こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第三話 虹色メビウス



第三章「交錯」

   1

 ――落ち着かない夜だ。
 もっとも、こんな状況で落ち着けると言うのなら私は冷血漢と言われても否定できない。そういう意味では当たり前なのかも知れない。あるいは、私がそうでないことが証明されたと言うべきなのか。だとすれば、喜ぶべきなのだろうか。そもそも、そんな風に考えること自体がやはり普通とは違うのではないだろうか――……。いや、むしろこういう状況だからこそ落ち着かなければならないのか。堂々巡りだ。
 そんな考えを巡らせながら、夕食を摂った。真珠は努めて明るく振る舞い、恐らく私を元気付けようとしてくれていたし、私自身も落ち込むような素振りは見せまいとしていたのだが――やはり、本調子ではないようだった。明日は、どうしようか。そんなことを何の気なしに考えながら、真珠に気付かれないように小さくため息を吐いた、その時だった。

 ――……電話が、鳴った。

 思い起こすのは、『指示を待て』という、指示。どことなく嫌な予感がした。不安そうな目をこちらに向ける真珠と一度目を合わせ、言外に意思を一致させてから、私は電話台の方へ向かった。

「――はい、桧村です」
 返事が、無い。
 そもそもこの電話が鳴るというのは仕事関係の連絡ぐらいのものだ。個人的な連絡なら携帯で取れる。……仕事関係なら、向こうからの返事がないというのは不自然。
 ――とりあえず、黙り込んでいても仕方ないので、先を促すことにする。
「もしもーし」
『桧村直実か』
 今度はすぐに返事が返ってきた。機械か何かで変えられた声で、明らかに通常の電話とは違う。
 つまり――ここから先は、非常事態。日常から乖離した、空間。
 私は受話器に意識を集中させた。
「――えぇ、そうです」
『残しておいたメモは読んだな?』
「……えぇ」
 何の話をしているのかは自明の理。ハル誘拐事件だ。
 と、言うことは――誘拐犯は、私の名を知っている。名前の読みで迷うこともなく正確に読んだ。こちらが先に桧村と名乗っているにも関わらず敢えてフルネームで確認しているのは、私以外の家族がこの家に居ることも知っているということだろうか。……もっとも、最初に名乗ったのを聞いていないという可能性も残っている。最初に返事がなかった点から考えると、それが一番自然かも知れない。
『明日までに金を用意しろ。身代金だ』
 犯人からの電話。身代金の要求。漫画や小説でならよくある話、だが。まさかこの私に降りかかるとは――思ったこともなかった。
「いくらですか?」
『五〇〇万だ』

 ……五〇〇万?

「やっ」
 ……す、い。
 出掛かった声を必死で堪えた。――危ないところだった。
 安いなどと言ったら金額を吊り上げられかねない。人間の身代金なら安すぎるが、私が明日一括で払う金額としては高すぎる。明日からの生活が成り立たなくなるところだった――危なかった。
『何だ?』
「……何でもありません、少し驚いただけです。……明日までというのは、正直なところ難しいです」
 安いと突っ込みそうになった値段に対して無理だと言ってしまうのも少し情けない気はしたのだが。……まぁ、正直に生きた方がいいと思う。
 それに先刻、
『こいつがどうなってもいいのか?』
「そんなこと言われても無理です」
 ――……妙なことが一点あった。
 このまま通話を終わらせるわけには行かないのだ。

