こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第六話 絡繰キャラクタァ




   Prologue

 メールを送信して、ため息を吐く。

 本当に上手く行くのだろうか――。


 いよいよ作戦開始だと言うのに、思い浮かぶのは不安の種ばかり。

 でも、やるしかない。

 かつての自分は、まさかこんなことに手を染めるとは思いもしなかっただろう。

 これもきっと、経験値になるはずだ――良い意味でも、悪い意味でも。


 ――もっともそれは、成功すればの話だが。


第一章「一日目//EMERGENCY」

   1

 澄み切った青い空、六月十四日。蒼杜中高、小さな中庭に備え付けのベンチから突き抜ける空を見上げると、昨日の雨が掃除でもしてくれたのか、心なしか空気も美味しく感じられる。こういう日にはせっかくだから青空の下でお弁当食べようかってことになって、あたしと美佐の二人で移動してきたのです。中庭にもそれなりに花とかが植えられていて、何というか、ピクニック気分。ベンチが濡れてないかちょっと心配だったけど、特に問題なし!
「それで、どうなのさ。進展は」
 食事を始めて開口一番、美佐が言ったのがそれだった。意味が判らない。
「何の」
「何の? 決まってんじゃないの、店長さんと何か色々あったんでしょ!? つまりここからが勝負時!」
 目をキラキラ輝かせて何を言い出すかと思えば、そっちか。いや、まぁ、そっちじゃなかったら何なんだって話ではあるけど。
「だから、そんなんじゃないんだってば」
「うそだぁ」
 うっ……。美佐の疑う目付きが痛い。
 喧嘩の後初めて、直実さんに会ったのがその週の土曜日。この前はごめんなさいなんて言いながら、お客さんの波が途切れたのを見計らって、話して――というか、人生相談を受けた。

 目の前で三人もの人が焼かれて、それを見ていた自分が何をしたのか思い出せない。
 「それを見た」ことは事実として覚えているが、その映像そのものが完全な形で思い出せない。

 だから不思議と平気なんです、と彼は言った。
 現場の庭にも出られる。こうして普通にその時の話も出来る。

 でも、――それでも思い出せないということは、そこに何かとんでもないものを抑え込んでしまっているのではないかと不安になるのだと。もし何らかのきっかけによってその全てを思い出したとき、自分は正気を保っていられるのか自信が無いのだと――……そう、言っていた。

 ただの高校生のあたしには、迂闊なことは言えないと思った。
 そういうのって専門の人に診てもらったほうが良かったりしませんか、みたいな感じのことをそれとなく言ってみたけど、あまり乗り気ではなさそうだった。じゃあ一体どうしたいんだろう、と思っても口に出すわけに行かず。下手な言い方したらまた喧嘩になっちゃいそうだし。
 それで結局、今の状態が続いている限りはそこまで危険なことにはならないだろうから、もうしばらく様子を見てみるってことで決着がついた。……決着ついたって言えるのかな、これは。自信無いけど。

 あたしはごはんを口に運びながらその時のことを思い出し、美佐に何を話すべきかを考える。
 ……でも、話してくれたってことは、あたしのことを信用してくれたってことだ。話しても大丈夫だと思ってくれた。それはきっと、大きな進歩だ。直実さんにとっても、あたしにとっても。

