こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第三話 虹色メビウス



第五章「愛されし者」

   1

 このドアを開けるのを躊躇ったのは、何だか物凄く久し振りな気がした。
 当たり前に掛かっている『準備中』の札が、客ではないあたしさえも拒もうとしているような気が、する。

 ……そんなわけないのにね。何変なこと考えてるんだろう。
 あたしはいつも通りの平静を装って、いつも通りに小春茶屋の扉を、開けた。

「あぁ、おはよう――ついてきてただろう?」
 あたしが来たのを確認するや否や、カウンターに居た直実さんは、極端なまでの笑顔で――そう、言った。
「え、え? な、何のことですか? や、やだなーさっぱり判らないなー」
「隠さなくていい、怒ってないし。先にこの人に吐かせたから」
 この人、と言いながら直実さんが親指で指した先はカウンターの陰。隠れて見えなかったけど、麻耶さんらしき茶髪の頭が、テーブルの下から覗いていた。
「あ、麻耶さん」
「うぅ、女の子に対して顔をいじるのは反則だよう」
 麻耶さんは少しだけ顔を出して、珍しく弱気な口調で言う。……上目遣いが可愛らしい。そうか、色仕掛けってやつか!
「ほっぺた引っ張るぐらい別にいいでしょう。大体麻耶さん女の『子』って歳ですか」
 しかし直実さんには効かなかった模様。それどころか結構辛辣なこと言ってる。
「あ、アンタなッ、いくら寛容なミノル様でもそれだけは許せないぞッ! 『子』って漢字は別に子供って意味だけじゃなくてだな、」
「勝手についてきた罰です」
「…………ぶぅ」
 立ち上がって反論してた麻耶さんだけど、あっさり一蹴されて再びテーブルの下に沈み込んだ。
 うーぬ、可哀想になってきたぞ。
「あ……ごめんなさい、あたしが場所教えちゃって」
「私は困らないから謝らなくてもいい。ただ危険を誘発したって言う意味で、麻耶さんにはちょっとお仕置きをね」
「危険、ですか」
 危ない雰囲気ではなかったと思ったけど。
 あたしが鞄も持ったままその場に立ち尽くしていると、直実さんは急にふわりと笑って、穏やかな声で話し始めた。
「――柘榴さんが、私一人で来いって言ったのはどうしてだと思う?」
「え……それは、その……ぞろぞろ来られたら自分が不利になるから」
「あー、まぁそれもあるとは思うけど……一番は、楓さんが来ないようにするためだろうな」
 あた……し? って、どういうことだろう。
 別にあんなの、聞いたって何とも――……、あ!
「あ、あの、兄さんが術師ってことは、それじゃあたしも、」
「……これは『体質』だから、もし何かが出来るなら……特に練習とかは、要らない」
 あー、うん、やっぱりね。判ってる判ってる。
 直実さんは暗い顔をし始めたので、あたしは極力明るい声で返答した。
「あー、じゃあやっぱりあたしには無理なんですね」
「そう、貴女は現実世界を生きる人だ。だから彼は、貴女に非現実を見せる可能性を避けようとした」
 む……急に話が抽象的になった。よく、判らない。
 そういえばあの時、純さんが『現実を見失う』って言ってた――。
「もしあの時二人の存在が彼にバレていたら、彼が何をし始めるか判らなかった」
「どういう意味ですか?」
「例えば貴女の記憶を消そうとするとか。……まぁそればかりじゃないだろうけど、何にしても今までずっと十何年も隠してたことがばれることになるわけだから、人間がどういう行動取るかは未知数。まして術師なら何が起こるか」
 十何年も隠していたことが、ばれる。
 でも……どうして、隠してたんだろう。家族、なのに。真珠君は普通に知ってるのに。

 そんなことを考えたあたしの心の中を読んでいるかのように――直実さんは少し苦笑して、続けた。
「現実を生きて欲しかったんですよ。私にも判る。真珠にだって、あまり酷いのは見せたくない。――非現実の世界があることを知れば、そこへ逃げたくなるから」
「しかし我々一般人は非現実に受け入れてもらえず、結局現実に打ちのめされる、ってワケだね」
「麻耶さんは反省してください」
「……すいませんでした」
「普通の人は現実世界でしか生きられない。非現実の世界があることを知ってなお、自分を保てなければ――……非現実に触れることは、危険以外の何者でもない。もっとも楓さんの場合は既に片足突っ込んでるけど、柘榴さんはその事実を知らないから。――追及するならそのやり方はゆっくり考えて、刺激しないように」
 いまいち実感は沸かないけど――今の言葉で、直実さんの言うことが少し判ったような、気がした。
 とりあえず、追及の材料として考えられるのはクリスだな。

