こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第五話 さまよえる奇術師達
第四章「Children's Games」
1
火曜日、授業が終わって部活に顔を出して、帰る前に邪魔な荷物を置いてくかと教室を目指したとき、日はもう沈みかけだった。校舎にはもうほとんど人の姿はない。――と、C組のロッカーの前に人影が見えた。よく見るまでもなく、あいつだ。この時間まで勉強してたのか何なのか知らないが、いずれにしても何とまぁ、偶然出くわす確率の高いこと高いこと。生活パターンが似通ってるとか色々な理由はあるんだろうが、そんなことはどうでもいい。ただ、こういうタイミングで奴に会うっていう、その気持ち悪さが、俺を腹立たせる原因になった。
「よう、また会ったな」
声なんかかけなきゃいいのかも知れない。でも俺は調べると言ってしまった以上、せっかくのチャンスは生かさなくてはならない。――これは、私的な事情聴取だ。
奴は俺の声を聞いた瞬間に手を止めて、素早く振り返った。物凄い目をこちらに向けながら。
「……茨木、君」
片目でしばらく俺の顔を睨み付けた末に奴がようやく口にしたのは、俺の名前。いつも通りだ。他に言うことはないのか。……いや、偶然遭遇する確率についての理論とか話し出されても困るけどな。そんなものが存在するのかどうかは知らないが。
「そんな怖い顔すんなよ。何も殺しに来たってんじゃねえんだから」
「別に。君が僕を殺せるとでも?」
――憎たらしい。ちょっとばかり成績が良かったからって、料理部長風情がよくそんな挑発的な台詞を吐けるものだ。確かに子供時代の喧嘩じゃ負け続きだったが、それとこれとは別だ。あの頃はまだお互いに子供だったし、体格だって今とはだいぶ違う。もちろん、二人とも。俺が筋肉をつけてる間に、こいつは縦に伸びやがった。……いや、こいつの父親は大男だからもともとこうなる運命だったんだろうけど。だが、多少背が高いってだけで相変わらずひょろひょろだ。小学校の頃なら器用さで喧嘩にも勝てたかも知れないが、今はそうは行かないだろう。
……少し思い知らせてやるのも、いいかも知れない。
奴が油断した隙を狙って、思いっきり体当たりを食らわしてやる。
――派手な音がした。
奇襲攻撃でバランスを失った身体は当然後ろに傾き、勢いで背中と後頭部をロッカーにぶつけたらしい。奴が手に持っていたノートやら難しそうな医学書やらが床に散らばったが、そんなものに気を配っている余裕はこちらにも彼にもない。
打った頭を右手で抑えながら、奴が体勢を起こそうとする。その動作が完全に終わる前に、俺は奴の左肩を押さえつけ、片目を覆い隠している長い前髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
銀色に近いグレーの両目がそろった顔を見るのは随分久し振りだ。そういえば、こいつがこういう髪型にし始めた理由は、聞いたことがない。宮路たちによれば調理の時はちゃんと上げてるらしいから、どうせ大した理由じゃないんだろうが。実際、人に見せるのを憚るような傷とかそういうものは見当たらない。だとすると趣味なのか。気色悪い趣味だことだ。
「……痛い。空手ってこんなんだっけ?」
奴はそんなことを言いながら、少し困ったような顔をする。余裕綽々だ。そう――追い詰められるのは、いつも俺の方だった。今でこそこいつは真面目で大人しい勉強家の料理部長さんで通っているが、そんなものは建前みたいなものに過ぎない。
「皮肉は要らねえ。これは喧嘩だ、空手は関係ねえだろ」
「いきなり一方的に突き飛ばしといてそれはないだろ」
「ゴチャゴチャうるせえな! 俺は別にお前を殴りに来たんじゃねえよ。眼鏡の奴を殴るほど俺は酷くねえ」
だから、顔は殴ってない。だが奴は一瞬呆れたような顔をして、小さくため息を吐いた。
「……。じゃ、何しに来たの?」
じゃあ、と言うからには殴りに来たと思っていたらしい。こいつの中で俺はどれだけ暴力的なのか。いや、まぁ、そう思われても仕方ないわな――。こいつに対しては「人を殴っちゃいけない」って理性が働きづらい。
「ただ通りすがったから挨拶しただけだろ」
「へぇ、変わった挨拶だね」
