こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第五話 さまよえる奇術師達




第九章「銀の契約」

   1

 目が覚めたら、見覚えのない白い天井が、広がっていた。消毒液の臭い。保健室、でもない。――病院だろうか。
 慌てて飛び起きようとして、痛みに沈む。そうだ、腹を刺されたんだった。視界が少しぼやけているのは、眼鏡が外されているからか。
 どうしてだろう、何故かまだ少し、息苦しい感じがする。
 そもそも今は一体、いつなのだろう。
「お前は悪魔だな」
 純の声がした。いや、存在には気付いていた。ただ、意識していなかっただけのこと。
 訊くべきことを、思い出す。僕が美園さんに刺されて、彼女が死のうとしたからそれを止めようとして、でもそれも彼に阻止されて――。
「……美園さん、は」
「…………。駄目だった」
 彼は、それ以上、答えようとしない。
 僕の中で、何かが、ぷつりと切れる音がした――ような、気がした。
「……どうして、止めた?」
「何?」
「どうして、……あのまま放っておいたら美園さんが死ぬと思ったから、ああやって妨害することが精一杯でも時間稼ぎにはなると思って、……なるはずだったのに! お前が僕を止めたから、……ッ、お前のせいで」

 ――彼女は死んだ。
 僕じゃない(、、、、、)と、今度は僕のせいではなかったと、思い込みたかったのかも、知れない。

 やり場のないエネルギーをベッドに叩き付けた。その直後、ガラスが割れる大きな音がした。小机に置いてあった花瓶が、床に落ちたらしかった。……ああ、また無意識だ。
 ベッドの脇に座っていた彼がその大きな破片をひとつ拾い上げて、それをまた床に叩きつけて、叫んだ。

俺が(、、)死ぬかと思ったからだよッ!」

 破片は、粉々に砕け散る。
 彼の素直で力強い声に、スッと、肝が冷えるような感覚。
 僕には、――何も、言えない。

「お前のそういうところがワケわかんねえ悪魔だよ。自分ひとりで何かやって、何やってるのか説明もしてくれねえで、考えろって言われても無理に決まってんだろバーカ。――ただの人間だって無理なのに、お前は人間ですらねえ」

 彼が、起き上がれない僕をはるか上方から見下ろしながら、そう、言った。

 ああ――……そうだ。
 僕は人間(みんな)とは違うんだ。
 でも、皆はそれを知らない。僕を、人間だと思ってくれている。
 それなのに僕は、平気で人間に出来ないことをして、それでも僕が普通の人間だと思って貰おうとしている。……そんなの、ただの傲慢じゃないか。
 僕は素直に、自分が人間じゃないと認めなきゃいけなかった。
 それでも、人間の中で人間として生きたいなら、僕は一体どうしたらいいのだろう――。