「あぁ、そうそう……十時の約束で純と浅生永樹を呼んでる。楓さんにも少し協力してもらうかも知れないから、よろしく」
「? 判りました」
 何をどう協力すれば良いのかは判らなかったけど。
「浅生って誰?」
「貴女が先日そこの玄関先で転ばした方です」
 説明がなんか酷い気がする。
「あぁ、あのパツキンか! やったぁ、一度じっくり話してみたかったんだよなぁ」
 でも麻耶さんは嫌な顔一つしなかった。慣れてるのか、図太いのか。
「麻耶さんは黙っててくださいね。そもそもどうして開店前から居座ってるんですか?」
「いいじゃん、身内みたいなモノなんだし」
「身内……?」
 そこだけ復唱した直実さんの目が、冷たかった。
 でも麻耶さんはそんなことには怯まずに懇願を続ける。

 ――……麻耶さんって、直実さんが邪険にするほど悪い人じゃないと思うんだよね。ま、まぁ直実さんだってホントに麻耶さんのこと嫌いなら店に入れもしないと思うけど、少なくとも喜んで入れてはいないし。
 どういう関係なのかはよく判らないけど、あたしは麻耶さんが嫌いじゃない。歳は離れてるけど、多分、女同士ってことで気が許せるんだろうな。麻耶さんも何故かあたしのことを守ろうとしてくれてるように感じるし――……不思議と、嫌な感じは、しない。人間って不思議だ。
 喧嘩を続ける二人を見守りながら、あたしは一人、仕事に取り掛かった。

   *

 ――約束の十時よりだいぶ前に現れた純さんは、異様に上機嫌だった。
 謎の踊りを披露しながら入ってきて、中に居た全員に白い目で見られてもまだ続けるもんだから――直実さんが、無言で強硬手段に出た。まぁ、何があったかは言わない方が、純さんのためですよね。
 で、捌ききれなくなったテンションを今度は何故かハル君にぶつけたものだから、ハル君は怒って部屋に引きこもっちゃった。……昨日の今日でかわいそうに。いつものことのような気もするんだけど、純さんにやられるのはハル君的にはいただけなかったのかも知れない。
「約束は十時なんだよな?」
 何度も腕時計を見つつ、直実さんにもそんなことを何度も訊く。そんなに金髪の彼が気になってたんだな。
 ――あと二分ぐらいで約束の時間になる。
「……別に、お前が喜ぶことじゃない。純にはその後も付き合ってもらうから」
「その後だぁ?」
「昨日うちにも予言の電話が掛かってきた。一時だったはず。少し店を空けることになるから、その間は2人に頼むよ」
 二人っていうのはあたしと真珠君のことだ。まぁ、通り魔が起きるかも知れないんじゃ、あたしたちが行くわけにはいかない、か。
 ――その時、少し遠慮がちに、ドアが開く音がした。
「……間に合いましたかね。おはようございます」
 約束通り、午前十時。この前の金髪のお兄さんだ。えっと――浅生さん。
「おはよー、金髪君」
「現れたな黄色頭! 何度このチャンスを逃したかッ」
 カウンターの両脇――入り口から見ると手前と奥――に立ち位置を構えた二人が、店主より先にご挨拶。あーもう、指差しちゃダメだって純さん。大体二人とも、名前知ってるのに名前で呼ばないし。
「外野がうるさいですが気にしないで下さいね。来て下さってありがとうございます。――何か飲みますか?」
「いえいえ、にぎやかな方が楽しくていいですよ。えっと、ミルクティーが飲みたいです」
 全然邪気のない笑顔でそう言ったお兄さん……浅生さんは薄手の白いトレンチコートを脱ぎつつ、カウンターすぐ横のテーブルの席を取って、座った。あたしは同じテーブルの端の席にちょこんと座る。あたしは見守るだけだしね。それを見てかどうか判らないけど、真珠君はあたしの向かいの席に座った。
 直実さんが全員分のお茶を用意すると言い出したので、あたしはレモンティーを頼んだ。準備が終わるまでの間、純さんによる浅生さんへの尋問が敢行された。……あれ、今の表現変だった?
「『浅生永樹』ってのは偽名なんだろ? サネから聞いた。本名名乗れない都合ってのは何だ。吐け。むしろ本名言え」
「やましい理由じゃありませんよ。ちょっとしたわがままです」
「わがままで偽名用意するか普通」
「いいじゃないですか別に。名前は三つぐらいあった方が便利ですよ?」
 ほとんど冗談みたいな口調。『にぎやかな方が楽しくていい』って言葉は社交辞令とかじゃなくて本気だったってことか。……でも、話が本当だとすると本名とこの偽名と、さらにもう一つ名前があるってことになる。凄いな。
 ――純さんがさらに言い返そうとしたところを、麻耶さんが制止した。
「名前の話はその辺にしとこうよ。ミノル様も本名じゃないから気が気じゃないよー」
「ほら。俺の周り、いくつか名前持ってる人が多いから変なことだと思えないんッスよねぇ」
 凄い環境だ。どういう世界に生きてるんだこの人。
 そうこうしているうちに、直実さんがお茶を配ってくれた。話の主役は、自然と直実さんに移った。