ご尤もだが、それにしたってあんまりな言い草だ。思わず右手が動きそうになった。が、必死で堪えた。ここで殴ったら俺の負けだ。深呼吸をして、本来の目的を思い出す。――事件の話をしに来たんだ。
「俺の同級生が疑われてるってのは知ってんだろ?」
「……何の話?」
あからさまに話題を避けようとしやがる。髪を引っ張る力を強めたが、一瞬眉をしかめただけだった。
「惚けんな。自分トコの部員が殺されてその犯人が捕まってないってのに、何の話はねえだろ」
「誰が警察に疑われてるかなんて僕が知ってるわけないだろ」
不満げな顔でそう言う。まぁ、そうなのかも知れない。
「まぁいい。疑われるってことはそれ相応の理由があるってことだ。でもそいつは認めてねえし、俺も納得がいかない」
「そう。で?」
「頭のいいお前さんが上手く殺して、そいつを疑わせたんじゃねえかと思ってな」
思ったことは素直に言うに限る。
俺の言葉を聞いて、奴は少し呆気に取られた顔をして――……それから、またため息を吐いた。
「……わざわざこんなことしなくても、疑いたいなら勝手に疑えば良いじゃないか」
まるで、俺なんかが調べたところでバレるわけがないとでも言っているような口振りだ。いや、それはこいつが本当に犯人だったときの話だが。
だが、好きに疑えという許可が出たというのも変な話だ。たとえば俺が犯人だったとして、こうして問い詰められたら、こんな風にいけしゃあしゃあと言えるだろうか? こんな喧嘩腰で言われて、疑ってるなんて言われたら、負けちまうかも知れないな、と思ってハッとする。何をどうでもいいことを考えてるんだ俺は。これは、事情聴取。
「じゃあ訊こうか。事件の前日の夜、七時四十分から八時まで何処に居た」
「それが死亡推定時刻?」
「先に答えろ。質問してるのはこっちだ」
奴は少し目を逸らして何か考えている風な表情を見せる。それも演技のように見えてしまうのは、単に俺の思考回路が歪んでるだけに過ぎないんだろうか。
奴が再び俺の目を見た。相変わらずの呆れ顔だ。
「七時半にはここを出た。一年生の二人と偶然会ったから、気になるならその子たちに聞いて。四十分にはもう寮に着いてたと思う。その後は八時になるまでに誰かしらに会ってるよ」
つまり、四十分には既にここに居ない、アリバイはあると言っているのか。とりあえず、一緒に居たとか言う一年生の名前を聞き出した。手が空いていないから、頭の中にメモしておく。まぁ、たとえ忘れても名簿見れば思い出せるだろう。
アリバイがあるなら、絶対に犯人じゃないのか? それを崩すことを、考えたっていいんじゃないか?
七時四十分で区切られているのは、警備員がその時刻には異常がなかったと記憶していたから。……それが正しいのなら、本当にそれは七時四十分だったのか? 例えば、教室の時計が二十分ぐらい進められていたとか。大体、そんな細かい時刻をどうして覚えているのかってのも少し変だ。
――と、奴は表情ひとつ変えずにまた何か言い始めた。
「もし、僕が犯人だとして」
「あ?」
「君にこうして責められて、素直に言うと思うか? 僕が誰か判ってるんだろ?」
そう言われたから、改めて考えてみる。
――桧村直実。自身の兄とその恋人、さらに母親の三人が死亡した『事故』の、唯一の目撃者であり容疑者でもあった。まず父親に疑われて警察に突き出され、当然警察にも散々疑われて、唯一の味方は相棒の子供。状況は四面楚歌。――だが、決して吐かなかった。決して認めなかった。証拠らしい証拠もなく、事故は事故で片付いて、こいつは容疑者からただの遺族に戻った。
本当に犯人かどうかは問題じゃない。要は、一度決めたことに関しては絶対に口を割らないと言うのがこいつのポリシーであって、それはもちろん今のこの状況にも適用されるというわけだ。
――絶対ニ、言ワナイ。
そこまで考えて、ぶち切れた。
「ンなこと知るかよッ」
髪を掴んだ左手を少しこちらに引いて、勢いに任せて後ろへ戻す。
当然凄い音がして、今度こそ奴は声なき声を上げ、本気で痛そうな顔をした。……十年以上付き合ってきたにも関わらず、そんな顔は初めて見る気がした。こいつとの喧嘩で優位に立てた、その事実だけでも俺にとっては充分に喜ばしいことだ。
「……じ……」
――じ?
あぁ、こいつ、俺の名前を――。
って、え――?
俺は今、幻を見ているのか?
