こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第六話 絡繰キャラクタァ
第四章「四日目//REALIZATION」
1
お互いに、無言が続く。
室内は、テレビから流れる騒々しい声で満ちている。今日も、トーストが美味しくない。
僕がまだ半分も食べていないうちに早々に食べ終わったらしい直実さんは少し眠そうに目を擦りながら、テーブルに置いてあった彼の携帯を手に取った。しばらく無表情で画面を眺めてボタンを弄っていたかと思うと、すぐにパタンと閉じてまたテーブルに置いた。
……僕が見たことに、気付いてしまっただろうか。
何を考えてるんだ、気付いて当たり前だ。新着メールを勝手に読んだんだから、読んでもいないメールが既読扱いになっていたらおかしいとすぐ判るだろう。
彼が、僕の方を見る。特に怒っているようには見えない、いつもの少し気が抜けたような顔。ゆっくりと、口を開いた。
「真珠は、『博士』って聞いたことあるか?」
予想外の質問。昨日と同じで、メールを見たことを僕に認めさせようとしているのか、あるいは全然関係ないのか。どっちにしろ――メールを見て知ったわけではないから、否定する意味はない。
「はい。変な実験してるって人ですよね」
学校でそんな話聞きました、ってことにしておいた。
それを聞いた直実さんは小さく「そうか」と呟いた後、相変わらずの表情のまま、続ける。
「都市伝説扱いされてるけど、本当にそういう奴が居るから、夜は絶対出歩くなよ」
それは一体、どういう意味なのだろう。
『博士』なる人物は確かに『居る』という、宣言。
何故この人に、そんなことが断言できる?
――あのメールを受けて、あの後実際、会えたのだろうか?
会って、どうしたというのだろうか?
本当にそんな危険な人物が居るというなら、それに直接会ったなら、何故警察に伝えないのか。
「……『博士』に、会ったんですか?」
恐る恐る、口に出してみる。別に、おかしい台詞じゃないはずだ。
どう、返ってくるだろうか。
ああ、どうして僕はこうも、挑発するようなことをしてしまうのだろう。
こんなことしないで、もっと穏やかにやり過ごせばいいのに、どうして――。
「――だったら、どうする?」
そんな、腹の底に恐ろしい笑いを隠しているような目でそんなことを言われて、どうして僕にこれ以上強気なことが言えようか。
「ど……どうもしません。ただ、会ったのかなって思っただけで」
「そう。つまらないな、期待してたのに」
何をだ。本当に残念そうな顔をして、そんなことを言い出す。何だかとても、歯痒い。口惜しい。
彼は僕の返答も聞かずに自分の食器を持って立ち上がり、すたすたと部屋を出て行ってしまった。
リビングには僕が一人、取り残される。すっかり食べるのを忘れていたけれど、トーストはまだ半分、残っていた。
ここはいつから、落ち着かない場所になってしまったのだろう。
彼は僕に、一体何を望んでいるのだろう。
博士と会って、一体何をしようとしているのだろう。
判らない――。
*
その日の昼休み、あたしと顔を合わせた真珠君は、それだけで表情を崩して目を潤ませていたのに、気付いた。
――……どう、したんだろう。直実さんに何か酷いことでも言われたとか、そういうことだろうか。彼の隣に立つ玄の方を伺うけど、あの悪魔の無表情からじゃ何も判りやしない。
とりあえずいつも通りごはん食べながらゆっくり話しようか、ってことにして、あたしたちは今日も爽やかに晴れ渡る中庭のベンチに着席した。着席した頃に、空から黄緑色の鳥――みっちゃんもやってきて、参加してくれた。
月曜日から続く梅雨の中休み、今日も空は青く澄み渡っているのに。
隣に座っている男の子は、一人だけ土砂降りの雨の中に居るみたいだ。
でも、一体何なんだろう。
真珠君から話を聞いてから、あたしも色々考えた。あんな人生相談されたばかりでもあるし、直実さんも直実さんで色々と悩ましいことが沢山あるんだろうけど、それにしたって唐突過ぎる。
どちらかと言うと何か妙なことを企んでいそうな、そんな気がしてしまう。真珠君は深刻に悩みすぎてる気もするし、あの人が時々暴力的なのは今に始まったことじゃないし――……尤も、その矛先が真珠君に向いたことはなかったと思しい、わけだけど。
「『博士』に、協力しようとしてるみたいなんです」
真珠君はぽつりと、箸を止めて、そう言った。
ええと――『博士』っていうと昨日兄貴が話してた、妙な都市伝説の登場人物か。それに、協力しようとしてる?
