こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第六話 絡繰キャラクタァ




第三章「三日目//AGITATION」

   1

「やぁおはよう、真珠。寝不足だろう?」
 翌朝僕は、直実さんのそのわざとらしい一言と不敵な笑顔によって、夢の世界から引きずり出されることとなった。あまりの衝撃に、起き抜けの奇妙な体勢のまま、完全に硬直してしまった。動かせるのは目玉だけだ。

 だって、まだ身体を起こしてもいないのに。
 食事しながら舟漕いでる、なんてわけじゃないのに。
 大体、目覚まし時計のアラームもまだ鳴っていない時刻で、向こうが勝手に起こしに来たのに。

 ――それなのにどうして、僕が寝不足だなんて断言できるんだ。

 ……事実、寝不足ではあるのだけれど。
 あの後直実さんたちは、アーケードの片隅にあるゲームセンターへ入り、僕が退屈し始める頃に出てくると次にファミレスに寄り、最終的には暗い脇道の雑居ビルの中へ消えていった。
 結局収穫と言えるほどの収穫はなく、空からの監視をしていたみっちゃんも、二人の名前を教えてくれただけだった。
 その時点で僕らもかなり疲れていたし夜も更けてきたということで尾行は終了して、全員帰宅した。夕飯の親子丼はすっかり冷めてしまっていたけれど、食べないわけにもいかないので全部平らげて食器も片付けて、お風呂に入ってすぐに寝た。
 ――それでも恐らく、既に日付は変わって結構経っていただろうと思う。

 でも、ここでそれを認めるわけにはいかない。
 凍り付いていた身体を無理やり溶かして、ベッドの上から飛び起きて叫ぶ。
「そ、そんなことありませんッ! おはようございます!」
「ふーん、それならいいけど」
 ニヤニヤ笑ったまま部屋を去っていく。……全然信じてない。
 何だかとても悔しかった僕は、その背中を追いかける。ちょうど、リビングに入るところだ。彼がドアを開けたその瞬間を狙って、――思いっきり、突き飛ばした。
 僕の奇襲でよろめいた直実さんは、体勢を立て直すとすぐに振り向き、こちらへにじり寄ってくる。

 顔は笑っているが、――目が真剣だ。

 油断していたその隙に、部屋の景色が急降下していった。――違う、身体が持ち上げられたんだ。
 何事かと思っている間に急停止、今度は上半身だけが急降下。

 ……どうやら、赤ちゃんを抱き上げるかのように軽々と持ち上げられ、肩に乗せられてしまった、らしい。ちょうど、干されてる布団みたいに……ってそういう問題じゃなくって!
「お、下ろしてください!」
「うん、下ろすよ」
 そうして運ばれて下ろされた先は、食卓の僕の椅子だった。目の前には、いつも通りの朝食が用意されている。
 突然のことだったから、心臓がまだバクバク言っている。……僕の体重がどれだけあるか判ってるんだろうか、この人。きっと自分の本来の体力なんて関係なく平気で出来てしまうんだろうけど、あんまり無理して身体を壊してしまわないか心配になる。痩せてるし、腕も細いし、一見した限りじゃ僕よりも体力なさそうなのに。
 席についてさっさとトーストを食べ始めた彼は、僕の視線に気付くと、再び先刻(さっき)の不敵な笑みを浮かべた。
「尾行がバレて悔しかったからって、すぐ暴力に走らないこと」
「だって、それは直実さんが信じてくれないか……ら、」

