形と探偵の何か
Page.36「Memories」




   1

 花蜂市立緑谷中学校。藍田胡桃は2年振りにそこを訪れていた。
(…………さてと。オシゴト、だな)
胡桃はニヤリと笑うと、静かに校舎内に侵入した。
 岩杉は余りにも素早く「仕事」を済ませてしまった。故に、胡桃の順番はすぐに回ってきてしまったのだ。
(………………慎重に行かねェとな)
職員室。ゲタ箱を抜けて1階の廊下を進めばすぐに見つかる場所だ。

――もう、目の前には扉が見えている。

 胡桃はその扉を開ける前に、近くの水道の傍にある鏡で自分の姿を確認する。
(これなら……平気だよな?怪しまれねェよな?)

――鏡に映るのは、黒髪で金縁の眼鏡を掛けている、緑中の制服姿の少年。

充分気をつけて行かないと、これはまずい事になりかねない「仕事」。胡桃は深呼吸をして、職員室の扉に手を掛けた。

――がらがらっ。

スムーズに開かない扉を必死にこじ開けて、すぐ傍にいた日直の教師に声を掛ける。
「あの、結城先生いらっしゃいますかー?」
胡桃は必死に真面目な中学生を演じた。どうやら新任らしいその教師は部屋を見回す。
「いや……今はいらっしゃらないみたいだけど、何か用かな?」
「あ、じゃあ……判りました、ありがとうございます。それじゃ、メモ置いてってもいいっすか?」
「あぁ……どうぞ」
「失礼しまーす」
いちいち言葉の端々を伸ばしてしまう。これでは――……バレるか?いや、この新任教師は胡桃のことを知らない、イコールバレるはずがない。
 しかし胡桃が卒業する以前に既にここにいた教師なら、バレないという保障は無い。何せ胡桃は元生徒会長――顔が知れているのだ。

 胡桃は傍に貼ってあった職員室の座席表を確認し、結城が現在使っているらしい机に向かった。そこは、以前岩杉が座ってよく仕事をしていた場所――……同じ席だ。席など毎年変わってしまうのだからこれはただの偶然だが、酷い偶然だ。
(…………さて)
 胡桃はほとんど散らかっていないその机から、一枚のメモを探し出した。それはすぐに見つかり、胡桃の手中に収まる。
(やったぜふゆ、先生。これで――……判るな)
 胡桃はそのメモをポケットに突っ込む。これで用事は済んだ、もうここにいる理由はない。
 日直に軽く礼を言い、急いで職員室を飛び出した。足早にゲタ箱へ戻り、走って校内から逃げ出す。
(…………奪還成功……!!)
 本当に殺されていたかも知れない、重大な任務である。胡桃は周囲に気付かれない内にそこから走り出し、すぐ傍の秋野家に駆け込んだ。
「おい、冬雪!居るか!?」
 玄関の扉を開けて、中に声を掛ける。2階から下りてくる足音がして、階段からひょっこりとヤツが顔を出した。
「お帰り胡桃、成功だね?」
「オッケーオッケー、この俺に掛かればこんなもんよ」
「……まだ中学生で通じるその顔が怖いね」
「何言ってやがる。お前のがホントは良かったんだぜ」
童顔だったら冬雪のほうが負けていない。
「そっちこそ何言ってるんだか、茶髪の中学生が行ったら目付けられるだけだろ?」
「何より秋野は有名人だからな」
「せ、先生!」
階段から顔を出したのは、やはり童顔では負けていない岩杉だった。彼は顔だけ見れば10代に間違えられる。その所為でしょっちゅう学生扱いされて、街中ではあまり煙草が吸えないとぼやいていた。
「何で先生が居るんだよ?」
「何でって……胡桃がその『仕事』やってくれる大事な日は今日なんだから……先生も来てくれたんだよ?でもさ……くる、制服姿がやけに似合って可愛いよ」
 冬雪が必死に笑いを堪えている。そんなに奇妙しかったか。いや、それは普段の胡桃を知っているからこその笑いだ。普通に見れば何ら奇妙しくはない。と、信じたい。
「かっ……可愛いとか言うんじゃねェ!!と、とにかく……これだよ、ダイスケの机からパクって来たぜ。綺麗に片付いてて見やすかった」
「さんきゅ、胡桃。これで一仕事片付いたね……」
「な、それ何が書いてあるんだ?俺、目立っちゃやばいと思って何も見てねェんだけど……」
「うん、それなんだけどね」
冬雪がにっこりと笑い、その折り畳んであるメモ用紙を広げた。すると、それはメモ用紙ではなく、B5版のレポート用紙だった。紙には細かく――文字が綴られている。これはメモというより、手紙だ。
 瞬間的に、冬雪の表情が曇った。
「……先生、読んで。オレやだこういうの」
先天性日本語嫌いは全く治らないらしい。そのクセ国語の成績が常に満点なのは、本当に気に食わなかった。
「…………あのなぁ」
そう言いながら受け取っている岩杉も岩杉である。
 岩杉はざっと流し読みをした。表情は暗くなった。だが、彼は素直に声に出して読み始めた。
「『15年前のことに関して――。僕が諒也と若葉屋砂乃を唆したのは事実。それに関してあなたに心配をしていただく理由はどこにも無い。諒也は僕の元から離れ、若葉屋砂乃は既に生き絶えた者だ。2人がこの件に関われるとも思えない。確かに計画は実行され、彼らは僕の考えた軌道にきちんと乗ってくれた。
 その際の事になる。銀一氏は自らの利益のために彼女の殺害をあなたに依頼したようだが、僕にはとてもそう思えない。まるで、あなたがあなた自身のために彼女を殺したかのように思えるのだが、それは僕の気のせいだろうか。少なくとも、あなたが答えてくださるのであれば、是非お答え願いたいところだ。
 当時の僕はさすがに悩んでいただろう。仮にも『親友』とした人間に、こちら側の軌道に乗せる為に嘘をつかなければならない事に関しては。だから僕はあの日、逃げ出してしまった――現実から。現実逃避という物だろうか。

