形と探偵の何か
Page.3[鞄と先生]




   1

いつもと全く変わらない火曜日の午後、緑谷中学校校門前。
「じゃーね、先生!」
「おぉ」
岩杉が手を振ったその時には、冬雪の乗る自転車はもう小さくなってしまっていた。
今日は流人のところへ寄る予定がある。用事というのは――彼から試作品段階の何かを預かる、というものだった。何を預かるのかわからない上に、一体何故岩杉が実験台に選ばれたのかさっぱりわからない。何か理由があるのだろうか。――いや、彼のことだ。無理矢理作った理由があるかもしれない。冗談として聞いてみることにしよう。
 緑谷駅から上りで2駅、紅葉通駅で降りる。そこから歩いて数分、通りから少し入ったところに建った店「日本人形」を覗いた。玄関横の窓からだ。
――いつもなら、流人がカウンターでお茶でも飲みながら雑誌を読んでいるころで、冬雪がいる日にはきゃあきゃあ騒いでいるのだが今日は居ない。代わりに、中に見える流人の視線を思いっきり浴びていた。
 岩杉がここに来るたび中を覗いていたのは知っていただろう。しかし、ずっとこちらを向かれているというのも怖いものである。岩杉はすぐに玄関の扉を開けた。
「何だ!何じろじろ見てるんだ」
「そっちこそ、何だとは何です?覗く方が悪いんです。見えるんですから見ても構わないでしょう?第一、今日はボクが貴方を呼び出して貴方が来るのを待っていた訳ですから」
流人がそう言って取り出したのは、1つの鞄だった。革製の普通の通勤鞄風……で、ある。
「……鞄が……どうかしたのか?」
鞄以外の何物にも見えないのだが、やはり少し不安だ。
「おや、聞いてないか……これはですね、どんなに重い物を入れても重く感じないという究極の――」
流人が楽しそうに、そして途轍もなく嬉しそうに話している。これは止めに入らないと――しばらくは止まらない。
「あー、判ったよ、うん。で?俺に何をしろと?」
この人の発明は想像もつかない。よって実験という情報だけでは何をさせられるのか判らない。
「ん……何を入れても重くないと言ったか……?」
「言いました」
「……本気で?」
「えぇ」
「……頭大丈夫か?俺は物理には詳しくないが一応高校は出て――」
「な、何を言うんです、岩杉さん!馬鹿にしないで下さいよ……!ボクは長年こうした研究を続けているんですよ、知っているでしょう?」
「あぁ」
少なくとも岩杉が初めて彼と知り合った時には既に、彼は物いじりのエキスパートだった。
しかし常套句が『物理学的に有り得るものなら何でも出来る』である割に、有り得なさそうな事をやろうとしている辺りに疑問を感じる。
「――ですから、出来ないはずはありません!」
怪しげに流人がにやりと笑った。物凄い自信だ。
「あー、判ったよ頑張ってくれ。それにしても……そこまで言うならどうして研究成果を公然と発表しないんだ?もっと儲かる可能性だって」
「特許?」
「あぁ……そういう制度を利用すればいい」
最近は発明主婦なる者も居て随分儲かっているらしいが、岩杉はそんなものとは無縁だ。
「いや、それはまた難しくてね。三宮流人35歳、このまま有名になんかなっちゃったりしたらどうなります?」
流人はどう見ても20代半ばがいいところだが、戸籍上では35歳、である。
「どうなるって……言われても」
「人間からしてみれば、ボクは歳をとらないも同然です。10年もすれば奇妙しいと思われます」
「お前な……芸能人じゃないんだから。10年も話題の人で居られる訳ないだろ」
自分の研究にそれだけ自信があるのか、恥ずかしいのか。25年以上もの付き合いであるはずの流人の感情は、いまだもってさっぱり理解できない。
「……そうかも知れませんけど。とりあえず岩杉さん――これを、頼みます」
「頼む?……あぁ」
「えっと、これにですね」
流人は鞄を開けて、中に何かを詰め込んだ。

