形と探偵の何か
Page.43「いつまでもいつまでも」




   1

 冬の日の、午後だった。

――ガラガラッ。

 岩杉がノックをした後に扉を開けると、そこには起き上がって本を読む彼の姿があった。彼は岩杉の姿を確認すると柔らかく微笑み、声を発した。
「……どうもこんにちは、岩杉先輩?」
再三の要請にようやく応じてくれたようだ。岩杉は安堵した。
 彼にとって岩杉は、中学高校時代に部活の先輩であった以上の何者でもない。だから彼にわざわざ『先生』などと呼ばせる義理はない。
「調子はどうだ?」
「えぇまぁ、それなりに。さすがに退屈でしょうがありません」
久海葵は苦笑して、開いていたハードカバーの本を閉じた。
「その本は?」
「あぁ、担当さんからお見舞いに頂いたんですよ」
それは予てから、葵が尊敬していると漏らしていた作家、小鳩聖夜の最新作だった。インタビューなども受けた事はなく、何かと謎の多い作家である。岩杉の記憶によれば、確かつい数日前に出たばかりだったはずだ。
「そか」
岩杉はベッドの横に備えられた椅子に座った。
 葵が唐突に言った。
「――物語はまだ、終わってませんか?」
「?」
「先輩の物語です」
葵は12年前とほとんど変わらない笑顔で尋ねてきた。
「――……相変わらずの遅筆なモンでね。まだまだ進まないよ」
「壮大ですもんね。12年経ってもまだ完結しないとは」
「……それは嫌味か?」
「いえ、全然。尊敬の意を込めて」
そう答えた葵の表情を見ても、全く嫌味だとは感じられなかった。
 岩杉はため息を吐いた。
「終わる時には、きっと俺は死んでるよ」
「相変わらず詩人さんですね。昔からそうだった」
彼はケラケラ笑いながらそう言った。
 岩杉が創り出す物語。それは当時部員2名で同好会降格寸前だった、青梅学園中学高校文芸部に所属していた2人だけが知る事だ。実際、葵が卒業して数年後に結局文芸部は無くなったらしい。
「昔からって――……そうだ。思い出したのか?」
「ま、ちょこちょこっと。全部じゃないけど、あんな事があった気がするなぁ、とか。でも変な気分ですよ。全部忘れてたんですもんね。先輩の事も、あの頃あった事も」
だからあの事件で再会した時も、彼は岩杉の事が判らなかったのだ。尤も、判ろうが判るまいが、今の岩杉にとってみればどうでもいい事だったが。
 彼は中学3年で全ての記憶を失った。丁度あの彼のように、小さな事故が引き金になって。それが葵の場合は彼とは違い、失った記憶を取り戻す事が無かった。その代わり、葵は新しく記憶を創り出す事を選んだ。家族の事、友人の事、自分が大切にしていたモノの事。時々彼に、以前の記憶が途切れ途切れに戻ってくる事もあったらしい。だがそれは本当に一部でしかなかった。
 彼は変わったと言われる。割り切る事を覚えた彼に、どこか憂いを帯びていた彼の姿はもうない。
「――……俺は変わってないんだろうな」
「? 先輩は先輩でしょう。きっと、いつになっても」
葵は不思議そうな顔をしながらも適確な答えを返してきた。
 いつになっても同じ。不変の存在。
「そうか……変わる必要はないんだな」
「今更何を言ってるんです?」
冷静さを欠かない彼。両親の死んだ現場でも涙を見せなかった、その姿が思い出される。

