こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第五話 さまよえる奇術師達




第八章「すれちがい」

   1

「――とまぁ、全ては闇の中に葬られて終わったわけだよ」
 純さんはそうして、その長い話を終わらせた。話が終わっても、あたしの感覚はまだ何だかふわふわとしていて、落ち着かない。現実に戻りきっていない。
 最初の内は時々口を挟んで補足説明をしていた直実さんだったけど、途中からはほとんど何も言わなくなってしまった。最後なんか目も閉じて、聞いてるのか聞いてないのかも判らなかった。もしかしたら、聞かないようにしてたのかも知れない、とも思う。そもそも思い出したくないって言ってたことなんだし、あんな話思い出して楽しい当事者なんて居ないだろうし、ね。
 ――……最後の一件で、あたしは否応無しにあの時のことを思い出した。
 初めてこの二人に揃って会った時――ええと、もう四ヶ月近く前になるのかな。あるいは、まだ四ヶ月、とも言えるかも知れない。ついこの前出会った、今の話によく似た、場景。
 話がひと段落ついたのを察知した直実さんがようやく目を開けて苦笑しながら、あたしの方を見て尋ねる。
「……大丈夫でしたか?」
 何を訊かれているのかはすぐに判った。というか、あたしが今まさに思っていたことを訊かれたわけだ。
 確かに、思い出したには思い出した。少し気分も沈んだ。でも、それだけ。
「大丈夫、――です。もう、大丈夫です」
「それなら良かった」
 彼はそう言って、にっこりと笑ってくれた。……でも、刺された張本人に心配されるというのも、ちょっと申し訳ない。
 あたしたちのやり取りを聞きつつ純さんがきょとんとしてるのは、まぁ、気にしないことにします。全くもう、刑事さんだなぁ。
「それで――本当に何も判らなかったんですか? 動機とか、色々」
 よく判らないことは沢山ありすぎて、何処から訊いていいのかもよく判らない。むしろ、最初から全部説明し直してもらった方が良いような気さえする。でもまぁそれは出来ないだろうから、とりあえず、思いついたことを口に出してみる。答えてくれたのは直実さんの方だった。
「その後の捜査で彼女の部屋から出てきたのは例の便箋と計画のメモぐらい、かな。後は凄く簡単な遺書。動機は……想像で良ければ話せるけど」
「想像ついてんのか?」
「証拠は無いよ。……純の言った『怪しげな待ち合わせ』が全てだと思う」
 怪しげな待ち合わせ。最初の事件の被害者が、何のために自分の教室でもない場所へ、部活が終わってから随分経ってから行くことになったのか。その、理由。あたしと純さんは何も言わずに続きを求める。
「わざわざ夜遅く、人目を忍んで話さなきゃいけないこと。……どうしても隠したかったこと」
「もったいぶんな」
 イライラしている様子の純さんがそう言うと、直実さんは少し呆れたようにため息を吐いて、その後どこか影のある笑みを浮かべて、答えた。

