こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第六話 絡繰キャラクタァ




第五章「最終日//RESOLUTION」

   1


 ――その日は、とても懐かしい、夢を見た。


 退屈な十五の誕生日を迎えた、その次の週だったと思う。
 晴れてはいたけれどとても寒い冬の日の、夕方。インターホンが鳴って、誰かと思ったら帰宅した父だった。門扉の鍵を閉めていたわけでもないし、何事だろうと思いながら玄関に向かった。
 向かったら、ちょうど父が中に入ってきたところだった。

「お帰りなさ――……、? お客様ですか?」
 父の後ろに、髪の長い、見知らぬ女性が居る。母よりもだいぶ若いだろうと思う。穏やかに微笑んだ彼女は、後ろに隠れていた幼い子供の手を引いて、自分の前に引っ張り出した。
 いきなりのことで、僕は、わけが判らない。家に客を連れてくることなんて、この人に一度だってあっただろうか。
「お前の新しい母親と弟だ。挨拶しておけ」
「初めまして。あなたが直実さんね」
「……えっ……?」
 それってつまり、何だ。再婚したと、過去形だと、この男はそう言っているのか?
「と――、父さん、そういうの、僕に一言ぐらい相談したって」
 せめて一年ぐらい喪に服せとか、そこまで厳格に言うつもりは僕にだってない。それにしたって、何の相談も、宣言すら無しにことを進めるなんて、いくらなんでも酷いじゃないか。――僕だって、家族なのに。
 それとも何か、彼の中で僕は家族として認められてもいないのか。
 やり場のない憤りが、腹の中で沸々と煮えたぎっている。
 僕の訴えに耳を貸そうともせず、父は勝手に何処かへ行ってしまい、僕はその場に取り残される。どう、しろと言うのか。困って向き直ると、彼女は少し驚いた顔をして、年の割りに落ち着いた声で話し始めた。
「……もしかして、何も聞いてなかったの?」
 素直に頷けなくて、思わず顔を背けてしまう。彼女が息を呑んだ音が聞こえた、気がした。
 気まずくなって、かきあげた髪をぐしゃりと握る。
「ごめんなさいね、いきなり来たりして……私は珠実って言うの、あなたのお名前と一文字だけ同じね」
 『実』の字は母の名から一文字貰ったものだ。それが同じだと言われても、どういう顔を、どういう言葉を返していいのか、判らない。
 僕が何も言わないので、珠実さんは困ったように笑って、話題を変えるつもりか、不思議そうな顔をしている子供の手を再び、強く引いた。
「ほら、あなたもお兄ちゃんにご挨拶しなさい。ちゃんと教えたでしょう?」
「……はじめまして、ひむらまことです!」
 幼子のその一言が、全ての不確定事項を一掃する。
 純真無垢で素直な子供に罪などない。そんなことぐらい、僕だって頭では判っている。新しい名前を覚えて、精一杯の勇気を振り絞ったのであろう彼に、僕は自然な笑顔で同じ言葉を返して然るべきなのだろう。
 でも、何故だか――歪んだ笑顔しか、作れない。
「……初めまして。これから……よろしく、お願いします」
 なんて心のこもっていない言葉だろうと、自分でも思った。
 それでも珠実さんはにっこりと笑って、僕を置いて、父の消えていった方へと向かっていった。
 ――あの男は、この家に僕の居場所などないと言うつもりなのか。
 呆然と立ち尽くして、何を考えていいのかも判らない。
「おい、サネ。今の人、誰だ?」
 背後から、ハルの声が耳に飛び込んできた。何故もっと早く来ないのか――。せめて一人でなければ、もう少しマシな気分だったというものを。振り返る気力もなく、答えた。
「……珠実さんと、マコト君」
「名前だけ言われても判んねえよ」
「新しい母親と弟だと」
「へ? な、何だそれ、俺聞いてねえぞ!?」
「――僕も聞いてない」
 相手がハルであろうと、最低限の受け答えをすることすら煩わしく感じる。何も言わず振り返ってそのまま彼の脇を通り過ぎ、部屋へ逃げ帰った。
 どうせなら、このまま永遠に眠ってしまいたい。もっとも、そんなことをしたところで父は憤るだけで僕のことを思ってはくれないのだろうから、意味の無いことだとは判っている。それでも、そんな気分になった。
 ベッドの海に潜り込んで目を閉じ、何も考えず、ただ漫然と時間を過ごすことにした。