 新海碧彦とその妻が殺された日。

 岩杉の両親もそこで共に、殺された。

 遺体の確認をしに岩杉が病院へ出向いた時、そこで葵と再会し、幼かった冬雪と初めて顔を合わせた。もう、8年前の事になる。
「俺だって変わったとは言われてますが、俺自身が変わった訳じゃない。新しい『久海葵』って存在を後から造って、元々居たヤツに上書きしたってだけの話です。ふゆだってそうだ、あいつは『明るく元気な少年』を演じてるだけで、別にあいつ自身が変わった訳じゃない。あいつは昔のまま、大人しく笑ってるのが似合うんですよ」
「――……秋野は何を求めて、『新しい存在』を造ったんだろう」
「『このままじゃいけない』『自分は自分に負ける』――そういう恐怖心でしょ。名前ばっか先走って、自分の実体は後から全然付いていけてない。そう思い込んでた。自分の事が判ってないんですよ。どれだけの事をやってるかって言うのを」
自分で自分を掴めなくなったら、そこで終わりだ。
 葵はそう締めて、微かに笑った。
「――そうだ。もう金髪にはしないんですか?」
「さすがに無理だよ」
「いいって言われたらやりそうですね、その答え方は」
「……まぁな。今じゃさすがに似合ってないって事も判ってるが」
学生時代、何の意味があって染めていたかは憶えていない。だが酷く苦しい感覚がまだ残っている。
「せずにはいられない、深い事情があったってトコですか」
「君だってそうだろう?」
「まぁ確かに、茶色いのを隠したいって言うのもあったかな――……はは、俺のはただの社会への反抗ですよ」
「……俺だってそうだよ。――ところで、この間の事件の事だけど」
岩杉が一気に話題を転換すると、彼の表情は急に暗くなった。
「――……俺が悪かったんすよ。勢いで行動しちゃったから」
「本当に勢いだったのか?」
「まぁ、俺の中では。少なくともあの件に関して、あいつに悪気は無かった――……それどころか、結果がどうなるかって事をあいつは知らなかった。そんなヤツに責任負わせるってのも無理な話ですよね」
葵は少し恥ずかしそうに言って、笑った。
 彼はどうやら、事件のことを反省しているようだ。このまま、解決の方向へと持っていけそうな感じがした。

 しかしそれは飽くまで、『感じ』に過ぎなかったのかも知れない。

「――……それじゃ、俺はそろそろ帰るよ。夕飯も作らなきゃいけないからね」
「えぇ。――それじゃ」
葵はいつものようには笑わなかった。笑わない代わりに、少し寂しそうな目をこちらに向けている気がした。
 岩杉はそれを気のせいにして、彼に向かって笑顔で敬礼した。
「じゃあな、葵。また」
「――……」
彼は少し笑って手を振るにとどまった。
 岩杉は少し不思議に思いながらも、のんびりとした足取りで病室からエレベータへと向かった。6階から1階へ下り、病院の正面玄関から外へ出た。
 敷地内の駐車場を、相変わらずゆっくりとした歩調で進んでいる――……時だった。



「グッバイ、エブリワン!!」

――発音の悪いカタカナ英語の、大声が耳に飛び込んできた。

岩杉のみならず、周囲にいた人間がみな、その声のした方向へと目を向けた。

向けてしまった。








―――…………ヒュウゥゥ…………ドサッ。









あからさまな音。

誰かの叫び声。

誰かの悲鳴。

騒然となる周囲。



――この世の何もかもが、

壊れてしまったような気になった。



無意識にゆっくりと、その場所へと――……歩みを進める。

――そしてその姿を、確認した。

間違いは、なかった。



 その場に呆然と立ち尽くしたまま、岩杉は誰に言うともなく、ブツブツと呟いた。

「――……この世で一番辛くて嫌な死に方とは」

その現場に居合わせてしまった事、この惨劇を止められなかった自分を呪った。

「遺体は間違いなく変形」

キリスト教徒でもないのに、思わず十字を切りたくなる。先日と同じく血に染まった髪は乱れ、どうやら腕の骨が折れているらしく、奇妙な方向に曲がっていた。

「途中で死にたくないと思ってももう戻れない」

本当に死にたいのなら構わないのだろうが、まだ迷いのある人間には向かない方法だ。

 後悔しても無駄。

「死ねるまでにブランクがある」

恐怖に充ちたその数秒間、彼は何を考えたのだろうか。
考えたくもない事だ。

「死ねないかも知れない」

もし打ち所が良かったとしたら、今後辛い思いを更に背負わなければならない。
確実な方法ではないのだ。

「――……投身自殺」

岩杉はようやく、両手を胸の前で合わせた。
「だと、俺は思っているが――……どうしてだ、葵?さっきまで、さっきまで話していたのに」

二度と彼の口から言葉が発せられる事は無い。

二度とその手から作品が生み出される事も無い。

二度と彼が、こちらへ笑い掛けてくれる事も無い。

――彼の存在が、彼自体が、目の前から消え去ってしまったから。

何故?

