こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第四話 暗闇アナロジィ




第五章「月影と暗雲」

   1

「本当に、大丈夫なんですね? ただ閉じ込められただけなんですね?」
 直実さんは何度も何度もそう言って、珍しく慌てたような様子を見せた。
 ある意味、当たり前なのかも知れない。こういうことは普通、無い。

 地下の倉庫から助け出してもらった後、あたしたちは浅生さんの案内で三階の休憩室に向かった。元々は誰かの寝室だったらしいけど、そんな面影は残っていない。木のタイル床に、プラスチック製の白いテーブルがいくつも置いてあって、自販機まで設置されている。部屋が余ったので休憩室にしました、と言った感じ。――それはいいけど、寝室にしては随分と広いな、この部屋。
 それぞれに飲み物を買って、三人で椅子に座る。あたしはあったかいココアにした。
 携帯を見ると兄貴からのメールが何通も溜まっていたので、とりあえず無事を報せるメールを返信しておいた。

 また、同じような心配させちゃった――。

「そいつも予定外だったと思うんですよ。俺が思わず追いかけようとしちゃったから、つい反射的にバタンって、――俺なら閉めたくなります」
 動揺してるのか落ち着いてるのか、顔からではさっぱり読み取れない浅生さんが、そんなことを言い始める。
「私も閉めると思います。――閉めてから猛烈に後悔しますね」
 そう答える直実さんの表情も全く変わらない。
 でも、言っていることは確かにそうだ。
 ――もし閉めなければ、人を閉じ込めるリスクを背負うことなく、逃げおおせることが出来たかも知れない。
 しかし閉めてしまえば、閉じ込めてしまった人を助けるためにドアを開けた次の瞬間、御用となる可能性が高い。
「あ、それで俺、人と待ち合わせしてたんですけど――……メールも来てない、か。どうしちゃったかな」
「待ち合わせですか? ここで?」
 そういえば、そんなことも言っていた気がする。浅生さんは「えぇ」と言いながら苦笑して携帯電話をポケットに仕舞うと、どことなく高そうな腕時計を一瞥した。
「遅刻、三時間半。居るわけもないか」
「……お友達ですか?」
「友達と言うか……昔仲良かった使用人さんです。男友達のノリで、久し振りに会おうかーなんて話になって」
「! 昔と言うと、ここに居た頃の」
 妙に直実さんが深刻そうな顔をして突っ掛かる。浅生さんもよく判らない風で、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら、流れのままに頷いている。
 一体、何が気になるんだろう――。
 直実さんは少しうつむいて何か考えていたかと思うと、急にパッと顔を上げて、浅生さんに迫り始めた。
「――その方が、貴方がたを閉じ込めたという可能性は、ありませんか?」
「え?」
「な、直実さん、何言って」
 でも、彼がいきなり根拠もなく適当なことを言い出すわけも、ない。あたしはそこで口を噤む。
「待ち合わせに三時間以上遅刻しているのに、未だに連絡のひとつもないというのは不自然だと思います、今時」
「――……確か、に」
「こっそり逃げようとしていたところを追いかけられたので、慌てて扉を閉めてしまう。――逃げたはいいけれど、人を閉じ込めてしまった。しかもそれは自分が待ち合わせていた相手。もし見つかればとんでもないことですから、当然動揺する。メールを送って身の保全を図ることも思いつかない。そして、出来れば早く助け出したい。でも、自分がノコノコと行くわけにもいかない。そんなこんなで迷っている間に時間が過ぎてしまった――という筋書きでどうでしょうか」
「なるほど。ここに勤めていた使用人ならこの城の勝手も判ってるから、例の地下倉庫についてもよく知ってる」
「そうですね。何をしていたのかはよく判りませんが――」紙コップのコーヒーを飲み終えた直実さんは、空になったカップを潰しながら、おもむろに立ち上がる。そして、浅生さんに笑い掛ける。「メールか電話、してみたらどうですか? もし今の話が合ってるとしたら、多分、連絡を待っていると思います」
「! はい」
 浅生さんは携帯をいじり始めた。
 あたしは残りのココアをゆっくりと飲む。
 直実さんはゴミ箱にカップを捨てて戻ってきて、荷物――と言っても小さな巾着袋だ――を持って、出て行く準備をし始める。
「――私はこれで失礼しますね」
「えぇ、助けてくださってありがとうございました」
「いえ、ご無事で何よりです。――楓さんも一緒に帰りますか?」
「え」
 一緒にって、一緒に並んで歩いてですか?
 何のことはないことなのに、急に心臓が締め付けられたような気分になる。
「少なくとも駅までは同じだから――」
「あ、は、はい! お供させていただきますっ!」
 下手な敬礼をしながら必死にそう答えてみる。
 どう、思われるだろう。
 こんなこといちいち気にしてる方がおかしいのかな――。

