こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第四話 暗闇アナロジィ




第三章「蒼杜少年探偵団」

   1

 その日、僕――桧村真珠は、期待と喜びと不安と緊張の混ざり合った変な気持ちで、教室の椅子に座っていた。始業式とホームルームは終わったから本当はもう帰っていいんだけど、何となくまだ少し、座っていたかった。
 新しい街、新しい学校、新しい教室。
 春休みに入ってすぐこちらに移って、東京での生活に出来るだけ慣れる期間を置いてから入学式を迎えたとは言っても、まだ僕にとっては新しいことだらけで、落ち着かない。神奈川県は東京都のすぐ南だから僕たちは標準語を話していて、東京の子も全く同じ言葉を喋ってるんだと思ってたら案外微妙に違って、教室の中で聞こえる会話の響きがところどころ新鮮だった。よく考えたら、こっちに来るまで僕は「東京の子」に一人も会った事がなかったんだ。――でもこの違和感にも、きっとすぐに慣れちゃうんだろうな。
 中学に上がったら、直実さんのところで暮らす。多分直実さんは知らないけど、そう決めたのは、僕自身だ。あのまま居たら、いつまでも何も変わらないと思ったから。もちろん弟だからと言って、家に子供一人置くのはお金も掛かるし大変なことだと判ってる。だからきっと、断られると思っていた。断ってくれても構わないって、ちゃんと僕が言った。――でも、断られなかった。お父さんが、僕が考えている以外のことを色々言ったからだと、思う。
 僕が自分で決めたことなんだから、友達が居なくて寂しいなんて泣き言を言ったら馬鹿みたいだ。直実さんだって高校から一人で東京に来て寮暮らししてたって言うし、それが三年ばかり早いぐらい何てことない、と、思う。思え。もし言ってしまったら、直実さんはきっと「無理しないでいい」なんて言って僕を甘やかしてくれてしまう。僕がお父さんに無理やり来させられてると思ってるから。だから、言っちゃ駄目だ。言わなくて済むように、頑張ろう。最初のホームルームで自己紹介ぐらいはしたけれど、この教室に、今までの僕を知ってる人は、誰も居ない。
 僕が顔を上げると、目の前に誰かが立っていて驚いた。
「――桧村、真珠」
 僕の名前を呼ぶ声。声の主は、学ランがどこか似合わない――綺麗に整ったサラサラの金髪に青い目の、外国人の同級生。でも名前は日本名で驚いて――そうだ。
「泉谷君、だよね。もしかして楓さんのところの」
「あぁ、弟ということになっているから、そういうことで。玄と呼んでくれていい。――君は桧村直実の弟だな」
 やっぱり、そうだ。
 楓さんのお兄さんの――ハルが言うには使い魔みたいなもの、らしい。僕が実際に会ったクリスの他にもう一人居たって言うのが、玄のことなんだろう。
「うん。僕も呼び捨てでいいよ。あ、クリスが何か言ってた?」
「そうだな、君のことをいたく気に入っていて、マスターは軽く嫉妬していたようだが」
「え、うわぁ、そんな……」
 でも、気に入られるようなこと、したっけ?
「――気にするな。いちいち気にしていたら付き合いきれない」
 玄はそこで初めて、笑顔らしきものを見せた。それまでの、ずっと無表情で淡々と話す感じは、いかにも悪魔らしいというか何と言うか。でも、話は普通に噛み合うし、ハルと比べてもずっと人間っぽいというか、『普通の人』のような感じがする。
「まだ、帰らないのか?」玄が言った。
 よく見れば、彼は既に鞄を背負っている。そうか、僕がいつまでも座ってるから不思議に思って声掛けてきたのかも。
「え、――ううん、ボーっとしてたかっただけ。方向一緒だよね、途中まで一緒に帰る?」
 そう言うと、玄は一瞬だけ驚いたような顔をしたけれど――それからすぐにまた、笑って答えた。
「あぁ、そうだな。そうしよう。――ところで真珠、ここからうちまでの道程でたこ焼きの食べられるところを知らないか? 羽田南の北口まで回るのは面倒なんだが、やはりあそこにしかないだろうか」
 あれ、やっぱり、変な人だ――。