「――ではまず、確認としてひとつ質問を。先日ここへいらっしゃった時に一緒だった女性――……彼女はあなたの恋人、もしくはそれに近い関係の方ですか?」
 そういえば、浮気疑惑追及現場みたいなことになってた。悪いと思いつつも面白がって聞いてたから、あたしもよく覚えてる。
 訊かれた浅生さんは一瞬きょとんとして、その後いきなり笑い始めた。……この人、急に笑い出すクセがあるのかな……端から見てると結構びっくりするんだよね。
「やっぱ2人だとそう見られちゃうんですかね。違いますよ。大学ン時の友達で、誕生日が同じなんで双子双子って言われて、まぁそれが縁で今も仲良くさせてはもらってますけど、そういうんじゃないです」
 ――あれ、違ったの? じゃ、あの女の子は別の人と付き合ってて、その人と浅生さんは友達で、とか――……。すいませんこの辺にします。
 返事を聞いた直実さんは、納得が行った風に笑って、続ける。
「――ありがとうございます。そうだったらどうしようかと思いました」
「へ?」
 話が読めない。のは、周りの誰もが同じだったらしい。全員の視線が直実さんに注がれている。
「浅生さんと彼女は恋人同士ではないという条件が欲しかったんです」
「それは、どういう意味ですか?」
「先日いらっしゃった時に――……申し訳ないんですが、お話が少し、聞こえてしまいまして。あの時は確か、あなたが彼女を問い詰めていた。昨日の夕方はどこに居たか、と」
「……それが、どうか」
「最初、金髪の男が目撃されているという情報があったことから――……私はあなたを少し疑っていました」
「ま、仕方ないですね」
「おい、サネ。そんじゃ今は疑ってないのか?」
 浅生さんにご執心の純さんが残念そうに尋ねる。直実さんはあっさり頷いた。純さんがあからさまに肩を落とす。……本当に肩の位置を下げてがっかりしてた。ついでに首まで下げてたけど。
 直実さんは、そんなことには目もくれなかった。
「あの日の『昨日の夕方』、しかも四時ごろとおっしゃってましたね。駅前での通り魔事件、三件目が起きた時刻が丁度その頃です。――私は捜査に関わっている人間ですから、昨日の夕方と聞いてついそれを思い出しました。まぁ、あなたが金髪だということもあると思いますが」
「……ふむ、なるほど?」
 浅生さんの表情は変わらず、何かを企んでいそうな笑顔だった。追い詰められているというより、状況を楽しんでいる雰囲気。……あたしはあの時、通り魔のことなんかまるで思い出さなかった。うーん、我ながらダメだなぁ。
「あなたが犯人だと仮定して解釈すれば、犯行に及ぶあなたを彼女が目撃してしまい、さらにその彼女を犯行後のあなたが目撃し、つまり……『見てなかっただろうな』、という意味で追及していたと取れるかも知れません」
「それはアリですね」
「――でも、逆の方が自然ですよね?」

