こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第三話 虹色メビウス



第四章「平行線」

   1

「……えっと。これはどういうことでしょうか、真珠くん、楓さん? それと――貴女は、誰ですか?」
 店に戻ってきたスーツ姿の直実さんは、驚いているような困っているような複雑な表情を浮かべながら、わざとらしい口調で、そうおっしゃいました。
 その場は、あたしと真珠君、それからウェーブの掛かった長い金髪に碧の目をした外国人の女の子の3人による――お茶会の場と、化していました。直実さんがツッコみたくなるのも、当然のこと。
 何でそうなったかを説明すると長くなるんだけど――……。
 あたしがここへ到着した時、店内には真珠君しか居なかった。直実さんはハル君誘拐の件で出掛けていると言うので、あたしと真珠君で開店準備をしてたんだけど、そこへ今度はその女の子がやってきたわけ。真っ黒でフリルのいっぱいついた服を着て、頭に大きなリボンをつけて……なんていうか、フランス人形みたいな雰囲気? あまりにもこの町に似合わないから、正直ちょっとびっくりしちゃった。で、直実さんに会いに来た、直接会って話したいって言うから、それじゃあ一緒に待ちますかーって雰囲気になって。――それで、こういう状況になっているわけです。
「貴方が居ないからいけないのよ。2人に罪は無いと思うわ」
 頬を膨らませながらあたしたちをかばってくれつつ、女の子がゆっくり席を立つ。それからつかつかと直実さんの前に歩み寄る。それから恭しく一礼して、自己紹介。
「初めまして。私はクリスティーヌ、クリスでいいわ。貴方が、桧村直実さんね」
 身長差がかなりあるから、クリスは直実さんを思いっきり見上げる形になっている。……台をあげたい。
「えぇ」
「――伝言を賜って来たの。聞いて頂戴」
「伝言?」
「私のマスターからの伝言。えっと――明日は定休日なのよね?」
「……。えぇ、休みです」
 マスターって何だろう。喫茶店とかのマスター……いや、違う違う。雰囲気的には『ご主人様』ってところ?
「明日の午前十時、蒼杜第二公園の日時計で待ち合わせたいのだそうよ。貴方ひとりで来て欲しいの。場所は判るかしら?」
 蒼杜第二公園。この辺りで一番広い公園で、敷地の隅っこにちょっとお洒落な日時計がある。
「場所は知っていますが、……貴女のマスターと言うのは、どなたですか?」
「? ここで言ってしまったら伝言の意味がないと思わない? ――ハルを誘拐した犯人だわ」
「――!」
「え?」
 あたしは思わず声をあげていた。だって、直実さんは誘拐事件の関係で出掛けてたんじゃないの? 思わず後ろに居る真珠君の方を見る。彼も少し困った顔で、首をかしげる。やっぱり判らない。直実さんはひとり、深刻な顔で悩んでいるけど――……あたしたちとは、違う次元で何かを考えているような気がする。
 あたしが声を出したから、クリスは半分こっちを向いた状態で――呟くように、言った。
「……私、何かおかしなことを言ったかしら?」
「……いえ。貴女は、何も知らないはずだ」
「何のこと?」
 クリスはまた直実さんのほうに向き直った。
「貴女は知らなくて構わないことです。……伝言、ありがとうございました。何か持って来いとか、そういう指示はありませんでしたか?」
「無いわ。ミノシロキンメアテ?とは違うから、だそうよ」
 クリスはそう、堂々と宣言した。その言葉に裏があるとは到底思えない言い方。それにこの子、嘘つけるタイプには見えないし――第一、『身代金目当て』の発音が変だったし、意味も判ってなさそうだったし。
「――それでは、また明日お会いしましょう」
 そう言って、クリスはぱたぱた歩いて店の扉の前まで進んでいった。それからくるりと振り返って、最後に一言。
「それからマコト、紅茶、美味しかったわ。ありがと」
「え。あ、あはは、それなら良かった――」
 そう、あたしたちが飲んでいた紅茶は真珠君が淹れたのでありました。何でも直実さんのやってることを見よう見まねで実践してみてるんだそうで、うーむ、勉強家さんですのう。
 次の瞬間には、クリスはドアを開けて出て行ってしまった。――っと、直実さんが難しい顔をしておられる。真珠君が慌てて口を開いた。
「直実さん、あの、勝手に知らない人入れちゃって、お茶まで淹れて、すみませんでした」
「……謝る必要はないよ、昨日からここは非常事態だから……。とりあえず、着替えて、来るよ」
 直実さん、まだ開店前なのに、お疲れの様子。大丈夫、かな。明日だって定休日なのに、呼び出されてるわけだし――……少しぐらい、休んでもらった方が良いような。大体、ずっと昔から一緒に居るらしいハル君が居ないんだから、きっと調子だって狂うはず。