 直実さんは笑って頷くだけで、特にいつもと違う様子では、なかった。
 むしろ、まだ携帯をいじりながら紅茶を飲んでいる浅生さんの方が、嬉しそうにニヤニヤ笑っていた。

 そしてあたしはこの数分後、軽々しく頷いたことを、反省することになる――。

   *

 地下室に関して協力してもらってたのか、直実さんは受付のお姉さんに挨拶をしてから、記念館の建物を後にする。それから自転車置き場の方へと進んで、あたしの自転車を少し通り過ぎた辺りで止まった。あたしは鞄の中から自転車の鍵を取り出そうとする。
「まだ少し用事があるから、駅前で一旦降ろしますけど、いいですか?」
「え?」
 降ろすって言った? 降ろすってどういうことだ、車でもあるのか。いやいやここは駐輪場です。あたしはてっきり自転車を押して徒歩で帰るものと思っていたのですが。
 混乱してよく見てみれば、コートを羽織った直実さんの目の前には、白黒がスタイリッシュなデザインのバイクが一台――って、まさか、そんな。

 その後ろに乗れってのかい――?

 和服でバイクってどうなんだ大丈夫なのかとか、何か似合わないとか、でも自転車はもっとおかしいとか自動車も無いなとか、どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。こういうのをテンパってると言うのですね。

 そもそもだ、よく考えろ、あたし。
 バイクの二人乗りって、後ろの人は運転手にくっつかなきゃいけないじゃないか!

「あ、……あぁ、嫌だったら、いいんだけど――……真珠は喜んでたものだから、つい。ごめん」
 あたしの顔が色々と物語ってたのか――それもそれで恥ずかしいな――判らないけど、直実さんは急に慌てて取り繕い始めた。そりゃ、中学一年生の男の子は喜ぶでしょうよ。
 ――もしここで断ったら、どうなる?
 自分がされて凹んだことを、相手に仕返すことになるんじゃないのか――。

 この人は、判りにくい。本気で何も考えずに言ったのか、――……ああ、そうかも知れない。あたしは直実さんがどうやってここに来たのか知らないし、知らないことを直実さんは判ってるはずだから、『一緒に帰るか』って言う言葉に手段は含まれない、はず。

 ――なら、徹底的に子供になるまで!

「い、嫌なわけないじゃないですかっ。あたし、速い乗り物って好きなんです。兄さんは免許持ってないし、お父さんは車しか乗らないから、バイクって乗せてもらったことないんですよね」
 何も嘘は言ってない。無理やり笑顔を作ってそう言って見せると、直実さんは何故かきょとんとして――……それから少し、笑いを零した。作り笑いが通じたのか、見破られてたのかは判らない。
 まぁ、見破られてたとしても、どうでもいいこと、か。
「それじゃあ――」
 直実さんは巾着袋から何か白くて小さいものを取り出して――ビー玉?――、それにフゥと息を吹き掛けた。
 そして目の前で起きたことを、あたしはすぐには理解できなかった。
「えっ――?」
「はい。後ろの人もヘルメットしないと怒られます」

 ――ビー玉がヘルメットになった(、、、、、、、、、、、、、)

 今のは何? 手品? それとも魔法?
 あぁそうだ――……この人は、術師なんだ。

 『何でも出来る』と言うのがどこまでのことを含むのか、今もまだよく判らない。
 でもあたしは、もうそれを隠されない立場に立っている。
 だから彼は、もう何も注釈しなかった。

