形と探偵の何か
Page.39「New Year's Eve」




   1+F.Akino + R.Iwasugi

「それで全部か?」
葵が尋ねてくる。
「うん、とりあえず大丈夫……もし忘れ物あったら送って」
冬雪は旅行用のトランクに自分の荷物を詰め、ふたを閉めた。
「しゃーねェな、ったく」
めんどくさそうにそう言って、葵は部屋から出て行った。

――もう、ここに来る事もないだろう。

 冬雪はトランクを持ち、何もなくなった部屋のドアに手を掛けた。
「……じゃーな」
廊下に出て、扉を閉める。隣の部屋を覗き見たが、当然ながら変化は無い。
「…………じゃーな、鈴夜」
冬雪は3階から2階に下りる階段に向かった。

『行ってらっしゃい』

以前は毎朝掛かっていた言葉も、もう二度と聞くことはない。
 彼が死んでからもう2年以上経っているが、忘れる事など出来るはずもなかった。もしかしたら白亜や夕紀夜のように、どこか冬雪の知らないところで生きているのではないかと、今まで何度も思ってきた。

――でも、そんな事はありえない。

 彼が死んでいるのを確認したのは冬雪自身だ。病院でもそう言われたし、夕紀夜の時のように病院側に嘘を言わせる事の出来る者は鈴夜には居ない。それに、殺したのは白亜――……疑うまでもない事実だ。

 冬雪は階段を下り、一気に1階事務所まで向かった。事務所には葵と梨羽だけではなく、詩杏も居た。
「詩杏」
「えっと……見送りぐらい、したいなーって思て」
詩杏は少し寂しそうに、でも笑いながら言った。冬雪は照れながら答えた。
「……さんきゅ」
「ううん、大した事やないよ」
その笑顔はいつも通りの明るいものだった。
 冬雪はマフラーを改めて巻き直し、靴を履いた。そしてトランクを手に、玄関を開ける。外から冷たい空気が入ってきた。冬雪はそれに構わず外に出る。
「……それじゃ、また」
「おぅ。遊び行ってやっからよ」
「私も行きますから」
久海兄妹は笑いながらそう言った。詩杏は靴を履き、2人に礼をしてから外に出た。
「それじゃあね」
冬雪は最後の台詞をそこに残し、玄関の扉を閉めた。
 門を出て、解け残った雪の歩道を進んだ。詩杏が後に続いてくる。
「お前はどこまで来てくれんだよ?」
「駅まで行ったら帰るよ。でもいいな、みんな羽田杜やねんもん……あたしだけやで、ここ残ってるん」
「仕方ねェだろ……胡桃は家出だけど」
「くるちゃんは帰ってきそうにないやんか、先生かて」
「……いずれ帰ってくるよ」
帰って来る訳が無い事を、冬雪は重々理解していた。

――彼が家出した原因は、単なる親への反抗などでない。

彼が冬雪や岩杉と関わった事を今更になって親に咎められ、実家に嫌気が差したからだと、本人は笑いながら話していた。笑っていられるだけまだ幸せだ。
「あ!ふゆちゃんっ、すごい、綺麗やで」
詩杏が話題を変えようとしたらしく、雪の積もっている銀杏の木を指差して言った。
「……あぁ」
「もうっ、素っ気ないなー……最後の日ぐらい楽しもうよ?」
「別に会えなくなる訳じゃねェだろ?会おうと思えばいつだって会えるんだぜ」
冬雪はそう答えながら、住民によって歩道の端に集められていた雪の塊を蹴った。塊は崩れ、その破片が散らばった。気にせず冬雪は進んだ。
「せやけどー……でも、会える機会は少ないやんか、あたしいちいち電車乗ってなんて行かれへんよ?」
「……電車乗れとは言ってねェよ……ケフッ、風邪かな」
「あー、ダメだよー、こんな時期に風邪なんて引いたら!ちゃんと温かくして寝なあかんよっ」
「……寝てるってば。気にして貰わなくても平気だよ、オレは」
「そう言う人ほど寝てへんねんから。気ィ付けな」
詩杏は笑い、冬雪の肩を突き飛ばした。
「なっ、何すんだよ!」
「隙だらけ。そんなんやったらすぐ誰かに殺されてまうよ?」
「よ、余計なお世話だっ」
冬雪が反抗的な態度に出ようとしたその時。

