形と探偵の何か
Page.20 「短調の休日」




     Prologue

彼女は楽譜を広げた。

ピアノの鍵盤に、指先が触れる。

彼の耳に届く、旋律。

暗い調子のその歌は、

彼の心を奮わせる。


とても綺麗な歌でしょう、

彼女は彼に問い掛けた。


こういう歌は苦手だと、

彼は少し離れて言う。


こんな悲しい歌なんか、

作らなければいいのにと、

彼は彼女に問い掛けた。


      1

「先生っ」
校庭の状態が悪かった為の教室朝礼を終えて教室を出ようとする岩杉を、胡桃が捕まえた。岩杉が渋々ながら振り返り、不機嫌そうな声で言う。
「何だ?」
「『身内に不幸』って、どういうことだよ?」
「……あぁ、それか。それなら後で話してやるから」
「あぁっ、ちょっと」
やはり不機嫌だったらしい岩杉は、軽く手を振って行ってしまった。

「何だよ〜〜」
胡桃が仕方なく席に戻ると、詩杏が話し掛けてきた。
「どしたんやろね。昨日、警察の人来ててん……ふゆちゃんち」
「警察?」
「ってことは、相当大変ってことやんね?さすがにふゆちゃんが殺したなんてことはないと思うけど、普通の『不幸』やないと思う」
「身内って……葵さんか、梨羽さんか、鈴坊か」
「嫌やな、そんな暗い会話ー」
詩杏はハァ、とわざとらしく溜息をつく。
「お前が始めたんだろが、霧島」
「でもパトカー来て騒いでたんは事実やで?ただでさえこの辺て静かやから、近所にも筒抜けやったとは思うけど」
「とにかく、後で先生に問い質してやんないとな」
「あはは、せやね」
詩杏は笑い、自分の席に戻った。
問い質して、何があったのかを鮮明に知らないと――。
彼が学校を休んだなんてあれ以来――……彼の母親が亡くなった時。

不安因子はいくらでも出てくる。だから、余計に気になるのだ。

      *

「…………結局行けなかった」
「仕方ありません、そんな状態では授業なんか受けられませんよ」
身体に力が入らない。冬雪は布団の中にいた。まだ着替えても居なければ、まともに朝食も摂っていない。
「今日にはお兄様も帰ってきてくれると思いますから」
「葵が」
「えぇ。多少は役に立つでしょう?」
いつものように笑顔で暴言を吐いた梨羽は、冬雪の額に手を当ててすぐに離した。
「熱はなさそうですね。単なる疲労でしょう。朝食はどうしますか」
「何でも良いよ……何でも」
「風邪じゃないですからね。下りられますか?」
「あぁ……着替えるよ」
「着替えなくて結構ですから、下りてきてくださいね」
人の台詞を幾度となく中断し否定して、梨羽は部屋を去って行った。
(さてと)
 冬雪は何とか起き上がり、ベッドから降りた。着替えなくていいと言われているのでそれに従い、眼鏡を掛けてから部屋のドアを開ける。階段は冬雪の部屋の目の前にあり、寝ぼけていると落ちかねない、と普段は着替えてから2階に下りることにしているのだ。
(落ちなきゃいいんだろ、落ちなきゃ)
 冬雪は決して開かない隣の部屋の扉を見て、溜息をついた。

 難なく2階まで到達した冬雪はリビングのドアを開け、そこからダイニングの方へ向かった。
「…………」
そして席に座る。いつもなら、すぐ右側で鈴夜が新聞を読んでいて――ロクに読みもしない冬雪がそれを強奪するのが筋書きだった。きっと、冬雪が起きる前に読みたい記事を読み終えようと努力していたに違いない。
 今、梨羽がキッチンにいるのは見えるが、ダイニングテーブルに着席しているのは冬雪1人だけだ。必ずいたはずの鈴夜が、いない。
「白亜叔父様はもう少ししたら起きられると思いますけど」
「…………」
「冬雪?とりあえずいつも通りで大丈夫なんですね?」
「……あぁ」
答えも曖昧だ。気が抜ける。
「今何時」
「9時半ですね。もう1時間目は終わりました」
梨羽は焼けたトーストを載せた皿を冬雪の前に置いた。
「そう」
「はい。食欲はあるんですよね?」
「今更訊くなよ。いただきまス」
冬雪は合掌してマーガリンの蓋を開けた。

