形と探偵の何か
Page.37「Real Home」




   Prologue

誰も知り得なかった過去の出来事を

一体誰が調べ上げて

一体誰が確かめて

一体誰がそれを真実とするのだろう?


――もし その全てがデタラメだとしたら?


人の営みは どこから始まって どこで終わるのか

誰にも 確かめる事など出来ないだろう?

それでも人は 僅かな推測に頼るしかない

そこに解決を求め 安心する為に


全て 同じ答えが待っている事など 誰も知らない。


   1

羽田杜市内の某アパートにて。この部屋の住人である岩杉はだるそうに煙草を吸いながら、訴えかける冬雪の言葉に反論した。
「……だからって俺の部屋にいきなり来るのは」
「しょうがないじゃん。時間との勝負なんだからさ」
「判ったよ。調べればいいんだろ、調べれば……秋野、お前も手伝えよ」
岩杉は煙草の火を消して立ち上がると、ハンガーに掛けてあった灰色のスーツを手に取った。冬雪も立ち上がる。
「どうやって手伝えばいい?」
「付いて来るだけで構わない。出来るなら中学の制服に着替えてもらえると怪しまれない」
「判った、探してみる」
「なるべく早くな。緑中の正門前に4時集合」
「オッケー、任しといて」
冬雪は笑顔でそう言うと、軽やかなステップで部屋を飛び出していった。冬雪相手ならば、時間を指定しておけばまず遅れる事はない。彼は時間に本当に正確なのだ。早く来る事もないが、遅れる事もない。彼はそういう人種なのである。
 岩杉はスーツの上に薄めのコートを羽織り、髪もセットせずに部屋の外へ出た。鍵を掛け、アパートの階段を下りる。

――そこからはもう、冬雪の姿は見えなかった。

   *

 緑谷中正門前。岩杉と冬雪は立ち止まって気合を入れ直していた。
「……強行突入だな」
「うん、何か指示はある?」
「いや、とりあえず大丈夫だ。行くぞ」
敷地内に入る。校庭内を歩き、正面に見える校舎に向かって歩いた。
「先生、そういえば」
「何だ?」
「母さん、あの手紙のことは絶対ダイスケに言うなって言ってた。大丈夫かな」
「……判らないな。言ってみない事には」
岩杉はそれ以上何も答えず、校舎の左端にある職員玄関の下駄箱の上に靴を置き、上履きとして使っていた別の靴を取り出して履き替えた。冬雪も同様にして校舎内に上がった。
 職員室へはすぐに到着した。岩杉は扉の前に立ち、深呼吸をした。先日の潜入以来、ここへ来るのは初めてだ。それに今回はただ事では済まない危険性も孕んでいる。さすがの岩杉でも緊張していた。

――ガラッ。

 開きにくいと評判の扉を一発で開け、岩杉は職員室内に入った。「失礼します」と声を掛ける。誰からも反応はなかった。席の配置は先日調べた通りだから変わっていないはずだ。後から冬雪がついてきているのを確認しながら、岩杉は結城大亮の姿を探した。

 部屋の入り口から一直線に歩いて一番奥。岩杉が最後に使っていた机だ。結城大亮はそこでテストの採点をしているところだった。
「大亮、久し振りだな。はかどってるか?」
「……!!何で……っ」
「静かにしててもらえるか?バレるとまずいんだ。いいな?」
「…………諒、どうして」
「話があるんだ。ここじゃまずいだろう?」
岩杉が問うと、大亮は一瞬黙って周りを見回し、答えた。
「いや、大丈夫だよ。どういう話か知らないけど……そこに秋野君、居るんだろう?」
「あぁ」
「……幸原先生も呼んでくるのか?」
「その必要は無い。この件には彼女が居ない方がいい。居るとむしろ厄介だ。だろう?秋野」
後ろを振り返ると、そこには冬雪の姿は無かった。
「秋野?」
一瞬心配したが、すぐに彼の姿は見つかった。若い教師に羽交い絞めにされた彼は、すぐそこで喚いていた。
「放してよ、辻元先生ってば!!」
「あははっ、放してやるか!よ、岩さんどうした?遊びにでも来たのか?」
「…………辻元さん…………そいつを放してやってくれ……」
辻元純。社会科の教師だ。若いように見えるが、実際は岩杉より2つ年上である。
「何だよ岩さん、深刻な顔しちゃって。何か重大なこと?」
「重大な事だから深刻な顔してんだよっ、辻元先生ってば判ってないなっ」
解放された冬雪が吠えた。辻元は苦笑し、「そうだな」と答えた。
「で、どんな重大なこと?」
「……この学校にも関わることなんだ。俺には言えない。だからこれから大亮に……話をする」
「結城ちゃんにか。ふぅん……君の友人関係?」
「違うって。じゃあなるべく静かにしててもらえますか?」
岩杉は辻元から冬雪を奪い取り、再び大亮の所へと戻った。
「……待たせたな」
「いや、楽しい会話を聞かせてもらったよ。で?本題は何?」
「――幸原先生と、こんな手紙をやり取りしてただろう」
鞄から、以前手に入れていた便箋を彼に見せた。

