形と探偵の何か
Page.41「心の底まで」





  Prologue

誰が 入ってきたのだろう?

俺の 心の奥底へと。

誰が 狂わせたのだろう?

俺の 大切な世界を。


   1

 指先から、紫煙が空へと消えていく。
 それをただ、眺めているだけ。

それ以外、何もしない。

「――……暇人ね」

言われても仕方なかった。
仕方ないことを知っていたから、何もしなかった。

どこにでもある公園のベンチ。岩杉はそこに座っている。
「煙草が勿体無いわ。お金出して買ってるんだったらちゃんと吸ってあげたらどう?」
肩までの自然な茶髪、暗い蒼色の瞳をした女性がこちらへ歩いてくる。
 軽く羽織った茶色いコートの下には白衣を着ているのが見えた。自宅への帰りという訳ではなく、こちらへ来させた所為でまだ着替えていないのだろう。
「……たかだか煙草に敬意を払わないで下さい」
『あげる』は『やる』の謙譲語だ。
「…………私日本語苦手なの、ゴメンなさいね」
幸原美桜こと秋野夕紀夜は、本当に申し訳無さそうに答えた。彼女は日本生まれ英国育ち、日本語よりは英語の方が得意だと言う。彼女の息子も同じだが、彼の場合は日本生まれ日本育ちである。
「いえ、ちょっと揚げ足を取ってみただけです。大した意味はありません」
岩杉諒也は半分の長さになっていた煙草を咥えた。
「どうしたの?やっぱりいつもと調子違うんじゃない?」
夕紀夜はどうやら岩杉の事を心配しているらしかった。
 しかし彼女が心配すべきは岩杉などではないはずだ。
「――彼には、秋野には会われましたか?」
「いえ、あれ以来会ってないわ。どうしてるのかも知らない」
あれ以来。久海葵が彼を殺そうとした事件。
 既にあれから1週間が経った。既に、世間の学校では新学期が始まった。葵はまだ念の為入院している。
「どこに住んでるのかは――ご存知ですよね?」
「羽田杜のどこかでしょう?」
それでは広すぎる。市内全ての家を当たる訳には行かないだろう。
「……それはそうですけど。って事は、ご存知じゃないんですね」
「えぇ、まぁ。私はまだ……雪子姉さんとの連絡は絶たれてるも同然だから」
苦笑しながら彼女が答える。
「生きている事はもう発覚しているのに?」
「……えぇ。まだ許されてないのよ」
「どなたに、ですか?」
何故か夕紀夜はもったいぶってから答えた。
「――……勿論、桃香姉さまにね。私が雪子と組んだら大変な事になるって言って」
それは確かに壮絶なイメージだが、何も連絡を絶たせるほどの事ではないはずではないのか?
 岩杉はそれを尋ねてみた。
「『大変な事』は『大変な事』だから仕方ないのよ。それより今私たちが心配しなきゃいけないのは、あの脅迫状の事だわ」
夕紀夜は急に話題を転換し、表情も変えてきた。
 岩杉も彼女の調子に合わせる。
「CECS全員の抹殺を考えているものでしたね」
「今度発表された3人はどうするつもりなのかしら……3人も増えたら大変だわ。それに7人一気にまとまって攻めかかったら無敵よ?」
「あぁ……それは無理です。銀一さんは既に亡くなられましたし、秋野は使い物になりません。葵さんも入院中、島原は……あれは……使えませんね。それから尚都は俺と仲が悪いですし、結局俺と幸原先生だけが動けるだけです」
「………ゴメンなさい、銀ちゃん死んだの忘れてたわ」
彼女は岩杉の言葉にハッとしたように呟いた。
「別に、謝られる事ではありませんよ?――とにかく、俺と先生とで何とかしなきゃいけないって事は確かでしょう」
「…………2人で、ね」
夕紀夜は複雑な表情を浮かべた。

