こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第五話 さまよえる奇術師達
第七章「人と悪魔の奇術大会」
1
月曜日に、なった。特に誰も報告に来ないってことは相変わらずってことなんだろうかと思いつつ、俺はとても平和な一日を過ごした。宮路と佐久間も特に突っ掛かってくることもなく、普通にしていたように思う。
……進展がないというのも、落ち着かない。まだ事態は終わってないってことだからだ。
「純、お疲れか?」
荷物を鞄に突っ込んでいたところに、保井が声を掛けてきた。……そういえば、元はと言えばこいつの疑いを晴らすために捜査を始めたんだったな。もうその疑いは晴れたようなものだろうから、随分明るい表情をしている。
「……まぁな」
「お前も災難だったな。また事件なんか起こらなきゃサボりもばれなかったのによ」
「うるせえ」
木曜日の放課後。紅茶を飲んで倒れるなんて、ベタすぎるがとんでもない事件が起こったせいですっかり自分の立場を忘れていたが、本来俺は自分の部活をサボって事件の捜査をこっそりやっていた身だった。料理部の顧問に見られていたし、警察に話も聴かれたわけで、体調不良なはずの俺が何故か料理部に紛れ込んでいた事実がうちの顧問のところにも伝わってしまっていた。……不覚。今朝の朝練でこってり絞られたのはそのせいだ。放課後もきっと特別メニューが用意されてんだろう。気が乗らない。
「ははっ。そんで、捜査ってのは進んでんのか?」
「さぁ、大して進んでねえんじゃねえの。どっかの誰かも『まだ確定できない』の一点張りだしよ」
「どっかの誰か?」
「……料理部長」
そいつを疑っていたはずなのに、いつの間にかそいつの話に乗せられていたと言うのも嫌な話だが、奴は自分の疑いを晴らそうとはしていない。それを認めれば自分も容疑者に含まれてしまうようなことを、別段何も気にすることなく口にする。
「お、何だよ、拳で語り合って友情を築いたのか?」
「築いてねえよ馬鹿」
こいつも宮路と同じようなことを言う――そして俺も、あいつと同じような否定の言葉を返す。
水曜朝の騒動に関してはもちろん、全校に知れ渡った。それに加えて、これまで噂話の類のなかったあいつに関するそれはそれはバリエーション豊かな噂話が至るところで飛び交っている。
――あの眼鏡には奴の凶暴な本性を抑える何かの効力があって、あれを掛けている間は大人しいんだとか。
――医学の勉強に夢中なのは自分が傷つけてしまった相手の怪我の治療のためだとか。
小学校じゃないんだから、そんなファンタジーな噂が平気で流れてしまうというのも如何なものかとは思うが、言い始めた奴も半分は冗談ってことだろう。
問題はそのファンタジーがあながち冗談じゃないってことなんだがな。まぁ、あの眼鏡はただの眼鏡だが。大体眼鏡掛けてる時から俺のこと挑発しまくってたじゃねえか。
さて、いつまでも教室でのんびりしてるわけにも行かない。俺は荷物をぶち込んだ鞄を肩に背負って立ち上がる。それに従って保井も立って、教室の後ろ側のドアから廊下に出る。出てからまた、保井の話が再開された。
「でも意外だったなぁ、純が人前で人殴るのもそうだし、殴り返されるのも」
そう言われれば、そうだ。高校に入って以来、暴力騒ぎで説教を受けたのは、正直なところ初めてだった。まぁ、担任二人は幼馴染だからこそ遠慮が無くなることもあるだろうってことで許してくれたが。
「まぁ、あいつは特別……って、うわえあぁ!」
「おお、噂をすれば!」
何でこうタイミングが悪いんだろう、今度は奴が教室から出てきたところに出くわした。……いや、終業直後なんだから別に会ったって気味の悪いことなんか何もないんだが、もういい加減にして欲しい。
「……噂?」
大袈裟に驚いてしまった俺とは対照的に至って冷静な顔をした直実は、保井の発した諺の一部に反応し、眼鏡に手を掛け、ゆっくりとそれを引いて――