   *

 まどろみの世界から戻ってくると、夜になっていた。珠実さんと真珠君が二人で僕の部屋へやってきて、夕食にしましょうか、と言った。真珠君が僕に懐いてきたので手を繋いで、彼女の後について食堂に向かった。よく考えたら、食材や食器の何がどこにあるか、何も説明していないじゃないか――。悪いことをしたかも知れない、と思う。でも、口には出せなかった。
 夕食は豪華だった。もしかしたら、この一年自分で作っていた食事が退屈だっただけかも、知れない。判らない。あまりに豪華だったから、美味しかったけれど、全部は食べられなかった。それを見て父さんが鼻で笑ったが、珠実さんは苦笑して「気にしないで」と言ってくれた。……悪い人では、ないように思えた。
 食事が終わって、食器を片付けるという珠実さんを手伝おうとしたけれど、断られた。仕方ないので、一人で遊んでいた真珠君のところへ向かった。
 ――弟、か。二歳だと言っていたから、十三歳違うことになる。僕が早生まれだから、干支が同じだった。一回りも違うなんて、何だか、ピンと来ない。
「何してるの?」
「あのねえ、えのでんが走るの! なおざねさんも遊ぼ」
 ――名前で呼ばれた?
 珠実さんがそう呼ぶからだろう。彼にとってもまだ僕は「お兄ちゃん」ではないということか。……それならそれで、僕ら『兄弟』にとっては丁度いいのかも知れない。
 きっとここへ来るまでに、駅の近くで江ノ電を見て喜んだのだろうと思えば微笑ましいことじゃないか。そう、子供には何の罪もない。

 玩具の江ノ電を走らせながら、僕も子供の頃に戻ったような気分になった。
 こうして兄さんを巻き込んで遊んだのも、もう遠い昔のようだ。
 でもこの子には、これから僕の歳になるまで、まだそれだけの時間がある――。

「――真珠君」
「違うの、まことなの」
「? まこ、と?」
 違いがよく判らないが、呼び捨てにしろと言っているのだろうか? 彼は笑顔で頷いた。そういうことでいいのだろう。そして僕にも尋ねる。
「なおざねさんは、なおざねさんでいい?」
 子どもらしい、意味の通っているようでいない質問文。僕はしばし考える。
 真珠は、僕が『兄』になったということを理解しているのだろうか。そもそも兄弟という概念を理解しているのか? 幼稚園にも通っていない子供なのに。
「……いいよ」
「うん!」
 まぁ、名前で呼び合う兄弟も珍しくないと言うから――……別に、このままでも、構わない。
 でも少し、ほんの少しだけ、心の片隅に覚えた違和感が、燻り続けた。

   *

 翌日も、いつも通りの時間に目が覚めた。
 階段を下りて、目を擦りながら台所を覗いて、驚いた。そこに、人影がある。
「え……?」
「あら、もう起きてきたの? 随分早いのねぇ」
「あ、……えっと……朝御飯と、お弁当を」
 作らないと、と続けるつもりだった。
「あ、朝御飯は今作ってるからちょっと待っててね。お弁当はね、直実さんのお弁当箱はどれか判らないって言われちゃって、これかしらと思って選んでみたんだけど……」
 そう言って彼女は大きな弁当箱をひとつ取って見せる。――それは僕のではない、兄のだ。兄が、中高時代に使っていた、僕のより一回り大きい、弁当箱。
 彼女がその蓋を開けると、そこには既に中身が詰められていた。
 目の前で何が起こっているのか、起き抜けの頭で、よく理解できなかった。
「――はい」
 差し出されて、思わず受け取ってしまう。
「中学生の男の子ってどれぐらい食べるのか判らなくって……あ、でも昨日のお夕飯はそんなに食べてなかったから、もしかしてお兄さんのだったかしら? だったらちょっと多いかも知れないわねぇ。無理だったら残していいのよ、判らないほうが悪いんだから」
 何故か少し顔を赤くしながら、彼女はそうまくし立てる。
 僕は、どこから返答していいのか、判らない。ただ小さく頷くことしか出来ない。
 僕が作った面白味のない弁当ではなくて、珠実さんが、僕のために色々考えてくれて、こんなに朝早く起きて、作ってくれた――。

 どうしてだろう、

 どうして今僕は、涙を流しているんだろう――?

「…………か……」
 声が、喉が詰まって上手く声が出せない。
 どうして、こんな時に限って。
「え? だ……大丈夫?」
「お……、おかあさんって、呼んでも、いいですか……?」
 もう、何が何だか判らない。懐かしい思い出と、もう届かない風景と、今ある風景とが混ざり合って、頭の中もぐちゃぐちゃだ。
 珠実さん――否、義母は立ち尽くしている僕の手からそっと弁当箱を取って横に置くと、僕の身体を抱き寄せて、頭を撫でてくれる。

 この人は――……敵では、ない?