――ぎゅ。

手が、握られている。誰に?
「は?」
「は?やないよ……っ。あたし、ずっとふゆちゃんのこと好きやったからね」
答えられるはずが無かった。ただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。

――ただ少し、情けなかった。

「……ありがとう」
「ううん。いつもと変わんない付き合いがしたいんやで。それじゃねふゆちゃん、元気で。あたしちゃんと、遊び行くからね」
「――……あぁ。じゃあな、詩杏」
そして、別れた。

 駅では岩杉が待っていてくれた。本人曰く、仕事が無いから暇で仕方ないんだそうだ。だったら、金の無駄遣いは止めた方がいい。
「感慨みたいなモノは無いのか?」
電車の中で、岩杉が言った。
「……今はまだ判んない。でももしかしたら、あるかも知れない」
「今日は俺の部屋でカウントダウンだったな?」
胡桃と話していた計画だ。胡桃のほうから連絡が行っているはずだった。どうやらちゃんと伝わっていたらしい。
「うん、ヨロシクね」
「ったく……俺に年越しソバ作らせるのが目的なんだろ」
「ま、それもある。先生の御飯美味しいらしいから」
「一人暮らし歴8年をなめるんじゃないぞ」
これも先日、クリスマスの後に胡桃から報告を受けた事だ。
 電車はすぐに次の駅に到着した。冬雪と岩杉はそこで電車から降りた。
「電話するね」
「あぁ」
冬雪は鞄から携帯電話を出して、新居となる予定の家の電話番号を押した。そこには既に雪子と雪架がいるはずだ。

――トゥルルルルル、トゥルルルルル……。

『はい、夢見月です』
様々な名字の人間が混在している所為だろう、電話の応対の場合は『夢見月』に決まったようだ。
「やっほー、雪子。おはよ、今起きたトコ?」
『……何冗談言ってるのよ……あたしはちゃんと8時に起きて、』
「遅っ!いくら今日仕事無いからって!!」
『ふゆちゃんこそいつも遅いじゃない。お互い様よ。で?今何処なの?』
「うん、今羽田南駅。今日は先生ンち泊まるから、明日の朝……そーだな、10時くらいには行けると思う」
『じゃあ先生にご馳走になるのねー……判った。それじゃあね』
「うん。それじゃまた」

――ぴ。

「ふー……」
「お前、明日の朝まで俺に作らせる気だったのか」
「泊まるんだから1泊2食付き、ダメ?」
「……ったく……」
それでも断ってこないのは承諾という意味らしい。
 駅の階段を下り、改札を抜け、南口に出る。大通りをまっすぐに進み、2回目の交差点で右に曲がる。風景は一気に閑静な住宅街へと変わる。
「胡桃はどうしてんだろ」
「さぁな」
岩杉が知っているはずもないか。冬雪は再び携帯電話を取り出した。彼の携帯に電話を掛ける。1回のコールで彼は出た。
『はい』
「やっほー、くる。How are you?」
『……冬雪か。俺は元気だぜ』
「それは何より。I'm fine too, かな。今何処?」
『今?家だけどそれがどうした?』
「ううん、今先生と一緒なんだ。これから先生ンち乗り込もうと思ってるところだけど、一緒にどうかと思って」
『!!』
胡桃は一呼吸置いてから、冬雪の耳を壊しかねない勢いで叫んだ。
『当っ然だろっ!?俺が行かない訳があるか!!今から行くぜ、先生ンちの前で待ってる』
「オッケー…………胡桃、叫ばなくっても聞こえるよ」
『……』

――ピッ。

向こうから切られた。
「ちぇ。人の鼓膜破る気か、あいつは」
冬雪は携帯電話に向かって怒り、鞄に仕舞った。
「さぁ――……これでまた、平穏が戻るといいんだけどな」
ため息と共に、岩杉はしみじみと呟いた。