「ところで、ハルは今何処に居ますか? その近くに居るんですか?」
『ん? あぁ、安心しろ、何もしていない』
「――では、少し声を聞かせて頂けませんか? 『助けてご主人様ー』ぐらい言わせてもらえれば、多少無理しても用意するんですが」
 あくまで冗談のような口調で問う。感づかれてはダメだ。
 相手の反応が遅れる。聞き耳を立てるが、変わった物音はほとんど聞こえない。
『猿相手に無茶を言うな』
 次に聞こえたのは相手の返答。
 耳の奥で、ピリリと電気が走る感触を覚えた。――これなら行ける。
「どうしてです? そこに居るんでしょう? 声ぐらい聞かせてくれてもいいでしょう。それとも、既に声を発することが出来ないということは――」
『安心しろと言っているだろう。今は寝ているだけだ』
「あぁ、なるほど。それなら叩き起こしてくれても構わないのですが」
『……お前は酷い飼い主だな』
「えぇ、長い付き合いなもので」
『ダメだ、薬で眠らせている。当分起きない』
「そうですか……残念ですね」
 ――逃げられた。
 少々消化不良だが、仕方ない。怪しまれては元も子もない。
『とにかく明日までに五〇〇万だ。午前八時、羽田南駅南口の電話ボックス前で待つ。その後別の場所に移動して取引だ。来なかった場合、どうなるか判ってるな』
 相手は一方的に喋り、乱暴に受話器を置いた音がするのと同時に、通話も途切れた。
「…………」
 私は受話器を睨み付けながら、考える。
 ――飲み込まれては負け。主導権を握ることが勝利条件。現段階ではとりあえず、私の方が一歩先を行っている。

 この私に、こんな陰湿な方法で勝負を仕掛けてきたからには、私なりのやり方で応戦させてもらうとしようか――。

「あの、……直実さん。ハル、大丈夫なんですか?」
 心配そうな弟が、恐る恐るといった様子で尋ねる。箸の先で肉を摘んだままだとか、その肉が落ちそうだとか、どうでもいいことが目に入る。こういうのを観察眼と言って良いものか、自信がない。
 ――あぁそうだ、質問されていた。
「うーん――……判らない」
「え、え? でも今、犯人からの電話だったんですよね?」
 箸がすべり、豚肉は案の定皿の上に落下した。真珠がそれを拾って口に運ぶのを待ってから、答えることにする。
「それも、判らない」
「……? 身代金が何とかって話してたのに?」
 真珠はきょとんとした顔をこちらに向ける。私は敢えて、軽く笑って返した。
「まだ、確定は出来ない。でも、変だったのは確か」
「変、……?」
「――恐らく、今電話してきた人間の手元にハルは居ない」
「え?」
「だからと言って、誘拐犯の一味ではないとは言い切れない。よって確定は出来ない。だから、説明は後回しにするよ」
 真珠はポカンと口を開けたまま動かない。――まぁ、致し方ない。そもそも私の発言しか聞いていないのだから。
「でもとにかく、明日の朝八時、羽田南駅――……行ってみるよ。呼び出したからには、何か意図があるはずだ」
「あ……はい。気をつけてください。お店のことは、出来る限りやっておきます」
 私は笑顔とともに「ありがとう」とだけ返して、途中になっていた夕食の席に戻った。生姜焼きはすっかり冷めてしまっていたが、腹の底から焦燥感を追い出すには充分だった。

 落ち着かない夜。私一人しか居ない部屋。純には連絡済。寝る前に一杯だけ飲もうと淹れた紅茶の湯気を眺め、明日の行動を考える。
 偽者の誘拐犯などに金を渡すつもりはない。だが、何故偽者などが現れるのだろう。ハルは人間ではないのだから、正確には誘拐でも何でもない。私や純にしてみれば誘拐だというだけの話で、どちらかと言うと窃盗になるのだろうか。――細かいことはどうでもいい。まだ偽者ではない可能性も多少は残っている。とにかく行ってみるしかないだろう。そこで、何が起こるにしても――明日の勝負も、何とか勝たなければ。
 私は飲み終えた紅茶のカップを置いて、本日最後のため息を吐いた。