「そう言ってたの?」
「あ、いえ。昨日、……携帯を、忘れて行ったんです」
携帯電話? おっと、何となく先が読めたぞ。
話を聞いたわけではなくて、携帯の話をし始めるってことは要するに、
「見た、ってこと?」
なんだろうな。あたしは別に、他人の携帯を覗き見したことについて責める気はない。真珠君にしてみれば緊急事態だし、そこに置いてあれば見たくなるのも当然だろうと思う。きっとあたしだって見たくなる。
でも真珠君は、あたしが先を読んでそんなことを言ってしまった為か慌てたような顔をして、真っ赤になりながら卵焼きを口に運んでいた。ああごめんよ少年、そんなつもりはなかったんだ――。ひとしきり食べた後、真珠君はペットボトルのお茶を一気飲みして、ひとつ大きく溜息を吐いてから改めて話を再開してくれた。
――昨夜の喧嘩のこと。
――今朝の朝食でのやり取りのこと。
むぅ……よく判らないけど、『博士』にまつわる何かに関わっているのは確実、ってところだろうか。何を企んでいるのかはイマイチ想像しきれないところですけれども。
それにしても、茶髪だのピアスだのっていうのはそれとどう関係あるんだろう。『博士』に協力するのに必要なこととも思えないから、やっぱり単なる気分転換? あるいはよくある変身願望、みたいな。彼の歳でそれはどうなの、っていう辺りは置いておくとして。
真珠君が、再び口を開いた。
「本気で怒ると怖い人なのは、知ってます。でも、どうしていきなりこうなったのかが判らないんです。……確かに、ついていったのは悪いことかも知れませんけど」
「ちょっとからかってるだけかもよ? あの人、結構冗談キツイところあるし」
「……でも、昨日はホントに怒ってるように見えました」
う、うーん……まぁ、弟にあれこれ言われたくなかったってのは本心かも知れないか。
しばらく黙って食事を続けていた玄が、ふっと顔を上げた。
「――なら、やはりついてきてもらっては困るのだろう。そこまで怒られて怯えているのに、まさかまだついてくるとは思うまい?」
相変わらずの無表情で、抑揚のない台詞。玄次郎の言いたいことはつまり、『真珠君についてこられては困るから』、必要以上に声を荒げたり、ピアス空けたりして動揺させようっていう魂胆なんじゃないかと、そういうことか。
なるほど、それはそれで有り得ないことじゃないね――。
だとしたら、やっぱり出掛けた先に何かがある、ってことになるんだろうか。
「ミッチャン、昨日モ、ツイテ行ッタヨ!」
唐突な高い声。――何ですと? 昨日もついていったとな?
若干聞き取りづらかったけど、みっちゃんの話によれば――、昨夜も例の三人組での行動で、アーケード周辺をぶらぶらしていたところで、若い男に話し掛けられたんだそうだ。
「それが『博士』か?」
玄が尋ねると、みっちゃんは可愛らしい声で「チガウヨ!」と答える。それに対して真っ先に反応したのは、真珠君だった。
「みっちゃん、もしかしてその後皆でアドレス交換みたいになったりした?」
「ナッタリシタ!」
――声を掛けてきた当人は『博士』ではないがその友人だと言い、三人は『博士のことは前から気になっていた。知識ならあるから自分たちも協力してみたいが駄目か』という話をした。すると友人氏は『やばいことだけどいいのか』と何度か確認した後で、三人に連絡先を教えていたのだという。
やばいことか。
……うん、それは普通にやばいな。「危ない」っていう意味で。
真珠君の顔色も、だいぶやばいです。
「――とすると、次には『博士』当人に接触する可能性が高いわけか」
玄次郎が言い、みっちゃんは「ソウダネ!」と応じた。いちいち素っ頓狂な声なのが何とも言えない。
「『明日ハ博士ノ都合ガ悪イ』トモ言ッテイタ」
えーと、昨日の明日だから、つまりそれは今日だ。
「じゃ、明日以降? また出掛けたらついていってみる? 今度は兄さんにも協力してもらってさ、危なくないように」
きっと何か上手い術が使える……と、思いたい。こんな時ぐらいは、頼れる兄貴であって欲しいところです。
「どうする、真珠」
あたしと玄が同時に詰め寄る。不安そうにあたしたちの話を聞いていた真珠君は、あからさまに困った顔をしてうつむいた後、今にも消え入りそうなか細い声を、発した。
「……今日一日、考えさせてください」
あれおかしいな、何かあたしたちが責めてるみたいだ……。
多分、物凄く怖いんだろうな。ついていった先にあるものを、自分の目で確認してしまうのが、怖い。もしそこに本当に『博士』が居て、彼が何か悪いことに協力していたら、どうする?