 彼が差し出している物を、受け取る。
 確かにそれはヘルメットの形をしていて、手触りも何もおかしなところはないけれど、これはビー玉だった――。
「自転車、預かってもいいかな? ああ、傷付けないから」
「え――? は、はい」
 よく意味が判らずに頷くと、次の瞬間、あたしの自転車がまるごと姿を消した。――否、消えたんじゃなくて、それもビー玉に化けた(、、、)んだ。
 何もない空中を青いビー玉が漂って、直実さんの手元に落ちる。それを慣れた手付きで巾着に入れた。

「それじゃ、帰ろうか」
 さも何事も無かったかのような笑顔で彼がそう言って。
 あたしは何も言えなくて、ただ頷くしかなくて。

 生まれて初めての二人乗りの心地は、頭の中が嬉しさと緊張と混乱とでぐちゃぐちゃで、もうよく覚えていない。
 兄貴が知ったら怒るかも知れないけど、そんなの、関係ないよね――。

   2

 駅前で一旦降りて、直実さんが向かったのは、交番だった。あたしたちの件で警察に相談……かと思ったらそうじゃないらしい。しばらくして出てくると、なんだか複雑そうな表情を浮かべて、その後苦笑い。何が何だか、よく判らなかった。
 兄貴から小春茶屋の方で待ってるという連絡が来たので――それが何だったのかは知らされず、そこまで移動した。
 ヘルメットを渡すと、今度は再びそれが元の白いビー玉に戻り、巾着袋から出された青いビー玉があたしの自転車に戻される。――凄く便利そうだけど、人目につくところでは使えないな。
「サネ! 遅えぞッ」
「――楓! もう、心配したんだぜ」
 扉を開くと、ハル君と兄貴の叫ぶ声がほぼ同時に耳に飛び込んできた。店内を覗き込むと、兄さんの立っている傍のテーブルに真珠君と玄も座っていた。
 兄さんはあたしに一通りの挨拶の言葉を投げ掛けた後、小猿に引っ掻かれながらカウンターの中に戻った直実さんに声を掛けた。
「ざっと回った後で交番行ったらこの子らが居るんですもん、吃驚しましたよ」
「えぇ、話は聞いて来ました。お帰り」
「え、えっと」
「今回は何事も無くて良かったけど。今度は無茶しないように」
「――……、はい」
「玄次郎君も」
「申し訳なかった」
 何があったのかあたしには全く判らないから、二人がどうして怒られるのかもよく理解できない。それとなく兄貴に聞いてみると、どうやら真珠君と玄次郎までもが居なくなっていたらしい。
「でも、あたしたちが閉じ込められたのと同じ日なんて――」
「関連はあると思うよ」
 あたしの呟きに、直実さんが反応してくれた。
 ――関連が、ある?
「まぁ、その話はまた今度。――お茶淹れますね。ほら、退け、ハル」
 行き場を失ったハル君は「べーだ」と言い残してあたしたちの方へと駆けて来た。
 直実さんはいつも通りに淹れた紅茶を皆に配る。ただし、ハル君の分は無しらしい。人間の食べ物は受け付けないって言ってたっけ。
「そういや、楓の居場所はどうして判ったんスか? 見当はついてるとか言ってましたけど」
「本当に見当だけでしたから、合ってて良かったです」
「見当だけったって……あのおねーさんの証言だって、なんか茶髪の男と一緒だった、ってだけだったじゃないッスか」
 話はあたしのことらしい。半分喧嘩腰になって畳み掛ける兄貴に対して、直実さんはさらっと受け答える。逆にそれが兄貴の怒りの琴線を刺激しないか、ちょっと心配。
