こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第六話 絡繰キャラクタァ




第六章「作戦終了//BROTHERS」

   1

「ほ、ホントに、お兄さんだったんですか……?」
 呆けたままの真珠君が、細い声で零した。
 ずっと泣き真似をしていたお兄さんはそれに反応してパッと顔を上げ、ニコニコと微笑みながら真珠君の頭をぐしゃぐしゃと撫で……撫でるでいいのかな、この場合。
「そうだよお兄さんだよ! いやあ、どっかの鬼と違って君は素直で良い子だなぁ」
 真珠君は苦笑いしているけど、何て言うかその、一言多いと言うか。直実さんが凄い顔をして握り締めた右手をギリギリ言わせているのを、うちの兄さんが肩に手を置いて牽制している。
 お兄さんのじゃれつきがひと段落ついたところで、真珠君はパッと直実さんの方へ振り向いて畳み掛ける。
「いつ判ったの、今? それともずっと前から気付いてたとか?」
 尋ねられた直実さんは、まさに鬼としか言いようのなかった険しい表情を一気に崩して、穏やかな声で答える。
「ずっと、ではないし、確固たる証拠があったわけではないけど……でもそうだとしたら納得行くかなって」
 なんだか、あまり『名探偵』らしからぬ言い方と発言だった。真珠君も首を傾げている。
「その割には随分自信あったみたいだけど」
 その通りだ。尤も、怒りに任せてやっちゃった感があると言えばあるんですけどね。
 直実さんは困った顔をしながらも、少し上を向いて何か考えながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「この前、『サッチャン』って、呼ばれた」
「それだけ?」
 決定打としては確かに弱い印象を受ける。直実さんの名前からいきなりそこにはまず至らないけど、かなりの人に『サネ』って呼ばれてるから、そこから絶対に変化しないとは言い切れない。
 自分のことになると途端に弱くなるらしい直実さんは、目を閉じて深呼吸をしながら何か考えて、また落ち着いた声でゆっくりと話し始める。でもどこか、歯切れが悪い印象だ。
「昔、兄さんにそう呼ばれたことがある。……私が兄さんを『みっちゃん』と呼んでからかった時の、仕返しで」
 ――え?
 だとすると、それはつまり。
 ずっと静観していたお兄さんが、そこでケタケタと笑い始めた。直実さんは顔を赤くして「笑うな」と叫ぶけれど、お兄さんはそれからしばらく笑い続けた。
「――ご名答。自分で付けたのに気付いてくれないとは酷いもんだと思ってね」
 直実さんが『さっちゃん』なら、直路さんは『みっちゃん』になる。
 同じ名を持つ者を連想させるために、敢えてみっちゃんが直実さんのことをそう呼んだのだとすれば、それはみっちゃんから直実さんへの、意図的なヒントの提示だ。きっと直実さんは、それに乗せられたような気がして落ち着かなくて、それで顔を赤くしてるんだろう。
 素直に受け入れたくはないらしい直実さんは、そこで反論を開始する。
「鳥の名前がまさか鳥自身によるなんて思わないだろ普通。麻耶さんが付けた名前だと思ってたのに」
「ミノルが付けたなら『みっちゃん』なんて本名不詳のニックネームで納得しちゃうのォ? 本名は何だろうとか考えなかったの?」
「そもそも名前ごときで気付けって方が無茶だ」
 ああ、どっちも正論言って喧嘩してる――。お兄さんの方の口調はかなりふざけて聞こえるけど、というか実際からかってるだけなんだろうけど、直実さんの方はもう少し行くと本気でぶち切れそうで怖い。どこかで止めないと危険な気がする。こんな夜中に兄弟喧嘩とかやめて下さいね!
「……あの、お兄さん!」
 あたしの前に真珠君が叫んで、その場がシンと静まり返った。
「生きてたん、ですか? えっと、あ、初めまして!」
 そうだ、そもそもどうしてこうなったのかを聞いていなかった。真珠君が気になるのは当然だし、出来ればあたしも聞きたい。
 真珠君の必死な訴えに、お兄さんはクスリと笑った。
「もう挨拶は要らないし、タメ口でいいよ。ミチだからみっちゃんでいいし。せっかく馴染んだのに元に戻ったらお兄ちゃん寂しいな」
「あ――……」
 お兄さんが頬杖をついてニコニコと語った言葉に、真珠君はハッとした顔をして考え込む。
 何だか変な気分だけど、インコのみっちゃんも、今こうしている人も、同一人物なんだよね――。他人のあたしまで悩んでしまう。とても同一人物には見えないし、改めて挨拶しなきゃと思ってしまう気持ちも判る。
 しばらく微笑んでいたお兄さんだったけれど、ふっと、その表情に影を落とした。
「……生きてた、とはちょっと違うかな。本来の私はもう死んで墓の下だ」
「? でも、みっちゃんの中身はお兄さんだったん、だよね?」
「そう。死ぬ直前に、ミノルが最近飼い始めたって言ってたインコのこと思い出して……インコなら喋れると思って、一か八かの賭けで、私の情報をコピーしてみた」