 逆。
 つまり、彼女の方が犯人で、浅生さんがその目撃者、ということ。

 これは――決定打?
 浅生さんの表情が少し、曇った。

「実際、あなたはそう証言していますしね。何者かから予言メールを貰って、通り魔事件4件の現場に全て居合わせた。だが、犯人とされる友人の姿は認められない、と。もっとも、あなたが犯人でも確かに何もおかしくはない。でも、犯人ではないと言い張っている」
「……じゃ、あいつが犯人だっていう証拠はありますか? 別の誰かが犯人かも知れないじゃないッスか、俺は実際――あいつのこと、見てませんから。あの時はメールに名前が載ってるから追及しただけで、あいつの姿を見たわけじゃない」
「――ハルが誘拐された日、つまりあなた方がいらっしゃった日の夜、身代金を要求する電話が掛かってきました」
 急に、話題が変わった。浅生さんは不思議そうにしている。
 周りは、とても静かだった。
「しかしその電話の主は誘拐犯ではなく、金目当てでもなかった。あれ以来連絡もないですし、私に通り魔の4件目を目撃させるために電話を掛けてきたものと思います。誘拐犯を装えるのは当然、誘拐事件が起きたことを知っている人物のみ。よって、あなたか彼女に絞られた」
「じゃ、俺が犯人かも」
 浅生さんは少しぶっきらぼうにそう言った。
「いいえ、電話の主は彼女でしょう。あなたにあの電話は掛けられない」
「……どうして?」
「あなたは私の名前を知らなかった。電話を掛けてきた相手は、開口一番に私の名前を呼びました。フルネームで呼び捨てです。しかし、恐らくあなたは、名刺を渡すまで私の名前の読みを間違えていた――麻耶さんのせいで」
「ちょっ、最後の一言は要らないだろ!? 確かにいつもわざと間違えてるけどさッ!」
 やっぱりわざとだった。叫んで立ち上がった麻耶さんは直実さんにほっぺたをつねられて――撃沈。何だろう、顔が弱点なのかな。そして直実さんはそれを把握していると。うぅむ、凄い。
「まぁ、そうでなくても……一度電話を掛けて、しかも呼び捨てにした相手の名前を改めて見て、わざわざ声に出して読む人なんか居ないと思いませんか?」
 どういう状況だったのかは判らないけど、そういうことだったらしい。
「……。でもそんなの、あいつだって知らないでしょう」
「ということは、あなたは知らなかった」
「――!」
 浅生さんを罠に嵌めた直実さんは、自分用に2杯目の紅茶を淹れ始めた。
「消去法になってしまうのもどうかとは思うんですが――……でも、他に考えられないので。もっとも、電話を掛けてきた人間が通り魔事件の発生時刻を知っていたからと言って、それが通り魔だと結びつけるのも……予言者の存在が示唆されている以上、安直ですけどね。例えば彼女もまた予言者で、予言目的で私に電話を掛けてきたとも考えられる、かな。その場合……彼女はあなたに追及されて、疑惑を否定していたわけですから、第三者である私に助けを求めてきてもおかしくない。でも実際には助けを求めるどころか、通り魔という単語は一切出さずに私を現場へ呼び出した。……現場とは別の場所で落ち合うなどしなければ、犯人でないことは証明できませんから……うん、やはりおかしいですね」
 自分で始めて自己完結した直実さんは、新しく淹れた紅茶を一口飲んで、にっこりと微笑んだ。

「彼女のことをもう少し知りたいです。彼女のお名前を伺ってもよろしいですか?」

 そう、直実さんが訊いて。
 浅生さんは少し気が引けると言いながらも、当たり前に、普通に、答える。

「――夜桜。夜桜緋十美」

 夜桜さん、か――綺麗な名前だな、なんてあたしが呑気に考えていたとき、何かが落ちる音がした。
 少し驚いて周囲を見回すと、直実さんが目を見開いて固まっている。スプーンを落とした音だったらしい。――違和感。名前を聞いただけでそこまで驚くって、普通じゃない。
「……じゃあ、……決まりじゃないか……」
「え?」
 低い声。独り言。怖い顔。いつもと違う雰囲気。
 その場に、ピリピリと電流が走ったような気がした。
「サネ、夜桜って確か」
「そうか、なるほどな。最初から私が目的だったわけか」
 彼の耳に、純さんの声は届いていないように見える。
 ――あの時と、同じだ。
「サネッ、人の話を聞け! どういうことだ! どうしてここでその名前が出てくる!?」
 案の定、純さんは直実さんの胸倉を掴んで責め立てた。
「――ッ、私に訊くな!」
 けど、直実さんはそれを力任せに引き離した。どういう力の入り方だったのか判らないけど、純さんは思いっきりバランスを崩して背中から床に転がった。少し、吃驚した。
「……落ち着こうよ。赤の他人だって居るんだからさ」
 少し寂しそうな目をした麻耶さんが冷静にそう言って――、その場に静けさが戻った。

