こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第五話 さまよえる奇術師達




第二章「無関心と云う狂気」

   1

 私立風誠(ふうせい)学園高校は、都内でも有数の進学校だ。高校にしては珍しく、一学年はわずか三クラス編成。志望者数に対して定員が少ないため、当然偏差値は跳ね上がる。日本全国から集まる生徒のために、寮も男女それぞれ用意されている。そしてそこに通う俺たち生徒には、無駄にプライドが高かったり競争心に溢れてたり負けず嫌いだったりと、ことごとく『それらしい』奴らが集まっていた。俺自身も、というか俺はまさしくその代表みたいなもので、他人の上に立っていないと気が済まない性格だった。定期試験の成績は勿論のこと、受験勉強には関係ない空手部の活動でも決して手を抜くことなく、部内では俺に勝てる奴は居ない、というところまでに至った。
 だから、入学してからしばらく、俺は文武両道の完璧人間として学年中に名を轟かせていた。今から思えばそれが何だって話ではあるんだが、まぁ当時の俺にとってはそれが、誇りだったんだろう。
 ――それが崩れ去ったのは、高校二年の一学期、中間試験でのことだ。一九九五年、六月になる。

「俺が、負けたって――?」
「そ。うちの部長がついに抜いたよ」
 同じクラスのにぎやかな女が、貼り出されたばかりの順位表を見てわざわざ報告しに来てくれやがった。俺が定位置だった一位の座を、隣のクラスの誰とかに譲り、二位に後退していたと――そういう、話だった。
 ――……本当は「誰とか」じゃない。俺はそいつのことを良く知っている。だが高校入学以来ずっと、知らない振りをしていた。向こうだってそうだ。お互いの関係を、周りに知られたくなかった。理由? そりゃあ――あっちに、原因がある。
「ひー君、物理化学に強いんだよねぇ」
 にぎやかな女、宮路恵里子といつも一緒に居る清楚系のお嬢さんが、さらに俺を追い詰めるようなことを言う。ちなみに名前は佐久間千尋(さくまちひろ)だ。確かに俺は思考回路的には文系だが、理系科目だって出来ないわけじゃない。現に去年はずっと一位取ってたんだぞ――。いや、言い返しても大人気ないだけか。
「……で、それをいちいち言いに来た目的は何だよ」
「別にィ? 知りたいかなーと思って教えてあげただけ。じゃーね! 行こ、千尋」
「うん。じゃあね、イバラギ君」
「じゃ……い、イバラ“キ”だ! イバラギじゃねえッ」
 わざとやってるのか何だか知らないが、二人は訂正せずに行っちまった。……けっ。そのうち本気で茨城県民と共に立ち上がるぞ。俺は生まれも育ちも神奈川県で、茨城には行ったこともないが。
 その、理科の得意な誰とかは、隣のクラスに所属している。と言っても俺はB組だから、他クラスはどっちも「隣のクラス」になるんだがな。奴はC組だ。まぁ、同じ高校に通うことになっちまったとは言え、同じクラスにならなかったのは不幸中の幸いと言わざるを得ない。そもそも俺と奴が同じ高校に居るのは、互いの家庭の事情やら、俺の負けず嫌いな性格その他が色々重なり合った結果で、仲良く一緒の高校を目指そうだなんて気持ち悪いことをやったわけじゃない。俺が奴の志望校に目を付けたのは事実だが、それはただ奴に勝ちたいという目的でやったことだ。これ以上のレベルの高校には受からなかったから、ここを蹴るわけにも行かず、結果的にこうなった。……それを知った時の、奴の呆れ顔が忘れられない。憎たらしい。
 ……近いうちに少し、突っつきに行ってみるとするか。
 一体どういう反応が帰ってくるか、楽しみでもあり、不安でもある――。