「恐喝されてた、とかね」

 その冷たい声に、何だか背筋がゾクッとした。……今この人何かやった? うーん、目の色は変わってない。何もしてない、はずだ。震え上がったあたしの代わりに、純さんが叫ぶ。
「な――、いや待て、だったら隠す必要ねえだろ? せめてあの時俺らに話してくれたら」
 あの時というのはつまり、犯人だと指摘された後のことを指してるんだろうと思う。
 でも彼女はそこで『お約束』に反して、経緯を語ることを、拒否した。
「本人も後ろめたいことがあったんだろ。それをネタに脅されてたとしたら、私たちに言えなくても無理はない」
「何だよ後ろめたいことって、高校一年で」
「――裏口入学かもね、って佐久間は言ってた」
 あまりにもあっさりと告げられたその一言で、今度は純さんの動きも完全に止まった。店内の時間が止まったように感じられる。
 裏口、か……本当にそういうことってあるのかな……いや、金を積んでってことでなければどこぞの玄次郎さんも裏口になりますよね、間違いなく。まぁそれは措いとくとして、風誠高校だったらお金積んで入った人が居るって言われても確かに違和感は、ない。もっともそれは、入試のレベルとかで考えた時の話であって、そんないい加減な学校とか言ってるんじゃないからね! でも――……風誠高校、か。それで結局大学はどこに行ったんだろう、とか、この場に全く相応しくないことが思い浮かんだので、その疑問はとりあえず抑え込んでおく。出身大学なんていつでも訊けるんだし。
 しばらく沈黙が続いた後、ゆっくりと解凍された純さんが難しそうな顔をして考え込んだ末に、また喧嘩腰で直実さんに迫り始める。
「何でそんな発想になったんだ? 彼女むしろ頭良かっただろ」
「私に訊くなよ、考えたのは佐久間」
「はいはい。お前に訊いた俺が馬鹿だったよ」
 で、結局その発想の元は話してくれなかった。……直実さんって、判ってても言いたくないことはなかなか言ってくれないんだよね。それを説得して言わせる方が面倒だから、純さんは早々に諦めてしまったらしい。……でもまぁ、無理言って話してもらう必要もない、か。
 ええと、恐喝してたのが最初に殺された子ってことになるのかな。本人たちは死んでるし、裏口入学の話が本当なら家族も学校も関係者は皆後ろめたいから、誰にも訴えられない。だとすると確かに、筋は通ってる。
 何だか変な空気になったのを気にしてか、直実さんはまた苦笑して話題を変えた。
「でも、彼女は今から考えても物凄く手強(てごわ)い子だったと思うよ。本気で犯人にされるところだったし」
「? てっきり俺は最初から演技で、罠に(はま)った振りしてたのかと」
「違うんですか?」
 そういえば、何処から演技だったかって質問に、彼は答えなかった。
 二人ともに勘違いされていた直実さんは少し不満げな顔をして、一言。
「買いかぶりすぎ。そりゃあ……殺される可能性は考えた。考えたけど、あれだけの話と罠を用意してきたからには警察に突き出す気で、まさか私を殺して終わらせるとは思わなかったから……事前に『見て』なかったら、多分私は何も疑わずに飲んだよ。『見て』たから、飲む前に銀スプーンで様子見て、やっぱり怪しかったから解毒した」
 あ、――違う、話をしている。あたしたちは罠に嵌ったことそのものについてしか話していない。そうじゃなくて直実さんが言ってるのは、あの場で殺されてしまえば、演技だろうが本当に罠に嵌っていようが、犯人に仕立て上げられてしまっただろう、ってことだ。
 そうだ、だからこそ、『死ぬところを見た』んだろうし。それを『見た』からこそ心構えとかに変化が起こって、対応が可能になったわけだ。家庭科室に銀食器なんかあるわけないだろうから、二回術を使ったうちの一回目が、ステンレスか何かのスプーンを銀製に変えたって事なんだろう。……凄まじい。
「――そういえば、直実さんも予知、出来るんですね」
「あん? そうだよ、だから俺は演技だと思ったんだよ」
「だから、見たのは自分が紅茶飲んで死ぬところだけだって。楓さんのお父さんみたいに正確に制御できないし。……見えたのがそこだったのは、その時予定されてた最期だったからだろ」
 でも直実さんは今もこうして、生きている。その時もし本当に殺されていたら、今あたしがここに居ないどころか、この店自体が存在しないことになる――。何だかとても、恐ろしいことだ。
 予知された未来も、誰かがそれに干渉すれば大きく変化する。だから父さんは積極的に干渉するようにしていると言っていた。ほんの些細な干渉でも、後々の展開の多彩な変化を思えば馬鹿に出来ないんだと言って、笑っていた。逆に言えば、変化のない予定調和の世界は、父さんたちにとってはとてもつまらない未来なのかも、知れない。予定は未定であって決定ではないんだからね。
「つまりお前が罠に嵌ったのは予定通り、と」
「……なんか物凄く馬鹿にされてる気がするけど、そうなる」
 気のせいじゃないと思います。でもツッコんだら修羅場になりそうだからやめておく。
「じゃあ、そこで直実さんが飲み物を要求することまで予想して、そこに毒を仕込んだってことですか?」
「そういう展開も(、、、)予想したってこと、かな。作戦は色々用意してたんだと思う」
 あ、そうか。予定っていうのは飽くまで予知した世界の予定であって、美園さんの計画の予定じゃなかった。その辺で混乱しそう。つまり、誰も未来に干渉しなければ、美園さんの考えた様々な展開のうち、その展開が選ばれる予定だった、ってことか。
 もっとも直実さん自身も、実際に干渉したのは現実にその場面に至ってからのことだけれど。
 逆に言えば、もしそこに至るまでの段階で干渉して、彼女が別の作戦を取ったとしたら、やはり殺されていたのかも、知れない。
「上手く行かなきゃ自殺、っていうのも予定の内だったみたいだ」
 そこで会話が一旦、止まる。
 直実さんを嵌めて殺せなければ、自殺するのも、予定の内――。誰かを犯人に仕立て上げられないなら、自分は生きていても仕方ないということ。生き残って犯人として警察に洗いざらい話させられるよりは、死んで逃げてしまった方がマシ。
 犯人の自分が死ぬことによって全てを隠して、事件は終結できる。誰かが言い出さない限り、誰の名誉も汚さない。自分を脅していた被害者でさえ、脅していた事実は闇の中。