「楓さんは、落し物を拾った私が呼び掛けても逃げようとした方ですから」……初対面の時のことを言っているらしい。直実さんが話を続ける。「まさか下手なナンパに引っ掛かるようなことは無いでしょう? 昼過ぎに制服を着ていない男性が高校生とは考えにくいですし、かと言って、柘榴さんの見る限り年上の男性の知り合いに心当たりは無い。――だとしたら、残る可能性はあの人ぐらいだろうと」
「それで浅生さんって」
「えぇ」
「浅生って誰だ?」
 兄貴が話を中断する。あたしが簡単に紹介して、再び話に戻ることになった。
 ふと疑問が浮かぶ。口をついて出てしまう。
「でも、麻耶さんはそれが浅生さんだって判らなかったんですよね? 顔見知りなのに」
「じゃあ、楓さんはすぐに判った?」
 にっこりと笑って、逆に訊き返される。
 声を掛けられたときのことを思い出す。
 あの時は確か、振り返って、目の前で顔を見てたのに、本人の口から名前を聞くまで判らなかった。そうか、そうだった。
「いいえ」
「そういうことです。――髪の色が変わっていて、まして遠くからの後姿じゃ、一度二度会っただけの知り合いなんか判らなくても疑問は無い」
「でも、それじゃ直実さんはどうして」
 それを実際に見てもいないのに、浅生さんだろうと見当をつけて、探しに来てくれた。この場に居る他の人には、多分出来ないことだ。でも彼は、飽くまで謙遜して、苦笑するだけだった。
「柘榴さんと麻耶さんの話を信用して考えたら他に思いつかなかったってだけだから、合ってたのはたまたま。例えばもし楓さんに柘榴さんの知らない男友達が居れば判らなかった。浅生さんなら、髪の色は染めるような話をしてたから、変わっててもおかしくないと思ったし」
 そんな話してたっけか――……あぁ、先生に怒られて何とかって言ってた気がする。
 そういえば、学生さんじゃないってことは、先生って誰のことなんだろう。って、直実さんに訊いても知ってるわけ無いか。
「浅生さんなら寄り道の行き先としてまず考えられるのは記念館だと思ったけど――だったら携帯が通じない理由が考えられない。わざわざ電源を切るような場所とも思えないし。ただもしかしたら館内に地下室とか、電波の届かない場所があるのかも知れないから、実際行ってみようと」
 それで受付のお姉さんに地下室の類があるかどうか訊いて、例の場所に辿り着いたってことらしい。でも……だとすると、麻耶さんが目撃してくれてたからこそ助かったようなものだ。感謝しないといけないな。
 ふと気付くと、隣の兄貴が随分と不機嫌そうになっていた。
「あの時点でそこまで考えてたんだったら、何でオレに教えてくれないんですか、それ」
 ああ、また噛み付いてる。あたしはため息、直実さんは苦笑。
「絶対そうだって証拠がある訳じゃないんですから、自信満々にそんなこと言って、もし違ったら悪いじゃないですか。探す対象はあと二人居るんだから、二人一緒に同じ場所を探すよりは手分けした方が効率もいいと思いましたし。実際、そこの二人の方は柘榴さんが見つけて下さったでしょう?」
 そこの二人というのは真珠君と玄のこと。へりくだってそんなこと言われると兄貴も言い返せないらしく、黙り込んでしまった。直実さんがわざとやってるのか、本気でそう思ってるのかは、あたしには判らない。
 考えてみると、もう知り合ってから何ヶ月か経つけど、直実さんのこと、判ってるようで判ってない気がする。
 何ヶ月かぐらいで全部判るわけもないけど、さっきのことだって――。