「もちろん。――こんなに嬉しいことはないわ」
 ああ、この人だって、不安だったに違いない。僕のような扱いにくい子供とどう接していいかなど、判らないに決まっている。

 だから僕は彼女に無理をさせてはならないと、迷惑を掛けてはならないと、精一杯『大人しい子供』を演じ続けた。そうすることが義務であり、使命だと思っていた。――追い出されるとしたら、僕だと思っていたから。

 それが逆に彼女にとって不安の種になろうなどとは、想像もしていなかった。

 だから結局は僕も、彼と変わらないのかも知れない。
 それでも諦めずに笑ってくれた彼女に、僕は感謝しなければならないのだと思う。

 ――いつも通りのアラームの音で目を覚まして、十年後の世界に戻ってくる。
 ベッドの端に腰掛け、視界を遮る茶色い前髪を持ち上げて束ねながら、ふと思う。

 あまり着たことのないような服を買った。
 髪を明るい色にした。
 少し悩んだがピアスも買った。
 新しい『友人』と羽目を外して『遊ぶ』のも、案外楽しかった。
 ――ほんの少しだけ、世界が違って見えた。

 ただそれだけのことが、彼にとっては恐怖になってしまうのかと思うと、少し口惜しかった。
 私だって昔は、――……。いや、やめておこうか。

 部屋のカーテンを開けた後、枕元の眼鏡を手にとって、目を擦りながら部屋を出た。
 私にとっては、いつもと変わらない朝。
 ――そして、最後の朝になる。

   2

 いたって平穏に一日を過ごし、迎えた夜の『出勤』時刻。
 僕が笑顔で手を振りながら送り出すと、直実さんは逆に不思議そうに首を傾げていたけれど、追及してくるようなことはなかった。予想通りだ。二階へ戻って、前回と同じように楓さんに連絡する。みっちゃんとは店の前で待ち合わせることにして、僕とハルは出掛ける準備をして外へ出る。
 手を振りながら駆けつけた楓さんを筆頭に、玄と柘榴さんと、クリスまで一緒に現れた。
「……随分多いんですね」
「うん、みっちゃんがどうせなら皆で行こうって。大丈夫、兄さんが何かするって言うから」
 楓さんは笑ってそう言うけれど、本当に大丈夫だろうか――。
 そこへ丁度、みっちゃんも戻ってきた。今日も、いつもの場所で待ち合わせているらしい。
「じゃあちょっと、固まってくれ」
 柘榴さんの言う通り、僕たちは全員ひとかたまりになる。それを確認すると柘榴さんは胸の前に片手を立てて、精神統一でもしているかのように、しばらく目を瞑って何か呟いていた。何をしているのか、僕にはさっぱり判らない。
 目を開けて「よし!」と叫んだ柘榴さんは自慢げに笑って、説明をした。
「――他の人間にはオレたちの姿も見えないし、声も聞こえないようにした。足音も聞こえない。これなら何の危険もないだろ。ただやっぱりオレにはキツいな……あんま持たないかも知れないから、もしもの時はお前らフォロー頼むぞ」
JAWOHL(ヤヴォール)
OUI, MONSIEUR(ウィ、ムシュー)
 恭しく次々に答えたのを見るに、お前ら、と言うのは玄とクリスのことらしい。よく考えたら彼らは使い魔のようなものなんだから、ただの人間よりも色々なことが出来るんだろう。多分だけど。
 しかし、本当に僕たちの姿は誰にも見えていないんだろうか。見えないだけでちゃんと身体はあるから、人にぶつからないように気を付けろよ、と柘榴さんは笑っている。――笑ってるけど、それって結構ハードだ。ここはいいけど、商店街の人通りはこの時間でもそれなりにある。
 全員で堂々と歩きながら、駅を目指した。堂々と踏切を渡って、北口改札前で携帯電話片手に相手を待つ彼の姿を確認する。人にぶつかっては困るから、人の通り道にならないような隙間に埋まり込みつつ、彼の様子を眺める。必死に隠れる必要のない分、ずっと楽だ。
 この騒ぎが起きてから実際彼を見るのは初めてのはずの柘榴さんは、興味深そうにじろじろと眺めていた。
「面白いですか?」
 尋ねてみると、柘榴さんは本当に楽しそうに笑った。
「面白い。――オレらにとっちゃ雲の上の人だったのに、いつの間にか地元に居るし、ああしてると何か普通の人みたいだし」
 僕にしてみれば、術を使えるというだけで柘榴さんだって雲の上の人だけど――。
 そうして雑談をしながら、彼の動きを待った。
 しばらくして、先日の二人組が脇道から駆け足で現れる。そうしてこの前と変わらない三人になったところで、彼らが移動を開始した。
「行くか」
 柘榴さんの呟きを合図に、全員が顔を見合わせて、ぞろぞろと彼らの後を追う。――本当に周囲の誰にも見えていないのか不安になるけど、安全に確認する術は思いつかない。このままついて行くしかない、か。
 でも、三人の僅か数メートル後ろを歩いていても全く気付いていないようだから、確かに気配は消えているのだろう。三人も居て、これだけの人数に気付かないわけがない。
 ――そして、それだけ近くに寄れるということは、直接彼らの会話も聞き取れるということだ。