 僕はそもそもここに来たばかりで、たこ焼き屋さんどころかまともにお店の場所も知らないので――いや、多分ないと思うけど――それについては直実さんに聞いてみるとして、代わりに通学路を探検しながら帰ることにした。
 とは言っても、ここは住宅街。駅の近くに行くまではコンビニも見当たらない。東京ってどこ行ってももっとごみごみしてるのかと思ってたら、全然そんなことなかった。駅前だって、朝はそれなりに人多いけど、昼も過ぎれば閑散としてるし。直実さんによればこの街の売りは自然の多さらしいから、そういう理由もあるのかも知れない。
 学校から駅周辺の繁華街までの静かな道を二人でのんびり歩いてると、否が応でも目に入るのがこの街の名物――蜃気楼の城、新海城。城と言っても勿論地元の人が勝手に言ってる通称で、正しくは新海碧彦記念館。こっちに移ってきた次の日、直実さんに街の案内をしてもらった時に聞いた話だ。
 尤も、その時は移動が徒歩じゃなくてバイクの二人乗りだったんだけれど。転ばないように術を掛けてくれて、それでいてあの人、意外と飛ばす。勿論バイクの後ろに乗せてもらうのなんて生まれて初めてだったけど、それにしたって速かった。まぁ、人は見かけによらないって言うし。
「――朝も見たが、これは何者の家だ? 周囲の家と一線を画している」城を眺めながら、玄がそんなことを言い始める。「日本人ではないのか?」
「ううん、日本人だよ。新海碧彦って知ってる? 凄い有名な推理作家さんで、ちょっと前に死んじゃったんだけど、その人が住んでた家を記念館にしたんだって」
「知らない。つまり、そいつ限定の博物館というところか」
「あー、まぁ、そうなるのかなぁ」
 そう言いながらも、僕もよく判らない。記念館って、どういうところなんだろう。そもそも新海碧彦の作品自体、お父さんの本棚にあったのを一冊ぐらい借りて読んだ気がするけど、もう内容は覚えていない。
 そんなことを考えていると、しげしげと建物を見つめていた玄が、突然こっちに振り向いて、言った。
「面白いな。入ってみようか」
「え?」
 知らない人の記念館なんか入って面白いんだろうか。
「あぁ、別に巻き込むつもりはないから、先に帰ってくれていいぞ。全くもって個人的な興味だから、別に怒りはしない」
 そんな風に言われると、どうしていいのか迷ってしまう。
 ……少しお腹が空いている。帰ってお昼にしたい気持ちもある。でも、言われてみると、僕も少し興味があった。新海碧彦は確か、小説家によくある自殺とか病気とか――とか言うとお父さんに怒られそうだけど――じゃなくて、誰かに殺されたんだ。そしてその犯人は、まだ捕まっていない。
「僕も行くよ。――たこ焼き屋さん探しは良いの?」
 気まぐれで冗談っぽく訊いたら、玄は忘れていたことを思い出したように、苦笑。
「また今度でいい。行こうか」
「おぅ」
 そして、僕たちは開け放たれた鉄の門をくぐって、緑の溢れる庭の中へと入っていった。

   2

 パンフレットによると一階フロアの半分近くを占めるらしい書庫だとか、元はリビングだった部屋に展示されている原稿だとか、廊下に飾ってある写真だとかを眺めても、玄はほとんど表情を変えず、ずっと悪魔らしい無表情のままだった。だからって、色んなものに反応してはしゃぎ出されても正直困るけれど。
 僕は僕で、結局何を楽しんだらいいのかよく判らなくて――まぁ、ほとんど読んだこともないんだから当たり前だ――、新海氏の家族写真を眺めて、色々と関係ないことを考えてみたりした。
 ――何だかとても、幸せそうな家族だ。
 推理小説ばかり書いていた人だったはずだから、論理的で気難しくて、ちょっと陰のある人なのかと思えば、全然そんな印象はない。むしろ家族の誰よりも明るい印象がある。……この、家族の人たちのプライバシーとかってどうなってるんだろう。ああ、また関係ない方向に考えが逸れる。

 そういえば、こうやってどんどん思考が飛躍していくところは、直実さんと少し似てるってお父さんに言われたことがあるような気がする。血の繋がりは全然無いんだから、遺伝で似てるなんていうことじゃないのは判ってる。そう、たまたまだ。たまたまちょっと、似てただけ。他人の空似。
 ――他人?
 違う、他人じゃない。家族。
 でも、家族だけど、他人だ。
 何だか訳が判らない――。

