよ」

「至極当然。自然の摂理はかくも厳しいからね」

「……?訳判らん」

彼は本当に判らなさそうな表情で言った。

「そろそろ行ったらどうだい?新妻がお待ちかねだよ」

「……勘弁してくれ」

彼は照れながら去って行った。








判らないくらいが丁度良い。

そこから答えを探しに行けるから。

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