 ええと、それじゃつまり、何ですか――人のペットの身体を乗っ取った、と?
 駄目だ、一般人には到底想像できない世界だ。
 本当に飼い始めたばかりで名前もまだ決めていなかったから、『みっちゃん』になったということらしい。

 一同が絶句したところで、直実さんがひとり、ため息を吐いた。
「恐ろしいことをしたもんだよ。私には多分出来ない」
「ああ、出来ないだろうな」
 そうして、あっさりと同意がなされてしまう。
 出来ないと言い切る理由は、性格的な意味なのか、あるいは能力的な意味なのかは、あたしには判らない。もしかしたら、両方の意味でなのかも知れない。
「ひとつだけ言わせてもらうと」
 直路さんは、どこか遠くの何かを見つめながら、ぼんやりとした顔で切り出す。
「今の私は飽くまでインコの『みっちゃん』であって、人間じゃない。強いて言うならせいぜい幽霊だ。その辺、勘違いしないで頂きたく」
 幽霊、か。こうして実際人間の姿をして、普通に椅子に座って話をしているけど、それでもやはり彼は人間とは言えない。既に一度、死んでいるから。
 ハル君が人間形態じゃないけれど、もしそうだとすれば、ここにはヒトの姿をした者が八人居ることになる。でも、そのうち実際人間だと言えるのは、――何人になるのだろう。
 明らかにヒトでないのは、玄とクリス。ヒトの姿をしてはいても、彼らは悪魔だ。
 そして直路さんは、少し違うけれど、幽霊。
 ――では、術師の二人は。
 そこまで考えて、何故か背筋がゾクッとした。
 彼らだって人間。ただちょっと超能力が使えるだけの、人間。そう、何も怖いことなんてないじゃないの。でも、――……少し、度が過ぎているような気も、しないではない。『魔法使い』って、人間なんだろうか。修業によって手に入れた能力、とかそういうんじゃなくて生まれつきで、人によっては動物の身体を乗っ取っちゃったりして――。
 ……やめた、考え始めたらキリがない。
 あたしと兄さんは血の繋がった兄妹なのに、術の使える使えないで人間かそうでないかなんて、分けられるわけないじゃない。だから直実さんだって普通の人間だよ。直路さんのやったことは、ちょっとしたイレギュラー。多分、一度乗っ取ってしまえば元には戻れないのだろうから。

「――まぁ、あんたが何だろうと」
 直実さんの静かな声が、静寂を破る。
「こんな夜中に未成年を犯罪者の巣まで連れ込んだっていう事実は変わらないんだけど」
 ようやく、話が戻った。しかし、真顔でそういう表現されるとお兄さんが大変怖い人に思えてきますよ。
 でも、いくらあの二人が警察官だったからと言って、完全に安心できたとは思えない、か。あそこで真珠君が飛び出さなかったとしても、兄貴の術は遠からず切れていたことだろうと思う。そうなったとき、果たして『博士』たちはあたしたちを無事に帰してくれただろうか――?
 いくらその場に術師が二人、さらには屈強な警察官も二人居るとは言え、何かの弾みで怪我をすることだってあったかも知れないし、あの部屋には大量の薬品があった。何が起こっても不思議ではなかった、ということだ。そう考えると、今更ながらに寒気がしてくる。
 再び責められ始めた直路さんは、子供みたいに頬を膨らませて怒る。
「だからァ、さっきも言ったけどザクロにも協力してもらっ、」
「あんたと一緒にするな」
 お兄さんの台詞を遮って、直実さんは表情も変えずにぴしゃりとそう言った。
 どういう意味か、あたしにはよく判らなかった。けれど、直路さんは目を見開いたまま固まって動かなくなってしまった。時々思い出したようにぱちくりと瞬きを繰り返すけれど、何か言い返そうとする気配はない。直実さんはと言えば、もうすっかり冷めているであろうお茶を一気にあおる。お茶なのに、ヤケ酒のように見える。
「――……ごめん。そこまで頭回らなかった」
 到底謝りそうもないように見えた直路さんが、ぽつりと謝罪の言葉を口にした。
 あたしには判らなくても、きっと彼らの中では通じ合う会話だったんだろう。

 ――改めてよく見ると、姿形は本当によく似ている。今は髪の色が同じだから余計にそう感じるのかも知れない、けど。
 死んだと思っていた人が実は生きていて。……尤も、直路さんの場合はヒトとして生きているわけではないけど、意識と記憶があるのは確かなんだろうし。
 少し、羨ましいと思った。
 そんなこと思っても仕方ないとは判っている。どうしようもないって判っている。