 ――……それなら彼女は、それで幸せだったんだろうか。

 幸運の女神に願って、人一人殺して、さらに二人も殺そうとして、結果的に自分も死んでしまって。
 ……何だか、よく判らない。脅しに対して徹底抗戦して、もし沈静化できる可能性があったんだとしたら、それをどうして考えなかったんだろうとも、思う。頭に血が上ってしまったらどうしようもなかったってこと? それにしては殺害計画が物凄く周到で、何だか、寒気がしてくる。
 だって、動機は想像するしかなかったってことは、裏口入学とかそういう話は、噂にすらなってなかった(、、、、、、、、、、、)ってことなんだし。皆に知られていないなら、本人との話し合いで何とかできる可能性だって、あったかも知れない――。何だかとても、悲しい。
「……それでも結局、全部彼女の思い通り、なんですね」
 ごちゃごちゃと考えた末に思わずそう呟くと、同調して純さんがため息を吐いた。直実さんは紅茶のポットに手を伸ばしながら、少し寂しそうに、笑った。
「彼女が想定した結末のひとつに過ぎないけどね。最初の事件から、考えられるあらゆる可能性を考慮して、状況次第で行動を選択すればいいようにしてた、らしい。私も計画の実物を見たわけじゃないから細かくは判らないけど」
 そうやって喋りながら、恐らくは自分が飲むための紅茶を準備している。……しかし今しがたあんな話したばっかりなのに、よく紅茶飲む気になれるな、この人。いや、自分で淹れれば危険なんか無いけど、気分的な問題としてね!
「儀式のためにロウソクとかも用意してたのに、未完成だったのも人が来たからだろうし」
 なるほど。純さんの話から想像する限り、怪しい儀式に見せるにしては、確かに凄く中途半端な感じだった。
 ん? でも、そういえば。
「それって、どうして儀式なんですか? えっと、幸福の女神でしたっけ。学校に伝わる怪談とか?」
「いや、そういうのは無かったから……適当に考えて、目的のカモフラージュさえ出来れば良かったんだろうな」
「けっ。漫画の真似だろ」
「現実的にはそういうことかもね」
 直実さんは紅茶を淹れながら笑って、純さんのツッコミに応じる。
 そういえば丁度その頃、ミステリ漫画ブームと怪談ブームがごっちゃになって、そういうジャンルによく触れていた記憶が、あたしにもある。
 何となく気持ち悪い感じに出来ればそれで良かった、ってこと、なのかな。
 どうしてかは判らないけど、何だか凄く――……その子が、怖い。
 もうずっと前に死んじゃった人なのに。やっぱり、まだあれからそんなに時間が経ってないから、かも知れない。
「犯人が特定されなければ、警察の捜査が続く。だから、第二第三の事件を考えた」
「第一の事件を起こせる人間を『犯人』に仕立てて、そいつが死ねば事件は終わる(、、、、、、)、か」
 ぞくっとした。二人は淡々と話してるけど、実際には思いっきり当事者なわけで。
 ――当事者。
 そういえば、直実さんは刺されたんじゃないか。いや勿論、今こうして生きてるからには大丈夫だったんだろうけど。
「飲む?」
 あたしがそんなことを心配してるだなんて露知らず、彼は唐突に話を紅茶の方に持っていった。そんな急な話題転換でも、普段は別に何とも思わないのに――何故か今日は、妙に気になった。「いただきます」とは答えつつも、何だか落ち着かなかった。
「おう。毒の入ってないやつな」
 おや、純さんもあたしと同じようなことを感じてたっぽいぞ。でも、それを言っちゃあいけないような気がするのはあたしだけかな!
 すると案の定、直実さんは純さんを睨みつけながら、いつもの三倍は乱暴に紅茶を淹れて、五倍は大きな音を立てて純さんの目の前にそのカップを置いた。敵意の表現があからさまです。……ちなみにあたしの方には、いつも通りの様子で渡してくれました。
「何だよー命の恩人に対して冷たいなぁ直実君?」
「……それとこれとは」
「っていうかお前、死にかけた癖に宮路に何も話してなかったのか? 入院してたのは知ってんだろ?」
 ああ――そういえば、そう言ってた。しばらく入院してたなら尚更、知らないなんて不思議だ。