「なーに物思いに耽ってんのよー。ネタがあるなら話しなさいよぉ」
 あたしがそんな深刻なことを考えているとは露知らず、美佐はあたしの腕を掴んで、ゆっさゆっさと揺さ振ってくる。うぅ、気持ち悪いではないか。
「でもさ、あの人も喧嘩とかするんだねぇ。穏やかそうな人に見えたけど」
「あー、そりゃあ美佐の気のせいですね」
 喧嘩なら負け知らずだって言うしね。まぁ勿論ズルしてですけど。って、喧嘩の種類が違うか?
 それからほら、取調べの時の彼は、刑事ですって名乗られたら納得してしまう雰囲気だったし。実際、もう一人の第一発見者は納得しちゃったわけだし。いつ気付くか、生温かく見守ろうと思っています。まぁ、気付く前に刑事の顔なんか忘れるんじゃないかな、って線が濃厚。
「大体美佐、あんたの方は」
「あ、楓さん!」
 名前を呼ばれて、無視するわけにもいかないので言葉を止める。高いけど、男の子の声だ。どこかで聞き覚えのある――、
「真珠君!」
 噂をすればと言うか、何と言うか。お弁当箱が入ってるんだろう風呂敷包みを抱えて、中学校の校舎の方から歩いてこられたのは、桧村真珠君その人でした。学校ではほとんどすれ違ったこともなかったから、ちょっと驚いた。だからと言って店で会うかって言うとそうでもないし、実際、顔を合わせるのもかなり久し振りな気がする。
「お久し振りですー」
「中庭で昼食か。なるほど、気分が良い」
 ああ――……見覚えどころか、毎日見ている顔もついでのようにくっついていた。相変わらずの無表情のまま、軽く片手を挙げて挨拶してくる。何だかすっかり中学生に馴染んでやがるよ、あの金髪悪魔。結局この二人でよくつるんでるってことなんだろうか。多分、玄に付き合えるのが真珠君ぐらいってことなんだろうね。
「誰? 後輩?」
 美佐が首を前に出してきて尋ねる。えーと、どう紹介するべきか。後輩には違いない、っていうかどう見ても中学生なんだから、もし後輩じゃなかったら逆に衝撃的だけど。
「噂の店長の弟さん……と、うちの居候」
「弟……? へぇ、随分年離れてるんだね」
 『居候』に関してツッコミが入らなかったのでホッとする。まぁ、そんな奴が居るって話は既にしてあるし、留学生みたいなもんだと思ってもらえればありがたい感じだ。
「……、はい、一回り違うんです。えっと……兄のこと、知ってるんですか?」
「ん? うん! 楓に一度お店に連れてってもらったから。優しそうなお兄さんだよね!」
 美佐がそう言った瞬間、真珠君の表情が若干、本当に少しだけ、固まったように見えて気になった。その後すぐに笑ってしまって――でも何だか作り笑顔に見えた――、本当のところはよく判らない。何だか少し、心配になる。何ですか、家というか二階での直実さんのことはあたしもよく知らないけど、実はとんでもない横暴兄貴だとかですか? ハル君に対するあれやこれやを思えば有り得なくはな……、ないな、却下。あれはハル君が原因の場合がほとんどで、直実さんは基本的に『何かされたら倍にして返す』って人だ。この前も言ってたけど。真珠君がわざわざ攻撃を仕掛けるとは思えない。
「――玄、僕らもここで食べる?」
「そうしてみよう。楓、そこは空いているか?」
 玄次郎がそこ、と言うのはあたしの隣の空席。四人掛けのベンチだから空いてますよってことで、美佐にはちょっと詰めてもらって、真珠君、玄と順番に座った。何だか――……不思議な、組み合わせ。
「ねぇ、えっと、マコト君だっけ? せっかくだからお兄さんのこと教えて! 趣味とか特技とか」
 唐突に話を始めた美佐ですが、傍から聞いてるとやっぱり直実さんに興味あるように見えますぞ。趣味とか特技ってアナタ、ねぇ。実際そこんとこどうなんだろうね、ってことで生温い目線を送ってみたんですが、反応がありません。
「趣味、ですか……? え、えーっと……何だろう、ケーキ作るの自体趣味みたいなものだって言ってるし、……難しい本はよく読んでるけど、あれって趣味なのかな」
 難しい本。っていうと、この前話してた医学書とかその類なんだろうか。今でも、よく読んでるのかな――。
「ふわー、仕事人だねぇ」
「好きでやってるみたいなので。大学もお店やる前提で選んだみたいですし……お父さんとはひと悶着やったみたいですけど」