   *

「こっちよ」
 フリルで飾られた真っ黒な服に身を包んだ、長い金髪の少女が往く。あのような趣味をゴシックロリータと言うのだったか。着ている人間――かどうかは怪しい――がロリータの範囲に入っているから、さほど違和感は無い。それに、彼女を追う少年自身の服装も、人のことを言えたものではない。
「ここを貴方の部屋として貸し出すわ。――彼と同居してもらうことになるのだけれど、ほんの数日だし、我慢してね」
 少女が示したのは、押入れのように2段になっているが――クローゼットだった。部屋の主である人間の洋服は、片方の扉を開けば見える範囲で収まっており、残りは誰だか知らないが彼女の言う「彼」の場所らしい。そして、少年に貸し出されたのは、その上の空間。――人間と言うものは、往々にして人外に厳しい。
 振り返ると、少女に「彼」と言われた者――恐らく人間ではない――が、ベッドの上に足を組んで座っていた。先ほどまでは居なかったと思ったのだが、いつの間に現れたのだろう。少女と同じブロンドに青い瞳。どこかの外国のお坊ちゃんのような、フォーマルな服装をしている。ネクタイもきっちりと締めていて苦しそうだ。しかし、少女と並ぶととても絵になる――などと考えている場合ではない。
「――上で暴れるなよ。ぼくの安眠を妨害したら罰としてたこ焼き2パック奢れ」
 お坊ちゃんは、クールに決めた表情をほとんど変えずに、そう言った。
「たこ焼きだぁ? でも俺金持ってねぇし、」
「ゲンのたこ焼き要求は真に受けなくていいわ」
 真に受けていたわけではないのだが。
「たこ焼きは美味いんだぞ、クリス。――暴れてくれなければいいことだ」
 人間ではない者が、目の前に、二人。そして少年も、人間では、ない。部屋の主である人間はまだ戻ってこない。
 今この空間は、人間たちにはどう認識されるべきなのだろうか――。そう思うと、少し楽しいとさえ感じられた少年だったが、自分の立場を忘れたわけではない。そんな考えは自重することにした。
「――自己紹介を忘れていたわね。私はクリスティーヌ。クリスと呼んでいいわよ。そしてこちらが、」
「玄次郎だ。玄で良い」
「げ、げんじろう? その顔でか?」
 どう見てもヨーロッパ系のお坊ちゃん。そんな、古風で和風で豪勢――だろうか?――な名前には似ても似つかない。少年の主の名も古風ではあるが、字面だけならここまでではない。
「変な子でしょ。そういう名前が欲しいって言ったのよ」
 クリスがそう言って笑う。当の玄次郎は無表情のまま特に反応しない。感情が読み取れない。
「そういえば、貴方の名前を聞いていなかったわ」
「俺?」
 答えようとしたところで、部屋の扉が開く音がした。

「――ハル、だ。うるさくしたら怒るよ」

 部屋の主が戻ってきて、代わりに少年の名を告げた。
「……判ってらぁ。俺は『誘拐された』んだもんな」
「立場が判っててありがたいね」
 急に場が静かになった。
 人外の2人は、この人間の使い魔あるいは下僕と見て間違いないだろう。パートナーと言ってはいるが、事実上、直実とハルも主従関係にある。そうしなければならない状況にあったことは、彼の人間性から見て、幸運だったと思うべきなのか、むしろ不幸だったと思うべきなのか。今のハルにはまだ判らない。
 ただひとつ間違いないのは、もし今彼が居なくなったら、ハルの生活が立ち行かないことだ。

 パソコンを立ち上げ、退屈そうな顔でキーボードを叩き始めた人間の横顔を眺める。大学生ぐらいだろうか――冷たい人間には見えない。人外の二人は、寝床こそ狭くても生活を楽しんでいるようではある。
 自分は今、縛られてはいない。
 ハルは、彼の傍へと歩いていった。
「――……何?」
 彼は、不思議そうな顔をしてハルの方を見る。
「アンタも、術師なんだな」
 状況証拠がそう言っていた。断定しつつ尋ねたハルに、人間の青年はクスリと笑って、答えた。
「――そうなる。驚いた?」
「……別に、驚きゃしねえけどよ」
「あれ、残念。驚かそうと思ったんだけどな」
「俺、こう見えて度胸だけはあるんでな」
「……そう」
 会話が止まる。青年がキーボードを叩く音だけが響く。画面上に開かれているのはワープロソフトともうひとつ、インターネットブラウザ。青年が何をやっているのかはよく判らないが、特にすることがないとも見える。