 ……随分、仲が良さそうだったのに。
 あたしが、うらやましいと思うぐらいには。……そんなことを思う自分の気持ちもまた、よく判らなかったけれど。もっと――仲良く、なりたい? それって、どういうことなんだろう――。

 あたしがそんなようなことをぐるぐる考えながらボーっとしている間に、怒っていたはずの直実さんは、あっさりと表情を緩めて、あっけらかんとして答えた。
「言ってどうする。喧嘩になるだけだろ?」
 喧、嘩?
 どうしてそれを言ったら喧嘩になるのか、あたしにはさっぱり判らない。
 純さんも珍しくぽかんと口を開けて驚いていたかと思うと、次の瞬間には急に興奮したように、
「じゃ、じゃあ、あの後お前ら何もなかったのか!?」
 と、叫んだ。
 ああ、あたしも訊きたい、と視線を送る。どういうことなんだろう。
「……何もって、何が?」
 そう言って眉をひそめた直実さんは、あたしと純さんが何を意図しているかすら判っていない様子だ。
 こ、……この鈍感さんがー!
「い、いやだからその、あの後よく宮路が嬉しそうにパウンドケーキだのクッキーだのを俺に自慢してきやがったが、あれはお前が作ったやつなんじゃ」
「純が甘党なのを話したからだと思うけど? ……ん? 何か勘違いしてるのか?」
 ――あ、やっと気付いた。
 気付いたことに気付いた純さんが、何のためかよく判らないけど右手をびしっと挙げて、改めて問い直す。
「そうだ! 俺はてっきりあいつがお前のことを好いてるんだと思ってだな!」
 ……勘違いっていうのが前提になってるのが不思議な文章でした。
 でも、本当に勘違い、なの?
 それを聞いた直実さんは、呆れるかと思いきや――急に吹き出して、お腹を抱えて笑い始めてしまった。ど、どうしたんだ。そんなにおかしいことだった? あたしと純さんが顔を見合わせて同時に首を傾げる。何だか珍しい一致。でも、笑われた純さんは気分を害したらしく、その後すぐ怒った顔になる。
「おい、サネ。何がおかしい」
「いや、だって。あいつは『皆大好き(、、、、)』なんだぞ、当然美園さんも含めて」
 ――え?
 皆、大好き?

