こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第四話 暗闇アナロジィ




第四章「黄昏時の憂鬱」

   1

 ――穏やかな春の日、心地良い風が吹き、窓辺が夕陽に赤く染まる頃。
 こんな日は行きつけの喫茶店で、振り子時計の音と陶器のぶつかる音をBGMに馴染みの店主と何気ない話で盛り上がり、次の仕事の構想を膨らませるという名目の元、優雅に紅茶とケーキを愉しむ。
 こういうのってなんだかセレブみたいだ、と彼女は言葉には出さずに思う。もし彼女が顔に似合わないそんなことを口に出せば、傍のカウンターの奥に座る店主は露骨に嫌そうな顔をした末に酷い言葉で罵るに違いない。実際、彼女は世間的に見て『セレブ』と呼ばれても全くおかしくない家庭環境にあって、仕事と言ってもほぼ道楽、日々の生活費のやりくりに必死な喫茶店の若き店主には嫌味にしか聞こえまい。
 彼女とて、そんなことを言われたくていつもあんなやり取りをしているわけではない。彼女は決してマゾヒストではない。店主の方が勝手に嫌味と解釈して、勝手に自ら客を一人減らしているだけのことだ。尤も、店主にしてみれば彼女など客ではないのかも知れないが、自分は歴【れっき】とした客だと思っている彼女にとっては良い迷惑である。とは言えそうなった元凶は彼女の方にあるのだが、彼女はそれに気付いていない。あるいは気付いているが、気付いていない風を装っているのかも知れない。そんなことは彼女にとってはどうでもいいことだ。
 彼女は紅茶のカップを置くと、肩で休む黄緑色の鳥に頬を寄せ、その友情を確かめる。彼は彼女の相棒である。付き合いは既に十年を超える。この種の鳥はなかなか長命だと聞いて、彼女がまだ高校生の頃に相棒として迎え入れた。言うことは良く聞くし、鳥とは思えないほど頭も良く言葉も達者で、彼女の片腕と言ってももはや過言ではない。
「……あの、麻耶さん」
 店主が数分振りに口を開いた。
 彼女が応答する。
「何?」
「いえ。その――本当に、何も用事はないんですね」
 彼は同じような言葉を、既に三回は口にした。店主は、彼女は何がしかの用事が無いとこの店に来ないと思っているようだった。しかし、暇を持て余している彼女にとって、用事などというものは口実に過ぎない。先日だって、一体何の用事があってここに来ていたと言うのだろうか。店主はそのときのことを覚えていないのか。
 しかし彼女は余裕の態度で笑って見せ、優雅な手付きで再び紅茶のカップを取る。
「人が喫茶店に来るのにいちいち用事なんか要るのかい?」
「――……」
 彼女が正論をぶつけても、店主はまだどこか納得できない様子で押し黙っている。勝手に勘違いして、彼女を敵と認識しているのだ。勘違いされているのは彼女も判っているが、敢えて訂正しないでいる。理由は単に、その方が楽しいからだ。それ以外にはない。
 振り子の音が決まったリズムを刻む。
 空調の音。
 上空を通り過ぎる飛行機のエンジン音。
 子供たちを家に追い立てる『夕焼け小焼け』。
 ――静かな空間。時がゆっくりと流れていくようだ。