 そういえば純さんも『医学部には行かないだろう』なんて話をしてた。お父さんっていうと――……そうか、直実さんを疑ってたっていうお父さんか。そりゃあ喧嘩のひとつもするでしょうね。
 しかし、何だか普通と言うか、自分の道を突っ走ってたのですね。でも、そう考えてみると本当に――プライベートに隙が無い。趣味で店やってて、それ以外の趣味嗜好はほとんど見えない。同居している弟さんにさえも見えていない。それだけひとつのことに没頭してるってことなんだろうけど、それにしても何だか凄い人だ。
 あたしがそんなことをぽけっと考えてたら、さっき一瞬見たときと同じように――また、真珠君の表情が暗くなった。
「……ごめんなさい。僕、あんまり直実さんのこと知らないかも、です」
 そんなことを呟いて、箸を持つ手も止まってしまった。フォローしなくちゃ――。
「そんなこと、」
「真珠が知らないなら我々はもっと知らない。結果本人以外は誰も知らないということになるだろうな」
 こら、玄! いいこと言ってるとは思うけど人の言葉を遮るなよ! ……悪魔に何言っても意味無いか。
 真珠君の表情は相変わらず、俯いたまま。押し殺したような低い声で、呟く。
「でも、兄弟、なのに――」
 そう言われて考えてみるけど、あたしだって兄貴のことそこまで完璧に知ってるとは思えないけど、な。玄とクリスのこととか、術のことだってつい最近知ったんだし。……正直今でも信じきれないけど。父さんの予言の方が、日常的にやってたことだから、まだすんなり受け入れられた。
 美佐が不思議そうにあたしの顔を見てくるので、目だけで説明を試みる。多分この子は直実さんと血が繋がってないのを凄く気にしてて、でも兄弟ならもっとお互いのことを判ってるべきだと思うから、判ってない自分が歯痒い、みたいな。……結局美佐は首を傾げてしまったので通じなかったようです。ちくしょう。
 真珠君が顔を上げる。あたしの方を見て、少し不安そうな顔で、必死に訴えかけてくるように言う。
「さん付けで呼ぶのだって変じゃないですか? あと、つい敬語で話しちゃうし」
「うーん、でも最近上の兄弟のこと名前で呼ぶって人多いし、さん付けでも別にいいんじゃない? だめ? 美佐はどう思うよ」
「ん? 敬語ってあれだよね、お金持ちの家だったらお兄様ーって感じで話してても変じゃないよね。実はそうなんじゃないの? 大丈夫だよーそれはそれで素敵だからさ!」
 ああ、そういう解釈も出来るか。そういえば純さんが御曹司って呼んでたことあるし、家は物凄く大きいのかも知れない。でも、真珠君は苦笑している。
「い、いえ、そんな……そこまでじゃ、ないです。お兄様なんて呼んだら、やめてくれって言われると思います」
 だろうね。むしろ彼がそれを普通に受け入れたら笑い話ですよ。ツッコまずにはいられないですよ。
「――ということは、本当はもっと素直に仲良くしたいということか、真珠」
 そして玄が冷凍食品のたこ焼きを口に運びつつまとめに掛かった。なるほど、そういうことか。素直になれないってやつですね! ああ、関係ないけど見てたらあたしもたこ焼き食べたくなってきた。何故あたしの弁当には入れてくれなかったのだろう母さん……。わざわざメニューを分けてくれなくてもいいのに。
 玄に図星をつかれて驚いた顔をしていた真珠君は、一呼吸おいてまた苦笑すると、呟くように言い始める。
「……やっぱりまだ、心配なんです。馴れ馴れしくして、迷惑掛けちゃうんじゃないかって」
「ほえー、いい子だねぇ、マコト君」
 美佐がにこやかに笑って言う。嫌味でも何でもない、本音で言ってる。あたしもそう思う。
 直実さんは多分真珠君に対して、何も言わない。自分のことはこう呼んで欲しいとか、積極的に言うタイプじゃない。あまりにも耐えられないものじゃなければ好きに呼んでくれ、って感じに見える。むしろ直実さんの方が真珠君に対して遠慮してるんじゃないかな、なんて思ったりもしたけど、わざわざ口に出して言うほど確信できない。
 何だか少し気まずくて、これ以上は変な空気になりそうだったので――あたしは適当に話を逸らして、その後は結局、この話はしなかった。真珠君の気分が回復してくれれば良かったんだけど、どうだろう、自信が無い。家に帰って変なことにならないといいな、なんて思いつつ、その日は解散したのでした。