――無理だとは言わない。

だが、なかなか難儀な問題だ。脅迫状の差出人は、Still関係者である事しか判っていないのだ。
「幸原先生は」彼女がこちらを向いた。「Stillについては俺よりも詳しいでしょう?」
岩杉の質問――と言うよりは確認に、彼女はすぐには答えなかった。
 岩杉は煙草の火を消して、携帯灰皿に吸殻を突っ込んだ。
 数秒経ってから、彼女は小さく頷いた。
「――……貴方よりはね。だけど、そこまで詳しくはないわ、私はただ、生きてるだけだったから」
「あぁいう連中には関わらずに、ですか」
「えぇ。だから私が知っているのは、東京本部には7人の幹部が居たって事だけね」
「7人、ですか……」
その中に、既に死んだ人間が数えられているのかどうかは定かではない。
 と思うと、夕紀夜はこちらの思考を読んでいるかのように補足した。
「ボスも皆入れてるわよ。誰が死んで誰が生きてるとかは、私知らないから」
「って事は……結構減ってますね。ボスは秋野が殺しましたし、雪子さんが誰かを正当防衛で殺してしまいました。それから後二人が銀一さんに」
「殺したのが全員夢見月なのは解せないトコだけど、なるほどね。4人減ってるって事は、残ってるのはあと3人ね」
あと3人の内訳を、岩杉が思い出そうとした時だった。
「こんなところでそんな怖い話するものじゃないですよ、先生方」
適度に低いアルトの、聞き覚えのある声だった。
 二人が声の主に顔を向ける。
 首の後ろで束ねた淡い金色の髪、鋭く尖った瞳の色は碧、その上堀の深い顔立ち。そして既に岩杉をも凌ぐであろう高身長。一目で純粋な日本人ではない事が判る。
 阿久津秀、この近所に住む元Still幹部の高校生だ。
「……貴方は」
夕紀夜の表情が蒼褪めた。
「心配なさらないで下さい。僕は別に、あなた方を殺しに来た訳じゃありませんから。ただちょっと通りかかったらそんな話をしてらっしゃるから、忠告しようと思っただけです」
「阿久津、お前はあの予告状には関わってないのか?」
「ご存知でしょう?僕はあの世界からはちゃんと足を洗いましたよ。今は家事と受験勉強に精一杯なんですから、勘弁してください」
 秀は二人の目の前に立った。
確かに、この春から彼はもう受験生という身だ。その上あの仕事を続けるというのであれば、それは相当の自信家か、諦めている人間でしかないだろう。
「3人の内訳、結構単純ですよ。僕と霧島神李と、時本という古株だけです」
「なかなか難儀なメンバーだな、それは」
「但し、時本さんにここまでする理由は無いでしょう。彼は元々管理職のような仕事をしていましたし、実戦からはずっと離れてました。すると残るはあの――……」
秀は向かって左、霧島神李の自宅がある方に顔を向けた。
「なるほど。しかしどうして……こんな情報をくれるんだ?」
「僕はもう関係ないからです。元々『大事な仲間』だった訳じゃない彼を、僕がそこまで庇護する義理はありません」
冷たく、厳しい口調だった。
「それじゃその人が犯人なのね?間違いないのね?」
夕紀夜が明るい声で訊いた。秀は即答した。
「まぁ、多分。大阪支部や福岡支部の人たちがわざわざ来るとも思えませんからね」
「あの予告状の事はまだ全国ネットには乗っていないから――……とりあえず事無きは得られそうだな」
「事無き?何言ってるんですか……銀一さんは亡くなられたんでしょう?」
秀が慌てたように言う。
「あれはただの自殺じゃありません、きっと何か唆して、自殺するように仕向けたはずです!ただじゃすみません、あれは……あの人はそれだけの事もする人です」
「このまま黙ってる訳には行かないって事か……動けない人間が沢山居すぎる」
「だから早く手を打たないといけないんです。彼を早く止めないと、彼女が――……そう、彼女の為にも」
秀の表情が僅かに暗くなる。
「失礼します。そろそろ行かないといけませんから――」
「あぁ、気を付けてな――」
言ってから、妙な発言だったと自分を責めた。
 気を付けなければいけないのはこちらの方だ。