 最近の世の中は、こうして穏やかで落ち着いた時間を過ごすことが許されない。
 自由人の彼女には関係の無いこととは言え、嘆かわしいことだ。

 彼女がため息をついたその時――……その静寂を切り裂く者が、突如として現れた。

 扉を乱暴に開き、どたどたと足音を立てて店内に入ってくる者。
 彼女が振り返った先に立っていたのは、彼女の予想した茨木純でも、浅生永樹でもなかった。

「――柘榴さん。こんにちは」
 最初に声を発したのは店主。彼もやはり、驚いている様子だ。
 ――泉谷柘榴。かなりの能力を持つと思しい、もう一人の術師。泉谷家自体は確かに分家筋のひとつだが、父親や妹にはさほど強い能力は無いようであるから――妹に至ってはほとんど無いに等しい――、もうほとんどその性質は失われているのだろう。ただ、彼に限っては先祖返りとでも言うべきか、何らかの異変が起きてこうなったのかも知れない。当人ではないので、詳しいことは判らない。たとえ当人でも、そうなった原因など判るわけがない。
「こんちは。えっと、楓と玄、来てない……みたい、ッスね」
「楓さんと、玄次郎君ですか――? 見えてませんね。どうかしたんですか?」
 彼女は玄次郎と言う名の者が誰なのか知らない。店主も知らないと思ったのだが、どうやら話は通じているらしい。もしかしたら、誘拐事件で泉谷家に囚われていたハルが、店主に何らかの話をしたのかも知れない。
「いや、今日って始業式で半ドンじゃないですか。部活とか無いし、昼飯食うモンと思って母親と待ってたんだけど二人とも帰ってこなくて。昼要らないって連絡も来ないし」
 ここで店主もきょとんとして固まった。
 二人ともと言うからには、高校生の楓はともかく、話の流れとして玄次郎なる人物も何らかの学校に通うために外出したと言うことになるはずである。
「……えっと……玄次郎君というのは、クリスさんと同じ使い魔の男の子だと、ハルから聞いたんですが。学校へ……行ってるんですか?」
「ああ、はい。や、なんか知らないけど学校行きたいとか言い出して、それで」
「蒼杜中学校、に?」
「はい」
 私立中学校と言うのはそんなに適当に入れるものだったのか。恐らくは玄次郎側が何らかの工作を行ったのだろうが、本当に大丈夫なのだろうか――などと心配し始めて、やめる。悪魔のやることに口出ししても仕方ない。
「あ、弟さんと同期になりますね。宜しくお願いします」
 柘榴は悪びれもなくにっこりと笑ってお辞儀をする。店主は苦笑いを浮かべた後、ため息を吐く。普通に挨拶をしたらため息を返された柘榴は当然、不思議そうに首を傾げる。
 ――無関係の彼女は鳥と顔を見合わせて、くすくすと笑った。

「そういえばその真珠も、帰ってきてない」店主が呟くように言う。
「中一は部活とかってまだ無いですよね? 連絡は?」
「……いえ。中学生って何かと忙しいですし、何か用事があるのかと」
「中一の始業式でそんな長々と用事なんか無いと思うんスけど」
 その柘榴の言い分はご尤もである。真珠の保護者にあたるはずなのだが、店主は随分と楽観主義だ。十二歳はまだまだ子供である。もう少し気を遣ってしかるべきではないか。
「……そう、ですね。じゃあ、真珠と玄次郎君が一緒という可能性もありますよね。接点が無いわけじゃないし、二人そろって帰ってないということは」
「その可能性が高そうですね。……楓も一緒なのかな」
「それも無いことは無いと思いますが……楓さんに連絡は? 携帯、持ってますよね」
 高校生の彼女なら、恐らく当たり前に持っていたはずだ。
 言われた柘榴はズボンのポケットから自分の携帯電話を取り出してその画面を見るが、特に何をするでもなく、再び軽快な音を立てて閉じる。
「それが繋がらなくて困ってるんスよ、電波が届かないところに居るか……って言われて。メール送っても返事来ないし。寄り道してんですかね」
「寄り道にしては長すぎる」
 店主の呟きに反応し、全員がそろって壁の振り子時計を見る。時刻は既に夕方五時を回っていた。家によっては、そろそろ夕食でもおかしくない時刻である。いくら好奇心旺盛で行動力あふれる年頃の学生たちとは言っても、さすがにこの何も無い街で一般的な寄り道をして五時間はまず有り得ないだろう。
 あるいは家出なら、と思うが、そんな兆候はなかったはずだ。それもない。

