こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第四話 暗闇アナロジィ




   Prologue

神様、お願いです。

どうか、助けてください。


ちゃんと勉強するから。

ちゃんと家のお手伝いもするから。

ちゃんと、……。


――だから、その重くて冷たい扉を、開けてください。


第一章「ちょっとした好奇心」

   1

 ――解せない。解せぬ、解せぬぞ!

 その光景を見た瞬間、時代を場所を無視したそんな言葉が口から飛び出しそうになるのを、あたし――泉谷楓は必死に堪えた。もっとも、言葉を堪えたところで言いたいことは顔に全部出ていたようで、次の瞬間にはあたしはその場に居た全員の視線を集めることになったのだけれど。
 今日は、始業式。短い春休みが終わって、あたしは晴れて高校三年生になる。まぁ、書類上は四月に入った段階でそういうことになるらしいけど、そんなことはどうでもいいよね。兄貴に倣って大学受験をしない道を選んだあたしは、今年一年、最後の高校生活っていうやつを存分に楽しむ、予定だった。――そう、予定ではごく普通の、平凡な一高校生として。
 その予定は、大幅に狂った。

「……その二人、何で、居るわけ……?」

 爽やかな春の朝の食卓。焼けたトーストとコーヒーの匂いはいつも通りなのに、そこに異質なもの【、、】が、二つ。四人がけの四角いダイニングテーブルの、両側のお誕生日席というか――当然、本来そこに椅子は置けないスペースに皿を置いて、適当にその辺から持って来た台に腰掛けて朝食を食べている、金髪の子供が、二人。
 ――クリスティーヌと、玄次郎。
 兄さんが何かして飼ってるとか従えてるとかいう、小悪魔たち。
 昨日までは兄さんの部屋でこっそり暮らしていた彼らが、今は当たり前のようにこうして居る。そして、呆気に取られているのはあたしだけで、何も知らないはずの母さんさえニコニコ笑っている。……ちょ、ちょっと待って、本当にあたしだけ知らなかったってことかい?
「何でって。お前にバレたんだから隠し立てする必要ねぇよなってことだろ。冷たいこと言うなって」
 兄さんは大胆にも目玉焼きをそのまんま上に乗せたトーストを齧りながら苦笑して、そう言った。
 ――確かに昨日、クリスのことであたしは兄さんを問い詰めた。直実さんに色々アドバイスを貰って、下手に刺激しないように、慎重に。結果的に、兄さんが暴走するようなことはなく済んで、クリスの他に玄次郎とかいう凄まじい名前の男の子が居るんだと紹介された。
 でもあたしは、そのファンタジックな世界は兄さんの部屋の中だけのことだと思っていたから。だから、今この状況に戸惑っているわけで――!
「べ、別に冷たくしてるわけじゃないわよ。それじゃ、母さんは前から知ってたってこと?」
「え? えぇ、クリスは私の部屋で寝てるのよ。女の子だものねぇ、男の子の部屋で寝たくなんかないわよねぇ」
 母さんは平然とそう言って、もそもそとトーストを食べるクリスと顔を見合わて笑う。クリスは母さんの問いに頷いた後、立ち尽くすあたしの方を見てニッコリと微笑んだ。そして言う。
「楓、おはよう」
「お……おはよ……」
 そんな平和な挨拶に応えたあたしの顔が引き攣っていたのは、言うまでもないと思う。
「まぁ、座れよ。パン冷めるぞ」
 とは、にこやかに微笑む父さんの言。……落ち着いていらっしゃる。あたしは返事なんかしないで着席した。あたしが起きてくる時間を例の予知で想定して勝手に焼いてくれたトースト二枚が目の前にある。あたしはテーブルの中央に置いてあったマーガリンを取って何も言わずにトーストにそれを塗って、間にハムとレタスを挟んで、やっぱり何も言わずに食べ始めた。
「何もそう不満な顔せんでも」
 と、兄さん。
「だから、不満って言うんじゃなくって」
 言いたいことが伝わってない。まぁ、伝えようともしてなかったけど。