 あ――……そういえば、部員の中に犯人が居ることなんて認めたくないみたいな、そんな感じだった。
 じゃあ何、つまり、宮路さんが直実さんを特別視してたってわけでは全然なくて。
 宮路さんは、同じ料理部員なら、男女問わず皆同じように大好きだったってこと、なの?
 そ、そんな、紛らわしい! もっとも、話し手の純さんが曲解して描写してたって可能性は無いわけじゃないけど。
「大体私こそ訊きたいよ、あの後何もなかったの?」
「へ……?」
「……あぁ、純が気付かなかっただけか」
 おっと? これはどういう流れですか?
 まさか、まさかの展開なのかしら?
「ちょ、ちょっと待て。どういうことだ」
 純さんも言われてる意味は判ってるんだろうに、敢えて質問を返す。
 直実さんはニヤッと含みのある笑みを見せてから、わざとらしく純さんを馬鹿にした口調で答え始めた。
「気持ちが変わったって、いきなり違う態度で接するなんて無理な話だろう? だから彼女なりに誤魔化しながら、その気持ちをそれとなーく伝えようとしてたって言うのに、お前って奴は」
 で、そんな言い方したら純さんが怒るのは当然のことで――
「――……マジで?」
 あれ? 怒らない。いつもと違う。明らかにわざと怒らせようとしてた直実さんも拍子抜けしたような顔になった。
「いや……百歩譲って、クッキーやら何やらを作ったのが私だとしても、それを宮路がお前に自慢する理由は無いと思う、けどな」
 困ったような呆れたような、何とも変な顔をしながら直実さんが言ったその言葉をもって、その場の空気は完全に固まった。純さんは完全に蒼褪めている。
 ――ええ、全くもってその通りですね!
 大体その『自慢』っていうのも、純さんがそう解釈しただけであって、実際の宮路さんの意図は全然違うことだったかも知れないわけで。
 つまり――……例えば、あげようか、とか。
 うわぁ、なんか宮路さんが可哀想になってきた。それなのにさっきここで出くわして、純さんは彼女に対して怒鳴りつけても居る。ああ、もう駄目だ。おしまいだ。ドンマイ純さん。
「じゃ、じゃあ、何だ。つまりもしかして俺は、あいつに対してとんでもない仕打ちをやらかしたってことなんじゃ」
 わなわなと震え出した純さんは、独り言のようにそんなことを呟きつつ、その表情にどんどんと影を落としていく。えっと、これは助けないとまずいですか? それともむしろ、徹底的に笑ってあげた方がいい?
「何したんですか? 『要らねえよ!』って突っ返したとか?」
「……いや、それぐらいなら勘違いしてなくても言うだろ」
 ふむ、それも確かに。とすると、相当辛辣なことを言っちゃった、ってことなのかしら――。
 宮路さんも可哀想だけど、今更それに気付かされた純さんもちょっと可哀想だ。でもちょっと面白い。人の不幸は何とやらですね。
「……何だよ、言わなきゃ駄目か……?」
「吐いたら楽になると思うぞ? ほら、吐いてしまえ」
 あ、直実さん、完全に遊んでますね? その台詞、どっかで聞いたことありますよ!
 でも、一旦沈んでしまった純さんは、直実さんの言葉が冗談かどうかの区別もつかなくなってしまうようで――目頭を押さえて「うっ」とか何とか言いながら、とても小さな声で、呟いた。

「……『男の作った菓子なんか要らない』」

 ――……嗚呼。さすがのあたしも、言葉が、出ない。

「どうせそんなこったろうと思ったけど、そこまで行くと嫌がらせだな。全国の男性菓子職人および宮路に対する」
 直実さん自身も敵に回されているわけで、目線が大変冷たい。そりゃ言えないわけだわ。あたしには言えない。
 純さんは完全にグロッキー状態になってしまった。頭のてっぺんをつついてみるも、反応はとても薄い。掠れたような弱々しい声が聞こえてくる。
「…………思いっきりビンタされてワケが判らなかったが、今その謎が解けた……」
「その場で気付け」「遅いですよ!」
 ほぼ同時に二人から突っ込まれて、純さんはさらに奥深くへと沈み込んでいった。あーえっと、自分で突き落としておいて言うのもなんですが、そろそろ救出しに行った方がいいですか?