 彼女はそこでふと、昼間のことを思い出す。
 あれは確か、昼の一時にもなる前のことだ。
「あ、あのさ――……楓君なら、見たよ。昼間に」
 彼女が小さく手を挙げてそう宣言すると、店主と柘榴は何故今まで黙っていたのかと言わんばかりの顔で、彼女を見た。目は口ほどに物を言うとは、正しくこのことだ。ここまで見事だと逆に面白い。
「――本当ですか?」店主が改めて尋ねる。
「見たって、どこで? どこに行った?」柘榴は彼女の傍に寄ってきてまくし立てた。
 すぐには答えづらい。行き先が判っているならもっと早く思い出したし、もっと早くに答えているが、柘榴はそんなことには思い至らないらしい。尤も、彼も落ち着いているように見えて慌てているのだろうから、当然なのだろう。そんなことを責めても仕方のないことだ。だから、怒ったりはしない。
 彼女はひとつ深呼吸をして、その時の映像を構築し直す。そして、説明を開始した。説明など、伝われば充分である。
「どこに行ったかは判んないけど……駅の近くで、でも自転車押して、そうだな、学校の方向に歩いてった。こっちじゃなかったね」
「反対方向?」
「何か用事を忘れてたとか?」
「そんなこと判んないよ。あーそうそう、男と一緒だったんだ」
 言った瞬間、その場の空気が凍り付いた。――当たり前だ。もう少し言い方を工夫するべきだったろう。
 特に柘榴が血相を変えて、
「何で先にそれを言わないんですかッ」
 と大声で叫び彼女に掴み掛からんとしたので、その直前、店主が彼女の前に透明な壁を作った。
 ――結果、柘榴は見えない壁に激突して鼻を強打し、その場に沈み込んだ。可哀想に。もう少し上手いやり方があるはずである。
「あー、大丈夫? ……説明するよ。茶髪でさ、楓君よりちょっと背高いぐらいの、若い子。制服じゃなかったし高校生ではないと思うけど、後姿だったからこれ以上良く判んないんだ――……心当たりある?」
 完全に沈んでいる柘榴に語り掛けるように言うと、彼はゆらりと立ち上がり、まだ赤い鼻を抑えつつ、ゆっくりと返答を始めた。
「あるわけ、ないじゃないです、か……あの子に男の影なんかあろうものならこの泉谷柘榴、全力でぶっ潰しに掛かりますよ!?」
「人殺しはいけませんよ、柘榴さん」
「貴方に言われたくないです! 何ですかこれ、痛いじゃないですか!」
 これ、と言いながら彼女――の目の前にある透明な壁を指差して、柘榴が吼える。違うと判っていてもまるで彼女が指差されているかのようで、なんだか少し不愉快である。店主は少し眉をひそめて、向けられた敵意を尤もな指摘に変換して返した。
「大事な証言者に対して手を出すというのはどうかと思いますよ。麻耶さんだからいいですが、これがもし楓さんの同級生の女の子とかだったらどうするんです? 怖いからもう証言しないと言われるかも知れないし、困るのは柘榴さんだと思います」
「そ、それは――」
「ナオミ君! 正論だけど『麻耶さんだからいい』ってどういうことだよ!」
「そのままの意味です。麻耶さんはお強い方だから、それぐらいでへこたれるワケがないと褒めてるんですよ」
 にこやかに言われても嫌味にしか聞こえない。
「柘榴君も否定しないし」
「え、あ、それはその」
「話を戻しましょうか。――茶髪の男性でしたっけ?」
 話題はわざとらしく元に戻され、彼女は反論の機会を奪われた。しかしこれ以上反論しても仕方ないことではある。
「……うん、並んで歩いてた」
「連れ去られたとか、そういうのでは無いんですね?」
「違うね。ただの友達みたいな感じだった」
「ただの」
 その三文字に、予想通り柘榴が反応する。あまりにも反応が判りやすいので、それがまた少し面白い。
 しかし、柘榴が楓をこれほどまでに守ろうとするのは何故だろう。シスターコンプレックスと一口に言ったところで、その原因や様相は人によって様々であるはずだ。柘榴の場合、性的にどうこうという問題ではないようで、さらに言えば自分が占有しようと言うよりも、単に楓を傷つけまい、傷つけられることを避けようとしている風に見える。尤もこれは勝手な推測に過ぎないのだが、もしそれに何か原因があるとするなら、柘榴は楓に対して何か負い目を感じているのか――。