――大亮の顔色が変わった。

見る見るうちに蒼褪めていき、見開いた目で岩杉の事を睨みつけた。
「……諒、盗んだのはお前だったのか?」
「いや……」
「先生!」
冬雪も血相を変えて叫んだ。当たり前だ。ここで正直に胡桃だと答えていたら、後で胡桃が危険な目に遭いかねない。だったら自分だと言っておいた方がまだ安全である。少なくとも、自分は胡桃よりも強い立場にあるのだから。
「……俺だ」
「何故盗んだりした?何故……何故そんな事をしたんだ?」
「お前の裏を……確かめたかったからだよ」
「何故僕の裏を確かめなきゃいけないんだ?諒也」
次第に大亮の口調は厳しくなってきた。多分、相当怒っているのだろう。
「――どうしてお前が失踪したのか、知りたかったから」
それはあくまでも個人的な理由だったが、それも原因の一つではあった。
「……そんな事は重要じゃないんだろう?諒。もっと――……僕を陥れるためにやったんだろう?」
「そんな事じゃない!俺は何も……お前を裏切るつもりなんかはない」
「じゃあどうしてこんな風に侵入してきたりしたんだ?個人的に話せばいいことじゃないか!」
大亮は立ち上がり、まくし立てた。
 岩杉はもう一度深呼吸をし、会話を組み立てる。この場に於いて、不用意な発言は禁物だ。もし間違えて変な事でも口にしたら、本当に『とんでもない事』になりかねない。
「――……ここで話がしたかったんだ。幸原先生との関係ももう判った。後はお前が、これを認めてくれればいい」
「……あぁそれは認める、認めるさ!!でもな諒、それは知っちゃいけない事なんだよ、判るか?……いいか、諒。僕は彼女に……彼女に全てを託してるんだ。母親に捨てられて、僕はバカみたいな似非両親に育てられた。『お前は悪いやつだ』って、いつまでもいつまでも言われ続けて……だから家出した。そんなモン、中学の頃なんだよ。判るか?」

――中学の頃。

それは要するに、失踪したのは家出ではないという事。それが重大なことなのか否かは、岩杉には判らなかった。
「……オレが生まれる前だ」
冬雪が呟いた。
「秋野君、やっと判ったか?僕はずっと君の家に住んでたんだよ。失踪事件が起こって――半年後に、僕が実家に帰るまでね。だから君の弟が生まれるまでは、僕と君と君のお母さんの三人暮らしだったんだよ」
「……言われても、ピンとなんて来ないけど」
「まぁいいさ。僕はこれまでの人生がどれだけ無駄な事だったか……それをずっと考えてたんだ。諒!君なんかに判る訳が無いよな?お前は金持ちの家に生まれて、充分幸せに生きてきたじゃないか!大体」
「大亮!いい加減に……いい加減にしろ!」
岩杉が牽制しようとしても、大亮は暴れて手を振り解き、語り続けようとした。