      2

 放課後。胡桃と詩杏は職員室に押し掛けていた。
「あぁ、秋野のことな、うん」
岩杉が小さめの声で言う。
 職員室であまりうるさくは出来ない。しかし他に場所がなかった。教室は部活で使われているし、他の教室を使うわけにもいかない。
「ごまかさないでよ?」
「っはは、判ってる。そんなことはしない――……そう、身内な。電話掛かってきて、弟が亡くなったって言うもんだからさ。焦ったよ」
「弟、!」

――鈴夜か。

胡桃と詩杏が顔を見合わせる。
「それで……?」
詩杏が体を乗り出して尋ねた。
「あぁ、今日は休ませて頂きますって電話だったからな。明日は判らない。まぁ今週ずっと休んだりはしないだろう、あいつのことだし」
「……けど」
詩杏は不安げな顔を見せたが、胡桃は岩杉のコメントに同感だった。3年前、彼の母親が亡くなった時も、彼は数日で見事なまでに立ち直っていた。
「それじゃ、殺されたんや……ね?先生」
「こ」
岩杉の表情が固まる。やはり知らなかった――電話を掛けたのは恐らく梨羽、きっとそこまでは話さなかったのだろう。
「だって昨日、パトカー来てたんですよ?うちの前。警察の人、兄さんに怪しい奴見なかったかって訊いてましたけど、多分そう……」
「…………あいつめ」
岩杉は溜息を漏らして呟いた。
「行くぞ、帰りの準備しろ」
「え?ど、どこに」
「あいつの家だ。家庭訪問ってことで」
「勝手に行っ、」
「何言ってんだ、お前らだって俺の部屋来る癖に?」
岩杉はからかうような目付きをして机を少し片付け、周りの教師に「お先に」と言って立ち上がった。
「本気で行くの?」
「当たり前だ。警察が居てもお構いなしだな」
何という横暴さか――。
胡桃たちは慌てて彼を追いかける。職員室を出、岩杉は職員用の下駄箱へ向かう。仕方なく、2人は昇降口へと進路を変えた。

      *

 午後。冬雪は部屋でゴロゴロしている。梨羽はリビングだろう。白亜に事務所と1階と警察を任せ、葵の帰宅を待っていた。

――ピンポーン。

 インターホンに梨羽が反応したらしい、階段を下りる音が聞こえる。何が起こっているかは、3階からでは判らない。
 しばらく待っていると、再び階段を上るらしい音が聞こえた。そして、その音は近づいてくる。

――ガチャ。

「冬雪」
「……あん?」
「先生たちです。下、下りられますか?」

――まさか、彼らが来るとは思っていなかった。

      *

 1階では邪魔ということで、2階リビングに上がっていた3人のところへやってきた冬雪は、大していつもと変わらず、ただ胡桃たちを馬鹿にするような目で見ていたのは可笑しかった。
「お邪魔してる」
「…………別に」
岩杉の挨拶に、私服姿の冬雪はそう感慨もなく、胡桃の隣に力なく座った。
「突然何さ?」

――言葉だけはキツかったが。

「詳しい話を聞けなかったからな。家庭訪問」
「それって、保護者と話すモノ。それに、詳しいこと聞きたいなら下の警察に訊いた方が速いよ」
飽くまで自分の労働は減らしたい考えらしい。
「答えてはくれないさ。事情聴取とは違うから、適当に質問に答えてくれればいい」
「それって拷問」
「そういうこと言うな。警察が来てるって時点であれだが――……事件、なんだよな?」
「そうだね。ナイフで一突き、んで抜いたんだってさ。とーぜん、血の海だろ。酷いもんだよな」
冬雪はそこまで言い終えると、あーあ、とやけに大きな声で言った。どうやら半分壊れているらしい。休んだのも理解できる。
「次、いつ来られる?」
「学校?んー、明後日かな。警察いるしね、声明文……になるのかな、あれのこともあるし、凄いよね」
「声明文?」
「うん」
冬雪は何故か、妙に明るい声で言った。
「鈴が『8人目』なんだけど、『7人目に訪れなかった不幸が、他の者に向かないように』ってさ。オレのこと狙ってるんだ、まだ」
「そうか、7人目か……そうだったな」
「怖い、そしたらずっと来れないやんか」
詩杏が急に叫んだ。
「ボディガードとかつかないかな」
冬雪が笑って言った。学生にボディガードも何もない。学校へ着いてしまえばまず安心だ。となれば、この家から学校までの数十メートルが問題になると。
「車でお出迎え?」
「だったらいいなー」
「そんな距離じゃねぇっての」
「自転車でぶっ飛ばせば平気かな。撃てる訳ないもん」
「移動標的だって撃てる人は撃てるぜ?」
「…………人を怖がらすんじゃないっ、胡桃」
冬雪が側にあった孫の手で胡桃の肩を叩いた。胡桃がそれを掴んで逆襲に入り、その場はかなり混乱した。