 でも――……そう、か。
 だとすると、もしかしてそれで宮路さんは――。
 あたしがふと思ったことを確かめようと顔を上げると、ちょうど直実さんと目が合った。目が合って、お互いに笑った。
「あの、やっぱり、そう(、、)……なんでしょうか」
「……まぁ、多分ね」
 二人とも、具体的には何も言っていない。だから、あたしの意図していたことと、直実さんの意図したことが全然違っていて、お互いに判っているつもりで全然違う話をしてしまった可能性も、ある。――でも、きっと違っていない。そんな気がした。
「純、終わったことはどうにもならないだろ。そろそろ帰って来い」
 呼ばれた純さんは意外と素直にムクリと起き上がって、目を擦っている。寝てたんですかい? いや、そんなことはないと思いますけども。
「宮路、まさかまだ覚えてたりしねえかなぁ……」
 純さんも意外と心配性ですねぇ。
「まぁ、言いたいことがあればさっき言って帰ったと思うよ」
「……そう、か。そうだよな。うん、そうだな」
 自分で自分に言い聞かせてる。そんな姿が何だかちょっと微笑ましくも見えてくる。
 ――そして話は、事件のことへと戻る。
「でも、ホントのこと全部話せてすっきりしたわ。特に最後」
「……下らない意地を張ったせいで彼女を死なせたんだとしたら、多少のリスクは背負っても、出来る限りのことをしたほうが良かったのかな」
 ん……? 直実さんが何のことを話しているのか、またよく判らなくなった。曖昧すぎる。
 純さんはその意味が判ったのか判らないのか、少し怒ったような顔をして、吐き捨てるように応じた。
「終わったことはどうにもならないだろ、馬鹿」
 返したのは、ついさっき直実さんが言った言葉、そのもの。
 自分が言ったことをそのまま返されて、一瞬きょとんとしていた直実さんは、その後すぐに肩をすくめて、笑った。
「――……うん」
 過去は過去。過ぎ去ってしまったこと。悔やんでも悔やみ切れないことはあっても、だからと言ってそれを変えられるわけじゃない。過去を変えてしまったら、今あるこの世界は全く別のものになってしまう。「こうすれば良かった」なんて言っても、実際、本当に良かったかどうかは判らないんだしね。もしかしたら、逆に不幸になることだってあるかも知れない。
 だからあたしたちは、今を受け入れて進むしか、ない。
 ――……それがとても難しいことは、あたし自身が、よく判っている。

   *

 それからしばらくして純さんは帰っていった。日が傾いて、窓の外が赤く染まる。あたしも今日はそろそろ帰ろうってことで、着替えて帰りの準備をする。そして、丁度もう準備万端となった、時だった。カウンターの中の直実さんは、何故か妙に気まずそうな顔をして、遠慮がちに話し始めた。
「……さっきの、話なんだけど」
「事件の話ですか?」
「事件……というか、その、合間の話というか。純は多分、楓さんも知ってるものだと思ってたんだろうけど――えっと、あ、隠してたってわけではなくて」
 いつもより、途轍もなく歯切れが悪い。視線も落ち着かなくて、こっちが心配になってくる。
 何の話をしているのか、っていうと――……何だろうな。合間の話? 例の事件のことじゃないとしたら、術のこと――ではないだろうなぁ、あたしにしてみれば今更だし。確かにポルターガイストとかはちょっとびっくりしたけど、だから何って話だし。
 そうすると……あれのこと、かな?
「お兄さんたちのこと、ですか?」
「! え――……えぇ」
 驚いたような表情。まさかさっきので通じるとは思っていなかったらしい。まぁ、こっちも一発で当たるとは思ってなかったしね。向こうが言いづらいなら、こっちが訊いていったほうが速い。
「別に、気にしません。真珠君と血が繋がってないって聞いた時点で色々あったんだろうなって思いましたし、あんまり人のプライバシーに深入りする趣味ないですし」
 思った通りのことを言ってみる。――なるべく、笑顔で。
 確かに、驚いたには驚いた。麻耶さんはお兄さんについて、ずっと前に死んじゃったとしか言ってなくて、それ以上のことは何も言わなかった。だから、きっと病気とかそういうことだったんだろうと、思ってた。でも聴いた話は何だかとても残酷で、実際に見たわけでなくても、哀しくなる。実の親にも信用してもらえないって、どういう感覚なんだろう……想像することさえ、恐ろしく思う。
 でも彼は、いつものように笑い返してはくれなくて――むしろ少し落ち込んだような顔になってしまった。あ、あたし変なこと言っちゃった?
「……もし本当に私が三人を殺していたとしても、そう言ってくれますか?」
「殺したんですか?」
 そんな言い方をするのなら、そうなのかも知れないと、思った。思ってしまう自分のことがまた、判らなくなった。目の前に居るこの人はそんなことをするわけがないと、ほんの数ヶ月の付き合いでも判っていた、はずなんだけれど。
 ――やっぱりさっきの話が、色々と衝撃的だったのかも、知れない。自分ではどれだけの影響を受けたのかよく判っていなくても、心の奥底では何らかの変化が起こってる、とか。
 あたしがそんなことを答えてしまったためか、直実さんは少し目を見開いて、その後少し寂しそうに、笑う。
「いえ……そのつもりは、ないんですが」
「じゃあ、事故なんですよね?」
「……事故だと、思っていました。最近まで、ずっと。でも先日、そうじゃないようなことを言われて」
 どういう意味だろう。 言われたって、誰に? 術の失敗っていう事故じゃないなら、どういうこと? 誰かが何かを企んでた、とか。
 でもあたしには、首を傾げることしか出来ない。
 ――それが彼にとって、拒否に見えてしまったんだろうと、思う。はっとしたような顔で、慌てたように取り繕い始める。
「ごめん、いきなりこんな(はなし)して。迷惑なだけですね」
 そして、苦笑。