 この、写真の中で笑っている楽しそうな家族は。
 今、どうしているんだろうか。
 新海氏は誰かに殺された。どういう状況だったっけ。犯人はまだ判ってないし、捕まってもいない。
 ――殺されるって、大変なことだ。
 金目当ての強盗とかじゃなかったと思うし、だとしたら誰かに恨まれてた? この人が? ……そんな風には見えない。
 じゃあ、一体何だろう。
 無差別殺人? 街中の通り魔殺人とかじゃなかったはずだし、それも違うような気がするけれど――でも確か、同時に殺された人が居たはずだ。

 無差別ではなく、明らかに狙われていて、同時に何人もの人が殺された。
 それも、室内で。
 ――ああ思い出した、新年会だ。新年パーティの会場。
 だとすると――さらっと流してしまいそうになるけれど、恐ろしい事件だ。

 じゃあこの人は、どうして狙われていたんだろう。
 一緒に殺された人がどんな人かは覚えていないけど、その人たちとこの人は、一体どんな関係だったんだろう?

 そんなことを考えて、やめる。
 警察も解けなくて今も解決してない謎が、僕なんかに解けるわけないじゃないか。

 直実さんなら、どう考えるだろう?
 そういえば、純さんとの関係で地元警察を手伝うことがあるとか言ってたけど、いくら友達だからって、普通そんなことってあるかな――……何となく、怪しい。

「――真珠。殺されたと言うのは、この夫婦なのか」
「え? ――ああ、うん。新海さんとその奥さん」
「では、子供たちは何処かへ移ったのか」
「そう……なんじゃ、ないかな。子供って言ってももうほとんど大人みたいだし。……あれ?」
 写真を見直して、ようやく気付く。
 新海氏の息子さんって、この前の佐伯さんか――!
「どうした?」
「ああ、この息子さんがこの前うちに来てた人だと思って」
「小春茶屋に?」
「そう。と言うか、例の通り魔事件ともなんか関係してたみたいで」
「……怪しいな」
「いや、別に何かしてたわけじゃないみたいだけど」
 でも、写真の中の彼と、前に店で見た彼との印象はかなり違う。
 そりゃあ、写真と実物で比べること自体に無理はあると思うけど、それでも、だ。
 店で見たときの彼は、ハイテンションで、本物の刑事である純さんに責められてもその状況を楽しんでるみたいに見えた。でも、写真の中の彼は、どこか愁いを帯びていると言うか、まるで別人みたいな雰囲気だ。
 ――何年も時間が経てば、人間なんて変わってしまうと言うだけのことなんだろうか。

 僕が同じ写真をずっと見つめていたのを、玄は不思議そうに見ていた。それに気付いて慌てて先を急ごうと言うと、玄は何故か不思議そうに「気を遣う必要はない」と返してきた。不思議なのはこっちだ。

 玄がすたすたと廊下の先へ進んでいく。僕はそれについて行く。――本当に広い家だ。廊下も長い。鎌倉の家も一般的に見て広い方だということは判るけれど、こっちの方がずっと広い。家じゃなくて城と言われるのも、納得できる。
 ようやく突き当たって、僕は矢印で示されている順路通り、右に曲がろうとした。
 ――が、玄がそれに従わない。左に行こうとする。
「玄? そっちじゃないよ」
 言いながら彼の行く先を見ると、案の定というか、しっかりと関係者以外立ち入り禁止の表示がしてある。
「判っているが、あの人間。あっちへ行った」
 玄が示す先を見ると、長い人影がさらに奥へと曲がっていったのがギリギリ見えた。背の高い男の人で、暗い色のスーツを着ているようだった。
「……関係者の人だったんじゃないの?」
「そんな風には見えなかった。さっきまでぼくたちの前を歩いて普通に見学していた人間だ」
 それは、変な話だ。
 いや、でも。
「だからって僕らも行くのはまずいよ。見つかったら怒られるし、もし関係者だったら悪いし」
「……そうか」
 玄は案外すんなり頷いてくれた。まだ、どうにも掴み切れない――。