うちの兄さんにフォローしてもらえるにしても、ただその現場を見るというだけでも、怖い。
あたしだって怖い。身内の真珠君なら、もっと怖いに違いない。
昼休みの終わりが近付いてきたので、真珠君にはとにかく「無理しないで」と伝えて、お弁当の残りをかき込んだ。
――このまま何事もなく平和に、梅雨明けを迎えられればいいのに、と思う。
隣の男の子の空も早く晴れますようにと祈りながら、あたしは彼らに手を振って、教室に戻った。
*
家に帰るのが、嫌だった。
今日は営業日なんだから、直実さんはきっとごく普通に店に居るんだろうけど、でも。何となく顔を合わせたくない、そんな気分だった。
だから玄に無理を言って、通学路の途中の公園に寄った。ブランコに腰掛けながら話をして、時間を潰すことした。
「……初めて会った頃のことは、もう覚えてないんだ。でも小さい頃は、時々帰ってきてくれるのが楽しみだった、気がする」
でも、彼が大学に入って以降は、あまり帰って来なくなった。良くて年に一回で、帰ってこない年もあったと思う。高校の頃は長期休みごとに帰ってきていたというのはつまり寮が閉められるからで、嫌でも帰らざるを得なかったんだろうと、今なら判る。
会う機会が少なくなるたび、僕と彼との距離はだんだん離れていくような気がしていた。血縁という繋がりがないのだから、義兄弟という脆い絆は、定期的に補強しなければ、簡単に千切れてしまうような気がした。
「僕が『弟』だから、……仲良くしないといけないから、仲良くしてたのかな」
「彼が無理をしていたと?」
「……判らない」
「ぼくにも判らない」
当たり前だ――。僕に判らなくて玄に判ったら、それはそれで悲しい。
ふと、思い出す。
「……迷惑だって、言われた」
「何が?」
「こっちに、来たこと」
しばらく前のことだ。酒に酔った勢いだったのかも知れない言葉。……でも確かあまり酔わないって言ってたから、やっぱり違う。
その後それは迷惑とは言わないとは言われたけど、彼に負担を掛けているのは事実だということだ。僕を受け入れて面倒を見るのが義務だからというような、文脈。彼が必死に『兄』を演じようとしているなら、僕は彼にその立場を無理強いしていることになる――。
「でも、断らなかったのだろう」
「だから、無理して。直実さんは意識してなかったかも知れないけど」
演技をしている自覚のない人だから。
僕が彼に『兄』の立場を強いることで負担を掛けているなら、やっぱりこっちに来たのは迷惑だ。
玄が少し首を傾げて、口を開いた。
「よく判らないな。真珠たちは兄弟に見えない」
判っていた。
そう、判っていたこと、だ。
――ずっと前から。
恐らく玄は、思ったことを素直に言うのだろう。だから別に、玄が悪いわけでも何でもない。ただ僕が、たったそれだけのことにダメージを受けてしまうほど、傷つきやすいだけのこと。
どうしてこれだけのことで、僕の目は洪水になってしまうのだろう――。
「大丈夫か。酷いことを言ったなら謝る」
そう言ってくれた玄は相変わらずの無表情で、抑揚のない声だった。
「……う……ううん、玄は悪くない」
お互いに、『兄弟ごっこ』をしていただけなのかも知れない。
それなら、それが彼にとって苦痛であるなら、
僕は『弟』なんてやめてしまっても構わない――。
帰らないほうがいいなら、帰らなくてもいい。
帰りたく、ない。帰るのが、怖い。
「おかえり」ではない何かを言われる気がして、怖かった。
玄は何も言わずに、隣に居てくれた。
時々ブランコを漕いでみたりして暇そうにしていたけど、それでも、先に帰ったりはしなかった。
2
日が落ちて、『緑が豊富』が謳い文句の住宅街は、すっかり闇に包まれた。時刻は、午後七時を回っている。振り子時計が時を刻む音が店内に響き、店主はただ静かに読書をしながら茶を飲んでいる。
――ドアが開いた音がした。