 全て、あなたの計画通りに進んでいるようです。僕からの重大な報告は現在のところ、特にありません。あなたからの連絡をお待ちしています。――――春崎大架』……以上だ」
「……誰ソレ?」
岩杉が読み終わった瞬間、胡桃は正直に尋ねていた。2人の視線が痛い。
「……ねぇ、先生、それさー……奇妙しいんじゃない?文章が現在進行形でさ……『あなた』の相手は、」
「秋野夕紀夜、以外に誰が居る?」
「だよね?」

――勝手に話が進んでいってしまっている。

「お、おい!ワケ判んねェよ、説明してくれ!!」
胡桃の必死な訴えに、2人が静かに説明を始めてくれた。どうやら怒られる事もなさそうだ。
「くる。ダイスケが香子の子供なのは、流人から聞いてるよね?」
「あ、あぁ……まぁな」
「多分、手紙に素直に『結城大亮』なんて書けないから――……こんなヤバイ内容の手紙、職員室に置いといて平気なものじゃないだろ?他人が置いたって言い訳できるように、名前は『春崎大架』と偽名を……もしかしたら『本名』かも知れないけど……使ってる、んだよ」
「……あぁ……そっか。ダイスケか」
「それと、砂乃さんを殺したのは母さんだよ。この文章の内容から考えて、明らかに『あなた』は母さんを指してるでしょ?」
「…………そうだな」
冬雪の言う言葉を一生懸命理解する。頭の回転が次第に速まっていった。これでも必死だ。
「でも、『あなたからの連絡をお待ちしています』は15年前っていう記述と照らし合わせれば奇妙しい……はず。母さんは7年も前に死んでるって言うのに」
「…………生きてるのかよ?父親みたいに?」
「それはきついんだけど。でもどっちかって言ったら……」
「冬雪!」
ここで放っておいたら、冬雪はどんどん自分の世界に入っていってしまう。止めておかないと、後が大変なのだ。
「と、とにかくね、胡桃。この手紙は多分、職員室内で取引されてるって事でしょ?こんな危険なもの、わざわざあんなところに持っていく必要ないんだからさ」
「あぁ、そりゃそうだ」
「って事は、この手紙を胡桃が奪った事に、あっちはすぐに気付くはずなんだ。絶対――……バレたらダメだからな?」
冬雪は真剣な表情でこちらに同意を求める。
「あぁ……判った」
胡桃が頷くと、岩杉が横から手を出してきて、その手紙を奪い取った。
「ったく……こっちにお前らは関わらなくて良いんだよ。この手紙は俺が保管する。万一大亮が攻めて来たとしても、俺と秋野で組めば大した事は無いだろう?」
「……先生、ダイスケのこと殺す気?」
「まさか。説き伏せるだけだ」
「……そう聞こえたんだけど。でもさ、ホントにこの『あなた』が母さんだったとしたら――……さすがに2人でも」
「え?」
冬雪が神妙な顔つきになる。
「……前にも言ったと思うけどさ。母さんは最強だよ。オレなんかじゃ……太刀打ち出来ないくらいに。先生、これは――ただ事じゃないかも知れない」
「なぁ、冬雪――……調べられるよな?」
「? 何を?」
「この手紙が職員室内で交換されてるんだったら、相手は先公ン中の1人だろ?それに、ホントにこれがおばさんの事だとしたら……今あそこにいる先公たちの中で、当てはまりそうなヤツを探せばいいワケだよな!?」
「胡桃、でもそれは――……」
「出来ないことじゃねェだろ?今いる先公なんてすぐわかる。ダチに聞いてみりゃすぐに手に入るし、そっから年齢搾り出すのだって簡単だし……な、冬雪、おばさんが教えられそうな科目って何だ?」
胡桃の勢いに押されてか、さすがの冬雪も質問に応じてくれた。
「――……理科、家庭科……辺りかな?あ、英語もだ」
「とにかく、そうかも知れない人間を探しときゃ見当もつくだろ?俺に任せときな、ふゆ。俺をなめるなよ」
「……そこまで胡桃が言うんだったら。ヨロシクな」
「おうっ、任せとけ」
胡桃は笑って引き受けた。