 三人の中では、話が通じているんだろうか。
 麻耶さんが「身内」って言ったのも、あながちおかしくないんじゃないの――?
 あたしと真珠君は顔を見合わせるけど、互いに首を傾げるばかり。浅生さんはそんな様子を見てきょとんとしている。

「失礼しました――。あなたが貰っていたという予言のメール、見せていただけませんか? 今の話が正しければ、彼女の名前が載っていると思うのですが」
「――えぇ、そうです。ただ、あいつが犯人って言われると、そうじゃない可能性を探したくなって」
 浅生さんはポケットから携帯を取り出して、皆にその予言メールとやらを見せてくれた。そこには確かに、その人の名前があった。しっかし、真っ黄色とは派手な携帯だな。
「まぁ、いたずら電話を掛けてみたくなったという可能性もあるかも知れませんが――偶然にしては出来すぎているし、疑われているのにいたずら電話掛けてる場合じゃないですから、それも変です」
「今日の、一時でしたよね」
「えぇ」
 そういえば、予言電話があったって言ってた――。
「私と純で向かいます。楓さんと真珠はさっき言った通り店番をお願いしますね」
「私は?」
「麻耶さんも留守番。浅生さん、もし暇だったら麻耶さんの相手をして下さいませんか?」
「――……俺も行っちゃダメなんですか?」
「危険があるかも知れませんから」
「……了解ッス。じゃ、えーっと麻耶サン、ヨロシク」
「よーし掛かって来い! 麻耶さん根掘り葉掘り訊いちゃうぞー」
 そんな平和なやり取りが繰り広げられているけど、話の内容はそんなに軽くない。

 店番しつつ麻耶さんと浅生さんの話聞けるのはいいけど、直実さんの方、変なことにならないといいな――。


   2

 羽田南駅には、南北二つの出口がある。私たちの住む南口側――蒼杜本町には比較的レトロな商店街と住宅街が広がっているのに対し、北口側――北蒼杜はそれよりも少しだけ開発が進んでいる。アーケードのある北口商店街には、常にそれなりの数の人々が行き交い、地元の若者に人気の店も多い。南側にある蒼杜中高の生徒や大学生たちがわざわざ踏切を渡って北側へ向かっていくのも、よく見られる光景だ。北側には大きな学校はないのに、どうしてそんな風な街になったのかは、ほんの数年前にこの羽田杜に来たばかりの私には判らない。
 春休み最後の数日の、真昼間である。
 アーケード内の人通りは、普段以上に多かった。

 目標のタハラ時計店は、アーケード全体の中央付近で見つけることが出来た。
「ここだな」
「そろそろ時間だろ。それらしき人は――……えーっと、あ!」
 早速、純が声を上げた。見つけたようだ。彼の視線の先を追うと、時計屋の隣のアクセサリーショップを覗いている――彼女の姿が、確かに、あった。真っ赤なチャイナドレスをアレンジしたような、珍しい服装をしている。栗色の髪は先日と同じように高い位置にまとめてある。
 彼女は呼ばれたことに気付き、我々の立っている方を向いた。
「こんにちは、緋十美さん」
「こんにちは。改めて、お久し振りです、直実君。――お店は良いんですか?」
 深々とお辞儀をして、にっこりと笑う。