直実が顔を上げると、入口に立っていたのは純だった。笑っても怒ってもいない。我が物顔ですたすたと店内に入り、適当に近くの椅子を取って勝手にカウンター席を作る。
「……いらっしゃい、ませ」
純がそこまで一言も発しなかったのが珍しいのか、店主は少し緊張したような顔をする。
ボスッと音を立てて席につき深く息を吐いた純は、そんな直実を見てニヤリと笑った。
「相変わらずはっちゃけてるな。……って、マジでピアス空けたのかよ、不良め」
「高校はもう卒業した。何か用事? 刑事課の依頼ならまた今度な。コーヒー一杯だけなら奢ってやる」
「よし、くれ。刑事の用事はないが――……さっき公園で真珠が泣いてたから、警察的には保護者様に伝えるべきかと思ってな」
純が淡々と語った言葉に、コーヒーの粉を用意していた直実の手が止まった。そして溜息を吐く。
「……帰ってこないと思ったら。一人?」
「えーと、金髪の中学生が一緒だった」
「玄次郎君か。――なら放っといていい」
保護者様の判断は恐ろしく素早かった。何事もなかったかのように、無表情で作業を続ける。
一瞬その場に沈黙が流れたが、純はすぐに頬杖をついてからかうように笑い始めた。
「そう冷たくしてやんなよ、オニイチャンだろ。『心配したんだぞ!』って迎えに行ってやれ」
「――……私はお兄ちゃんなんかじゃない」
手を止め、目を伏せて低い声でそう呟いた直実を見て、途端に純の表情が険しくなった。冗談が通じなかったことに驚いたようである。それから少し視線をうろうろさせた後、申し訳なさそうに返答した。
「……悪い、てっきり真珠とは結構仲良いんだと思ってた。同居するぐらいだし」
「へぇ、仲悪かったら同居できないとでも? この私が?」
大学時代同居していたお前とは仲が良かったと思っているのかと、振り向いた彼の目が語っていた。それどころか、彼が今までの人生で仲の良い人間だけと同居していた期間がどれだけあるのかという話でもある。
「聞かなかったことに」
「了解」
直実は表情を変えずに向き直り、黙々と作業を続ける。
ポットの湯を、粉の上に少しずつ注ぎ入れていく。湯気と共にふわりとコーヒーの香りが周囲に広がって、純はそれを味わうようにひとつ、深呼吸をした。
「……でもお前、一応保護者だろ?」
目を逸らしながら静かに尋ねた純の言葉に、直実はすぐには答えなかった。虚ろな目で、コーヒーの滴がカップに落ちるのをひたすら眺めていたかと思うと、思い出したように瞬きをして、口を開いた。
「特に変な場所に居るわけでもなし、友達が一緒なら何の心配もないだろ」
「信頼してんだか、責任放棄なのか……」
「あいつはあれでしっかり者だ」
「はいはい」
投げやりに答えた純の目の前に、コーヒーカップの載ったソーサーが無言で差し出される。同じく無言で受け取った純は、ゆっくりとそれを口に運び、さらにもう一度深呼吸をした。
「泣かしてんの、どうせお前だろ」
さらりと、何のことはないあっさりとした調子で、純はそう告げた。
椅子に座り直して道具を整理していた直実が凍りついたが、その次の瞬間には、彼は純を睨みつけていた。
「ほらその目、その怖い目。俺はもう怖くねえぞ。――でも、これじゃ真珠が泣きたくなるのは判るぜ?」
純が軽い調子でそう言いながら少し身を乗り出して、指で直実の前髪を跳ね上げた。跳ねた勢いで目に掛かった髪の先を弄りながら、直実は不満げに答える。
「……そうかな、我ながら悪くないと思うんだけど。それに、真珠だってこれだけで泣いてるわけじゃない」
「泣かしてる自覚はあるんだな」
「泣かせたいわけじゃない」
その回答に、純はフフンと楽しげに鼻を鳴らした。直実は眉をひそめる。
「何が可笑しい」
「やっぱり自覚ねえんだと思って」
「何の」
「おじさんに似てる」
「冗談じゃない――!」
嫌悪感に満ちた顔をして、直実はカウンターを叩いて声を荒げた。他人から父親に似ていると言われることなど、怒るか落ち込む材料にしかならないのだろう。しかし純は特別驚くことはなく、のんびりとコーヒーを啜りながら、呆れ顔を返した。