 秀の後姿を眺めながら、岩杉はため息を吐いた。

   *

 羽田杜市蒼杜本町、私立蒼杜高等学校。
夢見月などを受け入れてくれるのは、単に彼らの心が広いからではない事を冬雪は知っていた。

――彼らは憧れているのだ。

『夢見月』という、大きくて恐ろしい存在に。
だからそのイメージとは大きく異なる冬雪に対し、偏見の目を向けるのだ。
 担任はなるべく大人しくするように、と言った。それだけ信用していないという事だ。同じ条件下で全て受け入れてくれた岩杉とは、信用度に天と地ほどの差がある。
 同級生は意外と大人しい、と言った。それだけのイメージを作り上げていたという事だ。

 その中で唯一、冬雪に対して何の偏見も向けない者が居た。

「大変だな、あんな連中に囲まれて……質問攻めって、集団心理のヤなトコだよね」
生沢聖馬は、昨年の春からこのクラスに入ってきたらしい。要するに彼らクラスメートにとっては新参者の1人という訳だ。
 どこか結城大亮を思い起こさせる、外側に跳ねた髪は胡桃の地毛と似た紫黒色。二重瞼と大きめの目、顔立ちは割と『可愛らしい』方だろう。身長は高かった。
「気にしない方が良い。あいつら、何にも考えてないんだから」
「……どういう意味?」
「どうにかして仲良くなって、夢見月の内部の事とか知ろうとしてるんじゃない?知ってどうするつもりなんだろう、ただ単に自慢するだけだ」
聖馬は怒ったように言った。
「そういう僕も、仲間が欲しくて君に近寄ったってだけかもね。嫌なら排除してくれて構わない」
「んにゃ、仲間が欲しいって意識は人間の本能だから仕方ないよ。あ……オレの事は冬雪って呼んでくれて構わないよ――……あぁ、嫌なら何とでも呼んで?そういうのには拘らないから」
『嫌なら何とでも呼んで』。名乗る時には必ず添えて言う事にしている。随分前からそう言っていたら、先日岩杉に笑われた。

――大亮と同じ台詞だ、と。

 生前の彼も全く同じ台詞を様々な場所で使っていたらしい。恐らく彼から自然と聞いていたのを覚えていたのだろう。細かいところで彼の影響を感じられる。
「じゃあそうさせてもらうよ。あ、僕も呼び捨てで良いよ……あんまり名前で呼んでもらう事って無いけど」
聖馬の表情は明るくなかった。
 この調子で一年近くやってきたのだろうか。冬雪ならとても耐えられないだろう。しかし彼はそうして生きてきたのだ。

――偉い。

 冬雪はため息をついてから一転、聖馬の表情の裏を掻いてみようと遊び始めた。

   2

「じゃあ、行きますよ」
「不法侵入はしたくないんだけどね」
「……仕方ありません」
門を開け、玄関扉を静かに開ける。二人が中に入って、また静かに閉めた。どうやら、気付かれずに済んだようだ。家の中に変化は無かった。
 この日この時刻、彼の妹・詩杏の不在は確実だ。彼女は学校に行っている。間違いなく、家の中には彼しか居ない。
 廊下を進み、音を立てないように階段を上った。彼の部屋は以前から把握済みだ。2階に上り、彼のいるであろう部屋の前に立つ。
『行きますよ』
息だけで合図を発し、防衛用のナイフを構えて深呼吸した。
 そして、部屋の扉を一気に、開ける。