 本当のことを、聞きたい。
 本当のことを聞いたら、そこには恐ろしい真実が待ってるんじゃないかって、そんな気がしている。
 ――そう、昨日の真珠君と同じだ。
 でも、あたしもそれを受け入れなければいけないんだと思う。だから、聞きたい。それがたとえ彼の想像の話に過ぎないとしても、きっとそれは、真実だろうから。
 近いうちに聞く覚悟を密かに決めて、あたしは一人、静かにため息を吐いた。

   2

 それからしばらく雑談を続けた後、店主はもう遅いからと泉谷兄妹を帰し、真珠に風呂を勧めた。店内に残ったのは、店主と、着席したままの直路。元々座っていた椅子は元の位置に戻して、先刻は真珠が座っていた席に着いている。
 カウンターの中に立っている店主は、何とも言えない神妙な面持ちで、久々の紅茶を愉しむ直路に言った。
「――……気付いてた?」
「何に?」
 目的語も無しにそれだけ訊かれても、何の話か判らない。相手がよく似た弟とは言え、直路はそこまで察しが良くはない。
 すると店主は酷く不機嫌そうな顔をして、「判らないなら良い」と言って話を終えた。
 普通ならそこで余計気にして「教えろよ!」などと突っ掛かってもいいのだろうが、特に興味がないので、適当に相槌を打って流した。そもそもそこで突っ掛かったところで、教えてくれる相手とも思えない。伏せて尋ねているのだから、伏せられている内容を知らない相手には話さないだろう。
「楽しかったか? 『不良ごっこ』」
 そう、こういう時は、話を逸らすのが良い。
 話題を無理やり変えられた店主は、特に文句を言うでもなく、数秒間考え込んだ後、静かに答えた。
「まぁ、結構」
「そう。だから警察ってバラされると嫌だったの?」
 店主の目の色が変わった。――無論、比喩表現だ。実際に変わったわけではない。
 事情を知っていながら、その状況を面白がって全員を尾行に連れ出した直路に対する追及に際し、店主は『何故止めなかった(、、、、、、)のか』と問うた。『何故、確かに警察であると言わなかったのか』ではなく、だ。
 確かに、自分で真珠に「警察の手伝いだ」とは言っただろう。しかしそれは行き先を誤魔化すための嘘だと解釈された。行動している当人の発言だからだ。しかし、明らかに第三者の観察者である直路からの保証があれば、きっと真珠もそれを信じたことだろう。警察の手伝いだという自身の発言を真に信じて欲しかったのであれば、全てを知っていた直路に求めるべきことは尾行の阻止などではなく、その発言の第三者による保証であったはずだ。
「……都市伝説の調査なんて知ったら、ついてきたがると思って」
 店主はバラされたくなかったということは認めつつ、理由の部分を否定して新しい理由を提示した。しかし、どこか納得の行かない話だ。
「へぇ、あの(、、)マコトが?」
 素直に言ったところで、真珠がついていくとも思えない。なるほど確かに警察だ、と判った時点で納得して終了だろう。彼は確かに多少好奇心の旺盛なところはあるが、度を越すことはない。今回の件に関しても、実際に尾行という行動に移る以前に他人に相談を持ち掛けているし、そもそも「ついていく」と言い出したのは楓であって真珠ではない。話がおじゃんになりかけたところで助け舟を出して決行に至らせたのは直路だが。
「あとさ、マコトがお前の携帯見たの知ってる?」
「知ってる」
「結構色々読んだっぽいのに、全ッ然気付いてないの。――お前、わざと忘れてったよね」
 ――店主の眉間の皺がひとつ増えた。尚且つ返答がないということは、すなわち肯定を意味する。
 直実が例の『博士』に協力しようとしている、と言い出したのは真珠がメールを見たからだ。そういう計画で動こうという話を携帯メールでやり取りしていたのだろうが、だとすれば尚更、警察による調査だと判る文章が一切含まれていないのは不自然極まりない。
 つまり警察であると判ってしまうメールは全て削除するなどの編集を施し、他人が読めば疑いを抱くような状態に仕立て上げた上で、敢えて家に忘れて出掛けたのだ。不安でいっぱいの真珠が何らかのきっかけでそれを目にすれば、高い確率で覗き見をするだろうという推測のもとで、だ。しなければしないで、別に困るほどのことではないだろう。
 そしてそこから垣間見えるのは、警察だと知られたくないという消極的な目的ではなく、むしろ『博士』への関与を疑わせようという、積極的な目的の存在。知られたくないだけなら、何もわざわざ面倒な細工を施して、さぁ見ろと言わんばかりに置いていく必要はない。忘れ物などせず、メールなど見せなければいい話である。
「だからさ、マコトへのドッキリだと思ったの」
 そこまで積極的に思考を誘導する意図があるのなら勝手にバラしてしまっては悪いし、第一それでは面白くない。企画主に便乗しつつも、真珠の求める情報はきちんと提示し補佐をして、その状況を存分に楽しませてもらった。
 店主は眉間に皺を寄せたまま、ぶっきらぼうな言い方で応じた。
「ああ、ドッキリだよ」
「やっぱりね。ホント直実って鬼だよね」
 何か言い返してくるだろうと思って言ったのだが、しばらく返答はなかった。自覚があったとは知らなかった。続けて追い討ちを掛けようとしたところで店主はスッと息を吸って、返答ではない言葉を、紡ぎ出した。
「言っとくけど、あんたとは違うからな」
 ピリ、と耳の奥が痺れる感覚を覚える。明らかに、強烈な嫌悪感を含んだ声。父と同じでほとんど無意識に使っているのだろうが、人によっては聞いただけで震え上がる、あの声だ。目の色が変わらないのが――ここでは文字通りの意味でだ――、不思議でならない。
 そしてそれは『術師の誰もが直路と同じ程度の能力があると思うな』という、先程の同様の台詞と同じ意味ではないようだ。それでは意味が通らない。いくら直路でも、他人の思考に関与することは不可能だ。いや、不可能だった、か。
「……何の話?」
「そこまで判ってて気付かないなら、いい」
 店主は煮え切らない表情をしてぷいと顔を背け、恐らくは自分の分の紅茶を淹れようとしている。眠れなくなっても知らないぞ、と思うが、口には出さなかった。
 彼が何の話をしているのか本当に判らないのが多少不愉快ではあったが、それ以上この話を続けても無駄なことだろう。話す気のない『犯人』を追い立てて無理に話をさせるのは、直路の趣味ではない。