 上手く、声が出せない。喉元を締められた影響か、それともそれ以外の原因でか。
 かろうじて絞り出せた言葉は、

「僕は、……人間に、なりたい」

 ……自分でも何を言っているのかと、思った。
 でも、そんな言葉しか、出てこなかった。

 彼はそれを聞いて、何故か、呆れたような顔をした。
「じゃ、人間の振りしてろよ。大人しくしてりゃ判んねえんだし。それとも不安なのか? またあぁやって暴走するかも知れないとか思ってんのか」
 ……図星、だ。
 自我を失っていたわけではないし、自分でわざとやったことだから僕にとっては暴走ではない。でも、それが周りの人にそうと受け取られていたなら、それはそう言って然るべきなんだろう。それに僕はまだ、普通の人にとって何処までが許容範囲なのか、よく判っていない。また、あぁいうことをするかも知れない。ついさっきだって、エネルギーを制御しきれていなかったじゃないか――。
 僕が何も答えないでいると、純は肯定と受け取ったらしい。やけに真面目な顔をして、堂々として、告げる。
「判った。やりたいことがあるなら言えよ。何してるかも判んねえんじゃ、フォローのしようもないだろ」
「……え……?」
 今僕は、何を言われたのだろうか。
「何だよその顔は。術のことは俺しか知らねえんだろ? じゃ、俺がやるしかねえじゃんよ、しょうがねえ」
「やるって、何を」
「あ? 決まってんだろ、怪奇現象のフォローだよ。お前、喧嘩の言い訳は得意な癖にそっちは下手くそだからな。さっきのポルターガイストだって、どう言い訳するつもりだ? 見てたのが俺一人なのはいいが、刺されたお前が暴れたなんて言ったところで誰も信じねえぞ」
「それ、は」
 何も考えてはいなかった。
 後のことは二の次だと、きっとどうにかなると思ってしまう。緊急事態に、後の言い訳が出来ないからやらないなんて、そんな贅沢を言ってはいられない。……でもそれなら、僕一人ではきっと生きていけない。いずれボロが出るに決まっている。出してしまったら、きっと誰も庇ってくれない。
「だろ。だから、俺が出来るだけフォローしてやる。――その代わり」
 ――来た。
 純が何の見返りも求めずに協力を申し出るなんてことがあるわけがない。でもその申し出を受けるのなら、それなりの見返りはして然るべきだろうと、僕も思う。
「俺に協力しろ」
「……は?」
 協力しろって、どういう意味だ。大雑把過ぎる。何か企んでいることでもあるのだろうか。
「俺がお前に協力するんだから、お前も俺に協力しろ。シンプルな契約だろ」
 つまりそれは今回に限ったことではなくて、この先ずっと、ということを言っているのか。――お互いに協力し合おうという、契約。今まで喧嘩しかしたことのなかったような僕らにとっては、ある意味考えられなかった展開なのかも知れない。
 でもこうなったのは結局、僕が『話した』からに他ならないのだろう。それなら『話した』のは、結果的には良かったと言えるのだろうか。
「もし、断ったら?」
「は? タダで助けてやる気はねえよ。徹底的にお前の敵に回るだけだ」
 やはり、そういうところは純らしい。飽くまでそういう契約だから協力するだけであって、仲が良いから、幼馴染だからどうこうというのではないと、そう言いたいのか。――それは確かに、お互い好都合なのかも知れない。一時的な喧嘩で双方が不利益を被ったりすることはない、というわけだ。
「――なるほど。じゃ、僕に選択の余地は無いな」
 苦笑して呟くと、純は表情を変えずに右手の小指だけを立ててこちらにスッと差し出してきた。――指切りでもしろと言うのか、この歳になって。
 彼の表情を窺うと、照れ臭そうに頭を掻いて言い訳し始めた。
「これぐらいはしとかねえと安心できねえだろ」
「まぁ、確かに」
 布団の中に仕舞い込んでいた右手を出して、小指を絡ませた。
 懐かしくて、馬鹿馬鹿しくて、それでも――何故か、嬉しかった。