 ――って、そうだ。何かおかしかったんだよね。
 ちょっと考えてみよう。
 真珠君の話によれば、昨日の夜に誘拐犯かも知れない人から電話があって、直実さんは駅に向かったという話だった。それなのに、誘拐犯のメッセンジャーであるクリスは、直実さんが出掛けていることを知らなかった。……聞いてなかったって言うことは有り得ない? いや、誘拐犯の指示でこの時間に来たんだからそれは無い――。
 つまり、どういうこと?

「やっぱり、違ったんだ――……」
 真珠君の呟き。何が違うって?
 ちょうどそこに、直実さんが着替えて戻ってきた。
「違ったな」
 聞こえていたらしい。
「違うって、何が違うんですか?」
「昨日私を呼び出したのは誘拐犯じゃないってことだ。あぁそうだ――駅に行ったら、4件目の通り魔殺人が起きた。もしかしたら、電話の目的はそれかも知れない」
 4件目。また誰かが、この町で、殺された――。何となく、嫌な感じ。そんなの嫌に決まってるんだけど、さ。
 あたしはこの町が好き。特に何があるってわけでもないし、あの金髪のお兄さんが言った通り、超マイナーではあるんだけれど。
「電話を掛けてきた人間は、今日あの場所で事件が起こることを知っていて、かつ、ここで誘拐事件が発生したことを知っている人物」
「え――……でも、あの時ここに居たのって、あたしたちと、あと金髪のお兄さんと、女の子と……だけでしたよね?」
 尋ねると、直実さんは小さく頷いて、それから数秒後、
「……浅生、か」
 と、呟いた。今のは名前? だとすると、初めて聞く名前。
「……いや、そんな手間をどうして……」
 ――……直実さんは作業に取り掛かりつつも自分の世界へ入って行かれた。声を掛けたら悪いな。あたしは真珠君を呼んで一緒にテーブルを拭きながら、開店時刻と、直実さんが戻ってくるのを、待った。

   *

「――マスコミには流していないが、今回の通り魔は……あの時彼が言っていた通り、一般人には無理だ」
 ひと段落ついた、午前十一時。店内に居るのは、いつものようにカウンターに座った直実さんと、カウンターに一番近いテーブルで向かい合わせに座る、あたしと真珠君の計3人。状況が判らなくなってきたので、説明してほしいと頼んだのです――……だってほら、こんなに身近で事件が起きてるのに、置いてきぼりじゃつらいじゃない。
「つまり」
「恐らく術師」
 ……でも、あたしは直実さんしか知らない。
「確か、ハル君を連れ去るのも無理だって言ってましたよね」
「そう。この近辺にもう一人術師が居るとしたら、私への何らかの働きかけとして、一連の事件を起こしている可能性は当然考えられる話」
 直実さんはシャーペンの代わりにティースプーンをくるくると指の間で回しつつそう話した。回転を止めて、さらに続ける。
「そこへ来て、恐らく犯人ではない人物が、何故か犯人を装って電話を掛けてきた。金を持って来いと言ったにも関わらず、実際に取引を行おうとはしなかった。つまり偽者も金目当てでは、ない。だとすれば、今朝呼び出した目的は『4件目の現場に私を呼び寄せる』以外には無いだろう」
 なるほど。で、その偽者さんは四件目が起こることを事前に知っていて、ここで誘拐事件があったことも知っていた人物、と。……ん? そんな人って居るのか? それってどっちかって言うと、犯人よね――。
「電話掛けて来た人がやっぱり犯人ってことは有り得ないんですか? クリスがおかしなこと言ってたのは、もしかしたら犯人の偽装工作かも知れないですし」
「……。いや、ないと思う。少なくともハルが電話の主の手元に一度でも渡ったなら、有り得ない」
「どうしてですか?」
「――ハルをただの猿だと思っている。いくらなんでも、有り得ない」
 断定的な口調、低い声。少し、びくっとした。
「声を聞かせて欲しいと言っても、『猿だから無理』という論拠で応じなかった。ハルをここから連れ出したならそんな発想は沸かないよ」
 ハル君は店から一歩出ると自動的に人型になる。直実さんが意図的にいじらない限り、その基本は動かない。さらに、彼の性格からして、誘拐されるような状況で、一言も喋らないとは考えられない。店の中でも怪しいってのに。
 それを知らないということはつまり、電話を掛けて来た人間は、店の中に居るハル君しか知らない、ということ。
 例えば店内で誘拐の騒ぎを聞いていただけのあの二人なら、勘違いしてもおかしくない。
「私の誘導に引っ掛かった上に墓穴掘ってくれたから多分間違いないと思うんだが……もしそこまで考えていたとしても、わざわざ偽者の存在を作り出す利点が判らないな。偽者は独自で動いてると見るべきだと思う」
 ほとんど独り言のようにそこまで言った直実さんは、今度はスプーンを指揮棒のように振り始めた。
「そして浅生永樹は実際、四件とも現場に居合わせていると見て間違いない。何故それを知り得たかは置いておいても、4件目の発生を事前に知ることが出来たのは確か。プラス、ハルの誘拐事件も知っている」
「……じゃあ、あのお兄さんが偽者ですか?」
 尋ねると、直実さんはスプーンの動きを止めた。それから何かを考えるように視線をうろうろさせて、最後にひとつため息を吐いて、――ようやく口を開いた。その間、約5秒。
「可能性の域を出ないな。それにどこか引っ掛かる……。もう一人の彼女の方は全くもって判らないし――」
「……そう、ですね」
 どこが引っ掛かるのかはあたしには判らないけれど。
 それからすぐお客さんが来て、話はそこで終わり。その後は特に事件の話はしなくて、ケーキの作り方とか、そんな話で時間が過ぎていった。
 この状況で楽しんだりしちゃいけないんだろうけど、でも、正直なところ――楽しかった。難しい顔で事件の話をしている時の直実さんより、ケーキとか紅茶の話をしている時の彼の方が、生き生きとしてるように見えるし。