やはり、考えたくなかった。

「――……秋野は」岩杉は目を閉じた。「この事を知らずに、学校へ行ってるんだろうな」

ポケットから、携帯電話を取り出した。

110番を押して、警察を呼んだ。

自分が殺したと勘違いされるなどとは、一切考えなかった。


――岩杉は葵の自宅へと電話を掛けた。


   *

「夢見月、ちょっと」
6時間目が丁度終わった時、担任から冬雪に声が掛かった。
「はい?」
素直に返事をすると、彼は何故か耳打ちで話をした。
「――花蜂総合病院に至急来て欲しいとの連絡があったぞ――……岩杉先生から」
「? 先生から?」
何故病院からの連絡ではないのだろうか。
「心当たりは?」
「んー、従兄が入院してますけど……でも大した怪我じゃないし、何だろう」
「詳しい事は私も知らないんだ。とにかく、終礼は出ないでいいから早く帰りなさい」
「――はい」
何が何だか判らなかった。
 でも――……かなり重大な事態である事は、何となく予感がした。

 よくある、嫌な予感、というヤツだ。

 冬雪はコートとマフラーを着用し、鞄を肩に掛けて急いで教室を飛び出した。

   2

――どう、説明したものだろうか。

岩杉は迷っていた。
 何故あの時、異変を察知してやれなかったのだろう。すぐに気付いていれば、こんな事態になる事も無かっただろうに――……。
 岩杉は霊安室前に設置されていたベンチに座り、悶々と物思いに耽っていた。

「先生」

若い女性の声が耳に届く。振り返ると、そこには久海梨羽の姿があった。
「あぁ――……どうも、梨羽さん。ご愁傷様です」
「私――……急な事で、」
「現場に居たのに、止められなかった――……俺にも責任の一端はありますから、幾らでも責めてください」
梨羽は何も言わなかった。ベンチに座ると、何も言わず下を向いて、動かなくなった。
「梨羽さん?」
名を呼ぶと、彼女は何かを思い出したかのようにこちらを見た。
「冬雪――……冬雪にはご連絡は?」
「あぁ、はい。学校の方に回しましたから、ちゃんと伝わってるはずですが――……でも詳しい事は伝えませんでした」
「えぇ、その方が良策でしょうね。知ってしまったら彼、とても持たないと思いますから」
考えている事は岩杉も梨羽も同じだ。

同じ。

だが――……集合がここでは。

「――……誰が死んだんだよ、先生、梨羽?」

真新しい制服を着て重そうな鞄を肩に掛けた、冬雪が姿を現した。
 その声は半端ではなく、重かった。
「――秋野」
「今は夢見月。――……あんまり隠せてないよ?判ってんだから」
判っているのなら、どうして――……どうして平気で居られるのだろう。
 否、既に平気ではないのかも知れない。
 彼なら奇妙しくはない。
「――……ここって、オレと先生が初めて会った場所」
「あぁ――……そうだったな」
あの、新海碧彦の事件で。
ここにいたのは、遺族たち数名。そこへ駆けつけたのが、幼い頃の冬雪。

「1人、足りないよ?」

正確には2人だった。話はしなかったが、岩杉の姉である梨子もこの場に居たのだ。
 だが今はそんな事を突っ込んでいる場合ではない。
「――……あぁ……足りない」
「どうして?」
答えられなかった。悲痛な声の、半ば呟きのようなその質問に、岩杉は答えられなかった。
 代わりに梨羽が立ち上がって、請願した。
「冬雪、今日は――……お願いです、ウチに帰ってきて下さい。そうじゃなきゃ私が、私が耐えられません」
「――……梨羽は、見た?」
「え?」
「――……葵が死んだんだろ?梨羽は、葵のコト、見たのかって訊いてるの」
明るい表情を装っているが、どう考えても彼の様子は奇妙しかった。
 梨羽は少し目を伏せて、ゆっくりと首を横に振った。
「でも冬雪は、見られない方が」
「――何で?」
「だって――……倒れられたら、」
「判んないよ。鈴の時だって倒れなかったんだから」
そう言って彼は、霊安室の扉に手を掛けようとした。
「でもあの時は狂われました!また、またご自分で狂おうとしてるんですか?そんなの私、私――……許せませんから、そんなの――……」
梨羽が床に座り込んで泣き崩れた。
「言っとくけどさ。梨羽のが狂ってるよ」
それは冷静且つ冷酷な、彼の裏の顔だった。