「……はいはい、ケンカは終わり」
岩杉が手を叩くと、何故か2人はぴたりとケンカを止めた。凄い効力だ。
「とにかく!明日一日はオレ、様子見るから、学校行けないと思う」
「そっか」
「じゃあ明後日か。頑張って来いよ」
「イェス、サー!先生、期待して待っててね、あはは」
この数分で何故か気分が高調したらしい冬雪はケラケラと笑い、3人の退場を見送る時は完全に笑顔だった。いったい何だと言うのだろう。
 胡桃の疑問が解消されるのに、そう時間は取らなかった。

 後から部屋を覗いた時、1人で彼が辛そうにしているのが見えたから。

      3

 計画は、順調だ。
 阿久津秀とカズマ・グレイは木の陰に隠れている。手には小型拳銃、完全防備の服装だ。それでいて周囲に怪しまれないようにしなければならない。基本的にここは、阿久津家の目の前だったりもする。便利な場所だ。
 菅沢来駆は彼らと道の反対側で待機していた。ここで見張っていて、奴がやって来たときに様子を見計らって捕える。そして、ここから離れたところで殺害する方向だ。
 そういえば今『7人目』の家には警察がいなかった。一応2日で現場での検証を終え、捜査に入ったらしい。これはどちらにとっても好都合だ。

――ガガ……。
(ん?)
来駆のトランシーバが音を立てた。
「はい」
『こちら秀。異状あるか』
「ないよ、全然だ。さっさと終わらせてぇのになぁ」
『待ち伏せなんてそんなもんだろう……今日もあいつは学校来てなかった』
「そうか」
あいつイコール『7人目』だ。それだけショックが大きかったのか、早速葬式か、警察に事情を訊かれているか。
「殺されて明日も来なくならないように祈るんだな」
『……訳が判らないな』
「うおっと、何だ」
来駆の視界に、1人の男が入った。茶色のジャンパーを着た、中年の男。真っ黒の髪を固めずに下ろしていた。ポケットに手を入れて、歩道をこちらの方向に歩いてくる。
(身長的にはぴったりだ)
そして、中途半端に来駆から離れた位置で停止した。
(止まった?)
「秀、見えるか?こっちの歩道に怪しい奴がいる」
『ボスに代わる。……カズマだ、今確認する。待ってろよ、奴だったらお前が取り押さえるんだぞ。…………おい、ビンゴだぜ。よし、来駆――行け』
(いきなり当たりかい!)
来駆は状況に半分感謝しつつ、自分が担当することになってしまったことを悔やんだ。
(行くしかないんだよなぁ)

―――ざっ。

来駆が歩道へと素早く出る。
「!?」
「……久し振りですね、」

――ガッ。

来駆が男に襲い掛かった。
「な……っ、誰だ……っ」
「秀!」
『OK!今行く』
道端で格闘する2人を押さえに、秀とカズマが道を渡った。
「静かにしてくれって……ったく、擦り剥いたじゃんか」
「それくらい我慢しろ、来駆」
「ら、来駆?」
男はその名に何故か敏感に反応した。甥だから、だろうか?
「あん?あぁ。架叔父、無事逮捕ー。何てな。ボス、これで」
「後は俺に任せな」
カズマはいつになく悪党らしい顔を見せると、秀たちから男の身柄を奪い、木に叩きつけた。枝が揺れる。
「架兄貴だな」
「……お前…………一磨か?」
「あぁ。あんたに弟は1人しかいねェだろ……で。ちょっとこっち来い」
カズマたちは再び道を渡り、架を車に乗せて、人が誰も居ない、とある駐車場へと移動した。

