形と探偵の何か
Page.4[時計と人形]





   Prologue

一体誰が、ボクを理解してくれるって?

いつもいつもボクは、人々の注目の的さ。

え?良い意味なら、ボクはそんなこと言わないよ。

――ただの見世物だったからね。

鬼の一種さ。君だって知っているだろう?

――そう、その鬼だよ。

……君は何も言わないんだね。

どうして、ここに居てくれるんだい?

君なら、ボクのコトを理解してくれるのかい?

そう、約束してくれる?


じゃあ――……約束だ。


   1

――まだ5時じゃないか……。

 玄関の扉をドンドン叩く音に起こされた三宮流人は、寝ぼけ眼のまま、そして寝起き姿そのままで、玄関扉の鍵を開けた。

――ガタンッ!

「うわあっ!」
顔面をドアに強打された流人は一気に眠気を覚まし、その犯人の姿を追った。
良くあるシーンと言うのはかなり暴力的、である。
「す、スミマセンっ」
「いえ、大丈夫です……はは。えーっと、何ですか?」
とにかく用事を聞かない事には。
「用事というか、火事なんです!!早く逃げないと」

――絶句。犯人と思っていたのは、近所の心優しい住民だった。

   *

「何?それで結局、どうなったワケ?」
「うちに被害はなかったよ、避難しただけ」
――ここは紅葉通駅前の喫茶店。流人の目の前に座っているのは、担任教師がおごると言ったのをいいことに、彼の財布を襲う育ち盛りの子供たち3人。これまでのところ流人に被害はナシなのが良かったところだろうか。
「しかし大変だな、放火らしいじゃないか」
担任教師が言う。
「ええ……被害に遭ったのはうちの隣の隣で、結局隣に火が移る前に消し止められましたけどね。中にいた人も逃げられましたから。でもほとんど焼けてしまったらしいですから……ホント、物騒です」
岩杉にお前まではおごれないと言われ、結局自費でコーヒーを飲む流人は、ふと隣の隣に誰が住んでいたかを思い出そうとしたが出来なかった。最近の世の中、近所づきあいも薄いものだと実感する。隣家は何とか知っているが。
「それやったら犯人、まだ捕まってないんやね」
ノリのいい性格だが割と清楚な詩杏は、静かにカフェオレを飲みつつ発言した。
「捕まってないのか」
そう力のない返答をしたのは寒がり少年、冬雪だった。
「でもさ、どうなの?目撃者とか」
「うちの前の通りがどんな所か知っているだろう?」
人通りなどほとんどない。
「そっか。じゃあ大変だよね、しかも朝5時じゃ」
「出勤には少し早いしな。まぁ……放火事件なんかだと続かなきゃいいがな」
「続いてくれても困るよ」
「当たり前だろ、冬雪」
「とにかく……うちに戻りますか」
「OK」
楽しそうに笑いながら席を立った子供に、流人は不思議な感覚を覚えていた。

――誰かに似ている?誰が、誰に似ているって?

……思い出せない。すぐ、そこに見えるはずなのに。どこだ?どこにいるんだ?

――その記憶の中に、何が待っているとも知らず。

   *

――おにいちゃん、何ていうの?

少年は流人を見て言った。とても、綺麗な目をしていた。
「さんのみや、るひと。君は?」
流人の答えを聞いた少年は、笑顔になって返答した。左の頬にえくぼが出来ていた。
「りょーや」
「りょうやくん、か」
流人は諒也の頭を撫でて言った。少年は尚も笑った。
「流人おにいちゃん、ぼくまた遊びに来ていい?」
無邪気な、たった3歳の少年の笑顔に、流人はそう答えざるを得なかった。
「……いいよ、いつでも遊びに来ていいよ」
「うんっ、ぜったい、ぼく、絶対遊びに来るからね」