「第三北奏ビルの三階? そこアジトなんですか? 直接来いって?」
 黒髪のお兄さん――健吾さんから場所を聞いた金髪の祥太さんが、質問をたたみ掛ける。健吾さんはそれにイライラした様子で頭を掻いた。
「一度にいくつも質問するな」
「すみません。でもそれ、もしオレたちがお気に召さなきゃヤバいって事じゃないッスか」
「ま、使えなきゃ殺る覚悟なんだろうよ」
 慌てて尋ねた祥太さんに対し、あっけらかんとした口調で、黒い男はそう答えた。自分が殺されるかも知れないにしては、随分と感情のなさそうな声だった。祥太さんとは対照的だ。二人の間、真ん中を歩いている直実さんは、静観を貫いている。後姿しか見えないので、その表情は窺えない。
「そんなワケで、『博士』様のお気に召すように頼みますよ、東大さん?」
 直実さんの肩をポンと叩きながら、健吾さんはそんなことを言う。……何だか少し、嫌らしい言い方だ。
 ――盛大に反応して凄い形相でこっちを見たのは柘榴さんで、次に楓さんが控えめに僕の方をちらちら見ていた。それぐらい知ってるものかと思っていた。説明を求められているらしいので、最低限の説明をしておくことにする。
「高校の先生に言われて受けたってだけで、行く気ゼロだったみたいですけど」
「ですけど、行ったの?」
 うっかり逆接で終わらせてしまったせいで、柘榴さんが余計に凄い顔になっている。
「いえ、一橋です」
「……ああ、……そりゃそうだよな……」
 何が『そりゃそう』なのかはよく判らなかったけど、柘榴さんは一気に項垂れつつもそれで納得してくれたらしい。
 前を歩いている三人は、呑気に雑談らしき会話を続けつつ、目的地を目指して歩いていった。
 それなりに人通りのあるアーケードからひとつ脇道に逸れ、少し行ってまた曲がり、もう少し行ってさらに曲がって、すっかり人影はなくなった。そんな真っ暗で細い裏道に、小さなビルが、一棟。見た限り三階建てだから、目的地は最上階だ。よく見ると、三階の明かりはまだ煌々と点いていた。――確かに、そこに人が居るらしい。
「じゃ、行きますか」
 祥太さんが大人しい声でそう宣言し、先頭を切って入口の階段を上り始める。この小さなビルには、どうやらエレベータなるハイテク機器はなさそうだ。僕らも大人しく、彼らの後を追って階段を上る。
 ひっそりとした狭い階段。かろうじて点いている壁の明かりも、どこか弱々しい。三人が上っていく靴音が反響して、とてもうるさく聞こえる。対照的に、僕らの足音は一切聞こえない。現実世界を歩いているのに、音の入っていないビデオを見ているかのようだ。
 先頭を進んでいた祥太さんが、三階に到着したことを確認して停止した。屋上は存在しないらしく、それ以上の上り階段はない。上り切った先の狭い踊り場の脇には小さなドアがひとつだけついており、そこから部屋に入れるらしい。僕の居るところからは、そのドアに社名なり人名なりが書いてあるかどうかは見えない。
「じゃ、行きますよ」
 祥太さんが小声でそう言って、ドアを二度、ノックした。
 中から返事があったかどうかは聞き取れなかったけど、祥太さんはドアノブをひねって、その扉を押し開けた。
「! 閉まる前にオレらも入るぞ」
 突然、柘榴さんが叫ぶ。……叫ぶけれど、その声が響くようなことはない。
 閉まってしまえば、迂闊には開けられない。柘榴さんなら何らかの入室手段を考えられるかも知れないけれど、そのせいで姿を消している術が解けたら元も子もない。大技を使うにはそれなりの体力を使うらしいから、柘榴さんに頼りすぎるのも危険だ。
 祥太さんに続いて室内に入る二人を追う。柘榴さんが階段を駆け上り、二人の真後ろにつけた。最後に入った健吾さんがドアから手を離すと、ドアはゆっくりと閉まり始める。
 それを柘榴さんが止めて、自然な速度と同じか、やや遅いペースで閉めていく。
 閉まらない内に、楓さんと僕、玄とクリスそしてハル、最後にみっちゃんが滑り込んだのを確認して、柘榴さんが手を離した。
 ――扉はガチャリと音を立てて、閉まった。