   2+Sannomiya Family

 紅葉通、雑貨屋『日本人形』。大晦日だろうと何だろうと、年中開店休業状態のこの店には今日も客は居なかった。その代わり、店主三宮流人は義妹である三宮未佳子に付き合わされていた。
「……だからミカコ、一体何の用事で来たんだってさっきから訊いて――……」
「暇なのよ。年末1人で過ごすことほどつまらないことは無いでしょ?」
「ミカコにはハルコもジュンも居るじゃないか」
「親には関わって欲しくないのー。だったらルーのところで、って思ってここ来たんだよ?それなのに大好きなお兄ちゃんに追い返されちゃったら、あたしどうすればいいの!?」
「…………奇妙な演技はしないでくれ、ミカコ」
流人は自分のお茶を全て飲み干し、新しく急須にお湯を注いだ。ミカコが期待の眼差しでこちらを見ている。
「これは私のお茶だ、ミカコにはやらない」
「酷いわお兄ちゃん!!あたしを飢え死にさせようって言うのね!?」
ミカコは両手で顔を覆い、泣き真似をした。
「……いい加減にしてくれ、ミカコ……私のところに泊まるのは一向に構わないが」
「構わないの?構わないのね?やった、さすがはルー!人がいいわねっ」
訳が判らなかった。
 流人はため息を吐き、急須を軽く揺らした。そして、話題を換えた。
「ミカコ、ハルたちの調子はどうなんだい?」
「…………判らないよ。帰ってないもん」
ミカコの表情は一気に暗くなった。
 三宮晴子は以前流人の姉で、ハルと呼んで慕っていた人間である。当時流人は晴羅と名乗っていたのだが、夫の潤二は両親の「晴子は一人娘で嫁にはやれない」という言葉を鵜呑みにし、晴羅の存在に気付く事も無く婿養子に入った。後から知って色々言っていたが、晴羅自身の説明で納得した。尤も、晴羅が誰かと結婚したところで家を継ぐことなどまず出来ないのだから、居ても居なくても関係のない存在なのだ。その後晴羅は一時期籍を抜いて、数年後に再び晴子の息子として、『三宮流人』としての戸籍を手に入れた。
 それから晴子と潤二の間に生まれたのがミカコである。
 流人は急須から2つの湯のみに茶を注ぎ、1つをミカコに差し出した。
「ありがと、ルー。――……母さんならいつも通り静かにしてるんじゃない」
「ミカコが問いただしたりなんかするからだよ。CEに関しては導入家庭じゃ禁句と言ってもいい。岩杉さんだって、つい最近まで知らなかったんだから――その話題が避けられてたって証拠だよ?」
自分がCE享受者である事を母親である晴子に訊きに行き、晴子を狂わせた。
「でもあの子……ほら、夢見月の」
「秋野君?」
「そう!その子はずっと前から知ってたんでしょ?」
「彼に関しては、ね。彼の弟は何も知らなかったそうだよ」
「弟……」
ミカコは急に目を伏せた。
「ミカコ?」
「……ゴメン、ルー。急に押し掛けたりして」
そう呟いた彼女の手は、震えていた。
 流人が彼女に声を掛けようとした、その時だった。

「――やっぱりここに居たんだな」

店の扉を全開にして入ってきた男は、流人を無視してミカコに向かってその台詞を吐き捨てた。

――……ガシャン!!

流人が湯のみを取り落とし、陶器の割れる音が店中に響いた。
ミカコが慌てて顔を上げ、後ろを振り向いた。

――赤く染められた髪は手入れをしていないらしくボサボサだ。茶色のコートのポケットに両手を突っ込んでいる。年齢的にはまだ学生だ。高校生にはまず見えないから、大学生だろう。

