こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第六話 絡繰キャラクタァ




第二章「二日目//SUSPICION」

   1

 ふと気が付くと、夜が明けていた。
 昨日のことが全部夢だったら良いのに、と何となく思う。ハルはいつの間に布団に入り込んでいたのだろう――すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てているので、起こさないようにベッドから出て、まだ鳴っていない目覚まし時計のアラームを切っておく。音を立てないよう静かに部屋を出ると、ちょうど階段を上ってきた直実さんと鉢合わせた。階下(した)で焼いたトーストサンドを載せた皿を二枚持っている。朝食の準備をしていたところらしい。
 ――相変わらず、髪は薄茶色だ。やはり夢ではなかった。
 前髪を上げて留めたままなのは、急ぎの作業だったからだろうか。いつも、朝食を作っている頃には既に仕事モードから脱却しているのだけれど――。
 彼は廊下で呆けている僕の姿を視認すると、わざとらしいくらいにニッコリと微笑んだ。
「おはよう。今日は早いね」
「……おはよう、ございます」
 僕には、ただ挨拶を返すことしか出来なかった。アラームが鳴る前に起きたから、確かにいつもよりは少し早い。多分、落ち着かなかったからだ。僕は苦笑いで誤魔化して、彼の後を追いかけた。特にいつもと変わった反応はなかった。
 彼は皿を置いて席に着き、テーブルに置きっぱなしのリモコンでテレビの電源を入れると、ピンを外して前髪を整えている。普段は気にもしないそんな仕草が、妙に目に付いてしまう。
 ――昨夜は、何時に帰ってきたんだろう。僕が寝てしまう前には、帰ってこなかった。でも、彼はいつも朝食の前にもう一仕事終えているから、日付が変わった後に帰ってきて寝て、何時間も経たないうちに起きて仕事に取り掛かっていることになる。それじゃ、睡眠時間は――……いや、今に始まったことじゃないか。でも、少し心配になる。好きなことのためだったら、確かに多少の無理はこなせてしまうのかも知れないけど――だからって、人間なんだから限度はあるはずだ。
 だったら少し、羽目を外したくなっても無理はない、とか?
 ああ、すぐに余計なことを考えてしまう。
「……どうした? 冷めるよ」
 ダイニングの入口で立ち止まってしまっていた僕に、優しく声が掛けられる。いつも通りに聞こえるのだけれど、いつも通りには見えない。
「――、はい」
 こんなことで引っ掛かっている僕の方が変なのだろうか。変、なのかも知れない。席について手を合わせて、朝のワイドショーのにぎやかな声をBGMに、トーストを齧りながら考える。――味は、いつも通りだ。美味しい。

 そうだ。楓さんだったらどう思うだろう? やっぱり変だと思ってくれるんじゃないか? 何なら今日も、昼休みに探して相談できないだろうか。
 僕だけで行くのは心許ない。
 出来れば、ハルが一緒に来てくれるとありがたい。
「あ、あの!」
「……ん?」
 難しい顔をしてテレビに見入っていた彼に呼び掛けると、昔から変わらない、どこか気の抜けた返事が返ってきた。
「今日、学校にハル連れて行っていいですか? 小猿だったら、多分バレないと思うんですけど」
「いいけど、誰かに見せるとかじゃないよな? どうせ寝てるからバレないのは保証するけど、猿は色々厄介だから、」
「大丈夫です。ハルのこと知ってる人にしか見せません」
 そんなの楓さんと玄ぐらいしか居ないんだから、ちょっと失敗したかとも思ったけど、特に何とも言われなかった。出掛けるときに術を掛けてもらう約束をして、朝食を食べ終えた僕は、身支度をして出掛ける準備に取り掛かることにした。