      *

「認めろよ、『Y殺し』。今さっきお前は、カフェオレを殺す為にあそこに来た」
「か、カフェオレだって?何だよそれ、一磨?」
架は慌てる素振りを全く見せず、カズマをあざけるような口調で言った。
 だが、煙草を持ったその右手は、震えていた。
「茶髪のガキだ。『7人目』だよ」
「あ、あぁ……冬雪のことか」
「オイ、認めねぇのか?」
「ははっ、そうだよ、あいつを殺せば遂にうざったい秋野家が消えるんだ。そ、そうだ、香子を殺したのはお前らだろう!!きっとこれから俺を殺して、舞香も殺すつもりなんだな!!春崎を潰すのか、ははっ!そういう寸断かよ」
 架の言動は支離滅裂で、相当動揺していることが窺えた。
「残念だが、そういう寸断だ。春崎だけでなく、夢見月全てをな。悪いが兄貴、死んでもらうぜ」
「一磨よぅ、お前も悪党ンなってたのかよ。滝彦兄貴だけなんだな、真っ当な道歩んでるのはさ」
「お前の言う台詞じゃねぇな」
「来駆まで一磨の手下か?いい加減、菅沢の血を何とかしたほうが良さそうだな、オイ。自分で自分の血を制裁する。いいかと思うぜ、一磨。俺を殺して、今度は夢見月を抹殺するんだな?それでお前は、次に来駆を消すんだ。滝彦を殺したあとは、お前が自殺して菅沢はジ・エンドだよ、あはは!!素晴らしい計画だ」
「自殺なんかはしない。その口閉じろよ、兄貴」
「それでも兄貴呼ばわりしてるところが一磨らしいぜ。殺すならさっさと殺しな、一磨。殺すまでいつまでだって喋っててやるよ」
「…………今すぐ殺してやる」

―――ガッ。

2人が見ている側で――……刃物は彼の胸に刺さった。
「が……ははっ、苦しませて殺そうってのか、お、お前は」
「卑怯な性格なもんでな。あんたら兄貴のおかげで」
「ひょ、妙な、く、口を叩くなよ、一磨。オヤジも、お、お袋も、た、滝彦と俺で、失敗、しちまったからよ、一磨には、厳しかった、らしいぜ」
「……滝彦兄貴は失敗じゃないだろう」
「か、カズ、判ってねェな、滝……はな、頭が、メチャクチャ、悪いんだよ。俺なんかより、比べ物に……ならん。くはあ!だから、カズは、せ、成功だってさ……笑えるだろう?『成功作』を、大事に、するんだな」
「最後に説教か」
「そ、そうさ――生徒会長さんよぉ」
「笑わせるな?じゃあな、兄貴」
カズマが刃物を抜き、その場が俄かに血の海と化す。見慣れているとはいえ――正直言って気持ち悪い。ここが家の前でなくて良かったと、秀はつくづく思った。
「帰るぞ、秀、来駆」
刃物を仕舞い、カズマはこちらに声を掛けてきた。2人はそこを避けて通り、カズマの乗る車に乗り込んだ。

「よくまぁあんなにペラペラと喋ったもんだ」
「普通の人はあんなに喋れないはず……」
「身体は強かったんですねぇ」
三種三様の感想を述べ合い――カズマ、秀、来駆の順――、車は再び、先程の場所へと戻った。
「そういえばボス、生徒会長だったんですか?」
「中学の頃に。じゃあな、秀。また」
「ええ」
秀を1人家の前で降ろし、車はまた発進した。

(これで――『Y殺し』は利用できなくなった、か)
秀は玄関の扉を開け、迎えに来る珠と共にリビングへと入る。
(しかし、あいつを殺されずに済んだのは良かったかもな)
また姉が喚いている。手伝わなければ――。
(あいつは、手強い上に情報源にもなるやつだ――使えるだけ使わないと)
暖簾を上げると、姉の悲鳴は最高潮に達した。
「もうっ!!あたし二度と料理なんかやってやんない!!」
「…………ハァ」
綾のヒステリーで、秀は再び日常の世界に戻ってきた。

      4

 水曜日朝。起き抜けに確認すると冬雪の携帯電話に1通、メールが入っていた。時刻が深夜だが、差出人は雪子だった。
(まーた不幸のご連絡ですか?)
内容に最初から期待はしなかったものの、やはり想像した通り訃報だった。しかし、その対象人物は意外なものだった。
(あいつ…………架、って香子の夫だよな?)