「おじさん、別にお前のこと嫌ってねえぞ」
「嘘だ」
待ち構えていたかのように怒った顔で即答するので、純は溜息を吐いた。普段は基本的に温厚な直実だが、この話になるとすぐ感情的になる。相手が気心の知れた純だからということもあるだろう。まるで子供のようだ。
「――話すの忘れてた。お前が刺された日、俺おじさんと会った」
刺されたというのはつまり、高校時代の例の事件の際のことだ。
直実の記憶の中では、当日の夜目が覚めたときベッドの傍に居たのは純だけで、父と会ったのはその翌日である。その時純は居なかったのだから、二人が顔を合わせるはずがない、ということになる。
「たまたま近くの大学に居たとかで結構早く来たけど、お前まだ寝てて、無理に起こすのも悪いからってすぐ帰った。あんな慌ててるおじさん、初めて見たぜ」
それは、少なくとも彼の身を案じて駆けつけたということ。
驚いた様子で話を聞いていた直実は言われた事実を理解できないのか、あるいは自分の中で消化できないのか、視線を右往左往させながら徐々にうつむいていく。そして、暗闇に溶けてしまいそうな小声で、呟いた。
「……あの人だって、悪魔だ」
何を考えているのか判らない、悪魔。かつて純は、直実のことをそう評した。だから直実は父もそれと同じだと、ワケが判らないと、そう言いたいのだろう。
その言葉を聞き取れたのか否か、純は表情を変えずにコーヒーを飲んで、ゆっくりと瞬きをした。
しばらく沈黙が続いて、直実が食器を片付けようとし始める頃に、純は再び口を開いた。
「だから、似てんだよ」
今度は、直実も何も言わなかった。何も言わずに、食器を洗い始めた。
水と陶器の音を聞きながら、純はしばらくその様子を眺めた後、呟くように言った。
「前髪、伸びたな」
昔のように、前髪が右目を隠してしまっている。直実は一度純のほうを見た後、確認するように少し見上げながら、答える。
「伸びたかもね」
「切らねえの」
深い意味のない問い。直実はまず水を止めて、濡れたままの手で目に掛かる前髪をよけてから、答える。
「切らないよ。伸ばしてるから」
淡々とされたその返答が意外だったのか、純は少し目を見開いた。
「どうしてまた?」
「――……気分転換、かな」
髪を染めたことについて、真珠に尋ねられた時と全く同じ返答。それが伸ばしている理由になるとは本人も思っていないようで、少し困ったような顔をしている。
「は? 何ヶ月前から転換中なんだよ。俺には関係ねえしどうでもいいけど」
純が呆れて笑いながら突っ込んだのを見て、直実も少しだけ笑いを零した。
「そういうことも、ある」
「ふぅん」
何らかの理由があるのを誤魔化しているにせよ何にせよ、純にとっては本当にどうでもいい話であるようだ。カップを口に運びながら感情のこもっていない相槌を打った後、話を逸らしに掛かった。
「真珠、帰ってこねえな」
「帰ってこないな」
直実は特別感慨のなさそうな声で、オウム返しのように答えた。心配しているかいないかで言えば、全く心配していないように受け取れる。純はコーヒーを飲もうとしてカップの中身がなくなったのに気付き、ソーサーに戻した。
「帰ってくるまで居ようかと思ったけど、帰るわ。コーヒーご馳走様」
直実は「どうも」とだけ応えて、空になったカップを受け取った。純は立ち上がって、椅子にかけていたスーツに袖を通し、鞄を手に取った。
「――で、それはいつまでだ」
玄関近くまで進んでから振り返った純が、自分の髪を軽く摘みながら笑ってそう尋ねた。
直実は何を訊かれているのか判らない様子で首を傾げていたが、つられて手を頭にやって、小さく声を漏らした。そして何故か少しムッとしたような顔で、答える。
「……土曜の朝までには戻す」
「なるほど、楓さんが来る前に?」
完全にからかっている調子だ。直実の表情はますます険しくなる。