   *

 午前の授業は、何だか全然集中できなかった。でも、今更どうにもできない。とにかく、昼休みは楓さんを探さないと。昨日と同じ場所に居るかどうかは判らないけど、今日もよく晴れているから、まずそこから探してみることにしよう。
「髪の色を変えたというのは、そんなに奇妙なことなのか? 拙者のマスターも妙な色にしているが」
 玄はそんなことを言って不思議そうにしているけれど、居ないよりは居てくれた方が心強い。でも『拙者』なんて一人称は一体どこで覚えてきたんだろう、この人。ああ、うん、そんなことどうでもいい。外国人にはよくあることだろう。多分。
 ――昨日の場所、すなわち中庭のベンチには、まだ誰も居なかった。でも、もしかしたらこれから来るかも知れない。しばらくここで待ってみることにした。

 待つことにして、一分も経たない頃。

「真珠君! あ、玄も。ごめん、あたしのこと探してた?」

 唐突に聞き覚えのある声がして、驚く。
 高校校舎の方から、慌てたように楓さんが現れて、笑顔で手を振っている。確かに探してたけど、誰かに訊いた覚えはないし、どうしてそのことを知ってるんだろう。と、僕が尋ねようとしたところで気付いた。

 ――肩に鳥を乗せている。

 直実さんから聞いた覚えがある。セキセイインコより一回り大きい、顔の辺りが桜色の、やたらと喋るコザクラインコの存在。何か変なことを言われたら報告しろとも言われていた、はずだ。
「へへ、みっちゃんが教えてくれたの。何か相談事があるって?」
 楓さんは何の警戒心もなさそうに、明るい顔で話している。インコの名前はみっちゃんと言うらしい。
 でも、どうして僕らが楓さんを探してたことを知っているんだろう。もしかして、僕と玄の会話でもどこかで聴いていたんだろうか。ワケが判らず固まってしまった僕の代わりに、鞄から小猿が這い出してきて、答えた。
「サネの様子が変だから、とりあえず皆の意見を聞いてみようってことだ」
「あれ、ハル君まで。様子が変? んー、じゃ、じゃあ、とにかくお話聴きます。ごはん食べながらね」
 楓さんは敬礼のような身振りをしてそう言うと、昨日と同じような席順で着席した。
 ――そして、奇妙な昼食会が始まった。

 僕とハルでまず、昨日の一件を改めて説明した。楓さんは驚いた顔をしてウンウン悩んだ後、ウインナーを齧りつつ、小さな声で言う。
「でも、それ以外に異常無いなら、何とも言えない気がする」
「……です、よね」
 やっぱり、変だと思うのは僕だけなんだろうか。何だか箸も止まってしまう。ハルの方に視線を送ってみるけど、何を言っていいものか判らない様子だ。
 ――と、再び楓さんが口を開いた。
「みっちゃんはどう思う?」
 え?
 意見を求めるってことは、このインコ、普通に会話が成立するんだ……?
 ――という僕の心の声を聞き取ったのかどうかは定かではないけど、みっちゃんはバタバタと羽を羽ばたかせた後、明るい声でこう言った。
「ミッチャン、ナオザネノストーカー! 何デモ知ッテル!」
「……何、でも」
 家族でも何でもないこの鳥がどうして『何でも』知ってる? ストーカーってどういうこと?
 モヤモヤとした不安感が胸を襲ってくる。直実さんが気を付けろと言うのも判る気がした。
「お、俺だって二十五年も一緒に居るんだぞ! 何でも知ってらッ」
 これにはさすがにハルも反応した。身体が完全に鞄から出てしまっている。
 いつの間にか司会進行役になっている楓さんが、マイク代わりに箸の頭をハルに向けた。
「じゃ、ハル君はどう? おかしいと思う?」
「おかしいと思うぜ。あいつ、生まれてから一度も髪染めたことねえし、それに」
 それに? ああ、お父さんのことだろうか。
 楓さんに続きを促されて、ハルは何故か少し躊躇したようにも見えたけれど――堂々と、答えた。