   *

 六限の日本史が終わると、俺はそそくさと荷物をまとめて部活へ向かうことにした。奴を突っつくのは何も今日でなくてもいい――と、思った矢先だった。
「純、放っといていいのか?」
 廊下の途中で、俺の背後から同級生で部活仲間の保井征彦(やすいまさひこ)が言った。俺より一回り……いや、二回りぐらい大きくて、空手部と言うよりも柔道部のような印象を受ける。ガタイが良くて迫力はあるが、別段怖い奴じゃない。むしろ芸人みたいな奴だ。
「放っとくって、何を」
「お前を抜いたって奴。お前のことだから釘刺しに行くんだろ、調子乗るなってさ」
 見抜かれてやがる。俺が典型的なガキ大将気質だってのを、こいつはよく判ってる。まぁ、この歳にもなってガキ大将やってるなんて子供だなぁとでも思ってんのかも知れないが、それはまた別の話だ。
「まぁ、また今度な」
「ふぅん。――そもそもそいつ、面識あんの?」
「いや、名前だけ」
 嘘だ、大嘘だ。面識どころの話じゃない。言葉も覚束なかった頃から知ってる。
 何も知らない保井は嬉々として乗ってきた。
「大体誰なんだ、宮路んトコの部長って。あいつ何部だ? 陸上か何かか?」
 宮路は一見すると運動好きのボーイッシュな女子だから――実際去年の体育祭では大活躍だった――、まぁ普通に見ればそう見える。あるいはバスケ部あたりか。
 だが実際は、そもそも運動部ですらない。
「料理部」
「はァ!?」保井の大声に、周囲に居た見知らぬ人々の大半が振り向いた。と言うより、恐怖に慄いた。「嘘吐け、あの宮路がまさかそんな、お料理だなんて似合わねえ。あいつのことだから、味噌汁に豆腐一丁切らずにまるごと入れたりとかしてんじゃねえか……? 煮えたぎる味噌汁の中で異様な存在感を示す巨大な豆腐! おお恐ろしい!」
 保井は大袈裟なアクションをしながらそんな冗談を言う。いや、いくら彼女でもさすがにそれは無いだろ。今の発言、もし本人が聞いてたら怒るぞ。それに味噌汁が煮えたぎっちゃ駄目だろうが。
「よく考えろよ。佐久間だって一緒なんだぜ?」
「あぁ、そうか」
 もしかしたら仲良しの佐久間に巻き込まれて入部したのかも知れない。アレでも一応女の子なんだろうし、つまらないってことは無いんだろう。受験だなんだで教室は戦々恐々としてるから、部活ぐらいのんびりしようってことなのかも知れないしな。……それでどうして日常的にトレーニングに励む運動部員と、体育祭で対等に戦えたのか疑問に思うが、その原因の一端は何となく想像がつく。まぁ、それだけが原因ってことはないだろうが――。
「人は見かけによらねえんだなぁ」
「まぁな――」
 俺の周りはそんな奴らばっかりだと思うが、それは俺の偏見だろうか。
 今こうして歩いている途中すれ違った生徒たちがどういう人間かなんて、見た目だけで判断できるわけが――、
「あ」
 今すれ違ったのは、あいつ(、、、)だったんじゃないか?
 眼鏡でひょろ長い、あいつだ。『桧村君』だ。いつ頃からか髪を伸ばして、前髪で右目だけ隠すようになって――今でもそんな調子だから酷く目立つし、すぐに奴だと判る。そんな奴は俺のことを見もせず、無表情のまま通過して行った。振り返って見えるのは、ズボンのポケットに片手を突っ込んで、廊下を足早に進んでいく後姿のみ。
「どうした?」
「あ、いや」名前しか知らないって言ったんだから、あいつがそうだなんて言うわけにいかない。言ったところで後姿しか見えないし。「何でもない。行こうぜ」
「? お、おう」
 これ以上奴のことを考えているとイライラして仕方ない。
 飽くまで俺はガキ大将気質だから、まるで従おうとしないあいつがどうにも気に食わなかった。俺のことを見下すような態度に、腹が立った。だからと言って、力で捩じ伏せられるかと言えば、それも駄目だった。身が軽くて、ひょろい癖に力もある。どうして勝てないのかさっぱり判らなかったが、勝てないということはそのうちに悟った。その後、力で勝てないなら頭で勝ってやろうと奮闘して、高校一年にしてやっと――やっと、奴に勝てたんだ。それは多分、悲願だったんだろう。だから今俺は、猛烈に悔しい。冷静にあいつのことを考えるなんて余裕はない。結局あいつには勝てないのか? 今度だってきっとあいつは平然として、俺が悔しい思いをしてることなんか考えもしない――。
 そしてあいつは――……二年前のあの事故以来、おかしくなったままだ。
 そりゃあ、兄貴と母親が自分の目の前で死んだってんだから、気持ちは察するさ。トラウマにもなるだろうよ。だが、あいつがおかしくなったのは、どうやらその事故そのものが原因じゃないらしい。……詳しくは知らないが、犯人扱いされて、その関係のことが原因なんじゃないかと噂された。だが本人は何も言わないから、本当のところがどうなのかは判らない。
 あの後奴は、学校に出てきてもまともに口も利かず、日がな一日無表情のまま、淡々と義務をこなすような毎日を繰り返していた。俺らの話なんか聞いてもくれなかったし、ちょっと優しく声を掛けようものなら、逆に激しく罵られてえらい目に遭った同級生も居る。事故直後の奴は、完全に他人を排除していた。そんなんでよく学校に来てたもんだと思うが、俺の想像する限りでは、家はもっと居心地が悪かったんだろう。
 それでも、時間が経つごとに落ち着いては来たようだ。特に父親が再婚して、義理の母親と弟が家に来てからはだいぶ様子が違ったと思う。と言ってもほんの数ヶ月だが。でもまだ、何と言うか――他人を信用しきれてないような、そんな感じがする。……俺なんか高校受験でのことがあったからか、あるいは他のことが原因かも知れないが、目の敵みたいにされてるしな。
 ――だから、互いに知らない振りをしている。きっと、関わらない方がお互いのためになる。関わってしまえば、またきっと大喧嘩になるだけだ。同級じゃないんだから、別に関わらなくても済む。卒業までやっていける。