 しばらく黙って紅茶を入れていた店主は、その作業を終えると、ぽつりと呟いた。
「ずっと、見てたんだな」
 麻耶とみっちゃんによるストーカー行為のことを言っているのだろう。尤も法に触れるほどのことをしていた覚えはないし、第一直路にしてみれば元は身内なのだから、責められる謂れはない。不幸な事故で自分は死んでしまったが、残された可愛い弟の様子が気になるので幽霊としてこっそり見守っているのだと思えば、何らおかしなことではないはずだ。何て弟思いで優しいお兄ちゃんなの、と褒め称えられても良いぐらいではないか。
「草葉の陰から見守ってたのさ」
 そう、死んだのは事実。その瞬間を経験してはいなくとも、自分はもう人間ではない。空から高みの見物が出来る自由の身。鳥には鳥の良さがあって、生まれ変わったような新鮮さがあったものだ。十年も経つと、元々人間だったことなど最早どうでも良くなってきている。
 軽い調子でそう答えた直路に対し、店主は一層不機嫌そうな顔になり、低く押し殺したような声で、応えた。
「――……悔しい」
 もうすっかり見なくなった“弟”の顔が戻ってきたな、と直路は思う。ひどく懐かしい気分になるが、果たしてそれが良いことなのかどうか、自分にはよく判らない。
「何が」
「全部あんたに見られてたってことが」
 確かにずっと見ていた。――見なければ良かったと、素直に死んで消えていれば良かったと思ったこともあった。
 鳥としてまともに動けるようになってすぐ、崩壊寸前まで追い込まれていた彼の姿を目の当たりにした。部屋の隅にうずくまって一日中動かない彼を眺めては自らの浅はかさを呪い、その現実から逃げたくもなった。声を掛けたくなるのを、自分は兄だと言いたくなるのを、何度堪えたか知れない。
 きっと彼は、そんな姿を見られたくはなかっただろう。
 ――喧嘩の絶えない兄弟だった。プライドが高く負けず嫌いな弟だから、そんなことは屈辱以外の何物でもないはずだ。我慢しきれずに声を掛けたところで、素直に助けを求めてくるような人間でもない。
「僕を監視してどうなる? 何か良いことでもあるのか?」
「別に。心配だから見てただけだ」
 どうせ信じてはもらえないだろうと思ったが、本音で言っておいた。出血大サービスだ。案の定、彼はますます険しい顔になった。――それならそれでもいい。
 見ているだけで何も出来ないとは言え、その現実から目を背けるということは、彼を見捨てるということになる。父と二人だけで残してしまうような事態を招いておいて、逃げるわけには行かなかった。父の再婚相手が至極真っ当で出来た人物でなかったら、今頃どうなっていたか判ったものではない。ここまで立ち直れるとは、あの頃は思いもしなかった。
「なら、麻耶は何を企んでる?」
「別に何も企んじゃいない。今の平和がこのまま続くならそれでいい。……そう上手くは行かなかったけどな」
「夜桜家のことか?」
 弟があっさりとその名前を出したことに、直路は多少の驚きを覚えた。
 あの頃彼は、葉摘に対して少なからず憧れを抱いていたであろうし、その妹の緋十美ともそれ相応に仲良くしていたはずだ。幼く純粋な少女だった彼女が十年ばかり会っていない間に、何の躊躇いもなく何人もの人を殺すようになってしまった事実に、ショックを受けていないはずがない。――何故なら、直路もそれなりに傷ついたからだ。
「何でそんなびっくりした顔してるんだ? 葉摘さんが死んだんだから、その家族が怒っても仕方ないだろ」
 ――その名を聞くと、どうしても胸が痛む。
 彼女を放って、直路だけが生き残っている。こんな形とは言え、記憶と意識があることは事実だ。そんなことを夜桜家に知られれば、真っ先に消されるのは自分だろう。もはや術師でも人間ですらない、ちっぽけな鳥の存在を消すことなど、彼女らにとっては容易いことだ。だから直路は精一杯穏やかに、ただ見守ることだけが自分の使命だと、そう思ってこの十年間を過ごしてきた。