   *

 胡桃はすぐに調べてきてくれた。データは既に入手済み、後は検索をかけて調べるのみだ。
 冬雪は最近ようやく使わせてもらえるようになったパソコンをいじる。キーを叩き、答えを導き出すように――。
「――1人だ」
「幸原美桜、俺らが3年の時の理科教師だぜ」
「あぁ……確かに条件は満たしてる」
年齢は40歳前後、身長170cm以上。学内でもかなりの美人だと評判だった人間である。
「じゃあこいつがおばさんって可能性は高いんだな?」
「多分ね。ダイスケとこの人がやりとりしてるっていう確証が得られれば、確実だと思う」
「なるほどな。でも幸さん、3−4担任って……ダイスケの隣だぜ?」
「あ」

――隣ならば尚、やりとりもしやすいはずだ。

 胡桃がこちらを見ている。
「これはかなり――……いい情報なんじゃないっすか?あんさん」
「あぁ。素晴らしい情報だよ、くる」
「…………コホン」
胡桃はパソコンの前から離れて、ベッドの上に座った。
「なー、冬雪?」
「ん?」
「――ホントにおばさんが生きてたとしたらさ、お前どうする?泣きついて『生きてたんだね母さん』って感動シーンか?それとも『どうして言わなかったんだ』って責め立てるか?」
「お前、だんだん葵に似てきてないか?んー……オレは……」

――どう、するだろうか。

 確かに嬉しいのは嬉しい。だが、それなら7年前のあの日は何だったのだろう?冬雪はあの日、彼女の生気が失われていくのを目の当たりにして、倒れたはずだ。それから鈴夜が通報して、救急車が来て、運ばれて――。
 まだ幼かった兄弟に、彼女が生きているか死んでいるかなど判らなかったのだろうか?今から戸籍を調べたら、彼女は生きている事になっているのだろうか?それなら――今までの7年間は何だったのだろう。葵たちをわざわざ呼び寄せて、ここで暮らした期間はいったい何の意味があったのだろう。
「とにかく胡桃、幸さんに会ってくるよ、オレは」
「俺は行っちゃダメなのか?」
「お前はここで待機。いいだろ?先生も居るし」
「……ちぇ。感動的な再会シーンも見たかったな。ま、頑張れよ」
胡桃はにやにや笑いながら手を振った。全く嫌らしく感じないのは、彼の人となりを知っているからだろうか――冬雪は彼に笑い返して、部屋を飛び出した。