何だろうこれは、一体。
「さ、サネ……あいや、お前、目、どうしたんだよ……?」
「……え……? 何……?」
まだ肩を震わせて痛がっている奴は、自分でも自分の身に何が起きているか判っていない。
「お前、目、緑だったっけか……? 違うよな、さっき俺確かに」
灰色だった。光の加減で銀色にも見えて、元々日本人離れしている。人間の目の虹彩の色が一瞬のうちに変化するなんて話は、生まれてこの方聞いたことがないし、見たこともない。眼鏡のレンズに光が反射して、とかで変な色に見えているだけなら良いんだが――あるいは、俺の目の方がおかしいのか?
奴は慌てたように俺から顔を背けて、さっさと手を離せと言わんばかりに睨み付けて来る。
「まさか前髪これはそれを隠すためとかで」
手を離してやると、多分痛いんだろう生え際の辺りを抑えながら、奴はまた左目だけでこっちを見る。右目はもう、髪と手に隠れて見えない。
「――だったら、どうする」
その言い方はつまり、肯定、なのか?
「べ、別に……お前が言いたくねえってんなら強要はしねえけど。すまん、別にそれを見てやろうとか思ったわけじゃなくて。あの、病気とか何かそういうのじゃないのか? 何か、その」
何だか説明しづらいが、見ちゃいけないものを見ちまったような気分だ。そんなに見られたくないのなら、悪いことをした。
あたふたする俺を、奴は何故かきょとんとして見つめた後、少し、笑った。
「な、何だよ、笑うんじゃねーよ」
「病気じゃないから心配しなくていい。……僕が悪魔だっていう印みたいなもの、だから」
何だって?
今何かワケの判らない事を言わなかったか?
――今度こそ、こいつは気が触れたんだろうと確信する。あの時の気持ち悪い顔だって、やっぱり何か変なものに憑かれてんだ。病院か何かに連れて行くべきか? いや、その前にもっと詳しく話を聞いてみるべきか。ただの比喩かも知れないしな。
「そ、それってのはつまりどういう――」
「おい、お前たち何してる! 凄い音が聞こえたぞ?」
突如、野太い学年主任の声と足音が響いて、俺の質問は中断された。さっきの音を聞いていたらしい。俺が言い逃れを考えている間に、直実は床に散らばったままの本を拾いつつ、爽やかな作り笑顔を学年主任に向けていた。そして堂々と言う。
「何でもありません、大丈夫です」
「そ、そうか……? まぁ、もう遅いから気をつけて帰れよ」
「はい、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
輝かしいまでの優等生回答を笑顔で連ねて、足音が聞こえなくなるまでそのまま見送る。……何と言うか、変わってない。学年主任が居なくなったのを確認すると、奴はすぐに笑顔を崩して床の荷物を全て拾い、軽く埃を払うと自分のロッカーの中に乱暴に突っ込んだ。そして再び俺の方を見る。
「話を続けようか?」
「あ、あぁ……判った、率直に言おう。どういうことか納得の行くように説明してくれ。ワケの判らないことがあるってのは嫌なんだよ」
「……今ここで全部は無理だな。時間のある時にね」
「……絶対だぞ。無かったことにすんじゃねえぞ」
言いながら、子供みたいだと、思った。
直実はまた少し笑って、頷いた。
「で、他に何か訊きたい事はないの?」
「あ?」
「事件の話してただろ」
言われて気付く。すっかり忘れていた。
だがもう、そんな気分じゃない。頭の中が混乱している。
「……馬鹿馬鹿しくなってきた。今日はもういい。とにかく俺はお前を疑ってっから、それだけ覚えとけ」
「ご自由にどうぞ」
そう言い残して、奴は床に置いてあった鞄を持って、さっさか歩いて行ってしまった。
俺一人だけ、その場に立ち尽くしている。目の前にはロッカー。廊下の端から端まで見ても、俺以外の人間は見当たらない。誰も居ない。教室の中にはまだ誰か居るのかも知れないが、それは判らない。
俺は一体何をしてるんだ――。
ため息と一緒に嫌な気分を押し出して、俺も帰路につくことにした。
2
正門に向かう道を歩きながら、一人悶々と考え事をしていた。
先週金曜日の朝、部員が殺されているのを目の当たりにして、彼――『茨木君』に自分から疑われるような行動を取ったのは、自分でもどうしてなのかよく判らない。もしかすると、彼との好意的な関係を持ち直そうという気はもう欠片もなくて、敢えて敵対するように行動してしまっているのだろうか。つまり僕は彼のことが嫌いであるから、近付いて欲しくないがために、わざと自分を嫌わせている、というか。自分の性格がよく判らない。大体、こんな分析をしてどうなると言うのだろう。