 ああ、安心して溜息なんか吐いてる場合じゃない。
 とりあえず、万が一の時の為に戸棚の陰に隠れながら、様子を窺うことにした。

 ――ビルの外見に違わず、部屋はそれほど広くはなかった。茶屋のフロア面積と比べたら、こちらの方が狭いくらいかも知れない。その狭い室内に、思わず咳き込みそうになる怪しい臭いが充満していて、心なしか空気が煙っても見える。

 そしてその室内の印象は、まさしく――実験室、だった。

 僕らが隠れているスチールの戸棚に仕舞われているのは、食器でも武器弾薬でもなく、ビーカーやフラスコなどの実験器具、そして何処から手に入れたのかと疑いたくなる薬品類のようだった。
 反対側の壁に立て掛けてある木製の本棚には、難しそうな専門書が並んでいる。
 部屋の奥のテーブルには、僕が見たことのないような実験器具らしきものと薬品のビン、それから本がゴチャゴチャと置いてあるようだ。
 そして三人衆を相手に何か楽しそうに演説している、どうやらこの部屋の主らしいその人は――いかにもそれらしく白衣などを纏った、若い男だった。顔は三人の影になって、ここからではよく見えない。
 彼こそが、噂の『博士』なのだろうか?
 ――細さで言えば直実さんと並ぶ。身長もそれほど高くない。あの人なら、僕でも勝てるかも知れない。
 でも、そこに居るのはあの人だけじゃない。みっちゃんが言っていた人なのだろうか、『博士』を補佐しているかのように、その左右に男が一人ずつついている。彼らは祥太さんたちに負けず劣らず強そうに見えるから、僕では到底勝てそうにない。
「――それじゃ、とりあえずは完成したんですね」
 聞き慣れた直実さんの声に、ふっと現実に引き戻される。
「そう、とりあえずは出来たんだ」
 これは、『博士』の声だろうか。髪もまだ真っ黒で若く見えるのに、随分しゃがれた声に聞こえたのが気になった。尤も、元々こういう声なのか、体調が悪くてこうなのかは判らないけど。
「じゃあ、これマジでシャブなんですか?」
「よくやったもんだな――」
 そして、祥太さんと健吾さんの感嘆の声が続く。
 ――今……、何て、言った?

「シャブって言ったな。……うわぁ、マジだったのか。堺さんの勘すげえ」
 柘榴さんが呟いた。堺さんというのが誰かは知らないけど、きっと前に言っていた先生のことなんだろう。
 祥太さんがはしゃぐのにしばらく付き合った後、『博士』はさっきより少し力の篭った声で言った。
「……うん、でも純度がまだまだだね。出来る限り良いものを作りたいんだ」
「なるほど、その向上心は見習わなければなりませんね。――私にひとつ、秘策があるんです。試してみません?」
 その、別人のものかと思うほどの明るい声は、確かに直実さんのものだった。

 きっと、あの人に計算や技術なんか必要ない。
 だからそうして一歩前へ出て何をしようとしているのか、僕には何となく、想像がつく。
 いや恐らく、この場に居た僕たち全員が、同じ事を思ったに違いない。

 今まで『博士』が何をしてきたかなんて知らないし、彼がしてきたことはきっととんでもないことだろう。
 ――だと、してもだ。
 その努力を当人の目の前で破壊すれば、良いことなんか起こるわけがない――!

 もし彼が本当にこの実験に関わろうとしているのなら、それは勿論悪いことだろう。
 だが、たとえそうではなくても。
 今ここでそれをやってしまうことは、『博士』その人を壊してしまうことになりかねない。

「戻れ少年! ヤバい、切れるかも」
 柘榴さんの叫ぶ声で、自分が無意識に戸棚の陰から出てしまっていたことに気付く。
 でも、戻るつもりはない。今これを止めないわけには行かない。効果が切れたならその時だ。

 いや、あるいは――?