   *

 市立緑谷中学校。現在時刻は午後4時、放課後だ。久々に中学の制服に身を包んだ冬雪は理科室の前で待機し、幸原美桜が通るのを待っていた。
 しばらくして、理科準備室から幸原は出てきた。肩口まで下ろした濃茶の髪、多分顔を隠す為の縁なし眼鏡。40代とは思えない体型に白衣をまとったその出で立ちは、理科教師というよりは腕の立つ女医といった雰囲気だった。
「――……幸原先生、お久し振りです」
冬雪は素直に挨拶を交わした。幸原はこちらを見るだけで、何も答えなかった。
「ぼくのことはきっとご存知なんでしょう?あの――……実験の時先生が、ぼくに手ェ添えてくれたの覚えてますよ。……余りにも恥ずかしくって」
くすくすと笑いながら話す冬雪を、幸原は咳払いで乗り切った。
「お久し振り、秋野君。何で制服着てきたの?……でも、大事なのは実験の内容でしょ?」
「それはそうなんですけどね。あ、そだ。これ――……先生が受け取る手紙なんじゃないんですか?」
いきなり切り札を出して、相手の出方を窺う。
 冬雪はあの手紙を見せた。
「…………それは……結城君の」
「あ、やっぱりダイスケのなんだ。良かった良かった、誰だろうと思ってたから」
わざと誤魔化した。幸原は案の定引っ掛かって、こちらが言う前に全てを白状した。
「秋野君、判ってたんでしょう?最初から、全部」
「最初から?どういう意味ですか?」
幸原の表情に焦りが見えた。彼女はその焦りをどこにぶつけたらいいのか判らない様子で、慌てるように言った。
「だから――……私の授業を受けたときから」
「…………もう認めるつもり?」
「!!」
単に敬語を外しただけではない。
 それが、幸原にも伝わっただろうか。冬雪は更に続けた。
「ここで善良な先生続けてれば、教育委員会唆してダイスケをここに連れてくるのも簡単だったんでしょ?ま、オレは個人的にダイスケも幸さんも嫌いじゃなかったけど。でも――……最高では、無かったかな」
「――……やっぱり最高は、岩杉君だったのね?」
幸原は少し寂しそうに言った。冬雪は笑顔で答える。
「Of course. 異議はある?」
「無いわ。私にだって判るもの」
幸原は優しく微笑む。何年も前に失ってしまった、彼女の笑顔と同じだった。冬雪は静かに話を続けた。
「そっか。先生はいい人だもん。CEとかそういうの、全部抜きにしても。でもね、幸さん。オレはずっと呼んであげるよ。オレにとってみたら、『母さん』は1人しかいないから、さ」
笑顔を向けると、幸原はつらそうに顔を背けた。背けたまま、彼女はこちらに尋ねてくる。
「――気付いていなかったの?」
「ゴメンなさい、気付いたのはついこないだなんだ。3年の時ずっと、授業受けてたのにね」
「そう――……気付いてると思ってたわ」
彼女の表情は冴えない。冬雪は話題を若干逸らした。
「ニュースは見てた?」
「人並みにはね。貴方がどれだけ――……苦労してるか、思い知ったわ」
「鈴の葬式ぐらい出てよね。あいつが――あいつのことが、大切だったんだろ?あいつを失くしたら、全てが無くなるような、そんな錯覚があったみたい?」
幸原はしばらく迷ってから、
「…………貴方はすごいわね、ホント」
と言った。答えになっていなかった。
「ところで、葵がオレの兄貴って話はホント?」
「! もうそこまでたどり着いてるの?」
「いや、本人が言ってきただけ」
「そう……本当よ。仕方ない――……事だったの」
「別に責める気はないんだけど?」
そう言っても、彼女の表情は全く変わらなかった。
「……母さん」
「そう呼んでもらえるのは何年振りかしらね」
照れているのだろうか、彼女は薄く笑ってそう言った。
「どうして助かったの?」
これが一番訊きたかったことだ。
 どうして――……助かったのか。そして、どうして冬雪たちにその事実が明かされなかったのか。それこそが知りたいのだ。
 幸原もとい夕紀夜は、素直に全てを語り始めた。
「私は病院に運ばれて、治療を受けたわ――いつ倒れても奇妙しくない体だってことは、病院側も勿論承知済み。すぐに処置を受けられて、何とか一命を取り留めたの。でもね、誰かさんの所為で貴方たちに、私が『死んだ』って情報が伝わっちゃったのね。私はその辺の事、知らないんだけど……まぁとにかく、そういう事があって、私は簡単に貴方たちの前に顔出せなくなっちゃった訳」
「でも葬式まで」
「誰がセッティングしたんでしょうね。私と誰かが入れ替わってたのかしら?雪子姉さんまで勘違いしてて、私は誰を頼ろうにも頼れなくなってたわ。仕方なくなって、実家に訊きに行ったのよ。そしたらね、父様が言うのよ。桜は……あ、ゴメンなさい、私、」
「あ、こないだ桃香に聞いた。本名桜って言うんだって?先に言ってよね」
「……ゴメンね。『桜は死んでる事になってるから、自由に動いて構わない』って。私はとにかく、貴方に会いたかったから、この道を選んだんだけど……でもそれも上手く行かないでしょ?秋野夕紀夜は死んだって事になってる訳だし、仕方ないから、いろいろやってこの名前で仕事できるようにさせてもらったのよ」
「じゃ、戸籍上は――……?」
「私はただの『幸原美桜』。『夢見月桜』はもう死んだ人間だわ――……残念だけど」
夕紀夜は寂しそうに、笑った。そして、年甲斐も無く冬雪の頭を撫でて、それから理科準備室の扉を開けた。
「こっちのほうがゆっくり話せるわ。それとももう帰らないといけない?」
「――話したいのは山々なんだけど。家で胡桃が待ってるんだ」
「そう。それは――……残念ね。胡桃君に宜しく」
「うん。また今度」
冬雪が彼女に背を向けると、後ろから声が掛かった。
「えぇ――……Don't forget, my son」
「…………I see, my mother. Goodbye」
振り返らずに、答えた。