 兄弟と言えば、店主と真珠にしても複雑だ。歳は離れているし、そもそも血も繋がっていないし、同居していた期間は累計で一年にも満たない。お互い何処まで気を遣うべきか、何処まで構うべきかで迷っているところがあるのは明白だ。昼を過ぎても帰って来ず連絡もないのに何ら心配さえしていなかったのは一応兄として如何なものか、と思ったところで口に出しはしない。話が違いすぎる。今は楓の昼前後の動向の話だ。
「間違いなく楓さんでしたか?」
「え……だと思うよ、見覚えある自転車だったし」
「で、一緒に居た人は高校生ではない」
 同じ話が繰り返されているような気がする。彼女は素直に頷いてから、話を終わらせようと自ら口を開いた。
「一緒に歩いてどっか行ったのをチラッと見ただけなんだよ。角曲がってっちゃったから何処行ったかも判らないし」
「何処の角かは判りますか」
「うーん、駅から数えて二つ目か、三つ目か……ぐらいかな」
 はっきりとは判らない。その先に何があるかもよく知らない。彼女はこの街の住人ではないからだ。
 店主はこれまでの情報を反芻するように何度か頷いた後、落ちた眼鏡を中指で押し上げた。そんな仕草は何らかの印象操作を狙っているのか。それがどこかおかしくて少し口元が緩んでしまったかも知れないが、本人には気付かれていないようなので、気にしないことにする。あの手の仕草は癖のようなもので、他人がいくら気にしようとも、本人に自覚など無いのだ。それを敢えて指摘せずに眺めると言うのもまた一興である。
「……判りました。すると――楓さんと真珠たちは一緒ではないということになりますね」
 三人が一緒に行動しているのならば、目的の場所はひとつである。しかし、そうではなかった。すなわち、目的地は二つ以上になる。真珠と玄次郎が一緒に居るという保証も無いのだ。
 柘榴が急に何か思いついたような顔をした。
「弟さんは携帯とかPHSとか持ってないんですか?」
「……持たせてません」
「……ですよねぇ」
 せっかくのアイデアも一瞬で無意味なものと化し、柘榴は大仰にため息を吐いて項垂れた。
 しかしこういう事態があると、携帯電話のひとつぐらい持たせていた方が良かったのではないかと思っているのが――店主の顔に如実に出ている。そうは言っても、店主の一存でそれを決められるのかどうかと思えば、ノーであるのだろう。金の掛かることだからだ。
「麻耶さんも真珠たちは見ていませんね?」
「見てないよ」
「……二人に関しては情報が少なすぎる、もう少し待ちましょう。問題は楓さんの方だ」
「問題って――」
「携帯、出ないんじゃなくて繋がらない(、、、、、)んでしょう?」
 尋ねられた柘榴は、何がおかしいのかと言いたげな困惑の表情で頷く。
 問題と言ってしまえば全てが問題ではないか。
 いつもの時刻を過ぎても帰ってこない。
 いつもならあるはずの連絡がない。
 連絡しようとしても繋がらない。
 何者かと歩いている姿が目撃された。
 ――こうして並べてみると、連れ去りでなくても何らかの事件に関わってしまったという可能性もありそうな印象を受けないか。
 しかし店主は特に慌てた様子もなく、やおら立ち上がると厨房の方へ向かっていった。中で何かやり取りをする声と奇妙な音が聞こえる。一体、小猿にどんな攻撃を仕掛けたのだろう。店内からではよく判らなかったが、すぐに店主は何食わぬ顔をして戻ってきた。
 ――その手に、外套を持っている。出掛けるつもりなのだろうか。
「今日はもう閉めます。いつまでもこんなところに居ても仕方ないですから、手分けして探しに行きましょう。私も真珠を探さないと」
「手分けって言ったって、これ以上どこ探せば」
「楓さんの居場所については大方の見当はついていますが、実際行ってみないと判りません。だから『探しに』行くんです。それから、真珠たちは所持金からしてそう遠くへは行けないでしょうし――この近くで見つからないなら警察に相談した方が賢明です」
 などと言いながら、店主は着々と出掛ける準備を整えていく。店を閉められてはケーキを食べている場合ではないので、彼女は皿の上に残っていたショートケーキの欠片を絶え間なく口に運んだ。味わえているようで、味わえていない。
 和服の上にコートを羽織り、その腕にヘルメットを抱えて、店主は颯爽とドアを開けて出て行ってしまう。柘榴が慌ててそれを追っていった。