――何も知らない少年は、嬉しそうに走り去っていった。

   *

「また放火ですか……」
近所の証言を得た警察官は、溜息をついてそう言った。

――最近、花蜂市内で放火が相次いでいるのだ。
 最初は、市内で最も発展した街といえる緑谷で起こった。駅前商店街の一角、いわゆる雑居ビルに火が放たれたのだ。しかし被害は建物だけで、人間は軽い怪我だけで済んだらしい。
 続いては有名高級住宅街として名を馳せる青梅町。住宅街だけあって、建物は密集している。その住宅街のど真ん中に、その火事は起こった。やはりそれも、警察によって放火と判断された。2人の死亡者が出た。
 更に、紅葉通の北に位置する銀杏並木町、緑谷町の南である紫苑町、また緑谷北町と、各町で1件づつ、その放火事件が起こっていた。そして今回が、この紅葉通である。
 しかし、犯人がどのようにして標的を絞ったのかも判らない。全く共通性がないのだ。各町で1件づつ起こっているので犯人の住所も特定できない。市内に住んでいないかもしれないだろう。だからこそ、警察も困っているのだ。全て深夜か早朝の犯行で、目撃者もほとんどない。数少ない目撃証言も、それぞれの事件によって内容がばらついている。だから、同一犯であるかどうかも危ういのだ。模倣犯の可能性もかなり高い。
「……何だかな」
 流人は自分に判るはずも無い犯人像を思い浮かべ、独り、溜息をついた。


   2

「あ」

――しまった、ネジを回し忘れていたか――……。

流人がふと時計を見ると、見事に止まっていた。今時珍しい、ネジ巻式の振り子時計だ。何度か壊れかけているが、流人がいじって直して早24年。無論、流人が引き取る前にも使っていたのだから、もう相当の年数になるだろう。
「なかなか難儀だな、ネジ回さないと動かないってのは」
単に面倒なだけだ。しかし、捨てるには惜しい。
 流人はこの時計の他に腕時計は持っているが、家にある時計はその2つだけだ。2階には全く無い。2階で作業する際には腕時計で充分だからである。
「えーっと……今は」
腕時計を見て時刻を直す。
(しかし随分と、年季入ってるな)
ふと、あの日のことが思い出される。
まだ流人がここに来る前に住んでいた――……海辺の街。彼に初めて出逢った日の事が鮮やかに脳裏によみがえる。

「……明日また来るかな」

あの日の少年、懐かしい街。今は、どうなっているだろうか――。
(今度遊びに行ってみるか)
流人は時計のネジを回して時刻を合わせると、再びその時計を壁に掛けた。振り子の動く音が、また部屋の中に響き渡った。

     *

「おにいちゃん、何でも直せるの?」
「あぁ……大体はな」
少年は流人の手元を見て言った。
「じゃあ、時計も直せる?」
「? 直せるよ。今度持ってきてごらん」
「うんっ」
少年は嬉しそうに頷いた。
――少年はずっと、そこにしゃがんだままだった。作業が終わるまでずっと、そこに座っていた。
飽きもせず、興味深そうに、楽しそうに――見ていた。