 ……でも、当たり前か。事件の捜査がやりたいなら警察に就職すればいいんだし。そうじゃなくてカフェやってるんだから、そっちの方が好きってことで――……。
 ん?
 そっか、この前麻耶さんが言ってた幸せって、そういうことなのかな――。

 あたしは、どうしたいんだろう。
 本当にやりたいことって、あるんだろうか。
 ただ何となく大学に行って、それから考えようなんて思ってたけど――……。

 ……まぁ、いっか。
 まだまだ時間はあるんだし、ね。

   2

 ――翌日、定休日。公園には直実さんが一人で行かなきゃいけないから、あたしは行けない。まだあと何日か春休みが残ってるけど、特にやり残したことも無いんだよね……うーん、暇。
 父さんは仕事に行ったし、母さんは一人で遊びに行ってるし、兄さんも何か出掛けて行ったし、今家に居るのはあたし一人。誰か、遊び相手になってくれる人居ないかな――何となく携帯を開くけど、新着メールも着信もなし。まぁ、そんなもんですよね。

 外の空気を吸いたくなったので、部屋からベランダに出て深呼吸。うむ、朝の空気は美味しいですな。
 ……なんてことをやっていた、そのとき。
「きゃ」
 ヒュンと風を切って、何かが目の前を横切った。――何だろう? 辺りを見回すと、黄緑色の鳥が一羽、どこかへ飛んでいったのが見えた。……黄緑って、あれ、インコ? 日本に野生のインコって居たんだっけ? それともペットが逃げたのかな――。

「やっほー楓君おはよー! 聞こえるかーい?」

 聞き覚えのある声が、下から聞こえてきた。この声は、この喋り方は――麻耶さん? 何で家まで知ってるの? お、恐ろしい人だ。ベランダから下を覗くと、確かに麻耶さんが玄関の前に立って、こっちに手を振っていた。あたしはとりあえず手を振り返して、えっと……あたしに会いに来たっぽいから、下に行くことにする。