つまり、イコール『Y殺し』――……。

「……殺されたのか」
しかし、世間一般の人間は彼が『Y殺し』であることは知らない。では、夢見月家の人間はこれからも存在しない『Y殺し』に怯えることになるのか?
「匿名のタレコミって手かな」
あるいは、夢見月の中にだけ匿名でその話を流すか。どっちにしろ、知らせない限りは彼らを不必要に怖がらせてしまう。冬雪は携帯を机の上に置いて、制服に着替えて部屋を出た。

「おはよ」
「おはようございます。今日は大丈夫そうですね」
「おぅ」
冬雪はキッチンの梨羽に声を掛け、その返事の快さに喜んだ。いつもの指定席に座り、右斜め前に座っている白亜に少し笑いかける。さすがに彼から新聞を強奪する訳には行かなかった。
「調子も良さそうだね、冬雪くん」
「おかげさまです」
彼に向かってにっこりと微笑み、梨羽の持ってきた皿を受け取った。
「そういえば雪子からメールが入っててね、何か……架さんが死んだらしいよ」
「ほ、本当ですか、冬雪?」
驚いたらしい梨羽は布巾を落とした。
「冬雪くん、それってつまり……『Y殺し』が、死んだってこと……?」
「そう、なりますね」
冬雪はトーストを齧りながら答えた。
「多分、あの人たちの……『Still』の仕業なんです。きっと――……どういうつもりか知りませんけど、オレらにとって良い事してる訳じゃない。どうにかしなきゃいけないんです」
「……そうだね」
冬雪はトーストを食べ終え、最後に紅茶を口に含んだ。喉に通してから、深呼吸をして立つ。
「それじゃ、準備してくるから」
「はい」
梨羽と白亜は同時に、笑って言った。

      *

「おぉー!冬雪!やっと来たかー……しかも早いじゃねぇか」
「さすがにね」
胡桃はケラケラと笑い、バンバンと冬雪の肩を叩いた。
「あはは!!良かった良かった、このままお前が狂っちまったらどうしようかと思ったね、俺は」
「狂いやしないよ」
そう言いつつ、最初の授業の準備を始める。
「しっかし、大変だったな」
「今も大変だよ?」
「まさか鈴坊がなんてさ、思わなかったから」
「…………そんなもんだよ」
冬雪は軽く乗り切り、鞄を机の横に掛けた。
 胡桃が自分の宿題に戻る。冬雪は特にやることもなかったので、後ろの様子を窺った。秀は宿題など、ちゃんと家でやって来ているのだろう。
「やぁ、おはよう」
「あぁ――」
すると秀は急に、顔を近づけてきた。
「いいか、誰にも聞かれるな――夢見月架が死んだのは知ってるな」
「……うん」
「あいつはお前を殺すために緑谷まで来てた」
「え」
「それを、僕らのほうで片付けた」
「阿久津は本当に――……『Still』のメンバーだって言うのか」
「やっぱり判ってたんだな。そうだよ。しかし――あいつにお前を殺されたんじゃ堪らないからな」
 何故――堪らないと?
 冬雪が殺されれば、そちらにとってみれば一人の敵が勝手に減ったことになる。労働量が減るではないか。
「こちらにも事情ってものがあってな。まぁ、架に関しては慎重だったんだ」
「…………君らが殺してなかったら、オレは殺されてたかも知れないんだね」
「そうかもな」
「感謝しておくよ」
冬雪が言うと、阿久津は少し笑って頷いた。
 敵であることに違いはないのに――……何故だろう、同級生であるがための情けだろうか。どちらにしろ、冬雪は彼らによって命拾いしたのだ。礼をするだけの価値はあった。