――見た。見てしまった。

だが何を入れたのかを信じたくない。
「な、なぁ……流人?」
「なんです?」
自分でも顔が引き攣っているのが判った。
彼が中に入れたのは――50kgのダンベル両手用つまり。合計100kg。
「それを……俺が実験するっていうのか?」
「ボクを信用しているんでしょう?小さい頃からの付き合いじゃないですか、お友達さん?」
流人が笑顔を作って岩杉の顔を下から覗き込んだ。
上目遣いでそうまで言われると――……唸るしか、無い。
「じゃあ、頼みますね!これで、毎朝学校に通うなりなんなり、一週間お願いします。最終実験ということで」
「……判ったよ。あ、これでもし俺が怪我したら流人の所為にするから」
「判ってますって!それじゃー宜しくお願いしますね」
「あぁ……」
正直乗り気ではなかったが、その鞄を恐る恐る手に取ってみる。
確かに――軽い。感じるのは鞄そのものの質量のみだった。
「これは……」
「どうです?凄いでしょう?」
“物理学的に有り得なさそう”な事が――……今実際に起こっている。
「あ……あぁ、これで実用化されれば是非欲しい一品ってトコだな。しかし一体……どういう仕組みになってるんだ?」
「それは企業秘密ですよ」
流人はむっとした顔を作って言った。定番の台詞だ。
「まぁ、よろしくお願いします」
「……あぁ」
そして再び店の外へ。
 岩杉は、振るたびにダンベルの質量の所為でかかる重力に圧倒されながら、しばしゆっくりと歩いた。

   2

――翌朝、7時50分。
出勤時刻はいつも通り。窓際の鳥籠の中でペットのインコが忙しなく動き回っている。元気だ。
玄関まで来たところで、傍に置いてあった流人の鞄に気付く。中身はまだダンベル2本のみだ。
「……これ以上入れてもな」
変に紙でも入れてぐしゃぐしゃにされては堪らない。持って行く意味は皆無だが頼まれ事だ――無視するわけにも行くまい。岩杉は通常の通勤鞄を背負った上で例の鞄を手に、玄関の扉を開けた。
 鍵を閉めて階段を下りた先に立っていたのは、岩杉のアパートの向かいに住んでいる藍田胡桃だった。大抵毎朝一緒になる。その後で時々冬雪が加わったり詩杏が加わったりもするが大概の場合は2人で学校に辿り着く。
「おはよー、先生」
「あぁ、おはよ」
「相変わらずやる気無いなー、先生ってば」
「悪かったな、これが地なモンでな」
よく言われるが、今更変えようにも変えられない。
「あー、思い出した。今日お前中間の面談やんなきゃならないんだが何時が良い?昼休みか放課後か――」
一度やり逃して、それからすっかり忘れていた。期末テスト中に、と言うのもなんなのだが――。
「はっ、今日!?ちょっと待って、勘弁してくれよ」
「いつやろうが、自分の成績は変わらないと思うけどな?」
わざとらしくニヤリと笑って見せると、胡桃は少したじろいだ。これぞ教師の権限と言うところか。
「はいはいいつでも良いですよーっと。期末の成績悪かったらその所為にするよ」
「……お前な、」
「自己弁護、自己弁護。冗談だよ。で?その鞄何?初めて見……いや、日本人形で見た事ある。その絡み?」
思いっきり話を逸らして胡桃が尋ねる。岩杉は適当にこれまでの経緯を説明した。
「ふぅん。なんだかんだ言って出来てんじゃん。持ってみて良い?」
「あぁ」
岩杉が鞄を手渡すと、彼は大声で叫んで喜んだ。
「うっわ、コレホントに軽い!何入れてんの?」
「自分で見てみれば良い」
胡桃は歩きながら鞄の蓋を開ける。
「…………え?ダンベル?」
「あー、間違いなく持てないから出さない方がいいぞ」
「へ、何キロこれ」
「1本50キロ。冗談みたいだろ」
「……ば……馬鹿になんないね、落としたら」
「そうだな」
適当な口調で答えると、胡桃はあたふたと蓋を閉めて岩杉に鞄を差し出した。その表情は必死だ。
「そこまで怖がらなくても」
「こ……怖いって。先生が持ってるって事はきっと実験か何かだろ?こんなのすぐ完成する訳無いんだし。って事は『万が一』どころか『百が一』ぐらいの確率で何かありそうだし」
「……まぁそうだけどな。その場合は流人に責任取ってもらう約束になってるから」
鞄を受け取った。
胡桃が呟く。
「……そうじゃなかったら困るって」
それもそうだ。
 それからしばらく歩き、中学校が視界に入ってきた辺りで反対側の歩道に渡ろうとした時だった。
「せんせぇ、胡桃!おっはよ」
声を張り上げて家から慌ただしく出てきたのは秋野冬雪。家が近いのにも関わらず毎日毎日遅刻直前で学校にやって来るのだが、今日は珍しく早い様子だ。
「何かあったのか?早いじゃないか」
「うん。今日の冬雪サマはスペシャルモードなのだー!」
彼は人目も気にせずにひゃっほう!と叫んで1回飛び上がった。
「何か……あったのか?ってさっきも訊いたが」
「へへ、今日は誕生日だからね。梨羽の手作りケーキが待ってるから」
「はー!ずりぃなお前、ホントにうらやましい」
胡桃は本気で落胆しているように見えるが、生憎岩杉にはそう思える感性を持って居なかった。彼女を貶している訳ではなく単に甘いものが苦手なだけである。
「――とりあえずおめでとう、14か」
そうでなかったら中2ではない。
「うん。若いっしょ」
「……俺と比べるな」
「判ってるよ。ピコ元気?」
インコの事だ。
「あぁ、だいぶ懐いた」
「速ッ」
「……俺を馬鹿にするなよ。伊達に鳥飼っちゃいない」
「じゃあ今度から先生にも手伝ってもらおう」
「無茶言うな。俺だってそこまで暇じゃない」
一応ながら職業教師、自由な時間を生徒のボランティアの手伝いに当てられるほどの余裕は無い。
「とてもそうは見えないけど……」
「同感」
「…………勝手に思ってろ」