「やーごめんね。ナオミ君が今日も朝から出掛けるみたいだったから問い質したんだけど、誘拐犯に会いに行くんだって? ついて行きたかったんだけど珍しく来るなって言われちゃってさー、でもやっぱり行ってみたいし、でも一人でこっそり行くのは心細いから、事情知ってそうな楓君に頼もうと思って、探させてもらっちゃった」
 本当によく喋る人だ。心細いってキャラには見えないけど――ツッコまないほうがいいかな。
「探すって、家を――」
「近所なのは判ってたしね。――みっちゃん、何隠れてんだい」
 突然麻耶さんが変なことを言い出したかと思うと、彼女の背中から――さっきのインコらしき鳥が、現れた。
 ――つまり、この子がみっちゃん?
「相棒なんだ。見かけによらず頭良いし、飛べるし、話し相手としてもなかなか楽しい」
「ハローハロー、ハジメマシテ、ミッチャンデス」
 おぉ、なるほど喋った。
「は……はろー」
「あはは! そんな恐る恐るじゃなくて大丈夫だよ。――それで、ナオミ君は何処に行ったの? みっちゃんに探させてもいいんだけど、楓君探すのに体力使ったばっかりだし、楓君が知ってるならいいかなーと思うんだけど」
「え――」
 来るなって言われてるのに、言っちゃっても良いものだろうか。
 ばれなければ、大丈夫かな――……?
 でももしばれてハル君が殺されるようなことがあれば、怒られるどころじゃないのはあたしだし……。
「なーに、心配しなくても大丈夫だって、私はナオミ君のストーカーだよ!」
 こんな街中で堂々と宣言しないで下さい。
「あー……もし何かあったら私がちゃんと責任取るからさ。けしかけたのはこっちなんだしね。そこら辺はちゃんと大人の対応するよ。何だったら脅したことにしてもいいさ」
「え――」
 それはそれで、申し訳ないような気もするけど。でも、ここまで言ってくれてるなら……いい、か。直実さん、ごめんなさい。
 あたしが待ち合わせ場所を言うと、麻耶さんは何故かおかしそうにひとしきり笑った。それから右手を突き上げて「出発進行!」と――妙に小声で言ったのが、おかしかった。

   *

 日時計の近くには、光を遮る物がない。だから、あたしと麻耶さんは少し離れた遊具の陰に隠れつつ、様子を見守ることにした。約束の時間まではまだ少し時間がある。日時計の横に居るのは、珍しく普段着姿の直実さんだけだった。
「前から思ってたけど、ナオミ君って店に居ないときは意外と若者らしい格好するよね」
 若者らしい格好っていうのがどういう格好なのか、男の人のファッションはよく判らないけど――……まぁでも和服の方を見慣れてると、普通に白いパーカー着てポケットに両手突っ込んでるのは、ちょっと変な感じがする。
「背高いしクオーターだし細身だし、うらやましいなーこんにゃろー」
「? 麻耶さんはわざと男っぽい格好してるんですか?」
「え? いや、男に見られようとかはしてないよ。皆が勝手に勘違いしてるだけさ」
「じゃあどうしてうらやましいって……」
「――ふ、人類としてのうらやましさだよ」
 何を言い出すかこの人は。
「って、いうか……クオーターなんですね、直実さん。そっか、それで目が灰色なんだ」
 名前が純和風だから全然そんな発想沸かなかった。発想とかそういう問題じゃないけど。
「うん。ドイツ系らしいよ」
 あー、なるほど、真面目っぽい。言われてみればそんな感じ。
 そんな雑談をしている間に、約束の時間が、来たらしい。

 日時計の突起の上に、ふわりと何かが舞い降りた。
 何だろう、えっと――……そうだ、あの子だ。クリスティーヌ!

「うわぁ、ゴスロリ娘」
 麻耶さん、率直。

 それから、クリスの方に向いた直実さんの視線の方向から――誰かが歩いてきて、姿を現す。あれがクリスのマスター、誘拐犯?



 ――……え?

 ちょっと待って、これってそのつまり、どういうこと? だって誘拐犯は通り魔で術師なんじゃなかったの……!?

「……違ったか」
 麻耶さんの声。違う? 違うってどういう意味? って、そんなこと考えてる場合じゃない。


 だってあれは、



 あたしの兄さん――……!



 何が何だか判らない、落ち着け、落ち着けあたし。とにかく話を聞かなきゃ――。

「毎日楓が嬉しそうな顔して帰ってくる。きっとアンタに関係してる」
「…………えっと、」
「――楓のことをどう思ってるんだ!」
 人の話を聴こうともしない兄さんは――……悪い癖を、発動、させていた。
 あたしは呆れかえって、ひとつ、ため息を吐いた。

 隣の麻耶さんが変な顔をしている。
「……楓君、今キミの名前が聞こえたけど、あれ、誰? お父さん……って歳じゃないよねぇ」
 うん、発言内容は確かに父親でした。
「……兄です」
「シスコン野郎か」
「……そうみたいですね」
「なるほど、愛しい妹のバイト先の店長に怒ってるわけか。……だからって誘拐すっか普通」
 だから馬鹿なのですよ。もう、直実さんに何て謝ったらいいんだろう――。