 え?
 直実さんは何故かポカンとしている。

「……ほう、いきなり陥落か。素直で良いことだ」
 回復したかと思えば、テレビのチャンネルを替えながら、のほほんと笑ってそんなことをおっしゃる。馬鹿にされているようで、ものすごく、悔しい。いや、実際馬鹿にされてる。
「び、尾行なんてしてません!」
「遅いって。……そうか、やっぱ尾行(つけ)てたか」
 あれ? 最初からバレてたんじゃなかったのか?
 でも、直実さんは僕の疑問には答えてくれなかった。先刻までの笑みとはまったく違う、冷たい視線が向けられた。偶然目線が合って、何故か鳥肌が立った。
「ついてくるなって言っただろう? 何でついてきた」
「それは……なんか、心配で」
「へぇ。中学生に心配されるとは、私も見くびられたもんだね」
 その瞬間、心臓を鷲掴みにされて、さらに氷づけにされたような気分になった。
 ――何か、言葉の選び方を間違えただろうか。不安だったと言うのが適切だったか。……いやでも、不安だなんて言っても同じことか。どっちにしたって、直実さんの言葉を信用してないのが明らかなんだから、今更言い訳しても無駄なことだ。
 直実さんが眉をひそめた。
危ないから(、、、、、)ついてくるな、って言っただろうが。こっちだって心配して言ってるんだぞ」
「じゃあ、直実さんはその危ないところに何しに行ってるんですか?」
「それは秘密」
「そんなのずるいです」
「ずるくない。大人の事情って奴だよ」
 卑怯だ。卑怯な言い訳にしか聞こえない。
 大人だからって、どうしてそれが理由になる?
 だって、兄弟なのに。身内なのに。身内にぐらい、きちんと理由を話してくれたっていいじゃないか。

 ……身内?
 本当に僕は、身内なのか?
 書類上の話ではなくて、直実さんにとって僕は、本当に『弟』なのか?

 急に、背筋が寒くなった。何故か手が震えて、何かを言おうとしても声が出ない。喋り方を忘れてしまったかのようだ。その間にも正面に座る彼は余裕に満ちた目をして、僕の次なる攻撃の一手を待っているように見えた。
 ――待っても無駄です、直実さん。今の僕には、これ以上の攻撃をする勇気がありません。
 それどころか、ああ、こんな姿見せたくないのに、視界がどんどんにじんで、最終的に何も見えなくなる。

「もうドロップアウト? 張り合いないなぁ」

 その不満げな声に、コンコン、という音が重なった。
 ――ちょっと、人の頭をスプーンの柄で叩かないで下さい。行儀悪いし、頭が悪くなったらどうしてくれるんですか……。……駄目だ、涙が言葉を押し流してしまう。
「……目、腫れるよ? ちゃんと冷やしてけよ」
 呆れたような声が、上から降りかかった。僕への攻撃はやめてくれたらしいけれど、僕自身はまだ、すぐには戻れない。
 一体何が、どれが彼の本音なのだろう。常に演技をしながら生きているようにも見える彼のことだから、既に本心なんてものは無数の心に埋もれてしまっているのではないだろうか。
 今までの妙に優しい彼だって、『優しいお兄さん』っていう、彼の持つ役割(ロール)のひとつに過ぎなかったんじゃないのか?

 もし本当にそうだとしたら――、なんて、残酷な人なのだろう。

 そういえば、今日は定休日じゃないか。僕は学校でも、直実さんは休日だ。買い物とか色々やることはあるし、一日中店の中で過ごすのと違って気分転換になるからと、大抵毎週どこかへ出掛けている。

「ご馳走様、行ってらっしゃい、行ってきます。帰り、いつもより遅くなるかも知れないけど、夕飯までには帰るから。――ほら、もう七時半だよ」
 僕が返答できないのを判っていて、全部まとめて言われてしまったらしい。僕はかろうじてゆっくりと頷いて、パジャマの袖で溢れた涙を拭うと、トーストの残りを紅茶で流し込んだ。何の味も、しょっぱさすら、感じなかった。

   *

 何とか学校までは辿り着こうと考えながら、もうすっかり通い慣れた道をふらふらと歩いた。いつもより二割は長い時間が掛かったけれど、途中で行き倒れることはなく、自分の教室まで辿り着くことが出来た。
 見慣れた顔がそこにあって、いつものように談笑していて、そこには普段と変わらない時間が流れている。僕はひとり、凍りついた過去に取り残されているような幻覚に惑わされる。
 でも、同級生たちはいつものように、明るく笑って僕の肩を叩く。僕は無理やり笑って、朝の挨拶を返す。
 ――ああ、とりあえず僕も、今のこの時間をちゃんと生きているみたいだ。
 そしていつになく拷問のように長く感じた午前の授業を乗り越え、昼休みの三度目になる会合を経て放課後。