「うおおッ! あの噂マジなのか!?」
無駄にノリの良い保井はそんなことを言いながら小さくなって俺の背後に隠れようとする。全く隠れてないと思う。
自身の判りにくいボケに珍しくノってもらえた直実は、外した眼鏡を畳んでシャツの胸ポケットに押し込むと、わざとらしくて全く怖くない凶悪っ面を作って、一言。
「――うらめしやァ」
「お前は亡霊か」
せっかくだから脳天をはたいて突っ込んでおいてやる。……すると何故か彼は、笑う。馬鹿野郎め。自分が今どういう状況に居るか判ってんのか。この前はあんな怯えた顔して死ぬかも知れないとか言ってたくせに、何でそんな呑気に笑ってるんだよ――。
まぁ、そんなことでムカついても仕方ねえ、か。ため息が零れた。
「何だよ、ため息なんか吐いて」
直実の苦笑。眼鏡を掛け直す。背後に居た保井も俺の顔を覗き込んで、小さな目を丸くしている。
「別に――、」
言い訳をしようとしていたところで、視界にある人物が入って思わず視線がそっちに行き、言葉も止まる。
――一年生。美園佳織。階段を下りてきて、本来ならもう一階下るところを、二年フロアの廊下へ入ってきて、ゆっくりとこちらへと進んでくる。その表情は、ずっと縮こまっていた先日と比べ、妙に、鋭い。
俺の異変に、こっちを向いていた直実も振り返って気付いたようだ。その場に立ち止まっていた三人全員に視線を向けられた美園さんは、少しだけ表情を緩めたようにも見えたが、すぐに戻って口を開いた。
「部長。お話が、あります」
台詞自体は別段おかしくない台詞。部長に用があったらそうなるだろうって台詞。
でも何かが、引っ掛かった。
「二人だけで?」
「いえ……茨木先輩もいらっしゃると、心強いです」
え? 何で俺? 俺何も料理部関係ないよな?
少なくともこの前の事件以外は。……ってことはつまりこの前の事件絡み、なのか?
でも、俺が居ると心強いってのはどういう意味なんだろうか。よく判らないが――……事情を知ってる第三者が一人居た方が良い、ってことなのかね。だが、そうするとまた部活サボることになるな……今度は一年生のたっての願いってことでひとつ、伝言よろしく頼みます保井さん、というテレパシーを隣の奴に送る。
どうやら届いてくれたらしい。保井は半分呆れたような顔で、笑った。
「仕方ねえなぁ。終わったら来いよ?」
「あー、すまん、そうする」
保井は俺たちをその場に残し、ひらひらと手を振って小走りに去っていった。そういえば随分と長話をしていたような気もする。
「――よし。僕らも移動しようか」
さっきまで子供みたいに笑っていた癖に、いつの間にか神妙な顔になった直実がそう言って、美園さんが頷いた。全員静かに歩いてるのに、なんだか変な殺気みたいなものを感じるのは、俺の気のせいか――?
2
移動した先は、調理室。家庭科棟は特別棟の中でもホームルーム棟から一番離れたところにあって、あまり人に聞かれたくない話をするには持って来いの立地だ。教員が何かの用事で入ってこない限りは、だが。で、まぁついでに茶も飲めるって寸断だが、つい数日前に事件が起きたばかりの場所というのがなんだか少し嫌な気分だ。……こいつらが料理部だから仕方ないんだろうが。
普段の部活では二年の部員三人が占拠している、四人掛けのテーブルを使うことにする。直実と俺は調理台が見渡せる側――先日は宮路と佐久間が居た方だ――に並んで座り、普段部長が座っている場所に美園さんが座った。美園さんとサネが向かい合って、俺はその右隣だ。
まず、沈黙。……この前と同じ。嫌な気分だ。話があるんなら早く始めろ、俺は今日も部活サボってんだぞ。
「話、って言うのは?」
またしてもこの前と同じように、口火を切ったのは直実だった。尋ねられた美園さんは彼をキッと睨み返し、やけに堂々とした口調で、答えた。
「一連の事件。――犯人は、貴方なんじゃないですか?」
…………おっ?