「――……辿り着かれるのがお早いですね」
中にいた人間は、それだけ言ってため息を吐いた。
「観念しろ。あの予告状を送ったのはあんたなんだろう?」
「犯人と判ったらその口調ですか。へぇ、酷いお方だ」
「一応知り合いで元生徒の保護者だが、それとこれとは関係ない」
霧島神李は鼻で笑ってから両手を上げた。
「で、証拠は見つかったんですか?」
「そのパソコンの中にある、ってトコか?銀一氏に暗号の手紙を送ったのはあんただろう」
「へぇ、もうそこまで掴んでらっしゃるんですね」
認めつつ、諦めない。ここで油断したら殺されるような、そんな気さえした。
「それでどうするおつもりですか?ここで警察を呼んだら、捕まるのは貴方たちですよ」
「警察は呼ばない。ここであんたに諦めてもらえればそれでいい」
「……呼ばへんのですか?そりゃまた何で?」
ケラケラと笑う神李。全く緊迫感は無かった。
「それぐらい判れ。で、どうする?」
「バレてしもた以上、このまま計画を進める訳には行きませんね」
「それじゃあ」
岩杉は神李を避け、何かが表示されているパソコンの画面を見た。
 それはまさに、あと6人の殺害計画書だった。
「まだ完成していないようだな……」
右上の×ボタンを押した。保存するか否かを尋ねられる。『いいえ』を押して、しまいにその計画書自体を削除した。
「先生、それだけで上手く消し去ったおつもりですか?」
「無茶を言うな。俺はパソコンにゃ詳しくない」
「俺の頭ン中、まだ残ってますよ?まぁ全部って訳には行きませんけどね……」
「その時は警察を呼ぶ。あんたの妹がどうなっても構わないんならな」
「……!!」
忘れていたのだろうか、彼は――……心底悔しそうな顔をして、その場に座り込んだ。
「ははっ、先生、よく考えてらっしゃる……完敗ですわ。まだ見つかるとも思ってなかったんですよ」
「それは計算違いだったな……それじゃ、妹さんが帰ってくる前に、俺は帰るよ」
「二度と来られませんよーに」
「あぁ、来ないさ」
最後に捨て台詞を残して、岩杉と夕紀夜はその部屋を去った。夕紀夜は終始一言も喋らなかったが、時々神李に鋭い目を向けて牽制していたらしい。

 再び、緑谷公園のベンチに座った。
「――……これでとりあえず一件落着なのかしら?」
「とりあえずは、ですね」
岩杉はポケットから煙草を一本取り出しかけて、夕紀夜の方を窺った。
「……まずいですか?」
「いえ、別に構わないわ」
それから数十秒、どことなく気まずい空気がそこに流れた。
 最初に口を開いたのは夕紀夜の方だった。
「……後は……冬雪の事かな」
その口調は酷く重かった。岩杉は返答をするかしないか迷って、結局頷くだけにとどめた。
「葵君が、冬雪を、殺そうとしたのよね」
夕紀夜は一言ずつゆっくりと発音した。
「……えぇ」
岩杉は小さな声で応答する。
「――……何が間違っちゃったのかしらね」
夕紀夜は立ち上がり背伸びをして、振り返った。それからパッと笑顔になって、いつもの優しい声で言う。
「それじゃあ私、学校寄って帰るわね。もう5時だし……貴方もそろそろ帰ったら?」
「――……そうします。それじゃ幸原先生、お元気で」
「貴方もね。じゃ」
いつも最後だけ、彼女は笑顔だった。

どんな時でも。

何があっても。

彼女は最後だけは、笑顔で事を終わらせた。

それが彼女というモノだと思っていた。

ずっと。

岩杉が幼い頃から。

何も知らなかった、あの頃から。

――彼女の姿が見えなくなってから、岩杉はベンチから立ち上がった。

「さてと……大家さんに挨拶でも行こうかな」

再びこの町へ戻ってきた事を報せに。

やはり自分にはこの町が、この空気が合っている。岩杉にはそう思えて仕方なかった。

 だから、戻ってきた。
 春から勤務予定の高校は羽田杜、隣町だから通勤もきつくはない。

 岩杉はかつて冬雪が住んでいた家の横を通り過ぎ、さっき突入した霧島家も通り過ぎ、銀杏並木の終わる曲がり角まで歩いた。左に曲がれば、そこには以前岩杉が暮らしていたアパートがある。そしてその正面には、藍田胡桃の実家があった。
 町は全く、変わっていない。
 岩杉はアパート1階の管理人室の扉をノックした。中からは以前と同じ、初老の女性が笑顔で現れた。