 当の直実さんは、父親発言のあと、十秒ぐらい黙りこんでから――、
「……どう、と言われましても」
 と、ごく自然な疑問を、お答えになりました。隣の麻耶さんが笑いを堪えています……あぁもう、出て行って兄貴殴りたい。殴っていいですかまじで。
「素直に答えてくれればいい」
「色々と協力して頂いて感謝しています。バイト代が弾めないのが申し訳ないぐらいです」
「それだけ、か?」
「……。まぁ、個人的に気になることが、ないと言えば嘘になりますが――」

 ――……え?

「やはりな。こいつに訊いても本人に訊けの一点張りだったから、」
 いつの間にかハル君が、妙に自慢げな兄貴の隣に立っている――。
「あーあの、……柘榴さんが考えるような意味じゃないですよ。そういうのはまだ、考える時期じゃないと思います。どちらかと言うと――貴方が今ここに、ハルの誘拐犯として立っていることに関係する方で、気になることが」
 話している意味が掴めなかった。え、何、気になるってそういう方面ではないわけ……残念……に思う自分に少し、驚いた。
「……どういう意味だよ」
「――貴方も術師なんですか?」
 そう尋ねた直実さんに対して、兄貴は何故かかっこつけたようにフッと笑う。
 鬱陶しいなーもう!
「だったらどうする?」
「いえ……道理で彼女が反応しやすいと、納得するまでで」
「…………。クリス!」
 ――え?
 兄貴が名前を呼んだ次の瞬間、日時計の上にたたずんでいたクリスが急に居なくなって、それから――何故かバケツを持って、直実さんの上空、約十メートル付近に、現れた。

 ……バケツだって?

 次の瞬間。
 派手に飛び散る水の音と、バケツが地面に転がる音がした。何が起きたのか判らないけど、直実さんは右手をまっすぐ前に突き出した状態で固まっていて、クリスは地面に転がっていて、それから兄貴は――……何故かびしょ濡れになって、立ち尽くしていた。横に立っていたハル君も思いっきり水をかぶった様子。
 そしてハル君が最初に、叫んだ。
「サネぇ! もっと考えて動かせよ! 俺様まで被害受けちまったじゃねえかッ」
「とっさの判断なんだから仕方ないだろう。これでもクリスさんが怪我しないようにとか色々配慮したんだぞ」
「……オレにメインでぶちまけたのは、わざとですか……?」
 そう呟いたのは、亡霊のようになっている兄貴です。
 訊かれた直実さんは、笑顔できっぱりと言いました。
「わざとです。私にしようとしていたことはそういうことなんでしょう?」
 つまり――クリスがまさしくバケツをひっくり返そうとしたところを、直実さんは何らかの動きをとって、クリスは地面に下ろし、バケツの中身は兄貴にぶっ掛けたと、そういうことなのですね。やーい、ざまーみろ兄貴!
「――……」
 兄貴、撃沈。
 麻耶さんがついに笑いを堪え切れなくなってる。
「ぷぷっ、さすがナオミ君、相変わらず敵には容赦ないねー」
「ナオザネ、オニ、オニ」
 みっちゃんまで何か言ってる。ていうか呼び捨てかい! 麻耶さんらしい教育が行き届いているような感じがする――。

「何にしても、実力行使はいただけませんよ。まぁ、どうせ近所ですからちょっと濡れたぐらい大丈夫ですよね」
 だんだん直実さんが強気になってきてる気がする。いや、気のせいじゃないと思う。
「……悪かったよ。でも、アンタが本当に『最強』なのかってのを確かめたくて」
 兄貴は水の滴る前髪をかきあげた状態で静止しながら、半分愚痴みたいにそう言った。愚痴みたいだったから、多分兄さんは何も身構えてなかったと思う。
 遠くてよく判らないけど、それでも、急に直実さんの表情が凍ったのが判った。

「……これぐらいのことで確かめられるとでも?」
「え?」
「自分でも恐ろしくなるんですよ? 制御が利かなくなったら、一体どんな事態になるか――ッ!」

 珍しく、直実さんが激昂した。何かの琴線を刺激したのかな。……あぁ、兄さんが怯えている。あの人、あぁ見えて変なところで弱虫だからな……。助けに行くべきか、でもここで飛び出したら色々問題が……やめておこう。
 今度は、兄さんの隣で座り込んでいたハル君が動いた。
「サネ、その辺にしとけよ。喧嘩しても何にもなんねぇって」
「――……そう、ですね。筋違いでした。吃驚させたなら謝ります」
「え、えあ、いや……あ、あはは。大丈夫ッス。問題ないッス」
 どう見てもまだ怯えてます。判りやすすぎるぞ兄貴。