 ――いまいち、釈然としない。

 すると突然、ずっとディスプレイを眺めていた青年がこちらを向いた。

「――訊きたいことがある。正直に答えて欲しい」

 そう言った青年の表情は、何故か先ほどまでとは異なり――……異様な殺気を、帯びていた。


   2

 現実というものは残酷だ。目の前に広がる惨状を見ながら、つい噛み締めた奥歯を鳴らす。
 結局――……私は、してやられた、のか? 奴は最初からこのつもりで居たというのか?

 午前8時、羽田南駅南口の電話ボックス前には誰も居なかった。携帯電話の普及した昨今、少なくなった電話ボックスの使用者たちは、誰もが電話を掛け終えるとすぐに立ち去り、そこを待ち合わせに利用していると思しい人間すら居なかった。

 代わりに、事件が、起きた。私と純が駅前の人通りを眺めているその目と鼻の先で。
 駅前の大きな交差点を渡っていた青年が、突然、倒れた。
 ――通り魔、四人目の被害者。

 純が、呆けていた私の両肩に掴みかかった。
「――おい、目ぇ見せてみろ」
 恐らく、右目の色を見ているのだろう。変わっているかどうかは、私には判らない。もし変に変わっていたりしたら疑われかねないな――などと、呑気な考えが思い浮かんだ。
「……変わってねぇな」
「誰が刑事の目の前で人殺すか」
「…………お前って奴は全く……」
 呆れ顔でため息を吐かれたが、いまいちよく判らない。返答の仕方が変だっただろうか。

 周囲が騒がしくなってきた。通勤通学で人通りの多い時間と重なり、駅前はパニックに陥る。純はそちらの対処に回った。
 ――……さて、私だ。

 通り魔の犯人が術師であるなら。
 まだこの近くに居てもおかしくはないはずだ――。

 私は人混みをかき分けて進み、横断歩道を渡って駅前大通りの歩道に出る。だが進んだところでヒトはヒト。術師だからと言って他人と何かが違うわけではない。人外の気配すら区別できない私に、そんなものが判るわけがない。
 電話の主は何がしたかったのだろう。これを、――見せたかったのか? 私に? 何故? 見せたところで何になる。せいぜい私に、目の前に居ながら何も出来なかったと言う悔しさを味わわせるぐらいのことしか――……まさか、それが目的だとでも言うのか? 理解できない、馬鹿馬鹿しい。何者だ。最終的に何を企んでいる――……?

「あ」

 誰かの声がした。顔を上げると目の前には、長めの金髪――と言うよりも黄色い髪の青年が立っていた。
 ――昨日、店に来ていた彼だ。
 前衛アートらしきプリントTシャツの上に茶色のパーカーを羽織っている。荷物らしい荷物は持っていないが、右手に黄色い携帯電話を持っていた。……ヤケに派手なデザインがあるものだな。胸と右耳には銀のクロスが見えるが、ネックレスの方だけがゴテゴテしている。信仰心によるものではなさそうだ、とどうでもいい分析を加えるのはこの辺にしておく。
「――昨日の」
「こ、こんにちは。奇遇ですねい」
 青年は何故か少し慌てた様子で片手を掲げて、笑った。その笑顔が、明らかに引き攣っていた。
「こんにちは。――今日も、現場に居合わせたわけですか」
 青年は私から目を逸らしてうつむき、黙り込んだ。肯定と取って良いだろう。何も言わず、返答を促す。
 少しして、彼は発言を求められていることに気付いたのか、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「偶然居合わせた、わけじゃないです。メールが、来るんですよ」
 黄色い携帯を、開いたり畳んだりしてもてあそんでいる。
「メール」
「えぇ。見たことないアドレスで、時刻と場所を指定して、何か企んでる奴が居るから止めてくれって、事件の直前に毎回」
「……止めて、くれ?」
 変な話だ。それに、事件を事前に察知しているようでもある。それは何者かによる予言か、本当は止めたいと願っている通り魔本人によるものか――。
 いや、予言者まで居ると言い出したら限が無い。とりあえずは通り魔本人と仮定して考えよう。
「犯人が誰かってのもメールに書いてあるんですよ。俺の友人です。……でも、まだ確証は取れてません。いつも探すのに、見つからない。あいつ、自分は超能力者だって言うから……きっと変な魔法でも使って俺の目を眩ましてんですよ。だから、確証が取れるまでは、名前は言いたくないです。これでも、……友人ですから」
 そう、一気にまくしたてる。