 その場に、彼女と相棒の鳥が残される。再び、静寂の時間が戻ってくる。
「――……言ったろう、嫌な予感がするって」
 バイクと自転車が走り去ったのを音で確認した後、彼女はそう呟いた。鳥は言葉にならない、深い意味もない鳴き声で返答に代える。返答になっていない。これはただの相槌だ。
「あの子が無事ならいいけど」
「アイツハ疫病神デハナイト何度言ッタラ判ル」
「彼の周囲で人があれだけ死んだのに?」
「ソレハ不幸ナ偶然」
「偶然、ね――」
 彼女はそれ以上何も言わず、テーブルの上の伝票を取って立ち上がる。しかし、鳥は何も言わなかった。これ以上論争を繰り広げても仕方ないという判断だろう。
 代金の受け渡しはハルに頼んでおけばいい。さっさと出て行ってしまったのだから、店主に顔を合わせる必要は無い。

 彼女と鳥以外、誰も居ない空間。
 彼の店。
 この重苦しい空気は――居心地が悪い。
 店主一人が居ないだけで、こうも雰囲気が変わるものだろうか。

 厨房に繋がる扉に手をかけたところで、彼女は突然静止する。
「ミノル」
「……最初は私も、疑ってた。それは謝る」
「何ヲ今更。オ互イ様ダ」
「……。まぁな」
 敵対していた者同士が手を取り合うことは、決して不可能ではない。
 それがたとえ不可抗力によるものだったとして、上手く行かないという証拠は無い。

 彼女が扉を開けて、厨房のテーブルの上にのびている小猿を発見するまで、残り五秒。

   2

 真っ暗で、何も見えない。
 本当に真っ暗なところというのは、初めてかも知れない。

 何も見えないと、他の感覚が鋭くなるらしい。
 さっきから、何かの虫の声が良く聴こえる。
 最初は良かったけれど、だんだんと鬱陶しくなってきた。
 でも、どうしようもできない。

 手を伸ばすと、すぐに壁にぶつかる。
 本当は壁ではなくて、これは扉。
 おにいちゃんのお友達が公園の近くの森で見つけた、大きめの木の棚。
 不法投棄なのか、とにかくそこに棄てられていたもの。
 子供一人ぐらいなら平気で入ってしまう。
 表から簡単な鍵が掛けられる。
 鍵と言うほど凄いものじゃなくて、ちょっとしたロックが出来るだけ。
 でも、中からは開けられない。
 
 おにいちゃんたちは、これによく誰かを閉じ込めて遊んでた。
 これに喜んで入る子も、居た。
 それはあたしも知っていた。

 ――でも、入ったことは無かった。

 おにいちゃんの代わりに仕返しだって言われて入れられてから、どれくらい時間が経ったんだろう。
 そのうち迎えに来るって言われたけど、まだ戻ってこない。
 だんだん、寒くなってきた。
 そういえば、『夕焼け小焼け』はもうとっくに流れた後だ。
 もう、夕御飯の時間だろうか。
 お父さんもお母さんも、心配してるだろうか。
 おにいちゃんも、ここだって判らないのかな――。

 目を閉じても、目を開けても、真っ暗闇。
 何もなくて、真っ黒の世界。

 ――なんだか急に、怖くなってきた。

 冷たい風が、背中を掠ったような気がした。
 閉め切られた空間の中で、風なんか吹くわけないのに。

 こんな時間になっても、誰も来てくれない。
 もしかして、このまま――?
 そんなの嫌だ。
 誰か助けて――!

 叫ぶ。泣く。喚く。
 この声が誰かに届きますように。
 あたしはここに居ます、誰か気付いて下さい――。

「誰か、居るんですか?」

 微かだったけれど、人の声がそう言ったように、聞こえた。
 幻聴なんかじゃないよね――?

「あ……開けて、助けて、助けて――……!」

 必死に叫ぶ。
 何を言うかなんて、何も考えていない。

 草を蹴る音。
 足音が近付いて来る。
 何かを草の上に置いた音。

 ――扉の前に、人の気配。

 カチャカチャと鍵をいじる音。
 多分外も暗いから、簡単な鍵を開けるのも難しいのかも知れない――。
 それだけの時間が、もどかしい。
 泣き声が勝手に喉から漏れる。

 そして、目の前の扉が――スッと、開かれた。

   *

 ガシャン、という大きな音で、眠りに堕ちていたあたしは慌てて飛び起きた。
「! 本当にこんなところに――。二人とも、大丈夫ですか?」
 聞き覚えのある、穏やかな声。
 誰の声かなんて考えるまでもない。
 ――大きな扉に手を掛けて部屋の入り口に立っているのは、紛れも無い、小春茶屋の店主。店からそのまま出てきたのか、和服姿のまま。
「な、直実さん――? ど、どうして、」
「話は後。葵さんも、大丈夫ですか?」
「えあ、あはは……腹は減りましたけどね」
 そう言って苦笑した浅生さんに直実さんは笑顔を返して、部屋の入り口から二三歩、中へ入ってきた。
「どういう経緯でこうなったのか判りませんが――とりあえず、二人ともご無事で良かったです」
 直実さんの言った、その定番すぎるほどに定番なその言葉に――妙に彼の感情がこもっているように感じられて、不思議な気分だった。