「だからミノルは、それでも(、、、、)平和が続くように祈ってるだけさ」
 誰も罪を犯さず、皆が生き残って和解して、今まで通りこの世界が続くことを願っている一般市民。
 彼女は自身のことを、そう説明している。
「……じゃあ、僕にどうして欲しい」
 どうして欲しい、か。一言では語り尽くせない。直路は苦笑して、すっかりぬるくなった紅茶を飲み干すと、立ち上がって店主のもとへと歩み寄る。
 こうして近くに立つと、いつの間にか身長も抜かれて、本来抜かれるはずのない年齢さえも追い抜かれていることを実感させられる。十九歳を超えた自分の姿を、弟は知らない。自分も知らない。だが弟は当たり前に歳を重ねて、身体的には既に六歳も年上だ。
「皆ハッピーになればいいのさ。それだけのことだよ」
 直路の答えを聞いて、店主はあからさまにムッとした顔をした。
「……兄さん、真面目に」
「みっちゃん、いつでも真面目だよ?」
 わざとらしく笑いながらこんな言い方をして、信用されないのは判っている。店主の澄んだ淡色の目に、不信感が色濃く浮かんでいる。
 ――弟だけが受け継いだ、祖母と同じ灰色の目。きっとそれは、直路にはない『何か』を受け継いだ証なのだ。そう、思うことにしている。
「じゃあ、この前からゴチャゴチャ言ってる事故の真相はそのハッピーエンドとどう関係する」
「それは、君自身が(、、、、)ハッピーになるための鍵。君を十一年前に閉じ込めている(いばら)の森さ」
 我ながらいつになく美しく芸術的な言い回しだと直路は悦に浸るも、店主は眉をひそめて気味悪がっているように見えた。その辺りのセンスと趣味の違いは何処から来るものかよく判らない。
「なら、兄さんは真相を知ってるのか?」
「知ってたら何?」
「え? ……知ってるなら教えてくれればいいだろ? それが荊の森だって言うなら、」
 被害者だから、というわけではないが、店主より直路が持っている情報の方が多いのだから、当然である。
 しかし彼は慌てたような顔をして、人に何かを教えてもらうなど好まない弟らしからぬことを、言う。きっとそれだけ追い詰められているのだろうとは思うが、事実だけを教えたところで綺麗に解決する問題でもない。
「オレには荊を森ごと全部刈り取る能力は無いよ。出口の方向を教えることぐらいは出来るけど。……それに、オレが手を突っ込んでお前を無理矢理引っ張り出すより、ゆっくりでも荊をかき分けながら自力で進んだ方が、結果的に傷は少なくて済むはずだ」
 極めて的確な比喩を使って説明したつもりだ。店主に何処まで通じたかは判らないが、後々にでも思い出してもらえれば、それで充分である。
「だから、教えるわけにはいかない」
 自らの手で崩壊を招くような真似は、したくなかった。
 弟も直路と同じように過ちを犯してしまう可能性を考えれば、選びたくても選べない選択肢だ。
「……思い出せないものを自分でどうにかしろって、そんな暴論ないだろ」
 そう呟いた弟の口調は不満げだが、どうやら彼の視界には霞が掛かっているらしい。
「無理に思い出さなくてもいいさ。でも、推理の材料は得てるはずだ。それとも何か? 君は殺人が行われている現場を全部見てた人が居ないと解決できないってのか? 困った名探偵だね」
 店主ははっとしたような顔をする。実際に目撃した当事者でもあるからこそ、今まで気付かなかったのかも、知れない。
「あるいは――……本当はもう、全部判ってるんじゃないの?」
 冗談のつもりで、尋ねてみる。
 有り得ない話ではない。
 それほど複雑な話でもない。
 それしかないと判っていて、それでも、認めたくない。
 だからこそ、思い出せないことを言い訳にしている。
 自分が犯人という可能性にすがって(、、、、)、現実から目を逸らそうとしている。