 僕は何故か、――……楓さん……と玄の家に、お邪魔していた。

 別に、何も問題ないよね? 玄は普通に同級生でもあるんだから『友達の家』には違いないんだし。ただ少し、関係と属性が普通と違ってややこしいだけで。

 ええとそれで、昼休みの会合よりも、参加人数が二人ほど増えているのは、どうしてなんだろうか――。

「そんでじゃあ、何だ。兄貴の様子がおかしいと思ってちょっと尾行(つけ)てみたら、マジギレされたってのか」
 ベッドの上で胡坐をかき、誰の所有物かは判らない猫型の巨大クッションを抱え、ダラダラとした口調で経緯をまとめてくれたのは、この部屋の主である柘榴さん。
 ちなみに、その両脇にはクリスと玄が腰掛けている。部屋の住人ではない楓さんと僕は、床に座布団を敷いて正座。放課後になってから合流したみっちゃんも、僕と楓さんの間の床で大人しくしている。しかし、何とも不思議な光景だ。そういえば、ハルは今どうしているだろう――。
「っていうか楓も玄も、桧村さん絡みなら変に誤魔化さねえでそう言ってくれれば良かったのに。下手したら厄介なことになってたぞ」
 確かに柘榴さんは術師だから、直実さんと一番近い立場に居る人だとも言える。だからこそ、素人が下手なことをする危険性が判るのかも知れない。この会合に参加してもらったのも、ある意味正しい選択なのかも、知れない。
 忠告した柘榴さんに対して、楓さんはけろっとした顔で宣言する。
「大丈夫。兄さんみたいな変なことはしません」
「あ、あれは事情が違うっての! ……で何だっけ、ゲーセンとファミレスと何処のビルだって?」
 僕はよく知らないことだから何とも言えないのだけれど、楓さんが引き合いに出した話がよほど嫌なのか、柘榴さんは話をサクッと元に戻した。
 大学生の柘榴さんなら、楓さんよりももっと、この辺りのことに詳しいのかも知れない。雑居ビルのことを、楓さんにも手伝ってもらいながら説明すると、どうやら場所は理解してもらえたらしい。
「ああ! あそこ怪しいよなぁ。確か店は何もないよな。――アジト的な何かか?」
「怪しげな犯罪集団でもあるのかしら?」
 それまで静観していたクリスが反応した。
「マフィアか。麻薬密売、詐欺、殺人、……むぐ」
 ずらずらと妙なことを口走り始めた玄の口を、柘榴さんが手で塞いで止めた。
 でも、犯罪集団だなんて、そんな。
 まさかあの人がそんなことする訳がないと言いそうになって、留まる。
 今朝のことを思い出せ。あの人はいくつもの役割(ロール)を持って、ただそれを演じているに過ぎないんだ。僕が見ていた彼は、彼の中のほんの一部の彼でしかない。もちろん、ここに居る全員の持っている情報を合わせてみても、恐らくそれで全てにはならないのだろう。
 柘榴さんは難しい顔をして考え込み始める。しばらく変な顔で唸った後、突然カッと目を見開いて「これはどうだ!」と叫んだ。それと同時に――抱えていた猫型クッションを、宙に投げ出した。