「柘榴さん、術解いて下さい」
「え、え!?」
「早く!」


 ――その場の空気が凍りつく瞬間というものを、僕はその時初めて味わったのかも、知れない。


「だ、誰だ、お前――……いつの間に」
 最初に気付いたのは、ずっと僕たちの方へ向いていた『博士』。そして、その片方の補佐役のお兄さん。
 質問に、答えるとしようか。
「怪しいと思って、兄にこっそりついてきました。だから、ずっとこの部屋の中に居ました」
「う、嘘をつけ! さっきまで俺たちしか居なかったのに」
 ああ、強面のお兄さんたちも、すっかり混乱してしまっている様子だ。これは好都合だ。
 三人衆も、振り返って固まったまま動かない。全員が全員、呆然としか言いようのない顔をしていた。
「全部、聞いてました。今から、警察に通報します」
 携帯なんか持ってないし、通報できる状況だとも思わないけど、言うだけのことは言っておこう。
「お……お前ら、そいつを抑えろ!」
 今更のように『博士』がそう叫んで、左右の補佐役がこちらに向かって駆けて来る。
「少年!」
 後ろから柘榴さんの叫び声が聞こえて、誰にも触れられていないのに、勝手に身体が後ろへ引き寄せられる。目の前で補佐役の腕が空を切ってバランスを崩し、お互いに派手にぶつかって床に転がった。その間も背中から倒れていった僕の身体は、ギリギリのところで誰かに受け止められる。柘榴さんだろうかと顔を上げたら、玄次郎だった。
「立てるか」
「大丈夫、ありがとう。――兄ちゃん!」
 何とか立ち上がって次の攻撃に備えながら、呼び掛ける。
 向こうの方で立ち尽くしていた彼は、さっきよりもさらに一回り目を大きくして、僕の方を見た。
「考え直すなら、今だよ」
 転んでいた補佐役たちが立ち上がり、改めて僕たちの方へと寄って来る。
 ――もう、僕はどうなってもいい。ただ、一言だけでも彼に。

 補佐役たちが、今にも僕と玄に覆い被さろうとしていた。
 隙間から遠くに見える彼が、ふっと、安堵のものにも見える微笑を零した。

「その必要はないな」

 彼がそう言ってスッと伸ばした右腕の先の補佐役が、僕らの目の前で急停止した。
 まるで時間が止まったかのように錯覚する。
 けれど、補佐役は驚いた顔をして、お互いに顔を見合わせている。……そういうわけではないらしい。

 補佐役たちがそんなことをしている間に、後ろから健吾さんと祥太さんが駆け寄り、それぞれを床に押さえつけた。

 ……あれ?
 ということは、……どういうことだ。

「いけるか、サッシャ」
 暴れる男を押さえながら、健吾さんが彼の方を向いて言う。
「大丈夫です」
「な、……何だ、お前ら、まさか」
 部屋の奥まで後ずさりして、青い顔をした『博士』がぶつぶつとそんなことを言っている。
 彼はテーブルを避けながら、ゆっくりと『博士』の方へじりじりと歩み寄っていく。

「警察ではありませんよ。――私は(、、)、ね」

 ニッコリと笑って言った彼のその笑顔はきっと、悪魔のそれに見えたのだろうと、思う。
 何の抵抗もせずに『博士』はその場に座り込んでしまい、彼は少し残念そうな顔をしながらこちらを向いて、苦笑した。

   *

 ビルの下の狭い路地で待機していたパトカーで、『博士』とその友人だという補佐役たちは連行されていった。
 もう一台のパトカーに、健吾さんは既に乗り込んでいる。続いて祥太さんも乗ろうとして、何かを思い出したように途中で向き直った。
「そうそう。サッシャ、弟さん心配させたら可哀想じゃん! 言ってなかったの?」
 話の種は僕で、話の対象は直実さんらしい。何だか恥ずかしくなって、彼の後ろに隠れてしまう。
「……危ないから来るなって言ってたんだけど」
「正義感の強い弟さんじゃん。えっと、何君だっけ。どう? 将来は警察官に、なんちゃって」
 祥太さんがニッコリと笑いながら、僕に向かって敬礼をした。
「あ、そうだ、見せてなかった」
 そう言ってパーカーの胸ポケットをごそごそと探って取り出して見せたのは、――警察手帳。本物、だ。そういえば、純さんにも実際に見せてもらったことはなかった。
「ども、蒼杜警察署生活安全課、遠藤祥太巡査部長です。ははっ、見えないよなー。何か、心配させちゃってごめんね。この一週間……準備含めれば二週間ぐらいかな、ちょっとお兄さんお借りしてました」
「署長が調子に乗ってね」
「都市伝説相手におとり捜査のまがい物なんてやるもんじゃないよね。上手く行ったからいいけどさ」
 そうして二人で笑い合っている。普通の友達同士みたいだ。
 いつまでも祥太さんが乗ってこないからか、車から健吾さんが顔を出した。
「一番ノリノリだったお前が何を言うか、遠藤。もう行くぞ。――サッシャはお疲れ」
「お疲れ様です。それじゃ、失礼します。祥太も」
「おう、またね! 弟くんもバイバイ!」
 笑顔で手を振られたので、思わず振り返した。そうこうしている間にドアが閉まって、二台目のパトカーも発進する。
 見送りを終えた直実さんが、くるりと後ろへ振り向いた。そこに居るのは勿論、柘榴さんに術を掛けてもらってくっついてきた、一同。彼は腕を組み、そこに居るメンバーを確認するように眺めた後、そのうちの一人をターゲットに据えた。
「――柘榴さん」
「はい」
「変態」
 その言葉に、真っ先に吹き出して笑い始めたのは楓さん。つられてクリスも笑い始めたけど、玄はよく判らなさそうな顔をしている。
「な、えっ? オレだけ!? 何で!?」
 柘榴さんの必死の訴えには耳を貸さずに直実さんは向き直り、僕の頭に軽く手を置いた。
「さ、帰ろうか」
 見上げた先の彼の笑顔には、一切の影はなかった。
 目が合って、何だかむずがゆくなる。
「――うん!」
 もう大丈夫。
 もう何も、怖いことはない。