――ぷちっ。

何となく――嫌な音がした気がした。

(……これ……か?)

視線を下へ。見た目に異常は見られないが、腕を振るたびに少しずつ傷んでいるような気がするのは気の所為か。

――とりあえず、今日の仕事が終わったら紅葉通へ向かおう。

 岩杉はそう決めて2人と共に校門をくぐった。

   *

「一体いつまでこうしてるつもり? ――弘原海(ワダツミ)君」

決して広くは無い部屋の中。室内にはパソコンが所狭しと並んでいる。

妙齢の女性が、弘原海と呼ばれた青年の方を向いて黒いシステムデスクに座って答えを待つ。

彼女の傍に立つ青年は、表情を変えず静かに答えた。

「今僕が出て行ったところで彼の迷惑になるだけです――。彼は今充分に幸せな人生を送っている」

「あら、本当にそう言い切れる?案外貴方の助けを待っているかも」

「……わざわざ彼を混乱させるような事はしたくありません」

「だったらもっと早く行けば良かったのよ。今までどれだけ彼が苦労してきたかは貴方が良く判っているでしょう?」

青年は黙り込む。

女性が言う。

「私にはこういう手段で彼にメッセージを送るしかないの。きっとまた私の事が嫌いになるわね。

でもそれはわざとやっている事だから――私はそれで構わないのよ。好きになられちゃ逆に困るの。

夢見月家とはこういうものだと思わせなきゃいけない――。

なんたって彼は私たちの『期待の星』。

もし貴方がそれを苦痛に思うなら、早く正体をばらした方が良いんじゃなくて?」

青年はしばし考える仕草を見せた。

それから小さく、呟く。

「しばらく、考えさせてください」

「えぇどうぞ、納得行くまでご自由に。私はずっと待ってるわ」

青年は彼女に一礼し、その無機質な部屋を出て行った。


「さぁ――……どうするつもりかしら、“お父さん”は」


部屋に1人取り残された彼女はそう呟き、デスク上のパソコンの電源を落とした。


   3

――紅葉通、日本人形。岩杉の話を聞いた流人は例の鞄の持ち手を眺めながらしばらく唸った。

「……ちょっと持って見て下さい」
言われた岩杉が両手で鞄を引き上げた、その時だった。

落ちた。

本当に『がしゃん』と音を立てて――……それは、カウンターの上に落下した。

「…………………………」
「なぁ、流人?」
「は、はい?」
答えたその顔は引き攣っている。
「これはまだ開発段階、だよな?」
「ま、まあなっ」
岩杉は鞄の持ち手だけを手にしている。流人は目の前で起こった惨劇に唖然と――否、呆然としている。
「い、いやあ、3日と持たなかったか」
「持たなかったな」
岩杉は鞄の残骸を無視して、いつもの椅子に座る。煙草に火をつけて、再び流人の方を向いた。彼が静かにため息を吐く。
「……なかなか難儀ですね」
「大体最初からそんな鞄作ろうとする方が悪い」
「いえ、出来るんですから大丈夫です!まず耐久重量を決めておけばきっと……」
「どんなものでも、って言っといてか?」
それでは自己矛盾しているだろう。
「鞄自体が耐えられないんですから仕方ないでしょう!」
「仕方なくないだろが」
岩杉は冗談っぽく言ったが、流人は未だもって悩んでいる。当然か。