彼だって僕が嫌いなはずなのに。実際、僕を疑っているのに。それなのに、どうしていつまでも関わってこようとするのだろう。今まで通り、無関係の他人として無視していてくれればいいじゃないか。昔なじみとしての義務感か。そんなもの捨ててしまえばいい。僕は彼が居なくても生きていける――はずだ。
彼に、見られた。
どうして今まで一度も見られなかったのかということの方が不思議なのかも知れないが、気を付けてさえ居ればいつもは防げたのだ。でも、無意識だけは、防げない。
話すことを約束してしまったが、本当に大丈夫なのだろうか――。
「先輩?」
聞き覚えのある声がした。僕が呼ばれたのかどうかは判らなかったので軽く振り返ると、そこには若松さんが立っていた。彼女は僕の顔を確認すると、何から話していいか迷うようにして、視線をうろうろさせたり、肩の前に下ろしている三つ編みを弄ったりしながら、最終的に苦笑した。
しかし僕としても、こういう時はどういう話の展開をしたらいいのか判らないので、無難に始めることにした。
「――大変なことになったね」
「そう、ですね。今週の木曜日はどうするんですか?」
言い損ねていた気がするが、料理部の活動は週一回、木曜日の放課後だ。
「多分、集まるには集まるだろうけど――……、歩きながら話そうか」
「あ、はい」
「あと、お葬式とかもあるし」
「そうですよね。でも、まだなんでしょう?」
普通の死ではなかった。僕は「多分」と添えて頷いた。
並んで歩いていたはずだったのに、徐々に僕が先に出てしまう。若松さんが視界から外れた時点で、さすがにおかしいと思い、振り返る。彼女は妙にしんみりした表情でうつむいて、僕から一歩離れた辺りで立ち止まっていた。
「どうかした?」
「あ、あの……、えっと」
言っていいのか言わない方がいいのか、迷っているような雰囲気だと、思った。僕は何かフォローしようと口を開いたが、先に彼女の方が続きを言い始めた。
「先輩は、何か調べたりするんですか?」
「え――?」
最初は、彼女の言う意味自体が、よく判らなかった。
調べるというのは、何について調べるということだろうか。いや、話の流れから言って事件のことに決まっているじゃないか。でも、どうして被害者の知り合いというだけに過ぎない僕が、警察の真似事なんかすると思ってるんだろう? 僕なんかが何か調べたところで、判るはずがないじゃないか。
僕が呆気に取られて立ち尽くしていると、若松さんは慌てたように、その理由を話し始めた。
「い、茨木先輩が捜査するって言い出したって話を、聞いたんです――。そしたら、部長も何かするのかな、と思って」
噂の伝達が随分と速いようだ。さすがにこういう事件に関わることとなれば仕方ないのだろうか。
「……あいつはあいつで勝手にやるよ。僕を疑おうが何しようが勝手だ」
「や、やっぱり疑われてるんですね!?」
「え」
僕が疑われていたらどうだと言うのか。彼が僕を疑うのは、タイムテーブル上で僕が怪しいと言うのではなくて、僕を敵視しているからに過ぎなくて――。あるいは、だからこそ、なのか?
「そういう、噂が流れてるんです。あぁいう噂って、伝わっていくうちに色々変わってきたりするし、そしたらどうなるか判らないし……もしそれで濡れ衣を着せられたりしたら」
「僕が彼より先に解決してしまえば、それを止められるってこと?」
「はい」
明快な答えだった。
茨木純が本当にそこまで出来るかどうかはともかくとして――何にしても、疑われるというのは気分のいいものではない。根拠もなく疑われたり見下されたりするのは、大嫌いだ。彼がそれを判ってやっているのかどうかは知らないが、僕が彼を排除するような行動を取れば取るほど、何故か彼は僕に突っ掛かってくる。ならば彼女の言う通り、僕もそれに応戦しなければならないのかも、知れない。
僕が少し俯きながら考えているのを勘違いしたのかどうかは知らないが、若松さんは慌てたように言い始める。
「何か必要なことがあったら、あたしも手伝います。一年生に聞いて回るとか、あたしの方がやりやすいと思いますし」
「もし犯人に感づかれたら危ないかも知れないよ」
不審者が入り込んだとかいうことはないようだし、だとすれば学校関係者が犯人なのは確実なわけで。こうしてごちゃごちゃと捜査をする人間など、犯人にとっては邪魔に決まっている。既に一人殺した犯人なのだから、もう一人殺すぐらい容易いこと、かも知れないし。