 兄さんも父さんも母さんも、知っていた。――だから、あたしの方が一人、異質なんだ。何かが出来る出来ないじゃなくて、この部屋の、この世界の見え方が違っていた。

 あたしが口を開こうとした時だった。
「――自分一人の為だけに、二人の存在を知りながら隠していた、その点が解せないということだな」
「え?」
 高い声。でも、この前聞いたクリスのものとは違う。これは――彼だ。玄次郎、君。窓からの光を背中に受けていて、あたしの位置からは逆光になっている。表情が上手く読めない。でも、彼が――見事に、代弁してくれた。何なの、彼は読心術でも心得てるっての?
「玄」
「ニンゲンというものは面白い。そんなちょっとしたすれ違いから、予想もしない展開を巻き起こす――」
 何が言いたいのかよく判らない。兄貴の呼びかけに応じなかったところから見て、自分の世界に入り込んで独り言を呟いてると解釈した方がいいかも。
 玄次郎君の介入で、自分でも何考えてるのか判らなくなったあたしは――それ以上何も言わないことにして、普通に朝食を食べ終えて、ご馳走様して、出かける準備をするべく自分の部屋に戻ろうとした。あたしがリビングのドアを開けて廊下に出ようとしたその時、あたしのパジャマの裾が誰かに引かれた。
「え?」
 誰かと思って振り返ると――……玄次郎君、だった。クリスと違って無表情で、何考えてるのかよくわからなくて……って人間じゃないんだからそんなの当たり前かも知れないけど。でも、それだったらハル君だって人間じゃないけど喜怒哀楽激しいし直実さんと漫才してるしなぁ。人間かどうかなんてやっぱり関係ないのか。
 ……っと、どうでもいいことを考えながら玄次郎君と見つめあってしまった。
「今日から蒼杜中学へ行く。途中まで一緒に行ってくれるか?」
「……へ? 中学、ってどういう……」
 いや、一緒に行くとかいう前に色々問題あるだろ。ってことで父さんの方を見ると、彼は爽やかに微笑んでいる。――意味判らん!
「文書の類はぼく個人で色々工作を試みて、新入生のリストに入れてもらった。予防線は張ってあるから、万が一バレても迷惑は掛けない。全くもって個人的な興味で行くことにした」
 個人的な興味で中学校行く悪魔ってどんなだ。
「が、学費とか――」
「特待生ということになっている」
 詐欺師! とか思ったのは秘密にしておこう。
「えっと、途中までって言うのはつまり、道を教えろってこと?」
「――話が通じて助かる、楓」
 そこで初めて、玄次郎君はふわりと微笑んだ。あ、そういう顔も出来るわけか。何の変哲も無い部屋の中なのに、彼の周りに花が咲き誇っていそうな――あぁそうか、こういうのを文字通り、『悪魔の微笑』って言うんだな――。

