こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第五話 さまよえる奇術師達




   Prologue

 恐怖の底なし沼に、突き落とされた気分だった。

 自分が一体何をしたって言うんだろう。

 自分は何も悪くないはずなのに。

 悪いのはあの人たちなのに。

 どうして、苦しめられなきゃいけないんだろう。

 どうして、――。



 ――そうだ。

 いい事を、思いついた。


第一章「火の点いた導火線」

   1

 始業式当日から波乱に満ちて始まった高校三年の春でしたが、その後は何事もなく平和に一ヶ月が過ぎて、待ちに待ったゴールデンウィークがやって来ました。今年は一日二日が土日だけど、蒼杜高校は土曜授業があるので二日から四連休。でも、家では特にどこか旅行に行くとかいう予定は無い。友達と買い物に行く予定を四日に入れて、日曜日の今日、五月二日は、いつも通り日がな一日アルバイトなのです。
 今、店内に居るお客さんは今日は非番だという純さんが一人。
 純さんは非番の度に来てるってわけじゃないみたいだけど、仕事関係以外にも結構な頻度で来てる。何かするよりも直実さんとだべってる……違うな、愚痴零してる方が良いんだな、きっと。休日はジムにでも行ってめいっぱい運動してリフレッシュ!とかやってそうなイメージあるけど、それは心の奥に仕舞っておこう。かなりの甘党って時点で『刑事さん』のイメージとずれまくってるし。そういえば「刑事さんって呼ばれるのは嫌だ」って言ってたけど、どうしてなんだろうな。
「なぁ、まだ課長が通り魔の件が納得行かないっつってんだよ、お前の口から出まかせで何とかならねえか?」
 ――三月から四月にかけての、連続通り魔事件のことだ。
 犯人が術師だったから結局捕まえられなくて、事件は事故として終結した。
「出まかせなら前言っただろう。いっそ正直に全部話そうか? 実は超能力者が犯人でして、超能力で殺していたので物証が無いんです、たとえ捕まえても無罪になってしまうかと――」
「馬鹿、信じてくれねえよそんなの」
 直実さんが怪しい演技に身振りも交えて展開した話を、純さんは呆れ顔で一蹴した。一蹴された直実さんはさすがにムッとしたらしい。
「じゃあどうするんだよ。人がせっかく真面目に答えたのに」
「どこが真面目だ。それを相談してんだろが」
「そんなこと私に訊かれても困る。私はお悩み相談員じゃない。納得行かないって言うんだったら正直に言った方がいい気がするけど……まず公表できないことに変わりないし、遺族感情のこともあるだろうし。――本人がもう認めないかも知れないけどな。任意同行も拒否したことだし、証拠がないと」
「――……」
 純さんが唸り始めた。純さんの気持ちも判るし、直実さんの言い分も判る。でも、あたしにはどうすることも出来ない。良い案も浮かばない。
 でも確かに春の事件以降――町内の雰囲気は何処か静まってしまったと言うか、皆が見えない恐怖に怯えている感じがする。だからせめて『犯人』が見つかったということだけでも伝われば少しぐらい落ち着くんじゃないかと思うけど、そう簡単に行く話じゃない、か。難しい。
「まぁ、どうしてもって言うんだったら私が代わりに実演して見せても」
「だ、馬鹿野郎、それは駄目だ! そんなことしたら課長が――」
 純さんは直実さんの言葉を遮ってまくし立て始める。どうしてそこまで必死になるのか、あたしにはよく判らない。その途中で、店の扉が開いた。お客さんか、とあたしは立ち上がり、直実さんはドアの方に視線を向ける。
 ――ドアを開けて入ってきたのは、若い女の人だった。身長はあたしより少し低いか、ぐらい。直実さんたちと同年代かな。麻耶さんとは対極に位置しそうなフェミニンなファッションで、ブラウスは淡いピンク色、歩くたびにひらひらと揺れるロングスカートは少し彩度の低い赤色。大きなビーズが連なるネックレスも赤基調。少し茶色がかった長い髪はゆるく波打っていて、化粧は決して濃くはないけど、口紅の赤が際立って見えた。あたしを見ると、少し悪戯っぽく笑った。
「いらっしゃいませっ」
「こんにちは。えーと、……あ、居た居た。うわぁ、桧村ってばホントに変わんないんだ」
「直実さんのお友達ですか?」
 尋ねると、彼女は笑顔で頷いてくれた。名字で呼び捨てってことは、学生時代のお友達だろうと推測。
 直実さんの方を窺うと、嫌がる顔も嬉しそうな顔もしてなくて、困ったような変な顔をしていた。

 ――あれ、もしかして、誰だか判らない系の反応?
 あるいは、誰かは判るけど、その変化について行けないとか?