 ――あぁ、もう、やめだやめ!
 ややこしいこと考える必要なんか無いの。素直に生きればいいんだ。うん、そうしよう。――素直に、思うままに。

 もう結構いい時間になってたし、結局その後すぐ解散して、あたしと兄さんは玄を連れてその場を後にした。
 ――まだ何か、引っ掛かることはある。
 本当に浅生さんの待ち合わせ相手があたしたちを閉じ込めた犯人だったとして、あんなところで何をしてたんだろう。それに、その後どこに行っちゃったんだろう。浅生さん、連絡取れたかな。

 でも……何にしても、こうして外に出られて、良かった。あの地下室はやっぱりほとんど使われてないみたいだし、人の出入りもまず無くて、もし直実さんが気付いてくれなかったら――本当に、あの中にずっと閉じ込められていたかも知れない。そう思うとゾッとする。そんな怖い想像を打ち消そうと、ぶるぶると頭を振って自分を誤魔化す。

 兄さんと玄は、何も言わずにひたすら歩いている。

 そういえば閉じ込められている間、あの時の夢を見たような気がする。
 あの時も、こんな夜の道を歩いて帰った――。

 ――あれは、あたしが小学校低学年の頃の話だ。

   *

 扉が開かれた途端、街灯の光が目に飛び込んできた。眩しい。あたしは思わず目を瞑って、何度も瞬きしながらゆっくりとそれに慣らしていった。空はもう真っ暗だったから、割とすぐに慣れた。
 目の前に、扉を開けて助けてくれた人の影が見えた。
「だ……大丈夫ですか。この中にずっと……?」
 逆光になって顔はよく見えなかったけれど、おじさんだということは判った。30代――40代? 歳は判らないけど、穏やかな声で、優しそうな印象を受けた。
 あたしは自力で棚の中から出る。お腹も空いたし、喉も渇いて、何だか頭もくらくらする。
「良かった、立てるんですね。ええと、帰り道は判りますか?」
「うん」
 この棚があるのは、いつも遊んでいる公園の傍の林の中。駅の近くを通って、歩いても十分も掛からずに帰れる。
 しゃがんでいたおじさんも立ち上がる。――当たり前だけれど、背が高い。スーツ姿で、四角い鞄を持っている。いかにもサラリーマン、という印象。ここでようやく街灯の明かりで、彼の顔がちゃんと見えた。予想通り、とても優しそうな人だった。
「でも、どうしてこんなところに? 誰かに閉じ込められたんですか?」
「えっと――おにいちゃんがお友達と喧嘩して、お友達が、おにいちゃんの代わりって」
 子供の拙い説明を、おじさんはゆっくり聞いてくれて、省略してしまった部分も補って正確に理解してくれた。
「……代わりに貴女が仕返しされたんですか? それは理不尽ですね」
 理不尽、という言葉の意味は正確には判らなかったけれど、ニュアンスだけは子供のあたしにも伝わった。
「一応警察にも言った方が良いのかな――」
「け……大丈夫、大丈夫です。おにいちゃんたち、いつもこれで遊んでるから」
 つらい思いをさせられたにも関わらず、何故かあたしは拒否していた。あたしが勝手なことをして、おにいちゃんたちがまた喧嘩し始めるのが、嫌だったんだと思う。
「そうですか? でもこんな時間まで放っておくのは危ないですし――……まぁとりあえず、おうちに連絡しましょうか。公衆電話は……ああ、あそこだ。電話番号は判りますか?」
 頷くと、おじさんはにっこりと笑って、あたしに向かって右手を差し出した。手を繋げと言うことらしい。
「知らないおじさんで申し訳ないですが、夜道は危ないですから」
 そんなことを言われたので、今度はぶるぶると首を横に振って、おじさんの手を取って歩き始めようとした、その時だった。
 ――ガサガサという音。人の気配。鋭く尖った嫌な空気。
 あたしは無意識に身体を強張らせる。それに反応して、おじさんが一瞬あたしの方を見た後、音のした方に振り返る。

「――……誰だよ、あんた」
 この声。おにいちゃんのお友達だ。
 お友達と言っても、おにいちゃんよりいくつか年上だから、とても大きい。
「こんばんは。君がこの子を閉じ込めたんですか?」
「……」
「なるほど、そうですか」
「! 何も言ってねえだろ」
「否定しないということは認めたも同然だと思いますよ。君は――中学生ぐらいですか」
「だったら何だよ」
「いいえ、別に。やはり一応交番に言っておきますかね」
「! てめ……」
 ――突き刺さるような気配。
 これは、殺気。
「おじさん!」
「ああ、いけませんね」
 街灯と月明かりを反射して光るのは、見覚えの無い、小さなナイフ。果物ナイフだろうか。おにいちゃんのお友達が、そんなものを持っているとは思わなかった。
 彼はそれを両手に持って、おじさんの方へと猛スピードで突進する。
 おじさんは表情ひとつ変えない。動きもしない。あたしは怖くて動けない。
 ナイフが刺さる直前で、おじさんは持っていた鞄を素早く引き上げて盾にした。
 当然、ナイフは鞄に突き立てられる。
 おじさんは突進された勢いで少しよろめくも、ナイフの深々と刺さった鞄を思いっきり横に引いた。
 柄を持ったままだったお兄さんはそれに釣られてバランスを崩し、ナイフから手を離して地面に転がった。
 彼が立ち上がる前に、おじさんは鞄からそのナイフを引き抜いて、品定めをするように少しだけ眺めた後――自分のスーツの懐に入れてしまった。
 ――あっという間の出来事だった。
「おい、何すんだよ!」
 お友達が、転んだままの状態で叫んだ。
「それはこっちの台詞です。鞄が駄目になったじゃないですか、中身だって大事なんですよ。プリント印刷し直さないといけないなぁ」
「おっさんが自分で盾にしたんじゃねえかッ」
「そりゃあ、命の方が大事ですから。台所のナイフを振り回すだけの中学生に殺されたくはありませんので。私を殺したいなら、それ相応の力を身に付けてからまた来てくださいね。そうしたら殺されてあげます」
「…………おっさん、変だろ」
「よく言われます。――さ、立って下さい。警察に行きましょう。目撃者も居ますからね、観念してください」
 そう言いながら、おじさんはお兄さんの手首を掴んで無理やり引っ張り起こした。目撃者と言うのはあたしのことだろうか。お兄さんは声にならない叫び声を上げた。でも、後の祭りだ。
 おじさんは左手に掴んだお兄さんと右手の鞄を見て、最後にあたしの方を見る。
「あー……お嬢ちゃんは鞄に掴まっててください。電話は交番から掛けてもらいましょう」
 ――夜道は危ないから。
 おじさんは飽くまで紳士。あたしは大きく頷いて、言われた通り鞄に捕まって――駅前の交番までの道程を、歩いた。



