形と探偵の何か
Page.30 「暗転、そして終幕」




      1

 その日、雑貨屋『日本人形』に集まっていた人間は4名だった。
「これはどうなったの、この鞄?」
 流人にまず尋ねるは藍田胡桃、未だ試作品段階の鞄を持ち上げてしげしげと眺めている。長めの髪は若干脱色しているのが窺える。細いフレーム無しの眼鏡と学生服だけは以前と違った。

「何年経ったら完成するんだか」
 そう言ってからかうは岩杉諒也。いつものように煙草をふかしながら、のんびりと雑誌のページをめくっている。結局未だに無職らしい。

「いずれは完成するんやって、ね?流人さん」
 そう励ましてくれるは霧島詩杏。そう言いながら彼女はいつも店の中の物を漁っていく節があった。艶やかな黒髪を肩口まで下ろしている。外見は以前とほとんど変わりない。

「いずれ、ね……ま、俺が納税長者番付に載る頃には出来てるっしょ」
 そう冗談をかますのは久海葵。冬雪の代わりにではないが、頻繁にここを訪れるようになった。以前から知り合いではあったのだが。最近切ったばかりらしい髪は毎度のように金色だ。

「―――……みんな揃ってボクをバカにする!!」
流人が叫ぶ。すると、胡桃が平然と言った。
「バカになんてしてないよ、な?先生」
「まぁ――……バカにはしてないな。からかったが」
「同じじゃないですか!」
「同じじゃないよ。けなすこととからかうことは同義じゃないだろ」
岩杉も平然と言い放ち、その場はまた静まり返った。
 向こうで詩杏と葵が笑っていた。
「…………もう!店閉めますから帰ってください!」
「誰が帰るか、流人」
「あーー何でしょうねこの憤りって。岩杉さん、藍田君、霧島さん、葵さん!全員退場!!」
「ちぇー」
「じゃぁね、流人さん」
「また来るから」
「お邪魔しやしたー」

―――パタン。

強制退去には応じたが、全くその気がない彼らにはほとほと呆れる。
 彼らをまとめていた秋野冬雪は未だに戻ってこない。今彼がどういう胸中でいるのかは知らないが、いずれ帰ってくるであろう事を信じるしかなかった。

(……帰ってきてくれないと、困る)
流人は1人カウンターに座って、考えていた。
 彼がいたから、あのハチャメチャなメンバーは一貫した動きを持っていたような気がする。あくまで流人の私見ではあるが、たかだか15歳そこらの子供1人でそんな印象を受けるのは初めてだったのだ。

(彼自身、充分激しいキャラクターではあったけど、な)

 過去形で語るには惜しい人間だ。なるべく早く、ここへ戻ってきてもらいたかった。

――しかし、発生から既に1年が経った彼の事故には不可解な点がいくつもある。

 それまで何ら奇妙しい様子もなかった彼が突然、下校時――たった数十メートルの距離――にトラックの前に飛び出すなんて考えられない話だ。少なくとも、流人にとっては。周囲の人間が納得しているとも思えない。
 それでも彼の事故はそのまま事故、しかも誤って彼が転倒したところへたまたまトラックが突っ込んで来た、と――。

(いったいどうやったら『誤って』横に転倒するって言うんだ……)

彼は歩道を歩いていた。何かに躓くにしても転ぶなら前か後ろが筋だ。横に転ぶのは精々何かにぶつかった時ぐらいだろう。しかし事故現場に障害物は何もなかった。

(やっぱり誰かが突き飛ばした、としかボクには考えられない、な)

 飽くまで『誰か』の域は出ない。流人は彼の友人関係に詳しい訳ではないのだ。少なくとも胡桃は違う、その日は生徒会の仕事で帰りは一緒ではなかったと言った。だが、突き飛ばすのは誰にでも出来ること――……地元について疎い流人があれこれ考えても無駄な事だ。

(ま、それも事実、全ては謎、か――)