「え――……?」
 言葉も出ないらしい。意外な感じだ。
「な、何? 私が誰だか判んないの? ……あれ、そこにおわすは茨木氏? うわぁ、あんな仲悪かったのにまだつるんでるんだぁ」
 純さんのことも知ってるのか。――というかお二人、仲、悪かったんですね。まぁ今でも喧嘩絶えないし、よく店の裏で決闘してるし、そう言われても違和感は無い。喧嘩するほど仲が良いってことですか。
 そして純さんも直実さんと同様に一瞬唖然として、その後何かに気付いたように驚いた顔をした。
「え、お、おい、まさかあんた……。な、直実、こいつってその」
宮路(みやじ)、か……?」
 宮路、さん?
 彼女の表情が判りやすくパッと明るくなる。当たってた様子だ。
「わーい良かったー! 忘れられてんじゃないかと焦ったぞッ」
「いや……変わりすぎ、だ」
 そう言いながら直実さんは口元を押さえて項垂れている。……珍しい。で、やはり後者だったのね。
 でも、当の宮路さんは不満げだ。
「いいじゃん別に、これぐらい。女なんてすぐ変わるものなんだよ。――でも桧村もやるねぇ、ホントにこの歳で店開くとは思ってなかった。っていうか和服似合うなぁ」話のコロコロ変わる人だ。宮路さんはくるくると回って、最終的にあたしの目の前に立った。うお、な、何だ。「おまけにこんな可愛い従業員まで、どこで捕まえてきた?」
「その思考回路何とかしろ」
 ここで初めて直実さんが嫌悪感を露にしてツッコんだ。おお、顔が怖いぞ。
「違うの?」
 でも宮路さんは全く怯えることもなく、何故か当のあたしの方に訊いてきた。
「はい。あたしの方から頼んでバイトさせてもらってるんです――」
「へぇ……! 駄目だよ、頭良くて大人しそうに見えるけどあの男は時々物凄く暴力的になるからね、恋人にするには気を付けないと、」
 こ、恋人ってちょっと待ってください話が飛躍しすぎですとでも言おうかと思った矢先――急に、宮路さんの話と動きが止まった。その後彼女はゆっくりと振り返りながら床に落ちていた何かを拾い上げて、ゆらりと上体を起こす。その視線の先の直実さんは、何かを投げた後の姿勢で止まっていた。顔に浮かぶは冷たい無表情。
 つまり、直実さんが何か物を投げて彼女の頭にジャストミート、ということですね。右目が一瞬碧っぽく見えたのはきっと、コントロール調整。何とも便利なことだ。
 宮路さんが叫ぶ。
「あんたねぇえ! 女性に対して物を投げるって、デリカシーとかそういうものは無いのかッ! しかも人がそういう話をしてる最中にッ」
 吼えられても罵られても、直実さんは表情ひとつ変えず、一言。
「実践して見せたんだけど」
 意、あなたの話を証明したのに何故怒るんですか。
 うわー……えげつない。
 言い返せなくなったらしい宮路さんは、拾った何かを直実さんの方に投げ返した。右手を挙げっ放しだった直実さんは、表情ひとつ変えずに見事それを捕らえる。ナイスキャッチ!
「……コルク栓が当たったぐらい別に痛くないと思うんだけど」
「痛いとか痛くないとかの問題じゃなぁい! どうしてそうあんたはッ」
「言っとくけど、私は自分から手は出さないよ」
 直実さんが真面目な顔でそう言うと、宮路さんの動きがぴたりと止まった。あたしの方からその表情は判らない。代わりに純さんが茶化し始める。
「その代わり手を出されると倍返しなんだよな。おー怖。俺なんか何度殺されかけたか」
「それは言いすぎだ」
「そうかァ?」
 自分から言い出す決闘の度にへろへろになって戻ってくる純さんを思うとあながち間違ってもいないかなぁと思うけど、倍返しは怖いから言わないでおくか。そういう時、直実さんはケロッとした顔してるんだよね。
「……つまり私が悪いって言いたいわけね。久し振りに喧嘩しようか、仲裁役が居ないけど」
 ――宮路さんの声が低い。
 そ、それって凄い危険なんじゃないですか。あたしがどうしようか困ってあたふたしていると、直実さんはため息を吐いてその提案を一蹴した。
「そんな気分にはなれないな」
 訂正します、単に断った。
 そんなあっさり切り捨てたら宮路さん怒るんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。
「何、大人になっちゃってぇ。変わってないと思ったけど中身は案外変わってるのね」
「……そうでもないよ、宮路の見た目には及ばない。――あぁそうだ。楓さん、この人は私の高校時代の悪友で」
「悪友って。もっと普通に紹介できないの? ――楓ちゃんって言うのね。宮路恵里子(えりこ)です。桧村は部活仲間だったんだ」
「部活、ですか?」
 体育会系には全く見えないから文化部として、何の部だろう、音楽関係とかも似合いそうだけどそんな話聞いたことない。
「うん、料理部。まぁ、進学校だったから大会とかに出るわけじゃなし、完全なる趣味クラブだよ。勿論女の子だらけ。そんな中でこいつは男一人のハーレム状態」
 料理部! ――あぁ、そのまんまだった。じゃあもう本当に完全に趣味が仕事になってるって感じなんだな。直実さんは相手が男だろうと女だろうと態度が全く変わらないから――どちらかと言うと敵か味方かが基準に見える――、女の子だらけの中に居ても不思議な感じはしない。
「男だったら先輩にもう一人居ただろ。――なぁ、いきなり何しに来たんだ?」
 そして唐突に話題が逸らされる。もしかしたら今の話題が嫌だったのかも知れない。あぁ、そうに違いない。
「っていうかサネ、ここの場所教えてたのかよ」純さんが割り込む。