 交番に行って話を聞かれ、お兄さんは奥の部屋に連れて行かれた。あたしは家に電話をして、すぐに迎えに来てもらうことになった。
「――楓! 良かった、怪我は無いのね?」
「おかあさん! 大丈夫だよ、おじさんが助けてくれたの」
 お母さんにおじさんを紹介しようと振り返ると、おじさんはもう一人のお巡りさんと何か話しているところだった。お母さんはお巡りさんにも挨拶しようと、そこに近付いて行く。あたしもそれについて行った。
「本当にありがとうございました――。ええと、貴方が」
「ああどうも、通りすがりのおじさんです。怪我も何も無くて良かったですよ。息子さんに、妹さんを放置しないように言っておいてください」
 おじさんはニコニコと笑ってお母さんにそう言った後、あたしにも笑い掛けてくれた。
「えぇ、本当に――人様にご迷惑をお掛けしてしまって。あの、連絡先を教えて頂けないでしょうか――? 後で何かお礼を」
「とんでもない。私は通りすがりのおじさんですよ」
「そんな――」
「こちらとしても、お名前も教えて頂けなくて困ってるんですよ」
 お巡りさんが苦笑する。あたしも、名前ぐらい知っておきたかった。
 そして、お巡りさんが新たな作戦に出る。
「でも、怪しい人だったんじゃないかなんて思われてしまったら嫌でしょう? どこの誰かぐらい判っていた方が」
「……あぁ、知らない人について行っちゃいけないんでしたね」
 それは普通の状況なら、の話だけれど。
 おじさんは本当に困った顔で少し頭をかいて、しばらく考えた後で、ついに「判りました」と言った。
「あの、あんまり騒ぎ立てないで下さいね」
「――お約束します」「了解です」
 お母さんとお巡りさんが異口同音に言ったのを聞いて、ずっと困った顔をしていたおじさんはようやく微笑んでくれた。
「蒼杜高校、国語科の岩杉と申します。家族にはあまり知られたくないので、連絡は出来れば、学校の方に」

 ――それが、あたしがイギーに初めて会ったときの話。
 どうして彼がそんなに頑なになっていたのか、中学に上がってから訊いても答えてくれなかったから、今でもよく判らない。……亡くなってしまった今ではもう、判りようもない。
 でも、そんなことよりずっと納得行かないのは、あの人が何者かに刺し殺された(、、、、、、)という事実。
 本当に、殺されたんだろうか――?
 あの時は、殺しても死なないような気がしたのに。
 それは、色々と極端に考えやすい子供の勘違いに過ぎなかったってこと?

 そういえば、直実さんはあの事件のこと、「まだまだ解決しない」って言ってたっけ。
 あれは、どういう意味だったんだろう――。

 あの頃とあまり変わらない、駅からの帰り道の古い街灯の明かりに――……そんなことを思い出して、あたしは少し、複雑な気分になった。