こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第四話 暗闇アナロジィ




第二章「蜃気楼の城」

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 東京都羽田杜市は小さな町だ。
 東隣の花蜂市が結構大きくて高級住宅街なんかも抱えているゆえに名が知られているのを思うと、切なくなるほどマイナー。あたしたちの地元・蒼杜本町と北蒼杜の間に作られた駅の名前が、判りやすく蒼杜じゃなくて羽田南なのも影響してるんじゃないかと思う。だって絶対「蒼杜」の方が綺麗だし。何たって蒼い森だ、何となく高級っぽい。町の名前自体は、隣町・緑谷と跨って立つ地図にも載らない小山の周辺に広がる森林に由来するらしいけど――。
 「高級っぽい」のはあながち間違いでもなくて、この辺は結構大きい家がちょこちょこ見受けられる。まぁ都心からちょっと離れるから、地価も安いって理由は大いにあるんだろう。その中でも一際大きいのが――……さっき言ってた、通称、新海城。日本中の誰もが名前ぐらいは知っていた【、】推理小説家、新海碧彦の家。もちろんペンネームだから表札には違う名前が書いてあった。だから2年前に例の事件で主が亡くなるまで、そこがそうだということはあまり知られていなかった。表札をちゃんと見る人も少なかったし、単に『お城』とか呼ばれてたかな。
 息子である浅生さんが相続しないで寄付したから、今はもう、人の家ではない。でも、建物自体はそのまま残っている。白亜の壁にマリンブルーの屋根が映える、3階建ての洋館。有名な誰かの設計とかってわけじゃなくてむしろ新海氏本人が色々考えたらしい、って言うのは、浅生さんによる情報。有名な作家さんの家だから記念館にしようってことになって、内装だけいじって今の形になったんだそうで。
 ともかく、高い鉄柵に囲まれたそんな広大な空間が、ごくごく平凡な住宅街の中に突然、現れる。記念館の開館時間の間は門も完全に開放してあるから、綺麗に手入れされて花々の咲き乱れる庭には、特に断りを入れなくても自由に入れるってことになる。敷地全体の半分ぐらいあるんじゃないかと思える広い庭の中にはテーブルと椅子も置いてあるから、勝手に入って休憩しようと思えば、出来ないことはない。
 門から建物に繋がる砂利の小道の傍に自転車用のスペースが空けてあったから、あたしはそこに自転車を留めた。既に何台か留めてあったから、他にも自転車で来ているお客さんが居るみたいだった。
 小道は建物の左端の少し凹んだ部分に続いている。そこを進んでいくと、右手に大きな観音開きの玄関ドアが開け放たれている。――そこが記念館の入り口。一歩前を行く浅生さんに続いて足を踏み入れると、右側の受付にお姉さんが一人、座っていた。
「えっと、大人と、高校生。――あ、学生証ある?」
「あ、はい」
 学生証が挟んである生徒手帳をケースごと差し出すと、浅生さんは「さんきゅ」と言いながらそれを受け取って、受付に見せて、あたしが口を挟む隙がないままにお金を払ってくれてしまった。
「あの、あたし――」
「いいよ、俺が呼んだんだし。高校生に金出させるなんて社会人として何かみっともないし」
 そんな事を言いながら、あたしに、生徒手帳とチケットを一緒に渡してくれた。
 そして何故かニヤリと笑って、宣言。