 ――……じゃあどうして、そんなに泣きそうな顔をしているの?

「――ッ、話したいことがあるなら話してください! い、言いたくないのは判ります。でも、それで直実さんが余計辛くなるんだったら、言ってくれちゃった方がいいと思います。あたしで良かったら、何か手伝えるかも知れないですしッ」
 感極まって、まくし立ててしまう。――吐いてしまえば楽になると、冗談でもそう言ったのは、誰ですか?
 でも彼は身体ごと向こうを向いて、あたしから完全に顔を背けてしまった。身体を震わせているけれど、怒っているのか泣いているのか、ここからでは判らない。
「……どうしてそう簡単に私のことを信頼できるんですか……? 自分でも判らなくなるぐらいなのに、どうして? 私が警察の手伝いをしてるからって、私自身が善人だなんて保証は何処にもないのに。父が私を悪魔と呼ぶ理由だってちゃんとあるんです! また無意識に誰かを傷付けることだって、あるかも知れないのに。貴女の、ことだって」
 そう言いながら、途中から頭を抱えて、カウンターの奥に沈みこんでしまう。……そんな姿は初めて見る。確かに元々強そうな人ではないけれど、ここまでの状態になられると、対応に困る。とりあえず、このまま放置して帰るわけには、行かない。
「あ……、あの」
「帰って、ください……大丈夫、だから。心配されても、苦しいだけ、です」
 そんなことを言われて、あんな姿を見せられて、はいそうですかって帰るわけにも――……。
 この人は今――自分のことが、信じられないんだろう、な。
 どうしてかは、はっきりとはよく判らないけれど。でも恐らく、あれが事故でないと言われたから、事故だという自分の信念さえ疑わしくなって――何を信じていいのか判らなくなってるのかも、知れない。だから、あたしがいくら信用すると言っても、その信用を裏切ってしまうかも知れないということが、彼にとってはきっと恐怖で。
 じゃあ、今この場で何を言っても、仕方ないってことなのかな――。
「……じゃあ、帰ります。でも、……いつか話してくれたら、あたしも嬉しいです。それじゃ、また土曜日に」
 返事は、聞こえなかった。
 もしかしたら、聞きたくなかったのかも、知れない。