 ……駄目だ、イライラする。
 俺は廊下に転がっていた空き缶を、壁に向かって思いっきり蹴飛ばした。派手な音がして、歪んだ缶がまた、その場に転がった。

   2

 久々に、彼の顔を見たと思う。相変わらずの様子だった。僕に気付いてもいないようだったし、こっちも見ない振りをしていたから、お互い様だ。気付いたところで、声を掛けて欲しいとも思わない。どうせ修羅場になるだけのことだ。それに、もともと仲が良かったわけでもないのに下手に同じ学校に進んでしまって、もし同郷だと、幼馴染だと周囲にバレたらどうなるか判ったものじゃない。
 彼のことを考えるのは止めにしよう。気分が悪くなるだけだ。
 調理室のドアに手を掛ける。既に何人か揃っているのか、中からにぎやかな声がしている。
「――噂をすれば! 桧村おめでとー、今日は予定を変更してちらし寿司にでもしますか?」
「そんな材料ないよ、恵里子。あ、でもホントにおめでとう、ひー君」
 ドアを開けるや否や、そんな言葉が浴びせられた。到着していたのは、同学年の二人、宮路と佐久間だった。向かい合って座って、缶ジュース片手にのんびりしている。随分とタイプの違う二人だが、何故かいつも一緒に居る。
 しかし――僕には二人に祝われる所以が判らない。なので、鞄を机の上に置きながら、正直に訊いた。
「何の話?」
 すると、宮路は何故か机を叩いて怒り出した。怒ることはないと思う。
「な、あんた、順位表見てないわけ? 生徒の一大関心事でしょうがッ」
 順位表? あぁ、定期試験の成績か。やっぱり、そんなことで怒る必要はないと思った。
「別に、学年の中での順位なんてどうでもいいから」
「む、無頓着だねぇ……。一位だよ、一位! もっと喜べ! ほら今日は赤飯炊こうか?」
「だからそんな準備してないよ」
 律儀に突っ込む佐久間の声を聞きながら、宮路の台詞を脳内で再構成する。
 今……僕が、一位だった、って言ったのか?
 確か――……確か、()が今まで一位だったんじゃなかったか。色々言われていたから、掲示を見ない僕の耳にも入って来ていた。すると――また厄介なことになりそうな気がする。思わずため息を吐いた。
 案の定、勘違いされた。
「何よため息なんか吐いちゃって。一位になって嫌なわけ? じゃ、あんたのその成績あたしにちょっと譲りなさいよぉ」
「恵里子、それは無理だと思うな」
「……欲しいなら譲ろうか?」
 正確には「譲る」のとは少し違うが。
 僕は半分本気で言ったのだが、宮路は違う意味に受け取ったらしい。
「ば、馬鹿、不正は駄目に決まってるでしょ! 冗談を冗談として受け取りなさいよね!」
 まぁ、僕の考える方法でも不正と言えば不正、か。だからこそ僕自身も使わないようにしているわけだし。――つまり、術を使って記憶力なり何なりの能力を上げるということ。多分、兄さんはよくやっていた。
 と、宮路が何かを思い出したかのように、急に表情を変えた。
「そうだ、あいつには気を付けな。良い噂無いのは桧村も知ってると思うけどさ」
「『茨木君』、のことか?」
 今まで一位だった彼、茨木純。高校に入ってから、お互い、名前やあだ名では呼んでいない。暗黙の了解みたいなもので、無関係の同期生を装っている。