   *

「で――中学校に通って、人間の子供に紛れて。何しに行くの?」
 通い慣れた道を、自転車を押して歩きながら、あたしは隣を歩く金髪の子供にそう、尋ねた。
 文字が読めないからとか、お医者さんになりたいとか、そういう理由があるんなら話は判る。でも、この子はそういうのとは絶対違う。そもそも人間じゃないし。人間観察がしたいなら、学校なんかじゃなくて街に出て日がな一日眺めてるってんでも充分間に合うだろうし、むしろその方が人間のタイプに偏りが無くていいと思う。何だって学校に、しかも中学に行こうだなんて考え出したんだろう――。
 玄次郎君は、真っ直ぐ前を見て歩きながら、相変わらず淡々とした口調で答えてくれた。
「教育施設というものは、その国の特徴が出るものだと思う。更に言えば、自国について学校で教えない国は無いだろう。だから、日本という国を手っ取り早く知るには、その辺をふらふらしているより学校に行ってしまった方が都合がいい」
「……ははあ」
 うーん、判ったような判らないような。それに、それってホントに手っ取り早いのかどうか。確かに体系的に勉強できるっちゃできるのかも知れないけど、自分で本読んだ方が速かったりしないのかな――? まぁ、今更そんなこと言っても彼の決定事項は揺らがないだろうし、言わないけど。
 平和すぎる朝のひととき。減速したパトカーが、スピーカーから『空き巣被害が頻発しております』なんてアナウンスを流しながら通り過ぎていく。あたしの横で脇目も振らずに黙々と歩く子供が本当は人間じゃないと言われても、普通は信じられないというか、ファンタジーの世界というか……どうも、落ち着かない。
 大体何で、一緒に並んで行かなきゃいけないんだろう。地図見せて道教えちゃえば、そんなに複雑な道ってワケでもないし、一人でも行けるはずで。あたしに弟なんか居ないことは皆知ってるから、こんなところをクラスメートに見られでもしたらどう思われるか……いや、そんな深刻に考えなくても普通に親戚の子供って言えばいっか? いやいやそれにしたって一緒に行くことの説明にはならないし――。
「……何か考え事か?」
 玄次郎君の落ち着いた声で現実に引き戻される。
「え? え、いや、別に。……あ、それでつまり玄次郎君は、あたしとどういう関係ってことになってるの? 従姉弟かなんか?」
「弟だ。心配ない、養子みたいなものだと説明すればいい。――あと、呼び方は玄でいい」
「おと――」
 マジですか。
 えっと――玄君、玄。呼び捨てでいいか。

 あたしが頷いてその話題が終了したと認識したらしい玄は、即座に次の話題に取り掛かった。
「ところで、楓には彼氏というやつは居るのか?」
 は――ッ?
 突拍子が無い。無さすぎる。ど、どう反応したらいいんだ。これはつまりアレですか、彼氏が居るんだったら今のこの状況ってあんまり見られたくないものだからとかそういう、玄の玄らしくない心遣い?
 いやいやそんな、これはきっと単なる世間話。玄の頭の中の引き出しがちょっとそっちの方面で開いたってだけの話に過ぎないよね。……っていうか、何であたし動揺してるんだ。居るんならともかく、答えは『居ない』なんだから動揺する必要なんか無いじゃないの。
 とか何とか考えていたら、玄の綺麗な青い目がこちらを捉えていた。う、そうまともに見られたらますます動揺する。
「顔が赤い」
「うるさいッ。居ないわよ居ない居ない、それがどうした! 居なくて何が悪い!」
 ついつい喚き散らしちゃったけど、返事は無い。相変わらずの無表情で、視線があたしに向かったまま。うぅ、だから見つめられると苦しいって。
 すると、玄は急に向き直って、呟くように言った。
「――じゃ、想い人は居るのか」
「え」
 今のは、質問じゃなかった。あたしに、反論する隙は与えられていない。つまり、その、どういうことだ。この子供は、あたしがあたふたしてゴチャゴチャ言ったのを聞いてそう結論付けたってことか。
 …………。
 いやいや待て待て、そりゃあちょっと突飛過ぎやしませんかい、玄さん……?

 気付けば、もう校門の前まで来ていた。歩くとちょっと距離があるから自転車で通ってるんだけど、今日は結局ずっと歩いてきちゃった――……玄はどうするんだろう。無表情で自転車を漕ぐ玄の図を思い浮かべてあたしが吹き出しそうになったところで、数歩前に出ていた彼が振り返った。
「……何かおかしかったか?」
「え、ううん、何でもない、こっちのこと! 後はもう判るよね? そっちが中学、あっちが高校、真ん中に特別棟」
「あぁ、大丈夫だ。――それじゃ」
 片手を軽く挙げて、玄は僅かに微笑む。あたしは「うん」とだけ返して、軽く手を振って応じた。彼はあっさりと向き直って、またすたすたと下駄箱の方へと歩いていく。
 高校最後の、一学期の始業式。もういい加減慣れたはずの、一日。なのに今日はいつもと全然、違う。
 それは、喜ばしいこと? 最後の一年を思う存分楽しめっていう、誰かのお告げ? あたしには直実さんとか兄貴みたいに魔法まがいの超能力なんか無いし、予知能力も無いから、そんなのは判るわけもないんだけど。
 目の前を中学生らしい子供たちが走っていく。元気だねえ。まだ制服が着こなせてない感じが、いかにも一年生っぽい。――ん、待てよ。よく考えたら玄は新入生だって言ってたから、昨日の入学式にも参加しているはずだ。それってつまり、あたしが道を教える必要なんかないはずで……?
 …………。
 だ、……騙されたッ……!! あンの小悪魔めッ、帰ったらとっちめてやるんだから!