「それじゃ、行きますか。――恐怖の新海城探検ツアーへ」

 な――……何ですか、それ。

   *

 実際ついて行ってみれば何のことはなく、元住人による面白おかしい解説付きの見学ツアーだった。お父さんが犬に突き飛ばされて階段から転げ落ちた時についた傷とか、ご両親がケンカした時に(お父さんが)引きこもるための部屋とかその他諸々、浅生さんはお父さんを馬鹿にしたいんじゃなかろうかと思うぐらい、お父さん――つまり新海氏の笑い話が大半だった。
 噂に聞く恐ろしい新海氏とは違って、温かくて穏やかで、何故かいつも笑っていて、お母さんはそんな彼に苦労しつつも楽しい日々を送っていて――……浅生さんの話からは、暗い雰囲気の家族像なんかちっとも見えない。それどころか、感じられるのは平和で、一般平均よりもずっと幸せそうな家族の姿。――でも、どうしてなんだろう。どうしてあんな風に言われてたんだろう。そんなことを思ったら、勝手に口が動いていた。
「うーん、俺も知らない。きっと何かあったんじゃない?」
 すると浅生さんはまるで他人事のようにそう言って、1階の広い廊下をずんずん進んでいった。
 やっぱり、触れられたくない何かがあったのかも知れない。気分悪くしたんだとしたら、謝らなきゃ……。

 ――廊下は突き当たって左右に道が分かれていた。右手には階段があって、順路はそっちらしい。そして左手には太いロープで繋がれたポールが2本立ててあって、「関係者以外立ち入り禁止」の札がぶら下がっていた。

「……どうせ誰も入らないくせにな。先行こうぜ」
 浅生さんはロープをまたいで先に進んでしまう。お、おいおい。
「でも、見つかったら」
「へーきへーき、見つかりゃしないよ。見つかったこと無いし。面白いのはここからなんだぜ」
 内容に反して小声でそう言った浅生さんは、少し後ろを気にしながら、小走りに暗い廊下の奥へと進んでいった。あたしも慌ててついて行く。すぐに突き当たって、また左に曲がると、長い廊下が続いていた。
 電気のついていないその廊下には窓もなければドアもない。何の為の廊下だろう。暗闇の向こうに見えるのは、やっぱりドアじゃなくて、壁? でも家の中に行き止まりなんて変だよね。あの壁が何かの仕掛けになってるって言うなら別だけど。――とか何とか色々考えながら歩いてたら、目の前の浅生さんが急に立ち止まった。
「わっ」
「! ごめん。――着いたよ。ちょっと下がってて」
「着いたって、どこに――」
「ここだ」
 しゃがみ込んだ浅生さんが、床に埋め込まれた取っ手らしきものを引っ張り上げる。ギギ、と軋むような音がして、床板だったものが動いて持ち上がった。――まさか、何、秘密の地下室への階段とかそういうの? 手前側に居るあたしの方に蓋が迫ってきたので、あたしは脇を通って浅生さんの方へと向かう。
 穴の中には、しっかりした手すりつきの階段が地下へと続いていた。奥はやっぱり暗くて、よく見えない。
「ホントに階段だ――」
「すげえだろ。いや、別に技術がどうこうってんじゃないけど、親父の遊び心でね。隠し扉とか隠し部屋とか作りたくて仕方なかったらしくてさ」
「へぇ……それって、ミステリー書くためのヒントにしたりとか」
 実はこの部屋には隠し扉があったのです!なんてのは良くないらしいけど。
 あたしの言葉に、浅生さんは階段を下り始めながら苦笑して、一言。
「単に自分が楽しむためだよ」
 浮かんでくるのは、やっぱりいつも子供みたいにはしゃぐ新海氏の姿。
 ――イメージが噛み合わない。本当にどうして、あんな噂が立ったんだろう。でもきっとそれは中に居た浅生さんには判らないことだから、ここであたしが訊いても仕方ないんだろうな――。
 浅生さんはずんずんと階段を下りていく。あたしも急いでついていく。上に残ってて誰かに見つかるのも、嫌だったし。地下は闇に包まれていて、階段がどこまで続いているのかも上からだと良く判らなくて、結構怖い。と思ったところで、パチ、と音がして、下の廊下の電気が点いた。
「隠し階段の途中に電気のスイッチつくるとか、中途半端だと思わん? ――あ、上閉めるから先下りてて」
「あ、はい」
 下まで下りると、また長い廊下が右手にまっすぐ伸びていた。でも別にそこまで古い洋館っていうわけじゃないし電気も蛍光灯だから、普通に地下階の廊下って感じ。
 上閉めるって、上げっぱなしにしてた蓋のことか。結構重そうなその蓋を、浅生さんは手動で閉める。下手な閉め方すると指挟まれるし、バランス崩すと階段から転げ落ちかねない――なんか、随分危なっかしい造りなのね、ここ。
「……大丈夫ですか?」
 足元と手元を交互に見ながら慎重に作業をしていた浅生さんは、まずゆっくりと手を放して蓋を完全に閉めてから、こっちに振り返って、笑った。
「おう、慣れてっから大丈夫よ。――ま、本来は閉めるもんじゃねえんだけどな」
「そうなんですか」
 ――じゃ、何で閉めた。
 いやまぁ、立ち入り禁止のところに入ってるっていう後ろ暗さはあるんだけどね、あたしにも。
「あぁ、閉めることを想定してたんだったら、中からもっと楽に開閉できるようにしてるはずだ」
 天井となった蓋を見上げながら、浅生さんは階段を下りる。
「でも、どうして中から閉めること考えなかったんですか? せっかく隠してるのに」
 廊下に下り立った彼はあたしの質問にまた苦笑して、
「ここが『家』以外の何者でもなかったからじゃね」
 とだけ答えて、廊下の先にすたすたと進んでいってしまう。何だかよく判らない。
 でも、良く考えたらあたし普通に話してるけど、この人って父さんの『仕事関係の知り合い』で作家さんなんだよね。もうちょっと緊張感持って話さなきゃ、父さんに怒られる、かも。
 ――佐伯葵さん、か。あたしの僅かばかりの記憶によると、デビューしたのは確か、新海氏たちが殺された年。つまり二年前。ファンタジーっぽい作品が多くてどっちかって言うと女性に人気があるよね、っていうのが父さんの話で……それ以上はよく知らない。ファンタジーか。忍耐Tシャツ着てる人がファンタジーなぁ。似合わない。まぁ、人は見かけによらないってことよね。
 そんなことを考えながら歩いていたら、突然、前を歩いていた浅生さんが立ち止まった。気付くと右側に大きな扉がそびえている。金属製の、この時代には似つかわしくない、外側に閂の掛けられる大きな扉。
「な、何ですか、これ」
「うーん、物置と言うか何と言うか。派手なのは見た目だけだよ、親父の趣味でね。――俺が親とかとケンカしたりした時によくこもってた部屋なんだぜ」
 ……ケンカした時に部屋にこもるっていう選択をするのは父親譲りなのですかい、お兄さん。
 浅生さんはその大きな扉に手を掛ける。鍵代わりらしい閂は掛かっていないから、扉はギギィと音を立てて、ゆっくりと開いた。
 明かりの点いていない部屋は真っ暗で、廊下の明かりを頼りに中を覗くと、意外と大きく奥に広がっている。あたしと浅生さんは中に入って、大して何も無いその部屋の奥へと進んでいった。
「電気電気っと」
「スイッチはどこですか?」
「奥。何つーか色々間違ってるだろ、この部屋。でもそこが好きなんだなー」
 電気のスイッチが奥にあったら、そこに辿り着くまでは暗闇の中を進まないといけない。まぁ、廊下の明かりはあるからそれなりに見えるけど――……でも、浅生さんはやっぱり不思議な人だ。
「この辺だな」
 浅生さんがそう呟いた、その時。