男は慌てふためく2人の様子などそっちのけで、ずかずかとミカコの傍に歩み寄ると、素早く彼女の胸倉を掴み上げた。
「いい加減にしろよ、姉貴。あんたのお陰でこっちゃ大変なんだよ……聞いてんのか?」
「…………ナオト……!」
流人が思わず名を言うと、彼は怒りの矛先を流人に変えたらしく、カウンター越しにまくし立てた。
「兄貴、あんたもだよな?あんたも姉貴のやった事に共謀して、」
「私はハルたちを謀った訳じゃない、ミカコに事実を言っただけだ。ミカコがハルたちに真実を聞いただけで、何も悪い事はしていないはずだ、ナオト……帰ってくれないか」
流人はなるべく強い口調で彼を牽制したが、ナオトは全く怯む事も無く言い返した。
「あぁそうですかって帰る訳には行かねェんだよ。そーだ、どっちかに責任取ってもらわなきゃな。金払えよ、金。持ってんだろ?ほら、幼稚園の先生?店長さん?」
ナオトはまるでこの状況を楽しんでいるかのように、2人に向かって問い掛けた。2人は何も言わなかった。
「答えろっつってんだろ!?オイ」
「ナオト!!」
「……!!」

――流人が彼に突き付けたのは、かねてからカウンター内に置かれていた防犯用の木刀だった。

上手く扱えるという訳ではない。だが、ナオトを牽制するだけの力はあった。
「何をして欲しいんだ、ナオト。言葉で説明しなさい」
「……お袋たちに謝って欲しい」
「だったら最初からそう言ってくれれば良かったじゃないか……私をこれ以上疲れさせないでくれ」
「兄貴に言ってるんじゃない!姉貴に……姉貴に言ってるんだ」
「あたしは謝るつもりなんて無い、だってホントのことなんでしょ?ホントのことを訊いて何が悪いって言うの?奇妙しいのはあんたの方だよ!!」
今度はミカコが感情的に叫んだ。ナオトは一瞬怯んだが、すぐに表情は険しくなった。流人が慌てて声を掛ける。
「ミカコ」
「……結局俺はのけ者か。ふん、昔からそうだったよな。兄貴と姉貴はいつもつるんでて……ま、俺は新参者だからしょうがねェか。俺は帰るぜ、親愛なるにーさん、ねーさん」
「ナオト!」
ナオトはさっさと退場モードに入り、振り向きもせずに手を振って店から出て行った。
「何を、しに来たんだ……」
「ルー、早くそれ仕舞ったら?驚かれるよ」
「え?あ、あぁ……」
木刀をカウンターの下に片付け、流人は改めて床に散らばった湯のみの欠片を集めた。
「……ナオトは相変わらずなんだな」
「だからって言うのもあるんだよ。あたしが家に帰りたくないの」
「ただの被害妄想なんだよ……自分ばっかり子供扱いされて嫌だったんだろう。しかし……金払って欲しいなら明日来ればお年玉あげたのにな」
1日待つのと待たないのとでは大違いである。
「……ホント、ただのバカよね。ちゃんと考えてから来ないんだから。でもあいつ、どうやってここの住所調べたんだろう」
「実家にメモしてあるだろう……一応私も息子の1人だ」
流人が言うと、ミカコはにっこりと笑った。
「そうよね。ルーはあたしのお兄ちゃんだもん」
「…………その年になってまで『お兄ちゃん』は止して欲しい」
「あら、ダメ?じゃあお兄様?それともお兄ちゃま?」
「ど……どれもダメだ!!ルーでいい、ルーで!」
ミカコの冗談をどうしても冗談として済ませられず、流人はつい感情的になって叫んでいた。それを見て、ミカコは楽しそうにくすくす笑っていた。どうやら、先程の不調はすっかり取り戻せたらしい。
「さてと……じゃあミカコは今日はここに泊まるんだね?」
「ヨロシクね、ルー。あ、部屋が狭いのは覚悟してるから気にしないでいいよ」
「余計なお世話だ!!」
店と研究室にこの家の半分を費やしている事ぐらい、ミカコだって知っている。決して家が狭い訳ではないのだ。ただ単に、いつものミカコの冗談が炸裂しただけである。
「しかし……いいのかな、これで」
そう呟いてから何の事を言っているのか自分でも判らず、流人は「発言撤回」と奥の部屋へと戻った。
 店ではミカコが鼻歌を歌っているのが聞こえた。