 と、直実さんが何かを思い出したように顔を上げた。
「ひとつ、お聞きしたいんですが」
「……な、何ですか」
「ご友人もしくは先輩で、以前こちらに住んでいて、今年緑谷に越した方は居ませんか?」
「……? いや、居ませんけど」
「じゃ、昨日の朝はどちらに?」
「朝? 寝てましたよ。……早起きしたくなかったからクリスに伝言任せたんだ」
 なんつーやる気の無いマスター……。堂々と言うな。
「なるほど、貴方が通り魔じゃなくて良かったです。ハルの件はさっきので水に流しましょう」
 兄貴の答えを聞いて、直実さんは再び笑顔を返した。今度は恐ろしくない。
 ――そうだ。
 通り魔が術師で、誘拐犯も術師っぽかったから、同一人物なんじゃないかって疑ってたんだよね。だからさっき、あたしは頭が真っ白になったんであって。


 でもそれが違うってことは、単純に喜んでいい話ではなくて。


 ――まだもう一人、居るってことだ。


「通り魔……? あぁ、羽田南の」
「えぇ、それの犯人も術師なんじゃないかと疑われていて」
「ゲッ。オレじゃないですよ?」
「判ってますよ。私に対する攻撃手段にバケツの水を選んだ貴方が人殺し、しかも4人も殺すなんて有り得ないと思いますから」
 兄貴は――時々暴走することもあるけど、でも、臆病者だ。人を傷付けてしまうことを、今でもずっと、怖がっている。もちろん、それが悪いことだなんて言わないけれど。
「何か、他に私に言いたいこととか――」
「……ハル、お返しします。えっと……くれぐれも、楓に変な気起こさないようにしてくださいね!」
 兄さんの父親発言第二弾に対して、直実さんは顔色ひとつ変えず冷静に、対応した。


「――判ってます。私はただの雇い主です」


 ねぇ……どうして、かな。
 どうして、こんなに、変な気分なのかな。

 直実さんは当たり前のことを言っただけなのに。
 それにあたしは本来、ここに居ちゃいけない存在のはずで。

 麻耶さんの手が、あたしの頭にポンと乗せられた。
 あたしは――……ただ呆然と、4人がその場から居なくなるのを、ずっと眺めていた。


 あたしも麻耶さんもみっちゃんも、何も、言わなかった。

   *

 ますます落ち着けなくなった夜。
 今日もまた、自宅の電話のベルが、鳴った。そういえば、偽者は今何をしているのだろう。あるいは、これが偽者からの電話だろうか。真珠に不安そうな顔で見つめられる。……出ないわけにもいかない。私は覚悟を決めて受話器を取った。
「――はい、桧村です」
『こんばんは、桧村さん』
 誰だ。機械で変えた声ではない。普通の、男の声だった。明るく落ち着いた調子だが、私の知り合いの声とは一致しない。
「……すみませんが、どちら様でしょうか」
『あぁ――ただのしがない予言者です。はじめまして。名乗るほどの者ではありません』
「予言者?」
 浅生のメールのことが頭をよぎった。この男が浅生にメールを送った張本人なのだろうか。
『明日の、午後一時頃です。場所は、羽田南駅北口アーケード、時計屋の辺りです。タハラ時計店、判りますか?』
「それは――通り魔、でしょうか」
『干渉すれば未来の変化は起こり得ます』
 質問に答えられているような、答えられていないような。
 通り魔になるかどうかは私次第だとでも言いたいのだろうか。
「そこへ向かえば良いということですか?」
『向かうも向かわないも貴方の自由です。でも、出来れば――……止めて、欲しい。――では』
 通話はそこですぐに、切れた。

 もしこの予言者が、浅生にメールを送っている張本人なのだとしたら?
 浅生ではダメだと判断したのか。それならどうして、私が候補に挙がったのか。……犯人と同じ術師だからか? いや、それを知っているのはごく一部の人間だけのはずだし、そもそもこの電話番号を知っているのはどうして――……判らない。

 ――そうだ、浅生だ。浅生にも同じ連絡が行っているかも知れない。
 私は受話器を置かず、手帳に記した彼の携帯の番号を、押した。