……その興味がいつか、

流人自身に向いてしまわないかと、

いつも、恐れていた。

   *

「こんにちは」
「あぁ、いらっしゃい」
常連の1人、永山深月だ。
「砂糖ある?最近お菓子作ってるからすぐなくなっちゃうんだー」
敢えて紹介するなら“普通の女子大生”である。紅葉通のとある小さなアパートで、一人暮らしをしているらしい。確か、緑谷にある浜桜大に通っていると聞いた。名門として有名で、それだけあって頭はいいようだ。
「あるよ」
「わぁ、ありがとぉ。3つね」
「300円な」
「はーい」
流人が在庫をあさって渡すと、深月は代金を支払ってから世間話を始めた。
「ね、三宮君はあの噂知ってる?」
「噂?」
「ほら、放火事件続いてるでしょ?あれの犯人が、夢見月家なんじゃないかっていうハナシ。知らない?」
夢見月と言えば――テレビでは良く聞く名だが、今回の事件に関してはそんな話は初耳だった。
「……知らないが」
「あれ、知らないんだ!情報通なのに珍しいね」
深月は店に陳列してある商品を色々見ながら言った。
「どうして夢見月家が出てくるんだ?あの家は横浜じゃ」
ここは横浜から来るにはだいぶ遠い場所だ。
「やだ、それこそ噂だよ?えっとね、花蜂市内のどこだかに、あの家の人間が住んでるんだって。最近はもう、その話で持ち切りだよー」
「そう、なんだ」
「だからさ、疑わしきはチェックしといたほうがいいよ。あ、でも疑わしい人なんて判んないか。夏岡雪子だってそうだったし。ね?」
――夏岡雪子。最近騒がれていたカリスマ美容師である。しかして彼女は夢見月家の一族の者だったらしい、という話はTV上でも盛り上がった。
その所為で彼女の店がどうなっているかは流人が知る由も無い。
「あたしも良くは知らないんだけど、いろいろポイントがあるんだって。それはもう、警察だけが知ってる機密情報らしいから、あたしたちには入手できないみたいなんだけどね。あとはネットで調べれば何かあるかなー」
「ポイント?」
「うん。チェックポイント。こういう項目に当てはまったら、そう疑っても奇妙しくないっていう感じ。確実じゃないから微妙らしいけどね。あたし、調べられるだけ調べてみるね」
「永山さんは考え出したら止まらないタイプだね」
「そうだよー、困っちゃうくらい。あ、今度クッキー作ってきてあげるね。三宮君、好きだって言ってたでしょ?」
「ああ……」
深月は「じゃー決定!」と叫んで、その後店を出て行った。
(夢見月、か)
まさか、今回の放火事件にあの家が関わっているとは――。

――夢見月家は、十数年前から騒がれている極悪人一家、だ。それでも逮捕されている人間はほとんどいない。なぜなら、彼らの起こしたとされる事件は大半が迷宮入りし、解決することがないからだ。その理由は判らない。何より、凶悪で緻密に計算された犯罪ケースが多いのだ。
 だからこそ今回も――……犯人像の特定できない事件だからこそ、そういった噂が出てきたのだろうか。
(でも……あの家の人間がどうして?こんな街を襲ったところで何にも……)
ただの、東京の外れの街でしかないのだ。住所は東京で、幾分か発展してはいるものの、あの家に関わることは何も無いはずである。深月の話ではあの家の誰かが市内に住んでいると言っていたが、

――そいつが犯人なのか?それとも、そいつを狙った別の者の犯行?

どちらにしても流人に犯人が判るはずも無い。途中だったが思考を停止することにした。
(ポイントがあったって言ったか?)
どうしても気にしてしまう。
(……ネットで探してみようか)
パソコンは置いてあるもののあまり使わない。インターネットも繋げる状態ではあるが、ほとんどメールもほったらかしだ。多分、前回見たのは1ヶ月以上前だろう。
 流人は久し振りに、ノートパソコンのほこりを払って、電源を入れた。


   3

 ニュース方面の噂を探るべく電話回線を繋いだはいいが、なかなか見つからない。それに全く慣れていない。キーボードを打つので精一杯なのだ。
「『噂特報びっくりにゅうす』?」
検索にヒットしたのは妙なタイトルのサイトだった。とりあえず、何か情報があるかも知れない。流人は先に掲示板を覗いてみた。
――どうやら、放火事件のことは取り上げられているようであった。管理人の情報に対する返答は多く集まっていた。

『HN・佐倉:放火事件……。
ほんと、不思議ですよね。目撃証言が統一していないということは、複数犯か、あるいは誤認したかのどちらかですよね?ってことは、一族ぐるみの犯行だとしてもおかしくないですよね。……ところで先日のセロリの件ですけど……』
この後は、セロリの噂がつらつらと書かれていた。微妙に興味をそそられたのだが生憎そんな余裕は無い。読み飛ばす。
『HN・鶉:同感です!
放火事件の件ですが、僕としては佐倉さんに賛成ですね。ただ、どうして花蜂市を狙っているのかが全く判りません。特に狙いたい理由があるのか何なのか……夢見月家に関わりのある人間でもいるのでしょうか。あ、セロリが苦手な人でも……』
更にセロリの話が続いた。しかしこの鶉という人物は、夢見月家の一員が花蜂市内にいるらしいことを知らないようだ。知っていればこんなことは書かないだろう。彼の書き込みにはレスがついていた。
『HN・ぐーら:Re:同感です!
花蜂のどこかに、夢見月家の人間がいるとの情報がありましたよ。ぼくの調べでは確か、緑谷だったと思います。その人物が犯人なら、やはり目撃証言の不一致が気になりますよね。その人物を狙った犯行と考えた方がいいかも知れませんね』
ここに来て新情報だ。しかし国内有数の資産家であるらしい夢見月家の一員が住むなら、緑谷よりもやはり高級住宅街の青梅町が最適ではないのか。個人の好みもあるのだろうが。
(緑谷か。彼らの町だな)
寒がり少年とその仲間たち、だ。
「もしかしたら知ってるかも知れないかな……?」
町は広いようで狭い。特に冬雪なら、町内のペットを全て覚えていると言うぐらいなのだから町内全域に土地鑑もあれば詳しくもあるだろう。
流人は接続を切って、パソコン自体の電源も切ってから再び店へと戻った。