 ――このとき既に妙な事態が発生していたとは、恐らく誰一人として予想していませんでした。

   2

 何だか今日の気分は少し、いつもと違う。よく考えたら、近所でお店やってるんだから、直実さんのことを知ってる人が居たとしても何の不思議もない。その人から直実さんのことを訊かれる可能性だって、無いとは言えない。今まではたまたま、そういうことがなかったというだけのこと。これからだって、今日みたいなことになるかも知れない。僕ももう少し、それを考えていかなきゃいけない。
 玄と別れて、店の扉を開ける。一応裏口というか勝手口もあるけど、面倒だから大抵いつもこっちから入る。お客さんに挨拶も出来るし、こっちの方がいい。――今日はたまたま、お客さんは居なかった。
「ただいま――、え?」
「おかえり」
 返ってくる声は普通でも、いつも通りに紅茶を飲んでいるその様子は普通でも。
 その、姿が――普通じゃ、ない。
「な……直実さん、髪の毛、染めたんですか?」
「うん。術でだけどね」
 ちがう、……手段なんか、問題じゃない。
 どうしてそんな笑ってあっさりと、平然と頷けるんだろう?
 ブロンドに近い麻耶さんほど薄い色ではない。でも、一般に言う『茶髪』の範囲の中でもかなり明るい色だ。僕が見たことのある写真の中の直路お兄さんの髪の色に似ていると、何となく思った。もちろん、直実さんはお兄さんと違って目の色も日本人離れしてるから、似合わないってわけじゃない。あーこれ元々なんです、なんて言われたら信じてしまう。だから和服着て店に出ていても平気だろうと思う。……でも、どうして? だって、朝はいつも通りの黒髪だったのに。そりゃ、術でだったら一瞬で変えられるから、時間の問題じゃないのは判る、けど――。一体、何が起こってるって言うんだろう。
「……いきなり、どうしたんですか?」
 どう訊いたら僕が求める答えが返ってくるのかよく判らなくて、思うままに尋ねる。すると彼は、前髪を少し摘んで天井の明かりに透かして見た後、何故か嬉しそうに、笑った。
「――気分転換、かな」
「そんな」
 信じられない。
 何だか……別人みたいに、なってしまった。
 勿論、直実さんが今までずっと黒髪で居た理由が『身内に元々茶髪の人が多かったから、わざわざ没個性化する意味を感じられない』からであって、染めるのが自分の信条に合わないとかそういうことじゃないのは、知ってる。でも、だからこそ、信じられない。黒髪の方が自分らしいって言うなら、どうして――。
 それも、ちょっとした気分転換なら、彼の中で許されることなのか?
 ……まぁ、そうなのかも知れない。術でだったら別にお金が掛かるわけでもないし、すぐ戻せるし。
 僕はこのまま二階に逃げていいものかよく判らなかったので、一番奥、厨房に一番近いテーブルの席をひとつ取って、座った。キッチンに背を向けた、店内を一望できる席。純さんはいつもこの椅子をカウンターの壁の方に持っていって、まるで店員かのように振舞っている。
「麦茶でも飲む?」
 僕が座ったから掛けられる、ごく普通の質問。その答えすら、すぐには思いつかない。僕が黙り込んでいるから、直実さんは表情を変えずに少し首を傾げる。
「あ……はい、頂きます」
「了解」
 いつも通りに笑って、彼はキッチンに消えていく。ハルは中に居るはずだけれど、起きているだろうか。ハルならあるいは、僕の味方になってくれるだろうか? もしかして、事情を知ってたりしないだろうか。後で、訊いてみよう。
 そんなことを考えている間に直実さんが戻ってきて、僕の前に麦茶の入ったコップを置く。
「どうぞ」
「どうも――」
 何だか恐縮してしまう。ここが二階の食堂じゃなくて店内で、僕以外にお客さんが居ないからだろうか。それとも、彼の変化が影響しているのか。
 直実さんはカウンターに戻って、紅茶を飲みながら何かの本のページをめくり始める。何の本かは判らなかった。
 とりあえず麦茶を口に運んで、火照った身体を冷やすことに努めてみる。冷たいものが喉を通るのが感じられる。静かな店内。何かを訊いてみようにも、訊くべき質問が思いつかない。
 結局、麦茶を飲み終えると、僕はすぐに二階の自室へ逃げ込んでしまった。ハルは案の定、気持ち良さそうに寝息を立てていたので、そのままにしておくことにした。部屋に戻っても、何を考えていいのか判らなかったので――僕は布団に潜り込んで、何も考えないことにした。