「関係ない」
「はいはい冗談ですよ。じゃあな」
明るく笑って手を振り、純はその場から逃げるように、すたこらと店を後にする。
一人残された店主は、どこか釈然としない表情をして、しばらくその場に立ち尽くしていた。
*
――純と丁度入れ替わり、だった。
彼女がドアを開けて入ると、店主は何故か驚いたような顔をしていた。何時に訪れようが彼女の勝手であるし、唐突に現れてはおかしい客でもあるまいに、相変わらず思考回路の理解できない男である。
「こんばんは」
「……麻耶さん……と、みっちゃん」
彼女が普通に挨拶をすると、店主はやっとの様子で彼女らの名を呼んだ。みっちゃんも挨拶をする対象になっているということは、彼の中で多少格上げがなされたのだろうか。
「噂通りのお姿だね。どういう風の吹き回し? 髪型変えてカラコンでも入れて地元歩き回れば兄貴の幽霊って言われるよ。やってみ?」
からかうように彼女が言う。確かに店主は、その兄とよく似ているのだ。真珠が来て『桧村さんのところのお兄ちゃん』では誰を指しているのか判らなくなってからは『茶色い方』『黒い方』と呼び分けられているから、髪の色が同じだと困ることになるだろう。生死で分けた方が判りやすいように思われるが、それには近所の住民も抵抗があるのかも知れない。
すると店主はあからさまに嫌そうな顔をして、彼女から目を逸らした。
「貴女に答える義理はありません。帰る予定もありません」
相変わらずの冷たい反応だが、彼女はもう既に慣れっこである。
「えー、つまんない。ねぇ、君が噂の『博士』と関係あるって話は本当? 本当なら面白いと思って来たんだけど」
こういうときはさっさと話題を変えるに限る。
純がそのままにしていったと思しい椅子を確保して、彼女も擬似カウンター席に着席した。
「どうでしょうね。ご自分で調べられたらどうですか?」
「つれないねぇ。もう調べ終わってることぐらい判るだろうに」
ねー、と言いながら、カウンターの上で大人しくしているみっちゃんと目を合わせた。鳥もまた、それに呼応するように頷くような仕草をする。
――判っていて、わざと尋ねる。本人の口から言わせる。
彼女もまた、探偵ごっこが楽しいのである。
「怒らせたいんですか?」
犯人役の店主は、話す代わりに眉間に皺を寄せた。どうやら話す気はなさそうである。こんなときは、話を逸らすのが一番だ。
「みっちゃんが真珠の心配してるよ。ね。――ちょっと可哀想なんじゃない?」
「……今まで優しくしすぎてたんですよ」
唐突な話題の転換にも、店主の非を責めるような言葉にも、店主は微動だにしない。
「だからこそさ。今日だってまだ帰ってないんだろ?」
気付いていないと思っていたのか、店主は再び嫌そうな顔をした。
「貴女も見て来たんですか」
「みっちゃんがね」
貴女も、と言うからには既に誰かが同様の理由で訪ねているということだ。恐らく純がそうだったのだろう。
「あの子がこんな時間まで帰らないなんて、よっぽどだと思わない?」
真珠は律儀で真面目な子供だ。――恐らくは、兄弟の中で一番に。
だから、いくら喧嘩していると言っても、こんな遅くまで家に帰らないということなど、有り得ない話。帰らなければ余計に喧嘩になるということも充分判っているだろう。それでも尚帰らないのだから、よほど傷ついていると考えた方が良い。
「別に、虐待してるわけじゃありませんけど」
「虐待は連鎖するって言うからね、気をつけな」
「……え?」
「話してくれないなら長居する意味もないね。帰るとするよ」
遠回しに父の行為が虐待に近かったと示唆したことを誤魔化すように話題を逸らし、彼女は席を立った。一度は追及しようとしていた店主だったが、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあまたね。今度来たときは何か食べるよ。――みっちゃん、おいで」