冬雪が幼い頃、1人で出掛けるときに掛けてもらった合言葉。

決して、戻ってくる場所を忘れないようにと。

それをきちんと意識するようにと。

忘れっぽかった冬雪に対する、彼女の思いやりだろうか。

いずれにしろ、彼女はやはり彼女だという事だ。

そして、自宅へと戻った。

――1階事務所のカウンターで、胡桃がのんびりとお茶を飲んでいるのを目撃した。

   2

「残るは――ダイスケ本人だな」
秋野冬雪がいつになく真剣な面持ちで言った。それを聞いた岩杉は「あぁ」とだけ答えた。
「何、先生何考えてんの?」
「――別に」
冬雪は素っ気ない返事だと思っただろう。二人のやり取りを端で眺めていた流人は、彼らにほうじ茶を差し出した。
「落ち着いて話したらどうですか?昔の事を思い出すのも判るけど――……今は今だよ」
流人は言いながら笑った。
「まぁな。あいつが操られてたと思うと」岩杉はそこで台詞を止め、ほうじ茶を飲み、「――情けなく思えてくるんだ」と続けた。
冬雪は不思議そうな顔をしたまま茶を飲む。何も言わなかった。
「あいつが操られて、あいつに俺は操られた。修飾被修飾の関係は連鎖してるな」
「訳判んない説明しなくていいよ。高校の頃とかって、ダイスケどんなんだった?」
冬雪が尋ね、岩杉は少し唸ってからゆっくりと答えた。
「――変わったヤツだったな。何と言うか……天然で。確かに操られやすいといえばそうかも知れない……」
「失踪した理由を教えてくれなかったと言ってたね?」
流人が言うと、岩杉は顔を上げて流人のほうを見、訊き返してきた。
「それが……どうかしたのか?」
「もしかしたら、もしかしたらの話だよ。彼は秋野君のお母さんと知り合いで、例えばその関係で失踪したとしたら、どう考えられる?彼女の指示か、彼自身の意思か、それとも何らかの原因があるのか」
岩杉はしばらく答えなかった。数分の沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「――……あいつがどうして失踪したのかなんて、俺に判る訳がない」
「それを見つけなきゃ話にならないんじゃないか。ボクが今話してるのはそういう事だよ」
「……判ってはいるんだが」
気まずそうに、岩杉は目を逸らした。誰だってそうだ。当たり前の話である。
「結城君が何らかの意図をもって失踪したのは確かなんだよ。半年後にちゃんと帰ってきてるし、誘拐ではない事も確認済みだ。ならどうだい?」
岩杉が答える前に、冬雪がカウンターに向かってきて話し始めた。
「――母さんはそういう人だよ。でも、ダイスケが高校の頃はオレが2歳とか3歳とかで、多分忙しかったはず」
「『そういう』?指示語は何処を指してるんだ?」
恐らく冗談で、岩杉は尋ねた。冬雪は不満そうに答える。
「…………指示」
「シャレか、なるほどな――……大亮の意思、か」
だとしたら原因には何があるだろうか。
流人は考えを巡らせた。
 結城大亮が失踪したのは、岩杉と公園で話していた直後である。先に帰ると言って彼は走り去り、そのまま家にも帰らず、行方不明となった。