 ――再び僕の目の前に落ちてきたとき、クッションは、紅白に色分けされたカプセル型になっていた。これはこれで結構、可愛らしく見える。

「何これ、薬?」
 カプセル型ふわふわクッションを見事にキャッチした楓さんは、色や形状が変化したことなんかには一切触れず、ただ目の前にある事実を全て受け入れて、残った疑問を柘榴さんにぶつけていた。この程度のことは、もうすっかり慣れっこなのだろう。
 僕はふと思い立って、柘榴さんの目を見た。――特に、色が変化しているようには見受けられない。もしかしたら、柘榴さんは術を使っても目の色が変わったりしないのかも知れない。人によって違うなら、直実さんが自分の目の色のことを気にするのも当然か。
 柘榴さんは質問に答える前に、クッションに一切触れず(、、、、、)にそれを取り上げて自分の手元に戻し、さらには元の猫型へと変化させた。そんなに抱き心地がいいのだろうか、あのクッション――って、そんなことはどうでもいいんだ。猫型クッションを抱え直した柘榴さんは、少しわざとらしいぐらいに眉間に皺を作り、じっとりとした目線を僕らに向けて話を始めた。
「そこと関係あるかどうかは判らないけどさ。最近この辺で怪しげな研究してる奴が居るって噂、知らないか? 夜中に出歩いてると声掛けられて、実験に協力を求められるとか。報酬に釣られて協力しちゃった奴は誰一人として帰ってきてないんだとさ」
 噂と言うか、都市伝説みたいな印象だ。夜中に実験なんて言われたら怖すぎる。いくら報酬があったって、ついていく方が難しいような気もする。……まぁどっちにしろ、危ないと言っていたのは、そういうことなんだろうか?
 柘榴さんは話を進める。
「そんなんだから勝手に『博士』とか呼ばれてて、うちの先生なんかはヤバイ薬でも作って実験してんじゃねえのーなんて笑ってんだけど、」
「知らない。で?」
 話が長くなりそうなのを察知してか、楓さんは柘榴さんの息継ぎを遮って結論を求めた。柘榴さんはそれにたじろいだ後、人差し指をくるくる回しながらゆっくりと深呼吸をして、――あるひとつの想像を、提示した。
「うろ覚えなんだけど、桧村さんちの先代さんって、医者かなんかだったろ。もしかして桧村さんも結構そういうの詳しかったりしないか、少年?」
 それはつまり、彼もその怪しい『実験』に関わっているのではないかという、ある恐ろしい想像。
 ――確かに彼は、詳しい。
 特にどういう分野が、と言われても僕にはまったく判らないのが心苦しいところだが。彼に限って絶対有り得ないなんて、そんなこと言い切れない。大体あの人の手に掛かったら、たとえば薬に必要な成分さえ決まれば、危険なルートを通じて材料を手に入れたりなんかしなくても、術でいくらでも作れるんじゃないか? 警察に見つかりそうになったって、いくらでも隠せるはずだ。隠すどころか、完全に消し去ってしまえるだろう。
 ……そんなことは多分、同類の柘榴さんも判ってるだろう。
 しかし、次に発言したのは楓さんだった。
「そんなことして、あの人に何の得があるわけ? 何の実験してるか知らないけど、覚醒剤とかその類だったら、いくらなんでも警察に近すぎるんじゃない?」
 少しでも様子がおかしければ調べられる危険性が高い、か。自殺行為以外の何者でもない。
「自分では使わないってことも有り得るぞ」
「はいはい」
 柘榴さんは子供みたいにむくれて反論したけれど、楓さんにさくっと切り捨てられてしまった。
「じゃ、殺しとかどうだ? 誰かを殺す計画の準備中で、もうすぐ実行するとか。――この前の通り魔じゃないが、オレや桧村さんなら完全犯罪も余裕。つまり殺し放題だ(、、、、、)。連続で何人も殺せば怪しまれるだろうが、一人ぐらいなら普通に突然死で済まされるぞ」
「そんなの」
 嫌だ。人殺しなんて、あの人から一番縁遠そうに見える言葉だったのに。……でも、もう否定は出来ない。
 僕があからさまに不安を顔に出しておろおろしていると、柘榴さんは深いため息を零した。
「ま、本当(マジ)に殺したら『闇に堕ちた』ことンなって、処罰対象になるんだけどな」
「闇……あ、聞いたことあります。人を殺しちゃいけないってルールですか?」
 直実さんは時々『光が使えなくなった』という意味合いで自虐的に使うこともあるけど、本来の意味はそうだったと思う。
「そうそう、目には目をってことでな。まぁ仮にも本家の生き残りが、それはねえだろとも思うけどな。でも、本ッ当にのっぴきならない事情があれば……別、かな……」
 柘榴さんの声も小さくなっていく。
 しばらく黙って話を聞いていた楓さんが、突然ポンと手を叩いた。
「じゃ、術を使わないで殺したら? 普通に。それだったら普通の殺人罪でしょ?」
「……まぁ、それはそうだけど」
「あたしの勝手な想像だけどさ。『名探偵』だったら、皆を誘導したり、騙したり、そういうこと色々できそうじゃない? そしたら、すっごいイヤな犯人にならない?」
 犯罪を憎むべき立場の『名探偵』が、殺人という凶悪犯罪に走ってしまう経緯に関してはさておいて。楓さんの話すそれは、確かにその通りに思えた。
 非科学的な超能力が頼りにされるのではなくて。むしろ単純に『名探偵』の頭脳の方が頼りにされるのだと思えば、それは充分に有り得る話になる、のか――?
「……楓さんは、直実さんが人殺ししそうな人だって、思いますか?」
 何となく、尋ねてみた。
 どうしてかは判らないけれど、否定して欲しいとは、微塵も思っていなかった。ただ何となく、訊いてみたかったから、訊いた。
 楓さんは少し困ったように笑った後、ゆっくりと答えてくれた。
「……普段の彼なら思わないけど、でも、本当に怒ったら怖そうな人だし。殺したって言われたら、ああそうなんだって、頷くしか出来ないと思う」
 今となっては、僕だってそう思う。