彼女は何も注文しなかったことをさり気なく謝り、左腕を伸ばして鳥の名を呼ぶ。カウンターを飛び立った彼は彼女の左手を経て、右肩へと舞い戻った。そして久々に口を開く。
「ジャーネ! バイバイ、サッチャン」
「は――……え?」
何か不思議そうにしている店主を尻目に、彼女は軽く手を振って店を出た。
しばらく静かな街を歩いて、帰宅する人々でにぎわう駅に辿り着いた頃に、彼女が呟いた。
「あれで良かったの?」
肩に止まる鳥が、応える。
「タブン」
「上手く行きゃいいけど」
つまらなさそうな顔をしながらそう言って、彼女は自宅最寄り駅までの切符を買った。
3
さすがの僕も、空腹には、耐えられなかった。
最後まで付き合ってくれた玄にお礼を言うと、「気にしないで良い」と言って笑って去っていった。彼は笑うと、さすがに綺麗な顔だな、と思わされる。悪魔の微笑だ。
――まだ、店の明かりが点いている。
既に閉店時刻を過ぎて、もう夕食時になろうとしているのだけれど、まだ片付けをしているのだろうか。なら、少し手伝えば帳消しにしてもらえないだろうか――……なんて考えながら、恐る恐る、ドアに手を掛けた。
「おかえり」
そろそろと顔を覗かせると、先にそう声が掛かった。
もう片付けは終わっているようで、ほとんどの椅子が上がっていた。玄関に近い方から奥に向かって二つ目のテーブルのひとつだけが下りたままで、カウンターの傍に置かれている。ちょうど、カウンター席のような形。
そこに、直実さんが足を組んで、組んだ足を両手で抱えながら、座っていた。既に洋服に着替えていて、恐らくはもうすぐ出掛けるのだろうけど――……僕を、待っていたのだろうか。片付けが終わっているなら、下に居る意味はないのに。
「返事は?」
彼がこっちを向いて、訊く。いつも通りの、穏やかな声。
「……ただいま」
「うん」
彼はそう答えて、組んでいた足を下ろし、立ち上がった。座っていた椅子を上げて、ズボンのポケットの中身を確認すると、「よし」と呟いてこちらへ――玄関の方へ、歩いてきた。
そうして僕の傍まで辿り着くと、そのすれ違いざま、少し身構えていた僕の頭に、ポンと、手を置いた。
「何も訊かない。私は信じてたよ。――だから、ついてくるな」
「あ――……、」
僕が何か言い返す前に彼はそのまま外へ出て行き、扉はバタンと音を立てて、閉まった。
……信じてた?
僕のことを?
だから、ついてくるな?
僕がちゃんと帰ってくると自分は信じていたから、
これから出掛ける自分のことを信じて待っていろと、
そう――……言っていたの、だろうか。
……そんなの、ずるい。条件が違うじゃないか。僕だって信じたかった。
――信じられなかったのは、どうして?
僕は最初から彼のことを、信じている振りをして、本当は信じていなかったから?
でも実際信じたって、裏切られることになったじゃないか――!
キッチンを覗いても、僕の部屋を覗いても、ハルは既に居なかった。彼も、何処かへ出掛けているのか。吸血鬼が夜中出掛ける先が何処かなんて知らないし、追及したってどうにもならない。
結局今日も、一人の夕食だ。
食べ終わっても片付ける気分になれなくて、しばらくリビングで机に突っ伏してぼーっとしていた。つけっぱなしのテレビが退屈なニュースを伝え始めるけど、それに耳を傾ける気分にもなれなかった。
――その時突然、電話の呼び出し音が鳴り始めた。
頭を上げて、無理やり脳を回転させる。
こんな時間に、一体誰から……? でも、今は僕しか居ないんだから、出るしかない。仕事関係の人だったら、伝言でも聞いておけばきっと問題ない、はず。
ゆっくりひとつ深呼吸をして、コール音が七回ほど鳴ったところで、僕は受話器を手に取った。
「はい、桧村です」
『もしもし、真珠? お母さんだけど』
えっ?
母、さん?
何かあったらこっちから電話しろって言ってたのに。まさか、僕のことを心配して――?