まさか、料理部員からそんなことを言い出す奴が現れるとは。
探偵役の座を奪われた部長氏はポーカーフェイスを崩さず、瞬きひとつだけして、答えた。
「根拠は、何ですか? 相応の根拠が無ければ、私は認めませんよ」
当たり前の質問。それが無ければ、ただの子供の戯言になってしまう。
そして――敬語モード、だ。こいつの頭の中のモード切替が詳細にどうなってるのかは知らないが、口調と声色とキャラがその場面によってまるで違う。本人は昔から何も変えているつもりはないと言い張っているが、とてもそうは見えない。大体今一人称すら変わってたじゃねえか。誰だお前。
だが美園さんはその変化に特別驚くようなことはなく、目を閉じて一呼吸すると、「はい」と前置きしてから話に入った。
「昨日、さくらちゃんが目を覚ましたそうです。智子ちゃんから聞きました。やっぱり、自殺なんかじゃないって言ってたそうです」
な――……何、だって。目を覚ましたのか。しかも自殺じゃないって言ったのか。
彼女が自殺じゃないのなら、きっと他殺。事故ってことは無いだろう。なら、砂糖に毒を仕込んだのは――……。……駄目だ。それだけじゃ決まらない。
「それは良かったです。それで?」
「この前、わたしたちは警察の人の話を盗み聞きして、砂糖壷に毒が入っていたと思いましたよね」
「えぇ、そうでした」
主に俺の提案だが。凹んでいた宮路もその時にはちょっと復活して手伝ってくれた。直実は呆れて笑っていたが、笑っていたからには決してその行動に対して否定的な態度ではないってことだと思っている。
「でも、違ったんです。わたし、先輩方が帰った後も少し残って聞いてたんですけど、わたしのカップからは毒が出なかったそうなんです」
美園さんは砂糖を入れた。それが嘘でないなら、砂糖壷の毒は彼女の紅茶にも混入したはず、だった。嘘を吐く必要性なんかないだろうから、きっと砂糖は入れたんだろう。ということは、砂糖ではない何かに毒が仕込まれていて、若松さんだけを直接狙ったということか? それが出来るのは、よっぽど変なトリックでも考えない限りは、若松さん本人と――紅茶を入れたこいつ、だ。
さぁ、――どうする。
俺が隣の変人の顔をこっそり窺うと、彼は変な味の食べ物を口に入れてしまったかのような奇妙な顔をしていて――、それから、予想外の言葉を、口にした。
「――まさか」
驚いて、思わず身体ごと奴の方を向いた。椅子がやけに大きな音を立てたのが、俺が焦ってるのを表しているように思えて少し恥ずかしくなった。
こっちこそまさかだ。まさか、本当にお前が入れたのか? 砂糖壷に毒を入れた本人だからこそ、砂糖の入った紅茶から毒が検出されないわけがないという判断が出来て、そういう台詞になる。そしてそういう台詞が出てくる時は大抵、ほら、不敵に笑い始めた彼女の罠。
「盗み聞きしてただけなのに、どうしてそんな言葉が言えるんですか? 砂糖壷に毒が仕込まれていたという確固たる証拠、警察の人から聞きましたか?」
「ん――……」
強気で攻め立てられた彼は、苦虫を噛み潰したような顔をして頭を掻き始める。しくじった、と目が言っている。
――こいつも焦っているのか。こいつがこんなに焦っているのを見るのは、一体何年振りだろう。そして、彼が焦っているという事実が、直視しなければいけない現実を俺に突きつける。
だがどうしてか、それでは何かが、すっきりしない。幼馴染としての何かとかそういうんじゃない。何かが足りない。何か、何だろう。判らない。引っ掛かる。気持ち悪い、落ち着かない。
俺と同じようにイライラしているらしい隣の彼は髪をぐしゃぐしゃと掻き回した後、
「……少し、お茶を飲んでも良いですか」
と呟くように言った。
あれ、頭の中で何か変な音が鳴ったような気がする。何だろう。俺がそんなことに気を取られている間に、美園さんはそれに許可を下ろした。奴が立ち上がろうとしたが制止されて、代わりに美園さんが「わたしが淹れます」と調理室に常備されている紅茶のセットを持ってきて、てきぱきと作業を進めていく。
数分後、隣の彼の目の前には、紅茶の入ったカップとスティックシュガー、およびティースプーンが載ったソーサーが用意された。
「――どうぞ」
「毒は入っていませんか?」
「今貴方に死なれたら困ります。入れるわけがないでしょう?」
「それもそうですね」
そう言った奴は即座に砂糖の袋を破って、中身を紅茶に放り込んだ。そしてスプーンを手に取ったとき、右目が僅かに色付いたのを、俺は見逃さなかった。――今、何を、しやがった?