「そうそう。良かった、話が早くて」
 宮路は少し目を見開いてそう言い、最後に笑った。
 やはり、僕の抱いた予感は僕だけのものではないようだ。彼のことだから、きっとそのうち僕のところへやって来るだろう。関係がばれるとか、そういうことは考えない。
「先生たちも警戒してるんじゃないかな。あいつがどういう奴かって皆判ってるし」
 まぁ、一言で言うなら悪ガキだ。全然関わらずに生活してたって噂は耳に入ってくる。ただ、噂だけで証拠は無く、教師たちも何も手出しが出来ないというのが現状らしい。そういうところが小賢しい。悪いことをするならするで、もっと堂々とすればいいと思う。
 僕は頷くに留めて、本棚に置いてある部誌を取りに行く。宮路はちらし寿司だの何だの言っていたが、確か今日は――。
「こんにちは! あ、部長、一位おめでとうございます!」
「先輩、今日はお祝いパーティやらなきゃいけませんね! ケーキ作りましょうケーキ」
「え」
 一年生が二人来たらしいが、彼女たちまでそんな話を吹っかけてくる。……本来テストのたびに入れ替わるものなのだから、そんなに重大なことだとは思えないのだが。
 ちなみに、先に発言した方が一年A組、戸川夏美。背が高く活発で、宮路と気が合っている。後者も同じくA組、美園佳織。家は随分な富豪らしい。まだ幼さも残る話し方をするが真面目なので、どちらかと言えば佐久間とよく話していると思う。
「ほらほら! なっちゃんと佳織ちゃんも言ってるでしょうが! 千尋、やっぱり今日は豪華に行こうよ豪華に」
「だ、だから――」
「先週味噌煮込みうどんが食いたいって連呼したのは何処の誰だ」
 今週のメニューは宮路のごり押しで決定した。
「うっ」
「でも、味噌煮込みうどんも何となく豪華ですよね! じゃあ今日はうどんでお祝いしましょう!」
 美園さんそれはフォローになっていないよ――とツッコもうかと口を開いた時、再び部屋のドアが開いた。現れたのは一年B組大江智子と、一年C組若松さくらのコンビ。中学校時代からの親友らしい。三年生はもうほとんど来ないから、これで全員揃ったことになる。
 二人は室内の雰囲気に首を傾げ、互いに顔を見合わせる。先に口を開いたのはポニーテールの大江さんの方。
「お祝いって聞こえたんですけど、何かあったんですか?」
「今日はパーティやるんですか?」
 あぁ貴女たちまでその話するんですか、もう勘弁してください――と僕が思ってもどうにもならず、宮路が大喜びで二人に説明し始める。もう駄目だ、今日は諦めた方がいいかも知れない。一気に力が抜けて、傍にあった椅子になだれ込むように座った。ひとりでにため息が零れる。
「あはは……ひー君も大変だね」
「全く」
「でも、凄いことだと思うよ。わたしが頑張っても二人とも抜けそうにないもの」
「……」
 佐久間はずっと三位だと言っていたように思う。譲れるものなら譲ってもいいが、そんなことをしてもきっと彼女は喜ばないだろう。
 僕が何も言えずに居ると、佐久間は穏やかに微笑んで、あっさりと話題を転換した。
「恵里子まだ掛かりそうだから、先に準備してようか」
「……そう、だな」
 どうして宮路はそんなに喜ぶのだろう、普段あんなに喧嘩ばかりしているのに。よく判らない。まぁ、判る必要もないか――。