 どこか、気になる。
 通り魔が本当に術師なら。通り魔とこの青年が友人同士であるなら。その通り魔本人が、自分の凶行を止めて欲しいと、自分をかばってくれるほど親しい友人にメールを送っているのだとしたら。

 ――止めて欲しいと願うなら、わざわざその友人の目を眩ましたりするだろうか――?



 それならあるいは、止めてみろ、か?



 寒気がした。人間らしい感情が湧き上がるのが、何故か、怖い。私は紛れもない人間だというのに。そんな感情を押し殺して、声を発する。
「……では代わりに、貴方の連絡先を教えていただけませんか? あ、私一応こういう身分で――」
 常備している捜査用の名刺を差し出すと、青年は目を輝かせてそれに見入っていた。見入られても困る。
「……警視庁、……嘱託捜査員……ふふっ、探偵さんですか?」
「まぁ、そんなところです」
 純が所属する蒼杜署が勝手に作ったオリジナルの肩書きで、立場はあくまで民間人なので警察手帳は無い。よって怪しさ満点なのだが、無いよりはマシだと言うことで署長に作ってもらったものだ。……署長に信頼されているのはありがたいと思っておくことにする。
「……なお、ざね、さん、ですか」
「はい」
「! あ、いえ、気にしないで下さい」
 私が返事をしただけでここまで慌てるとは――独り言のつもりだったらしい。
「でも面白いなぁ、嘱託とか。やっぱり小説みたいに上手くは行きませんよね」
「肩書きがないとなかなか信用していただけませんので」
「まぁ、好き勝手に捜査する一般人が居たら確かにこっちも不審に思う――っと、すいません」
 青年の肩に、後ろから歩いて来た人がぶつかった。人通りが多い中で立ち止まって話していたのでは迷惑になるか。とりあえず、もう少し交差点から離れて人の少ない場所まで移動する。
 ――そうだ、連絡先を聞こうとしてたはずだった。内ポケットから手帳を取り出し、白紙のページを開いてペンと一緒に渡した。青年は笑顔で受け取ってくれた、が。
「――本名書かなかったら怒りますか?」
「え? ……いえ、連絡が取れれば」
「ありがとうございます。疑って予防線張るのもどうかと思うんですけど、色々言われるのもやっぱり嫌で」
 予防線――? よく判らないが、本名を名乗ると不都合が生じるらしい。
「――大変なんですね」
「え? 何がですか?」
 そう言った青年は、笑っていた。ますますよく判らない。本名を名乗れない生活と言うのは、大変ではないのだろうか――。
 尋ねると、今度は声を上げて笑い始めた。
「いや、その……別に、いつも偽名使ってるわけじゃないですよ。本名名乗ったからって命狙われるようなことがあるわけじゃなし」
「つまり、貴方は有名人と言うことですか? もしかしたら、……失礼かも知れませんが、悪い意味で」
「――そう考えるのが妥当でしょうね。さすが探偵さん、話が通じる」
 連絡先を書いた手帳をこちらに差し出しながら、青年は不敵な笑みを浮かべて、顔に掛かる前髪をかき上げた。
 メモをざっと見渡す。名前――浅生永樹(あさおえいき)。丁寧に振り仮名まで振ってある。意外と字は綺麗だ。偽名と宣言されているが、そんなことは重要ではない。二十一歳――大学生か、フリーターか、会社員……は考えにくいな。職業は訊かないと判らないだろう。住所はこの隣町。もっとも隣町とは言え市境を越えるので、隣の市に入ってしまうのだが。
「地元の方かと思ってました。――その、怪しげなメールで呼び出されるたびにわざわざこちらへ?」
「なーに、チャリで来れ……失礼、来られますよ。一駅ぐらい大した距離じゃないです。俺チャリ大好きなんですよね、地球に優しく、小回りも利くニクい奴! あ、それに俺、地元は羽田杜です。今年あっちに引っ越したばっかなんで」
 自ら発した「ら」抜き言葉を何故か律儀に直した浅生青年だったが、だんだんとテンションが上がり、若者らしい口調になった。落ち着いたのか雑談モードに入ったからか知らないが、どちらにしても、シリアスな顔をされるより普通に話してもらえた方が私も安心する。得体の知れない人間というのは、時に人外より恐ろしい――。
「最初は半信半疑で来てみたらホントに起こったから、無視するわけにも行かなくなっちゃって。……でも、一回も見つからない。ハ、馬ッ鹿みてぇ、俺」
「……きっと、見つかりますよ」
 気を落とすなという励ましのつもりでそう言うと、浅生はきょとんとしてこちらを見た。私が笑顔を返すと、彼も思いっきり表情を崩して、
「見つけてくださいね、探偵さん」
 と、言った。