「……!!待って、流人、先生……可能性はある」
「何が?」
「例えば母さんが、仕事の手伝いか何かでダイスケを呼び出して、ウチに住み込ませたとか――」
「……そういう記憶があるのか?」
「判らない、でもそうかも知れない。他に頼れる人が居なかったとしたら、母さんはそれぐらい平気でやる人だ」
冬雪は半分確信しているような口調だった。岩杉の表情は先程から変わらず硬いままで、流人がいくら気を遣っても治りそうに無かった。
 岩杉はその硬い表情のまま冬雪に向かって言った。
「幸原先生に直接訊いた方が良さそうだ。秋野、頼むぞ」
「――Yes, sir. 調べて来るよ」
冬雪は軽く敬礼をして、笑顔で答えた。そして流人に挨拶をし、店を飛び出していった。
「……相変わらず行動の早い子だ」
思わず流人が呟くと、岩杉はほうじ茶を飲み干してそれに応対した。
「そうでもなきゃ生きてけない世界だからな」
「――諒也君もですか?」
「かも知れないな」
岩杉はようやくここで笑顔を見せた。

この世界、本当に計り知れない。

流人はため息をついて、彼の幻影を見送った。

   *

 緑谷中学校。冬雪の家からは走って20秒、およそ100Mの距離にある。冬雪は平然と校庭に入り、校舎内に堂々と進入した。時刻は既に5時を過ぎ、部活の生徒もそろそろ引き上げようとしている頃だった。

――理科準備室。

 そう書かれた扉をノックし、1秒と立たないうちにそれを開ける。冬雪は中に入り、『彼女』の姿を追った。
「幸原先生、少しお話しても構いませんか?」
「! どうしたの?」
「――詳しい話はどこか、人の居ない場所で」
この部屋には他の教員たちが居る。これではまずいのだ。話の種は曲がりなりにもここの学校の教員である。バレたらとんでもない事になりかねない。

 冬雪は彼女を連れて生徒指導室に移動した。ここなら滅多な事では人は来ない。
「――ねぇ、何の話なの?」
「ダイスケのことで」
「結城君?」
「ダイスケが高校時代に失踪した事件、その原因は誰?」
夕紀夜は一瞬答えに詰まったが、すぐに返答した。
「――私よ」
「理由は?」
「――……もう判ってるんじゃないの?」
何故か彼女は焦るような仕草を見せ、勿体つけた。それほど知られたくない事なのだろうか。
「確認したいんだよ」
「仕事を手伝ってもらってたのよ。仕事って言っても――……探偵のほうね。仕事はしなきゃいけないし、でも重労働だし……現実問題、貴方の世話ね」
苦笑しながら、夕紀夜は真実を話した。
「やっぱりそーか」
「遊び相手になってもらったくらいよ?いい相手じゃなかったかしら?」
「あんまりはっきりした記憶はないけどね。2人暮らしじゃなかった事は覚えてる」
冬雪が曖昧に答えると――事実だが――夕紀夜は少し寂しそうな顔になって、言った。
「――意味の無かった事なのかしら」
「そんな事ないだろ?ダイスケが居てくれなきゃ母さん仕事出来なかったんだろーし。……どうすれば本人、問い詰められるかな」
「問い詰める?」
「手紙のやりとりしてんだろ?職員室かなんかで」
「……!!」
今度こそ、夕紀夜は本当に言葉を失っていた。それほどまでの事なのだろうか。
 彼女は数十秒後、搾り出すように声を出した。
「…………冬雪?世の中にはね……知っていい事と悪い事があるのよ」
「……悪い事だった?」
「えぇ、勿論ね。……そういえばそうだったわね、こないだも持ってたもの……」
「でも、内容さえ見なきゃ、やり取りがある事知ってても問題ないんじゃ……?だってオレはもうここの生徒って訳じゃないし」
「それはそうだけどね――……いい?冬雪、その事を結城君に話したりしない事。もし話したら――……大変な事になるんだからね」
「……でも」
「お願いだから!本当に、本当に大変な事になるんだから……」
夕紀夜は床に崩れ落ちた。
「……母さん」
「今日は帰って……私で何とかするから……帰って」
「…………。いつか帰って来いよ」
彼女の表情を窺いもせず、冬雪はすぐに生徒指導室を出、そのまま中学校から家へと戻った。