「承知の上です! あたし、こう見えても運だけは良いんです」
二本の三つ編みを盛大に揺らして笑った彼女は、先刻とは打って変わって本当に嬉しそうに歩を進める。今度は僕が、その後を追った。先程の逆だ。
追いついてから、尋ねてみる。
「――本当は若松さんが捜査したい、とか?」
「えっ――……ど、どうして」
「いや、何となく思っただけ」
でも一人では心許ないから。警察の真似事なのだから、出来れば男手があった方がいい。ついでに僕が疑われている話を聞いたから、声を掛けてみた。……というのは飽くまで僕の想像だ。そこまで彼女が話してくれたわけではないし、そんな思考の経緯を知ったところで、何になるというわけでもない。
「友達が殺されたのに、黙ってるわけに行かないですから」
若松さんが呟く。僕は何度か頷くに留めておいた。
未だに人だかりの出来ている正門を通過する。若松さんとは例によってここで別れることになるから、これ以上の話はまた今度――、
「居たァ!」
突然、素っ頓狂な叫び声がした。何かと思うより早く、僕の前に薄茶色の髪をした青年が立ちはだかって、右手の人差し指を眼前十センチの辺りに突きつけられていた。怖い。
「こんなに人が居ると見つからないかと思ったけど案外見つかるもんだね、みっちゃん!」
「ヤッタネ!」
「やったね! お久し振りだね鬼太郎君、ちょっと見ないうちに随分背伸びたんじゃないか?」
唐突すぎて、目の前で何が起こったのか理解するのに五秒ほど掛かった。
――麻耶ミノルだ。一体何の目的があって僕らに近付いているのかはさっぱり判らない。その割に名前をまともに呼んでもらえないというのもまた不愉快な一因だ。以前会った時には連れていなかった、インコらしき鳥を連れている。
「何だいその不機嫌そうな顔は。あれ、もしかして君は彼女さん? いやあ青春だね!」
あろうことか若松さんにまで目を付け始めた。しかもさり気なくとんでもないことを言っている。
「違いますから。勝手に憶測で話進めないでください。――大体何しに来たんですか」
僕に会いに来たと言うのは確かなようだが。
麻耶はそれを聞くとニヤリと笑って、肩に乗せた黄緑色の鳥と顔を見合わせてから、どこか含みのある笑みを見せた。そして、腰に両手を当てて、通りすがりの人々から投げつけられる痛い視線など気にもせず、堂々と告げた。
「また君の周りで人が死んだって聞いたからさ。どんな様子かと思って見に来たんさ」
人が死んだ。また。
また、僕の周りで。
また、と言うことはつまり、以前にもあったということ。
それは、いつのことを、指している?
苦しみと恐怖に塗り固められた記憶が、喉の奥に仕舞いこんでいたはずの記憶が、じわじわと這い出てこようとする。僕はそれを必死に腹の中へと抑えこんで、最大級の嫌悪を込めて言葉を紡ぐ。
「……貴女も僕が悪魔の子だと言いに来たんですか」
あの時のあの人と、同じように。
僕が災厄を呼んでいるのだと。招いているのだと。――僕が居るから、血が流れるのだと。
しかし、麻耶は面白くない、という表情をするだけだった。
「嫌だなぁ、そんなこと言ってないじゃないか。彼女だって呆気に取られてるよ? あ、そうそう、この子をご挨拶させようと思ってね。コザクラインコのみっちゃんだよ。顔がほんのり桜色で可愛いだろう?」
全然関係ない話になる。若松さんの方がインコに反応して麻耶との会話が始まっている。僕は置いてきぼりだ。尤も、ついていきたいとも思わないのも事実ではあるが。
「不安定だね」
飛び込んでくる麻耶の声。僕だけに話しかけているのか、若松さんも含んでのことなのか。よくわからない。
周囲の雑音が聞こえなくなる。もちろん実際にはそんなことはなくて、確かに僕の耳に周囲の騒音は入り込んでいるのだが、僕が麻耶の言葉に意識を集中しすぎているというだけのこと。――騒音の中でも近くの人とちゃんと話ができるのは、確かカクテルパーティ効果と言って――……。
「君はもっと自由になっていいと思うよ」
「何ですか、いきなり」
しかし彼女は何も言わずに顔を近付けてきて、僕の前髪をピン、と軽く横に弾く。指先をいきなり目の前に近付けられたせいで僕が思わず目を瞑ったのが面白かったのか、彼女はクスリと笑った。眼鏡を掛けているから安全とは言っても当たり前の条件反射なのだから、笑うことはないと思う。
「隠してるってことは、恐れてるってことだろ。君は何を怖がってるの?」
怖がって、いる?