「お……お母さん、どうして」
『ん? あれから連絡ないから、大丈夫かなーと思って』
そんな、何もないなら電話するなって言ったくせに。
何で、わざわざそっちから掛けてくるんだよ――。
「大丈夫なんかじゃ、ない――」
声が勝手に、掠れてしまう。さっき散々泣いたせいだと思っても、すぐに治るものではない。
『何よ、どうしたの?』
「ねぇ、もし直実さんが、何か悪いことしてたとしたら、どうすればいい?」
『どうすればって――……好きにしたらいいじゃない。怒りたければ怒ればいいし、お父さんに告げ口するならすればいいじゃない?』
告げ口って。母さんは時々、さらっと怖いことを言うと思う――。
「……無理だよ、そんなの」
『どうして? 友達が悪いことしてたらすぐ怒るのに、お兄ちゃん相手じゃ駄目なの? 弱虫ねぇ』
「よ」
弱虫なんて、そんな風に直球で言われると、さすがに辛い。
でも、――……確かに弱虫なのかも、知れない。
ちょっと攻められるとすぐ泣いてしまって、あまり抵抗できなかった。張り合いがないと言われても、何も言えなかった。もし本当に博士に手を貸しているとして、果たして僕は彼に対して何か言えるのだろうか。またあの怖い目と声を向けられたら、何も言えなくなってしまいやしないだろうか。
『悪くないなら、堂々としてなさい。遠慮しないで言いたいことを言えばいいのよ、奴隷じゃないんだから』
奴隷、か――母さんはまた怖い言葉を、平気で言い出す。
言いたいことを、言っていいのか?
言ったら、どうなる?
もし直実さんにとって僕が、負担になっているなら――。
「もしそれでまた無理させたら、嫌だ――」
言いながらまた、なけなしの堤防が決壊しそうになる。
受話器の向こうの母さんは何故か、小さくクスリと笑った。
「わ、笑わないでよ」
『もう、そっくりなんだから――……あ、何でもない。確かに少し無理してたかも知れないけど、それは貴方と仲良くしたかったからでしょ』
僕と、仲良く――?
お母さんの言っている意味が、よく、判らない。そっくりって、僕が誰に似てるって?
『少しぐらい無理させていいの。お兄ちゃんも不安なのよ、真珠に兄として認められてないんじゃないかって』
「え!? そんな、認める認めないなんて」
考えたことはない。
でももしかしたら、知らず知らずの内に酷いことを言ってしまっていたのかも、知れない?
確かに血は繋がっていない。どちらかと言えば後から迎え入れられた僕のほうが、彼に弟と認めてもらわなければならないと思っていた。
でも――そうではなかった、と?
関係を認めきれていなかったのは、むしろ僕の方だったと?
彼のことを信じられなかったのは、彼を認めていなかったから?
僕には――、否定、出来なかった。
ああ、そうなのかも知れない。
直実さんとしか呼べなかったのは、本当にそれ以上ではなかったから。
家族の中で彼にだけ敬語で話すのは、一人離れて暮らしていた彼がまだ僕の中で『他人』だったから。
――そんな自分の闇を認めてしまうのが少し、怖い。
けれど、それはきっと、本当のことだ。
認めなければ、ここから前には、進めない。
大切な人だ。大好きな人だ。嫌っていたわけじゃない。
でも、それは『弟』としての言葉じゃなかった。
ただの知り合い、同居人としての言葉に、過ぎなかった。
『素直になればいいのよ、真珠』
お母さんの声。
素直に――、思ったことを、伝えればいい。
そうすればきっと彼もまた、笑ってくれる。
『頑張ってね』
「――うん。ありがとう、母さん」
『いいのよ、大したことしてないんだから。――それじゃ、また今度ね』
そうして、通話を終える。
彼が今何をしているのかは、判らない。
でも、どんな辛い現実が待っているとしても、僕には言わないといけないことがあるから。
――だから僕は、追い掛けないといけないんだ。今日はもう追いようがないけれど、明日でも、明後日でもいい。彼の行く先に何があるのか、この目で確かめよう。
そこにあるのがどんな暗闇でも、今の僕なら受け入れられる。
ずっと縮こまって泣いていた僕ももうすぐ、立ち上がれそうだ。
だからもう少しそこで、待っていて。
――ね、兄ちゃん。
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