 ――夜桜緋十美。
 私の兄と共に亡くなった恋人・夜桜葉摘の、妹。

 あの時はまだ、私も彼女も幼かった。
 名前ぐらいは覚えているが、大して付き合いがあったわけでもない。子供の時から10年以上会っていない知り合いと偶然会ったところで、すぐに見分けられるはずもない。
「……どうして私がここに来たか、お判りなんでしょう?」
「? ……判らないよ。どうして?」
「午後一時、この付近で――何かが起こると、聞いたものですから」
 彼女が少し目を伏せた。予言者が居ることは知らないのだろうか。
「――……。誰から?」
「判りません。匿名の電話がありまして」
「ふふ、そっかあ。誰だろうね。だから葵ちゃんがいつもいつも……やんなっちゃうよね。でもま、いっか」
「……葵ちゃん、というのは誰ですか?」
「こないだ一緒に居た人だよ。僕の『双子』……誕生日が同じだけの他人だけどね」
 同じ説明を聞いた。――浅生のことだ。大学の友人だと言っていたから、葵というのが本名と見て間違いないだろう。
 これ以上無駄話をしていても仕方ない。本題を切り出すことにする。
「……一連の通り魔事件。緋十美さんが犯人と解釈してよろしいですか?」
「どうせ隠しても無駄なんでしょ。直実君、昔から頭良かったもんなぁ」
 そう言って彼女は、クスクスと、楽しそうに、笑った。
 もう――……幼かった彼女とは、違う。当たり前だ。もうかなりの年月が過ぎている。子供は変わるもの。

 ……だが、それにしても。
 この状況で、何故笑うことが出来るのか、私には判らない。理解できない。怒りを堪えて、両の拳を握り締めた。
「誘拐犯を装ってうちに電話を掛けてきたのは――誘拐犯に、通り魔の罪も被せる為でしょうか」
「……そんなところかな。まさか羽田杜にもう1人術師が居るなんて思わなくて」
 だからと言って他人に罪を着せるのは――……許し難い。
「大した準備も調査もせずに、よくあんなことをしようと思ったものです。騙すならもうちょっと上手く騙してください」
 夜桜からの返答はなかった。
 仕方ないので、この話は終わりにすることにする。
「――貴女も術師だったとは、知りませんでした」
「うん、直実君とは遠い親戚になるみたいだね。でも、言わなかったから知らなくて当然」
「では葉摘さんも」
「当然だね」
「――……動機は、お姉さんを助けられなかった、私への恨みですか?」

 もう、遠い過去になってしまったけれど。
 あの時の無力感は、今でも私を苦しめている。

「そうだよ。個人的にはね」
 個人的には。ということは、個人的でない理由が他にあるのか。
「見てて」
 緋十美は不意に、流れる人波の方に視線を向けた。
「! 何を――」
「おい、まさかお前、」
 私と純がほぼ同時に叫ぶのも虚しく、
 次の瞬間には、通りを歩いていた見知らぬ少年が、地面に横たわっていた。



 これは、この感情は――絶望感と言ってもいいものなのだろうか。



「くそ……ッ、何でこうなるんだよッ」
 次第に周囲が騒然となる。
 叫んだ純が真っ先に駆け寄り、少年の心拍を確かめつつ、救急車を呼ぶよう誰かに求めていた。

「――直実君、助けないの?」

 緋十美の紅く冷たい瞳が、何も出来ずその場に呆然と立ち尽くす私を捉えていた。

 足が、動かなかった。身体が言うことを聞かない。
 精一杯の力を振り絞って、緋十美の方を向いた。すると彼女は、いつもと違う紅い瞳を妖しく煌めかせながら、不敵な笑みを見せる。

「あの子、助けないの? 目の前で倒れたんだよ。心臓発作かな。……判らないけど、直実君なら助けられるよね(、、、、、、、、、、、、)?」

 『光』の術を使えば。
 今の内ならまだ、無理に止められた心臓を再び動かす手伝いをすることで、救うことが出来るかも知れないということ。

 尋常ではない恐怖感に襲われる。
 ……彼女が怖いのではない。

 少年を助けようと試みて、また失敗するのが、恐ろしいのだ――。

 たとえ少年が助からなかったとして、自分のせいにはなるはずもない。それは判っている。最初から、悪いのは少年を殺そうとした人間に決まっている。
 ――だが、助けられたはずのものを助けられなかったとしたら、どうする?
 私が上手くやりさえすれば、助けられたと言うのなら。