   *

 秋野冬雪は生沢聖馬を藍田胡桃に紹介した。胡桃はいつも通りの作り笑顔で挨拶を交わした後、用事があると言って帰っていった。その場に残された2人は、食堂でのんびりと昼食を取ってから帰る事にした。
「不思議な人だな」
聖馬は胡桃についてそう言った。
「そう?」
冬雪は定番の焼きそばパンを食べながら呑気に聞き返す。
 と、聖馬の表情は何故か一変した。
「――……裏に何か抱えてそうじゃない?何て言うのかな……その辺に居そうな感じではあるけど、でも『その辺』じゃ片付けられない何かを持ってる感じがする」
「……そうかな」
胡桃よりはよほど、冬雪の方が『その辺じゃ片付けられない何か』を持っているような気がするが。
「まぁ、それは飽くまでも僕の私見だけどさ。僕なんかより、幼なじみの冬雪の方が彼の事は知ってるはずだろ?」
聖馬は柔らかく笑った。それが何か意味を含んでいるのかいないのかは、冬雪には判らなかった。
「――……聖馬こそ、何かありそうな感じだよ。いちいちそんな分析をする辺りがね」
冬雪が試しに尋ねてみると、案の定聖馬は意外そうな顔をして、寂しそうに笑った。
「やっぱり判るんだね――……さすがは名探偵君」
「名探偵?オレが?」
冬雪がきょとんとして訊き返すと、聖馬の方が驚いたような顔になった。一体何処からそんな話が出てきたのだ。
「え、うん……そう聞いてるよ。僕の従兄から」
「従兄、って……誰?オレの知ってる人?」
「知らない訳がない、記憶喪失にでもなってない限りはね」
聖馬は意味深な笑みを浮かべ、パンの袋を手に立ち上がった。冬雪も便乗して席を立ち、彼の後を追った。
「――どういう意味だよ?そんなにオレと関わってる人なのか?」
「従兄って言われて、同じぐらいの歳だって思わなければ判るよ。もう30過ぎてるんだから」
その口調は何処か投げやりだ。冬雪がすぐに判らなかった事に、腹を立てているのだろうか。
 聖馬はゴミ箱の中に袋を捨て、呟くように言った。
「彼はやたらと君の事を庇おうとするね。どうしてだろう、犯罪者には変わりないのに」
冷たくて硬くて厳しい、声。
 先程までとは比べ物にならないくらいの、冷酷な彼の表情に、冬雪は一瞬息を呑んだ。
「――聖馬はやっぱりオレを許しはしてくれないんだね?」
「犯罪は許さないよ。いくらそれが、状況のさせた事だとしても」
冬雪が表情を窺おうとすると顔を逸らし、向こうの方へと歩いていってしまう。後ろからその姿を眺めた。
 釈然としない。何かが違う。
「不必要な正義感は時に、命を落とすきっかけになるよ」
追うのを止め、冬雪が後ろから声を掛けると、彼は足を止めた。そしてゆっくりと、振り返る。
「――……どういう意味だ?」
「そのまんまだよ。オレだって、やりたくて人殺す訳じゃない。それが必然で、そうじゃなきゃ自分が死ぬしかない。正義感にさいなまれて、相手を殺す事を選ばなかったとしたら、後は死ぬしかない。
 自分が死んだとすれば、その後更に殺される人間が増え続ける事になる。もしかしたら、自分と親しい人間もこれから殺されてしまうかも知れない。そういう危険な相手と対峙した時に、自分から『殺してくれ』なんて言うヤツは……ただの馬鹿でしかないだろ」
「何故警察を呼ばなかったんだ?」
「判るだろう?警察を呼んだところでこのオレだ。信用なんてしてくれないし、むしろ呼んだりしたら後が大変な事になりかねない。ルール違反だ、ってね」
聖馬がこちらへ歩いてくる。
「そんなものにルールなんて無いだろう?困った時は警察を頼るしかないんだよ」
「それが一般人の考え方だって言ってるんだよ。いざとなったら警察なんて頼れない。頼れるのは自分だけ。警察呼んでる暇があったら、何とかして逃げてるよ」
冬雪はため息をついた。聖馬からの応答はなかった。有難い事に、適度に混んだ食堂内で冬雪たちのことを気に掛ける人間は居ないようだった。
「聖馬、君の従兄は何者だ?」
「――従兄も君と同じだ。同じ状況にあるから、君を庇うのかな」
「……同じ?」
問い返すと、聖馬がこちらを睨んできた。
「まだ判らないのか?――岩杉諒也、君の元担任だった男だよ。彼は僕の母親の兄の息子だ」
「先生か……」
「……呆れるね。まだ『先生』なんて呼んでるのか?もう担任でもない上に、彼は教師である事を辞めたんだよ?それでも君は『先生』って呼ぶのか?」
呆れられた。嫌な気分だった。
 では何と呼べばいい?
「――聖馬は教師なら誰でも『先生』って呼べるのか?」
「それは飽くまで社交辞令としてだけど」
「オレは彼以外の人間を『先生』なんて呼んだ事はないよ、小学校の頃からずっとね。呼びかけるときは『ねぇ』とか『あの』でごまかしてきた。――尊敬に値しないから」
「そりゃまた酷い言われようだね、その人たち」
「オレは夢見月だってだけで虐げられて生きてきた。君には判らないかも知れない、だけど――……奴らに好かれてなんかいないんだよ。オレが何の問題を起こしたって?何もしてねェってのに。そんなイメージ無いかも知れないけどさ、オレ……こう見えて結構大人しいんだよ?今こうして君と話してるのだって、ホントは結構辛いんだからさ。
 大人は何も判ってない。誰も、何も判っちゃいないんだ。だからオレは――……信じない。誰も信じない。先生以外の大人は、誰も」
聖馬は冬雪の目を睨んだまま、何も言わなかった。
 冬雪はいい加減疲れてきて聖馬から目を逸らし、ため息をついた。
「――……オレ、帰るね。また来週」
冬雪は聖馬に声を掛けて、すぐに食堂を後にした。
 すぐにでも泣きたい気分だった。ここが校内でなければ、周囲に人が居ない、全く恥ずかしくない状況だったなら。
 確実に泣いていただろう。
(ダメじゃん、オレ)
 それでも最後まで『ぼく』が戻ってこなかったのはせめてもの救いだ。