   *

「真珠――……真珠? ああ、寝てたのか」
「……え……?」
 いつの間にか寝てしまっていたらしい。視線を部屋の入り口に向けると、私服に着替えた直実さんが笑顔でこちらに手を振っている。でも――その服装も、何処かいつもと違うような、気がする。あの人、スカル柄のTシャツなんて持ってた? いや、持ってなかったなんて保証は無いし、別に変わらないと言われれば変わらないのかも知れないけど――。
「おはよう。夕飯出来てるよ」
「あ――、はい」
「悪いんだけど、これからちょっと出掛けてくるから、一人で食べててくれるか? 風呂は今沸かしてる」
「えっ?」
 出掛ける? こんな夜中に――その、格好で?
 スーツだったら判る。色んな用事で警察署に行くときは、というか、仕事で出掛けるときは大体スーツで、営業時間の関係で夜中に行くこともあった。でも私服で出掛けるなんてことは、僕がここに来てから今まで一度も無かった。
 僕がそんなことを考えてるのを判ってかどうか、直実さんは苦笑して、「警察の手伝いだよ」と補足。……どうも、信じられない。
「あー、ちゃんと朝までには帰るから」
「か、帰って来なかったら困ります」
「それもそうか。――とにかく行って来るよ。出来たら食器は洗っといて」
「……、はい」
 僕にはただ、頷くことしか出来なかった。
 パタンと扉が閉まって、僕は部屋に一人、取り残される。時計の秒針の音だけが、広くはない部屋にやたらと響いて聴こえる。この部屋は僕が来るまでハルが自由に使っていたらしくて、今は二人で共有している。もうしばらくしたらベッドが凄く狭くなるんじゃないかと、時々不安になる。もっとも、夜行性のハルは夜中に何処かへ出掛けていることが多くて、一緒に寝る機会は少ないのだけれど。
 ――そうだ、ハルだ。ハルももう、起きているはずだ。
 直実さんの足音がもう遠ざかっているのを確認してから、僕は部屋を出てまず左手のドアを開け、ダイニングにハルの姿を探した。が、居ない。まだ階下に居るのだろうか――そのままドアを閉めて百八十度回転、階段を下りる。
「ハル?」
 テーブルの上に見当たらなかったので、声を掛けてみた。すると、ちょうど死角になって見えなかった奥の冷蔵庫の辺りから、ちょろちょろと駆けてくる小動物の姿が見えた。僕の立っている裏口玄関の床に上がってきたところで、子供の姿に変化する。髪の色は緑、直実さんが遊ぶので毎日違うが、今朝と比べて変化は無い。
「おう、飯食うんだろ」
 いつも通りの笑顔と口調。さっさと階段を上っていってしまう。なら、ハルは理由を知っているのだろうか――?
 僕は彼を追いかけながら、問い掛ける。
「あ、あのさ、ハル――」
「お?」
 階段の途中で立ち止まった彼が振り返り、僕を見ている。
「その……ハルは何か、聞いてる? 何て言うか、」
「なーんも。あいつが何考えてるかなんて知ったこっちゃねーや」
 けけっ、という笑いを添えて、ハルは残りの段を一段飛ばしで駆け上がっていった。