     *

「おにいちゃん、これ」
「お?」

――少年が重そうに抱えるそれは、古そうに見える大きな振り子時計だった。

「どうしたんだ?」
「動かなくなったの」
少年の差し出した時計を見る。
「直る?」
少年は心配そうに、こちらを見上げる。
「……うん、直りそうだ」
「ほんと!?じゃあ、直してくれる?」
「あぁ、しばらく待ってな」

――流人が直した時計を彼に渡すと、少年は嬉しそうに笑って言った。

「ありがと、流人おにいちゃん」
「どういたしまして」
流人が頭を撫でると、少年は声を出して笑った。

ずっとこうして、戯れていられればいいと思った。

     *

「!」
流人が店へ戻ると、そこには人影があった。
「ど、どうしたんだい?急に……秋野君」
「ちょっと遊びに、ね」

――いつもと違う、神秘的で且つ奇妙な雰囲気がした。

「……何かあったのかい?」
「? 別に何もないけど?硝子はよく逃げちゃうけどさ」
彼の家で最近飼い始めた雄猫のことだ。
だが、どうもいつもとは違う。絶対に違う。これは間違いなく、
「秋野君、ボクに何か言う事があるんだろう?」
冬雪はこちらを見て、驚いたような表情を浮かべた。
「さすが、鋭いね。放火事件のこと、調べてるんだよね?」
「……あぁ、少しな」
流人が答えると、冬雪は奇妙なことを言った。

「ぼくには、関わらないでね」

――少年は必死に、何かを訴えるような目つきだった。


   4

(関わるな……だって?)
どうしてそこに冬雪が関係してくるのか、それ自体が流人には全く判らなかった。
それに、彼が一人称に「ぼく」を使っている時点で奇妙しい。彼はどんな時でも「オレ」と言っていたはずだ。普段のこんな会話で――敬意を示しているわけでもないだろうに――、急に一人称を変えるような事はまずないだろう。