   *

 二階三階と進んで一通り見学し終えると、広いだけあるのか、意外と疲れた。子供だし男だし体力はそれなりにあると思ってるけど、運動部員ではないし、まだまだなのかも知れない。お腹も空いてることだし。
 三階に休憩室があったので、そこでジュースを買って、四人掛けの白いテーブルを二人で占拠してしばらく休むことにした。室内には僕たちの他にも何人かお客さんが居て、わいわい話してるグループ客も居たから、結構にぎわっていた。
「新海氏と言うのは不思議な人間だな」
 意外にも豪快にコーラを飲みながら、玄がそう言った。
「不思議って、どういう風に?」
「人が死ぬ話を書いていたんだろう」
「まぁ、人が死ぬと言うか、謎解きって言うか」
「その割に随分とにぎやかな人間だったようだ」
「そういうこともあるんだよ、きっと。それに、人が死ぬ話って言っても、そんなに暗い話じゃなかったような気がするし」
 あんまり覚えてないけど。
 すると玄次郎君は――……その青い目を、僕ではない何処かへ向けて、固まった。
「玄? 大丈夫?」
 声を掛けてみると、彼は何も言わず、僕の右斜め後ろの方向を小さく指差した。何のことだか判らないけど、僕はそっちに振り返ってみる。そこにはやはり四人掛けのテーブルがあって、一人の若い男の人が座っていた。紙コップを両手で持って何かを飲んでいるけど、休憩中にしては随分暗い表情をしているのが気になった。腕時計を見て、ため息を吐いて、またコップを口に運ぶ。
「さっきの人間だ」
「さっきの?」
「立ち入り禁止のところへ入っていった」
 ああ、さっきの。言われてみれば、同じ人のような気もする。
「――先刻はあんな荷物は持っていなかったと思ったが」
「え?」
 改めて覗き見ると、男の座るテーブルの上には、黒くて大きなボストンバッグ。僕はチラッと見ただけなので、荷物を持っていたかどうかは判らないけれど――玄が言うには、そうらしい。
 そうだとしたら、どういうことだろう。
 僕らが見てない間に、誰か別の人に会ってそれを受け取ったとか。……こんなところで、何だか怖い取引みたいだ。
「誰かから預かったとして、その誰かというのは一体何者か。荷物だけ渡して、彼と一緒に居ないと言うのも妙だ。――時間を気にして、時々入り口のほうに目を向ける。さらにまだ誰かと待ち合わせをしているのか? それにしても随分と落ち着きがない」
「……慌ててるようにも見える」
「やはりおかしい」
 そう呟いて、玄は自分の紙コップに残っていたコーラを一気に飲み干す。僕もそれにつられて自分のお茶を飲み終えてしまったので、空いた紙コップを捨てに行くことにした。ついでに玄の分も持って行く。ゴミ箱にそれを捨てて戻ってくると、玄はまたさっきの人の方を小さく示した。
 彼が荷物を持って立ち上がって、休憩室を出て行くところだった。またどこかへ行くのだろうか。また誰かに会って、何かを受け取ったりするんだろうか。それが怪しいものでなければいいけれど、もし変な取引だったとしたら――。
「彼を追ってみよう」
 ――今度は僕も、玄の言葉に従うことにした。完全に興味本位だけど、そんなに危険なことはないと高を括って。

   *

 結局その人は誰と会うこともなく、記念館の建物から外に出て行ってしまった。僕らもその後を追う。もしかして、外で待ち合わせしてるんだろうか? 休憩室ではただ時間を潰していただけ、とか?
 でも、それに納得できていない人物が、居た。
 正確には、「人物」ではないのかも知れないけれど――だからと言って、じゃあどう書き表したらいいのか、僕にはよくわからない。もしかしたら別に「人物」でもいいのかも知れない。ああ、また話が逸れた。
「――お前。見ていたぞ」
 玄次郎が、彼に、背後から声を掛けた。その冷たい声色に青年はびくっと肩を震わせて凄い勢いでこちらへ振り向く。でもそこに立っていたのが子供二人だったから、彼はそれにまた驚いた顔をする。
「ちょ、ちょっと、玄」
 いきなり声掛けて驚かすことないのに。
 実際何かあったって証拠が見つかったわけでもないのに。
「な、何を――」
 でも、青年は相変わらずの怪しい様子。これで何もないと思う方がおかしいのかも、知れない。
「さっき、立ち入り禁止のところへ入っていったな。そしてその鞄を持ってきて、何事もなかったかのように記念館を後にした。その中身は何だ?」
 玄の直球すぎる攻撃に、青年は文字通り目を丸くして――……それから、何故かクスクスと、笑い始めた。
 その時、嫌な風が通り過ぎたような気がした。
 背筋がゾクッとするような、脊髄が痺れるような――……こういうの、嫌な予感って言うのか?