――相変わらず、三宮家の人間は暢気である。

   *

 三宮尚人は後継ぎが居ないのではと危惧したハルが、20年ほど前に養子に入れた人間である。流人との年齢差は15歳になる。性格は激しく、流人と未佳子には昔からしょっちゅう突っかかって来ていた。その所為だろうか、未佳子は彼のことを弟と認めてすらいなかった。だからだろう、彼女は以前ここで冬雪たちに「他に兄弟は居ない」と公言してしまっている。
 流人とは他人――それどころか異種――という意識が強いからだろう、尚人はあまり関わってこない。だからその怒りの矛先はいつも未佳子に向いているのだ。
 彼は自分が養子であることを知らない。その上やけに親を庇護する。
(……ナオトの息子になるのはきついな)
しかし時が経てばならなければならないのではと思えて仕方ない。
 いざとなったら未佳子につこうかとも思った。彼女が最近思いを寄せているのは岩杉だ。当人は全く気付いていないようだが、流人と2人きりになると彼女はよく彼への思いを語っている。聞かされすぎて疲れてきたくらいだ。

 しかし、どうしてもこの事を口に出す気になれない。結局、流人の独断と偏見で全て決まってしまうのだ。もしこの話を未佳子や岩杉にしたとなれば、岩杉は無理にでも婿に入るなどと言い出すだろう。
 流人は一番上の立場ではない。寧ろ、一番下でなければならない。
 人や時代の流れに乗って、周りに流されながら生きていきたいのだ。自分は他の人間たちとは違う。だから、この名を名乗っているのに。
 それを、壊す訳には行かない。自分は意見を表す術を持たない。持ってはならない。

――いつもと変わらない生活でさえも、酷く疲れて感じた。

   3

 秋野冬雪からの連絡を受けてから10分後、藍田胡桃はようやく岩杉諒也の自宅アパート前に到着した。だが、彼らはまだ来ていない。無論、当然でもあるが。
「……遅ェ」
自分がせっかちなのも重々承知済みだ。1秒でも遅れたら遅刻である。だが、冬雪は「時刻ぴったりが原則!」という謎のルールに則っているので割と怒らずに済むし、岩杉に至っては「待ち合わせは15分前に来ないと気が済まない」らしく、しかも信じられないくらいの早起きだ。胡桃が唯一完敗したと認められる人物である。
「くる!」
冬雪の明るい声が聞こえた。黒のコートを着た彼が走ってきて、胡桃がタイミングよく挙げた右手と自身の右手を握り合わせた。二人が少し回転して止まり、向き直ったところで岩杉が軽く敬礼をして「よ」と挨拶をしてきた。
「おはよ、先生。白髪増えた?」
「ふ……増えてない!!断じて増えてない!」
「そんなムキになんなくても増えてないってば。冗談だよ、冗談」
どうやらもうそんな事を気にする年齢になって来たらしい。時が経つのは早いものだ。
「で、先生?もう部屋あがっていい?」
「あぁ……今鍵開けるから待ってろ」
そう言って岩杉が先頭に立ち、アパートの階段を上った。階段から一番遠い奥の部屋が彼の部屋だ。彼はコートのポケットから鍵を出し、素早く開錠してドアを開けた。
「――どうぞ」
「お邪魔しまーっす」
胡桃と冬雪が異口同音に言って、中に転がり込んだ。
「暖かーい!先生、暖房付けっぱなしとかそういう系だったり?」
冬雪が叫んだ。
「すぐ帰って来る予定だったからな」
ゆっくり靴を脱ぎながら岩杉が答える。
「電気代勿体な。仕事無いんだったらそれぐらい節約したら?」
胡桃が尋ねると、意外にも家主は素直に答えた。
「そうするよ。――さて、今日の夕食は何にするかな」
岩杉はコートを部屋のハンガーに掛けると、すぐにキッチンに向かった。