「……まぁ、放っときたいなら直実君の勝手だけど」
「どうして貴女はそんな風になってしまったんですか――! ……ッ、退いて下さい、すみません。純!」

 臆病者と罵られるぐらいなら、いっそ無能力だと言われた方がずっとマシだ。
 そして私はただ、無我夢中で、駆けていた。




「――……。何年振り?」
 少年を乗せた救急車をアーケードの端で見送りながら、緋十美が私に問う。
「……さぁ」
 そんなことは、覚えていない。覚えていても、仕方のないこと。だから、覚えようともしていない。
「夜桜家は直実君のことを良く思ってない。『光』あっての本家なのに、『光』がトラウマになってるだなんて笑いもの。――だから、親はいつも僕に『殺せ』って言うよ」
「……そうですか」
 恨まれて妬まれて、当然のこと。私なら助けられたかも知れない。だから、当然のことだ。
 私があまりにあっさり頷いたので、緋十美は少し不満そうだった。
「直実君、命、惜しくないの」
「惜しいですよ。まだ25ですから」
「僕に殺せるわけないって思ってる?」
「……殺す気があるならさっさと殺してるでしょう?」
 尋ねると、緋十美は子供のように目をパチクリさせてから、困ったように笑い始めた。
「直実君はエスパーだね」
「人の心が読めたら苦労してません」
 やろうと思えば、未来予知のようなことは不可能ではない。だから私には、予言者の存在を否定することは出来ない。だが、たとえ術師でも――心までは、読めない。
「なーんだ、残念。――でも、せっかく久し振りに会ったんだから、すぐ殺しちゃうんじゃつまらないと思ってた。ホントだよ。仲良くしよう」
 ならどうせいつかは殺されるんだろう。無意識にため息が零れる。
 ――救急車はもう見えない。商店街は、先ほどと変わらない活気を取り戻している。
「……緋十美さん」
「何?」
 彼女が首だけこちらを向いた。
「……もう、人を、殺さないと約束してください。私以外の、を付けてもいいです。でなければ私は、……この場で貴女を殺します」
「な、サネッ、何言ってんだお前、」
 静観していた純がさすがに反応するが、無視する。
「だいじょうぶ、立件できないよ。今度の通り魔だって無理なんでしょ、刑事さん」
 立件ぐらいはやろうと思えば出来ないこともないにしても、彼女が犯人だという証拠は何一つ出てこないだろう。かと言って超能力殺人などとアピールするような真似をするのは、恐らく緋十美も本意ではないはずだ。この後は純に任せるしかない。――事情通が居て助かった。
「……答えてください」
 これは賭けだ。もし彼女が本当に人の心を失っているのなら、私はその責任を負おう。
 緋十美は穏やかに、微笑んだ。
「『闇に堕ちた』術師は消さなきゃいけないんだよね、判ってるよ。だから、約束してあげる」
「ありがとうございます」
「でも――……直実君も、闇に堕ちた術師、だよね?」
「! さっきちゃんと、」
 助けた。
「ふふ、ごめんごめん。だから、約束するって。もう人殺さない。だから直実君も、僕のこと殺すのやめてね」
「えぇ、今は殺しません」
「お互い様だね。いつかきっと殺し合うのかな」
 彼女が空を見上げたので、私も釣られて上を向いた。
 雲ひとつない……というのは言いすぎだが、綺麗に晴れた、爽やかな春の青空だった。遠く遠く、この空は何処までも続いている。
 術師同士で殺し合うなど、哀しいこと。たとえそれが当然の報いだとしても、出来ればそんな時は来ないで欲しい。
「――六十年後ぐらいにしませんか?」
「……直実君、それ、二人とも生きてる保証無いよ。せめて50年にしない?」
「失礼ですね。これでも百歳まで生きるのが夢なんですよ」
「夢見るのは自由だけどさ」
 会話が止まる。
 緋十美は私より数歩前へ進んで止まり、くるりと振り返って、微笑んだ。普通の大学生の女の子らしい、優しい笑顔だと思った。彼女もそんな風に笑えるなら、まだ希望を捨てるには早いのではないだろうか。
「――今度また、お店行ってもいいかな?」
「いつでもいらして下さい。歓迎します」
「僕、直実君のチーズケーキ好きだよ。だからまだ殺したくないんだ。――それじゃあね、用事があるから」

 ――え……?
 何を言われたのか、一瞬では理解できなかった。

「あ、おい、事情聴取ぐらい――ッ」
「任意同行でしょ? 拒否するよッ」
「あっコラてめえ!」
 純は逃げる彼女を追いかけるが、小柄な彼女は軽やかに駆けて去っていく。スピード強化ぐらいはしていておかしくないから、純の足では追いつけるはずもない。だからと言って、私が純に手を貸すこともない。彼女は『任意』での同行を確かに拒否すると言った。追う意味のないことだ。

 これで、本当に良かったのかどうか。
 結局また私は、決断を本人に委ねてしまって。

 ――要するに、人の進む道に手を出すのが、怖くなっているだけ。

 私は私。
 やはり、臆病者の、私のままだった。