「年賀状ぐらいは送ってるから、教えるも何も」
 ここは店舗兼住宅。住所がそのまま店の所在地だ。
 宮路さんは良くぞ訊いてくれたという風に、大袈裟な身振りでショルダーバッグの中身をあさり始める。
「実はね、部屋の片付けしてたらこんなのが出てきたの。懐かしくなっちゃって、色々調べて来ちゃいました。羽田杜って初めて来たけど結構田舎だねぇ」
「うるさい黙れ東京人。――何が出てきたって?」
 お互い罵り合うのはデフォルトなのか、この二人。変な会話だ。変だけど、気が合ってる感じも、する。
 あ、でも、羽田杜も一応東京なんだけどな。
「見てこれ、懐かしいでしょ? あ、楓ちゃんも見て見て」
 呼ばれたので行ってみる。
 宮路さんがカウンターに出して皆に見せていたのは、紺色ブレザーの制服姿の高校生たちのスナップ写真。背景はどこかの教室だけど、普通の教室じゃないな。料理部だっていうから、調理室とかその類かも知れない。写っている人数は――八人。宮路さんと直実さんはどこだろう、えーっと。
「高二の春の、何かの記念写真かな。メインは一年生。もしかしたらこれが――」
「あぁ――……懐かしい、な」
 ん? 反応が微妙だ。表情もどこか冴えない。
 ――と、横から写真を覗き込んでいた純さんが突然大声でまくし立て始めた。
「おい宮路、お前わざとやってんじゃねえだろうな?」
 声も怖ければ顔も怖い。さすが刑事と言うべきか、純さんが凄味利かせると無関係のあたしまでも何だか怖くなってしまう。
「……何の話?」
「何の話って、こいつはあの時危うく殺されるところで」
 え?
「はっ? ちょ、どういうことそれ」
 見解の相違。話がすれ違う。
「――純。宮路はそれ知らない」
 直実さんがその道筋を繋げ直した。
「あ? ……あ、そうなのか? いや、それにしたって」
「ご……ごめん、全然知らなかった。配慮が足りなかったら謝るけど、別に嫌がらせとかじゃないの、ただ懐かしくて、久し振りに顔見たいって思っただけなんだ。元気かな、ってさ――」
 だんだん宮路さんの声が小さくなる。
「いや、謝ることない」
 そして直実さんがフォロー。会話の意味はよく判らないので、あたしは写真を眺めていた。
――八人のうち、女子が六人。前列に女の子四人がちょっと緊張気味の顔で並んでいるから、さっき言ってた一年生だろう。左から順に八重歯のツインテール、少し強気そうなヘアバンドのセミロング、垂れ目のゆるいおさげさん、凛とした印象のポニーテール……ってところか。全員キャラがかなり違いそうだけど、一様に笑っている。記念写真だからなんだろう。
 それなのに、後ろ四人はフリーダム。大人しそうな一人の女の子だけが清楚な微笑を浮かべている隣で、ショートヘアの女の子が前の二人の首に抱きついて笑っている。前の子が少し苦しそうにも見えるのは気のせいだと思いたいです。
 で、男子二名が女子六人の背後で組体操のサボテンを見事に決めていらっしゃるんですけど、これは一体どういう了見だ。何がやりたかったんだ。小柄な上担当は両手を広げ満面の笑みでカメラ目線。眼鏡を掛けた鬼太郎ヘア――と言っていいものか――の下担当はカメラ完全無視。
「――ね、私たちどれか判った?」
 あたしが写真を見つめてるのに気付いた宮路さんが問う。
 ――うん、迷うことはない。
「これが宮路さんで、」
 一年生に抱きつく元気そうな女の子。発言から一年生ではないし、直実さんたちが驚いてたのは『見た目』の変化みたいだし。
「直実さんはこっちですね」
 サボテンの下担当。ブレザー姿だし、今よりずっと髪が長いから印象は違うけど、眼鏡を掛けているからすぐに判る。
 宮路さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
「大当たりぃ! ほら見なさい、女の子にはこれぐらいの変化は無問題なのよ!」
「……。見た目だけで比べたら判らないと思うなぁ」
 あ、直実さんったら、言っちゃいけないことを――。
「――桧村ァ、やっぱりやろうよ三番勝負」
 そら見ろ! 宮路さんの眉間に何かが見える、気がする。「何か」って何のことか? それは禁句です。
「だから嫌だって言ってるだろ。ホントお前何しに来たんだ」
 そんなことを言う直実さんの顔に浮かぶのは、嫌悪感と言うよりは呆れだ。何だかんだ言いながら『悪友』なんだな。純さんとも似たようなところがあるんだろうと何となく思う。
 宮路さんは舌をぺろっと出して怒る。そんなところが可愛らしい、とちょっと思った。
「ぶぅ、顔見に来ただけですー。まぁ、せっかく来たし紅茶とケーキぐらいはご馳走になるわ」
「……あぁ、どうぞ。奢らないけど」
「ケチ」
「商売人ですから」
 そんなやり取りがさらっと出来るあたりも何だかうらやましい。そうか、こういうのが『何でも言い合える関係』って言うのかな。……ん、ちょっと違うか?
 やっと席に着いた宮路さんは、まず一息ついて、少ししんみりした顔で呟くように言った。
「桧村のケーキも七年振りか。あれからもうそんなに経つんだね――……メニューちょおだい」
「! はいっ」
 あたしがメニューを渡す。直実さんは聞こえていなかったのか、その呟きには応答しない。だからと言って、宮路さんもそれを追及するようなことはなかった。――やっぱりとても不思議な関係だと、思った。そしてそれが何だかちょっと、複雑な気分にさせた。あぁ、何また変なこと考えてるんだあたし。だめだ、だめだ。考えちゃだめだ。