   *

 刺された傷はそこまで深くなかったが、一時は意識を失ったのだからと、大事を取って少し入院することになった。自分が居るのが個室だと気付いて恐ろしくなったが、大部屋が空いていなかっただけだから費用の心配はしなくていいと言われてホッとする。ただ、患者同士の交流とかも経験してみたかったと思うと少し残念だ。
 朝日のよく射す病室で迎えた、火曜日の朝。明日には退院できそうだという話で、僕はベッドの端に腰掛けて医師の診察を受けている。まだ若いと思しい医師は、僕が刺されたという話を聞いて驚いたり不思議がったり色々な表情を見せてくれた。……まぁ、そうそう良くあることではないと思う。
 診察が終わって医師が去ろうとしたとき、病室の扉をノックする音がした。僕の代わりに医師が返事をすると、扉がゆっくりと開いた。
 ――そこに立っていた人間の姿を見て、僕は思わず目を見開いて硬直する。
 日本人にしては大柄な男。真っ黒なスーツを着て、いやにかっちりとした印象。後ろへ撫で付けた髪は白髪交じりだが自然な栗色。目の色こそ茶色だが、その顔立ちからは明らかに西洋の血が感じられる。……会うのは春休み以来か、僕の……、父親。分厚い鞄を持っていて、どう見ても仕事に行く姿だから、きっとこれから授業があるのだろう、と思う。仕事があるのにわざわざここまで来たのは何の意図があるのか――……いや、仕事もないのに見舞いのためだけに出掛けるという方が彼らしくない。
 医者と目が合うと、父は柄にもなく微笑んで、丁寧な口調で喋り始める。
「失礼。こんなタイミングで、お邪魔じゃありませんか」
「お父様でしたか。いえいえ、もう終わりましたので」
 そんなやり取りをして、医師が病室を出て行くのを見送る。
 取り残された僕は――……布団に戻りたくても、戻れない。こんな時に限って、自分の身体でさえまともに動かせなくなるのが、口惜しい。
 父はやけにゆっくりとした足取りで僕の前まで歩いてくる。鞄を小机に置いて、誰も居るわけがないのに改めて周りを見回すような仕草をした後、口を開いた。

「何故お前が医者の世話になっている」

 先程医者に向けたのとはまるで温度の違う、凍ったような響きの声。凍ったような目線。別人のようにも思える。この人は僕に対してはいつもこうだ。殊に、あの時以来。
 ――僕は、俯いたまま答えない。
「刺されてすぐに意識を失ったということか?」
「…………いえ」
 意識があったのなら、その間に自分で自分の傷を治せただろうと、僕にはそれが出来ただろうと、そう言っている。――確かに出来た。死ぬわけには行かないから、光の術を使うべきかどうか迷う程度には、時間はあった。でも、それほど傷は深くなさそうだったし、本当に死ぬかも知れなかった若松さんにも使わなかったのだから――……使わないことにした。
 僕の答えを聞いて、父は、笑った。
「ふん。出来ることもやらずにそうやって迷惑を掛けて、私の気を引こうという気か」
 ――なんという言い草か!
 傷が痛むのも忘れて彼を見上げ、精一杯の憎悪を込めて睨みつける。
 しかし、彼は動じてくれもしない。僕がそうするのを判っていたかのようにまた鼻で笑って、相変わらずの凍った声で僕を罵り続ける。
「お前はいつもそうだな。肝心なところで術を使おうともしない。普通と違うことがそんなに厭か? 厭なら何故やめてしまわない。――結局、自分の好きなようにしたいだけなのだろう?」
 そう言いながら冷たい手で僕の髪を掻き回して、最後に物凄い力で頭を押さえつけてから手を離した。
 言い返す気力も沸かない。言い返したところで無駄だ。実の息子に対して、厭なら死んでしまえと平気で言えるこの人間に、僕が何を言っても通じないだろう。
 しかしこの人は、どれだけ僕を貶めたら気が済むのだろうか。
 いつもいつも僕が怒るようなことを言って、それで僕が怒ったら図星をついたとでも思っているのか。冗談じゃない。

 あぁ、違う。そうじゃない。
 この人は確かめたいだけだ。
 僕が、滅びを招く悪魔の子だということを。

 知っている。
 いずれ闇に堕ちるのなら、いっそ赤子のうちに殺してしまえと言っていたのを知っている。
 誰が教えてくれたのかは、覚えていない。
 でも、知っている。
 誰かが教えてくれたから、知っている。

 僕がいつまでも認めないから、ありもしない正体を現すまでこうしているつもりなのか。
 それでは――……僕でなくたって、いつかは闇に飲まれてしまう。
 こんなことなら、いっそ予定通り彼女に殺されていた方が良かったのか?