 あたしは降って湧いたやり場の無い怒りを自転車のスタンドのロックにぶつけて、逆に足に甚大なダメージを受けることになった――。

   2

 何のことはない『始業式』が終わって、教室に戻ったあたしたち生徒は、担任が戻ってくるまでの間、クラスメートたちと久々の再会を喜んで雑談に花を咲かせていた。
「――楓さぁ、あの店長さん狙い目だよ」
「はい?」
 椅子に逆に座って、背もたれに身を乗り出してそんなことを言い出したのは加賀見美佐。あたしが眉をひそめたのにムッとしたらしい彼女は、肩に下りる髪を思いっきり揺らす勢いであたしの机に迫ってきた。そしてあたしを睨みつける。……睨むことないのに。
「店長って、直実さんのこと?」
「えーと、名前は聞いてないけど、そうかな? こないだ連れてって貰ったバイト先の」
「うん」
 春休み中、美佐と遊びに出かけた日に――ついでにだからと小春茶屋に連れて行ったことが確かにあった。いや、何でまたそういうところを見てるかなぁ。結構なことだけどさ。
 美佐は何故か腕を組んで、うんうんと意味ありげに頷く。だから、言いたいことははやく言いなさいって。
「あの若さで自分の店持って、既に二年やってるわけでしょ。つまり経営の能力はある、と」
「……でも儲かってはないよ? 直実さんのこと気になるんならあたしじゃなくて、美佐が自分で告白でも何でもしに行ったらどう?」
 それで上手く行ったりしたら、あたしは全力で応援するけどな。
 ……悔しくないのかって? うーん、今のところそういう感覚はまだ無いんだよね。この前のアレがまだ尾を引いてるのかも知れない、けど。
 でも、予想外にも美佐は顔を赤くするようなこともなく、必死に反論してきた。
「なっ、違う違う、違うよ! 私じゃなくて楓の話だよ! 私のタイプじゃないもん! 和服の似合う日本男児ったら楓の趣味の範疇でしょうがッ」
 ……どういう意味だ、それ。美佐は外人さんが好みですか。
 確かに日本って好きだし、そもそもあの店に惹かれたのもコンセプトが和風だからってのもあるかも知れないし、そういう意味では否定しないけど、好きな異性のタイプとは別だろうよ。
 大体和服が似合うかどうかはさておいて、『日本男児』のイメージと直実さんは微妙にずれるぞ。緑茶も出すけど本人は紅茶党だし、甘いもの好きだし、黒髪だけど目は灰色だし、ちょっと彫が深くて、そうだ、ドイツ系のクオーターだって言ってたじゃないか。……美佐がそういうこと言ってるんじゃないのは判るけどさ。何故だか、反対したくなる。変な気分だ。
「あ、それにさ、あの人なんか楓に気があるんじゃない? そんな感じしたよ」
「え? いやそれは無いって」
 だって、それは否定されたことだから。だから、有り得ない。
 あたしはそう、説明した。
 でも、美佐はきょとんとして取り合わなかった。それどころか、次の瞬間にはやたら真剣な顔をして、何かを考え始めたかと思うと――今度はにやっと怪しげに笑って、語り始めた。
「――つまり彼も奥手なのだよ」
「はぁ?」
「だからさ、彼は楓の雇い主、でしょ。女子高生のバイト店員に対してそういうこと考えたら、楓ちゃんに迷惑かけちゃうことになるんじゃないかなー自制自制、なーんて思ってんじゃないの?」
 美佐の演技は全然上手くはなかったけれど。でも、あたしを動揺させるのには充分作用した。
 あたしに、迷惑を掛けるから――……? だから、あたしがこっそり聞いてるの判ってて敢えて否定したって言うの? そんなの――……嫌だ、あの人ならありそうで嫌だ。
「か……楓ちゃんとか言うのやめてよ、恥ずかしいから」
「ほら、恥ずかしいんだ、気になるんだ」
「! 違うってば!」
「顔赤いよー楓ー」
 まただ――……何で一日に二度もそんなこと言われなきゃいけないんだろう。