 それからは本当に普通に時間が過ぎて行って、宮路さんはケーキについて「変わってないようでやっぱり成長してる」と、さすがに詳しい人らしいコメントを残して行った。直実さんは「どこがどう何なのか言ってくれないと役に立たない」なんて言って怒ってて、それが何だかとても可笑しかった。だから、純さんと二人で笑ったら直実さんに怒られた。それは多分――あんなに喧嘩ばっかりしてた人に突然褒められたから、なんだろうな。だからきっとそれを素直に受け取れなくて、自分に言い訳して怒ってる。
 ……何だか、不思議だ。
 あんなに人間離れした……というか、自然界の法則を無視した存在の直実さんでも、そういうところは、中身は普通に人間なんだ。とか言うと失礼になるかも知れないけど。
 術の話はほとんど誰も知らないから、そういう存在であることをずっと隠しながら生きてきた、ってことだ。それって多分、凄く大変なことだと思う。
 でも彼は、基本的に誰かに話そうという姿勢は持たない。身内以外には飽くまで秘密のことで、それ以外に対しては『普通の人』として振る舞っている。
 それがもし何かの拍子に普通の人と違うって知られたら、一体どう思われるんだろう。もしかしたら、今まで築き上げてきたもの全てが崩れ去ってしまうかも知れない、恐怖。超能力者と祭り上げられて、最終的にどうなってしまうのかは想像もつかない。恐ろしい世界。――だから彼は、誰にも話そうとしない。ほとんど一人でその恐怖を抱えて生きてきた。
 ――彼だって、ただの一人の人間に過ぎないのに。
 一人で抱えるのは、辛くないのかな――。