判らない、そんなこと判るわけがない。こいつはいつも何か勝手にワケの判らないことをして、後から「こういうことだよ」とすまし顔で言うだけだ。だから今こいつが自分で紅茶を毒に変えていたとしても、俺には全く判らない。だからと言って、俺のそんな勝手な妄想でこいつを止めるわけにも、いかない。
スプーンで紅茶をかき混ぜる。それを引き上げて滴を落とすと、すぐにソーサーの上に置いた。が、すぐには飲み始めない。しばらく俯いてそのカップとソーサーを見つめていたかと思うと――……また、右目が、碧くなったように見えた。しかし、俺が反応したのに気付いたのかすぐに目を閉じてしまった。ええい、何をしてやがる!
「どうしたんですか?」
美園さんが不思議そうに尋ねる。しばらく目を閉じていた直実は、彼女の質問から一呼吸おいてようやく目を開けてにっこりと微笑み、
「いえ、何でもありません。頂きます」
と言って、湯気の立つ紅茶のカップを手に取った。
いつまでも見てるのも癪だと思って、俺はいい加減前に向き直る。奴が紅茶のカップを置いたのが見えた。
「お話、続けてもいいですか?」
美園さんが尋ねた。
直実が答える。
答え、ようとした。
「続けまし、――……ッ、」
不思議とその時俺は冷静で、奴がネクタイごと胸の辺りを押さえながら床に転がっていく様子を、映画の中の出来事のように、見ていた。
――どうして、だろう。そんなことがあるわけないと、心の奥で高を括っていたからか? 身体をまたそっちに向けただけで、立ち上がりもしないで、見守っていただけ。
俺は何と――冷たい血を持った人間なんだろうか。
彼が倒れて数秒経ってから、俺はようやく美園さんの方に顔を向ける。椅子を倒して立ち上がっていた彼女は口元に手を当てて、何か嗚咽のような声を漏らしている。当然の反応、だろう。
「……あんたは……入れてないって、言ったよな?」
「い……ッ、入れてません入れてませんッ! わたしじゃありませんッ」
半泣きの大声で叫ばれた。確認のために訊いただけなのに、怖がられていたように感じる。きっと、そうだと思う。少し、哀しくなった。
そういえば、こいつは知っていた。俺は、ちゃんと言葉で意思疎通を図りたい。
「ってことは、やっぱりこいつが自分で入れたのか」
さっき、あの時、止めていれば良かったのか。たとえ妄想に過ぎなくても。この前こいつ言ってたじゃないか、自分が死ぬところを見たって。何だよ、あれから何の策も取ってなかったってのかよ。馬鹿だな、本当に馬鹿だ。
「そ、……それしか、ないじゃないですか……。わたしが、わたしがあんな強いこと言っちゃったからッ、だから……ッ」
悲観して、か? 美園さんはついに泣き始めた。まぁ、確かに今の一連の流れはそんな風だった。俺は嫌な予感がしていたし、止めようかどうか迷いもした。だが、止めなかった。止めなかった俺は――……もっと、馬鹿だ。
「あんまりです……どうして、逃げるなんて、酷いです……」
美園さんは力を失くして床に座り込み、小さな声でそんなことを呟いている。
……逃げ、か。自殺は確かに逃げかも知れないな。自分のしたことの責任も取らないで、勝手に自分の存在をなくしてしまう。『我思う、故に我有りコギト・エルゴ・スム』なんだから、思わない我は、もはやそこには存在しない。何処か何もない世界へ、逃げおおせてしまう。
それで――……俺は、どうしたらいい? とりあえずここは動ける人間として、救急車と警察を呼んでおくべきか? まぁ、普通に考えてそうなんだろう。
――俺がそう心の中で決めて、その部屋を出て行こうとしたときだった。
「はい、カーット!」
…………あ?