――その日から、既に3日経っている。

冬雪はあれから、1回もここへ来ていない。岩杉に聞いても、「さあ?」と答えるのみで情報は全くなかった。
単に忙しいだけなら構わないのだが――。
「流人……何をそんなに真剣になっているんだ?」
「だって、すごく奇妙しかったんですよ。何かこう、悩ましげで……」
「俺が見る限りはそんなことも無かったけどな?いつも通りだった」
「そう、ですか……?」
毎日顔を合わせている岩杉が言うのならそうなのだろうか。
「で、それはどうでもいいんだ。何をお前、色々考えてるんだよ」
「何をって」
「珍しくメールも見てるしな?」
「あ」
岩杉は唯一、流人のメールアドレスを知っている人物なのだ。多分今まで、送っても見ない、しかも返してこないと考えていただろう。
「しかも2週間前のメールに返事返してきやがってな?」
「……いやほら、やっぱり返したほうがいいかと思って」
「今更だよ」
岩杉が流人の出したコーヒーを一口飲んで、再びこちらを向いた。
「で、放火事件の犯人はまだ捕まってないらしいな。物騒な」
「そういえばまたありましたね」
昨日TVで放送していたのを見た。
「緑北だ」
通称緑北、正式名称は緑谷北町。ここでは2件目になるらしい。
「今回の目撃証言は若い女性が慌てて走って逃げたとかだったな。緑谷じゃ中年男だったらしいし。怪しい集団が犯人か?」
岩杉が唸りだす。
「夢見月が関わっているらしいというのはどう思いますか?」
「は?」
「常連さんから聞いたんです」
「夢見月が?あれは横浜だろ?」
「ええ。でも……一族の誰かが花蜂市……そう、緑谷に住んでるって」
「あぁ、それなら心配無用だ」
緑谷、という単語を聞いた瞬間、岩杉は笑って反論に入った。
「え?」
「そいつは放火犯じゃねぇよ、絶対。俺が保証する」
どうしてそこまで断言出来るのだろう――もしや、知っている人物なのか。
 岩杉は微笑んで、コーヒーを飲んだ。
「それじゃあ、その人を狙っての犯行と」
「狙って?どう考えたって市内の町ごとに1軒ずつ火事起こして……狙ってるとは思えないだろ?『狙う』って言うんならそのままそいつの家に火付ければいい話だ。大体、普通に生活してたって冬は火事が起こりやすい季節なんだからな。乾燥してるわけだし」
それはそうだが。
「狙うっていう表現が奇妙しいのか?嫌がらせか……流人、そういうことが言いたいわけだ?」
「あぁ、まぁ……そんな感じでしょうね」
「可能性はある、かな」
彼の表情は一転、真剣な目付きになった。
「緑谷に住んでる『夢見月』が、本家夢見月に嫌がらせされている、か。うん、ありえない線じゃないだろうな。流人、その情報、常連か誰かから聞いたのか?」
「えぇ」
「随分詳しい常連なんだな。普通の住民はそんな事まず知らないぞ」
「えぇ、そういう方ですから」
「そか」
岩杉はコーヒーの最後の一口を飲み干して、楽しそうに笑った。
――落ち着かない。彼は何もかもを知っている。
「岩杉さん」
「お?」
「その、緑谷の『夢見月』さんのこと、知ってるんですね?」
岩杉は一瞬黙り込んだ。が、すぐに口を開いた。
「――ああ、知ってるよ。けど、教えていいものじゃないだろ?仮にもお前はそうして色々調べてる訳だしな。そいつが、自分の情報を流人に流されてどう思うかは判らない」
「でも、緑谷の夢見月さん、であることは確かでしょう?名前ぐらい、別に構わないじゃないですか」
その人物がどこに住んでいてどういう人物かぐらい、友人を紹介するだけでも充分伝わる情報ではないか。
 岩杉は小さくため息を吐いた。
「あぁ、そりゃ戸籍にはそう書いてあるけど……いつもは『夢見月何某』って名前じゃない。普通に流人に紹介しただけじゃ、誰が夢見月かなんて判らないよ。それはもう、流人自身が調べるしかない」
――普段は別の名を名乗っていると言うことか。
しかしその状況で流人が自分で調べると言うのも――なかなか難儀だ。
「そういえばその噂で、現場に『K.H』って書かれた手帳が落ちてたらしいってのは聞いたか?」
「手帳、ですか?」
「あぁ。俺も今日聞いたんだ。日直で学校行ってたんだけど、そこで用務員さんに聞いてな。ま、K.Hなら夢見月とは限らないか――」
岩杉がそこまで言った時、店の扉が軋む音がした。
「K.Hなら限れるよ」
高らかな少年の声。その影は――、
「秋野君、藍田君!」
「どーも」
2人がいつもの指定席に座る。
「K.Hなら、1番の犯人候補だね」
「え?」
冬雪が自信に満ちた表情で言い放った。
「キョーコ・ハルサキ。先生、その手帳、ピンクだとか言ってたよね?オレもさっき聞いたんだよ。霧島が女子情報で集めてきてさー」
「そういえば霧島は来てないのか?」
「今日は毛糸買いに行くんだとさ。厳格兄貴と」
両親の居ない詩杏は兄と2人で暮らしている。毛糸と言うのは恐らく家庭科か何かで使うのだろう。
「ピンクなら、間違いナシだね、胡桃?」
「ああ……だろうな」
「それでK.Hだとすれば、そこに居たのは確実に春崎香子。イコール、夢見月香子だ」
「!」
冬雪はくすくすと笑いながら、流人のほうを見た。
「共犯って言われてるのは多分、香子の家族だろ。夫と、娘ってとこかな。そうすればつじつまが合うから」
目撃証言の中年男と若い女性。どこかでは30代の女性も挙げられていた。
「さてと、あとは証拠だね。これじゃ状況証拠にしかならないもん。それに噂だけだし?」
「証拠か」
「ないよね、やっぱさ」
大きくため息を吐き、冬雪は身体を反らせてリラックスモードに入った。
「しかし秋野君……どうしてそんなに知ってるんだ?」
「どうしてって、あれ?言ってなかったっけ、先生」
「さぁ、言ってないんじゃないのか?俺は少なくとも聞いてないし言ってもいない」
「じゃ言ってないのか。えーっと……流人、オレも、夢見月なんだ」