――ガラガラッ、ガシャン。

「冬雪!」
「げ」
職員室に入ってきたのは、まさしく話題沸騰の幸原美桜もとい、秋野夕紀夜本人だった。
 彼女は冬雪に駆け寄り、肩を揺さぶってまくし立てた。
「話すなって言ったでしょ!?どうしてこんな事になっちゃったのよ!結城君、怒りたくなるのは判るわ、だから止めなさい、ここを……ここを戦場にしないで……お願い」
彼女は必死になりながら、小さな声で何かを呟き続けていた。何と言っているのかは聞き取れなかった。
「……バレたのは事実だからね。僕はもうここには居られないさ。僕みたいな人間に……生きてる価値なんて無いんだからな」
「結城君!!」
「大亮……!」
夕紀夜と岩杉が叫んだ後で、ゆっくりと冬雪が岩杉の前に歩み出た。
                     ・・
「ダイスケ…………お願いだからさ……止めて、それ」

既に、『とんでもない事』は始まっていた。

   *

「……止めてやるものか」

彼はもう、常軌を逸していた。
 冬雪が再び後ろに逃げ、叫んだ。
「ヤバい!先生、母さん、逃げよう!」
「え?」

でももう、遅かったのだろう。

「みんな一緒に死ぬんだ……みんな巻き込んでやる」

白衣のポケットに突っ込んだ彼の右腕の辺りに、火花が見えた。

――彼が燃えている。

服を伝い火はすぐに彼の頭部まで及んだ。彼は喚きながら走り回り、室内の何ヶ所かに更に点火していった。

「先生、早く!」

冬雪の声が聞こえる。だが、足が動かなかった。何故だろう、逃げなければならないのに――逃げられなかった。
「先生っ!!」
語気を強める彼の声が耳に届く。それ以上に、大亮の叫び声の方が大きかった。このままだと――彼だけではない、全てが燃えてしまうではないか!
「先に……逃げててくれ……俺は後からちゃんと行く」
「…………判った、ちゃんと来てよ……約束だからね」
「あぁ。俺は約束は必ず守るぞ」
岩杉は冬雪にそう言い残して、職員室内の水道からコップに水を取り、何とかして消火しようとした。だが大亮は動き回るし、次から次へと物が燃えていく。中にいた教員たちは既に全員逃げ、もう室内には大亮と岩杉しか残っていなかった。
「大亮!!聞こえてるのか!?いい加減にしろ、このままだと俺どころじゃない……生徒まで巻き添えになるぞ!」
「五月蝿い、裏切り者!」
彼の最期の言葉になった。最悪だった。
 岩杉は必死になりながら消火を試みたが、上手く行くはずもなかった。大亮はもう動く気配すら見せない。恐らくもう――……助からないだろう。

(スプリンクラーはどうした!?)

天井に設置されていたはずだ。だが、動きそうにない。煙感知器でさえ働こうとはしていなかった。よくあるサイレンのベルも、鳴っていなかった。

(故障なのか……?それともこいつが)
何か細工を施したのだろうか。最初から、こういうことをするつもりで。
 色々な物が燃えて嫌な臭いがする。いい加減、出口をふさがれる前に逃げなければならない――と思った矢先だった。

――ドォン!!

どこかに飛び火でもしたのだろうか――……爆発が、起こった。
岩杉の身体はその爆風で、床に叩きつけられた。

   *

 秋野冬雪は校庭でその経緯を見守っていた。
「……さっさと出て来いよー……」
死ぬはずがないとは思いながらも、不安はずっと消えなかった。

 そして、爆発が起こった。

「先生……っ!!」
冬雪は条件反射的に校舎へと走り寄った。が、襟首を夕紀夜に掴まれて停止する。
「ぐがっ」
「ダメよ、行っちゃダメ!もう……もう結城君は助からないわ、でも……岩杉君はちゃんと帰ってくるから、だから心配しなくても大丈夫よ」
「でもっ」
冬雪が反抗しようとすると、夕紀夜は子供を諭すような口調で――その通りだが――言った。
 ・・
「私が大丈夫だって言ってるのよ」

 夕紀夜の言う事は絶対だ。間違いなどない。それは冬雪が一番よく知っている。その彼女の言う事を信じるのは――……決して損ではない。だが、信じきることが出来なかった。

――原因は単なる不安だろうか。

 冬雪は内部が激しく燃えている事が認識できるほどになった職員室の影を見つめ続けた。


――ドォン!!