謎が残ったままでもいいのかも知れない。
 これから何にも捕われず、平和に暮らすためには。

      *

 都内の、某総合病院で。
 この雰囲気に慣れるには、まだ時間が掛かるように思われた。

 少年は立ち上がり、部屋の窓から病院の広い中庭を眺めた。様々な人間が歩いているのが確認できる――そんなものに、興味はない。彼はベッドの脇の机に備えられた鏡を覗き込む。いつもと変わらない、自分の顔が映った。

――周囲の人間より色素の薄い髪はふわりとまとまっていて、これまた周囲とは全く違う明るい青紫色の瞳を持つ。自分が本当に15歳なのか疑いたくなるほどの童顔。それが昔のアイドルに似ていると言われれば、本音を仕舞いこむ以外になかった。

 彼は再び窓際に立った。

 自分が何者なのか判らないと言うのに、『家族』と言われてピンと来るはずもない。目を覚ました事を知っているのは、その『家族』だけだ。昔の友人たちには決して話さないようにと、念を入れておいた。そんな事をされたところで、こちらはつらいだけなのだから――。

 庭で遊ぶ子供たちが目に入る。

 どこかその姿を懐かしく思うのは何故だろう?


少年が感慨に浸っていたその時、ドアが開く音がした。

――振り返ると、そこに立っていたのは『家族』の内の1人。

久海葵。職業は作家。とてもそうは見えないその風貌が、多くの人が彼に惹きつけられる理由の1つだろう。
「依頼に来ましたよ、探偵さん?」
そう気取ってみせる彼の手には一枚の写真。
「それ、何?」
「おぅ、見たいか?写真だ」
彼はそれをこちらに向けて、ひらひらと手を振った。
「それくらい判る」
「まーな。依頼だよ、依頼。お、ま、え、に、探してもらいたいんだってよ。俺じゃあ力不足だ。手伝え、ふゆ坊」
そう言って葵はその写真を少年の胸の辺りに突きつける。
「そんな事言われても――……無理だって今までも何度も断って、」
「ストーップ。確かに昔の記憶のないあんたには無理かも知れねェな、故郷緑谷の風景すら判らないって言うんだからな。でも――……この写真に見覚えはあるだろ?」
少年――秋野冬雪は思わずその写真を手に取る。

――映っていたのは2人の少年と、猫が2匹。恐らく仔猫だ。

「これ――……?」
「よーく見やがれ。あ、ここ禁煙か……ちぇ」
葵は胸ポケットから煙草を取り出しかけて止めた。
「ま、少年探偵クンの復帰依頼第1弾って事にしておくか。依頼者は久海梨羽だ。硝子がいなくなった。―――お前が名付けた、ウチのペットだよ」
「ぼくが?」
「そう、ボクが。判るだろ?眼鏡の坊やはお前だよ。もう1人は弟だ。勿論、俺のじゃなくお前のな」
「でも、『家族』の中にはいなかった――」
「あぁ。死んだからな」
葵は平然と言った。

――弟?が、既に死んでいる?