   *

 もうそろそろ夏が近いと言うのに冬の定番メニュー味噌煮込みうどんを提案した張本人は、いつになく楽しそうだった。うどんが嬉しいのかどうかはよく判らない。僕個人的にはそうであって欲しい。
「熱いけど美味しいです! 暑い日に熱いものもいいですねぇ」
 美園さんが言って、他の一年生も同調して頷く。そして笑う。確かに、こんな日に限って気温が高い。
「今度は冷たいものにしませんか? 冷やし中華とか」
 戸川さんの提案。一気に冬から夏になりそうだ――まだ梅雨に入ってもいないのだけれど。
「うーん、じゃあいっそのこと手打ち蕎麦かうどんで! 冷たいのだから、ざる!」
 手打ちと来るか若松さん。いつも以上に調理室の雰囲気がカオスになりそうだが――まぁ、面白いと言えば面白い、か。
「め、麺類ばっかりだね……」
 苦笑して呟いたのは大江さん。彼女はいつもツッコミ役だ。ポジションが佐久間に似ている。
「うーん、でも楽しそう! 冷やし中華は撤回。私手打ちってやったことないんだ」
「でしょでしょ。一人じゃなかなか大変だし。先輩方どうですか?」
 冷やし中華が提案者本人によって撤回されたので、一年生の結論は固まったと判断したらしい。何となく話を見守りつつ食事に集中していた僕らに話が振られたので、会話モードに切り替える。
「いいんじゃない手打ち。私はやりたい。今日うどんだから蕎麦?」
「箸をこっちに向けるな」
「失礼。千尋は?」
「いいと思うよ。さくらちゃんの言う通り自分ちじゃなかなか出来ないし、寮の子はもっと無理でしょ? ね?」
 そう言いながら佐久間がこっちを見た。同意を求められているらしいので頷いておいた。確か、一年生の中だと大江さんが寮生だったはずだ。男女別棟どころか場所も地味に離れているので交流があるわけではない。ちなみに女子寮の方が学校に近い。
「予算オーバーしなければ僕は何でもいいんだけど。手打ち蕎麦でOK?」
 一年生の「オッケーでーす」と言う声が重なった。


 ――だが結局その後、手打ち蕎麦を作る会合が実施されることはなかった。


 料理部の集まりを五時半で解散して、僕は一人図書館に行って勉強……いや、読書することにした。すぐに寮へ帰って夕食と言われても、そんな気分にはなれないからだ。それならもう少し帰りの遅い運動部の人波に紛れて、そちらのグループに合流させてもらった方がまだ良い。だから、部活のある日は大抵そのようにしていた。門限や何やとうるさい寮ではなくて助かっている。その日も同じタイムテーブルで動いた。
 下校時刻は六時ということになっているが、図書館は比較的遅くまで開いている、と言うのも変な話だがそうなっているものは仕方がない。校舎が施錠される最終下校時刻は八時だから、それまでに帰れば良い。とは言っても、余りにもギリギリまで居ると急かされてしまうから、そこまで遅く居ることは余りない。その時もいつも通り、七時半より前には撤退した。
「あ、部長! こんばんはー」
「こんばんは! ずっと勉強してたんですか?」
 図書館の建物から出たところで、一年生二人と鉢合わせた。若松さんと美園さんだった。珍しい組み合わせだ、と思った。
「いや、まぁ……暇潰し、かな。二人こそずっと残ってたの? 何か残したことあったかな――」
 素直に訊くと二人は顔を見合わせて苦笑してから、若松さんが答えた。
「あ、いえ、あたしは家庭科の課題で被服室に篭ってたんです。教室のロッカーに荷物置きに行ったら廊下で佳織ちゃんに会ったので、じゃあ正門まで一緒にってことになって」
「あぁ、それぞれ勉強か」
「はい――私、今度のテスト、散々だったので」
 照れ臭そうに美園さんが言う。それを聞いた若松さんが「そんなこと言ってもあたしより良いんでしょ!」と言いながら笑ってフォローしている。何だか微笑ましい関係だ。どうして僕は彼と、あんな風に対立してばかりいるんだろう――まぁ、長く一緒に居れば仲良くなるというものでもない、か。合わないものは合わないのだから、仕方ない。
 こんなところで立ち話していると時間が過ぎてしまう。というわけで、僕も合流して正門で別れることにした。街道沿いにある学校の正門から、僕は左へ行って寮へ、地元住民の若松さんは右へ行って実家へ、美園さんは信号を渡って駅の方へと向かう。
「それじゃ、お疲れ様でした」
 そう言い合って、僕らはいつも通り、普通に別れた。何の変哲もない、帰り道のはずだった。
 ――事態がこの時既に動き始めていたらしいことは、後から知ることになった。