 弟は、顔を真っ赤にして、その場に立ち尽くしていた。
 直路の視線に気付くと、サッと目を逸らす。俯いた顔に掛かった前髪が暗い影を落とし、その表情は窺えなくなった。

「――……本当に、事故じゃないんですね」
 いつもの『名探偵』の口調。その仮面でも被っていなければ、きっと今の弟は人と会話を続けることなど出来ないのだろう。
「あぁ、殺人事件だ」
 直路の言葉を聞いた瞬間に、弟の肩が震え始めた。
 ――この時点でもう既に、荊の棘は攻撃を始めているのだろうと判る。

「……じゃあ、とどめを刺したのは、……母さんなんですね」

 彼のその上擦った声が、今にも泣きそうな子供の声に聞こえた。
 何だやっぱり判ってるんじゃないかと、直路は静かにため息を零す。
「……惨いと、思いませんか」
「惨いね」
 他人の行動を誘い、その他人の行動が直接的には攻撃となる。そんな、殺人方法。――よくある話。犯人に利用された人間は、利用されているだけではあるが、確かに自分の行動が誰かを殺している。罪悪感に苛まれない方が珍しいというものだ。
「――それでも貴方は、」
 カウンターに両手をついて俯いていた弟は一度そこで台詞を切り、ふっと顔を上げる。そうして少し上目遣いに直路を睨みつけながら、尋ねた。

「愛してるって、言えますか」

 その、弟が口にするとは思えないような台詞に、直路は少々面食らった。

「……言えるさ」
「――……あんたは本当に馬鹿だ」
 仮面が、剥がれ落ちた。きっと、彼は責めているつもりなのだろう。

 判り切っている。
 そんなことぐらい判っている。
 ――そう、直路は馬鹿だ。馬鹿で残酷な男だ。

 でも、もう遅い。気付いた時にはもう、どうしようもなくなっていた。
 しかしだからこそ、言わないわけにはいかないのだ。
 そこであっさり否定できるほど、直路は単純な人間ではなかった。

 弟は目を閉じて、右手でスッと眼鏡を外す。ゆっくりとそれを畳むと、カウンターの上に置き、こちらの方へと差し出した。

「――返す」

 いきなり何を言い出すのかと、直路は彼の目を見る。異様なまでに冷徹な視線が突き刺さる。直路と関係のあるものを身に付けることさえも嫌なのか――少し、背筋が寒くなる。何か言おうと口を開いてみるが、すぐには上手い言葉が出てこない。苦し紛れに、適当なことを言ってみる。
「か……返されてもオレ、鳥だし」
 弟は、何も言わずに――右目を碧く染めた。