 ダイニングのテーブルに用意されていたのは、僕一人分の夕食。一人で食べるにしては肉じゃがの量が若干多いような気がしたけれど、食べてみれば案外食べられてしまうかも知れない。人間の食べ物も食べられないことはないらしいハルはテレビをつけると、キュウリの浅漬けを摘み食いしている。
「……それで、ホントに何も聞いてないの?」
 尋ねると、ハルはキュウリを齧りながら、あっけらかんとして答えた。
「おーよ。『何だその頭』つっても特に反応無かったしよ。それどころか『お前には関係ない』とかなんとか言ってまーた暴力振るいやがって、家庭内暴力も程々にしろってんだ」
 ああ、またいつもの愚痴だ。そんなことを毎日のように言いながらも付き合い続けているというのは、何と言うか……少し可哀想にも思えてくるけど、僕はどうしていいのか判らない。苦笑しか出来ない。ハルはハルで結構辛辣なことを仕出かしたりするから、これぐらいでバランスが取れているようにも見える。
 でも、お前には関係ない、か。……じゃあ、僕にも関係ないんだろうな。赤ん坊の頃からずっと一緒に暮らしてきたっていうハルでさえ関係ないなら、ただ書類上で弟ってだけで一年も一緒に過ごしてない僕は、何の関係もない――。
 テレビから聞こえてきた笑い声が、何故か胸に突き刺さる。こんなことで悩んでいる僕を笑われたような気がしたからだろうか。
「……茶髪にだけはしねえはずなんだけどなあ」
 ハルがぼそりと呟いた。
「どういうこと?」
「だって、あいつの大嫌いなパパ様が茶髪なんだぜ。まぁ今は真っ白だけどよ」
「――……ああ」
「だからこそ俺も弄られまくってんだけどな」
 そうか、ハルの髪の色は元はと言えば銀色だ。ここのところ全く見ていない。
 でも、だとすると?
「嫌な対象が茶色から白に移ったって可能性は?」
「……あー、どうかねぇ」
 ハルはつまらなさそうな顔でキュウリをカリカリと齧りながら、ため息を吐いた。そしてしばらく噛んでいたキュウリを大袈裟に上を向いて飲み込むと、こちらに身を乗り出して、誰も居ないのに妙に小さな声で言う。
「どっちにしろ変だぜ。あいつ、あぁ見えて人にどう見られるか計算ずくだろ。無くても困りゃしないのに眼鏡掛けてんのも目の色が目立たないようにだし、なのに尚更ガイジンに見られるような格好するとか意味判らねぇ」
 外国人にしか見えないハルの口から外人なんて言葉が出てくると変な感じはするけど、言ってることはもっともだ。直路お兄さんはお父さんと一緒で瞳は茶色だったから、言われなければクオーターなんて判らなくて、茶髪で苦労したらしいって話を――聞いた覚えが、ある。
 あれ……直路さんのことはお兄さんって呼ぶんだ、僕。
 そう考えてぞっとする。会ったこともない人のことは素直にお兄さんって呼ぶのに、現実に会ってる直実さんのことはただ名前にさん付けで――。そういえば、三月に会ったときによく判らないけど謝られたような気がする。もしかして、物凄い差別をしてるように思われてるんじゃないだろうか。急に不安になった。
「まさかとは思うが、変な奴らの仲間入りしてんじゃねえだろうなぁ」
「へ……?」
 変な奴らって何だろう。
「ほら、ケーサツと付き合って真面目ちゃんを演じるのに疲れてきたとかよ。実は俺らの知らない夜の顔が――、とかな!」