戻ったら、だ。

「よぉ、冬雪」
1階事務所のソファに座って悠々とくつろぎ、笑顔で手を振ってきたのは藍田胡桃だった。
「……何でお前が居るんだよ……っ!!」
「別にいいだろ」
「良くない!!」
「お前だって家に不法侵入してるじゃねェか。そのお返しだ、お返し」
「…………ったく……」
冬雪が部屋に上がり彼の正面のソファに座った時、彼以外の生命体が居る事に気がついた。
「あれ?その仔犬……誰?」
「誰って人に使う言葉だろ……家に迷い込んできたんだよ、昨日な」
胡桃はぶっきらぼうに答え、その仔犬を冬雪のほうに差し出した。

――犬は黒い。耳が垂れている。

冬雪はその仔犬を受け取った。
「黒ラヴの仔犬かー。見たトコ元気そうだし、とりあえず平気だな。でも顔は見た事ないなー……誰に似てるかな?ノラの……んにゃ、犬のノラはこの辺居ないし、ましてやラヴラドールなんつったら……誰が飼ってたっけ。えーっと、1、2、3、4、5……5軒か。その内黒はー……2軒。そこで赤ちゃん生まれたって話も聞かないし、やっぱり町外かな」
「…………冬雪」
「何?」
「分析は良いから、何とかしてくれ」
「何とかしてくれったって、胡桃が拾っちゃったんだからしょうがねェだろ?ウチには既に2匹も猫が居んだよ。いきなり犬飼ってくれなんて言われても無理」
冬雪がきっぱりと断ると、胡桃は呆れたように違う言葉を出した。
「飼えって言ってるんじゃねェよ。どうすりゃいいのか聞いてんだ」
「今のところウチには捜索依頼も失踪情報も入ってないよ。飼いたいんなら胡桃が飼えば?但し注射とかもちゃんと行ってね」
「……メンドイ……」
「オレに相談してくれたらちゃんとアドバイスするから。そーだな、生後1ヶ月ってところかな?まず狂犬病の予防接種受けなきゃいけないからその辺把握しといてね。あと登録もしなきゃだ」
「待て待て何にも判んねェ!!ていうかお前、いつからペット相談員になったんだよ!?」
「いつからも何も、なってないよ」
「……冗談……詳しすぎ」
胡桃は本当に呆れているようだ。
「仕事上ついね。羽田南の子も覚えたら向こうでも事務所開くつもり」
「あっそ」
「名前どうしよっか。なー……メスだな。大人しいなー、誰にでも懐くタイプか……よし決めた、カルム!綺麗な名前だよ、良かったな」
「コラッ、勝手に決めんな!!俺が飼うんだろ!?」
「あれ胡桃、飼う予定は無かったんじゃ?」
呆れを通り越して、胡桃はイライラしだしているようだ。
「…………いいか冬雪、俺はお前のオモチャじゃねェんだよ」
「……オレはオレで子供じゃないんだけど。胡桃に命名任せたらとんでもないの付けそうだったから」
「お前もお前だろ。先生のインコはお前の命名だってな?」
ピコの事だ。道端で弱っているのを見つけたが持ち主が判らず、仕方なく岩杉に預けたのである。鳥好きの彼だ、飼い主が現れるまでという条件付きではあったが快諾してくれた。4年も経った今となってはさすがの飼い主も現れないだろう。
「そうだけど……別に可笑しくないだろ?」
「充分可笑しいっての……先生が付けたみたいで奇妙だぜ」
「それは悪かったです」
冬雪は再び仔犬の観察に戻った。
 毛艶もいい。健康体だ。捨て犬だろうか――だとしても、自力で歩き回れるくらいなのだからそう大して時間は経っていないだろう。