「そうか、見てたのか、君たち――」

 青年の苦笑が歪んで見える。
 ああ、やっぱり関わっちゃいけなかった――?

 ごめんなさい直実さん、始業式の日から遊び歩いて問題起こして。
 ごめんなさい楓さんのお兄さん、玄を止めなかった僕も悪いんです。

 これからは気を引き締めていきます。無茶なことしません。ちゃんと勉強します、店の手伝いもします。
 だからせめて、命だけは――。

   3

 あたしがひとり、砂場で作った砂山にトンネルを掘っている近くで、おにいちゃんたちが遊んでいる。
 何をしているのかはよくわからないし、あたしには関係ないことだから、気にしない。

 指が砂の壁を突き抜けた。
 トンネルが向こう側に通じる。
 山は崩れない。
 完成だ。
 反対側に回って、出口を少し大きくする。
 でもやっぱり山は崩れない。
 きれいなトンネルができた。
 もう一度もとの場所に戻って、トンネルの中を覗く。

 ――反対側の世界が見えた。

 なんだか、ちがう世界を見ているみたい。
 向こうの世界で、おにいちゃんたちが走り回っている。

 バケツで水を汲んできた。
 トンネルの中にそれを流す。
 水はちょろちょろと流れて、トンネルが開通したことを喜んでくれた。

 でもすぐに砂に吸い込まれて、そこには茶色く染まった砂が残る。
 ――つまらない。

 川はできなかったけど、とてもきれいなトンネルができた。
 だから、おにいちゃんに自慢しよう。
 立ち上がって、おにいちゃんたちの方へと走っていく。

「おにいちゃん! トンネルができたよ――」

 でも、みんなの様子がおかしい。
 おにいちゃんのお友達が、転んで、ケガをしている。
 色んなところを擦りむいて、血が出ている。
 痛そう。
 今にも泣き出しそう。
 何があったんだろう?

「おにいちゃん」

 おにいちゃんは、転んでいる子とその前に立ちはだかる子に向かい合って立っている。
 なんだか、おにいちゃんが、ケガをしている子を虐めているみたいだ。

「もうやめろよ、気は済んだだろ」
「……どけよ」
「どくわけないだろ」
「どけっつってんだよ、どけよ!」
 そうおにいちゃんが叫んで、目の前に立っていた男の子を突き飛ばす。
 後ろに転んでいた子を巻き込んで、派手に転んだ。
 二人の大きな悲鳴が上がった。

「――おにいちゃん、喧嘩はだめだよ、おにいちゃん!」

 あたしは、興奮しているおにいちゃんの服を引っ張って、必死に訴える。
 でも、おにいちゃんは聞いてくれない。

 お友達にも、あたしにも何も言わないで、
 おにいちゃんは公園から帰っていってしまった。

 ――結局、トンネルの自慢はできなかった。

 あたしが砂山を崩していると、
 突き飛ばされた子が立ち上がって、
 こっちにゆっくりと歩いてきた。

「……だいじょうぶ、だった?」

 心配だったから、訊いてみた。
 その子は、にやっと笑って、あたしのすぐ傍にしゃがんだ。

「すげー痛かったよ」
「……おにいちゃんの代わりに、ごめんね」
「……兄ちゃんの代わりに、か」

 そしてまた、笑う。
 何だかよく判らない。
 あたしは首を傾げる。

「じゃ、君が兄ちゃんの代わりになってくれる?」

 それって、どういう意味――。
 よく理解できなかったあたしが聞き返す前に、彼はあたしの手を引いて、砂場から引っ張り出していた。

 理解できなかったんじゃない、判ってた。
 判ってたから、あたしはすぐに反応できなかった――。