2人はそれからしばらく彼の様子を眺めながら、雑談に花を咲かせていた。

   *

 冬雪は胡桃と他愛も無い雑談をしながらも、自分が周囲の『普通』とは異なる者である事を再認識していた。こうして普通に友人と話をしていられるのも、一体いつまでなのだろう。
 考えてはいけない事のような気がしたが、考えずにはいられない自分がいた。
「あ」
突然、岩杉が声を漏らした。
「何?」
それにいちいち2人が反応して声を掛ける。
「……いや、砂糖買ってなかったなぁ、と」
岩杉は呑気に答えた。
「…………そんな事かよ。反応して損した」
胡桃が何故か項垂れた。何もそこまでへこむ事はないだろう。
「別に金は掛かってないから損はしてないじゃん?」
冬雪はどうでもいいツッコミをして、逆に胡桃に突っ込まれた。
「そういう事言ってるんじゃねェよ、それぐらい判れっての」
「だってさー」
「だってじゃねェっ!!」
明るかった。この空気が、明るかった。
 どうしてこの場にずっと居られないのか、それだけが不思議だった。自分はここの家の子供ではない。ただの友人、いや岩杉に関しては生徒に過ぎない。それがここで、3人で大晦日を過ごせる――幸せだ。
 これから自分は、夢見月家の分家と言うべき場所に住まなければならない。それが嫌だとは言わない。ただ、まだそれを受け入れることに抵抗があるだけだ。

 冬雪が自分の名前をやっと覚えた頃、母親は全てを教えてくれた。難しい言葉だらけで、その頃の冬雪には何も判らなかった。でもそれから何年も何年も、彼女は冬雪に対してだけは真実を教えてくれた。冬雪が夢見月家の一員として、そのように育てられたからなのだろう。
 鈴夜はそうならないように、彼女が気を遣ったのだ。だから彼は、冬雪が教えるまで自分の本名すらも知らなかった。可哀想だったと言うべきか、幸せだったと言うべきか。それは本人に聞いてみないと判らない。しかし本人はもう、この世には居ない。

――急に、辛くなった。

 もう何年も前に死んだのに、何故今頃になって悲しくなってくるのだろう。自分で自分をコントロールできない。本来ならこの場は盛り上がって楽しくなるべきなのに、急にテンションが下がってしまった。どうしてこんな事を、考え始めてしまったんだろう。

 冬雪は今考えていた事を吹き飛ばし、盛り上げ役に徹する事にした。
「よっし!!先生、いつ出来る?」
「……6時には出来るだろ」
「判った、それじゃ胡桃、ジャンケン百番勝負だ!」
「ひゃ、百番!?」
その膨大な数に呆気に取られている胡桃のことなど気にせず、冬雪は第1戦を始めた。

   *

 百番勝負で六十勝を修め、岩杉の作ってくれた食事に感激し何故か神に感謝を捧げた後、冬雪はのんびりとTVを見ていた。これからカウントダウン、それと同時に年越しソバが食べられる。盛り上がりどころだ。
 3人分のソバを持ってきた岩杉に、冬雪は言った。
「先生、大盤振る舞いだねー」
「……お前らが押し掛けて来たんだろうが。カウントダウンくらい家でやれ」
「先生だって1人じゃ寂しいだろ?だから、敢えて押し掛けてきてあげたのに」
「…………迷惑だとは言わないが、余計に一手間掛かってるのは事実」
そう言いつつ、岩杉は箸を持ってソバを食べ始めた。冬雪と胡桃も揃って合掌してから食べ始めた。
「さっすが、湯で加減最高。上手いんだね」
「だから一人暮らし歴8年をなめるなってさっき言っただろ」
「じゃあオレも一人暮らしするようになったら上手くなるかな?」
「…………それは判らんな」
否定されてしまったも同然だ。
 冬雪は何となくムッとして言い返した。
「悪かったなっ」
「別に悪いとは言ってない。だろ?藍田」
「うん……こいつの料理ベタは事実だし」
「言ったな、胡桃っ」
冬雪が襲い掛かろうとすると、岩杉から声が掛かった。
「……食事中にケンカするな、食事中に」
「…………。はーい」
気分は高揚している。明日のことなんて考えなければ、幸せだった。ずっとこうしていられるなら、どんなに気分が楽になっただろう。
 冬雪が今までに出会った『夢見月家の悪人達』は、想像していたほど悪い人間ではなかった。そう、思い込んでしまっていただけなのかも知れない。世間で飛び交う噂のように、自分が殺した人数を自慢し合って笑い合うとか、そんな恐ろしい集団ではなかった。
 見ているだけなら、ちょっと裕福な『普通』の家族にしか過ぎないはずだ。
 それが違うと言うのなら、何故自分にはその差が判らないのだろう。差が判るから、CECSと認められているのでは無かったのだろうか?