「そんなの、聞いてないよ」
「まぁ……今生きてない人間の話はしなかったからな、ショック受けると困るってんで」
「それで母親の話もなかったんだ……」
自分がどうして父親だけでなく従兄妹と暮らしているのか。従兄妹が居候だと説明されても、イマイチしっくり来なかった。そもそも父親の名が自分と違う時点で妙だ。
「まぁな。俺の意思じゃねぇぞ。全てあんたの親父の計画だ」
「計画、って」
「じゃあプランって表現を使おうか?だからさ、そういうムズカシイ話は後で家でするとしてさ、依頼受けろよ。ほら、クッキー持ってきただろ?あの素晴らしい味の作り手の依頼だ、受けろ」
「……無茶だよ、受けられない」
 いくら昔の自分がそれを得意としていたとはいえ――記憶のストックを失くした今の自分には到底出来る所業ではない。
「お前はもう退院できる身体だ。病院の都合も考えてやれよ」
葵がわざとらしく笑って告げた。
「……それは、帰れって暗に指示してる?」
「してるさ、そりゃあな。あんたの親父さんが首長くして待ってるぜ」
ケラケラと笑う彼の姿を見ていると、自分がバカらしく思えてくる。
「……判ったよ。機会を見て」
「おーっし!説得完了!!」
「は?」
何の話だろうか――彼を見上げると、ニヤニヤと笑いながら悪びれもなく言ってのけた。
「梨羽嬢の依頼って話は全て嘘でしたー。悪ィな、冬雪ー」
冬雪の茶色い髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら、葵は面白そうに笑っていた。左耳のクロス型をした銀のピアスが視界に入った。蛍光灯に僅かに光る。
 どこかで見覚えがあるような――……気がしないでもない。
「…………」
「おぅ、不満だな?帰るって約束させるのが今日の俺の役目だった訳よ。誰に頼まれたか知ってるか?勿論、梨羽嬢だぜ。お前のダチにしつこく訊かれて、目覚ましてる事言わざるを得なかったんだとさ。で、困って俺に相談してきた。まー、可愛い妹の願いを叶える為なら、ってな」
「ねぇ、そのピアス――誰かに貰ったの?」
「あぁ、これか?これはお前の元担任に。それが?」
「別に――何でもない」
葵は不思議そうな顔をしていたが、すぐに元に戻った。
 そして、毎度の事ながら「アディオス」と呟いてかっこつけたまま去って行った。――ベストセラー作家にはとても見えない、単なる変人だ。

 そして、数週間が過ぎた。

      2

 世間が夏休みに入ったある日。バイトのない日だ。岩杉は自宅でクーラーのもと涼んでいた。部屋ではインコが忙しそうに羽繕いをしていた。
「……平和な日々だ」
岩杉が思わずうたた寝してしまいそうになったその時、玄関のドアが激しく叩かれる音が耳に入った。
「鬱陶しい……」
岩杉は仕方なく立ち上がり、恐ろしい熱気の外の世界に接触する事になった。
 インターホンがあるのに使わないその姑息な手は、
「藍田!何度言ったらちゃんとインターホン鳴らすんだ!隣にも迷惑だろう」
藍田胡桃の仕業でしかない。
「だって、出てこないじゃん」
「だから用は何だ、暑いんだよ――……休みぐらい休ませてくれ」
「冬雪が帰ってきたんだよ!早く」
岩杉が答えるよりも前に、胡桃はその腕を引いて完全に外気のもとへと晒しだした。
「こ、こら!鍵掛けてない……」
「先生ンちから誰が何盗むんだよ、この田舎町で」
「田舎町だから言ってるんだろ!」
「もう、そんなこと言ってる場合じゃねェんだよ」
胡桃は突然走るのを止める。

――秋野邸。今は居候3人が暮らしている家だ。事実上居候ではなかったが。

「霧島はもう来てるってさ。行くよ」
胡桃は門を開けて庭を横切り、勝手に玄関戸を開ける。クーラーの冷気がいっぺんに流れ出した。
「ちわっす」
まず胡桃が中に声を掛けた。1階事務所に居た人間が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。――しばらく交信のなかった、秋野冬雪に相違はなかった。
「――どうも」
「おぅ、先生も連れて来たぜ――……んだよお前、緊張してんのか?」
「緊張してる、訳じゃないけど」
彼はこちらから目を背けた。
「くるちゃん、先生、こっち来て」
事務所のソファに座っていた詩杏が、靴箱越しにこちらに声を掛けた。