「あいつ、自分で自分に術使ったこと、ない」

 初めて聞いた話だった。
 無意識的に色んなことに使ってるような気がしたけれど、それとはまた違うんだろうか。こっちに来てすぐの頃、当たり前のように数メートル先の物を浮かせて取ってるのを目撃した時は思わず悲鳴を上げて階段から転げ落ちそうになってしまって、物凄い勢いで謝られたけれど。……きっと、人目につくところではそういう、明らかに物理法則を無視してる術は使わないようにしてるんだろう。僕がそんなことをごちゃごちゃ考えつつ質問事項を用意する前に、ハルは続きを話し始めていた。
「えっと、正確に言うと自分だけじゃなくて人間には、なんだけど。なんつーか、喧嘩のときとかに無意識に使っちまうのは別として、意識的に身体を改造するっていうか……そういうことするの凄く嫌がるし、怖がる。……俺には平気で使うんだけどな」
 それはつまり、無意識的に使うレベルなら高が知れてるけど、意識的に使うと支障が生じるかも知れない、ってことだろうか。尤もそんなの僕の想像に過ぎないし、僕は直実さんじゃないから本当のところは判らないけれど。
 そう考えると、ハルはまさしく実験台にされている、ってことになる。
 それを聞いて楓さんはしばらく考えた後、首を傾げながらハルに尋ねた。
「髪の色を変えるだけでも?」
「あいつ、右目の色変わるの気にしてるだろ?」
 いきなり話が変わった。楓さんの質問に全く答えていない。一体何の関係があるのだろう。みっちゃん以外の全員が首を傾げている。が、ハルはお構いなしに続ける。
「さっき思い出したんだけどよ。一度訊いてみたことがあんだ、『元々の目の色を変えるわけにはいかねえのか』ってさ」
 元々の色を変える――つまり、碧色になると決まっているなら、最初からそれと同じ色にしてしまえば、色が変わっても判らないということか。なるほど、それが出来るなら有効な手段かも知れない。
 全員が、視線でハルに続きを求める。
「そしたら、『そんな恐ろしいこと(、、、、、、)出来るわけないだろ』って拒否しやがんだ。好きだから変えたくないってんじゃないんだぜ。目だって髪の毛だって身体の一部には違いねえし、何が起こるかは判んねえじゃん?」
 一同、呆然。ああ、玄次郎だけは微動だにせずに無表情を保っているけれど。
 僕は、『術師は何でも出来る』って聞いてきた。でも言われてみれば、直接身体を弄るような術は掛けてもらったこともないし、直実さんが自分で掛けてた様子にも覚えはない。
 ――例えばほら、身長を伸ばすとか。
 直実さんが学生の頃、長期休みで帰ってくるたびにお母さんはよく「大きくなったわねぇ」なんて言っていたけれど。それを聞いた幼い僕が「もっと大きくなりたい」なんて無謀な訴えをすると、彼は笑いながら「牛乳沢山飲んでみる?」なんて疑問形の、でも至って平凡なアドバイスをくれて――……、そうか。

 出来るかも知れないけど、出来ないのか。

 考えられないことじゃない。この前身体測定の結果の話をしたときも、せめてあと三センチ欲しかった、って普通の人みたいにぼやいてたし。ちょっと足を伸ばしたりとか、やろうと思えばそれほど大きなリスクも背負わずに出来そうなのに。