――ガチャッ。

「――秋野?」
「――……だから今は夢見月だってば。前々から予想はしてたんだよ。あいつ、いずれ死ぬんじゃないかなって」
一体何処から出てきた推測なのかは判らない。
だが彼の口調は、確固たる自信と共に言葉を発している事を示していた。
「どっちにしろオレは、葵の片割れでしかないから」
「……?」
何の事を言っているのか、岩杉には全く理解出来なかった。
 冬雪は部屋の中に入り、扉を閉めてしまった。梨羽はベンチに戻り、うつむいたまま黙り込んでいる。
「梨羽さん」
「――……はい」
「今やるべき事は……なんでしょうね」
「私は冬雪を家に引き戻して、」
梨羽が答えを最後まで言う前に。

――ドサッ。

奇妙な音が部屋のほうから聞こえた。
「……あいつ、やっぱり……」
岩杉は思わずため息を吐いた。
「行ってみましょうか」
梨羽が立ち上がろうとする。が、岩杉が制止した。
「まだ貴女はここにいらした方が。俺があいつを回収して来ますから」
「すみません。お願いします」
霊安室の戸を開ける。

――予想通り、彼はベッドの横に倒れこんでいた。

「……いつかお前、怪我するぞ?ほら失礼だ、出よう」
「んー……」
無理矢理起こし、外へと連れ出す。彼はベンチにすぐ横たわってしまった。やはり耐えられなかったのだろう。
 梨羽が呟くように言う。
「結局正反対なんですよね」
「何がですか?」
「お兄様も、冬雪も……本質的には正反対なんです。だから『片割れ』。反発し合って割れてます。お兄様は皆が思ってるよりもずっと強い人でしたから――……冬雪は強がってるようでものすごく弱いです」
岩杉には何を言う事も出来なかった。
 梨羽は彼らを完璧に捕えている。捕えているから、彼らと意志を通ずる事が出来た。彼女なら彼を救える。
 一見すれば仲良し兄弟だった彼らだが、実質的なところで噛み合っていなかったのは岩杉も判っていた。だが恐らく、実際それが『割れている』かどうかは判断しかねただろう。
 冬雪は割り切ることをしない。こうと決めたらとことんそれをやり通す。勿論葵だって、何でもかんでも投げ出していた訳ではない。だが『とことんやり通す』までは行かないのだ。だからこうして今も、彼は生き続けることを止めた。あの時記憶を失ってから、やはり葵自身が変わってしまったのか。あるいは彼の言っていた通り、上書きされた新しい人格に押しつぶされてしまったのか――……どっちにしろ、以前の彼と違っていた事は確かだったのだろう。
「とにかく先生、今日は私、冬雪と一緒に帰ります。泊まる事ぐらい、構わないはずですから――……」
「それがいいでしょう……彼の家には俺から連絡しておきましょうか?」
「大丈夫です、私から掛けます。こんな事まで先生にご迷惑掛けるわけには行きませんから」
「いや別に、迷惑なんかじゃないんですよ」
ただ、何かしていないと不安だったから。

その日は家に帰ってからも落ち着かなかった。家事も手に付かず、TVを見ていてもあまり面白く感じられなかった。仕方ないので携帯電話を見てみたが、新しい連絡は何も無い。
 つまらない日常。逃げたくなってくる。
 こういう感情から、自殺する人間は増えているのだろうか?尤も、岩杉が分析してみたところで何が変わるという訳でもない。もう何が何だか判らない。
「……今日は寝よう」
 こんな調子では起きていても仕方ない。
 岩杉はキッチンの流し台だけ片付けて、その日はすぐに就寝した。緑谷に戻ってからまだ1週間、片付いていないダンボールも残っていたが、そんな物に構っている場合ではなかった。