そして、全ての話を聞いた。


「記憶喪失、か―――」
岩杉自身の呟き以外、誰の声も耳には入って来なかった。
 胡桃に至ってはショックの余りか放心状態でソファに寄り掛かったままだ。

――話してくれたのは冬雪自身だ。

 多分当人が一番大変なのであろうことは容易に判る。こちら側も苦労はするが、本人ほどつらい思いをする立場はないだろう。
「あ!」
 突然、冬雪が叫び声をあげた。
「葵がしてたピアスって、先生が?」
「え……あぁ、ついこの間欲しいって言うからあげて……それが?」
「ぼくが事故に遭う前に、ぼく見たことありますか?」
真剣な目つきだった。詩杏が横できょとんとしている。
「どうかな、でも――……してたかも知れない」
覚えていることではない。もう1年以上前のことになってしまうのだから――。
 横から静かに告げる者があった。
「してたよ、先生」
「藍田」
「許嫁が死んだ日に弔いに自分で買ったモンだって、自分で言ってたじゃん。そン時冬雪が、」
胡桃がそこまで言い掛けた時、正面に座る冬雪の表情が変わった。驚きというか新発見というか、歓喜のものとも驚愕のものとも取れる表情だった。そして、胡桃の言葉に続けるように、静かに言った。



「―――母さんのに似てる、って、言ったんだった、っけ?」




――そこだけ時間が止まったような、妙な沈黙があった。


冬雪がゆっくりと瞼を閉じて、そしてまた、開いた。


「――そっか。ここが、オレの家だよね」
「ふゆちゃん?」
詩杏が遠慮がちに様子を窺った。
「すごい、そうだ、そうだったんだ――……全部判る」
「秋野」
そっと声を掛けてみると、彼はいきなり立ち上がり、叫ぶように言った。
「すごいよ、先生!すごい、全部思い出した!胡桃っ、すごいよ」
「思い出した……?おい、冬雪……マジなのかよ?」
胡桃と詩杏は戸惑って対応しきれずにいる。岩杉は立ち上がり、胡桃を避けて事務所から出る。
「葵さんたちに知らせてくる」
 それだけ告げて、2階へと上った。
 リビングには3人が集まっていた。岩杉は今起こったことを全て忠実に話し、とにかく実際に下りてみるように言った。

「ふゆ!何だよ、何があったんだよ……」
「ゴメンな、葵――早くこうしてれば良かったのかも知んない、ね」
「いいよ、終わり良ければ全て良しだ。世の中結果が全てだろ、ねぇ?先生、そうでしょう」
「まぁ、そうですね」
意見を求められ、岩杉は微笑を浮かべながら言った。
 正直、どう対応していいものか迷った。目を覚ましたかと思えば記憶喪失だと言い、話し始めて数分でその記憶を取り戻した――マンガのような話だ。でも実際、記憶なんてちょっとしたことで戻ってくるものなのだろう。

「でも、良かった――……どうしようかって思ったけど、もう大丈夫なんでしょ?平気なんよね?」
 詩杏がほっとしたような表情で尋ねた。
「うん――……多分もう、平気」
 そう宣言した冬雪はいつものように笑って、両腕を天に向けて伸びをした。

「さ!事件は解決した事だし、食事にしよう!」

 彼の爽やかに澄んだ声は家中に響いて、その場の雰囲気は一気に明るくなった。

      3

「……何や。結局失敗やったんかいな」
霧島神李は煙を吐いて呟く。公園裏の、人通りの少ない静かな場所だ。ここなら、人目につかずに話が出来る。
「スミマセンでした――最後ぐらい、とは思ったんですが」
「別に構へん、ばれんかったら問題ナシや」
「でも、あいつは――……全部思い出したんですよ。いつか、話してしまうかも知れない」
阿久津秀の言葉に、神李は自嘲気味に笑った。
「そういうこと気にしとったら始まらへんって。な?俺かて秀君かて……これから大変なんやからな」
「――それは、判っていますけど」
「ほな!しゃきっとせいや、俺はこれからあれやぞ、食事作らないかんのやぞ」
それは前からそうだろう――秀はくすっと笑う。
「僕も同じですよ。姉にはとても任せられませんから」
「そか。せやったら―――またな。どうせ近所の兄ちゃんや思て」
神李はニヘラと笑った。緊張感のまるでない、本当にただの『近所の兄ちゃん』のような雰囲気――……嫌いではない。
「えぇ。そう思わせてもらいますよ。それじゃ」
「おぅ」
彼が手を振るのを見てから、秀は車道を渡って自宅へと戻った。