聞き覚えのある、というか、猛烈に聞き慣れた声が、やけに明るくはっきりとした声が――調理室内に、響いた。
今、カットとか言ったか? それって、つまり、その、要するに。
俺は恐る恐る振り返る。足元の方から、小さな笑い声が聞こえてくる。おかしくて堪らないといった様子で、床に寝転がったままのあいつが、腹を抱えて、苦しそうに――……笑って、いる。
「……おい、馬鹿サネ。説明しろ」
「ははっ、まさか本当に騙せるだなんて。緊張したなぁ」
奴は一人でそう言いながら、服と髪についた埃を払い落としながら立ち上がる。人の話を聞いてもいない。……馬鹿をつけたから返事をする気がないのかも知れない。
「てめえは常に芝居くさいから逆に判んねえんだよ」
「……なるほどね」
今度は苦々しい顔で応答してくれたが、何がどう「なるほど」なのかはさっぱり判らない。
そして何事も無かったかのように奴が改めて着席するのを、その正面で呆然として見つめる二つ結びの少女は、何処か異様とも言える驚きの表情をしていた。まぁ、あれだけ取り乱したのに実は演技でしたなんて言われても、反応に困るのが当然か。
「さてと。話に戻りましょうか、美園さん。――お芝居はもう終わりです」
再びモードを切り替えた直実に対して、美園さんもやっと落ち着いたのか、ひとつため息を吐いてから改めて彼の方を見る。そして口を開いた。
「何処から、演技だったんですか?」
陰のある顔をした美園さんが、尋ねる。
――彼の顔つきが変わった。
直実はニヤリと不敵に笑って、尋ね返した。
「そっくりそのまま同じ言葉を返します。貴女の言動は、何処から演技ですか?」
絶句。彼女の表情が一変した。
しかし彼女から返答がないので、直実は勝手に続ける。
「僕からも言わせてもらいますね。――犯人は貴女でしょう?」
何という――あっさりとした形勢逆転。彼女は目を見開いて固まっている。今度ばかりは、直実も彼女の返答を待っているようだった。返答を待たれていると気付いたらしい美園さんは、少し目を伏せて、やはり質問で返した。
「……どうして、そう思うんですか?」
「カップやスプーンに毒を仕込めるのは僕だけなので、僕が犯人でないなら、毒はやはり砂糖壷に入っていたんだと思います。でも砂糖に毒を仕込めば、使用者全員を殺害してしまう可能性がある。……あの時、砂糖を使う可能性があったのは若松さんと貴女の二人ですね」
「それが、何か?」
既に判りきったことだ。改めて言われなくても判っている。
「もし、二人同時に紅茶を飲んだとしたら、どうなったと思いますか?」
「は?」
「二人同時に倒れるに決まってんだろうが」
思わず俺が突っ込んだ。突っ込めと言わんばかりの台詞だった。というか、今の訊き方はその答えを求めていた。
俺の答えを聞いたサネは少し笑って、大きく頷いた。
「そう、二人倒れる。誰かがカップを持ったのを見ると、ついつい自分も持ってしまったりしますよね。だから、二人同時に飲んでしまう可能性だって捨て切れません。――だとすると」
直実はそこで台詞を止める。誰かがその先に続けるべき言葉を発するのを待っているようだったが、生憎と俺には何を求められているのかが判らなかった。前提条件が当たり前すぎる話だからなぁ――。
しかし、美園さんは違った。
「『遺書』が成立しません」
「WUNDERBARヴンダーバー!」
嬉しそうな明るい声で、奴にしては珍しく異国の言葉を口にする。幼い頃のおぼろげな記憶によると、確か、英語で言うところのワンダフルだ。四分の一はドイツ人の癖にドイツ語はまるで駄目で、数少ないレパートリーの内のひとつがこれだった。ちなみに残りは全部挨拶の類。
美園さんは何を言われたのか判っていなさそうだったが特にフォローせず、彼は自分の話を続けた。
「そう、二人倒れると不自然なんです。共犯なら自分たちのことを複数形で書くと思いますし、もう一人を巻き込んでしまったというのもちょっと苦しいでしょう。砂糖壷を占拠するなりして、相手が飲む前に自分が飲むようにすればいいことですから」
「あの、実際に倒れたのは一人ですよ?」
「えぇ、そして自殺ではないと言った。――だから、貴女が犯人です」
その飛躍に、俺も美園さんもついて行けてない。犯人だと言われている本人も、何だか難しそうな表情をして固まってしまった。説明が理解されなかったことに気付いた直実は苦笑して、改めてその飛躍の中身を説明し始める。