 しばらく沈黙が続いた後、それを破ったのは、予想外の声だった。

「――ソレハ、闇ダカラダロウ」

 素っ頓狂な声。誰でもすぐに声の主が判る。みっちゃん。彼はベンチの端にちょこんと居座って、その愛嬌のある姿に似合わないほど落ち着いた口調で、そう言った。
「闇……えっと、闇の術?」
 聞いたことはある。僕がまだ小さい頃に、光の術は回復魔法みたいなものだよ、って説明された。病気や怪我を治したりとか、能力を上げたりとか。光の術は使わないって言いながら、純さんとの喧嘩ではよく筋力を水増ししたりしてるような気がするけれど、その辺りの微妙な分類は僕にはまだよく理解できない。もしかしたら、光の術の中にもさらに細かい分類があるのかも知れない。
「闇ノ術ハ人間ニ使ウモノジャナイ。悪クナルカラ」
 どうしてみっちゃんがそんなことに詳しいのだろうか。ストーカーならあるいは知っていてもおかしくない、のか?
「絶対駄目ジャナイケド、良クハナイ、ッテ聞イタヨ!」
 ……何だか、慌てて言い訳したみたいな言い方だったのが、妙に気に掛かった。
 それが何だったにしろ、誰から聞いたのかは、言わなかった。
「じゃ、俺は人間扱いされてない、と――」
 ぼそりと小猿状態のハルが呟く。物凄く沈んだ顔に見えて、何だかとても可笑しかった。いや、実際見た目も中身も人間じゃないと思うけど。
 よく考えたら、ハルに掛けるような術を人間に掛けているところは見たことがない。それってつまり、そういうこと、なのか。
「ハルハ、身体ガ丈夫! ダカラ、大丈夫」
 意外にもみっちゃんがフォローしている。
 でもそれなら、本来人間に使うものじゃないのに、今回は敢えて使ったってことになる。どういう事情があったら、そんな決断を下せるんだろうか。単に資金の節約のため? 普段からハルで遊んでるから、そこまで支障はないと判断した、とか? ……術を使えるわけでもない僕には、これ以上判らない。
 何か考えている様子だった楓さんが、ふと思いついたように僕の方を見た。
「昨日の夜、どっかに出掛けてたんだよね?」
「はい」
 いつもと違って、私服姿で。
「今日も出掛けるってことは無いかな?」
 どういう、ことだろう。
 僕が目で続きを求めると、楓さんはハッとした顔をして、取り繕うように苦笑いを浮かべた。
「あ、あのね、もしかしてそういうこともあるかも、って思ったの。今日じゃなくても、明日か明後日には出掛けるかも知れないでしょ。そしたらこっそり付いて行くのはどうかと思って」
「――尾行するんですか」
 あの人気配には結構敏感だし、素人の尾行なんてバレバレなんじゃないだろうか。
 皆考えることは一緒だったらしく、誰も何も言わずにその場は沈黙に包まれてしまった。少なくとも僕には、尾行を成功させる自信はない。何だか気まずいので、とりあえず御飯を口に運んでみるけれど、全然味がしない。
 十数秒経って、またもやみっちゃんが最初に口を開いた。
「ミッチャンガ追イカケテ、皆ニ教エルヨ!」
「えっ……」
「なるほど。出掛けてすぐはともかく、しばらくすれば警戒心も薄れるだろうということか」
 ずっと静観していた玄が、どこか不敵な笑みを浮かべながらそう言った。みっちゃんによる空からの監視なら、きっと直実さんも気付かない――。
 でも、みっちゃんをうちに連れて帰るわけには行かない。そんなことをすれば余計警戒される。……いや、警戒されるどころの騒ぎじゃないか。僕が迷っているのを察したのか、みっちゃんが新しい提案をした。
「ナオザネガ出掛ケルマデ、カエデノ家ニ居テモ、イイ?」
「えっ?」
 今度は楓さんが驚いている。うん、当たり前だ。
「麻耶さんはいいって言ってるの?」
「タブン」
 おいおい……。でも、多分この中の誰も麻耶さんの連絡先を知らないから、訊こうにも訊けない。みっちゃんが教えてくれるなら別だけど。まぁ、いいってことに、しようか。

 ――もし直実さんが出掛けたら、すぐ楓さんの携帯に連絡する。その時点でみっちゃんが追い掛け始めれば、すぐに追いつけるはずだ。昨日は徒歩だったようだから、行き先はきっとそんなに遠くではない。仮に出掛けなかったとしても、彼がお風呂に入ってる間とか、いくらでも連絡は取れる。

 そんなような話をして、楓さんに連絡先を訊いた辺りで予鈴が鳴って、昼食会はお開きになった。
 みっちゃんは午後の授業の間は適当に飛び回って待ってるよ、と言って、何処かへ去っていった。麻耶さんの相棒だって言うけど、随分頭のいいインコも居るんだ――なんて教室に戻りながら呟いてたら、玄が相変わらずの無表情で反論してきた。
「少なくとも真っ当な鳥ではない。見た目は確かにコザクラインコのようだが」
「じゃ、麻耶さんも悪魔とか妖精とか使える人なのかな」
 直実さんとハル、柘榴さんと玄たち、みたいな。直実さんはハルと会ったのは偶然だと言うから、二人が術師っていうのは多分そこまで関係ない、はず。
 玄は珍しく首を傾げつつ、教室の扉に手を掛けて、一言。

「拙者には判らぬ」

 うん、だから君は一体いつの時代の、何処の国の人なのですか――?