 あたしは、あの人のことが好きであの店に入ったわけじゃない。むしろ最初は怪しくて信用ならなかったし。バイトするようになってから新しく知ったことも色々あって、彼のことを嫌いになるようなことはなかったけど、それは知り合いとして、友人としての好意。
 じゃあどうしてあの時、変な気分になったの?
 それは――……そう、あたしに魅力が無いと言われたような気がしたから。あの人に、異性として好かれていないと判ったからじゃない。そうだよね? そうだよ。変な気起こしてるわけじゃないんだから。
「なーんてね、あーいう人は何考えてるか判んないよね、客商売だしね。でも楓、あぁいう優しそうな人はね、放っといたらすぐ彼女さんとか出来ちゃうよ。ゲットするなら今の内!」
 ゲットってアナタ、ねぇ――。あたしは苦笑して誤魔化しておいた。
 優しそうな人、か。そういえば美佐、この一月の事件の時にあたしと一緒に第一発見者になっちゃったけど、ここで直実さんと会わなかったのかな? いや、会ってるはずだよ、事情聴取受けたって言ってたもの。でも、話してる感じだと、それが彼だとは気付いていない様子。言ったら面白いかな、なんて思ったけど、警察の手伝いのことはあまり公言しないようにって言われてるから、やめておくことにする。
「あっでもほら、楓の好みのタイプって、イギーみたいな人なんでしょ? 怒るときは怒るけど、いつもニコニコしててさ。そういやちょっと雰囲気似てるよねぇ」
 え?
 予想外の名前の登場に、一瞬頭がついていかなくなる。でも、比較的すぐに対応できた。
「やだな、イギーが好きなのは単に先生としていい人だったからで、そんなんじゃないってば」
「判ってるよぅ、そんなムキにならなくても。――でも、殺されるなんて、酷いよね」
「――……」
 唐突過ぎる、話題の転換。
 中学のころ大好きだったあの先生は、二年前の冬に、殺された。
 ――好きって言っても、結構いい歳だし、とっくに結婚してて子供も居るって聞いてたし、そういう意味じゃない。それに、あたしの目から見て特別カッコイイってわけでもなかった。背はまぁ高い方だったけど凄い垂れ目で、まっすぐな黒髪を背中まで伸ばしてゆるく一つに結んでたから、女子によく遊ばれていた。授業の時はいつもスーツにネクタイを締めていたけど、文化祭か何かの時に浴衣を着てきて、それが随分と評判になるぐらい似合っていたのを覚えている。パッと見の印象は、穏やかそうな人。実際、余程のことがなければ基本的に怒らないし、怒ったとしても声を荒げるようなことはしなくて――静かに、冷たい声と目線で制すというか、そんな人だった。
 彼が殺されたのは、学校の先生にはおよそ似つかない――どことか言う大きなお屋敷での、新年パーティの会場。彼とその奥さん、それから超が三つついても足りないくらい有名な小説家の、新海碧彦夫妻――つまり一気に四人が、凶刃に倒れた。でも当然世間では新海夫妻ばかりが注目されて、巻き込まれたらしい教師夫妻の存在は霞みがち。それがまた、悔しかった――。
「……お葬式、行ったんだよね?」
 美佐が言う。
「うん。お世話に、なったもん」
「やっぱり沢山人、来てた?」
「……うん、沢山。でも」
 でも、何なんだ。
 自分でもわけの判らないことを言っている。口が勝手に動く。
「信じられない。あの人が、そんな簡単に殺されるなんて信じられない、納得行かない」
「え? でも、ひょろひょろだったじゃん、イギー」
「……それでも」
 あたしにはそう言うだけの、根拠がある。でも、それを話すと長話になるし、あたしの言いたいことがちゃんと伝わるかどうかも判らない――。
 それからすぐ、二年から持ち上がりの担任教師――ほややんとした生物科のおじさまだ――が大量のプリントを持ちにくそうに抱えて教室に入ってきて、生徒たちそれぞれの会合はお開きになった。