僕が何者なのか、知られることを、怖がっている。それで、隠している。
なら僕は――……真実を隠し続ける限り、一人孤独に生き続けるしかないのか?
――そんなのは、嫌だ。
「……麻耶さん」
僕の声を、彼女は聴いてくれているのだろうか。
騒音の中の雑音のひとつに過ぎない僕の声に、意識を傾けてくれているのだろうか。
「まぁ、また来るよ。次に会う時は元気になってるとイイネ」
「……もう来なくていいです」
「えー、冷たい。さくらちゃんだって困ってるヨ? ねぇ」
いつの間に彼女は若松さんの名前を聞き出したのか。いや、僕が聞いていないうちに彼女らの会話は進んでいたのだから、その間に名前ぐらい伝わっていても何の疑問もないではないか。どうして僕はいちいちそんなことに反応しているのだろう――。
「事件、無事解決することを祈ってるよ。間違ってもまた人が死ぬなんてことにはならないで欲しいね」
「もちろんです」
また悪魔呼ばわりされるのは御免だ。麻耶だけでなく、あの人からも。
「そんじゃ、またいつかね」
麻耶はひらひらと手を振って、雑踏の中へと消えていった。
僕と若松さんが、人の流れの中に取り残される。
どれぐらい長い時間、ここに立ち止まっていたのだろう。麻耶に遭遇したときの時刻なんか覚えていないから、今腕時計を見たところで何の役にも立たない。無駄な行為だ。
「……ごめん、知り合いだけど変な人なんだ。じゃあまた、木曜日に」
僕はため息を吐きつつ、当たり障りのない挨拶を口に出す。
「はい、木曜日に!」
若松さんは、、それ以上のことは、何も言わなかった。
3
「――茨木! どういうことだ、説明しろ!」
翌日。教室に入ると、俺の顔を見るなり、宮路が物凄い形相で掴みかかってきた。突然のことで、何が何だか判らない。
「ちょ、ちょっと待て、何の話だ、そっちこそ説明しろ。俺には何のことだか」
「しらばっくれんなよ! あんた以外に誰がやるんだよ! 何で私が説明しなきゃいけないんだよっ」
「え、恵里子、落ち着いて――イバラギ君の話も聞こうよ」
どうしてこの子はいつまでも俺の名前を間違え続けるのか――いや、そんなことはどうでもいい。佐久間が宮路を押さえてくれたので、ようやく俺は解放された。
「俺は本気で判らねえよ、嘘なんか吐いてない。何だよ、お前の大好きなあいつに何かあったのか? た、確かに昨日問い詰めたには問い詰めたけど、別にそれは――」
宮路の動きが止まる。これで話が逸れることを期待……しても無駄かも知れない。前回は無駄だった。彼女は怪訝そうな顔をして、俺の顔をじっと見ている。
「……本当にあんたじゃないのか……?」
「だから何の話だっての」
「行ってこいよ、C組」
宮路は投げやりな口調でそう言うと、ふくれっ面で自分の席に戻っていった。するとまたも佐久間が謝るから、あんたが謝ることじゃないと言っておく。相方の暴走を代わりに謝るのも結構だが、たまには自分で責任を取らせた方が良い。
しかし、全くワケが判らない。このまま動かなければ、きっとお互いに不愉快なままだ。俺は教室を出て、隣の教室に向かった。ドアを開けて、奴の席を探す。
「――あぁ、茨木君」
奴の声だ。一番廊下側の列の、前から三番目。
何のために読んでるのか知らないが、分厚い医学書を広げている奴を視界に入れて、すぐ異変に気付く。
「――……何だ、お前、その頭」
長かった髪がバッサリと切られていて――それだけなら結構な話だが、長さも切り方もぐちゃぐちゃだ。俺でなくても、誰が見てもそれがおかしいと一目で判る。鏡も見ずに適当にヤケクソかなんかで切ったのか、そうでもなければ誰かに無理やり――……って、待て。
それはつまり、そういうこと、、、、、、なのか?