 お父さんは昔からよく彼を、『悪魔』と呼ぶ。
 その意味は、何度聞いてもよく判らない。

 でも今の僕ならその意味が少し、判るかも知れない。
 もちろん、それは僕なりの、僕だけの勝手な解釈に過ぎないけれど。

 何を考えて、何をしたくて、動いているんだろう。
 本当のあの人は、一体何処に居るんだろう――。

 柘榴さんが身をすくめてクッションに隠れるようにしながら、僕の方を恐る恐る見ているのに気付いた。
 あれ、僕、いつの間に震えてたんだろう――。
「わ……悪い、大丈夫か? 気分悪くさせたならごめん、少年。今のはただの勝手な想像だぞ、想像」
「――大丈夫です。悪いことも考えておいた方が、いいと思いますし」
 もし本当にそんなことがあるのだとしたら。
 彼を連れ戻す役割(ロール)は、僕が真っ先に背負わなければならないものだろうから。

 だから、考えておいて損はないんだ。
 ……だから、綺麗な夕焼け空から闇に包まれ、慌てて帰った午後七時に家の電気が点いていなくても、特別驚くことなんか、なかった。

   2

 ハルは、僕の部屋で気持ち良さそうに眠っていた。夜行性ならそろそろ起きる時間なんだろうけど、やっぱり無理やり起こしてしまうのは気が引けた。一人では何だか心細いけれど、しっかりしなくちゃ駄目だ。とりあえず宿題を終わらせて、ただ時間が過ぎるのを待った。
 夕飯までには帰るって言ってたんだから、別に約束を破ったわけじゃない。夕食はいつも九時を過ぎる。……なんだったらお風呂沸かして先に入って待ってようかな、なんて思い始めたその時、店の玄関ドアが開いたことを知らせるベルが、鳴った。玄関である以上鍵は掛けているから、帰ってきたのは間違いなく、――彼だ。
 嬉しくなって部屋から廊下に出たところで、妙な胸騒ぎを覚えた。得体の知れない強烈な不安が押し寄せて、足がすくんで動かなくなった。
 ……なんだよ、何で動かないんだよ。つい先刻、あんな話をしたばかりなんだ。不安になって当たり前じゃないか。――行こう。何も怖くなんかない、大丈夫。

 一階に繋がる階段を駆け下りると、直実さんはキッチンで荷物を整理していた。
「お帰り、なさい」
「――ただいま。遅くなった」
 いつも通りに苦笑して、荷物の整理を終えた彼は靴を脱いで階段を上がっていく。そのすれ違った刹那――、小指の先ほどの違和感を覚える。……何だろう?
 僕は数段の差で彼を追い掛ける。リビングを通り、彼はその左手奥の扉を開けて自身の部屋へと入っていく。個人的な荷物を置きに行ったのだろう。少しして、携帯電話だけを持ってリビングに戻ってきた彼と目が合った。まだ、違和感の正体は判らない。
「夕飯、今作るから」
「――はい」
 穏やかに笑った彼が、再びキッチンに向かうべく、僕の居るリビング入口の方に近付いてくる。近付いてくる途中で、蛍光灯の明かりに煌いたそれ(、、)に、ようやく気付いた。
 すたすたと進んで行ってしまう彼を何とか止めなければと、僕は思わず、彼の手首を掴んだ。
「な……おざね、さん」
 呼び掛けた僕の方へ、(とぼ)けたような顔で振り向いた彼は、本当に何も感じていないのだろうか。
「それ、ピアスですか……?」
 小さな銀のリングが、両方の耳元で光っていた。髪を下ろしていれば大して目立ちはしないだろう、けれど。
 僕が腕を掴んでまでそんなことを訊いたからか、彼は惚けた顔のままひとつ瞬きをして、
「うん」
 とだけ、答えた。
 ――うんって、そんな、それだけ?
「い、……いいんですか?」
「いいって、何が?」
「何って、その、何ていうか」
 店のコンセプト的に? あるいは、親の教育方針的に? いやでも、直実さんの歳で親も何もないか――。
 どう説明したらいいのか、こんな時に限って、ぴったり当てはまる言葉が出てこない。
 そうして言葉を選んでいる間に直実さんは僕の手を静かに外して、冷徹な目線を僕に投げ掛けてきた。せっかくいつも通りの穏やかさを持っていた空気が、一気に険悪になる。
「真珠は私の親にでもなったつもりか?」
「そ……そういうわけじゃないですけど、でも、その」
 僕がちゃんと言い返せないから、直実さんは眉間の皺をひとつ増やした。彼の瞳の淡い灰色が、いやに冷たく見える。
「なら、とやかく言われる筋合いはないと思うが」
「だって、直実さんらしくない――、」