 ――カタン!
 何かの音。何かが床に倒れた音。あたしと浅生さんは思わず振り返る。その先にあったのは、――逆光になってよく見えないけど、それは確かに部屋の入り口近くに居て、人の形をしていた――。
「……おい、誰だ? スタッフじゃねえな?」
「え……?」
 まさか。でも、浅生さんは違うと言う。
 ――浅生さんが走り出す。
 人影は一瞬だけ躊躇うような動きをしてから、脱兎の如く部屋から飛び出していく。そして慌てたようにドアを閉め始める。浅生さんの猛ダッシュも虚しくドアは閉まって、ガチャガチャという音が聞こえてくる。これって、閂を掛けている音――?
 急停止できない浅生さんはドアにタックルする形になった。それでもドアは当然、開かない。
「おい、聞こえてねえのか!? 人をこんなところに閉じ込めるのは色々やばいぞ! 引き返すなら今のうちだぜ!」
 助けを求めるにしては奇妙なことを言いながら――でも正論だ――、浅生さんが懸命にドアを叩く。でも、扉の向こうには既に人の気配は無いように感じる。
 つまり、この状況は、
「……閉じ込められた……」
 ってことだ……。
 何よ、そんな、こんなところで閉じ込められるなんて有り得る話? この平和で――とも言い切れないけど、緑が沢山あるのが取り得みたいなこの羽田杜で。推理作家の記念館だからって冗談キツいよね、きっとスタッフさんのちょっとした悪戯で――。
 …………。
 やめやめ、現実逃避しても仕方ない。これは紛れも無い現実。実際こうしてドアは開かないし、あたしと浅生さんはこの何も無い地下室に閉じ込められた。
「そうだ、携帯」
 あたしには文明の利器があるじゃないか! 誰かに電話して助けてもらいに――
「……電波、ある?」
 あぁ……ここ、地下室だ。取り出してみる。案の定、圏外だった。ちょっと地下に入っただけなのに、悔しい。