俺は奴の目の前にずかずかと歩み寄る。そして奴の机にバン、と音を立てて両手をつく。周りがにわかに騒ぎ出したが、そんなことはお構いなしだ。
「おい、サネ。そりゃ、どういう、ことだ?」
名前のことも、もうどうでもいい。この際、他人ごっこも止めにしよう。
碧くなった右目を隠していた前髪もすっかり短くなっているから、ぎろりと両目で睨み付けられる。眼鏡のフレームの上から、思いっきり上目遣いに。――右目は、以前と同じ灰色に戻っている。
「睨むな。何か答えたらどうだ。いじめられっ子の振りしてそうやって自分で髪切って、俺を陥れるつもりか?」
「宮路には自分で切ったって言ったよ。純がやったと思われたんなら、純が、、そういう奴だと思われてるってことじゃないか?」
俺がいくら強く出ても、相変わらず微動だにしない。
いじめられっ子がいじめっ子を簡単に指摘できたら、きっと苦労しない。そうでなくても、こいつは自分が被害者だろうと加害者だろうと「何かがあった」ことを伏せようとする節があるから――昨日のように――、宮路がその性格を知っていれば、解釈を誤っても無理はない。
そして、こういうことを仕出かしてもおかしくない奴だと俺が、、思われてるんだろうと。だから、犯人候補の筆頭に挙げられたんだと、こいつはそう言っているのか。
でも、俺を陥れる意図がないなら何もこんな滅茶苦茶な頭にする必要はない。いくら下手な床屋に行ったってこうはならないし、万が一なったとしても寮に帰れば寮母さんなりルームメイトなりが絶対口と手を出すだろう。
――あぁ、そうか。
俺がこいつに嫌疑をかけたから、こいつはそれに仕返ししてるだけだ。昨日俺がこいつにやったことは、こういうことだと。宮路だけじゃなく、こいつが今朝出会った全員に、俺はきっと疑われた。
「……ッ」
そう思った俺は思わず、奴の胸倉を掴み上げていた。
「殴るか? 公衆の面前だけど」
奴は、そうにこやかに言いやがる。
こいつを殴るのは別段珍しいことじゃなかった。小学校の頃はしょっちゅう取っ組み合いの喧嘩してたし、殴り合ったからって何だって言うわけじゃない。いつものことだったから。クラスメイト達もそれを、知っていたから。
――でも、今は違う。こいつは、そういうことを言っている。今ここでこいつを殴れば、俺は途端に大人しいいじめられっ子(しかも眼鏡)を殴った奴として非難を受けることになる。――疑惑が、事実に変わる。
「い……茨木君、落ち着いて。桧村君も、あんまり挑発しない方が」
真面目そうな、何も知らない同級生が介入してくる。……俺はそいつのことを知らないが、そいつは同級生でも何でもない俺の名前も知っているらしい。当然か。俺は良くも悪くも有名人だからな。
「……落ち着いてらぁ」
落ち着いてなかったらとっくに殴ってる――と、思ったんだが。
「気にしないで。純がどういう奴かは良く知ってるから」
そんな風に言われると、さすがにカチンと来た。
「おい、眼鏡外せ」
「?」
「さっさと外せよ」
俺の意図を理解したのか、奴は無言のまま目を伏せつつ右手で眼鏡を外して、机の上に置いた。
俺はそれを確認してから、右ストレートを決めてやった。渾身の力を込めた。眼鏡でなければ、こいつに対して遠慮なんか要らない。もちろん周囲はまたキャーキャー言って騒ぎ出したが、今度は誰も俺を止めに来ようとしない。……つまり、実際殴られている同級生よりも自分たちの身の安全を優先してるってことだ。哀れだな。
後ろの机を突き飛ばしつつ、壁にぶつかって沈み込んでいた直実がゆっくりと立ち上がって、何も言わずおもむろに、俺の横に立った。
「何だよ――」
スッ、と息を吸った奴が右手を引いたのが見えた。
あ、避けないといけないんだな、と脳が感知する。が、指令が運動神経の末端まで伝わらない。あるいは、伝えなかったと言う方が正しいのかも知れない。ここは素直に殴られておくべきところで、避ければ逆に失礼にあたると。
そのとき一瞬、奴の右目がまた碧色に光ったような気がして、俺の意識は完全にそっちに逸れた。
――視界が回った。
結局、お約束のように――俺も殴り飛ばされたわけだ。
誰かの机の端に当たったらしい背中が痛い。頭も打ったかも知れない。そう、こんなことはいつものこと。お約束。これでお相子になる。だがそれを知らないこいつの同級生たちは、一体どう思ったんだろうな――。
目を開けて状況を把握する。俺はぶつかった机に寄り掛かる形で地面に座り込んでいて、正面に奴がすまし顔で立っている。案の定、奴の周囲から人は居なくなっていた。
「へっ……お前にしちゃ随分軽い仕返しじゃねえか」
ダメ押しをしてやると奴は頬を腫らした顔で笑って俺の前にしゃがみ込み、