 はっとする。
 つまり結局――……私も、この凶行を止めてみろと、挑発されているということだろうか。

 浅生へのメールの送り主は誰だろう。本当に通り魔本人か、本当に善意の予言者が存在するのか、あるいは浅生が嘘を吐いている可能性は無いだろうか。まだ判らない。証拠は何も無い。状況証拠で疑いは発生しても、それ以上にならない――。もどかしい。

「それじゃ俺、これ以上ここに居てもしょうがないですし、帰りますね」
「あ――えぇ、そうですね。ご協力ありがとうございました」
「いえいえ。じゃ、昨日の刑事さんにもよろしくです」
 そう言い残して、浅生は足早に駅近くの駐輪場の方向へと駆けて行く。どうやら本当に自転車で来ていたようだ――そのエコロジー精神は見習わなければ。
「あっ、サネお前この野郎! 逃がしたな!」
 ――突然、大きな声が背後から掛かった。心臓に悪い。
「居たのか、純」
「……居たのかって、一緒に来ただろうがよ」
 純は呆れ顔で頭を掻き始める。そんな顔をされる筋合いはない。
「そういう意味じゃない。で、何か進展でも?」
「進展なんかねえよ。それよりあの黄色頭に今日こそ職質を掛けようとだな」
 あぁ、そういえばそんなことも言っていたか――。
 逃げるような雰囲気ではないし、別に急ぐ必要もないと思うので、話を流しておく。
「純、お前の頭も黄色いぞ」
「……サネ、目ぇ大丈夫か? これのどこが黄色だよ、どう見ても黒かせいぜい茶色だろ」
 あからさまに疑う目つき。馬鹿にしている。いつものことだ。冗談が通じないだけのこと――私の目は正常だ。純の髪は茶色にしか見えない。

「――取引は不成立。私は店に戻るよ。捜査、頑張って」
「あ……あぁ、判った。じゃあな」

 呼び出した本人が約束の時間に居なかった。
 その待ち合わせの現場で、4件目の通り魔が発生した現実。

 ――材料はまだ色々ある。店に帰ってじっくり考えるとしよう。そろそろ楓さんも来ているかも知れない、急がなければ――……。



 そして玄関を開けて、結局私は自分の目を疑うことになった。