――あの時冬雪を突き飛ばしたのは自分だ。

 最後の指令は霧島神李から下った。事故に見せかけて、あいつを殺せと――もし成功すれば、別の組織からのお誘いが来るらしかったが、それだけは遠慮しておいた。報酬など要らない、そういうつもりで実行した。あいつに未練などない、今の自分はまた昔の、冷酷な殺人者に戻っていると信じて。
 しかしそれは失敗に終わった。単に彼の生命力が強かった事もあるかも知れない。だが、それだけで済む話ではない。即死させられないような位置に飛ばした自分に責任があるのではないかと思う。

――少なくとも、今となっては何も出来ないということか。

 秀は玄関の扉を開けた。
 そして、いつものように妹の歓迎を受けた。姉の雄叫びと共に、また毎日同じコトの繰り返しが始まる。

――案外これで、楽しいのかも知れない。

 阿久津秀は姉からフライパンを奪い取った。

      *

 岩杉が流人に出された茶をすすっている横で、秋野冬雪が何かを話していた。
 話し相手は霧島詩杏。
「――……『ぼく』は昔の名残だよ。時々自分が判らなくなると、『ぼく』を盾に逃げるコトになる。それが昔はしょっちゅうあって、そっちが普通だと思われてた……小学校ン時は、ね」
「そーなん……あたし全然知らなくって……ゴメン」
詩杏が申し訳なさそうに言った。彼女がこの事について尋ね、答えた結果がこれだったのだ。
「別に謝るコトじゃねェだろ。な?流人」
冬雪は笑顔をいきなり流人に向けた。
「ボクに言われても……でも、大変だったんだね」
「まーね。今は別に、そんなの気にしてないけどさ。今は今、昔は昔だよ。ほら――今は昔ってヤツ?」
「……いきなりそれを持ってくるとは思わなかったな」
岩杉が呟くと、流人がくすくすと笑う。
「充分立ち直れてるじゃないですか――学校はどうするんだい?」
「学校?今度編入する――……胡桃と同じ高校」
そう彼は楽しそうに笑ったが、笑って済む話ではない。胡桃が冬雪の事故以降かなりの努力を重ねて入ったその高校は、都内でもかなりのレベルにある進学校だ。
「見くびるなよ。また学年トップなんて取れるワケないんだからな」
「失礼な、先生!パーフェクトさえ取れば絶対1位になれるだろ!?な?霧島っ」
「え、あたしは別にそんな」
「霧島さんはこの間の期末で1位だったって聞いたよ?」
流人のコメントに、冬雪が拍手する。
「さすがっ!やっぱり違うねー」
「何がだよ、編入試験パーフェクトで通ったヤツが」
予想外の声は店の入り口近くから聞こえる。見れば学生服姿の藍田胡桃がそこに立っていた。
「げっ、胡桃!?何で居るんだよ!?」
「何でって今入ってきたんだっての。ちわっす、先生、流人さん、霧島ー」
「久し振り、くるちゃん。その話ホンマなん?」
詩杏が聞き返す――彼初のパーフェクトが掛かっている情報だ。
 中学時代に主要5教科オール満点を取った事のない彼にとって、それは1つの目標として見定められていた事だ。
「あぁ。先公たちが話してんの聞いちまっただけだ。多分非公開の情報なんだろうけどな」
「あくどいな、胡桃。人の成績聞くなんて非常識!」
「悪ィな、冬雪。あいにく聞こえちゃったもんでね」
冬雪と胡桃が言い合うのを聞きながら、3人はそれぞれに笑った。