 その瞬間、景色が揺らいだ。世界の色が変わる。

 身体の違和感に気付いた時には、既に全てが終わっていた。
「イ……イキナリ解クナヨ! 吃驚スルダロ!」
 床から飛び上がって店内を一周し、カウンター上に戻って抗議した。それでも弟は何も言わない。ただ、先程の眼鏡を手にとって、何か小さいものに変えていた。――かと思うと、彼はそれをみっちゃんの頭の上から落とす。小さな黒の円環は、丁度首のところで留まった。
「邪魔か?」
「大丈夫、ダト思ウ」
 下を向いたら落ちるかも、と冗談で付け加えると、弟はまた何か弄ったらしい。右目の色が変わったように見えた。特に変化が起きたようには感じられなかったが、落ちないような処理を何か施したのだろう。
 しかし、一体何を考えてこんなことをしたのか、よく判らない。つい首を傾げたみっちゃんがそんなことを考えているのを理解したのか否か、彼は穏やかに笑って、静かな口調で言った。
「兄さん本人が居るなら、もう遺品は必要ないと思って」
 遺品と言ってもそれは事件の一年近く前に彼にあげた物であり、その時点で所有権は彼に移っているのだが。恐らくは術を掛けたのが直路だから、という意味なのだろうが――。だとしたら取っておいてくれても良かったし、どうせいつか遠くない未来にまた死ぬのに、――とは思ったが、それは胸の奥に仕舞っておくことにした。その時はその時で、羽根の一枚でもくれてやればいいことだろう。
「眼鏡、ナクテ大丈夫ナノカ」
 確か、運転するのに求められる程度には目が悪かったと思ったが。
 訊くと彼はひとつ瞬きをして、少し嬉しそうに笑いながら答えた。
「一昨日、新しいの買ったから」
 一昨日というとつまり、水曜日。定休日だ。昼間はべったりくっついて監視していたわけではないが、様子を見た限りでは服や何やと色々買い物をしていたようだから、その時に目に付いて衝動買いでもしたのだろう。今回の演技とは関係がないから取っておいたのだろうが――……好きで買ったのならすぐに替えればいいものを。律儀なものだ。
「詳しい話は、また今度ゆっくり聞かせてもらうから。もう遅いけど、帰らないでいいのか」
 随分と長居をしてしまったようだ。店内の振り子時計が、午前零時を告げる音を鳴らした。
 しかし、今帰っても果たして窓が開いているかどうか怪しい。外で待機していても構わないと言えば構わないが、元人間としては閉め出されるのは少し切ないものがある。
「セッカクダシ、泊メテヨ」
「――……」
 何故そこで眉間に皺を寄せてあからさまに嫌そうな顔をするのか。身内だろうが、兄弟だろうが。違うとでも言うつもりなのか。鳥には理解できなかった。
 しばらく睨み合った後、彼は大きくため息を吐いた。
「仕方ないか……大人しくしてろよ」
 粘り勝ちだ。カウンターを発って、店内をぐるぐると飛び回る。
 ――人間では、たとえ術師であっても決して出来ないこと。
 だから今自分は、飽くまで鳥であって人間ではないのだ。そこをはき違えてはならないし、度が過ぎた干渉は許されないことだと思ってきた。だからずっと黙って、ただのインコのみっちゃんとして見守っていたのだ。
 それでは駄目だと、いつまでも進まないと動き出して――……こうして正体に気付かせることで、彼が一歩前に進んでくれたことが、嬉しかった。嬉しくて、飛び回った。きっとまた彼は怒るのだろうけれど、そんなことはどうでもいい。そうやってからかうのもまた、楽しい。
 だから今みっちゃんは、とても幸せだった。
 ――こんな形でも生きて良かったと、初めて、そう思った。

   3

 翌、土曜日。朝の仕込みを終えて戻った二階のリビングには、爽やかな陽射しが差し込んでいる。真珠はまだ起きていない。馬鹿鳥は――あの後二階を案内してやると案の定騒がしくするのでつい怒鳴ったら、ハルが黙って彼らの部屋へ連れて行った。きっとまだ寝ていることだろう。誰も起きて来ないうちに、やっておきたいことがあった。
 電話台の前に立って、私は遠方の協力者にいち早く計画の成功と礼を伝えるべく、受話器を取って番号を押した。
 昨夜は馬鹿鳥と長話をしていたからとても電話が掛けられる時刻ではなくなっていたし、携帯メールで報告というのはさすがに気が引けたので、翌日の報告になってしまったが仕方がない。出来ることなら、声を聞きたかった。
 ――幸いなことに、電話に出たのは目的の相手だった。万が一にもあの男が出でもしたら、代わってもらうまでにかなりの体力を消耗しそうだ。朝の挨拶を交わして、すぐ本題に入る。
「ご協力、ありがとうございました。ちょっとやりすぎたような気もしますが、何とか成功したようです」
『本当? おめでと! 真珠には全部話したの?』
 明るい声と質問が返ってくる。今回私の立てた計画の密かな協力者でもあり、相談相手でもある――義母だ。
「いえ、話してません。秘密にした方がいいかな、って」
『どうして?』
「え、だって――……せっかく自分から言い出してくれたのに、それを誘導してたなんて言われたら、気分の良いものじゃないでしょう?」
 そしてその事実に気付いていないのなら、わざわざそれを教えて嫌な気分にさせる必要はない。
 彼女が『全部』と言うのは、私の計画の全貌のことだ。真珠が今知っているのは、警察による潜入捜査だということを隠し、私たちが『博士』なる人物への接触を試みていたこと、それだけ。それ以上のことには、恐らく彼は気付いていない。
 むしろ、気付かれては――……真珠がいつまでもさん付けで呼び敬語で話すので、私が彼に兄と認められていないのではと不安がり、彼を本気で怒らせて彼の被っている猫を剥がそうとしていた――などと気付かれては、私が恥ずかしいということでもある。馬鹿鳥はそこまでは気付いていないようだったから、よほどの快楽主義者なのだろう。やはり馬鹿鳥だ。
 ああ、話が逸れた。
 私の異変について真珠が電話で実家に相談を持ち掛けた場合の対応、および木曜日夜の様子見の電話は、私から彼女に頼んでおいたものだ。尤も木曜日の方は私が「上手く行かない」と泣きついた結果彼女が提案してくれたもので、当初の予定にはなかったのだが――。