   *

翌日朝、日本人形。
「――……葵さんが死んだって?何を冗談を」
冗談でないのは、彼の重々しい口調からも充分推察できた。
 それでも流人は、訊き返さずには居られなかった。
「本当、なのかい?」
『あぁ、確かにこの目で見た――……間違いなく』
「……そうか」
何が彼を後押ししたのだろうか。何か彼を追い詰める要因があったとしたら――……それは一体、何処に隠されているのだろう。
「諒也君、これからここに来られるかい?」
『これから?別に用事はないが』
その応答はものすごく不思議そうな声色だった。
「直接会って話そう。その方が互いの顔が見えて楽なんだ」
『……これだから昔の人は』
「顔が見えないと相手の表情、気持ちが読めないからね。目は口ほどに物を言うんだろう?」
『俺に訊くな』
「あれ?諒也君、国語の先生じゃなかったの?」
『……切るぞ』
「はは、冗談だよ。じゃあ気が向いたら来て」
『判った。じゃあな』
そう言って電話は切れた。冗談が通じないほど、彼は沈んでいるのだろう。当然だ。
 教え子の保護者という関係以前に、彼らは親密な関係にあったのだから。
「いよいよ彼も追い詰められてきたな……」
学生時代、彼の周囲にいた親しい人間たちはみな、彼の前から消えていった。
 若葉屋砂乃、結城大亮、そして久海葵。
 元々真っ当に人と交わらなかった彼に、彼ら以上の存在は居なかった。
「これからどうするつもりなんだろうな」
過去をきっぱり捨てて『今』を大事にするのか。
 彼はいつも、状況を拒む事はしてこなかったはずだ。突きつけられた状況の中でどう生きていくか、彼はいつもそればかり考えていた。
 死んでしまったら死んでしまった、そこで終わり。
「――……ボクはいつまでも傍観者だね」
流人は1つため息をついて、奥の部屋へと戻った。
 そしてのんびりと、急須に湯を注いだ。

   3

「冬雪、コーヒーか何か飲みますか?」
「……紅茶がいい」
「判りました」
久々に帰ってきた。懐かしい家、懐かしい空間。自分の居場所はここにしか無いのではないかと思えてくる。梨羽はキッチンに消えた。冬雪は1人で考え事を始めた。

――何故彼は、葵は……自殺などをしたのだろう?

 そんなモノとは無縁の存在のように思える彼が、何故なのだろう。むしろ冬雪が彼の『片割れ』であるからにして、今まで決して自殺などしようと思ってこなかった冬雪とは彼は全く逆で、何度も死にたいと思っていたとか――……尤もそれは冬雪の勝手な憶測に過ぎないが。
 一体何に、彼は悩まされていたのだろうか?
 まさか先日の事件ではあるまい。あれだけで死なれてはこっちが困る。だったらあの場で殺されていた方がマシというものだ。

 梨羽が戻ってきた。ぎこちない笑顔だった。
「変わってないでしょう?出来れば――……戻ってきていただきたいんですが」
「オレが、ここに?」
「市を訴えない限りは無理かも知れませんが……でも私は、1人で過ごすのだけは嫌です」
梨羽は冬雪にティーカップを差し出しながら、きっぱりと断言した。
「……オレだって1人は嫌だよ」
「お兄様のパソコンを見ましたか?遺作が残ってるとかで……でも勝手に開けなくって」
「あんなの勝手に開いていいんだよ。いつもの仕返しだ。最後の作品ってヤツか」
冬雪は紅茶を一口だけ飲んだ。
 誰に言うともなく、少しだけ呟く。
「――……So he was lonely,」
「何か?」
「う、ううん……何でもない。――行こっか、葵の部屋。片付ける?それともそのままにしとく?」
「片付けましょう。いつまでもそのままにしておいたところで、帰ってくる訳じゃないんですから」
彼女は毅然とした態度で言った。冬雪は立ち上がりながら、小さな声で言う。
「……梨羽、結構諦め早いね」
「諦め、ですか?」
梨羽が不思議そうな顔をして問う。
「通夜は明日、葬式は明後日。人もマスコミもいっぱい来るだろうから、ちゃんとしとかないとね」
「……答えになってませんよ?」
言われたが、それ以上答えることはしなかった。
 リビングを出て、2階にある2つ並んだ小部屋の内の、左側のドアを開けた。右側は今は使われていない、白亜が使っていた部屋だ。
 部屋の中は雑然としていた。尤も、葵が入院したのは突発的なことだったから、部屋が汚いのは別段奇妙しくないのかも知れない。その部屋に入ってすぐ右側に、プリンタ、スキャナを筆頭に周辺機器が重装備なパソコンが1台、置いてある。冬雪はその電源を入れた。
「落ち着かない部屋ですね」
梨羽がのんびりとした口調で言った。
「……うん」
冬雪が答える。
 その間にパソコンが立ち上がって、冬雪は彼がいつも使っていたワープロソフトを開いた。履歴から一番最近に開いていたファイルを読み込んだ。
「……これって」
それは、遺作などではなかった。