 現実に彼らが事件を起こした場面を見た事はない。ただ、冬雪の祖父の世代が起こした大事件で被った評判が、今の時代まで引き継がれているというだけだ。その評判を少しばかり利用して、香子たちが放火事件などを起こしていた事はあったが、それも香子や架に限っての事だ。桃香や雪子、夕紀夜、それから銀一――……彼女らは決して、自らの欲の為だけに犯罪をするという事は決してしなかった。
 そういえば、結城大亮は件の二人の息子だったか――……風貌や性格からは全くそんな感じはしないが、確かにどこか香子に似ていたのかも知れない。今から思うから、そう感じるだけなのだろうか。

 冬雪はTV画面のカウントダウンの表示が既に1分を切っている事に気付いた。ソバはまだ残っている。この状態だと食べながら新年を迎える事になるか――……まぁ、食べ終わっていようがいまいが関係のない話だが。
「そういえば藍田、お前は正月に遊び飛ばす友達とか居ないのか?」
岩杉が突拍子も無い質問をする。しかして胡桃は不思議そうな顔一つせずに、正確に答えた。
「居ないではない。でも奴らとカウントダウンするほど俺は舞い上がってねェよ」
「ならいい。暴走族にでも足突っ込んでるんじゃないかと思ってな」
「疑うなよな、先生。俺はこれでも真面目な元生徒会長だぞ」
胡桃は不満そうに言うが、そのキャリアから殺し屋集団のボスになっていった男を冬雪は知っている。
「だから言ってるんじゃないか」
岩杉の言う事は正論である。
「ただのワルとはまた違う。少なくとも、俺と秋野に関わってる人間としてそういう行為はまずいって事に気づけな」
「………………それ、脅してる?」
「脅迫と言うよりは命令だな……っと、もう10秒」
TV画面には赤い、大きな数字が現れ、カウントダウンがされる。

 そして、表示はゼロを示した。

 一気にTVの中がにぎやかになる。冬雪が二人に視線を送ると、彼らは互いに顔を見合わせた。
「あけましておめでとう」
「今年も宜しくな」
一瞬しんみりムードに変わったが、次の瞬間にぶち壊された。
「さて、ソバのお代わり貰うかな」
胡桃が立ち上がった。
「お前っ、まだ食う気か!!」
「ダメ?」
「ウチの食費とお前の腹を考えろ、藍田」
「…………判ったよ。考慮してやる」
金が絡むとどうしてもこうなるのが筋だ。
「ゴチソウサマ、美味しかったよ。またいつかも宜しくね」
冬雪も立ち上がりながら、岩杉に期待を投げ掛けた。
「……いつになるかも判らない食事を予約するな」
「だからさ、ここでいい人は『いつでも待ってるよ』って言ってくれるんだよ?だからダメなんだよ先生ってば」
「待ってられる訳があるか……」
それが当たり前だ。当たり前だから、冗談にする。
 冬雪は笑いながら丼を片付けて、先程座っていた席にすぐ戻った。

 そういえば、桃香が発表していないだけで、実はCECSと認められている人間が3人いるらしい。雪子から聞いた。年齢や性別も全く不明だ。当のCECSである冬雪も岩杉も知らないのは理不尽――……だが、桃香を追い詰めたところで『いずれは発表するから』で済ませられるだろう。

 姿も顔も見えない、『仲間』に想いを馳せた。

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