 ただ開けるだけでも結構重い扉だから、2人でぶつかったところで破れる訳がない。だから、無茶な事はしないことにした。
「あー……参ったなぁもう。何でこんなことになっかねー」
 浅生さんはため息を吐きながら、部屋の奥に向かって歩いていく。そして倒れ込むようにして座った。それからまた更にため息。あたしもそれに続いた。
「ごめんね、こんなことになる予定なかったんだ」
 浅生さんは心底困った顔で言う。
「あったらびっくりです」
 おっと、口が勝手に動いてしまった――。
「ははっ、そりゃその通りだな。まさかこの家で本当に小説じみた事が起こるとはね。親父が生きてたら大喜びだな」
 ――え?
 大喜び、なの?
「自分の息子が閉じ込められてるのに?」
「……あぁ、助かったらの話な」
 そう、よね。それが全ての前提。現実離れしたこの状況を、まだ飲み込みきれていないというだけの事。
 でも、誰が助けに来てくれる? さっきあたしたちを閉じ込めた犯人がまた来てドアを開けてくれるなんてことが有り得る? 家に帰らなきゃ家族は心配するだろうけど、まさかこんなところに居るなんて誰も思わないだろうし。お父さんの予知だって、人の居場所を捜すのには使えない。きっと直実さんにも無理。いくらあの人が術師ってだけじゃなくて名探偵だからって、何の情報もなしにあたしの居場所を当てられるわけが……ない。ここのスタッフの人だって、倉庫としても大して使われてないのが明らかなこの部屋にしょっちゅう来るとは思えない。
 あ、浅生さんの家族ならどうだろう――? 確か妹が居るって言ってたような気がする。
「あの、今日浅生さんがここに来てること、家族の方はご存知なんですか?」
「無理してそんな堅苦しく言わなくていーよ。……いんにゃ、知らない。俺が勝手に待ち合わせして来たし、1日2日帰らないところで心配される立場じゃねえし、ちょっとヤバイな」
 おいおい本当にやばいじゃないか。い、嫌だぞ、こんなところで人知れず餓死なんて。
 ――あの時(、、、)と同じ、嫌な、変な気分。
 でもあの時と違って、いくら叫んでも届かない。ここは家の中なのに、外と完全に断絶された世界。ひとりじゃないのはまだ良いけど――。