「二人同時に紅茶を飲む可能性があるのに、あんな声明文を書くわけに行かないでしょう? そんなことでひやひやするぐらいなら、二人倒れても不自然ではない内容にした方がよっぽど賢明だと思います。……生贄を増やすことにした、とか。僕ならそうする。あるいは――どうしても若松さんに罪を着せたかったのなら、何も他人を巻き込む可能性のある手段を取る必要はない。……でも犯人にとってこれで良かったなら、それは犯人が二人のうちのもう一方だから、ではないかと」
長い台詞はそこで終わった。追い詰められている美園さんは、何かを考えている。
「話は判りました。でも、条件がひとつ抜けています。貴方が犯人ではないという証拠はあるんですか?」
「そうですね。証拠はありません。……でも、貴女のカップから毒が検出されなかったというのは、僕の失言を引き出すための嘘なんでしょう? もしそれが本当なら僕が犯人なんでしょうけど……でも、本当だとしたら、僕は『まさか』とは言わない。検出されないのは当然のことですよね」
ん? 確かにそうだな。
今頃になって気付くが、こいつの話には仮定が多い。一度そうだと仮定して考えてみて、おかしかったらその可能性を捨てる、って方針のようだ。
「う、嘘だったら何なんですか?」
「僕が犯人で、若松さんに罪を着せたかったなら、最初から彼女のカップだけに毒を盛ってあの『遺書』を用意します。それでもし彼女が息を吹き返さなければ、充分自殺に見えますよね? 砂糖に仕込むなんて不自然でリスク満載な手段を、紅茶を淹れた、、、、、、僕が取る意味がない」
――ああ本当だ、全く意味がない。増してこいつは救命活動までしている。前者を取ったほうが圧倒的に有利だ。
「……まぁ、怪しまれる可能性はあるでしょうけど」
「でも、物証はないんでしょう?」
美園さんも案外引き下がらない。サネの目付きが少し鋭くなる。
「……。判りました。本当はあまりやりたくなかったんですが――……紅茶これ、飲んでみてくれませんか?」
これ、と言いながら、自分の目の前にずっと鎮座していた紅茶のカップを両手で持ち上げる。
彼が今持っている紅茶。ついさっき、美園さんが淹れて、サネが少しだけ飲んで、倒れる演技をした――それ。俺はサネが実際に飲んだかどうかを確認してはいないが、二度も例の超能力を使った様子だったから、きっと何らかの細工を施しているはずだ。元々毒が入っていたのなら解毒だろうし、元々入っていなかったのなら――毒を仕込んだのかも、知れないし。こいつに対して、『毒を入れたような素振りはなかった』とか、そんな話は通用しない。
しかし、この話の流れで紅茶を飲ませて殺害するというのは変な話だ。もし彼女が素直にそれを飲んで死んだら、毒が入ってることを知らなかったはずで、つまり毒を入れたのはこいつってことになるから、彼女に罪を着せることは難しい。
美園さんの様子を窺うと、やけに強張った顔をして、冷や汗をかいて固まっていた。
「……えっ……」
「人が口をつけたものを飲めというのも酷ですが、こういう場ですから、そういうことを言っていられる場合ではないと思います。茶化したりはしませんよ。……拒否、しますか?」
静かに直実が尋ねる。美園さんは少しムッとした顔をし、声を荒げた。
「飲めません! 部長が毒を入れなかったって保証も、さっき部長がそれをちゃんと飲んだって保証もありません! そうやってわたしを陥れる振りをして、わたしを殺して犯人に仕立て上げる気なんでしょう!?」
彼女がそれで死んだら犯人に仕立て上げられるのか、どうなのか。もし彼女が犯人なら、自ら毒を入れてサネを殺そうとしたのに失敗して、最終的に喜んで飲んだように見えて大変奇妙だ。どっちかと言うとサネが毒を入れたように思えると、思うが。まぁ、ツッコむのは悪いからやめておいた。直実も、ツッコまなかった。
「……なるほど。では、こうしましょうか。純、飲んでくれる?」
――何?
今まで存在しないかのように扱ってきて、唐突に振る役目がそれか? もしそれに本当に毒が入ってて俺が死んだらどうしてくれるんだこの馬鹿野郎。末代まで呪ってやるからな。
でも、カップを手元に持ってきて、改めて見てみるとさっきより確かに減っているようにも、見える。じゃあやっぱり、飲んだのか。飲んだってことは、今この紅茶は、ただの紅茶なのか。俺が飲んでも、安全?