「じゃあもう一発殴ろうか?」
などとのたもうた。なるほど、もう開き直ってるってわけか。
「――遠慮しとくわ。殴られて嬉しくはねえし痛えし、お前の評価が下がるだけだろ」
親切心で言ってやると、奴は本気で意味が判らないと言うような顔をして、首を傾げながらまた立ち上がった。
「僕がどんな評価受けてるかはよく判らないんだけど」
「…………」
さすがに呆れた。別に演じてるわけじゃねえよ、ってことを言いたいのか。
だが少なくともこいつの同級生たちがどんどん引いてるのは、無関係の俺にだって判る。いいのか、これで。普段の大人しいこいつしか知らない奴の目には、今の一幕のこいつは豹変したように映るんだろうな――。
まぁ、それはそれで、面白いか。
「僕の心配するぐらいだったら、自分の心配したらどう?」
「あ?――」
無表情に戻った直実が、視線で教室の出口の方向を示す。
そこには朝のホームルームをしに現れたこのクラスの担任が、呆然といった表情で立ち尽くしていた。
「えっと……何が、あった……?」
困った顔でそう呟く担任。
この状況はまさしく『事後』。机の配置は滅茶苦茶、その中で明らかに目立っているのは半径五メートル以内にクラスメイトを寄せ付けずに突っ立っている直実で、他クラスの俺が人の机に寄りかかって崩れ落ちている。直実の髪がぐちゃぐちゃで、いつも掛けてる眼鏡を掛けていなくて、唇が切れていて頬も腫れている。思いっきり殴ったから、遠目に見てもすぐ判る。つまりどう見ても先に手を出したのは、――俺だ。
そして俺の顔はもちろん、教師たちにはよく知られている。
「桧村、その頭は――」
「気にしないで下さい、自分で切ろうとして失敗しただけですから」
唇の血をぬぐいつつ、昨日と同じように爽やかな笑顔でそんなことを言う。
――こいつが器用なのは周知の事実だから、とてもそうは見えない。気にするなと言われたって気になる。よって信じてもらえるわけがなく、
「……茨木――……お前が、やったのか」
倒れている俺のところに寄ってきて、少し哀れむような顔で、そう言ってくる。
C組の担任は割合優しい人だが、違うんだから「はいそうです」なんて言うわけにはいかない。
「い、いえあの、まぁ俺が原因っちゃ原因なんですけど、俺がやったってわけじゃなくてホントにこいつが自分で」
俺を陥れようとして、とまでは言わないでおいた。そこまで言うと逆に俺が疑わしい。言い訳がましく見える。
「……でもなぁ……」
そうですよね、『でもなぁ』ですよね。
ええい直実、何とか言えッ! 観衆たちも何とか言えよ、少なくとも殴り合いは見てたろ! 周囲を見回してそんな電波を撒き散らしたつもりだったが、届いたのは約一名だけだった。
「教室の中で殴り合いをしたのは事実ですから、責められるべきなのは僕も同じです。お騒がせして済みませんでした。純、そろそろチャイム鳴るよ」
直実は眼鏡を掛け直しつつ、さらさらとそんな台詞を口にした。
「で、でもな桧村、」
「これはただの子供の喧嘩です。わざと純を怒らせた僕にも責任はあるし、殴り返したのも子供の論理です。この場においてはどちらかと言うと僕の方が悪いので、早く純を解放してあげて下さいませんか?」
有無を言わせない口調。教師の方があたふたしていて、騒ぎを起こした張本人が冷静ってのも変な図だ。でも――何で俺、こいつに庇われてんだ?
俺は昨日こいつを怒らせた。で、今日仕返しされた。確かに『この場においては』仕返してるサネの方が悪いのかもしれないが、昨日のことを思えば妥当なはずで――。
それにさっきこいつが自分で「自分の心配しろ」って言ったじゃねえか。この状況を教師に見られたらまず責められるのは俺だって言ったのは自分じゃねえか。どういう心変わりだ。
「判った。話は後でゆっくり聴こう。茨木、今は帰れ」
「は……はぁ。えっと、サネ――」
「いいから、後で。……正直ここまで上手く行くとは思ってなかったよ」
そう言って、苦笑。それこそ子供のような無邪気な笑顔で、いつもの作り笑いのような嫌味さはなかった。
……宮路が勘違いして俺を責め立てたりしなければ、もしかしたら俺はここに押しかけてもいなかったかも知れないわけだ。人の勘違いを誘うなんて行為が許されるのは、それがジョークである時ぐらいだろう。だから、教師という大人の介入は避けなければならなかった、のか。
馬鹿な奴だと、思う。もし上手く行かなかったらどうする気だったんだか。
いや、そんなことはどうでもいいのか。これは、少し度が過ぎた子供の遊びに過ぎないんだから。
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