『親愛なる皆様へ

この文章を皆様が読まれていると言う事は、恐らく僕は死ぬ事が出来たのでしょう。

12年来の悲願達成を、喜んでいいものやら悲しんでいいものやらというところですが。

僕が本気で死にたいと以前から考えていたのを知っている方は恐らく、お1人だけ。

尤もそれが誰かという事に関して、僕が何か言うつもりもありませんが。

言ったところで、その方の迷惑になる事だけは必至ですから。


ではまず、何故僕が死にたいと思うようになったのか、から。

僕が中学時代に失った記憶の中に、それはあります。

だからはっきりとは僕も覚えていません。

でも――……ただ漠然と死にたい気持ちだけが先走って、今この胸の中にあります。

今『佐伯葵』という元々架空だった存在が、僕の本質から遠く離れてしまっているような気がしてなりません。

僕が久海家の恥さらしだった時代から、結局何も変わっていないような気がするのです。

だから――……僕はただの操り人形。

久海家の名に弄ばれた、ただの小さな人間。

やはり僕は無能でした、だから要らない。この世界に僕は必要無い。

必要としてくれる人が出てくるかも知れないと僕に言ってくれた人が居ました。

ですが実際はそんな事なんて無いんです。

今まで僕が出してきた作品は全て、中学時代に書いた物です。

その後に書いたのは『真実の夢』のリメイク版と、今度の作品のみです。

後は一部改稿した部分があるのみの、幼い僕の書いた小説。

記憶を失くしてからの僕に、その能力はありませんでした。

もうストックはありません。

だから最後の作品をもって、僕の存在価値は無くなります。

決して、責めないように。

最後の作品を読めば、今の僕の能の無さが判るでしょうから。


それでは、また何処かで会える日まで。


   佐伯 葵   拝』

冬雪には何も言えなかった。
「――……冬雪、その遺作を探してください」
「……う、うん」
このファイルの次に新しい、ファイルを。
 画面が替わった。
「『天使の羽』……弟妹、先輩方、友人たちに捧ぐ、ってさ」
「お兄様にお友達っていらしたんでしょうか」
「さぁ、居なかったと思うんだけど……でもまぁ、居たんじゃない?」
はっきり言って、『思う』ではなく彼には友人など居なかった。仕事関係の知り合いはみな『仕事の人』で、友人ではなかった。
「梨羽、読む?」
「先に冬雪が読んで下さい」
「……何で?」
訊くと、梨羽は笑顔で答えた。
「私は片付けてますから」
すぐに納得した。
「判った。宜しくね」
「えぇ」
それから冬雪は、彼の最後の作品を読み始めた。

   *

 2時間後。
「冬雪、終わりましたか?」
「…………終結」
「それじゃ私も」
梨羽がパソコンに近付く。冬雪は慌てて防御した。
「あーあーあー梨羽は読まない方がいい!泣く!」
「……これでも私、滅多に泣かないんですけど」
「いや絶対泣く!いやー運命は実に酷だね」
「…………?何ですか?」
怪しまれている。
 冬雪はため息を吐いて、説明を始めた。
「確かにね……作風は今までと全然違ったよ。下手とかって言うより……雰囲気が違う。今までのって結構、雰囲気的にはすごく淡い感じだったんだけど……今回ちょっと元気な感じ」
「それなのに泣くんですか?ますます判りません」
「いや、話はものすごく感動的だよ。泣きたいんなら読んだら?」
冬雪が椅子を勧めると、梨羽は微笑んで、パソコンの前に座った。

やはり彼には才能がある。
否、あった。
何故それを、捨ててしまったのだろう。
彼は恐らく苦労して、相当苦心して、この作品を仕上げたのだろう。
400字詰め原稿用紙で換算して200枚にも満たない中編なのに、ファイル作成から最後の更新までが1年。
いくら自ら遅筆だと言っていた彼だとしても――……遅すぎる。
それだけ彼は必死だった。
だから、死のうと決めた。

だから――……。

冬雪はベッドに座って、色々と思いを馳せた。

登場人物の事。

葵の事。

それから、自分の今後。

何を考えても、結論は一切出なかった。

+++



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