「……飲むぞ?」
「ごめん、ちょっと待って。――飲ませていいんですか? 止めるなら、今のうちだと思いますよ?」
直実が美園さんを挑発する。……さっき彼女は、サネは彼女を殺して犯人に仕立て上げる気だと言った。だからサネはターゲットを俺に切り替えた。ここで俺が死んでも、若松さんの事件の犯人には到底なり得ないし、サネが俺を殺すメリットは何も無い。せいぜい、嫌いな俺が目の前から居なくなるってことぐらいだろう。――だから、さっきと同じ理論は通用しない。もし俺を止めるなら、彼女はこれが毒入り紅茶だと知っていることになる。
美園さんの方を見てみる。すると彼女と目が合って、彼女は驚いたようにまた言葉にならない声を上げた。それから、感極まって泣きそうな顔をして、――叫んだ。
「やめてください、飲んじゃ駄目です! ……もう、やめてください……!」
そして、両手で顔を覆って、泣き始めた。
「……やっと折れてくれた」
直実はため息を吐きながら、そう呟いた。俺はどうしたらいいのか判らないので、とりあえず紅茶は置いて、彼女の様子を眺めていた。
彼女はしばらく泣いた後、手で涙を拭って、一息ついた。さて、推理漫画ならここから彼女の長話が始まるところだ。そう思って、俺が話を聴く態勢を整えようとした、時だった。
突然彼女が立ち上がった。
椅子が派手に倒れる音がして、彼女が向こうの方へと駆け出していくのが見えた。
「! まずい」
隣の男もそう呟いて立ち上がる。
向こうにあるのは、調理台だ。
駆け出した彼女は一番近くの台の、シンクの下の扉を開く。
――そこにあるのは、何だろう?
考えるまでもない。
包丁だ。
俺も今更ながら立ち上がる。
直実は、一体何処からどういう風にそんな力を出してるのか、軽々とテーブルを跳び越えていった。
彼が彼女のすぐ近くまで辿り着いたとき、彼女はお約束のように包丁を構えて、たたずむ彼を睨み付けていた。俺は彼女を刺激しないように、ゆっくりと彼らの方へと近付いていく。
「貴女は、逃げる気なんですか?」
「……えぇ。捕まったら、何の意味も、ないんです」
「事情を話してくれる気もないんですね」
「話したら今までのことが全部無駄になる! どうして犯人は、必死の思いで人まで殺したのに、事情を全部話さなきゃいけないんですか? せっかく頑張って殺したんだから、無駄にしたくはありませんッ」
何だか――凄いことを、言っている。
きっと彼女は、何か隠したいことがあって、そのために人を殺して、それを隠し通そうとした。だから、いくら自分が犯人だとばれても、動機を警察でもない他人に話すことは別次元の話。当たり前なのかも、知れない。
「――……気持ちは、判るかも知れません。でも、貴女に死なれるわけには、行かない」
「嫌です。せっかくここまで来たんです。――邪魔をするなら、殺しますよ?」
さっきだって紅茶に毒を入れてたんだろ。ということは、最初から殺す気満々だったに違いない。
だから、彼が何も言わないうちに、彼女はもう、動き出していた。
「サネ!」
呼び掛けるが、間に合わない。
もう十年以上付き合ってきた喧嘩相手だ。最終的に勝てたことはほとんどなくても、相手が何を苦手としているかぐらい、俺だって判っている。
こいつは、――反射神経が少しだけ、鈍い。
白いシャツに赤い染みが広がっていく。
光を失った瞳の娘は無表情のまま、彼の腹に突き立てた凶器を、引き抜いた。
……鮮血の赤が、いやに目に焼きついた。
今までだって何度も見てきたはずなのに、あぁこいつの血もちゃんと赤いんだな――と、今更ながらにそんな呑気なことを考えている俺が居た。
これは、もう、演技では有り得ないんだぞ――!
彼は一歩ずつよろよろと後ずさって、背中がテーブルにぶつかると、真っ直ぐに崩れ落ちた。
「直実」
「……美園、さん」
駆け寄った俺を無視して喋る気力はあるらしい。だが出血が止まらないから、あまり長居は出来ない。早く救急車を呼びに行かないと――。
呼び掛けられた彼女は、何処かおぞましいような笑顔を見せて、気持ち悪いほど落ち着いた声で、言った。
「もう、邪魔はさせません。――さようなら、先輩」
今度は包丁の切っ先を自分の胸に向けて、思いっきり――、いや、死なせて堪るか!