   2

 午後の授業を終えて、いつものように帰宅した。帰ったら帰ったで、西洋人のお兄さんが何故か和服着て紅茶飲んでるみたいな、珍妙な場景を目にする。今日は店内に何人かお客さんも居たけど、お互い、特に気にしていない様子だった。よく話す常連さんでもなければ、マスターの髪の色なんかにわざわざ突っ込むわけもない、か。
 僕は初めて会うお客さんに軽く挨拶をして、直実さんに言われるがままに部屋に戻った。宿題なんかに手を付けてみるけど、どうも身が入らない。やっぱり落ち着かないのかも知れない。それでも何とか片付けて、ゲームで気を紛らわせてみたりしながら、やけに長く感じられる午後を必死にやり過ごした。

 閉店時刻を過ぎてしばらくして、二階に上ってくる足音が聞こえた。それからまたしばらくして、僕の部屋のドアがノックされる。返事をすると、ドアが開いた。現れた直実さんの格好は、今日も初めて見る服のような、気がする。
「起きてた?」
「はい。今日も出掛けるんですか?」
「うん。昨日と同じようによろしく」
「判りました」
 僕が素直にそう答えると、直実さんは笑って部屋を出て行こうとした。
 ――が、何かを思い出した様子で立ち止まる。
 僕の方へ振り返ると、いつもと少し違う、どこか陰のある笑みを見せた。

「危ないから、ついてきたりするなよ?」

 何の身構えもせずに受け取ってしまったそれは、何だか恐ろしく冷たい響きを持った声に、聞こえた。
 図星ではあるけど、当たり前のことを言われたに過ぎないのに。心臓がバクバクと音を立てているのが判る。こんなことは初めてだ。
 いや、――違う?
 今の、どこかで似たような経験をした気がする。いつ、何処でだろう。
「えっ……?」
 おかげで、反応が少し遅れてしまった。……焦っていたのがばれたかも知れない。直実さんはクスッと笑って、いつも通りの声で「じゃあね」と言って、ドアを閉めて行ってしまった。からかわれているのかどうかは判らない。
 こんなことって、あるんだろうか。僕はしばらく放心状態で、動けなかった。

 ――ああそうだ、早く連絡しないと!

 直実さんが一階に下りたのを確認してからリビングに向かって、楓さんの携帯に電話を掛ける。みっちゃんが出発したらしいことを確認して、一旦電話を切った。みっちゃんが戻ってきたら、楓さんからまた連絡が来ることになっている。それまで夕食を摘みながら、待機していよう。

 それにしても――さっきの声。直実さんもあんな声を出すことがあるのかと驚くと同時に、少し、怖くなった。声ひとつであんなに印象が違うものだろうか。

 そうだ、思い出した。
 これは、お父さんに怒られたときに、似ている。普段優しくしてくれる時のお父さんからは想像もつかないような、冷たくて、鋭い声だった。言われたことの内容よりも声の印象が強いんじゃ、本末転倒な気もするけれど。
 ――ああ、やっぱり、親子なんだ。
 直実さんは普段からお父さんのことを嫌いだと言っているけれど、でも、似ているところは似ている。

 じゃあ、僕のお父さんは、どんな人だったんだろう。
 僕みたいに心配性で、お母さんを困らせたりしていたんだろうか――。

 そんなことをぼーっと考えていた時に、電話のベルが鳴った。――楓さんだ。
『駅で誰かを待ってるみたいだって。その間に追いつこう!』
「判りました。お店の外で待ってます」
『了解!』
 受話器を置いて、すぐに部屋を出る。キッチンで寝ていたハルを起こして、暗い店内を通って外へ出る。――と、ちょうど楓さんと玄が走ってくるのが見えた。みっちゃんは僕の頭上を通り過ぎて、駅の方へと飛んでいった。観察を続けるらしい。
「お待たせ! 兄さんに色々言われて手こずっちゃった」
「いえ、今出たところです」
「そう? じゃ、行こっか」
「はい!」
 唇に人差し指を当てて小声で言った楓さんの真似をして、僕も明るく応えたつもりだった。けれど、まださっきの衝撃が残っていて、どうにも落ち着かない。