「おい、あいつこれ忘れてったんじゃねえの? 写真」
「え?」
 ――写真。さっきの記念写真だ。カウンターに置きっぱなしだったらしい。
「……まぁ、気付いたら取りに来るだろ。来なかったら郵送で」
「あぁ、そうしろ。……しっかし変な記念写真だな。お前ら何で組体操してんだよ」
 誰もが思うツッコミどころだ。しかし直実さんは笑いもせず言い訳もせず、あっさりと答えた。
「それ、最初肩車だったんだよ」
「はァ?」
 肩車――ですと? 純さんが素っ頓狂な声を上げる気持ちもよく判る。
 何なんだ、肩車で記念写真に写りたかったのか、この小柄な先輩は。
「いや、お前の身長で肩車したらフレームからはみ出るだろ、普通に考えて」
「そう。だからこうなった」
「アホか」
 アホだ。
 いえ、年上の見知らぬ方に対してアホ呼ばわりはまずいかなとは思いますが。
「アホで悪かったな。――……でも、宮路も凄いものを持ってきてくれたもんだ」
「暗黒時代の記憶が甦ったか」
「ああ、出来れば思い出したくない」
 純さんはコーヒーカップ片手に茶化すように言ってるけど、直実さんはため息混じりで苦笑い。
 暗黒時代って、一体何がどう暗黒だったんだ。……そういえばさっき「殺されかけた」とか何とか言ってたけど、あぁでも、思い出したくないって言ってるのにそれ以上のことを訊くのはまずいよな。
 直実さんが自分の紅茶を淹れ直しに立ち上がると、静かにコーヒーをすすっていた純さんが、真面目な顔でボソリと呟いた。
「――でもあれが元凶だもんな」
 その言葉が聞こえているのかいないのか、直実さんは応答しない。
 ……だんだんむず痒くなってきた。
 ええい、訊いてしまえ!
「あの……その頃何か、あったんですか? 何かこう、いじめみたいな……?」
 判らないけど。
 今までの話から現実的な話として類推できるのはそのぐらいだ。――現実的な話として、なら。
 紅茶を淹れる途中の直実さんと、コーヒーを飲む純さんの視線が合う。その後二人同時にため息を零して、最終的に先に口を開いたのは純さんだった。
「漫画みたいな話だけど、殺人事件があってな」
「――漫画みたいな事件が、ね」
 さつじん、じけん?
 急に背筋が寒くなった。二人の表情が妙に暗い。いつも事件の話ばっかりしてるのに、その普段とは全然雰囲気が違う。じゃあさっきのは、文字通りの意味だったんだろうか――?
 その事件が学校内で、ってことなんだとしたら――……あたしは思わず、冬のことを思い出す。そういえば、あの事件が無ければ、あたしはきっとここにこうしては居なかったのかも知れないのか――。
「俺らの気持ちの整理の為にもさ、事の顛末を少し人に話してみるってのもいいかも知れねぇな。どうよ?」
「……自分たちの為じゃ楓さんに悪いだろ、明るい話でもないんだし、それに――」
「あたしは別にそんな、大丈夫です。ちょっとお話聞いてみたいなって思いましたし」
「あ、でも」
「そら来た! じゃあまずは事件前の状況からだな――」
 何か言おうとしていた直実さんの言葉を遮って、純さんは嬉々としてその当時のことを語り始めた。
 ――直実さんが止めようとした理由は、後に、話の途中で明らかになる。