 結局のところ、彼女が居なければこの計画の成功はなかっただろう。
 そしてこの計画があったからこそ、今までずっと辿り着けなかった事実にも辿り着けた。

『それもそうね』
 そう言って彼女が笑ったのにつられて、私も笑う。お互いにひとしきり笑った後、先に言葉を発したのは彼女の方だった。
『じゃあ、今度は直実さんね』
 何を言われたのかすぐには理解できず、自然と首が傾いた。
「僕ですか?」
『その敬語』
 言われたその一瞬、私は息を呑んで固まった。
「い……いえ、本当に尊敬してますから、このままで、」
『えー、さっくんともっと気楽にお話ししたいのになぁ』
 幼い子供に話し掛けるような口調で言われたその言葉に、私は思わず変な声を出しそうになる。慌てて口元を押さえた。……セーフ。
 何故彼女がそれを知っているのか――……いや、あの男しか考えられないが、まさかそんな話をするとは思えない。でも、直接訊かれれば当然答えるか――?
「ど、どこで聞いたんですか、それ」
 私の言った『それ』が何を意味するのか、彼女にはすぐに理解できたらしい。
『ん? 私がさっくんって呼んだら嫌だった?』
「いっ、……嫌じゃ、ありませんけど」
 嫌ではなくても、いちいち心臓が締め付けられるような気分になって、身が持たない気がしてくる。
 ――かつて母が、私のことをそう呼んだ。兄がからかってくる時を別とすれば、母以外にそう呼ぶ人は居なかったから、実に十一年ぶりということになる。
『本当に、嫌ならいいのよ。でも、良かったら呼ばせて』
 木曜日の夜、麻耶たちが訪れた後――すなわち、閉店間際。そんな時間になってもまだ、真珠は帰って来なかった。純たちには心配していないような素振りを見せたが、そうして一人になると、このままずっと帰って来ないのではないかと、猛烈な不安が襲ってきた。カウンター内に置いてある子機で、思わず、実家に電話を掛けた。先程も言った通り、彼女に泣きついたと言った方が正しい。
 私の泣き言を聞いて、彼女は可笑しそうに笑って――私が出た後に在宅確認も兼ねて彼女の方から電話をして、真珠を突っついてみようと、言ってくれた。

 それから、ずっと知りたくても訊けなかったことを、彼女の口から話してくれた。

 ――『やっぱり、一人親は何かと大変でしょう?』

 ――『だからね、どうせなら来ないかって言って下さったの』

 ――『両親が居た方が、きっと子供たちの為にもなる、って』

 それは一体誰の言葉かと、思わず耳を疑った。
 息子を平気で警察に突き出して『悪魔の子』と呼ぶような男が、会うたびごとに私を怒らせていくあの男が、よもや子供たちのためになどと言って再婚の話を切り出すとは思えなかった。てっきり、交通事故で亡くなった旧友から、彼女を奪ったようなものだと思っていたのに――。
 だったら一度ぐらい家に連れて来るとか、それが無理でも話をするとか、いくらでもやりようがあったろうにと、つい彼女に当たってしまった。どうせあの男のことだから、私に拒否権などないし、いつ会っていつ届を出そうと同じことだと言うのだろう――と続けると、彼女は少し驚きながらその通りだと言って苦笑し、彼の代わりにと謝ってくれた。……少し、申し訳なくなった。
 純が呆れ顔で話していたことは、もしかしたら本当なのかも知れないと――ほんの少しだけ、思えるようになった。

『さっくん?』
 彼女の声にハッとした。受話器を持ったままボーっとしてしまっていたらしい。何故か、いつの間にか、目に涙が浮かんでいた。慌てて拭って、答える。
「――何でもありません、大丈夫です」
『そう、良かった』
 言わなければならないと、今を逃したら次の機会はしばらくないかも知れないと、第六感が警告を出している。
 だが、こんな時に限って――ああ、酷いデジャヴを感じる――声が出てこない。
「か――……」
『ん?』
 穏やかで、硝子細工のように繊細で、綺麗な声。
 実の母とは全くタイプの違う女性だけれど、何故か素の自分を見せることに抵抗を抱かせない人。
「――母さん」
『なぁに』
「ありがとう」
 たった一言だけなのに、緊張で胸が張り裂けそうだ――。
 母はいつも通りの落ち着いた声で「いいえ」とだけ答えて、くすくすと笑った。

 リビングの入口ドアの向こうを気にしつつ、最後に別れの挨拶をして、私は静かに受話器を置いた。


 六月の、ある晴れ渡った一週間のこと。
 世界が少しだけ違って見えた、一週間のこと。

 ――私の世界が少しずつ変わり始めた、一週間のこと。