   3

 直実さんは店の前で別れようとしていたけれど、変態呼ばわりに納得行かないらしい兄さんがごねて、あたしたちも店内に上がらせてもらうことになった。入口から二つ目、カウンターに一番近いテーブルの椅子を全部下ろして、適当にどうぞ、と言って彼はカウンターへ入る。……もう良い時間なのに、お疲れ様です、店長。
 彼がお茶を淹れている間に、全員が着席した。カウンターに近い二席のうち、奥のキッチンを向いている方が真珠君で、その向かいは空席。真珠君の右隣にクリスで、その隣に玄次郎が座った。クリスの向かいが兄さんで、玄次郎の向かいに、あたし。みっちゃんはどこへ行こうか迷うようにしばらく飛び回っていたけれど、最終的には真珠君の肩の上に降り立った。小猿のハル君はカウンターの上でまるまっている。君は猫か。
 全員にお茶――珍しく緑茶を配り終えると、直実さんはそのまま空いていた席に座った。客席の方に座っているのは珍しいな、と何となく思う。
「さて」
 今、『名探偵』が皆を集めてさてと言ったことになったけど、この件に関して直実さんはむしろ犯人だ。ということは、『犯行』に至る経緯を説明していただけるということなのでしょうか、と思ったもののどうやら違うらしい。
「何か、ご不満な点でも」
 あからさまに隣を見ておっしゃるので、兄さんは何故か咳払いをしてから、それに答えた。
「オレは変態じゃないです」
 直球過ぎます。全然弁解になってませんけど。
「透明人間によるストーキングなんて変態でしょう」
「そ、そうでもしなきゃ限界あるじゃないッスか」
「だからって何もこんな人数で来ることないと思いません?」
 兄さんはそこで言い返せなくなった。
 野次馬一号、ごめんなさい。心の中で謝っておきます。うん、意味がないのは判ってる。
「……まぁ、……心配させたことは、謝ります」
 彼は、静かにそう告げる。
 しばらく、誰も何も言わなかった。
 振り子が時を刻む音が夜の店内に響いて、この空間だけ時間が切り取られているような、奇妙な感覚を覚える。

「――……ばか」

 それは、呟くような声だった。
 声の主は少しうつむいて、今にも泣きそうな顔で、それでも必死に涙をこらえているようだった。

「……、ごめん」
「馬鹿、兄ちゃんの馬鹿! 言ってくれなきゃ心配するに決まってる」
「……警察とは言った」
「全部!」
「……ごめん」
 言いながら真珠君は結局泣き始めてしまって、二人の会話はそこで止まる。
 湯呑みを持ってしばらく何か考えている様子だった直実さんはふと顔を上げて正面を向いたまま、真珠君ではない相手に、話し始めた。
「――全員連れ出したのは、あんたか」
 真珠君に対するものとは、明らかに違う口調。自分の方を見て言われたけれど違和感を覚えたに違いない真珠君は、目を擦りながら首を傾げて、自分の胸を差して確認する。やはり、直実さんはすぐに首を横に振った。