 冬雪は鞄を肩に掛け直し、校門を足早に通り抜けた。

   3

 久海葵彦は博識だった。息子である葵が恐ろしく思うほど、彼は頭が良く、そして素晴らしい人間だった。

 ベストセラー作家という肩書きを持つ彼だったが、葵が見る限りでは彼の本質はそこにはない。彼にはもっと大きな能力と、大きなバックグラウンドが存在しているのである。それを全て察するのには、恐らく20年でも事足りないだろう。19年間一緒に暮らしてきた葵でさえ、彼がいったい裏で何をしているのかという事は判らなかった。彼の小説の本質を見抜ける人間など、この世に存在しないような気さえした。下世話な評論家たちなどに、彼の小説を語って欲しくはなかった。

 葵彦がそう言われるのと同じく、彼の父親もかつてそう謳われていた。その博識さから様々な功績を残し、久海家を関東随一の資産家にまで発展させた張本人である。そして葵彦の弟である白亜は、日本中を騒がせた『アイドル』だった。
 そんな人間たちに囲まれ、葵は育った。天才ばかりの家の中、周囲の者たちは幼い頃の葵にもそのような能力を求めていた。父や祖父の偉大さを知っているからこそ、葵はその要望を無視してきた。今はもう、葵に期待を掛ける人間など存在しない。存在しなかった。
 葵が小説家としてデビューしたのは20歳の時。両親を亡くした年の秋だ。はっきり言って親族への当てつけと自らを試す為だった。これで何処までやっていけるのか。自分が出来る限りまでやっていこう、そのつもりだった。親族たちはこぞって葵を褒め称えたが、気分は良くなかった。結局彼らは表だけしか見ていない。中身を全く見ようとしないのだ。呆れ返って、親族のご機嫌取りは止めた。
 そしてまた、親族たちの興味は別に向いた。

――秋野冬雪は10年前に亡くなった、葵彦の弟である白亜の息子だ。

 彼に似た端正な顔立ち、小柄だがしっかりとした体躯。優れた頭脳。そして何より、彼に期待を掛けていたのは他ならぬ久海家の面々であった。彼は久海家にとっての期待の星だった。
 彼の母親と白亜は結婚前だった。だが白亜は自らの遺言書で彼を認知していたらしい。その事が久海の者に拍車を掛けた。冬雪を何とかして久海家に引き込み、『無能な』葵に代わる後継ぎにさせようとした。