――その時だけは。


    epilogue

「……最近、危ないことに関わってるらしいじゃん?」
暢気に茶を飲む流人の目の前で、黒髪ポニーテールの女が言った。
「危ない、こと?」
「やだな、とぼけないでよ。『犯罪戦争』だよー」
女は馴れ馴れしい口調で流人に言う。流人は静かに茶を一口だけ飲んでから、応える。
「関わらない訳にはいかないんだ。私の威信にも関わることなんだからな」
「何でそんなのが威信に関わるんだよ、絶対奇妙しいって。でも――……ホントに、危ないんだよ?銃を子供に売ったって?あ、自分で作った?」
「そうだ。子供と言っても――……私の知り合いだよ?」
「ルーの知り合いだろうが何だろうが、銃ぶっ放せる人間だってことじゃん、それ。ばれたら死ぬかもとか、考えなかった?」
「考えたさ、勿論。でも、彼だってそれなりに追い詰められていたからね」
「だから、どうしてそこで信じちゃうかな。もしかしたら、演技かも知れないでしょ?」
女はまったくもう、と溜息をついた。そうは見えないのに、実は物凄く世話好きな女なのだ。幼稚園の先生という職業に就いているだけある。
「その子供、死んでないよね?」
「まだ、生きてる」
「『まだ』なんじゃん」
女は細かくチェックして、ようやく冷めてきたほうじ茶を飲んだ。
「あたしだってさ、関わっちゃったら危ないんだよ。判るっしょ?だから、なるべく関わらないようにしてんのに、ルーがそんな犯罪行為に及んじゃうからさー、もう……困ってるんだよ?どうにかしてよね」
女はバンバンとカウンターを叩いた。
「悪かった」
「謝ってる顔じゃないよ、それ。そもそもルーはさ、罪悪感感じてないんだろ?だーから、あたしがこれだけ言っても聞いてくれないんだ」
「私の仕事は飽くまで道具の供給だからね」
「その考えがいけないんじゃんか!もう、いつもいつも暢気過ぎて呆れるよ、ルーには」
女は前髪をつまんだりねじったりして弄ぶと、ハァーと大きく溜息をつく。
「ミカコ」
「何?あたしはルーの説得に応じるような、軽い女じゃないからね」
「……何のことを言ってるんだ?君がどうして反対するのか、その理由を訊きたいんだよ」
「理由?そんなの、死ぬのが嫌だからだよ。あたしまだ30前なんだしー、ほらっ、人生これからよ?そんな時にこんなのに巻き込まれちゃったら、一生台無しにするも同然じゃん!」
ミカコという女は、大げさに身振りをつけて言った。
「私が銃を売った子は、この問題に関わらざるを得ず、尚且つまだ、君の歳の半分だ」
「………………そーしてあたしを、頷かせようって言うんだろー?ルーの寸断なんか、すぐ判るんだよ」
「彼の苦労は、並のものじゃない。君は、関わるか関わらないか、選ぶことが出来る、幸せな立場だと思わないか?私は少なくとも、CEを受けた立場ではないから――……関わらなくても構わない。でも君はどうだ?CE享受者じゃないか。彼と同じだよ。私の友人を知っているだろう?黒髪でよく煙草吸ってる中学の国語教師――岩杉さん」
「あー、知ってる。名前だけね。その人もそうだって言うんだろ?その人さ、何者?ルーの友達って、何か不思議な人が多いよね」
「――この店に入ってる時点で不思議な人間だろうからな」
流人は投げやりに答えた。ミカコは不満げな顔を浮かべる。
「あ、もう1時……あたしそろそろ帰るな。これから彼氏とデートなんだ」
「……冗談だろう?」
「半分冗談、かな。年下の男の子なんだー」
「……そうか。気が向いたらまた来ればいい、ミカコ」
「うん。愚痴ればすっきりするしね。ま、世話になったよ、ルー」
「あぁ」

――キィ、パタン。

扉が閉まると、いつもこの部屋は急に静かになってしまう。今までの喧騒、今までの明るい空気。いったい、どこへ行ってしまうのだろう?
「ミカコ……か」
気を許した存在――……彼女は、流人にとっては数少ない、岩杉より長い付き合いの人間だ。そしてまた、流人を『人間関係』という複雑な波に乗ってしまわざるを得ない状況に持ち込んだ、張本人でもある。
 だからといって、彼女を恨む気もない。
 それなりの――……愛着くらい、あるのだから。

      *

彼女は笑ってそれを止め、

それじゃあこれにしましょうと、

明るい調子の歌を弾く。


彼は笑って傍に寄り、

やっぱりこういうのが好きと、

彼女と共に口ずさむ。


幼い彼はまだ知らない。

彼女の弾いた歌の意味、

彼女の話すことの意味、

全てのことが示す意味。


そして彼は大きくなって、

彼女と共に聴いた歌。

決して忘れぬその旋律に、

彼は心を奪われる。



いつか、彼女の弾いた歌を、

いつか、彼女と聴いた歌を。


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