こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第二話 古都の憂鬱
第五章「紅と白」
1
目を覚ますと、部屋の中にハルと真珠が居た。時計を見ると午前九時半。今日は土曜日で真珠も休みだ。私は布団から起き上がりながら尋ねた。
「……? 何やってるんだ?」
「おぅ、やっと起きたかサネ! ここんとこずっと寝てばっかりじゃねーか。やっぱアレか? オトモダチが――……」
「少し静かにしてろ」
特に何も考えず私がそう言うと、術を掛けても居ないのにハルはぴたりと喋るのを止めた。私が何か、怒っているように見えたのだろうか。真珠の方を窺うと、彼は少し心配そうな顔をこちらに向けていた。
「あの……チーズケーキ、美味しかったです。やっぱりプロは違いますねッ」
「ありがとう――……違うって、素人代表は誰の事?」
「お母さん、とか」
思わず私は吹き出してしまった。
「わ……笑わないで下さいよ、お母さんってば直実さんに感化されてしょっちゅうケーキ作るのに、全然上手くならないんですからッ」
「ゴメンゴメン……そうか、道理でこの間も……珍しいと思ったんだ。割と最近だよね?」
「結構前ですけど、でも前に直実さんが帰ってきた時よりは後です」
はて、前回の帰郷はいつだったか、と考える。
正月なども滅多に帰っては来なかったから、多分――……数年前のお盆か、兄と母の七回忌辺りか。
「あの」
言いにくそうに、真珠が切り出す。私は彼の方を見て、何も言わず彼の方から言い出すのを待った。
私が何か言ったところで、それは彼の言葉の妨げにしかならない事は判っている。
真珠はゆっくりと、口を開いた。その目は何かを確実に見据えているように、思えた。
「今度はもっと、出来る限りでいいですから――……帰ってきて、あげて下さい。多分、お母さんも待ってます」
「……どういう意味?」
訊き返すと彼はふわりと笑って、答える。
「だって、今度は僕も居ない訳だし……ひとりで好きなようにやってるだけでお父さんも何も言わないんじゃ、絶対上手くならないし、それに――寂しいと思うから」
「真珠が居なくて?」
彼は少し考えて、小さく首を横に振った。
「それもあったら嬉しいですけどッ、でも、直実さんです」
「私が彼女に?」
「直実さんが滅多に帰って来ないから、嫌われてるんじゃないかって心配なんです。だから」
真珠が言っている事が本当なのであれば――……私と義母は互いに不安がって、互いに上手く関われずに居ただけだと言う事か。
そんな関係を十年以上も続けて、幼かったはずの子供にそれを指摘されて――。
……私という人間は、どれだけ間抜けな存在だったのだろう。
人の事ばかり考えて、自分の事を考えずに生きてきた。
その代償か――……人の為に使うはずの術の力は成長するどころか弱まり、結局通常の生活ではほとんど使わなくなった。
人が楽しければそれでいいと思いながら、全く役に立ててすら居なかった。
「直実さん?」
真珠の呼びかけに、私は慌てて顔を上げた。
「今日もお母さん、何か作るって言ってました。もし良かったら、手伝ってあげて下さい」
にっこりと笑って言い、彼は部屋を出て行った。ハルと私が、部屋に残った。
ずっと黙っていたハルが、ようやく口を開いた。
「おバカさん」
「お前に言われる筋合いは無い」
「いつもの仕返しだッ! これでもやんわり『さん』まで付けてやってんだぞッ」
「ハル、楽しいか?」
「んあ?」
ハルは明らかに私を疑うような目を向けている。
「生きてて楽しいか?」
改めて訊き直すと、彼は少しだけ天を仰ぎ、子供のように無邪気な笑顔を見せた。
同い年だとは紹介できない。紹介したところで信じてなどもらえないだろうが。
「おぅッ、当たり前だろ!? サネ、楽しくねェのか?」
「楽しくないとは、言わないけど」
「おいおい、ニンゲンの一生なんて俺らに比べたら一瞬だぜ? ニンゲンのオマエが楽しくないなんて言い出したら俺、どーしたらいいものか」
泣き真似をしながらそんな事を言われた。
私は小さくため息を吐いて、ベッドから立ち上がる。
「ハルに訊いた私が馬鹿だったよ」
「あ、おい! 逃げる気かよッ」
「朝ごはん貰いに行って何が悪い」
「…………へいへい。行ってらっせぇ」
ハルの態度はコロコロ変わる。そんなところが楽しくて、恐らく私はまだ彼を自分の近くに置いているのだろうが。
彼は私がまだ歩けない頃から傍に居た。多分、一緒に過ごしている時間としては他の誰よりも彼が長い。何があろうと私に付いて来てくれる彼が居てくれるからこそ、今の私が存在すると言っても過言では無い。一緒に生活する仲間が居なければ、恐らく私は独り暮らしを始めてすぐに自己嫌悪に陥っていた事だろう。