 ――なら、対象は彼しか居ない。

「ミッチャン、悪イコトシテナイ」
 自分に矛先が向いたことを理解して、みっちゃんはそう言いながら真珠君の肩を離れ、テーブルに降りた。
「してない? ――あんた、全部判ってて皆を唆してただろう?」
 え?
 でもそうか、みっちゃんはあたしたちより監視しやすいから、警察署に寄ってるところとかも目撃できたかも知れないわけだ。元々ストーカーでもあるわけだし、実際、自主的についていったこともあるわけだし。
「唆ストハ失礼ナ! 皆デ見タ方ガ面白イト思ッタカラダ!」
 みっちゃんはバタバタと羽ばたいて抗議しながら――……、容疑を認めた。
 つまり、心配で見に行ったとかでも何でもなくて、完全なる野次馬でした、と。
「本当に危ないからこっそりやってたのに、どうして止めてくれなかった」
「ダカラ、ザクロニ協力シテモラッタジャナイカ。何ノ問題モナイ。大体、コッソリヤルカラ(、、、、、、、、)、ツイテ行キタクナルンダロウ!」
 あ、それも正論――。
 いや、判ってて止めなかった、言わなかったってのがどうなのかは置いておかなきゃいけないけど。
「……この、口の減らない……」
 顔を赤くして直実さんが立ち上がる。おっと、手出しちゃだめですよ、お兄さん! 手を出されそうになったみっちゃんは器用に飛んで身を引き、真珠君の頭の上に着地すると、さらに発破をかけるようなことを言う。
「ソラ見ロ! 言イ返セナインダロウ!」
「『面白いと思った』とか言ったのはそっちだろ! いい加減にしろよ。もうネタは上がってるんだからな、みっちゃん――」
 直実さんはそう言って、右手で軽く空を(はじ)いた。
 その刹那、真珠君の上に居た鳥の姿が、消えた。

 その代わり、テーブルとカウンターの間に、煙のように新しく人影が現れる。
 ――水色のTシャツにジーパン姿の、若い青年。少しクセのある薄茶色の髪に、直実さんと良く似た目鼻立ち。ただし、目の色は濃い。

 ぽかん、とした顔で立ち尽くしている青年を前に、直実さんはにやりと笑って、告げた。



「いや、――桧村直路?」



 えっ?
 その名前は確か、死んだお兄さんの名前だったような――?

「お、お兄さん……?」
 真珠君が素っ頓狂な声で呟く。
「……え? わ、とッ、何これ、人間? 身体重ッ」
 みっちゃんだったと思われるその人は、まだ慣れていない様子で体勢を整えつつ、きょろきょろと周囲を見回している。見かねたうちの兄さんが立ち上がって後ろのテーブルから椅子を一脚下ろし、青年の背後へ差し出す。よろよろしていた青年は、最終的にそこに着席して収まった。両手を開いたり閉じたりしながら、驚いた顔でそれを見つめていたかと思うと、顔を触ったり頭を触ったり、自分に起きていることを確かめている様子だ。……ずっと見ていたあたしとしても、何だか不思議な気分。
 青年は現状を確認し終えると、直実さんの方を見て、尋ねる。
「……サネ?」
「何か」
「これ、私?」
「訊かれても困る。鳥の声で言われると物凄くイライラするから人間になってもらっただけ。その方が喋りやすいだろ? 記憶に頼って構成したから、ちょっと身長低かったりしても文句言うな」
 わざとやってるように聞こえますよ。
 でも本当に、お兄さんだったの? その確認がまだ、出来ていない。……と言っても、一言も否定の言葉を発してないってことは、肯定しているも同然か。
「人間ってこんなんだっけ? ごめん、ちょっと待って。目が慣れない」
 その言葉は、以前人間だったことがあると言っているようなものだ。なら本当にこの人は、かつて直実さんのお兄さんだった人なんだろうか――。あたりを見回しながら何度も瞬きをしている。
「慣れたか?」
「馬鹿、何秒も経ってねぇだろ」
「目なんか慣れなくても喋れればいいだろ。自己紹介しろよ」
 ……すみません、直実さんの態度が普段の五倍きついんですが。あたしの記憶が正しければ、お兄さんのことはそれなりに慕っていて、仲もまぁ良かったとおっしゃっていたように思うのですが。
 結果的にお誕生日席に座ることになったお兄さん(仮)は、最後に目を擦ってひとつ深呼吸をすると、少し嫌そうな顔をしながら、口を開いた。
「改めましてこんばんは、直実の兄だった者です。あ、でも永遠の十九歳だからむしろ弟二号ってことに、」
 スパーン! と小気味良い音がした。
 ……うん、何が起こったかは説明するまでもない。
「痛ってえよ! 元々馬鹿なのにさらに馬鹿になったらどうしてくれんだよ」
「鳥頭だもんな」
 うわあ、直実さんったら真顔でしれっと容赦ないことを。言い返す余地がないじゃないですかそれ。相手は仮にもお兄さんで――……ああ、自分で弟って言っちゃってるね。
「――……鬼だ……この人鬼だ……」
 お兄さんは両手で顔を覆いながら一人、奈落の底へと沈み込んでいく。
 誰一人として口を挟めない空気が、その場に流れている。
 また何とも強烈な人が現れたものだわ、と他人事のように思いながら、あたしは冷めつつあるお茶を啜って誤魔化すのでありました――。