   *

 始業式の日は、午前中で終了。進路指導があれこれとうるさいお年頃だから、そういう関係の書類だの学校行事予定表だのが配られて、ぽけっとしてそうに見えて仕事は速い担任は、さっさと新学期最初のホームルームを切り上げてくれた。もしかしたらお腹が空いてただけ、かも知れない。日頃から『腹が減っては戦は出来ぬ』が口癖なのよね。
 美佐とは帰りの方向が違う。あたしは自転車のペダルを漕いで、颯爽と住宅街の中を駆け抜ける。途中、良く行く雑貨屋さんに寄って、部屋に飾れそうな小物類を眺めるけど特に収穫なし。外に出てまた自転車に乗ろうとした、時だった。
「――あれ、トモさんのお嬢さんだ。コンニチハ」
 明るい調子の、男の人の声。どこかで聞いたことはあるけど、えーと誰だっけ――と顔を上げると、そこに片手を挙げて立っていた人はやっぱり若くて、灰色がかった赤茶色の髪を短くしてバラバラに散らしている。右耳にピアス、細いレンズに薄く青色のついたサングラス。服装はカジュアルで、黒地に白の筆文字で『忍耐』と書かれたTシャツの上に茶色いパーカー、ダメージジーンズ……に分類されるんだろうな、で、履き古した感のあるスニーカー。小さな黒のリュックを右肩に引っ掛けているその姿は、まぁそうですね、いかにも大学生。
 で――……誰だ? 顔を覚えるのはそこまで得意でもないけど、苦手ってわけでもないんだけどな。とりあえず同級生とかではない、あたしのことを名前では呼ばなかった。確かに父さんの名前はトモマサだから、トモさんって呼ばれてても全然不思議はない。つまり父さんの知り合い? で、かつあたしのことも知ってる人? 大学生で父さんの知り合いって言うと、後輩とか?
 あたしが一瞬の間にその一連の思案を顔に出していたかどうか判らないけど、その人はあたしと見つめ合った後、――急に苦笑し始めた。あれ、この感じ、前にも――。
「あは、判らなかったか。髪染めちゃったからなぁ。――いや、吃驚させたならごめんね。俺おれ、浅生永樹」
 空いた左手でサングラスを外しながら告げられたその名前、は。
 つい先日、小春茶屋で会った――あの時は金髪だった、彼の偽名。そうか、髪の色があんまり派手だったから、顔の印象が薄かったんだな。
「佐伯さ――」
「わ、それナシ!」
 彼はサングラスを持ったままの左手の人差し指を口に当てて、随分慌ててあたしの言葉を止める。
「妹は気にしすぎって言うけど、やっぱバレたくないんだよね。羽田杜では浅生で通させてくんない?」
「は……はい。判りました」
 はて、どうしてだろう。有名人が正体を隠したいっていうのは判らないことないけど、羽田杜限定ってのが変。あたしのそんな疑問が、やっぱり顔に出てたんだろう、佐伯さん再び改め浅生さんは苦笑して言った。
「君も地元の人でしょ。噂のひとつやふたつ、聞いたことあるんじゃないの」
「噂、ですか?」
「そーだなぁ……『あの城の男の子はお父さんに虐められていて、その理由は彼の本当の子供じゃないから』とか」
 低い声で言った浅生さんの台詞の中のある単語が引っ掛かって、おぼろげな記憶が引き出される。
 小学校の頃、子供たちの間で囁かれた噂。――あのお城には怖いおじさんが住んでいるから、近付いちゃいけない。そうだ、だからあたし、新海氏に良いイメージがないんだ。会ったこともないのに。
「『あの事故だって、本当は事故じゃないんだろう』とか――」
「……聞いたことは、あるかも知れません。でも、だからって浅生さんに対して何か言う理由は、あたしには、ないです」
 噂話の類は、聞いていて気持ちのいいものは少ない。こんな話は早く終わらせたい、そう思ったんだと、思う。浅生さんは少し驚いたように笑って、「ごめんね」と呟く。あたしには謝られる理由も、ない。ちょっとだけムッとする。
「――どうしてそう言われるんですか? 浅生さん、そんな風には見えないのに」
 言ってから、変な言い方をしちゃったかも知れないと思ったけど、後の祭り。もし本当にそうなんだとしたら、酷いこと言っちゃったことになる。
「はは、どうも。――どうしてかな、そりゃ俺が聞きたいや。少なくとも俺は――……親父のことは尊敬してるし好きだったよ、虐められてたとか殺されかけたなんてとんでもない。大体あのヘタレにそんなこと出来ない」
 いや待って、ヘタレってどういうことだ。天下の超有名人にヘタレのレッテルはまずいでしょうよ。
 あたしがぎょっとしてるのに気付いた浅生さんは本当に楽しそうに笑って、話題を完全に変えた。
「――うちの家に興味、ある? まぁ、もう家じゃないけど」
「え? あの、お城――」
「そ、新海城。もし時間あるなら、だけど。人と会うんで来たんだけど、早く着いちゃって暇だし――たまには親父のフォローぐらいするべきかな、ってね」
 そう言ってちょっとだけ肩をすくめた浅生さんは笑っていたけれど、どこか少し、寂しそうにも見えた。