再び、爆発が起こった。

「……最悪ね」
夕紀夜がため息混じりに言った。
「母さん!?」
「ここまで燃えて……今後どうやってくつもりなのかしら」
「何暢気な事言ってんだよっ、中に先生が居るんだぜ!?おい!」
「判ってるわよ。だから岩杉君は大丈夫だって言ったじゃない」
「どこにそんな根拠があるんだよ!」
冬雪がまくし立てる。夕紀夜はまたため息をついて、答えた。
「――……彼がCECSだからよ。いい、この状況が『いざという時』だと言えない訳が無いでしょう?無傷とは言えないまでも、軽傷で帰ってくるでしょうね」
「重傷負うかも知れないじゃんか」
「あら、貴方こそどうしてそこまで言い切れるの?――彼貴方に言ったでしょう?必ず後で行くって」
「でも」
夕紀夜は冬雪の目を見つめてくる。鋭い眼光だ。

「――彼の言う事ぐらい、信じられるんでしょう?」

それは、答えだった。



「ケホッ」

火事に背を向けていた冬雪の背後から、何者かが咳込む音を聞いた。冬雪は思わず振り返った。

――そこには勿論、彼が立っていた。

「先生……」
「遅くなったな。心配かけてスミマセン、幸原先生」
「私は最初から心配なんてしてないわよ?貴方なら絶対大丈夫だって信じてたんだから」
「――それはどうも」
岩杉は水を被って出てきたのか濡れた服の水滴を落としながら、校庭を歩いた。
「先生」
冬雪が後ろから声を掛けると、彼は笑顔で振り返った。
「――……大丈夫、だった?」
「あぁ、大丈夫だ。1回袖に火が点いて、何とかしようとして色々やってたら髪に引火してな、慌てて水被ったんだ」
岩杉は苦笑しながらそう言った。凡人にとっては恐ろしい話も、彼にしてみれば笑い話らしい。急な用事で整髪料をつけていなかったのはせめてもの救いだったかも知れない。
「……結構必死じゃん」
「結果オーライだよ。世の中そんなものさ。――帰るぞ、秋野」
こんな事件があったにも関わらず、彼は平然と校庭の中を歩き始めた。冬雪は慌てて彼を追い、未だに燃え続ける校舎を背に、家路についた。

 そのまま帰っていいものとも、思えなかったのだが。

   2

 数日後。岩杉と冬雪、胡桃、詩杏は日本人形に揃っていた。恐らく、久し振りの事だろう。
「やっぱりにぎやかだね、4人も居ると」
流人が感慨深そうに言った。岩杉はため息をついてから、答える。
「にぎやか過ぎて疲れるよ。ていうか4人の中に俺も入れるな」
「諒也君も充分にぎやかだから入れとくよ。――あれ、前髪切った?」
「こないだの火事で焦げたからな、さすがに」
「……そう。ピアスと顔、バレるよ?」
確かに前髪を横に下ろして、ピアスを出来るだけ隠していたのも事実だし、半端ではない童顔を見られたくなかったのも事実だが。
「来年までには伸びるさ」
「だからって……」
流人は心配しているらしいが、どっちにしろ見つかって困るのは学校内に限る。どうでもいい話だ。
「……それで、どうなるんだい?秋野君の今後は」
「さぁ、今後は羽田杜に移って――……あっちの高校に通うんだろ。俺は詳しいことは聞いてないが……いずれ聞かされるだろうな。それよりはメディア関係のほうが忙しそうだ」
「結城君が亡くなった事件は重大事件なのかい?」
微妙な線だ。彼が香子の息子である事を知っていたのは一部の人間だけだが、その『一部の人間』からその情報が漏れていないとも限らない。もしそれが多くのメディアに広まっていたとしたら、それは重大事件として扱われるだろう。
「……まだ判らないな。……人がどんどん死んでいく」
「お葬式の日取りは?」
「今度の木曜だ。多分取材関係者も来るだろうし、俺らにも当たってくるだろうな」
少なくとも、冬雪よりは岩杉のほうが全国的に名前も顔も知られている。まだ『岩杉氏』扱いだからいいものの、容疑者などにでもなったら堪らない。
「――なんだかんだ言って、秋野は幸せ者だな」
「そんなものかな。今となると――ね」
流人はそう言って笑い、岩杉に煎餅を一枚差し出した。
「ありがとう」
「いーえ。こんなものしか無かったからさ」
「これで充分だよ」
岩杉は煎餅をかじりながら、楽しそうに話す高校生3人を見た。どう見ても、普通の高校生にしか見えないのだ。当たり前の事だが、それは正しい認識とは言えない――……辛かった。
「そうだ、諒也君……こないだ兎堂君から聞いたんだけどね?夢見月家広報担当からの非公式な発表で、また何か予告状が来てるらしいんだ」
「……差出人は?」
「Still関係である事は確からしいけど、でもそれ以上の情報はない。今度の狙いは――……生きてるCECS4人の抹殺だ」
「!?な……それじゃ」
思わず冬雪の方を見る。最近は命の危機に晒される事も無く、平穏な生活を送ってきた彼に、再び危険が迫っているのだろうか?
 しかし今回の場合――状況は違う。