 久々に、涙が溢れてくる。
 この人の目の前で泣くだなんて、そんな屈辱はない――……と顔を上げた視界に、もう一人の人影が映る。

 そんな、……まさか。
 一体誰が連絡を――……。

 人影が、穏やかに笑った。
「……なんだい、こんなところでもサッシャを泣かせてるのかい、ハインリヒ」
 暖かい声、懐かしい名前。
 ――思わず、声を上げてしまう。
おばあちゃん(オーマ)……!」
「久し振りだねぇ、サッシャ。怪我はもう大丈夫なのかい?」
 僕と同じ灰色の目を持つ祖母はそう言いながらこちらへやって来て、父とは比べ物にならないほど暖かい手で僕の頭を撫でる。軽く頷くと、本当に嬉しそうに微笑んで抱きしめてくれた。ドイツが故郷の祖母は、子や孫のことを日本名ではなく、ドイツ語の名前で呼ぶ。僕はサッシャで、父はハインリヒ。……ちなみに兄はミヒャエルで、弟はマルク。ただのニックネームで、正式なミドルネームの類ではない。
 祖母は、血が繋がっている人間では唯一の、僕の味方だ。もっとも『血が繋がっている人間』はもう、目の前に居るこの二人しか居ないのだけれど。
「……お母さん(ムター)、どうしてここに」
 そう言うからには、祖母の息子である父は連絡などしていないということだ。
 ――では、連絡したのは誰だろう?
「どうしてって。可愛い孫が刺されたって言うのに、駆けつけないオーマがどこに居ますか。……貴方が連絡してないだろうって、珠実さんが気を利かせてわざわざ教えてくださったんだからね」
 そして祖母がちらりと視線を向けた部屋の入り口の方に、もう一人の人影が、見えた。今まで全く気付かなかった――まさか、義母も来てくれていたなんて。僕の視線に気付いた彼女は、少し照れたように微笑んで、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
 義母は、――何故かいつも僕の味方で居てくれる。父と再婚して家に来るまで僕とは一度も会ったことはなくて、さらに何も知らされていなかった僕が玄関先で彼女に初めて向けた顔は、どんなにか拒否的だったろう。それでも、そんな不器用な子どもにも、決して冷たい声を浴びせたりしない彼女は、本当に温かい人だと、思う。
「お前も来ていたのか」
「だって、刺されたなんて聞いたら心配で。――でも、元気そうで良かった」
 そう言って彼女は僕に笑顔を向けて、挨拶に代える。僕は――どんな顔を返せばいいのか、判らない。
 僕の隣に腰掛けた祖母が、呟くように言う。
「でも、どうしようかと思ったよ、ほんとに」
「……大した怪我じゃないと聞いたから連絡しなかったのに」
 父がそう言うが、言い訳にしか聞こえない。……彼も母親には頭が上がらないのだと、思う。お互いに、厭なところばかりが似ている。だからこそ彼は余計に僕のことが嫌いなのだろう。判っている。判っていても、苦手なのだ。
 でも、祖母は明るく笑うのみだった。
「そんな嘘は要らないよ。いい加減気付いたらどうだい、サッシャはあんたが思ってるような狡賢い悪魔じゃないよ」
「そ……そんなこと、思っては」
 図星じゃないか。あからさまにうろたえている。僕が祖母に懐くのは自分が母親に反抗できないからで、祖母に取り入ることで父を手なずけようとしているとでも思っているのだろう。自分勝手にも程がある解釈だ。
 でも、何も今更隠すほどのことじゃない。僕自身は昔からそう言われてきたのだから。彼のことだから、祖母は僕に騙されていると思っていたのかも知れない。
「……時間だ。私はもう行くぞ」
 祖母の追撃から逃れるようにして、父はさっさと鞄を持って部屋から出て行った。それを無言で見送った祖母と義母が顔を見合わせて、おかしそうに笑い合った。
「全く、何しに来たんだかねぇ」
「本当に。――あ、直実さんに渡してって頼まれたものがあるの。忘れないうちに渡しとくわね」
 義母はそう言って、小さなハンドバッグから何かを取り出した。――淡い蒼色の生地の、巾着袋だ。小学生がランドセルにぶら提げている、いわゆる給食袋と同じぐらいの大きさ。中に何かが入っているようで、揺れるとカチカチと妙な音がする。義母は笑顔でそれを僕に差し出す。
 受け取ると予想より少し重い。中身は何だろうかと開いてみると、……色とりどりのビー玉が十個ほど入っていた。