――とんでもない事を言われた気がした。

流人が絶句していると、冬雪は苦笑して続けた。
「騙してるつもりはなかったけどね。普段から秋野だから、夢見月って言われても自分の名前って感じはしないし。ただそうだって事を知ってた……だけ。鈴夜……弟にも最近話したくらいだよ。うん、言ってなくてゴメン」
冬雪はそう言いつつ、鞄をごそごそ探って、ヨレヨレになった小さなピンクの手帳を取り出した。裏表紙の下のほうには、黒のペンで『F.A』と書いてある。『秋野冬雪』のイニシャルだろう。そして、その色が示すのは恐らく、夢見月家――。
「俺だって聞いたの中学行ってからだろ」
胡桃が雑誌に没頭しつつも会話に参加している。参加になっているかは微妙だが。
「はは、そうだったかな」
冬雪は照れ笑いか、顔を赤くして笑った。
「とりあえず……オレへの嫌がらせだろうね。たった一人のためにワケのわかんないことしやがって。ま、後は警察の仕事だからこっちは手を引こう!」
「そう、だね」
緑谷の夢見月と言うのは冬雪の事か――……意外と言うか、予想外と言うか、むしろ信じられないと言うべきか。
岩杉が彼の事をかばったのも当然だろう。
先入観と言うものは恐ろしい、と言う訳か――。改めて実感させられた。

しかしだとすれば――……こうしていつもと同じ毎日が、ずっと平凡に続いてくれればいいのだが―ー。
もしもの時、と言うのが怖かった。

(そんな心配してちゃ始まらない……か)

楽しそうに談笑する彼らの姿に、いつもと違って何処か強さを感じた。

   *

「兄ちゃん」
「?どうした?」
「時計、もう使わないんだって。どうすればいい?ぼく、捨てるの嫌」

――ずっと前に、直してやったあの時計だった。
諒也は寂しそうに、流人の目を見ていた。あの時と全く変わらない目だった。

「ボクが引き取ってあげる」
「ほんと?」
「使うには充分の品だからさ」
流人にとっても捨てるには惜しい、そんなモノだった。
「それじゃ、後で持ってくるよ」
「うん」

――時計を使わなくなった理由を、もっと詳しく聞いておけば良かったと、

後になってから、何度も悔しく思った。


   Epilogue

――ぼく、東京に引っ越すんだ。でっかい家に、4人で暮らすんだよ。

最後の日の少年は、少し寂しそうに、しかして東京への好奇心で一杯の顔をしていた。
「元気にしてろよ」
流人が言うと、少年は大きく頷いて、紙切れを差し出した。
「これ、住所とか書いてあるから。流人兄ちゃん、手紙送ってよ」
「あぁ、送るよ」
「絶対だからね」
「ああ。約束する」

――あの日と同じ台詞、今度は逆の立場に立っての言葉だった。

「行くよ、諒」
「! うん。じゃあね、流人兄ちゃん」
父親の運転する車に乗った少年は、最後まで、姿が見えなくなるまで、流人に手を振り続けていた。

――あの子はどうして……この街を離れることになったのだろう。

いくら流人が尋ねても、風は答えてくれなかった。


       *
 

遠い日の懐かしい物語。

流人がまだ、この紅葉通へ来る前の事。

――幼き日の岩杉諒也との、小さくても暖かい、思い出話。



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