ハルの名付け親は兄だ。春の穏やかな日に突然現れたから、だと言う。当時の事はほとんどと言うか全く憶えていないので、実際その時がどんな雰囲気だったのかは判らない。だが私の記憶の片隅には確かに幼い頃のハルの姿も存在して、一緒に縁側に座って梅を眺めていた。そんな事ばかりが、頭の中に浮かんでくる。
――ハルは私にとっての『友人』なのか、それとも単なる『家族』なのか。あるいは――……『私』自身の、一部と化しているのか。
彼にそんな事を言ったら怒られるだろうが、時々そんな風に思う事がある。
恐らく彼が居なければ、『私』は成立しないだろう。
廊下を歩きながらそんな事を目的も無く考えていたが、食堂の扉を開けた瞬間に全て忘れた。
「お義母さん」
彼女はキッチンの方に居た。
「! あら、起きていらしたのね……今食事の用意するわ」
「スミマセン……ありがとうございます」
「いいえ、お礼言われるような事じゃないわ」
そう言ってキッチンから笑顔をこちらに向けてから、彼女は炊飯器の蓋を開けた。
私はテーブルの上に置いてあった新聞を少し眺めた。相変わらずイラクの方が大変そうだと思ったぐらいで、特に重要な何かが起こったと言うような事は無かった。テレビ欄を少し見て、特別見たい番組が無い事も確認した。平凡な生活だ。これが退屈だと言う人も世の中には居るだろうが、私はこの方がよほど幸せだ。毎日血みどろの世界に生きたくは無い。尤も、ハルと一緒に生活していてそんな事を言うのもなんなのだが。
彼女が盆を持ってこちらへやってくる。
「お待たせ。あ、ねぇ? 今日もケーキ作るの手伝ってくれないかしら? 今日はお父さんにもちゃんと食べてもらおうと思って」
義母は畳の上に座って、盆の上から全ての皿を私の前に置いてくれた。
「どうも。――真珠から聞いてます。でも――……食べてくれるでしょうか」
「別に、甘いものが苦手って訳じゃないでしょう? 単に『洋菓子』が苦手なの。ついでにお団子でも置いておいたら、真っ先にそっちに手が伸びると思うけど」
「……守備範囲内ではありますけど」
「! あるの」
驚かれてしまった。私は苦笑して答える。
「えぇ、まぁ……『お菓子』は全般的に好きなので。――頂きます」
「どうぞ。あぁでも材料が無いわね」
「そうですね――買ってくればあるでしょうが、出掛けるのが面倒です」
答えながら、私は箸を取った。彼女は立ち上がって、再びキッチンに戻って洗い物の続きを始めた。
私は何も言わずに朝食を食べる。そこに、会話は存在しない。だからと言って雰囲気に冷たさを感じる事は無い。BGMは彼女が食器を洗う音。
――会話は無くても、そこに私以外の人間が存在している。
それが、救いとなった。私はひとりでは無いと言う事を、何故だかいつも忘れてしまう。
彼女も同じ、なのかも知れない。真珠が言っていた事が本当なら、恐らくは彼女も――同じような事を、考えている事だろう。飽くまでも私の想像、ではあるのだが。
私はいつものように朝食を食べて、それから彼女に「ごちそうさま」と告げて部屋を出た。
そこにはハルが退屈そうな顔をして立っていた。
「よぉ。相変わらず食うの遅ぇな」
「……ヴァンパイアの食事と一緒にするな」
「判ってるよ」
「……ハルは庭の梅、好きか?」
「何で?」
「何となく」
返答するハルの表情は、変わらなかった。
「嫌いじゃねぇよ」
私は「ならいい」とだけコメントして、その場を去った。
今日は墓参りにでも行こうと思っていた。その準備をする為、私は部屋へ戻る事にしたのだ。
2
兄と母の墓はすぐ近所にある。だから、義母が作業に取り掛かるまでには家に帰れるだろうという判断だ。私は墓石の掃除をして花を供え、鞄から線香を取り出そうとしていた時だった。
「――相変わらずだな」
誰かの声が聞こえた。つい、私はその声がした方に顔を向けた。
そこには昔、兄の術を見破った人間が立っていた。
「……麻耶さん」
麻耶ミノル。名を漢字でどう書くのかは、聞いた事が無い。もしかしたら、そのままカタカナなのかも知れない。ただとにかく、以前兄と出会って、兄が術師だと言う事を見破った猛者である事は確かだ。術の事を世間に広められては困るから、一応口止めしてあるらしい。多分、口は堅いのだろう――今のところ、他の誰かに伝わったという情報は入っていない。
麻耶はニヤリと笑って、体勢的に私を見下しながら言葉を発した。
「憶えてたんだ、偉いね。えっと――……何だっけ名前、ナオミ君?」
「……ナオザネです」
わざと間違えている。私は目を合わせずに答えた。麻耶は、風で顔に掛かった淡茶の髪を首を振って払い、ケタケタと笑った。