 迂闊、だった。
 彼の右目が碧く揺らめいたのに、気付いた時には遅かった。

「ああもう、うるさいな!」
 いつかも聞いた覚えのあるその叫び声と、利き手でもない左手で軽く払っただけとは思えない異様な力が重なり合って、僕の身体が、後ろへ跳ね飛ばされた。
 背中をちょうど、テーブルの端にぶつけた。息が止まった。声など出るわけがない。
 とりあえずゆっくりと床に腰を下ろして、息を整えることを考える。
 
 薄目を開けて見上げた先に立つ彼は、静かに肩で息をしながら、僕をぎろりと睨み付けていた。
 余計に、息が出来なくなった。

「私がここでどんな格好しようが私の自由だろう、この小舅が。ここは私の家だ。――僕の店だ。お前に心配なんかされなくたって、僕は僕の思う通りに生きてるつもりだ」

 僅かに、彼の瞳孔が緩んだのが、何となく判った。台詞の途中で一人称が切り替わるなんて、彼も動揺してるんだろうか――。
 そんなことを考えながらも僕は、ただ弱々しく彼の名前を呼ぶことしか、出来なかった。

 泣きそうな顔になった彼は、それを隠すようにその場から駆け出し、リビングのドアを、叩き付けるように大きな音を立てて閉めた。階段を駆け下りていく足音が聞こえた。
 僕はしばらくそこに座り込んだまま、動かなかった。動いても、仕方ない気がしたから。

   *

 それから三十分近くは、ボーっとしていたように思う。そろそろ、動くべきだろうか。
 僕はのっそりと起き上がって、背中の痛みを確かめる。……まだ少し痛むけど、数日もしない内に治るだろう。気にしないのが一番だ。
 直実さんは何処に居るのだろう。彼の部屋のドアをノックしてみたけど、反応はなかった。当たり前か。僕だって寝ていたわけではない。
 ――とりあえず、食事を摂らないと。リビングを出て、階段を下りる。キッチンにも居ない。店には居るわけがないだろう。やっぱり今日も、どこかへ出掛けたんだろうな。

 ふとキッチンのテーブルに目をやると、そこには予想外の光景が広がっていた。
「ごはん、……作って、くれたんだ」
 肉を焼いて野菜を添えただけの、ごく簡単なおかずではあった。でも、用意してくれたというだけでも、今の僕は喜んで然るべきなんだろうと、思う。
 炊飯器は保温になっているし、小さな鍋の中身は味噌汁だ。少し温めればすぐに食べられる。

 僕はそれらを二階に運んで、テレビを見ながら一人で食べた。
 少し寂しかったけど、美味しかった。

 その時突然、大きな振動音がして驚いた。――携帯電話? ああ、直実さんの携帯……って、何でテーブルの上に置いてあるんだ、出掛けてるのに。
 ――もしかして、忘れた?
 無意識に置いてしまって、勢いで飛び出して行ったとしたら、忘れてしまっても無理はないか。振動音はすぐに止まったから電話ではなくメールだったようで、少しホッとする。

 ――……。
 誰からの、メールだろう。
 仕事には使っていないと言うから、きっと友達からのメールなんだろう、けど。

 東京に居る直実さんの友達なんて、純さんを除けばほとんど会ったことはない。たまに店に来るのは、この近所で小さな会社をやってるっていう、コーヒー好きのお友達ぐらいだ。昨日の人達が友達なら、それもカウントに入れようか。それでも三人にしかならない。
 少しくらい、覗いてしまっても平気だろうか――。
 とても悪いことをしているという自覚はあるけれど、もう、伸びる手を止められない。