「諒也君、大丈夫だ。彼らに君達は殺せないよ」
「いや……人数が多ければそれは別だ」
「今回の場合、集団での予告では無さそうだよ。個人的な怨恨だろうね」
「だったら」
だったら、殺す事など不可能に近い。
 2年前、彼が犯罪戦争に巻き込まれていた頃、彼は何度となく危険な目に遭っていた。しかし彼は今、生き延びている。
 その理由を、幸原はこう説明した。

『CECSはCECS以外には殺せない。それだけ運と能力に恵まれた人間なの。知ってるでしょ?砂乃ちゃんを殺したのは――……私なのよ?だから、私たちが仲間割れでもしない限りは、老衰と突発的な事故と病気以外に死因は無いわ』

「……実質、自殺も有り得るけどな。それはさすがに無いかな」
岩杉の呟きを、流人は正確に聞き取って返答した。
「さぁ、判らないよ?君は無くても、銀一さんや秋野君は真面目だからね――……状況を悲観して、自殺なんて事も有り得るかも知れない」
「そんな事考える方が危険なんだよ。で、その予告状の本文は?」
流人は茶をすすりながら、答えた。
「うん……『クライミナル・エデュケーション・コンプリート・スタイル――略称CECS。その4名の生存により、被害を受けた多くの者の訴えを代弁し、彼らの命を絶たせて頂く』ってさ」
「……古風なんだか現代風なんだかよく判らない文章だな」
「そうだね。でも――……君達が生きてて、誰が被害を受けるんだい?」
「それは――……」
思い当たる事は無い。少なくとも、岩杉に前科は無い――つもりだ。
 もう一度振り返ると、今度は詩杏と目が合った。ところが彼女は慌てて岩杉から目を背けた。
「……?」
いつもならそんな事はない。彼女に何か思い悩む事があるのだろうか。岩杉に対して引け目を感じているのだろうか――よく判らなかった。
 再び岩杉が向き直ると、今度は彼女の方から声を掛けてきた。
「先生」
「ん?」
彼女の表情はやはり冴えなかった。彼女はカウンターの前に立ったまま何も言わず、数分が過ぎていった。
「どうかしたのか?」
「あの――……気ィ付けてて、下さいね」
「え?」
「せやから、あの、殺されたりせんように」
「あぁ……聞いてたのか?」
「え、あ、えっと……はい。それじゃ」
詩杏は再び、男子2人の輪の中に戻った。
「……?」
何をあんなに、恐れていたのだろう。危険なのは岩杉だけではないと言うのに。
 しかし、全国で緑谷中ほど知られた学校は無いだろう。秋野夕紀夜の息子が通い、CECSと判明した教師が辞め、夢見月香子の息子が焼身自殺し、おまけに秋野夕紀夜本人が素性を隠して勤めていたのである。校名が明かされたのはつい最近だが、それまでの経緯を考えれば全て繋がってしまうはずだ。
「なぁ、流人」
「何だい?」
「犯人はどうやって――……銀一さんを殺すつもりなんだ?彼は今牢獄の中、そう簡単に一般市民が入っていい場所じゃない」
「さぁ、その辺はボクには判らないよ。犯人のやる事は……想像もつかないからね」
流人は苦笑して、奥の部屋へと入っていった。

 実際に――犯人が攻めて来たとしたら。どうやって応戦すべきだろうか?今岩杉が持ちうる武器は何も無い。素手で応戦するより無いのだ。

(それで上手く行けばいいんだがな……)

岩杉は煎餅の最後のひとかけらを口に入れて、噛み砕いた。

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