 ハルは冗談のつもりで言っているらしい。でも、そんなの有り得ないとは思っても、少し不安になる。あの人はいつでも演技をする人だから、僕に見せる顔も本当に本心かどうかなんて判らない。毎日僕に気を遣ってお弁当まで作ってくれて、僕が来てから一気に仕事が増えたのに、疲れてないわけがない。
 僕が答えないのでハルが不思議そうに首を傾げるのを横目に、僕は箸を置いて手を合わせると、席を立って早足に電話台の方へ向かった。
「……どうした?」
「お母さんに相談してみる」
「本気にしたのか? 冗談だぜ冗談」
「うん、判ってる。でも、変なのは確かだから」
「……それもそうだな」
 〇四六七で始まる番号を押して、誰かが出るのを待つ。五回コールが鳴って、受話器が取られる音がした。
『はい、桧村でございます』
「――お母さん」
 久し振りの声に何故だかほっとして、慌てたように呼びかけてしまった。
『真珠? どうしたの、寂しくなっちゃった?』
「……そ、そんなんじゃ」
 何でいきなりそんなことを言うんだろうと思いながらも、何だか凄く、恥ずかしい。それはある意味、事実かも知れないし――。
 僕の答えをどう受け取ったのか、お母さんはくすくすと面白そうに笑って、続ける。
『なーに? 何かあったの?』
「……えっと」
 どう説明していいのか、よく判らない。
「直実さんが、何か変でさ」
『変って、何が変なの?』
 いくら親だってそんな漢字一文字ごときで伝わるわけがないのは、自分でもよく判っている。――今はとにかく、具体的に伝えるしかない、か。
「急に髪の毛染めたりして、気分転換だって言うんだけど、でも何か違う気がして」
『あら、意外ね。でも直実さんだって若いんだから、そういう気分になることもあるんじゃない?』
 お母さんの口調は相変わらず穏やかだ。やっぱり、重大なこととは思われないんだろうか。そりゃあ、普通の人なら大したことじゃないだろうけど、でも、あの人のことなのに。
「……でも、」
『そんなに心配しないでも大丈夫よ、あの子はホントに真面目な子だもの。まだ心配?』
「――……ん……」
 うん、とは言えない。ううん、とも言えない。変な答え方になってしまった。
 お母さんはまた、穏やかに笑った。
『もう、心配性ね。そうねぇ、もし本当に何かあったら電話ちょうだい、様子見に行くから』
「……ごめん、なさい。そうする」
 本当に何かあったら。事件と言えるほどの事件があったら。つまり、何もないなら電話をしても一緒だと――そう、言ってるんだろう。僕が心配性なのはお母さんもよく判ってるから。
 受話器を置いて、さらに悶々とする。
 どうして、お母さんより僕の方が、直実さんを信用できてないんだろう――。
 やっぱりそれって、まだ付き合いが浅いから? よく考えたら直実さんはお母さんのこと、普通に『おかあさん』って呼んでるじゃないか。それがスムーズだったのか葛藤があったのかどうかはよく知らないけど、彼の方が、僕なんかよりよっぽど(つら)いはずなのに。
 じゃあ、結局僕が進まないとどうにもならないんだ。楓さんたちはそのままでもいいって言ってくれたけど、甘えちゃいけない気がする。
「マコト、大丈夫か?」
 ハルの声が聞こえた。
「――うん」
 そう一言返すのが精一杯で、肯定したくせに、とても大丈夫だとは、言えなかった。
 結局、お風呂に浸かっても食器を片付けて布団に潜り込んでも、鬱々とした気分は晴れないままだった。