「そうそう、思い出した。右目が碧の鬼太郎君だったね」
判っていて茶化すのだから手に負えない。これ以上反応しても無駄だ。
「……。本題は何ですか?」
「ん。アンタに言っとこうと思って」
麻耶は私を指差して言った。
「私にですか?」
「いずれ、アンタは誰かと対峙することになるよ。何があろうと、アンタはアンタの意地を貫け」
「……何故あなたにそんな事を言われなきゃいけないんですか?」
「アンタに親切心で忠告してやってんの。素直に受け取れ」
形こそ命令文だが、口調と顔は笑っている。
麻耶は続けた。
「言っとくけど、今ンとこアンタの味方なんだからな。勘違いすんなよ。でも――……いざとなったら、『秘密』をばらまけるって事は憶えとけ」
「判ってますよ。要はあなたを怒らせなければいいんでしょう?」
「おー、判ってるぅ! 物分かりが良くて助かるよ、弟君は。兄貴はいつも感情的になって大変だったかんなぁ」
またケラケラと楽しそうに笑って、麻耶は自慢げに胸を張った。何がやりたいのかよく判らない。
「……あなたは何を期待してるんですか? 私に何か言ったところで……何も出ませんけど」
「何も期待しちゃいないよ。ただ、アンタが変な目に遭わないようにと思ってさ」
何処かの外国人のようにオーバーアクションでそう答えた麻耶は、鳶色の鋭い瞳をこちらに向けた。
「桧村に潰れてもらっちゃー困るからね。アンタの『力』は、決して兄貴に負けちゃいないよ」
「……何が言いたいんですか?」
「兄貴とアンタは似て非なるもの。でもどっちが強くてどっちが弱いって関係じゃない。――裏っ返しなだけさ。兄貴が光ならアンタは闇、それだけの話だろ。何事も、裏側が無ければ存在し得ない」
適当な口調でそう言ってのけた麻耶は、私の返答を聞く前に笑顔で「じゃね」と言って去っていってしまった。
私は兄の裏返し。
強い弱いの関係ではない。
麻耶の言いたい事は――……それだけ、だったのだろうか。
意図はよく判らないが、恐らく私に自信を持たせたかったのだろう。何故か、はまた別の機会に尋ねるしかない。
少なくとも、麻耶はまだ私たちの近くに居るという事は――……良く、判った。
*
家に帰って、義母とまたスポンジケーキを焼いた。今度は『おやつの時間』三時に上手く完成し、真珠はもちろん、父も部屋から呼んできた。
「……これでワシを釣ろうというのか」
「いい加減にそうピリピリするのは止めたらどうです?せっかく直実さんが手伝って下さったのですから」
先日の『手伝い』を斡旋したのは父だった。父は何も言わずに席に着いた。
切り分けたケーキを載せた皿を全員に分けて、一斉に食べ始めた。隣でハルが呟く。
「なーんか変な光景だよなぁ」
その発言に、父以外の全員が声を出して笑った。父は小さく、鼻で笑っただけだった。
父の居る食卓はいつも無言だ。誰かが何かを言っても、それから少し会話が続くだけでまた静かになる。彼の存在は何故か、妙に大きい。無論の事ではあるが、不思議だ。
その父がケーキを半分ほど食べたところで、呟くように言った。
「……まぁまぁ、食べられるじゃないか」
私は思わず義母と顔を見合わせた。どちらの事を褒めているのかどうかは定かでは無かったが、でも彼にしては珍しいコメントである事は確かだ。私は少し笑って、「どうも」とだけ答えておいた。結局それから父は食べ終わるまで、何も言わなかったが。
「少しは――……素直に、なってくれるといいんだけどね」
父が部屋に戻った後で、義母は呆れた顔でそう言った。
「素直に、ですか?」
「えぇ。あれでも直実さんの事を褒めたくて仕方ないの。でも今までずっと無視してきたから、遠慮してるのよ」
「……まさか」
「あら、知らない? 貴方とほとんど会った事が無い真珠に、貴方の事を教えてるのは大体彼よ。私もあまり、詳しくは無いから」
義母はにっこりと笑ってそう言うと、キッチンで皿洗いを始めた。何と答えていいのかよく判らない。
「私も手伝います」
「いいのよ、気にしなくても」
「いえ――……『仕事だから』やるんです」
彼女はしばらく不思議そうな顔をしていた。が、何も言わず私の手伝いを許可してくれた。
少しは実家とマシな関係を、と思いながらずっと生きてきた。
だがそれを拒んできたのは自分自身だと言う事に、ついこの前まで気付いていなかった。
――いつかはもっと、素直に話せる関係に。
私は本来懐かしくあるべき家に、今こうして――……妙に緊張しながら、立っている。
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