 しかし、現実はそう甘くなかった。彼の母親がそれを頑なに拒んだのだ。否、それ以前の問題だった。彼の母親は世間的に犯罪者と近い次元に存在している。名を夢見月と言い、秋野というのは本名ではなかった。その事を知った親族たちは、すぐに彼から手を引いた。資産がいくらあろうとも、評判の徹底的に悪い夢見月の血を引いた人間を家に入れる訳には行かなかったのだ。

――葵にはそれが許せなかった。

 能力を見込んでアプローチしていたものを、家柄でコロリと態度を翻す、その神経が許せなかった。その話をしていたのは葵がまだ高校の頃で、冬雪はまだ小学校に上がったばかりの身だった。その時点で彼は小学校高学年の問題を解く事が出来たらしいが、そんな事とはまた別に彼は幼かった。故にそんな論争があった事など知らない。
 彼は――……幸せだっただろう。
 彼には弟が生まれ、兄としての重圧に負ける事もなく平和に過ごしていたらしい。そんな彼に、大人の事情をぶつける事など無謀だ。子供には子供の意思がある。それを裏切るのは大人のエゴでしかない。
 そんな哲学的なことを語る趣味もない葵だったが、冬雪に対してだけは特別だった。親切にしてくれた叔父の一人息子である。血の繋がりで言えば弟でもあるのだ。ひょんな出会い方ではあったが、ただの従兄弟としての付き合いではない、親密な関係が築けたような気がする。していた。

――何かが間違ってしまっただろうか。その後彼の母親が『亡くなって』、葵と妹とが後見人として彼の家へ移ってから数年。彼によってCE効果を進められたらしい葵に突きつけられたのは、法的な制限の及ぶCECSという立場だった。
 数年前に規定されたCE法によれば、基本的にCE自体が禁止行為。意識せずに行われているものはまた別だが、意図的に行った者は罰せられる事になっている。
 夢見月家はCECSと認められる者が居た場合、速やかに実名を発表する事を義務付けられている。未成年の場合は、実名での発表はされない。
 CECSと認定された者は必ずカウンセリングのようなモノを受けなければならない。
 そして何らかの罪を犯し逮捕された場合には、何の情状酌量も認めず無期懲役か死刑のみが待っている。CECSの事、今後また同じ罪を犯す危険があるからだ。

――馬鹿馬鹿しい。そんな事を決めて何になる。

 実際そうなってみて嫌な気分になった。見る人全てが憎くなった。何故暢気にしていられるのか、何故平気で笑っていられるのかと。
 そう思うと冬雪ですらも憎く見えてきた。だから殺そうとした。恐らくあの場に岩杉が居なかったとしても葵は彼を殺す事は出来なかっただろう。

――母に『殺された』父。父に殺された弟。そして兄に殺される自分?

 可哀相に。家族が家族に殺されていく様を、彼は眺めながら生きてきた。どれだけ不幸な身分なのだ。
 それでも彼は笑い続けている。何があっても気付いた頃には笑っている。人はそれを薄情と言うかも知れない。立ち直りが早いと言うかも知れない。だがそれは違う事を葵は知っている。

 彼は無理をして笑っている。人に自分の不幸な姿を見せたくない、哀れみを受けたくない一心で、彼は必死に笑っているのだ。
 葵にはそれが出来ない。自分を維持しながら笑い続ける事など出来ない。だから『自分』を消し去った。消し去ったから、両親が死んだ現場でも泣かなかった。ただ梨羽を慰める事に一生懸命になって、泣きたいと思っている『自分』を消した。そして笑った。笑うようになった。誰もそれが葵でないとは気付かなかった。気付かれない事に、だんだん疲れてきた。壊れてきた。壊れた。
 もう何が何だか判らない。どうしたら直るのか、もう判らない。

 ため息3回くらいでは抑えきれない。誰かが救ってくれるだろうか。少しばかり、希望を託してみようか。

――……来訪者が居る事を知らせるノックが、室内に響いた。

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