 ただ、悪いことがなければいいと、願うことしか出来なかった。



 駅に着く前にみっちゃんと合流し、直実さんは北口の方に居るから、駅の傍の踏切を通ると見咎められる危険性があると聞かされた。なので、駅から少し離れた場所の踏切を通って、北口改札を見守れる場所を目指した。どこを通ってどこから見ればいいかは、地元に住んで長い楓さんが考えてくれた。
 建物の影に隠れて駅の様子を窺うと、確かに改札前に直実さんの姿があった。腕時計をちらちらと見て、いかにも待ち合わせをしている様子だ。――なんて考えていると、誰かが二人、手を振りながら駆け足でやって来た。あの人たちが待ち合わせの相手だろうか。北口商店街の方から来たから、この近くに住んでいるか、働いているかしている人たちらしい。
 二人とも、若い男性。直実さんと同じぐらいか、せいぜい少し上ぐらいに見えた。直実さんも背は高い方だけど、二人の方が高くて、しかも体格もいいから、直実さんが小さく見える。片方は明るく笑ってばかりだけど、もう片方の人は何というか強面で、ちょっと怖い印象だ。どういう関係なんだろう――彼が言っていた通り本当に警察の手伝いなら、あの人たちは警察の人ってことになる、けど。怖いお兄さんはともかく、笑ってばかりのお兄さんは金髪だし、とてもそうは見えない。
「……警察の手伝いって言ってたん、だっけ?」
 不思議そうな顔で楓さんに尋ねられたので、頷く。
「パッと見はどっちかって言うと……友達、だよねぇ」
「……ですね」
 大学時代の友達、だろうか。確か、今も付き合いのあるお友達は皆いかにもなビジネスマンか、直実さんと同じように独立して起業したりして自由にやってる人が多いって聞いて――……まぁ、そういう人ならどういう格好してようが自由ではあるか。彼らが何を話しているかは、ここからはよく聞こえない。でも、親しげに明るく話している様子だから、本当に仲の良い友達同士、という風にしか見えない。
「――動いた」
 玄が呟く。三人は連れ立って、商店街の方へと歩き始めた。先頭は金髪のお兄さん、その一歩後ろを二人が追う形。
 直実さんは危ないからついてくるなって言ったけど、商店街の何が危ないって言うんだろう。確かに夜の北口商店街なんて来たことはなかったけど、明るいし、まだ人気(ひとけ)もあるから危ないなんてことないと思うけど――。夜中に出歩くこと自体が良くはない、か。そういえば、最近学校でもよく『夜遊びはしちゃいけません』なんて言われている。何を今更、という感はあるのだけれど。
 でも、だったらそう言ってくれれば良いのに、どうして「危ないから」なんて言うんだろう? そりゃあ、危ないから夜遊びしちゃいけない、って論理なのは判るけれど、一体『何が』危ないのかが判らないじゃないか。何か、危ないことでもやってるんだろうか? ますます判らなくなってくる。疑心暗鬼、だ。
 いや、それを確かめるために追い掛けてるんじゃないか。これは、何も怪しいことなんかないって確認して安心するためにやってることだ。髪の色を変えたのなんて本当にただの気分転換で、あの人たちはただのお友達。きっとそうだ、そうに違いない。……そうであって欲しい。