   *

 自転車を押して歩く楓と浅生の十数メートル後ろの脇道から、人影が現れる。肩に黄緑色の鳥を乗せて鼻歌混じりに歩くのは、自然な薄茶色の髪を顎の辺りの長さで跳ねさせている、女。――麻耶ミノルその人だ。
 彼女の目線の先にあった二人の影は、角で曲がってすぐに消えてしまった。
「――……楓君、だったねぇ」
 誰かに話し掛けたのか独り言か判別しづらい口調で、彼女が呟く。場所と髪型と制服と自転車あたりから、前を歩く少女が楓であると判断できたのだろう。
 そしてその独白に、応じる者があった。
「ダッタネェ」
 彼女の肩で羽を休める、少し大きい種類のインコ。彼女の相棒、通称みっちゃん。
「どこ行くんだろうか、男はべらして」
 そんなことを鳥に訊いてどうするのかと言われそうなことを、麻耶は平気で口にする。
「ウラ若キオトメノ、愛ノトウヒコウ!」
 そしてみっちゃんも、逆に鳥らしいと言うべきか、とんでもないことを平気で言い始める。
 さすがの麻耶もそれには呆れたようだった。
「……みっちゃん、どっからその発想になるの」
「ノリト勢イデ言ッタダケ、意味ハナイ!」
「わたしゃ、みっちゃんが時々判らないよ――」
「ワカラレヨウトハ、思ッテイナイ」
「はいはい減らず口」
 誰も聞いてはいないのに漫才のようなやり取りを道端で繰り広げると、麻耶とみっちゃんは何事もなかったかのように散歩の続きを再開する。再開しながら、話の続きを始めた。
「――みっちゃん、あの子のこと、どう思う?」
「似テル、彼女【、、】ト」
 みっちゃんの明快な答えに、麻耶はクスリと笑いを零す。
「やっぱりそう思うか。――……何事もなきゃ、いいんだけど」
 麻耶がそう呟くと肩に留まっていたみっちゃんが飛び立って、抗議するかのように彼女の頭の周りをぐるぐると飛び始める。最終的に、彼女が差し出した左手の上に留まった。そして、言葉で抗議を続ける。
「ミノルモ、アイツガ疫病神ダト言ウノカ」
 疫病神。どこでそんな言葉を覚えてきたのかと、普通の人なら驚くだろう。だが、飼い主たる麻耶は微塵もたじろぐことなく、冷静に言葉を返す。
「そういう意味じゃねえよ。ただちょっと嫌な予感がするから、心配してるだけだ――」
 麻耶は、誰を、とは言わなかった。