 割と新しい、二つ折りの白い携帯電話。いつ買ったものかは知らない。お母さんの携帯はたまに弄らせてもらっていたけど、直実さんのに触るのは初めてだ。
 ――新着メールが一件。先刻鳴っていたのがこれだろう。
 不安が溢れそうな胸を抑えながら、決定ボタンらしき真ん中のボタンを押す。メールが開かれる。

「……アドレス……と、番号……?」

 携帯メールのアドレスと、〇九〇で始まる電話番号。文面は、それだけだった。送信者のメールアドレスもそのまま表示されているが、本文のところに表示されているのはそれとは異なる文字列だ。つまり、この一通で二人分のアドレスが送られてきたことになる。誰かに、別の誰かの連絡先を聞いたのだろうか? それにしては、送信者のアドレスも登録されていないというのがどうにも引っ掛かる。――誰かと新しく知り合ったということ? 携帯そのものは家に忘れたけど、アドレスは覚えているからと相手に連絡先を教え、そのアドレスにメールを送ってもらったと?
 ……それ以上はもう、判らない。このアドレスの主が誰かなんて、想像することしか出来ないのだから。

 ただ今の僕には、湧き上がる好奇心を抑えることが出来なかった。
 そのメールを閉じると、分類されたメールボックスが表示された。フォルダ名は上から順に『身内』『大学』『バイト』『警察』で、その次に『???』――……って、何だ、それ。

 僕は心の赴くままに、『???』受信フォルダを、開いた。
 表示された送信者たちの名前を見て、驚いた。

「……祥太、さんと、……健吾さん、だ」
 みっちゃんが教えてくれた、昨日の二人の名前と同じ。
 つまり、彼らは直実さんにとって『???』なる分類の知り合いだった、ということになる。それが一体どういう関係なのかは判らない。
 最新の、祥太さんからのメールを開いた。時刻はつい先刻、午後八時三十分。羽田南駅での待ち合わせのためのメールのようで――……、

 え?

『今日は博士に会えるといいね!』

 事務連絡に添えられた、その一言。事前情報がなければ、僕は何とも思わなかっただろう。
 柘榴さんが言った、噂の『博士』。
 夜な夜な怪しげな実験をしているという、謎の人物。

 つまり彼らは――直実さんたちは、その人物を探して、会おうとしているというのか?
 何故? 何のために? 危ない薬を作っているというのなら、それと何か関係があるのか?

 これだけじゃ判らない――……もっと、情報が欲しい。過去のメールを手繰ってみるか。いや、むしろ送信メールを見たほうがいいんじゃないのか?
 ――もしかしたらそこに、僕の知らない彼の新たな役割《ロール》が、見えるかも知れないじゃないか。

 受信メールフォルダを閉じ、送信メールフォルダを開く。送信メールは受信メールと違って、フォルダに分類されていない。でも、新しいメールはほとんどが例の二人宛てだった。上から順番にあさってみる。待ち合わせとかの、事務的な連絡が続いたが、何通目かでふと目が留まった。

『博士は警察を嘲笑いたいだけじゃないか? だったら、協力を申し出るのも悪くないかも』

 協力って、――博士に?
 ナンデ?
 警察を嘲笑うため?

 でもよく考えたら、直実さんは好きで警察の手伝いしてるわけじゃないっていつも言ってる。刑事になんかなりたくないと明言もした。僕が思うほど、彼はあの『アルバイト』を好ましく思っていないのかも知れない――。

 ――それ以前のメールも大体見たが雑談ばかりで、博士なんて単語は一言も出てこなかった。
 もう一度受信フォルダに戻って、『協力を申し出る』に至る結果となる受信メールを探したけど、それらしいものは見当たらなかった。直接会って話したけどその場では結論が出なくて、後で思いついたからメールを送った、ということだろうか。

 一体、『???』は何を意味するのだろう。
 彼らは『博士』に会って、何をするつもりなのだろう――。

 ……判らない、怖い。
 僕は携帯を元あった場所に置いて、こみ上げてくる嫌な感情を押し殺しながら部屋へ逃げ込み、未だハルが寝息を立てているベッドの中へと飛び込んだ。