「……誰からですか?」
 物が物だから普通に考えれば弟なのだろうが、幼稚園児のやることにしては意図が判りにくい。手紙を入れるぐらいのことはしてくれそうなものだ。
 義母はふわりと笑って、意外な人物を示した。
「『紫陽花』のマスターさん。行きがけにばったり会って、あなたが入院してるって話したら、お店からこれを持って来てくれたの」
「! マスターが」
 『紫陽花』は近所にある喫茶店で、そのマスターは僕にとっては師匠のような人だ。例の事故以前から出入りしてはいたけれど、本格的に入り浸って、料理とコーヒーの淹れ方を教わるようになったのは事故があってからのこと。……家に、居たくなかったから。僕が食事を作るしかなかったから。義母も、僕がそこに通っていたのは知っている。
 ……でも、何故ビー玉なのだろう。
 僕がその疑問を顔に出していたからか、義母はくすくすと笑った。
「意味なんて、考えなくてもいいんじゃない? 彼だってそんな深く考えてないと思うわ」
 マスターが僕を心配して、でも他に目ぼしいものが見当たらなかったから、これをくれた。それだけのこと。それだけで、僕にとっては充分すぎるほどだ。――大切にしよう。
「――……はい」
 義母は笑顔を返してくれた。それから急に頭を撫でられて、少し驚く。……弟はまだ幼稚園児なのだから、彼女が弟と同じような感覚で僕のことを見ているなら、別におかしなことではないのだろうか――。判らない。
 それからしばらく、何のことはない世間話をして――二人も、帰っていった。
 静かな病室。また、ベッドの上に、一人。
 否――……一人では、ない。
「ハル。出ておいで」
 窓際の小机の上に置かれた僕の鞄の中から、小さな応答が聞こえる。若干離れているが動く必要はない――術でチャックを開けてやると、小猿の姿をしたハルが姿を現して、僕の方へと飛び移ってきた。喋らなければ可愛らしいのに、といつも思う。
「何で出さなかったんだ? ばーちゃんだって別に、俺のこと見ても驚かねぇだろ?」
「……何となく」
 泣いているところをハルに見られたくないとか、まだハルに助けられているのかと父に言われたくないとか、そんなことを正直に言いたくはない。……伏せたところで完全に隠せるとは思えないが。
 案の定、ハルは馬鹿にしたような顔をして――猿だが――言った。
「ほーお。一人前になりましたってか」
 ――……完敗らしい。イラッとしたので、彼の耳を引っ張りながら窓の外、晴れ渡っている青空を眺めた。
 こんなに晴れているなら、午後は散歩にぐらい出ても構わないだろうか――。
「痛えよ! ここまでされる筋合いはねぇぞッ!?」
 せっかく優雅な一日をプランニングしていたというのに、小猿の悲鳴で現実に引き戻された。
「どの口がそんなことを言う。『良い作戦』とか何とか言って人の髪滅茶苦茶に切りやがって、その醜態をクラス全員に晒した僕がお前を恨んでないとでも」
「てててッ、あれは結果オーライだったろッ! オマエだって、『久し振りに純殴ってストレス発散できた』つってただろうがッ」
「そのストレスの元が誰だったと思ってる」
「お、オマエだって俺のストレスになってるわいッ」
「ははぁ、じゃアレはストレス発散か。ほんの少しでもお前を信じた僕が馬鹿だったよ。なるほど『結果オーライ』ね、つまり何も考えてなかったと」
「えっ……とだな、……つまり、その……だ、だから良いだろ、結果的には綺麗にまとまったろうがー!」
 勝った。
 いつも通りのくだらない口喧嘩。顔を合わせれば喧嘩にならない方が不思議なのだから、こんなものは喧嘩のうちに含まれないのかも知れない。ただの、戯れ。誰にも会話が聞かれない場所でないと、こうも開けっぴろげに猿と喧嘩は出来ないから――……きっとお互い、楽しいのだ。
 何年、一緒に居るのだろう。……数えるまでもない、歳の数だけだ。双子のように育った。いつも一緒だった。
 でも、違う。僕と彼は兄弟ではないし、ただの主従関係とも違う。
 僕と彼との間には、大きな溝が刻まれている。彼をこちら側へ連れてくる訳には行かないし、僕が向こうへ戻ることは、もう出来ない。だからずっとこうして向かい合って、足元の覚束ない彼の手を取ってやることが、僕に出来るせめてもの償い。