 とにかく今は、追い掛けよう。それで全てを、確かめよう。
 僕は改めて決心を固めて、三人と一緒に移動を開始した。

   *

 一方、観察される側。時刻は数分前にさかのぼる。改札前で相手を待つ直実のところへ、二人の青年が駆けつけた。
「サッシャ! 悪い、待った? 待ったよな?」
 髪を明るい金色に染めた長身の青年が、手を合わせて謝りながら心配そうに尋ねた。直実にしては珍しく、独語名で呼ばせているらしい。父親を毛嫌いしているせいかクオーターだということすら知られたがらないのが常で、そんな名前が存在することなど、恐らく純でさえ知らないにも関わらずだ。あるいは、ここではそういうキャラを作っているつもりなのかも知れない。
「いや、大した時間じゃないから」
「本当? でもごめん、電話ぐらいすりゃ良かった」
「そんな、十分も待ってないって」
 あまりにも猛烈な勢いで謝られるので、直実の方がたじろいでいる。見た目に反して、随分と律儀な青年である。
「あ、そういや、ホントに付き合わせて大丈夫? 店の準備とかって結構朝早いっしょ?」
 散々謝って気が済んだかと思いきや、青年はまたもや直実を心配する質問を投げ掛ける。どうやら青年側がホストの集まりであるらしい。予想外の質問だったのか、直実は一瞬きょとんとしたが、その後すぐに苦笑した。
「大丈夫。昔から睡眠時間少なくても平気だから」
 爽やかな笑顔でそう言っているが、紅茶とコーヒーのカフェイン漬けで誤魔化しているの間違いではないか。本人は気付いていないのかも知れない。気付いた頃には完全に中毒になっていることだろう。むしろ、もう手遅れではなかろうか。
 そして案の定、青年は目を輝かせてそれを本気にしてしまった。
「えー羨ましい。オレ睡眠足りないとマジ一日眠いし」
「でも無理はするなよ。睡眠不足でヘマをされても困るしな」
 金髪の青年の隣でやり取りを見守っていた、柄の悪い黒髪の青年が不機嫌そうな顔で呟く。腕を組んで堂々と立ち、どこかギラギラとした視線を周囲に向けているのが印象的で、いかにも悪党のリーダーかのような風貌だ。
 それに対して、金髪の青年は思いっきり眉をひそめた。
「もー、ケンゴさんってば。カルシウム足りてないんじゃないッスか? 昨日から機嫌悪すぎッスよ」
「いつも通りだ」
 黒い青年はケンゴと言うらしい。黄色い青年の口調が急に敬語になったので、ケンゴは年上か先輩か何かなのだろう。二人のやり取りを聞くと、直実は楽しそうに笑った。
「ご指摘の通りです。なるべく気を付けます」
 その答えもどこか冗談のようだ。
「ああ、そうしてくれ。ショータもな」
「わ、判ってますってぇ」
 金髪の方はショータと言うようだ。あまりにもコロコロと表情が変わるので、それを見ながら直実が笑いを堪えている。気を付けろと注意した当人も、顔は笑っている。二人ともに笑われているのを理解したらしいショータはふくれっ面のまま、半ばヤケになって右手を挙げて宣言する。
「まーいいや! とにかく行きましょう!」
「そうだな」
「ええ――……、ん」
 頷きかけていた直実が急停止して、商店街とは対照的に、暗闇に包まれた脇道の方に視線をちらりと向けた。
 ――真珠たちが隠れている方である。彼らの気配に気付いたのだろうか。
「どうした?」
「いや……、何でもない。行こう」
「お、おう! よーし、今日は思いっきりはっちゃけるぞー」
 ショータが明るく笑って、商店街の方向へ軽やかな足取りで進んでいく。
 後ろに続いたケンゴの方は呆れ顔で、隣を歩く直実の肩にポンと手を置いた。
「……サッシャ、色々頼んだ」
「了解しました」
「えー!? 何ですかそれ!」
 先頭を歩いているのに、話の中ではショータ一人が置いてきぼりである。仲の良い友人同士で、一人をからかっている――どこにでも、よくある風景。
 馬鹿にされているとは判りながらも、何が原因かは判らないらしいショータは顔を真っ赤にして、まるで行進でもしているかのような調子でずんずんとアーケードを進んでいく。
 ケンゴは冷静な表情を保ったまま、その後を静かに歩いている。
 直実は再び先ほどの脇道の方向へちらりと視線を向けると、二人には見えないように少し顔を背けながら、薄笑いを浮かべた。