そうやって俺が、彼女に飛びかかろうとした瞬間。
――まるで獣の咆哮のような誰かの叫び声が、始まりの合図だった。
最初は、窓ガラス。
ガシャンバリンと盛大な音を立てて、端から順番に、ひとりでに割れていく、、、、、、、、、、。
次に、部屋を明るく照らしていた蛍光灯の明かりが、不定期に点滅するようになる。
――そして、食器棚。
全ての扉が、大きな音を立てて一斉に開いて、中の食器類が宙を飛び交い始める。
棚から地面に投げ出された皿やコップが割れる音が、不協和音の大合奏を始めた。
俺のすぐ上を大きなコップが飛んでいって、隣の調理台にぶつかって砕け散った。
「な、何ですか、これ!?」
死のうとしていたはずの美園さんが、血のついた包丁を持ったまま、怯えた顔で叫ぶ。
――駄目だ。
このまま行くと――非常に、まずい。
「こンの馬ッ鹿野郎……!」
俺は叫びながら美園さんから離れて、血を流しながらも凄い形相で何か叫んでいる奴の元へと走る。こんなことが出来るのは、奴しか考えられない。
ああ、もう随分出血してるじゃないか――もう意識も怪しいんだろうに、どうしてこいつはこんなことをしてるんだ。そんなことを考えている間にも、皿が頭上すれすれを飛んでいく。割れる。破片が飛んできて、二の腕を掠った。
ええい、どうしたらこの壊れたラジオは止まるんだよ――!
「が……ッ、ぐ、う」
「もうやめろ、やめてくれ! 判ったから、もう、やめにしてくれッ……!」
俺は彼の首に右腕を巻きつけて締め付けながら、その腕を怪我人とは思えないほどの異様な力で引っ掻かれながら、何故か、泣きそうになっている自分に気付いた。
あぁ、――俺、怖いんだ。
今のこの状況は勿論だが、こいつが、越えてはいけない一線を越えていってしまいそうで。越えてしまったら、もうこの世界には戻ってこないような気がして。もう、俺の知ってるこいつは居なくなってしまう気がして。
……そしたら、俺なんか真っ先に殺されるに違いない。
大丈夫、殺しはしない。だからもう今は休め。お前が今度目を覚ましたら、もうきっと、全部終わってるから。
俺と出血とどっちが原因かは判らないが、奴の意識が途切れたのと同時に、飛び交っていた食器類は全部床に落ち、蛍光灯は元の明るさを取り戻した。……室内は酷い有様になっている。
「……今の、部長がやってたんですか?」
まだ包丁を持ったままの彼女が、テーブルにもたれて眠る彼を見ながら、青い顔をして言った。
「そうだよ」
本当は今でも、全部嘘だったと言って欲しいと思っている。でももう、そうだと認めざるを得ない。
美園さんはそれを聞いて、恐怖のあまりか、笑い始めた。
「はは、あははっ……そういえばこの前も、何か変なこと、してましたね。部長って、何者なんですか?」
「それは俺が訊きたい。……あのさ、俺救急車呼びに行きたいんだけど、それ、捨ててくれねえか」
包丁の一本ごとき捨てたところで、この部屋にはもっと沢山の凶器があるんだが――俺にはそんなことに気を配っている余裕は、無かった。
「――……その人を、助けたいんですか?」
その人?
言葉遣いに違和感を覚える。
「……いや、だって」
「そんな化け物みたいな人、助けるんですか? 生かしておくんですか?」
死に掛けの人間に対して何てことを言うんだと思っても、言い返せない俺が居た。
――化け物。生かしておいてはならない存在。この世界にとって危険な存在。
越えてはいけない壁を越えてしまったら、もう彼は、人間の姿をしても居られないのだろうか。
「救急車、呼びたいなら呼びに行ったらいいと思います。でもその間にわたしが、滅多刺しにしてると思いますけど」
――!!
駄目だ。そうだ、化け物は人間ではないから、もう彼女に遠慮なんかない。自分が死ぬ前に、この世界の為だと言って、こいつを完膚なきまでに殺すことは、もはや容易い。彼女の目は、真剣だった。
じゃあ、俺はどうすりゃいいってんだよ――!
ここでこいつが息絶えるまで、見守ってなきゃいけないのか? それって見殺しにするってのと同義じゃないのか? そんなことしたら、俺がこいつの家族に一生恨まれるじゃねえか……!
俺が完全に思考停止しかけた時――慌てたような人の足音に続いて、教室のドアを開ける音がした。
「ちょっと、何があっ……、!?」
人の声。第三者。
ああ、ガラスの割れる音を聞いていた人が居たのか?
そりゃあそうだ、ここの上には家庭科研究室があるんだ。人が居ないわけじゃない。
――とにかく、助かった……!
入ってきた教員たちの方へ俺が向いている間に、何だか嫌な音が、聞こえたような気がした。
ああ……死ぬ気だったんだから、人に近付かれたら終わりだもんな。
振り返るのは、何となく、嫌だった。
そうして結局、真犯人の死亡という苦々しい結末をもって、その一連の事件は、幕を閉じた。
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