「大丈夫、望みはある」
 浅生さんの落ち着いた声ではっとする。でもどうして落ち着いていられるんだろう――あれ、あたし、いつの間にか、泣いてる――? 嫌だな、人に泣いたところ見られるなんて。そんなに長い付き合いでもないのに。
「犯人の良心に期待しようぜ。俺が追い掛けたから咄嗟に閉めただけで、あいつの本来の目的は俺たちを閉じ込める事じゃなかったはずだからな」
 あ――……なるほど、そうか。
 でも、全ては、犯人次第だ。
「まぁ、神様にでもお祈りしながら、大人しく待ってようぜ。退屈しのぎの話ぐらいなら出来るから、何でも訊いてくれ」
 浅生さんはそう言って座ったまま伸びをすると、壁に背中を預ける。
 神様にお祈り、か――。
「浅生さんは、神様って居ると思いますか?」
 退屈しのぎの質問ってわけじゃ、なかったけど。
 浅生さんはうーんと唸ってから、少し笑いながら、答えてくれた。
「居たらいいな、って感じ? ――ま、助けてくれた事ねえんだけどな」
 つまりそれは、否定。
 居ても助けてくれないなら、それは居ないのと何ら変わりない。
 そう思ってはいても、それでも、すがりたい存在。
「――きっと、居るんです。でも、皆を助ける訳には行かないから、気まぐれで」
「そか。神様も大変だな」
 それから、あたしも浅生さんも、しばらく何も言わなかった。
 ただ、お互いに相手が何か言い出すのを、待っていただけかも知れない。

 先に口を開いたのは、浅生さんの方だった。にぎやかな人だから、静かすぎるのに耐えられなかったのかも知れない。
「そういや親父のフォローしに来たんだったな。すっかり忘れてたわ」
 そう言われればそうだった。でも、新海氏がお茶目なお父さんなのは良く判ったけど、どうしてあんな噂が立ったのかは判らなかった。
「俺も、ホント言うとよく判んねえけど。でも多分、親父のせいじゃねえんだ」
「……?」
「多分だけど。――全部、俺のせいだ」
 そう、言われても――……どう答えていいのか、あたしにはよく判らなかった。はぁそうですかって言ったところで、どうにかなるものでもないし。
「親父本人はそうしょっちゅう外に出る人じゃなかったから、この『城』ン中で何が起こってるかは――……外の人には判りゃしない。だから、外に出てくる子ども――つまり俺や妹がどんな顔してるかで判断してたと考えれば、原因は俺らの方にあったと見ていいよな」
 なるほどそれはそうなのかも、知れないけれど。自分のことなのに、推測しか出来ないような話し方をしているのに物凄く違和感を感じる――。
「じゃあその原因って、何なんですか?」
「さぁ、すっげ暗い顔してたんじゃねえの。あるいは生傷だらけだったとかな。俺はそんなこと覚えちゃいねえんで判らんけどさ。――あ、俺ね、ちょっと事故って中3からこっちの事しか覚えてないのね。……その事故も殺し損ねたんじゃないかとかよく言われたなぁ」
 そんな事を言いながら彼はあっけらかんとして笑う。それってつまり、記憶――喪失、ってヤツですか?
 現実には滅多な事では起こらない、って聞いた事がある。
 ――でもだからって、絶対に無い訳じゃ、ない。
「……ま、昔の俺が暗かったんじゃねえかなんてのも推測だけどな。『新海家』の『碧彦』が現実の親父とは似ても似つかなかったから、やたら明るい『碧葵』も現実の葵【オレ】とイコールでは有り得ない。――親父の本読んだ事ある?」
「え、あ……はい、一冊か二冊ですけど。ご家族がモデルって言うのは聞いたことあります」
 碧葵という名前は作中の息子さん、つまり現実の浅生さんに当たる人の名前だったはずだ。ただ、その話を聞いたのが父さんからだったか、先生の誰かからだったかは覚えていない。まぁ、どっちだとしても不思議はないし、どっちでもいい。
 浅生さんはふむふむと言いながら何度か頷いて、気力を持ち直すように一度大きく背伸びをする。
「全員が全員別人だった。――むしろわざと変えてるみたいだったな。まぁ、あんまり同じでも嫌だけどな、プライベート暴露されてるみたいでな」
「そうですね――」
 結局のところ、浅生さんは自分のせいだと言うけれど――……真相は闇の中、っていうことらしい。それからまた少し、沈黙が続いて。退屈しのぎの質問も思いつかないあたしが眠気のようなものを感じ始めた頃、浅生さんはポツリと、独り言のように呟いた。

「――……見殺しにしたようなもの、か」

 いつの、何の、話だろう。
 誰が、誰を見殺しにしたって?

 あたしがぎょっとして隣に座る浅生さんの方へ振り向いても、彼は特に表情を変えることはしなかった。