   3

 同日、日が暮れてしまう前のこと。黄緑色の鳥が、彼女の部屋へと舞い戻った。
 大きな真っ黒のスピーカーから、優雅なオーケストラの演奏が聞こえてくる。広く、綺麗に整えられたその部屋のイメージは、部屋の主の印象とはだいぶ掛け離れているように思われた。
 気に入りの木目のデスクで鳥からの報告を聴いた彼女は、必死に笑いを堪えながら感想を述べ始めた。
「ナオミ君が茶髪? そりゃ病気だ! 変なものにでも(あた)ったんだよ」
「ソコマデ断言シナクテモ」
 人間であれば呆れ顔でも浮かべていそうな調子で、鳥――みっちゃんが呟いた。
 すると、彼女はその反応に不満を抱いたらしい。眉をひそめ、子供のように口を尖らせて反論する。
「でも、みっちゃんだっておかしいと思ったからわざわざ言ってきたんだろう? 『吐き気がするほど嫌いな父親と同じ色にするなんて真っ平御免』とかなんとか言ってた人間のすることとは思えない」
 不満げだったはずの彼女は、途中から可笑しそうにくすくすと笑い始めた。堪えられなくなったらしい。
 しかし、みっちゃんは切り捨てるように言った。
「ナオザネノ意図ハドウデモイイ。ソノセイデ、マコトガ落チ込ンデイル」
「……なるほど、そっちの方が重要だと」
 インコの顔の前に手を差し伸べてわざと突かせながら、彼女はようやく笑うのを止めた。自分で淹れた紅茶を一口飲んで、ノートパソコンの画面をちらりと見た後、何故かため息を吐いた。それ以上、彼女は何も言わなかった。
「シバラク、マコトノ補佐ニ回ル。構ワナイカ?」
 鳥のその言葉に彼女は目を見開いて、その後不思議そうに、優雅に笑った。
「珍しく積極的だね。私以外の人間と話すことも嫌がってたくせに」
ワタシ(、、、)ガ話サナケレバ、イツマデモ解決シナイ気ガシテキタ」
 麻耶ミノルの付属物としてではなく、みっちゃん自身が動かなければ、膠着した事態は進展しない。そう言いたげであった。
 それを聞いた彼女はついに声を出してひとしきり笑い、それが何とか収まると、堂々たる口調で応えた。
「ついに痺れを切らしたって訳か! いいね、期待してるよ。ただ――」
「タダ?」
「ナオミ君に追い討ち掛けないように気を付けて。今のあの子はどっちに転ぶか判らない」
 先刻まで笑っていた彼女のいつになく真剣な眼差しに、みっちゃんは一瞬たじろいだように見受けられた。少しの間を置いて、答える。
「肝ニ命ジテオク」
 みっちゃんの返答に頷いた彼女は、目を閉じて深く息を吐いた後、物憂げな顔で呟き始める。
「そろそろ、作戦を変えなきゃいけないかもね」
「ドノヨウニ?」
「荒療治、みたいな」
 理解したのかしていないのか、みっちゃんはそれには何も答えず、静かに羽ばたいて部屋の隅の大きな鳥籠へと戻っていった。
「……怖いんだろう、みっちゃん。私も怖いさ。でももう、そうするしかない。ナオミ君は積極的に解決することを放棄した。つまり彼も怖がってる。皆一緒さ。誰かが一歩を踏み出さなきゃいけないんだ」
 彼女のダメ押しにも、みっちゃんは黙秘を貫いた。
 その後すぐ、夕食が出来たと声が掛かり、彼女はみっちゃんに手を振って部屋を後にする。

「結局全部、ワタシノセイ、カ」
 静かになったその部屋で、鳥籠の中の止まり木で羽を休めながら、みっちゃんは誰に言うともなく呟いた。