   2

 こんなになるつもりはなかったのに。どうしてこう、思い通りにならないのだろう――。他人は当たり前としても、自分自身のことも。結局まだ、あの頃から回復しきっていないというだけのことなのだろうか。
 そのままどれくらい時間が経ったのだろう。とても長い時間だったような気もするし、そう感じていたのは私だけで、もしかしたらほんの数分だったのかも、知れない。まどろみの中で夢を見ているときと、同じ感覚。
「――……。堕ちてる? 頭が隠せてないよ」
 楓さんではない、誰かの落ち着いた声がした。ドアを開ける音が聞こえなかったような気がするが、それももしかしたら気のせいかも知れない。
「楓君が泣きそうな顔で飛び出してったから、喧嘩でもしたかと思ったら君もそのザマか。何があったの? ただの喧嘩じゃあなさそうだね」
 ああ、麻耶か。
 ――麻耶?
「……元はと言えば貴女のせいです。私を苦しめて楽しいですか?」
「苦しめる? 失敬だね、そんなことをした覚えはないよ」
「じゃ、先日の伝言は何ですか?」
 麻耶からの返答がしばし、止まる。だからと言って、まだ、立ち上がる気力は無い。
 事故ではないと示唆しておいて、のうのうと姿を見せられるその神経が判らない。私が悩むのを見るのを楽しんでいるのか。あのインコは麻耶本人が居なくても自由に飛び回って色々と観察しているようだし、私のストーカーだというのも、あながち冗談ではないのだろう。
 ――彼女のため息が聞こえた。
「君は予想以上に重症だったみたいだね。まだ駄目だった、か」
 言われた意味が判らない。
「……何ですか?」
「そんなに他人が信じられない?」
 質問に答えられていないような気がするが、もう一度訊いたところで答えてくれる相手ではないだろう。質問に質問で返されたから、きっとそれは質問の形式を取った回答なのだと思うことにして、単純に答える。
「信じられないのは、自分の方ですよ」
「違うね。他人が信じられないから自分も信じられなくなったんだろ」
 一瞬の隙もなく切り返される。私の考えることなどお見通しだと言うような、私を嘲るような口調。ここから顔は見えなくても、声だけで充分に判る。
「それは――」
 違うと、思いたかった。言いたかった。――でも、言えなかった。
 私が詰まっている間に、麻耶が話を続ける。
「言っただろうが、アンタの意地を貫けって。自分はやってないと思ってるんなら、事故じゃないって聞いて、どうしてそこの認識を曲げるかなァ? それとも、自分でも気付いてないところで変なことしてたって経験でもあるの? 無いんでしょ? 大体こっちは何度も君の味方だって言ってるのに、君が犯人だって意味でそんなこと言うと思うワケ? それこそ心外だ」
 そう早口に言った麻耶は、つかつかと足音を立てて私の方へと歩み寄ってくる。それからカウンターに身を乗り出して、床に沈んでいる私の顔を覗き込んだ。私を憐れむような、目だった。思わず、目を逸らした。
「……知ったような口を利かないで下さい」
 私はいつでも独りだった。
 長く同じ家で暮らした身内にさえ信じてもらえないのに、他人がいくら信じてくれると言っても、それはいつか崩れるかも知れない、脆い信頼。それに期待して裏切られるぐらいなら、最初から無い方がマシだ。
「知ってるさ。君のストーカーなんだから」
 私が何を思っているかなど関係ないと言うかのように、麻耶は冗談のような口調でそんなことを言う。
「知ってるって、何を」
「何でも、だよ。みっちゃんの偵察能力を馬鹿にしないで欲しいね」
 みっちゃん。あの、何だかよく判らない、やたらとよく喋るインコ。
 何処となく引っ掛かるところはあるが――。
「……あのインコは何者ですか?」
「おお、ようやく目を付けたか。いつ気付くかと待ってたんだよ?」
「はい?」
 気付くというのは、どういう意味だろうか。あれが普通の鳥ではないということなら、少し様子を見ていれば誰でもすぐに判りそうなことだが。――それならあるいは、全く別のことに、か?
「ま、居ない時に言うと彼に悪いから今日は勘弁して。でも、彼も君のことを心配してるんだよ、私以上に」
「だったらもっと言いたいことをはっきり言えばいいでしょう!?」
 冷静に会話を続けることさえままならない。……今日はもう駄目だ。早く寝て、落ち着かなければ。
「……悪かったよ。まさか君がまだそんなに不安定だとは思わなくてさ。今度からは気を付ける。じゃあね、また来るよ」
「えぇ、そうしてください」
 そう、投げやりに答えて。
 ドアが閉まる音が聞こえて、その後は、何だか記憶がはっきりしない。