 変わったようで変わっていない。外見的に多少以前と差はあっても、彼らの本質的な部分は全く変わっていないのだ。それがいい事だとも、悪い事だとも岩杉には言い切れないが、その姿が笑いを与えてくれる限りはいい事だと信じようと思った。

「そーだ。忘れてた」
 冬雪が突然、自分の鞄を漁り始めた。
「梨羽に持たされてたんだった」
彼が取り出したのは小さなビニールの袋。口を赤いリボンで縛ってある。その中身はと言えば――。
「来た!クッキーだなっ」
胡桃が真っ先に反応する。
「5枚しかないから、1人1枚だよ?」
「嘘だろ!?おい、もっとねェのかよっ」
「ないよ。後はウチで食べるから」
「卑怯だ!」
「卑怯じゃないっ!」
本当に――……相変わらずだ。以前にも似たようなことで争ったような記憶がある。
 そこで流人が立ち上がった。
「はい、これはボクにくれるはずのものだね?素直に全部渡しなさい、秋野君」
「げ……何で知ってんだよ」
「みんなで食べてくださいって言ったら、たった5枚はありえないからね」
流人はニヤリと笑って、冬雪の手からその袋を奪った。
「何でだよ〜」
胡桃が不満げに唸り、流人が言った。
「悪いね、藍田君、霧島さん。秋野君の作戦は失敗だったね。自分の取り分を少しでも取ろうっていう作戦だろう?まだまだ甘いよ」
「〜〜〜〜」
「別にいいだろう、藍田、霧島――……近所なんだから押し掛ければ貰えるさ。秋野の分を盗むのも手だな」
岩杉が笑いながら代替案を述べると、2人は顔を見合わせて大きく頷いた。冬雪1人が不満そうに叫ぶ。
「先生、ひっでー!」
「お前はいつも家で食べてるんだろう?だから文句は言わないコトだな」
「梨羽はみんなの梨羽じゃないのに」
「だからってお前の占有物でもないだろうが」
冬雪も黙り込んだ。尤もな話だ。

「まぁ――……今はお茶で我慢して下さいね。たいやきがありますから」
 流人の言葉に、3人は揃って歓喜の声を上げた。
「…………どこまでも甘いモンに目がない奴らだな」
「えぇ。岩杉さんは確かダメなんでしたね。でも――そこが面白いんですよ。人間には不思議な事がいっぱいありますから」
「流人もだろう?」
「それは貴方が解いてくださいね。もうかれこれ30年近いんですから」
「生憎頭が悪いものでね」
「おやおや、名教師と謳われた方の台詞じゃありませんね?」
岩杉は笑って言った。
「――CEの完成形でもあるぞ」
「ご冗談を」
流人は静かに笑って、奥の部屋へと消えていった。多分、子供たちへの差し入れの準備だろう。
 当の3人は何を話しているのか爆笑の渦を作っている。1年前の暗い空気はもう、ここにはない。

―――いつまでも、こうしていたかった。そんなことは無理だ。仮令彼らと自分がもう会う事がなくなったとしても、覚えていてもらえればそれで構わない。自分もきっと、彼らを忘れる事はないだろう。幼い頃に世話になった流人の事を、決して忘れる事がなかったように。

 いつまでも――……それはただの幻想に過ぎないかも知れない。だが、出来るかどうかはやってみない事には判らない。そう、判らないのだ。

(だったら、それに懸けてみてもいいじゃないか)

 少なくとも、幸せと感じられるこの環境を、なるべく長く持たせたいと思う――彼らと自分そして流人の、5人の世界が終焉を迎えるまで。


    Epilogue


何を必要としていたのだろう?

今まで――ずっと。

何を今まで気にしていたのだろう?

恐らく――今でも。

何をそんなに、怖がっていたのだろう?

きっと――いつまでも。


だから、もう忘れても構わない。

過去を捨てる事など厭わない――……『幸せ』の為に。

+++



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