「それじゃ胡桃宜しくな。くるが預かってくれるんだったら安心できる」
そう言いながら、冬雪は仔犬を胡桃の目の前に持ち上げた。そして、手を離す。胡桃は慌てて仔犬を抱きかかえ、冬雪を睨みつけた。
「何してんだお前!!危ねェだろ!?」
「だから宜しくってば。胡桃が飼い主なんだよ」
胡桃は冬雪の言葉を聞いても何も言わず、仔犬と顔を見合わせた。そしてため息をつく。
「――……判ったよ。責任ってヤツか」
「ホントなら捨てた人を探すべきなんだけど、見た事無い顔だし、子供だし。とりあえず世話の出来る人が世話しとかないとまずいからさ」
「……っておいちょっと待て、学校行き始めたら世話出来ねェじゃんかよ?」
「ちゃんと餌あげてれば死にはしないよ。悪戯はすごいかもしれないけど」
「聞き捨てならねェ台詞をさり気なく言うな!……先生に任せるってのはナシか?オイ」
「今は平気かも知れないけど、春になったら大変だから無理。胡桃が拾ったんだから胡桃が育てろ」
それ以上胡桃は反抗しなくなった。これでやっと説得完了である。
 胡桃相手だと、ここまでしなければ説得など出来ないのだ。彼は意外と芯が強く、こうと決めたら譲らない。しかしそれをも覆す事が出来るのは冬雪にとってある意味誇りだった。
「で?他に用事はないの?」
「んにゃ、雑談でもしようかと……」
「じゃー紅茶淹れて来る」
「……もうちっと濃いの淹れてくれよ」
「判ったって」
そう言いつつも、冬雪が淹れる紅茶はいつも薄い。と怒られ続けてもう数年だ。その為客に出すのがこれではまずいと言う事になり、事務所の客に出す茶だけは梨羽が淹れる事になっている。
 冬雪は今度こそと限界まで待って、出来ているはずの紅茶をカップに注ぎ、給湯室から事務所へと戻った。
「これでどう?」
冬雪が差し出した茶を胡桃は一口飲むなり、嫌そうな顔をした。
「…………あともう少し……濃い方がいいんじゃないか……?」
「オレの苦労も考えてよね」
「考えてるっつーの」
胡桃は仔犬を膝に抱き、紅茶を全て飲み干した。
「なぁ、ここ出てくのっていつだ?」
「今年いっぱい。だから、12月31日の深夜0時までだね」
「で、いつ出発すんだ?」
「31日に移動するつもり。お前ンちでカウントダウンしてもいいんだけど?」
他に行く場所が無ければそれも可能だ。
「……冗談じゃねェ……」
「くる、そうやって孤独に新年迎えようって言うんだろ?バカバカしいって。1人で『行く年来る年』見るのほど寂しい事ないよ」
胡桃はあからさまに不満そうな顔をして、ため息をついた。
「それでお前が来るのかよ……」
「先生も呼ぼうか?一人暮らしだから来てくれるよ」
「だったら先生ンち行こうぜ?ウチより広いだろ」
「あ、それも手か。いいな」
胡桃が自分の家に泊まられる事を嫌がっていたのは明白だから、代替案に賛成しておかなければ気分を損ねかねない。無論、ほぼ毎日胡桃の気分を害していたのは事実だが。
「それで決定かなー……ま、とりあえず今は暫定状態だけど。向こうの家でっていう選択肢は無いも同然だから、その辺考慮しといてな」
胡桃は首を縦に振り、それを合図とした。
 冬雪はソファから立ち上がり、紅茶を淹れ直すつもりで給湯室に戻った。

――その時ようやく、紅茶の茶葉が無くなりかけている事に気付いた。

+++



BackTopNext