   *

 つらい、息苦しい、もう沢山だ。

 だから、もう終わりにする。

 どうして自分がこんな思いをしなければならないんだろう。

 どうして自分がこんなおぞましい事をしているんだろう。

 どうして自分が――……。


 ――でも、本当に苦しかったんだ。

 こんな事を考えてしまうほど。

 こんな事を実行してしまうほど。


 でももう、それも終わりだ。

 もう、苦しまなくていい。


 ――……ただ、気持ち悪いだけ。


   3

 その、翌日になると思う。朝の、七時頃だと思う。始業は八時半だから学校にはまだ人気(ひとけ)も疎らだ。朝練もないってのに随分早く来ちまった。まぁ、勉強でもしてようかと思ったんだが、神様の思し召しか――俺と奴は、教室の前の廊下でまたばったりと、出くわした。尤も、同じ学年で隣のクラスなんだからすれ違わない方がおかしいんだが、この時刻じゃ異常だ。奴がロッカーから荷物を出そうとしているところに俺が通り掛かって、奴の方が気付いた。振り返った。突然振り向かれたから、俺は驚いて思わず立ち止まる。奴はわざとかと思うぐらい思いっきり眉をしかめて一言、
「茨木、君」
 と呟いた。それだけか。
「……よぉ、桧村君」
 目も合っちまったし、名前まで呼ばれちまったし、返答するしかない。無視してもまぁどうなるってわけでもないだろうが――……偶然とは言え、元々会うつもりで居たんだ。何も問題はない。
「とりあえず一位おめでとうよ。一応祝福しとくわ」
「……どうも」
 やる気の無い返事だ。半分しか見えない表情も相変わらずで、どう思ってるのかさっぱり判らん。
 そのまま睨み合うこと数秒。
 先に声を発したのは奴の方だった。
「僕に何か言いに来たんじゃないのか?」
「別に、お前に会いに来たわけじゃねえよ。偶々ちょっと早く来て、すれ違っただけだ」
「……そう」
 素っ気ない。何故かイラッとする。
「お前こそ、随分早いんだな。寮って皆で一緒に朝飯なんじゃねえの?」
「部活のある人も居るからバラバラだよ。まぁ、曜日によってメンバーは固まるけど」
 はぁ、なるほどな。って、そんなことを聞いてんじゃねえよ。
「そうじゃなくて、こんな早く何しに来てんだ? いつもこんな早いのか?」
 訊くと、奴はまた眉間に皺を寄せた。絶対わざとだ。
「……? 茨木君こそ」
「べ……勉強すんだよ。家で勉強するより学校の方がはかどるんだ、いいだろ別に」
 割と正直に言ったつもりだったんだが、奴は心底驚いたような顔をして、「へぇ」と声を漏らした。いちいち腹立たしい奴だ。
 ――って、また答えられてねえじゃねぇか!
「お前、わざとそうやって惚けて、」

 ――ギャアアァァアッ!

 この世のものとは思えない叫び声が耳に飛び込んできて、俺は思わず声を止めることになった。