 だからまだ、気付かないで。
 あともう少し、そうやって幼い子どものように、笑っていて――。

   2

「……桧村? どしたの? 生きてる!?」
 また、誰かの声がする。楓さんでも、麻耶でもない。これが夢なのか現実なのか、現在なのか過去の情景なのかもはっきりしない。意識がぐちゃぐちゃだ。
 ――顔を上げると、カウンターの向こうから覗き込む女性の顔が見えた。……現実、らしい。
「あ、生きてた。忘れ物したから戻ってきたんだけど……。寝るならせめて椅子で寝てよね」
「……宮、路」
 寝ていたわけではないのだが。まぁ、言い訳しても無駄か。眠っていたのは事実なのだろうし、彼女は冗談を言っているだけだ。
 私はゆっくりと身体を起こして、立ち上がる。それから、引き出しにしまっておいた彼女の忘れ物を、渡した。
「ありがと。桧村にあげちゃってもいいかなーとは思ったんだけど、茨木にあんなこと言われちゃったし、それもどうかなって」
「別に、気にしないよ」
 あの事件が特異的だっただけで、高校時代の全てを否定する気は、ない。
 宮路は私の返答を聞いて穏やかに笑うと、写真を見直しながら、話を逸らす。
「ふふ、でもあの子、さくらちゃんにちょっと似てるね」
 その名前を聞いて、急に心臓が締め付けられたような、気がした。宮路に気付かれていやしないかと心配になって様子を窺うが、特に表情の変化は見られない。……当たり前、か。
「……あの、子?」
「バイトの子、楓ちゃん。似てるよね?」
 似ているかどうかと言われれば、きっと似ていないこともないのだろうと、思う。
 でも、同じ人間は、二人も居ない。
「まぁ、似てる方、かな」
「でしょ。でも、余計判んなくなったんだよねぇ。――何でふったのさ?」
 …………。
 どうしてそれを、宮路が、知っている?
「……もしかして、聞いたのか」
「え? 知られてないとでも思ってた?」
 思わず目を逸らしてしまった。……肯定したも同然だ。思いっきり笑われた。
「あはは、最初から私たち相談されてたんだもん。さくらちゃんが倒れた時のあんたの反応から考えて脈アリだと思ったんだけどなぁ」
「……」
 上手い言い訳の言葉が出てこない。もどかしい。宮路の目が見られない。
「だからって誰かと付き合ってたって話も聞かないし、さくらちゃんも『嫌われてるわけじゃないみたいだから』って言ってたし、なーんかよく判んなかったんだよねぇ」
「それは……その」
 ――……そう。あの時はただ、他人が信じられなかっただけのこと。彼女に『話す』だけの、彼女を巻き込むだけの勇気が、なかっただけのこと。誰か一人と親しく付き合うということなど、恐ろしくて考えられなかっただけのこと。純に話せたのは奇跡に近い。
「ぶっちゃけ、好みでしょ?」
「は?」
 何だか話が全く噛み合っていないが、こういう場合どうしたらいいのかよく判らない。
「ほら、自分じゃ釣り合わないとか思ったんじゃないの?」
「……別にそういう訳じゃないんだけど」
 と言ってしまうのも彼女に失礼な気はしたが、反射的に言ってしまったので後の祭りだ。心の中で謝っておく。
「違うの? じゃ、恋愛はしないって決めてるんです系?」
「決めちゃいない」
「それ系か、なるほどね」
「だから、……」