「とにかく……実験失敗ってやつですね」
「そうだな。まぁ、また考えてくれよ」
「そうします」
流人はその残骸の中からダンベル2本を片手で軽々と持ち上げてカウンターの下にしまうと、残骸を奥の部屋――研究室なら2階だ――へと持っていった。
(しかしまぁ、怪力だな)
100kgを片手で、である。しかもあの、あまりにも普通な体格で、だ。
(……さすがは妖怪か)
岩杉が彼手作りの金属製灰皿に手を伸ばす。こうした小物くらいなら、お手の物らしい。そういえば岩杉が子供の頃にも何やら色々な物を作っていたか――。
(あの頃は作るだけじゃなく直すのも請け負ってたな?……一体どこからこんな技術手に入れたんだかな)

――階段を下りる音が耳に届き、再び彼の姿が岩杉の視界の中に入ってきた。

「ん?何がそんなに可笑しいんです?」
「え?いや、何でもないよ――」
昔を思い出して無意識ににやけていたらしいが、そんな事を言う訳にも行かない。
「怪しいですね」
「変な事は何一つ考えてないよ。それよりそうだ、頼みたい事があるんだ」
「……そう言って話を逸らそうとする」
「な、違う、ホントに頼みたいんだって」
「本当ですかー?その場凌ぎの急ごしらえな頼み事じゃないでしょうね」
「それでも頼みたい事には変わりないだろうが」
「ほら認めた」
「…………眠気ざましグッズが欲しいんだ」
流人はきょとんとした顔でこちらを見た。
「……貴方が使うんですか?」
「いや、断じて俺じゃない。あいつに決まってるだろ」
「……ははー、誕生日とクリスマスと教育的指導を含めた大胆なプレゼントって訳ですか」
通じたらしい。
岩杉は静かに笑った。
「あぁ、そんなトコだ。プラスお返しもな」
「嫌味ですね」
「貰ったのも嫌味だからな」
暇人扱いされたのはこちらだ。
流人は笑って「了解です」と答える。
「クリスマスまでには用意しましょう。授業はその頃まであるんでしょう?」
「あぁ、終業式が22だ」
「じゃあそれまでに」
「宜しく頼むよ」
「お任せ下さい、お客様」
冗談のような口調で彼はそう言って笑った。
「言っておくが予算は千円以内だからな」
「えー、もう少し行きません?」
「……冗談にそんな金掛けられるか」
「判りました」
かなり不満げだが、こちらだってそこまで生活に余裕がある訳ではない。


当たり前のように話して、当たり前のように遊んで――。

生きているだけで幸せだと、思えなくなったのはいつの頃からだろう。

憶えてもいない昔の事に思いを馳せても、戻ってくるのは絶望だけ。

(急に……一体何だって言うんだ……?)

「岩杉さん?」
「……あぁ、いや、何でもない」
「なら良いんですけどね」
流人は茶を淹れに奥の部屋へと向かった。

彼は何もかも判っている。
だからこそ信用に値するのだ。

ここは落ち着かない街の中で唯一故郷を思い出せる場所。
彼らには判らないだろうが――……ただ暇つぶしに来ているのとは訳が違う。

岩杉は静かに深呼吸して、だいぶ短くなった煙草の火を消して灰皿の中に突っ込んだ。



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