 否定するほどの根拠もない、か。
 だが、私が黙り込んでも、宮路はそれ以上訊こうとはしなかった。彼女にとって、その話はそこで完結したらしい。少し、ホッとする。――が、そんな安心は束の間だった。
「だから、あの子もどっかで拾ってきたのかと思ったんだけどさ」
「ば、……馬鹿言うな、彼女は事件で知り合った子で、元々は」
 客、と言おうとして詰まる。――しまった。
 案の定、宮路は私の失言を正確に捉えて問い返す。
「事件? また何かあったの?」
「……いや、……その」
 どう、言い訳しよう。もし宮路が、純が刑事であることを知っていたとしても、その手伝いという到底一般的ではない理由を言ってすぐに話が終わるわけがない。大体、他人にあまり軽々しくそういう話をしてしまうわけにも――。
 そうして結局私が答えに窮するのを見て、彼女は少し呆れたように、笑った。
「いいよ、言えない話ならいい」
 言えないから、言わない。それで結局、孤独感に苛まれている。いつものこと。
 ――本当は、誰かに話したいのではないのか?
 楓さんに言われたのはまさしくその通りのことで、私はその好意に、素直に甘えることも出来なかった。あの時は純に話せたのに、そのおかげで生きていられるとさえ思えるのに、どうしてまた、独りになろうとしているのだろう。
 宮路は確かに優しい。私に隠し事が多いのを知っているから、言わなくてもいいと言ってくれてしまう。私を、安心させてくれてしまう。それでまた私は、後悔するのだろう――。
「ねぇ、また来てもいい? 今度は千尋も一緒で」
「もちろん」
「良かった。それじゃ、茨木によろしくね」
 純?
「あ――」
「ん?」
 もう、会う機会などそう無いだろう。彼女らがここに来るタイミングと、彼が来ているタイミングが合うとも限らない。この先、年単位で会えないということも考えられる。――それなら、伝言という形でも。
「純が、謝ってた。変な勘違いしてただけだからって」
 正確には謝罪の言葉を口にしてはいなかったが、あれだけショックを受けていたのだから、それぐらいの気持ちではあっただろう。
 宮路はきょとんとして、瞬き数回、それから――……驚くほど嬉しそうに、笑ってくれた。やはり、覚えていたのだろうか。いや……そんなことはきっと、問題ではない、か。
「あいつもあれでA型だね」
「それはもう」
 血液型占いが有用かどうかは別問題として、いわゆるA型的性格は彼によく当てはまっている。特に、彼の慎重さには目を見張るものがある。良い意味でも、悪い意味でも。常に慎重だからこそ、些細な、それも馬鹿馬鹿しい失敗が彼のプライドの上に重く圧し掛かるのだろう。その様子を見ているのがまた、楽しい。
「ありがと。それじゃ、風邪引かないでね。寝る時はちゃんと布団かぶって!」
「……判った。こちらこそありがとう」
 手を振って、宮路が店を出て行く。

 ――今度は、話して……、みようか。大丈夫、きっと彼女なら判ってくれる。
 彼女は私を頼ってくれた。自分でもワケの判らない人間を、人間かどうかも危うい存在を、信じてくれた。その彼女が頼っていいと言ってくれたのだから、素直に彼女を信じよう。
 止まったままだった私の時間は――……十年以上の時間が経過してようやく、動き始めそうな気配を見せた。